最終更新日 2025-09-19

姫路城大改修(1601)

1601年、徳川家康の命により池田輝政が姫路城を大改修。関ヶ原後の西国監視拠点として、壮麗な連立式天守と巧妙な防御機構を持つ「白鷺城」が誕生。戦火を免れ、現代にその威容を伝える。
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慶長六年 姫路城大改修の真相 ― 西国の鎮守、白鷺城誕生の九年間

序章:天下分け目の関ヶ原と姫路城の新たな役割

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原。豊臣政権五大老筆頭・徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に戴き石田三成が実質的に指揮する西軍が激突した天下分け目の戦いは、わずか一日で東軍の圧勝に終わった 1 。この勝利により、徳川家康は事実上の天下人としての地位を確立したが、それは決して盤石なものではなかった。大坂城には豊臣秀頼が依然として君臨し、西国には毛利氏や島津氏をはじめとする豊臣恩顧の大名が多数割拠していた。彼らの動向次第では、再び天下が動乱に帰する可能性を否定できない、薄氷を踏むような政治情勢が続いていたのである。

この極めて不安定な状況下で、徳川家康が次なる天下泰平の布石として白羽の矢を立てたのが、播磨国姫路であった。姫路は、京都・大坂といった畿内と西国を結ぶ山陽道の要衝に位置する 3 。この地を確実に押さえることは、西国大名の東上を阻止し、彼らの動向を厳しく監視するための絶対的な戦略的要諦であった。

家康の視線の先には、羽柴秀吉がかつて築いた姫路城があった。秀吉は天正八年(1580年)に姫路城に入り、三重の天守を築くなど、中世の山城から近世城郭への大転換を図っていた 4 。しかし、家康が構想していたのは、単なる既存の城の改修ではなかった。それは、来るべき徳川の世の威光を西日本全域に知らしめ、潜在的な敵対勢力の戦意を根底から打ち砕くほどの、壮麗かつ難攻不落の巨大要塞の建設であった。

したがって、慶長六年(1601年)に始まる姫路城大改修は、関ヶ原の戦後処理という過去への対応ではなく、未来に起こりうるであろう戦乱の芽を摘むための、極めて攻撃的な意図を秘めた「先制的抑止力」の構築事業であった。それは、武力による支配から権威による支配へと移行する、新たな時代の幕開けを告げる壮大な国家プロジェクトの狼煙だったのである。

第一章:池田輝政の姫路入封 ― 徳川家康の深謀

関ヶ原の戦いが終結すると、家康は戦後処理として大規模な大名の配置転換、すなわち「国替え」を断行した。その中で、播磨国一国五十二万石という破格の領地を与えられ、姫路城主として着任したのが池田輝政であった 2 。数多いる武将の中から、なぜ彼がこの西国の鎮守という重責を担うことになったのか。その背景には、徳川家康の老練な政治的計算と、輝政という人物が持つ特異な経歴があった。

池田輝政は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という「三英傑」に仕えた稀有な経歴を持つ武将であった。さらに、家康の次女・督姫を正室に迎えており、徳川家とは娘婿という極めて近しい姻戚関係にあった 1 。関ヶ原の戦い本戦においては、東軍の後詰として殿(しんがり)を務めるなど、徳川方として確かな功績を挙げていたことも、この大抜擢の直接的な理由の一つである 6

しかし、家康が輝政を選んだ理由は、単なる信頼や功績への報奨に留まらない。輝政は家康の娘婿であると同時に、元々は豊臣恩顧の外様大名の一人でもあった 2 。この「両属性」を持つ輝政を西国の要衝に配置することこそ、家康の深謀遠慮の現れであった。譜代の重臣を送り込めば、それは西国大名に対するあからさまな敵意と見なされ、かえって彼らを結束させ反発を招く危険性があった。しかし、同じ外様大名の立場である輝政を置くことで、家康は二重のメッセージを発信したのである。

一つは、「徳川に忠誠を誓えば、輝政のように破格の待遇と栄誉が与えられる」という懐柔策、すなわち「アメ」である。もう一つは、「徳川に反旗を翻せば、その先鋒に立つのは同じ外様である輝政であり、容赦なく討伐される」という威圧、すなわち「ムチ」である。輝政の存在そのものが、西国大名に対する懐柔と威圧を同時に行うための、絶妙な緩衝材であり、強力な楔であった。輝政に与えられた使命は、大坂の豊臣家と西国大名を監視・牽制することであり、その役割の重要性から、彼は「西国将軍」とまで称されるほどの権威を手にした 7

一方で、この大改修は輝政自身の武将としての矜持と、複雑な心情の表出でもあった。彼が手にした五十二万石という広大な領地と「西国将軍」の称号は、自らの力で勝ち取った天下ではなく、舅である家康から与えられたものであった 7 。戦国乱世を生き抜いてきた武将としての彼のプライドは、単に家康の代理人であることに満足できなかったであろう。そのため、彼は家康の意図を汲みつつも、それを超えるほどの、誰にも真似のできない天下一の城を築くことで、自らの武威と美学を天下に示そうとした。実用性を超えてまで装飾にこだわり、城の隅々にまで細工を施したと伝えられるその姿勢は、時代の大きな転換点に翻弄されながらも、武将としての己の存在証明を壮大な城郭建築に託した、輝政の最後の、そして最大の自己表現だったのである 7

第二章:慶長の大改修、始動 ― 国家事業としての大普請

慶長六年(1601年)、池田輝政の号令一下、姫路城とその城下町の姿を根本から造り変える、未曾有の大事業が開始された 2 。この「慶長の大改修」は、単なる一大名の城普請という範疇を遥かに超え、その規模、組織体制、動員力において、幕府が主導する「天下普請」に匹敵する、実質的な国家事業であった。

この巨大プロジェクトを円滑に遂行するため、輝政は緻密な指揮系統を構築した。全体の最高責任者はもちろん城主である輝政自身であるが、現場における実質的な総監督として普請奉行に任じられたのは、池田家家老の伊木長門守忠繁(いぎ ながとのかみ ただしげ)であった 5 。彼は資材の調達、人員の配置、工程の管理といった、普請に関わる全ての采配を振るった。そして、天守をはじめとする木造建築の設計・施工を統括する技術面の最高責任者、大工棟梁には、当代随一の名工と謳われた桜井源兵衛が就任した 5

この大事業を支えたのは、膨大な数の労働力であった。作業には播磨国内の領民が動員され、その総数は延べ四千万人から五千万人に達したと推定されている 5 。これは、一日あたり平均一万人が作業に従事した計算になり 11 、当時の人口を考えれば驚異的な数字である。これほどの規模の動員を、単なる強制労働だけで長期間維持することは不可能であり、そこには輝政の優れた統治能力と経済的手腕があった。

輝政は、織田信長や豊臣秀吉の政策に学び、経済の重要性を深く理解していた 8 。彼は築城と並行して、城下町の抜本的な整備に着手した。城郭を中心に町全体を堀と土塁で囲む「総構え」を企図し、中曲輪には武家屋敷を、外曲輪と街道沿いには商人や職人の住居を計画的に配置した 8 。この巨大な公共事業は、領内の経済を活性化させ、その経済力をもって更なる普請を進めるという好循環を生み出したと考えられる。

さらに輝政の構想は、姫路城単体に留まらなかった。彼は姫路城を本城と位置づけつつ、播磨国内の明石城(船上城)、赤穂城、三木城、龍野城(鶏籠山城)といった複数の支城も同時に整備した 5 。これは、播磨国全体を一つの巨大な要塞ネットワークとして再編する、広域防衛構想に基づいていた。点としての城ではなく、面としての領国全体で防御体制を構築するという思想は、戦国時代の「点の支配」から、江戸時代の「面の支配」へと移行する、統治思想の転換を象徴するものであった。この大改修は、池田家の統治能力と播磨国の経済力を天下に示す、壮大なショーケースでもあったのである。

第三章:大改修の時系列詳解(慶長六年~慶長十四年)

足掛け九年に及んだ慶長の大改修は、無秩序に進められたわけではない。それは、大地そのものを造り変える壮大な土木工事から始まり、城の骨格となる石垣を組み上げ、最後に白鷺のごとき天守群を飛翔させるという、緻密な計画に基づいた一大叙事詩であった。

初期段階(慶長六年~):大地を創る ― 都市計画と基盤整備

慶長六年(1601年)に普請が開始されると、輝政がまず着手したのは、天守の建設ではなく、城郭と城下町の土台となる大地そのものの改造であった。これは、城が自然地形に合わせるのではなく、地形を城の理想的な姿に合わせるという、近世城郭の思想を体現するものであった。

最初の大きな工事は、川筋の変更であった 12 。城の防御力を高め、城下町の発展を促すため、既存の河川の流れが大胆に変えられた。さらに、計画された城郭と城下町の敷地内に存在した三つの小さな村が移設され、新たな都市計画のための広大な用地が生み出された 12

これと並行して、城下町全体のグランドデザインが描かれた。城郭を中心に、内曲輪、中曲輪、外曲輪という同心円状の区画が設定され、内曲輪には城主の居館や倉庫、中曲輪には主要な家臣の屋敷、そして外曲輪には商人や職人の居住区が整然と配置される計画が立てられた 8 。この都市全体を堀と土塁で囲む「総構え」の構想に基づき、内堀、中堀、外堀の掘削が開始されたのである 8

中期段階:城の骨格を築く ― 堀削と石垣普請

都市計画の基盤が整うと、工事の主軸は城の骨格を形成する堀の掘削と石垣の普請へと移行した。この段階で、新生姫路城の軍事的性格を決定づける二つの重要な特徴が生み出された。

一つは、城の北側を基点に、左巻きの「の」の字を描くように三重に巡らされた螺旋式の堀である 12 。これは敵の直進を許さず、城下に引き入れて迷わせ、側面から攻撃を加えて殲滅するための、極めて巧妙な設計であった。

もう一つが、城の威容と防御力を象徴する壮大な石垣である。この普請には膨大な量の石材が必要とされ、近隣の山々から切り出された石が、ソリに乗せられ、多くの人々の力で綱を引いて現場まで運ばれた 11 。石材が不足した際には、古い石塔や石仏、墓石なども転用された。その中には、羽柴秀吉の築城時代、石不足に悩む秀吉を見て、城下で餅を売っていた老婆が「せめてこれでもお役に立てば」と差し出したという石臼、通称「姥が石(うばがいし)」も含まれていたと伝えられる 9 。このエピソードは、築城が領主だけの事業ではなく、領民をも巻き込んだ一大イベントであったことを物語っている。

この時期に本丸周辺に築かれた石垣には、当時の最新技術が惜しみなく投入された。石垣の隅部を直角に、かつ強度を高く組み上げる「算木積み(さんぎづみ)」や、石と石の隙間を少なくなるよう加工して積み上げる「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」といった技法が用いられた 5 。特に、石垣が地面から立ち上がり、上部に行くにしたがって優美な曲線を描いて反り返る「扇の勾配(おうぎのこうばい)」は、見た目の美しさだけでなく、敵兵がよじ登るのを物理的に困難にする、機能性を兼ね備えたものであった 5

後期段階(~慶長十四年):白鷺の飛翔 ― 天守群の建築と完成

大地が整い、石垣という強固な土台が完成すると、いよいよプロジェクトはクライマックス、すなわち天守群の建築へと進んだ。慶長十四年(1609年)、足掛け九年に及ぶ大工事の末、白鷺が羽を広げたような壮麗な天守がついに完成する 1

姫路城天守の最大の特徴は、五層七階(地上六階、地下一階)の大天守を中心に、東、西、乾(いぬい)の三つの小天守を渡櫓(わたりやぐら)で「ロ」の字型に連結した「連立式天守」と呼ばれる形式である 12 。これは、天守の一角が敵に攻められても他の天守から支援攻撃が可能であり、籠城の際の居住空間も広く確保できる、極めて実践的な構造であった。

この巨大な木造建築を支える心臓部が、天守の中央を貫く二本の大柱(東大柱・西大柱)であった 2 。直径約95センチメートル、高さ約24.5メートルにも及ぶこの巨大な柱は、一本の檜から作られており、その調達と加工は普請における最大の難関の一つであったと推測される。

木組みが完了すると、最後の仕上げとして、城全体を白く輝かせる左官工事が行われた。外壁はもちろん、屋根瓦の目地(めじ)に至るまで、全面に白漆喰を塗り込める「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)」という様式が採用された 3 。これは、耐火性・耐久性を高めるという実用的な目的と同時に、城全体を純白に輝かせ、見る者を圧倒し、その権威を視覚的に示すという、極めて強い政治的意図を持っていた 11

この前代未聞の大事業を成し遂げた大工棟梁・桜井源兵衛には、一つの悲しい伝説が残されている。完成した壮麗な天守を眺めていた源兵衛に対し、彼の妻が「見事な出来栄えですが、少しばかり南東に傾いて見えます」と指摘した。完璧を期したはずの仕事に僅かな歪みがあることを知り、責任を感じた源兵衛は、自らが築いた天守の最上階から身を投げて命を絶ったという 9 。この話は後世の創作である可能性が高いが 20 、この大事業にかけられた職人たちの凄まじいまでの気概と誇り、そして常人には計り知れない重圧を、今に伝える物語として語り継がれている。

表1:慶長大改修の主要年表

年(西暦/和暦)

1600年(慶長5年)

1601年(慶長6年)

1603年(慶長8年)

1609年(慶長14年)

1613年(慶長18年)

1617年(元和3年)

第四章:新生姫路城の構造と機能 ― 戦国終焉期の城郭技術の集大成

慶長十四年(1609年)に完成した姫路城は、単に巨大で美しいだけの城ではなかった。それは、戦国百年の間に培われた日本の城郭建築技術と戦術思想の全てを注ぎ込み、考えうる限りの防御機構を実装した、究極の要塞であった。その設計思想は、侵入者を物理的に撃退するだけでなく、その戦意を心理的に削ぎ、殲滅するための「死の迷宮」を創り出すことにあった。

設計思想:螺旋式縄張りと連立式天守

姫路城の防御思想の根幹をなすのが、城郭全体の設計、すなわち「縄張り」である。姫路城の縄張りは、内堀、中堀、外堀が城の中心から左巻きの螺旋を描くように配置された、極めて特異な「螺旋式縄張り」を採用している 12 。この形式は、敵軍が城の中心部である天守へ直線的に進軍することを不可能にし、渦巻き状の通路に誘い込むことで、進軍路を長く引き延ばし、その間に側面から絶え間ない攻撃を加えることを可能にする 16 。このような複雑巧妙な螺旋式縄張りは、当時の日本において、徳川家康が築いた江戸城と池田輝政の姫路城にしか類例がなく 13 、徳川政権の標準的な城郭理念の最先端を示すものであった可能性が考えられる。

城の中枢である天守もまた、防御を徹底的に意識した構造となっている。大天守と三つの小天守を渡櫓で連結した「連立式天守」は、天守群全体を一個の強固な戦闘ブロックとして機能させる 16 。四方を建物で囲まれた中庭は、敵が侵入すれば四方からの十字砲火を浴びる「キルゾーン」と化す。また、籠城時には、大天守が司令塔、小天守や渡櫓が兵員の待機場所や物資の貯蔵庫となり、長期にわたる籠城戦を可能にする、極めて高い継戦能力を有していた。

徹底された防御機構:侵入者を阻む死の迷宮

大手門を突破した敵兵が天守を目指そうとするとき、彼らを待ち受けるのは、死へと誘う巧妙な罠の連続であった。

天守に至る道筋は、意図的に狭く、曲がりくねり、行き止まりや袋小路が随所に設けられた迷路となっている 16 。大軍が一度に突入することを防ぎ、兵力を分散させ、方向感覚を失わせるための設計である。そして、その通路の両脇にそびえる白壁には、無数の穴が穿たれている。これは「狭間(さま)」と呼ばれる攻撃用の窓であり、三角形や四角形のものは鉄砲狭間、縦長のものは矢狭間である 16 。守備兵は壁の内側という安全な場所から、迷路を進む敵兵を一方的に狙い撃ちにすることができる。

通路の途中には、「ほの門」のように、意図的に屈まなければ通れないほど狭く作られた門がある 21 。これは敵兵の進軍速度を強制的に落とし、門の内側や上から一人ずつ確実に仕留めるための仕掛けである。さらに巧妙なのは、油壁と呼ばれる堅固な壁の背後に隠された「水の一門」のような隠し門の存在である 4 。攻め手は前方の敵に集中するあまり、側面にある隠された通路に気づきにくく、守備側はここから奇襲をかけることができた。

ようやく天守の石垣にたどり着いても、安心はできない。石垣をよじ登ろうとする敵兵の頭上には、建物の軒下から突き出た「石落とし」が待ち構えている 16 。この開口部から、大石や熱湯、さらには槍などが投下され、石垣に取り付いた敵を一掃する。

これらの幾重もの罠をくぐり抜け、天守への最後の関門となるのが、「水五門」と「水六門」である 21 。これらの門は、木製ではなく頑丈な鉄製の扉で固く閉ざされており、これを破ることは極めて困難であった。

このように、姫路城の防御システムは、戦国時代の過酷な攻城戦で得られた教訓の集大成であった。しかし、その防御はあまりにも徹底され、過剰なまでに巧妙である。それは、城が単なる軍事施設から、支配者の権威を象'

'徴する舞台装置へと変質しつつあったことを示唆している。万が一の攻城戦が、支配者の圧倒的な力を示すための儀式的な「劇場」となることを想定して設計された、戦国終焉期を象徴する城郭だったのである。

表2:姫路城と江戸城の構造比較

比較項目

縄張り(堀の形式)

天守形式

石垣の技術

城郭規模

終章:西国の鎮守としての完成と、その後の影響

慶長十四年(1609年)、白鷺城がその壮麗な姿を現したとき、それは単に一つの巨大建築が完成したという以上の意味を持っていた。その圧倒的な威容は、西国大名に対し、徳川の権威と財力、そして軍事力が、もはや挑戦することすら無意味な次元にあることを無言のうちに悟らせるに十分であった 8 。姫路城の出現は、西国における徳川の支配を盤石にする決定的な楔となり、徳川による二百六十余年の平和(パックス・トクガワーナ)の西の礎を築いたのである。

興味深いことに、これほどまでに実戦を想定して築かれた姫路城は、その完成後、一度として戦火に見舞われることがなかった。池田氏の後に入った本多氏が西の丸を増築して現在の姿がほぼ完成するが 5 、それ以降は幕府の許可なく大規模な増改築は行われず、補修が主となった 5 。城の存在そのものが、この地における戦いを未然に防ぐ、究極の抑止力として機能したのである。

明治維新後、全国の多くの城が廃城令によって取り壊される中、姫路城も競売にかけられ、解体の危機に瀕した 12 。しかし、解体費用がかかりすぎるという理由で幸運にも存続が許され、陸軍大佐・中村重遠らの尽力によって保存への道が開かれた 2 。その後も、明治、昭和、平成と、時代を超えて度重なる大修理が行われ、その美しい姿が守り継がれてきた 2 。太平洋戦争の際には、姫路市街が大規模な空襲に見舞われたが、天守に投下された焼夷弾が不発であったため、奇跡的に焼失を免れている 3

慶長の大改修の真の成功は、戦いに勝つための城を造ったことにあるのではない。それは、そもそも「戦いを起こさせない」ための城を完璧な形で造り上げたことにある。その圧倒的な存在感によって潜在的な敵の戦意を事前に喪失させ、武力ではなく権威によって秩序を維持する時代の到来を告げた。この大改修によって、姫路城は「不戦の城」としての運命を決定づけられ、戦国という時代の終焉を象徴するモニュメントとして、奇跡的にその姿を現代に留めているのである。

引用文献

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  2. 姫路城年表 - ひょうご歴史ステーション - 兵庫県教育委員会 https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/sp/rekihaku-db/castle/himeji-chronology/index.html
  3. 平成の保存修理を終えて蘇った姫路城 ~技術伝承のためにも必要な保存修理~ https://plant.ten-navi.com/trend/7238/
  4. 姫路城|姫山に築かれた秀吉の出世城 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_117/feature01.html
  5. 姫路城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E
  6. 世界遺産 国宝「姫路城」3つの大きな魅力とは なぜ池田輝政が初代城主に? 播磨学の専門家が解説 - ラジオ関西 https://jocr.jp/raditopi/2024/04/16/565908/
  7. 江戸幕府に服従するしかない外様大名の"武士の一分"だった…姫路城 ... https://president.jp/articles/-/68685?page=2
  8. 姫路城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/01/
  9. 姫路城の歴史 | 姫路城公式サイト https://www.city.himeji.lg.jp/castle/0000007750.html
  10. 三木城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/miki/miki.html
  11. 姫路城の - 姫路市市民活動・ボランティアサポートセンター ひめじおん http://himejion.jp/archives/149/202011/%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%E3%80%8C%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E%E3%80%8Dn.pdf
  12. 第24回 姫路城昭和の大修理―素屋根工事 - 鹿島建設 https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki24/index-j.html
  13. 姫路城の規模 | 姫路城公式サイト https://www.city.himeji.lg.jp/castle/0000007746.html
  14. 姫路城と江戸城には共通点が!ロケで使用される理由は?実際に確認してみた - 姫路みたい https://www.himeji-mitai.com/feature/372764.html
  15. 姫路城の縁の下の力持ち!石垣も見逃すな! - HISTRIP(ヒストリップ)|歴史旅専門サイト https://www.histrip.jp/20190206-hyogohimeji-02/
  16. 姫路城の歴史と文化:白鷺城の魅力を解説 – 日ノ本文庫 https://hinomoto.org/blog/himeji-castle/
  17. 姫路城について|歴史やおすすめスポットを詳しく解説 - BesPes https://article.bespes-jt.com/ja/article/himeji-castle
  18. 姫路城|池田家52万石の居城、近世城郭の頂点 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_117/feature02.html
  19. 姫路城 - 城ペディア - Miraheze https://shiropedia.miraheze.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E
  20. 喜斉門(きさいもん)から望む姫路城 http://www2.memenet.or.jp/~soumen/subdata/print/data.pdf
  21. お城の防衛機能はどんなものがある? 姫路城で説明! https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/oshiro-no-boueikinou-himezijo
  22. 姫路城・昭和の大修理写真 https://www.city.himeji.lg.jp/castle/category/10-2-2-0-0-0-0-0-0-0.html