最終更新日 2025-09-17

将軍義晴近江遷座(1527)

大永七年、桂川原の戦いで細川高国・足利義晴連合軍は敗北。義晴は近江へ遷座し、京都幕府は機能停止。畿内には義晴の「江州幕府」と義維の「堺公方府」が並立し、戦国乱世の権力構造を象徴した。
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将軍義晴近江遷座(1527年):室町幕府の崩壊と二つの政権の並立

序章:崩壊の序曲 — 室町幕府の権威失墜と管領細川家の内訌

戦国時代の幕開けを告げた応仁・文明の乱以降、室町幕府の権威は著しく衰退し、将軍は実権を失い名目上の存在へと変貌していた。幕府の権力構造は形骸化し、それに代わって管領職を世襲する細川京兆家が、事実上の最高権力者として畿内に君臨する「管領政治」が常態化していた。しかし、その細川家もまた、永正4年(1507年)の管領・細川政元暗殺(永正の錯乱)を機に、深刻な内紛の時代へと突入する。政元の養子であった細川澄元と細川高国の間で繰り広げられた家督争いは「両細川の乱」と呼ばれ、畿内を舞台とした長期にわたる戦乱の根源となった 1

この抗争の渦中で将軍の座に就いたのが、第12代将軍・足利義晴である。皮肉なことに、義晴の父である第11代将軍・義澄もまた、細川家の内紛とそれに乗じた前将軍・足利義稙(義尹)の上洛によって京を追われ、近江国へと逃れた経験を持っていた。義晴自身、その父が近江に逃れていた永正8年(1511年)に、同地の水茎岡山城で生を受けている 3 。将軍家の嫡男が京都ではなく、亡命先の近江で誕生したという事実は、この時代の将軍がいかに不安定で脆弱な立場に置かれていたかを象徴する出来事であった。

やがて、仇敵・澄元が阿波で失意のうちに病死し、その遺児である聡明丸(後の細川晴元)がまだ若年であったことから、細川高国は将軍・足利義晴を擁立し、畿内における権力を掌握。一時は事実上の天下人として君臨した 5 。しかし、彼の政権基盤は決して盤石ではなかった。その権力は、周防の大内氏のような外部の強力な軍事力に大きく依存しており、細川京兆家の本国である摂津・丹波・土佐の重臣(内衆)たちの支持を完全に掌握するには至っていなかったのである 2 。この構造的脆弱性が、後に彼自身の判断を誤らせ、政権を自壊へと導く遠因となる。1527年の将軍義晴の近江遷座は、こうした室町幕府末期の構造的な権力闘争と、細川高国政権が内包していた矛盾が、一つの事件をきっかけに噴出した結果だったのである。

第一章:亀裂の顕在化 — 高国政権の自壊と反旗の狼煙(1526年)

致命的な粛清

天下人として権勢を振るっていた細川高国であったが、その治世は常に内部からの造反の危険性をはらんでいた。大永6年(1526年)7月13日、高国政権の崩壊の直接的な引き金となる事件が起こる。高国が、従弟にあたる細川尹賢の讒言を鵜呑みにし、長年にわたり政権を支えてきた重臣の一人、香西元盛に誅殺を命じ、自害に追い込んだのである 5

この粛清は、単なる一家臣の処罰では済まなかった。元盛は丹波国に強固な地盤を持つ国人領主であり、彼の兄弟には、同じく丹波の有力者である波多野元清と柳本賢治がいた。高国は、自身の権力に驕るあまりか、あるいは猜疑心に駆られた結果か、この誅殺が丹波の国人衆という強力な武力集団を敵に回すという連鎖反応を予測できなかった。これは、軍事力以前の、情報管理と人間関係のマネジメントにおける致命的な失策であった。

反旗の狼煙 — 丹波での挙兵

案の定、兄・元盛の非業の死に激怒した波多野元清と柳本賢治は、これを不当な誅殺として丹波国で挙兵。八上城と神尾山城に立てこもり、公然と高国に反旗を翻した 5 。高国は直ちに討伐軍を派遣するが、丹波の地理に明るく、結束の固い波多野・柳本勢を攻めあぐねる。この動きは、高国政権に不満を抱いていた畿内近国の勢力に、大きな動揺と好機をもたらした。

反高国連合の形成と「もう一人の公方」

この好機を逃さなかったのが、父・澄元の無念を晴らす機会を窺っていた細川晴元であった。当時まだ13歳の少年であったが、父の代からの宿老であり、阿波で強大な軍事力を保持していた三好元長に擁立され、高国打倒の兵を挙げる 5

さらに晴元方は、自軍の正当性を確保するための政治的カードとして、義晴の異母弟にあたる足利義維(当時は義賢)を将軍候補として擁立した 5 。義維は、父・義澄の死後、阿波に下向していた前将軍・義稙の養子となっており、晴元の従弟である阿波守護・細川氏之のもとで養育されていた 5 。これにより、この争いは単なる細川京兆家の内紛という次元を超え、現職将軍・足利義晴を戴く高国方と、新たな将軍候補・足利義維を奉じる晴元方という、二人の公方を頂点とする二大勢力の代理戦争へと発展していくことになる。高国が犯した一つの過ちが、畿内全土を巻き込む大乱の導火線に火をつけた瞬間であった。

第二章:京への進軍 — 反高国連合軍の形成と畿内制圧戦(1526年末〜1527年2月)

丹波で上がった反旗の狼煙は、瞬く間に畿内全域へと広がり、細川高国政権の足元を揺るがし始めた。これは単なる軍事行動の連続ではなく、高国政権の支持基盤が加速度的に剥落していく政治的プロセスそのものであった。

時系列による戦況報告

  • 1526年12月13日:橋頭堡の確保
    細川晴元方の主力部隊を率いる三好元長、三好長家、三好政長らは、本拠地の阿波から海路で摂津国に上陸。畿内における最初の拠点として中嶋の堀城を占拠し、越年の態勢を整えた 6。これは、反高国連合軍が畿内での本格的な軍事活動を開始したことを示す重要な一歩であった。
  • 1526年12月29日:高国の政治的孤立
    危機感を募らせた細川高国は、将軍・足利義晴の名の下、諸大名に救援を要請した。この要請に応じ、若狭守護の武田元光が兵を率いて入京し、高国軍に合流する 6。しかし、高国が最も頼りにしていた南近江の六角定頼や播磨の赤松政村といった有力大名は、遂に上洛の兵を動かさなかった 6。この時点で、高国の政治的求心力は著しく低下しており、多くの大名が日和見を決め込んでいることが明らかとなった。特に六角定頼に至っては、水面下で晴元方との縁談を進めているという情報もあり、その不介入は意図的な「高国切り捨て」であった可能性が高い 6。
  • 1527年1月〜2月上旬:摂津防衛網の崩壊
    年が明けると、丹波の波多野・柳本軍が本格的な進軍を開始する。1月28日には摂津北部の野田城をわずか7日間で陥落させると、京都への進撃を装いながら南下。2月4日には京都の西の玄関口である山崎城を攻略した 6。勢いに乗る波多野・柳本軍は、その後も芥川城、太田城、茨木城といった摂津国内の高国方の諸城を次々と攻め落とし、あるいは降伏させた。高国が築いた摂津の防衛網は、瞬く間に崩壊していった 6。
  • 1527年2月11日:反高国連合軍の結集
    摂津を制圧した波多野・柳本軍は、山崎城にて堺から北上してきた三好軍と合流を果たした 6。丹波と阿波、二つの強力な軍団が一つとなり、京都を目前にして反高国連合軍が結集。翌12日、彼らは桂川を挟んで、将軍・義晴を奉じる細川高国軍と対峙することになる。

高国方の誤算と晴元方の調略

高国は、軍事的な劣勢に立たされただけでなく、外交・諜報戦においても完全に後手に回っていた。晴元方は、軍事行動と並行して巧みな調略を進めており、高国を物理的に包囲する前に、政治的に孤立させることに成功していた。高国が期待した但馬守護・山名誠豊による丹波への侵攻作戦は、山名家臣の垣屋氏が波多野方に同心したことや、因幡守護・山名誠通が但馬に侵攻したことで頓挫 6 。さらに、高国の娘婿である伊勢国司・北畠晴具も、領国内の国衆が非協力的であったため、援軍を出すことができなかった 6

このように、桂川原での決戦を前にして、高国はすでに八方塞がりの状態に陥っていた。来るべき戦いは、それまでの政治・外交戦の結果を確認する儀式に過ぎなかったとも言えるだろう。

第三章:桂川原の激突 — 京都支配を賭けた一日(1527年2月12日〜13日)

大永7年2月12日、京都の西郊を流れる桂川を挟んで、都の支配権を賭けた二つの軍勢が対峙した。この戦いは、単なる細川家の内紛の帰趨を決するだけでなく、その後の畿内の権力構造を大きく塗り替える転換点となる。

両軍の布陣

  • 細川高国・足利義晴軍(東岸):
    管領・細川高国と将軍・足利義晴を擁する幕府軍は、桂川の東岸に陣を構えた。その布陣は、主力を京都南部の鳥羽から鷺の森にかけて川沿いに隙間なく一文字に展開させるという、防御を重視したものであった。その後方、六条の地に将軍・義晴自らが本陣を置き、全軍の士気を鼓舞した。さらに、本陣の北側、川勝寺(現在の京都市右京区西京極川勝寺町付近)には、若狭からの援軍である武田元光の部隊を後詰(予備兵力)として配置した 6。
  • 細川晴元・三好・柳本連合軍(西岸):
    一方、挑戦者である細川晴元方の連合軍は、桂川の西岸、伏見の久我あたりに主力を集結させた 11。彼らは、数々の城を落としてきた勢いそのままに、決戦に臨む構えであった。

戦闘経過 — リアルタイム・レポート

桂川原の戦いは、2月12日の夜半から翌13日にかけて、目まぐるしく戦況が動いた激戦であった。その経過を時系列で追う。

時間帯

細川高国・足利義晴軍の動向

細川晴元・三好・柳本連合軍の動向

戦況の要点と考察

2月12日 夜半

桂川東岸にて応戦。矢を放ち返す。

桂川西岸より弓による夜襲を開始。

本格的な戦闘開始。夜襲は敵の不意を突き、混乱を誘う狙いがあったか。両軍の神経戦が続く 6

2月13日 未明

主力への正面攻撃を予測し、川沿いの防御を固める。

主力は陽動に徹し、別働隊(三好軍)が密かに桂川を渡河。

三好軍の作戦行動開始。高国軍の戦術予測の裏をかく、高度な戦略。旧来の合戦の常識にとらわれない三好氏の軍事思想が窺える 6

2月13日 早朝

後詰の武田元光軍が奇襲を受け、混乱状態に陥る。

渡河した三好軍が、手薄な後詰の武田軍を急襲。

戦いの主導権が完全に晴元方へ。高国軍の陣形が側面から崩される。武田軍は死者80名を出し敗走 6

2月13日 午前

高国自ら兵を率い武田軍の救援に向かうが、乱戦となる。親族の日野内光や重臣の荒木親子らが戦死。

武田軍を撃破後、勢いに乗り高国本隊へ側面から攻撃を仕掛ける。

高国軍の指揮系統が麻痺。馬廻り10名前後、雑兵300名を失い、総崩れの様相を呈し始める 6

2月13日 午後

全軍が統制を失い、京都方面へ敗走を開始。

追撃を開始。柳本賢治の部隊が中心となる。

勝敗の決着。連合軍の完全勝利。連合軍側も三好長家が重傷を負うなど損害はあったが、戦略的勝利は揺るがなかった 6

2月13日 晩頭

(六角軍の介入)敗走中、追撃してきた柳本勢が六角軍と交戦。

(六角軍の介入)六角軍が突如として柳本勢と交戦。

傍観していた六角軍による、勝者(晴元方)と敗者(高国方)双方への「顔見せ」的な行動。極めて計算高い政治的動きであった 6

傍観者・六角軍の計算

この戦いにおいて、最も不可解かつ象徴的な動きを見せたのが六角軍であった。高国の救援要請に応じて派遣されたはずの三雲氏・馬淵氏らの部隊は、戦闘中は戦場から離れた北白川の地に留まり、戦況をただ傍観していた 6 。そして、高国軍の敗北が決定づいた戦闘の最終盤になって、ようやく追撃する柳本勢の前に姿を現し、小競り合いを演じたのである 6 。これは、高国を見捨てつつも、将軍を擁する幕府軍を見殺しにしたという非難をかわし、同時に新たな勝者である晴元方にも一定の恩を売っておこうという、当主・六角定頼の冷徹で計算高い政治判断の表れであった。この戦いの真の勝者の一人は、血を流さずに政治的価値を高めた六角定頼だったのかもしれない。

第四章:都落ち — 将軍の近江遷座と京都幕府の機能停止(1527年2月14日以降)

桂川原での決定的な敗北は、細川高国政権の命運を尽きさせた。一夜明けた2月14日、高国はもはや京都を維持することは不可能と判断し、将軍・足利義晴を奉じて都を脱出する。この「都落ち」は、単なる将軍個人の逃避行に留まらず、室町幕府の歴史において画期的な意味を持つ出来事であった。

将軍の逃避行と「幕府の移転」

高国と義晴一行が目指したのは、南近江の守護大名・六角定頼の勢力圏内にある坂本であった 6 。坂本は、強大な宗教的・軍事的権威を持つ比叡山延暦寺の門前町であり、六角氏の庇護と延暦寺の防衛力を同時に期待できる、絶好の避難場所であった。

この遷座が歴史的に特異であったのは、将軍や管領といった首脳部だけでなく、幕府の中枢機能そのものが京都から持ち出された点にある。政所(行政・財政)、評定衆(司法)、問注所といった行政機構を担う奉行人や、将軍直属の軍事力である奉公衆といった幕臣の多くが、将軍の後を追って近江へと移動したのである 6 。これにより、京都における室町幕府の政治機能は完全に停止し、文字通り「京都幕府の崩壊」と評される事態となった 6

この事実は、戦国期における幕府のあり方が大きく変質していたことを示している。もはや幕府は「京都」という土地に根差した不動の政庁ではなく、将軍という「個人」の権威に付属する、いわば「動産化」した統治機構へと変わっていた。奉行人や奉公衆が将軍に随行したのは、彼らの地位や所領が、幕府というシステム以上に、将軍・義晴個人への奉仕によって保証されていると考えていたからに他ならない。この「幕府の動産化」は、将軍の権威が、有力な大名の軍事力さえあれば京都以外の場所でも維持・行使可能であることを意味し、後の「江州幕府」の成立や、織田信長による足利義昭の擁立といった事態を可能にする歴史的な素地を形成した。

権力の空白地帯と化した京都

一方、勝利を収めた細川晴元と、彼が擁立する足利義維は、すぐには入京しなかった。彼らは畿内における軍事・経済の要衝である和泉国堺を本拠地とし、そこから畿内をコントロールしようと試みた 16

その結果、権力の中枢が去った京都には、一時的な権力の空白が生じた。勝者である連合軍の一部将、柳本賢治らが京都に入り、治安維持と宣撫工作にあたったが 6 、最高権力者が不在のため、政治は停滞した。さらに、戦乱による治安の悪化も深刻であり、これが後に足利義維の上洛を阻む一因ともなった 14 。将軍が去り、新たな支配者もまだ現れない首都・京都は、不安と混乱の中に置かれることとなったのである。

第五章:二つの政権 — 「江州幕府」と「堺公方府」の並立

将軍・足利義晴の近江遷座と、細川晴元・足利義維による堺への拠点設置は、その後の約5年間にわたり、畿内に二つの「幕府」が並立するという前代未聞の政治状況を生み出した。これは、戦国時代特有の「権威(正統性)」と「権力(実効支配力)」が分離した状態を象徴するものであった。

近江の亡命政権「江州幕府」

近江に逃れた足利義晴の政権は、通称「江州幕府」とも呼ばれる。義晴は坂本、朽木谷、観音寺城下の桑実寺などを転々としながらも、亡命政権としての命脈を保った 4 。その存続を可能にした最大の要因は、南近江の戦国大名・六角定頼による強力な軍事的・経済的支援であった 21 。定頼は将軍の庇護者となることで、幕政への影響力を飛躍的に増大させ、後には管領代に任じられるなど、六角氏の最盛期を築き上げる 21

「江州幕府」は単なる亡命者の集団ではなかった。政所執事の伊勢貞孝、申次衆の大舘晴光、細川典厩家の細川晴倶(右馬頭)といった幕府の中枢を担う幕臣たちが義晴に随行し、その統治機構を支えた 25 。現職の将軍であり、朝廷からの正式な任命を受けている義晴は、亡命先からでも諸国の守護・国人へ御内書(将軍の命令書)を発給し、官位の推薦を行うなど、将軍としての公的な権威を行使し続けた 4

堺の新興政権「堺公方府」

一方、桂川原の戦いの勝者である細川晴元と三好元長は、足利義維を擁して和泉国堺に新たな政権を樹立した。これは「堺公方府」あるいは「堺幕府」と呼ばれる 13 。義維は朝廷への働きかけにより従五位下・左馬頭に任官され、「堺公方」「堺大樹」と称された 16 。左馬頭は将軍後継者が任じられることの多い官職であり、義維が次期将軍の最有力候補であることを内外に示した。

しかし、「堺公方府」には決定的な弱点があった。畿内の軍事的な実権は掌握したものの、義維は最後まで将軍宣下を受けることができなかったのである 14 。朝廷は現職の義晴を正統な将軍とみなし続け、諸大名の多くも同様の認識であったため、義維の権威は全国的なものとはなり得なかった 14 。さらに、政権内部では、軍事の功労者である三好元長と、晴元の側近である柳本賢治や三好政長らとの間に対立が生じるなど、当初から不安定な要素を内包していた 5

二つの政権の比較

この二つの政権の性格は、以下の表のように対照的であった。

比較項目

江州幕府(足利義晴政権)

堺公方府(足利義維政権)

首長

第12代将軍 足利義晴

将軍候補 足利義維 (堺公方)

本拠地

近江国(坂本、朽木、桑実寺など)

和泉国 堺

正統性の根拠

朝廷による正式な 将軍宣下 。伝統的権威。

細川晴元らによる軍事的な擁立。 左馬頭 への任官。

朝廷との関係

良好。改元協議など、正式な交渉相手として認識される。

黙殺。官位昇進も無く、交渉の対象外。

主要な支持勢力

六角定頼 、細川高国(当初)、若狭武田氏、幕府奉公衆・奉行人

細川晴元 三好元長 、波多野氏、柳本氏、畠山義堯

権力の実態

権威>権力 。軍事力は六角氏に依存するが、将軍としての公的権威は保持。

権力>権威 。畿内の軍事的主導権を掌握するが、将軍としての正統性は欠如。

行政機能

御内書・奉書の発給権を保持。諸大名への偏諱授与など栄典授与も行う。

奉行人による奉書発給を行うが、御内書は僅少。影響力は限定的。

結末

細川晴元との和睦により京都へ帰還。将軍職を維持。

内部対立(晴元と元長)により崩壊。義維は阿波へ退去。

この権威と権力のねじれ状態は、どちらの勢力も単独では天下を安定させられないことを意味していた。実権を握った細川晴元も、やがて「堺公方府」の限界を認識し、自らが幕府の管領として権力を振るうためには、正統な将軍である義晴との和睦が必要であると判断するようになる 5 。そして、この複雑な政治状況の中で両者の仲介役を果たし、キャスティングボートを握ったのが、将軍を庇護することで自らの政治的価値を最大限に高めた六角定頼であった。二つの政権の並立は、結果的に六角氏を畿内政治の中心的存在へと押し上げる大きな要因となったのである。

結論:戦国史における「1527年体制」の確立とその後の展開

大永7年(1527年)の将軍・足利義晴の近江遷座と、それに続く一連の政治変動は、戦国時代の権力構造に決定的かつ多岐にわたる影響を及ぼした。この出来事は、単なる将軍の都落ちに留まらず、新たな政治力学、すなわち「1527年体制」とも呼ぶべき状況を畿内にもたらしたのである。

第一に、この事変は管領・細川高国政権の崩壊を決定づけた。桂川原での敗北後、再起を図る高国であったが、かつての勢いを取り戻すことはできず、享禄4年(1531年)の「大物崩れ」において、赤松氏の裏切りに遭い、三好元長に捕らえられ自害に追い込まれた 8 。ここに長きにわたった「両細川の乱」は、晴元の勝利という形で一応の終結を見る。

第二に、畿内の新たな覇者となった細川晴元政権であったが、その権力基盤は当初から大きな矛盾を内包していた。晴元は、自らの権力を確立する上で最大の功労者でありながら、同時に強大すぎる軍事力を有する三好元長を次第に疎むようになる 9 。この対立は、享禄5年(1532年)、晴元が山科本願寺の法主・証如を扇動して一向一揆を蜂起させ、元長を堺で自害に追い込むという悲劇的な結末を迎える 34 。しかし、この非情な策謀は、元長の嫡男・三好長慶に深い遺恨を残し、後の長慶による下剋上、すなわち三好政権の樹立への遠因となった。

第三に、将軍の庇護者という役割を担った六角定頼の政治的飛躍である。定頼は、巧みな外交手腕で「江州幕府」を支え、中央政界における絶大な発言力を獲得し、六角氏の最盛期を現出した 22 。彼が本拠地・観音寺城の城下で実施したとされる楽市令は、旧来の座の特権を打破する革新的な経済政策であり、後の織田信長による天下統一事業にも影響を与えたと評価されている 22

そして最も重要な歴史的意義は、足利将軍の権威が、この一連の事変を通じて完全に変質したことである。もはや将軍は自立した統治者ではなく、有力な戦国大名の軍事力によってのみその価値が保証される「政治的象徴」となった。将軍を「奉じ」、その伝統的権威を自らの権力正当化のために利用する者が、すなわち天下に最も近い者となる、という戦国時代特有の政治力学がここに確立されたのである。1527年の将軍義晴の近江遷座は、室町幕府の黄昏を決定づけ、実力主義が支配する新たな時代の到来を告げる、象徴的な出来事であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 細川晴元は何をした人?「将軍を追い出して幕府にかわって堺公方府をひらいた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/harumoto-hosokawa
  2. 細川高国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%AB%98%E5%9B%BD
  3. 「足利義晴」管領細川家の内紛に翻弄された室町幕府12代将軍。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/207
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  7. 明智光秀以前の丹波の歴史「武将編」 柳本賢治(やなぎもと かたはる) - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%8C%E6%AD%A6%E5%B0%86%E7%B7%A8%E3%80%8D%E3%80%80%E6%9F%B3%E6%9C%AC%E8%B3%A2%E6%B2%BB
  8. 第12代将軍/足利義晴|ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/72422/
  9. 大物崩れ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11089/
  10. 川勝寺城(京都府京都市) - 滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/2016/12/04/kadono-senshoji/
  11. 第97話 桂川原の戦い - 元就の野望~全国版~。わたしはガチャを駆使して補佐します(那田野狐) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054896080337/episodes/1177354054918082220
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  35. 第32話「細川 晴元」29(全192回) - 戦国時代の名将・武将の群像(川村一彦) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887172229/episodes/1177354054887373709
  36. 大物崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%B4%A9%E3%82%8C
  37. 仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/194520/2