最終更新日 2025-09-12

安土城築城(1576)

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天下人の理想郷:安土城築城の軌跡(1576-1582)

序章:新時代の黎明 ― 築城前夜の政治情勢(~1575年)

天正4年(1576年)に開始された安土城の築城は、日本の歴史における画期的な事変である。しかし、この巨大事業を理解するためには、まずその前夜、織田信長が置かれていた政治的・軍事的状況を把握する必要がある。安土城は単なる平穏の象徴としてではなく、未だ混沌の渦中にあった天下統一事業を完遂するための、壮大な戦略的布石として構想されたのである。

長篠の戦い(1575年)の勝利と信長の権力基盤

安土城築城の直接的な契機は、前年の天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍の圧倒的な勝利であった 1 。当時、戦国最強と謳われた武田勝頼の騎馬軍団に対し、信長は大量の鉄砲を組織的かつ革新的な戦術で運用し、これを壊滅させた 2 。この勝利は、単に一つの合戦に勝利した以上の意味を持っていた。それは、旧来の戦術思想の終焉と、信長の軍事的優位性の決定的証明であった。

この戦果を受け、信長の権威は飛躍的に高まった。朝廷は信長に対し「権大納言」および「右近衛大将」という高位の官職を授け、その地位を公的に追認した 3 。これに先立つ天正元年(1573年)には、長年対立していた室町幕府第15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を事実上滅亡させていた 2 。これにより、信長は武家社会の伝統的権威からも解放され、名実ともに「事実上の天下人」としての地位を確立するに至った 3 。安土城という前代未聞の巨大城郭の築城は、この強固な権力基盤と、長篠の勝利によって得られた自信と威信なくしてはあり得なかった。

第三次信長包囲網の残存勢力と継続する戦乱

しかし、長篠での勝利が天下の即時平定を意味したわけではない。信長の覇道は、依然として多くの敵対勢力によって阻まれていた。京都を追われた足利義昭は、西国の雄・毛利輝元を頼り、執拗に反信長活動を継続。中国地方の毛利氏、10年にも及ぶ抗争を続ける大坂の石山本願寺、そして越後の「軍神」上杉謙信といった大勢力が、第三次信長包囲網の残党として健在であった 4 。さらに、丹波の波多野秀治や但馬の山名祐豊といった畿内近国の勢力も、これに呼応して反旗を翻していた 4

安土城の築城が開始された天正4年(1576年)は、まさにこれらの敵対勢力との戦いが継続している、緊迫した状況下にあった。この年の7月には、石山本願寺への兵糧搬入を阻止しようとした織田水軍が、毛利水軍に大敗を喫している(第一次木津川口の戦い)。この事実は、信長の支配が未だ盤石ではなく、陸海にわたる広範な戦線を同時に維持しなければならないという厳しい現実を示している。したがって、安土城の築城は、戦勝を記念する凱旋碑などではなく、進行中の天下統一事業をより効率的かつ強力に推進するための、新たな司令塔として計画されたのである。それは勝利の結果ではなく、次なる戦い、そして最終的な勝利のための布石であった。

岐阜城から近江へ:新たな本拠地選定の必要性

信長はそれまで、美濃の岐阜城を本拠地として「天下布武」の印を掲げてきた。しかし、天下統一事業の主戦場が畿内とその周辺地域へと移行するにつれ、岐阜城の地理的な限界は明らかになりつつあった。京都までの距離は遠く、西国、北陸、そして東国という複数の戦線へ迅速に兵力を展開し、指揮を執るには不便であった。信長は、より京都に近く、かつ東国・北陸への睨みを利かせ、西国への進出拠点ともなりうる、新たな戦略的中核拠点の必要性を痛感していた 5 。この戦略的判断の帰結こそが、近江国・安土への新城建設であった。岐阜城が「天下布武」という理念を掲げた「宣言の城」であったとすれば、安土城は、その理念を日本全土で実現するための「実行の城」として構想された。信長の思考が、一地方の覇者から、日本全土を経営する統治者のそれへと完全に移行したことを示す、物理的な証左が安土城なのである。


表1:安土城築城年表と連動する国内外情勢(1576-1582)

西暦

和暦

安土城の動向

織田信長の主要な軍事・政治行動

1576年

天正4年

1月:丹羽長秀を総奉行に任命し築城開始。2月:信長、岐阜から安土へ移住。4月:本格的な石垣普請開始。

7月:第一次木津川口の戦いで毛利水軍に敗北。11月:天王寺砦を拠点に石山本願寺を包囲。

1577年

天正5年

6月:城下に楽市楽座令を発布。石垣普請、瓦製造が進行。

2月:雑賀攻め。8月:柴田勝家を総大将に北陸へ出陣(手取川の戦いで上杉謙信に敗北)。10月:松永久秀が信貴山城で自害。

1578年

天正6年

天主の作事が本格化。

3月:上杉謙信が急死。6月:羽柴秀吉による播磨攻めが本格化。11月:第二次木津川口の戦いで九鬼水軍が毛利水軍を破る。

1579年

天正7年

5月:天主が完成し、信長が入城。5月:城下の浄厳院で安土宗論を開催。

9月:徳川家康の嫡男・信康が自刃。11月:第一次天正伊賀の乱で織田信雄軍が敗北。

1580年

天正8年

城郭の主要部分が完成。

閏3月:石山本願寺が降伏し、10年にわたる石山合戦が終結。

1581年

天正9年

城郭全体がほぼ完成。左義長の祭りを盛大に開催。

2月:京都で大規模な馬揃え(軍事パレード)を挙行。9月:第二次天正伊賀の乱で伊賀を平定。鳥取城を攻略。

1582年

天正10年

5月:徳川家康を招き、盛大な饗応を行う。

3月:武田勝頼を滅ぼし、武田氏が滅亡。6月2日:本能寺の変で信長自害。6月15日:安土城天主・本丸などが焼失。


第一章:天下布武の拠点、起工(天正四年/1576年)

天正4年(1576年)、織田信長は天下統一事業の新たな段階を象徴する壮大なプロジェクトに着手した。それは、近江国蒲生郡安土の地に、旧来の城郭の概念を根底から覆す、新時代の城を築くことであった。この章では、安土という場所の選定理由、そして電光石火の如く進められた築城開始のリアルタイムな状況を詳述する。

立地の選定:なぜ安土だったのか

信長が新たな本拠地として安土を選んだ理由は、軍事・経済・政治・思想という多層的な観点から考え抜かれた、極めて高度な戦略的判断に基づいていた。

地理的・戦略的価値

安土は、何よりもまずその地理的優位性において傑出していた。京都に近接しつつも、直接的な干渉を受けにくい絶妙な距離に位置していた 7 。そして、日本の大動脈である東山道(中山道)を完全に掌握できる地点であり、東国と京を結ぶ陸上交通の要衝であった 8 。これにより、東からの脅威に備え、また自身の軍勢を迅速に東へ展開することが可能となった。さらに、北陸道へのアクセスも容易であり、宿敵である越後の上杉謙信や、加賀の一向一揆への睨みを利かせる上でも理想的な場所であった 11

加えて、安土が持つ最大の利点は、眼前に広がる日本最大の湖、琵琶湖の存在であった 7 。琵琶湖の水運を掌握することは、当時の物流革命に他ならなかった。大量の兵員、兵糧、物資を迅速かつ低コストで輸送できることは、軍事的にも経済的にも計り知れないアドバンテージをもたらす 11 。安土の近傍には常楽寺湊という湖東地域の物資集積港があり、信長自身も京との往来で頻繁に利用していた記録が残っている 12 。安土に拠点を置くことで、信長は陸路と水路の両方を手中に収め、自身の支配領域全体に及ぶ巨大な兵站ネットワークの中核を構築しようとしたのである。

政治的・思想的価値

安土の選定は、単なる軍事合理性だけでは説明できない。そこには、信長の深い政治的、思想的野心が込められていた。安土山は、信長が焼き討ちにした旧来の宗教的権威の象徴、比叡山延暦寺から一定の距離を保ちつつ、それ自体が聖地としての性格を帯びていた 8 。信長は、既存の権威を破壊するだけでなく、それに代わる新たな聖的権威を自らが創出しようとしていた。安土城は、信長自身の神格化をも見据えた、新たな時代の「神殿」としての役割を担うべく計画されたのである 8

視覚的効果による権威の誇示

安土山は標高約199メートルの独立した山であり、周囲の平野からその姿がよく望見できた 5 。特に、多くの人々が往来する主要街道からは、建設されていく城の威容が日々、遠望されたはずである 14 。高く、そして壮麗に築かれていく石垣と、やがて天を衝くように聳え立つ天主。その姿を道行くすべての人々に見せつけること自体が、信長の比類なき権力を知らしめる、強力なプロパガンダであった 15 。城は物理的な構造物であると同時に、人々の心に畏怖と敬服を刻み込むための、壮大な劇場装置でもあった。信長は、場所の選択そのものを通じて、物理的な支配だけでなく、人々の心象風景における支配をも確立しようとしたのである。

普請の開始と信長の移転

場所の選定と同時に、信長はその計画を驚異的なスピードで実行に移した。

総普請奉行の任命

『信長公記』によれば、天正4年(1576年)1月17日、信長は築城の総責任者である総普請奉行に、最も信頼する重臣の一人、丹羽長秀を任命した 5 。長秀は信長より一つ年下で、若年の頃から小姓として仕え、信長から「友であり、兄弟である」とまで言わしめたほどの深い信頼関係にあった 18 。また、信長の名から「長」の一字を与えられた数少ない家臣の一人でもあった 18 。この最重要プロジェクトの責任者に長秀を任命したことからも、信長の安土城築城にかける並々ならぬ決意が窺える。

国家事業としての人員動員

築城は、織田家単独の事業としてではなく、信長が支配する「天下」の事業として進められた。畿内、東海、北陸といった支配領域の諸大名や国人に対し、普請への協力が命じられ、多くの人夫が徴発された 1 。さらに、当代最高の技術を持つとされた石工、大工、絵師などの職人たちが全国から動員された 1 。これは、安土城が信長個人の城であると同時に、新たな統一国家の中心であることを天下に示すための、壮大な国家事業であった。

電光石火の移転

最も驚くべきは、信長自身の行動の速さである。『信長公記』は、築城開始からわずか1ヶ月余りの同年2月23日には、信長が長年の本拠地であった岐阜城を嫡男・信忠に譲り、自らは未だ普請の槌音響く安土へ居を移したと記録している 19 。これは常識では考えられない行動であり、そこには信長の明確な政治的意図があった。未完成の城に自ら移り住むことで、普請を強力に督促し、工事の遅延を許さないという断固たる姿勢を示したのである。同時に、天下統一事業の拠点が岐阜から安土へと完全に移行したことを、内外のあらゆる勢力に対して宣言するものであった。この信長の即時移住は、現代の経営における「コミットメントの表明」に他ならない。退路を断ち、全リソースをこの新事業に集中させるという強烈なメッセージは、家臣団に安土への屋敷建設を急がせ 20 、敵対勢力には信長の揺るぎない意志を見せつける効果があった。

石垣普請の本格化

信長の移住後、築城はさらに加速する。同年4月1日には、城の根幹をなす本格的な石垣工事が開始された 21 。『信長公記』には、安土山から切り出される巨石はもちろんのこと、近隣の観音寺山や長命寺山などからも大石を引き下ろし、「千、二千、三千宛にて安土山に上せられ候」と、数千人がかりで巨石を運び上げる、壮絶な工事の様子が生き生きと描写されている 8 。これは単なる築城作業ではなく、自然の地形そのものを人間の意志で改造するほどの、信長の絶大な権威と動員力を示すものであった。こうして、戦国の世を終わらせる新たな時代の象徴は、大地を揺るがす槌音と共に、その姿を現し始めたのである。

第二章:城と城下町の一体的創造(天正五年~六年/1577-1578年)

安土城の築城は、単に巨大な建造物を建てることに留まらなかった。それは、軍事、政治、経済、そして都市計画が一体となった、総合的な国家創造事業であった。天正5年(1577年)から6年(1578年)にかけて、信長は城郭の物理的構造(ハードウェア)と、それを支える経済社会システム(ソフトウェア)を同時に構築していく。この過程で、日本の城と都市のあり方は、根源的な変革を遂げることになった。

総石垣の構築:城郭史の革命

安土城がそれ以前の城と一線を画す最大の特徴は、城全体を高く堅固な石垣で覆い尽くす「総石垣」の採用にあった 13 。これは日本の城郭史における一大革命であった。

「土の城」から「石の城」へ

「城」という漢字が「土で成る」と書くように、安土城以前の中世城郭は、基本的に土を盛り上げて造る土塁を防御の主軸としていた 22 。石垣が用いられる場合もあったが、その多くは土塁の裾を補強する「腰巻石垣」や、数段程度の低い石積みであり、あくまで補助的な役割に過ぎなかった 22 。安土城は、この常識を覆した。山全体を削り、谷を埋め、そのすべてを高い石垣で覆うことで、まったく新しい防御思想と城郭美学を提示したのである 23 。これにより、城の防御力は飛躍的に向上し、同時に見る者を圧倒する威容と永続性を手に入れた。竪堀や堀切といった土の城特有の防御施設は、高石垣の前では不要となり、姿を消した 23

石工集団「穴太衆」の技術と謎

この前代未聞の石垣普請を担ったのが、近江国坂本を拠点とする石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」であると、長年にわたり語り継がれてきた 24 。彼らは、自然石をほとんど加工せず、石の形や重心を巧みに読み解いて組み上げる「野面積み(のづらづみ)」という技法を得意とした 26 。一見、粗雑に見えるこの技法は、石同士が噛み合うことで排水性に優れ、地震などの揺れにも強い構造を生み出すという 27 。しかし、近年の発掘調査や研究では、安土城の普請に穴太衆が関わったことを直接示す史料は確認されていない 26 。また、城内で確認される石垣の技法は多様であり、特定の流派や集団によるものではなく、信長の権威の下、各地から動員された様々な石工集団が、それぞれの技術を用いて築いた可能性が指摘されている 25 。安土城の石垣は、特定の集団の秘伝というよりは、信長が小牧山城や岐阜城の築城で培った経験と、全国から集められた技術の集大成であったと考えるのが妥当であろう 29 。隅角部には、後の城郭で標準となる、強度を高めるための「算木積み」の初期的な技法が見られることも、その過渡的な性格を示している 30


表2:城郭概念の変革 ― 安土城と中世城郭の構造比較

比較項目

中世城郭の典型(例:観音寺城)

安土城(近世城郭の嚆矢)

立地

山頂・尾根筋(防御重視の要害)

交通の要衝にある独立丘陵(政治・経済・交通の拠点)

主たる建材

土塁、切岸、堀切(土木中心)

総石垣(石材中心)

防御思想

複雑な虎口、曲輪の連続による遅滞防御

高石垣による垂直防御、直線的な大手道による威圧と儀礼

天守の有無と役割

なし(物見櫓や簡素な館程度)

高層の天主が存在。政庁、住居、迎賓館、権威の象徴

城と城下町の関係

城と町が分離、あるいは自然発生的な町

城と城下町を一体的に計画・開発

象徴性

地域領主の軍事拠点

天下人の政治的首都、新たな秩序の中心


楽市楽座令の発布(1577年):新首都の経済基盤

天正5年(1577年)6月、信長は安土城下に全13ヶ条からなる詳細な楽市楽座令を発布した 31 。これは、安土を新たな経済の中心地とするための、画期的な経済政策であった。

信長以前にも、近江の六角氏などが楽市令を発した例はあるが、安土のそれはその徹底性と規模において一線を画していた 32 。その核心は、商工業者が結成していた同業者組合「座」が持つ、営業の独占権や非課税といった特権を完全に撤廃したことにあった 31 。これにより、座に属さない新規参入者でも、誰でも自由に商売を始めることが可能となった。さらに、信長は安土の住民に対して、諸役(税金や労役)を原則的に免除した 32 。これは、人々が安土に住み、商売を始める上での障壁を劇的に引き下げるものであった。

この政策の目的は明確であった。規制緩和と優遇措置によって、全国から商人や職人を安土に集め、人・モノ・金が還流する一大経済圏を創出することである 7 。結果として、安土の城下町は急速に発展し、活気に満ち溢れた 33 。信長は、強大な軍事力や政治権力が、盤石な経済基盤の上にしか成り立たないことを深く理解していた。安土城は、軍事・政治の中心であると同時に、楽市楽座によって生み出される富が集積する経済の中心でもあった。城というハードウェアと、楽市楽座というソフトウェアは、不可分一体のものとして計画されていたのである。

権威を象徴する城郭設計

安土城の内部構造もまた、旧来の城とはまったく異なる思想で設計されていた。

直線的な大手道

大手門から山頂の天主へと続くメインルートである「大手道」は、幅約6~7メートル、長さ約180メートルにも及ぶ、ほぼ一直線の壮大な石段であった 9 。敵の侵入を阻むために道を複雑に折り曲げるのが常識であった中世城郭の思想とは、まったく対極にある。この道は、防御のためではなく「見せる」ために造られた。信長自身や、彼に謁見する大名、あるいは異国の使節団が、この荘厳な石段を練り歩く。その儀礼的な行列を演出することで、信長の権威を最大限に誇示することを意図した、壮大な舞台装置であった 23

城内の家臣団屋敷

さらに、この大手道の両脇には、羽柴秀吉、前田利家、丹羽長秀といった織田家の重臣たちの屋敷が整然と配置されていた 23 。家臣を城郭という中枢空間の内部に居住させることは、彼らを信長の強力な統制下に置くと同時に、安土城が単なる信長の居城ではなく、織田政権そのものが機能する一大政治都市であることを内外に示すものであった 20

信長が創造していたのは、もはや単なる「城」ではなかった。それは、政治・軍事・経済・文化のすべてを内包する、新しい時代の「首都」であった。それまでの城が「点」としての軍事拠点であったのに対し、安土城は城下町と一体化した「面」としての政治経済文化の中心地であった。この「城郭都市」という概念こそが安土城の最大の革命であり、後の豊臣大坂城や徳川江戸城へと続く、日本の近世都市モデルの輝かしい原型となったのである。

第三章:天主、天上に至る(天正七年/1579年)

築城開始から3年余りの歳月を経た天正7年(1579年)、安土城の普請は一つの頂点を迎える。城の心臓部であり、信長の思想と権威の象徴である「天主」が完成したのである。この天主の出現は、日本の建築史のみならず、政治思想史においても画期的な出来事であった。それは単なる高層建築ではなく、信長が構想する新たな世界秩序を具現化した、壮大な立体曼荼羅であった。

天主の完成と信長の入城

『信長公記』によれば、天正7年(1579年)5月11日、信長は完成した天主へと移り住んだ 34 。この天主は、それまでの日本のいかなる城にも存在しなかった、まったく新しい概念の建築物であった。

構造と外観

その構造は、地下1階、地上6階建ての「五層七階」と伝えられる 13 。高さは約32メートルに達し、これは姫路城天守に匹敵する規模である 13 。しかし、標高約199メートルの安土山山頂に聳え立つその姿は、数値以上の威容を誇っていた 13 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で「我らの知るヨーロッパのいかなる塔よりも気品があり壮大である」と、驚嘆をもって記している 36

外観は極彩色に彩られていた。階層ごとに白壁、黒漆、朱、そして青と色が塗り分けられ、最上階はすべてが金色に輝いていたという 36 。屋根は瓦で葺かれ、軒先には金箔を施した瓦が用いられるなど、贅の限りを尽くしていた 23 。天主台の石垣が不整八角形であることから、望楼型の天主であったと推測されている 29 。この絢爛豪華な外観は、天下人の権威を視覚的に訴えかける、強烈なメッセージであった。

画期的な役割

天主の最も画期的な点は、その役割にあった。それまでの城における高層建築物(櫓)は、あくまで物見や有事の際の最終防衛拠点であり、城主が日常的に生活する場所ではなかった。しかし信長は、この天主を自らの住居とし、日々の政務を執り、さらには徳川家康をはじめとする重要な賓客を饗応する、政庁兼迎賓館、そして宮殿として使用した 30 。麓に家臣たちを住まわせ、自らは天高く聳える天主の頂点に君臨することで、誰がこの国の唯一無二の支配者であるかを、疑う余地なく示そうとしたのである。

絢爛豪華な内部装飾:信長の思想宇宙

天主の内部は、信長の世界観と思想を表現する、壮大な芸術空間であった。

狩野永徳一門の起用

内部を飾る障壁画の制作は、当代随一の絵師であった狩野永徳とその一門に一任された 30 。彼らは金箔を背景に極彩色の絵を描く「金碧障壁画」の技法を駆使し、天主内部を豪華絢爛に飾り立てた。その一部は、1992年のセビリア万国博覧会のために原寸大で復元され、現在「信長の館」で目にすることができる 39

各階層の思想的テーマ

復元モデルや史料によれば、天主の上層階は、信長の壮大な思想を体現する特別な空間として設計されていた 42

  • 5階(八角の段) :この階は仏教的世界観を表現していた。平面は正八角形で、柱や天井はすべて朱漆で塗られ、法隆寺夢殿を彷彿とさせる荘厳な空間であった 30 。柱には昇り龍と下り龍の彫刻が施され、内陣の襖には狩野永徳筆による「釈迦説法図」が、外陣の壁面には地獄で苦しむ人々を描いた「阿鼻地獄図」などが描かれていたとされる 42 。これは、地獄から天上世界へと至る仏教の宇宙観を一つの階層に凝縮したものであった。
  • 6階(四角の段) :最上階は道教・儒教的世界観に基づいていた。平面は正方形で、内部は黒漆で統一され、金が効果的に用いられていた 36 。壁面には、中国古代の伝説的な聖帝君主である三皇五帝や、孔子、老子、竹林の七賢といった賢人たちが描かれていた 42 。これは、理想的な統治者が治める儒教的な理想郷、「天子」の世界観を表現するものであった。

この階層構造は、信長自身が仏教や儒教といった既存のあらゆる思想体系をすべて見下ろし、超越した最上位の存在であることを示す、強烈な自己神格化の意図があったと考えられる。天主の頂点に住まう信長は、もはや単に地上を治める「人」ではなく、天上の理を体現する「神」に近い絶対者として、自らを位置づけようとしていたのである 8 。この天主は、信長が目指した「神仏に頼らない、人間(信長自身)を中心とした新たな秩序」の宣言書であり、日本の歴史上、最もラディカルな政治思想が具現化した建築物であったと言えるだろう。

安土宗論の開催:宗教をも裁く天下人

天主の完成は、安土が新たな時代の中心的舞台となったことを天下に示す絶好の機会であった。その完成直後の天正7年5月27日、信長は安土城下の浄土宗寺院・浄厳院において、浄土宗と法華宗(日蓮宗)の代表僧を召し出し、公開の場で教義論争を行わせた。これが「安土宗論」である 44

当時、京都の町衆を中心に大きな勢力を持っていた法華宗は、他宗に対して攻撃的であったため、しばしば騒乱の原因となっていた。信長はこの宗論を、法華宗の勢力を削ぎ、宗教勢力を自らの統制下に置くための計画的な政策として利用した 45 。宗論は、信長の意向を汲んだ奉行衆や判定者のもとで進められ、結果は意図的に浄土宗の勝利とされた 46 。敗れた法華宗側は、詫び証文を提出させられた上、首謀者とされた僧が処刑されるなど厳しく処罰され、以後、他宗への法難(非難)を行わないことを誓わされた 44

この安土宗論は、極めて重要な政治的意義を持っていた。それは、安土という場所が、もはや単なる軍事拠点や政庁ではなく、日本の宗教や思想の問題さえも裁定する、名実ともに日本の最高権威の中心地となったことを象徴する事件であった。壮麗な天主という小宇宙の頂点に立つ信長だからこそ、地上の宗派間の争いを裁く資格がある。安土城天主の完成と安土宗論の開催は、信長が世俗世界だけでなく、精神世界にまで及ぶ絶対的な支配を確立しようとした、壮大な野心の表れであった。

第四章:栄華の頂点、そして幻へ(天正八年~十年/1580-1582年)

天主の完成により、安土城はその威容をほぼ現した。続く数年間、信長の権力は絶頂期を迎え、安土城は天下人の居城として、比類なき栄華を誇った。しかし、その輝きはあまりにも儚く、信長の死と共に、城もまた幻のように地上から姿を消す運命にあった。

天下人の城

天正8年(1580年)、信長を10年以上にわたって苦しめ続けた最大の抵抗勢力、大坂の石山本願寺が、ついに降伏した 47 。これにより、畿内における信長の支配は盤石のものとなり、天下統一事業は最終段階へと入る。城郭全体が完全に完成したのは天正9年(1581年)頃とされ 48 、安土城は、信長の揺るぎない権威を天下に示す象徴として、その威光を放っていた。この頃の安土は、楽市楽座によって活況を呈し、全国から集まった大名、商人、文化人、そして宣教師たちで賑わう、国際的な政治文化都市の様相を呈していた。

最後の饗宴:外交儀礼の舞台

天正10年(1582年)5月、信長は長年の同盟者である徳川家康を安土城に招き、数日間にわたる盛大な饗応を行った 49 。この饗応は、明智光秀が接待役を解任された逸話でも知られるが、その本質は、安土城が国内統治のみならず、同盟国との外交儀礼を執り行う最高峰の舞台として機能していたことを示すものである。完成した壮麗な城と城下町のすべてを見せることで、信長は家康に対し、自らの圧倒的な国力と文化力を誇示したのである。この華やかな饗宴が終わると、信長は中国地方で毛利氏と対峙する羽柴秀吉を支援するため、わずかな供回りだけを連れて京都の本能寺へと向かった。それが、彼が安土城で過ごした最後の時間となった。

本能寺の変と焼失:幻の城へ

同年6月2日早朝、信長は京都の本能寺において、最も信頼していたはずの家臣、明智光秀の謀反によって討たれた。天下人の突然の死は、日本全土を震撼させ、権力の空白は瞬く間に混乱を生んだ。そして、主を失った安土城にも、悲劇的な運命が訪れる。信長の死からわずか13日後の6月15日未明、安土城の天主や本丸は原因不明の火災によって炎上し、三日三晩燃え続けた末に灰燼に帰した 19

焼失原因を巡る諸説

なぜ安土城は焼失したのか。その直接的な原因は、第一級の史料においても見解が分かれており、今なお歴史上の大きな謎とされている 51 。主な説は以下の通りである。

  • 明智秀満説 : 山崎の戦いで主君・光秀が敗れたことを知った明智秀満(光秀の重臣)が、安土城から敗走する際に自ら火を放ったとする説。『太閤記』などの後代の軍記物に記されており、長らく通説とされてきた 52 。しかし、秀満は炎上があったとされる15日にはすでに安土を離れ、坂本城で籠城していたことが確実視されており、物理的に放火は不可能であったとする見方が有力である。秀吉方が、自らの正当性を高めるために明智方に罪を着せた創作である可能性も指摘されている 52
  • 織田信雄説 : 信長の次男・信雄が、父の死後の混乱に乗じて城内に潜んでいた明智方の残党を炙り出すために城下に火を放ったところ、折からの強風で天主などに燃え移ってしまったとする説。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告書など、同時代性の高い史料に記述が見られることから、有力な説の一つとされている 52 。しかし、これほどの強風であったにもかかわらず、なぜ天主や本丸など中心部のみが焼失し、二の丸などに延焼しなかったのかという疑問も残る 53
  • 野盗・土民説 : 公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』を根拠とする説で、信長の死による権力の空白と、城を守る兵がいなくなった混乱に乗じて、略奪目的で城内に侵入した野盗や土民が、証拠隠滅などのために放火したとするもの 52 。城主不在の城が略奪の対象となるのは戦国の常であり、現実的な可能性として多くの歴史家から支持されている 52
  • 落雷説 : 自然発火、すなわち落雷によって出火したとする説。江戸時代においても、大坂城や二条城の天守が落雷で焼失した例は多く、これも可能性の一つとして否定はできない 52

いずれの説も決定的な証拠を欠き、真相は藪の中である。しかし、確かなことは、築城開始からわずか6年、天主完成からわずか3年で、信長の夢と野望の結晶は地上から永遠に姿を消し、文字通り「幻の城」となったという事実である。その後、城は事実上廃城となり、その壮麗な姿が再建されることはなかった 34

安土城の存在と機能は、織田信長という一個人の圧倒的なカリスマと絶対的な権力に、完全に依存していた。彼が非業の死を遂げた途端、その権力の象徴であった城は、統制を失った混乱の中でいとも簡単に破壊されてしまった。これは、城の物理的な堅牢さとは裏腹に、その存在を支える政治的システムがいかに脆弱であったかを示している。豊臣秀吉や徳川家康は、この痛烈な教訓を学んだに違いない。彼らは大坂城や江戸城という壮大な城を築くと同時に、信長が成し得なかった、個人の死後も存続する強固な統治機構の構築に心血を注いだ。その意味で、安土城のあまりにもあっけない終焉は、後継者たちにとって、城というハードウェアだけでなく、それを支える統治システムというソフトウェアの構築がいかに重要であるかを教える、強烈な反面教師となったのである。

終章:遺されたもの ― 安土城の歴史的意義と後世への影響

わずか数年で地上から姿を消した安土城。しかし、その物理的な存在が失われた後も、安土城が日本の歴史に与えた影響は計り知れないほど大きく、永続的であった。それは、日本の城郭史、都市史、そして政治史における、巨大な分水嶺として記憶されている。

近世城郭の原点

安土城が創出した革新的な要素は、その後の日本の城郭建築のあり方を決定づけた。具体的には、「高層の天主(天守)」、「総石垣」、「瓦葺き建物群」という三つの要素がセットとして導入された、史上初の城であった 38 。これ以前の城が、依然として中世的な山城の延長線上にあったのに対し、安土城はまったく新しい概念の城郭、すなわち「近世城郭」の幕開けを告げた。

信長の後継者となった豊臣秀吉が築いた大坂城、そして天下を統一した徳川家康が築いた江戸城をはじめ、安土桃山時代から江戸時代にかけて全国各地に築かれた壮麗な城郭は、すべて安土城をその原型としている 54 。天守を権威の象徴として城の中心に据え、高く堅固な石垣で城全体を要塞化し、城内に壮麗な御殿を配するという基本構造は、安土城によって確立された様式であった。その意味で、安土城は日本のすべての近世城郭の「母」であり、日本の城郭史を語る上で決して避けては通れない、不滅の金字塔なのである。

城の概念の変革

安土城は、単なる建築様式の変革に留まらず、「城」という存在そのものの概念を根本から変えた 55 。それまでの城が、第一義的に「戦うための砦」であったのに対し、安土城は「見せ、治めるための政治的首都」として構想された 23 。防御一辺倒ではなく、権威を象徴するためのデザイン性や、天下人として快適に居住し、政務を執るための居住性が重視されるようになった 55 。城は、単なる軍事施設から、政治・経済・文化のすべてを内包する総合的な中心地へと進化したのである。この概念の変革なくして、後の壮大な城郭都市、大坂や江戸の繁栄はあり得なかった。

安土桃山時代

信長の安土城と、豊臣秀吉が拠点とした京都の伏見城(桃山)の名を冠した「安土桃山時代」という時代区分 2 は、この城が持つ歴史的重要性を何よりも雄弁に物語っている。わずか数年しか存在しなかったにもかかわらず、一つの時代を象徴するだけの価値を、安土城は持ち続けている。それは、信長が目指した、中世の旧弊を打ち破り、新たな価値観に基づく統一国家を創造するという、時代の精神そのものを体現した城であったからに他ならない。

安土城が短命に終わったことは、歴史の皮肉であると同時に、その影響力を逆説的に高める結果となった。もし安土城が存続していれば、それはやがて時代遅れとなり、一つの「過去の城」として歴史の中に埋没したかもしれない。しかし、栄華の絶頂期に突如として地上から消滅したことで、安土城は伝説と化した。ルイス・フロイスの記録 36 や、ヨーロッパに贈られたとされる失われた屏風絵の逸話 36 など、断片的な情報が後世の人々の想像力を掻き立て、現実以上に理想化された「完璧な城」のイメージを創り上げた。

豊臣秀吉や徳川家康にとって、この「幻の城」は、超えるべき「偉大な先人(信長)の幻影」となった。彼らは、記録や伝説の中にのみ存在する安土城を凌駕しようと、より高く、より壮麗な天守を、より広大な城郭を競って築いた。その意味で、安土城は物理的にではなく、後継者たちの心の中にある「理想の城の青写真」として、日本の城郭建築を牽引し続けたと言えるだろう。幻となったからこそ、安土城は永遠の理想として、日本の歴史にその名を刻み続けているのである。

引用文献

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