小倉城築城(1602)
細川忠興は1602年、徳川家康の命で豊前小倉に築城を開始。関門海峡に面した要衝に、周囲8kmの総構と、常識を覆す「唐造り」天守を持つ城を約7年で完成。九州支配の拠点として徳川覇権を確立した。
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慶長七年 小倉城築城 ― 戦国終焉の序曲、徳川覇権の礎 ―
序章:なぜ小倉だったのか ― 築城前夜の地政学的緊張
慶長七年(1602年)、豊前国小倉の地で開始された一大築城事業は、単なる一地方大名の居城建設という範疇を遥かに超える、歴史的な必然性を帯びていた。この事業を「戦国時代という視点」で読み解くとき、その背景には、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いがもたらした「不完全な天下統一」という、徳川家康が直面した深刻な地政学的課題が浮かび上がる。
関ヶ原の戦いは、徳川家康の覇権を決定づけたが、それは天下泰平の即時到来を意味するものではなかった。特に九州は、依然として戦国の火種を燻らせる、緊張に満ちた地域であった。西軍の主力が敗れたとはいえ、薩摩の島津氏や肥前の鍋島氏といった西軍に与した大大名は、強大な軍事力を保持したまま領地に健在であった。さらに、東軍として戦功を挙げた筑前の黒田長政や肥後の加藤清正にしても、元は豊臣恩顧の意識を色濃く残す外様大名であり、家康にとって心から信頼を置ける存在ではなかった 1 。
この状況下で家康が描いた国家戦略は、武力による再度の征伐ではなく、巧みな大名配置による「ソフトな封じ込め」であった。すなわち、信頼できる大名を西国の戦略的要衝に配置し、潜在的な敵対勢力を監視・牽制することで、幕府への反乱を未然に防ぐというものである 1 。この構想の実現において、白羽の矢が立てられたのが、九州の喉元に位置する小倉の地であった。
小倉は、本州と九州を隔てる関門海峡に面し、古来より陸海交通の結節点として栄えた地である 4 。中津街道や長崎街道をはじめとする九州の主要街道は小倉を起点としており、「九州のすべての道は小倉に通じる」とまで言われたほどの要衝であった 3 。この地を掌握することは、九州全体の兵站、情報、経済を掌握することに直結する。戦国末期に中国地方の雄・毛利氏がこの地に城を築いたのも、その抜きん出た戦略的価値を深く認識していたからに他ならない 3 。
家康にとって、小倉は九州に割拠する外様大名たちに対する強力な「楔」であり、徳川の威光を西国に知らしめるための「橋頭堡」であった。したがって、この地における新城の建設は、単なる地方都市開発ではなく、徳川による全国支配体制を盤石にするための、いわば国家事業としての側面を色濃く帯びていたのである。
第一章:築城主・細川忠興の実像 ― 戦国を生き抜いた知勇兼備の将
城は、築城主の人格を映す鏡であると言われる。小倉城の他に類を見ない構造と、城下町までを一体とする壮大な構想を理解するためには、その創造主である細川忠興(ほそかわ ただおき、号は三斎)という、戦国乱世が生んだ複雑で多面的な人物像を深く掘り下げる必要がある。
忠興は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人に仕え、激動の時代を生き抜いた稀有な経歴を持つ武将であった 3 。その武勇は当代随一と評され、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として奮戦し、百三十六もの首級を挙げたと伝えられるほどの猛将であった 6 。その一方で、家臣の些細な過ちを決して許さないなど、その気性の激しさを示す逸話も数多く残されている 8 。また、父・藤孝(幽斎)と共に勝竜寺城や宮津城の経営に携わり、後には中津城の改修も手掛けるなど、築城家としても豊富な経験を有していた 9 。
しかし、忠興を単なる武骨な武将として捉えるのは、彼の一面しか見ていないことになる。彼は同時に、当代一流の文化人、数寄者でもあった。茶の湯においては、千利休が最も優れた弟子として認めた七人、いわゆる「利休七哲」の一人に数えられるほどの達人であった 6 。その審美眼は、戦国一の文化人と称された父・幽斎から受け継いだものであり、和歌や能楽にも深い造詣を持っていた 6 。この鋭敏な美意識は、彼が築く城を、単なる軍事施設ではなく、文化的・芸術的な価値をも備えた総合芸術作品へと昇華させる原動力となった。小倉の城下町を設計するにあたり、自らが生まれ育った京都の町並みを模倣したことや、今日まで続く小倉祇園祭を創始したことにも、その豊かな文化的素養が明確に表れている 6 。
小倉城の設計思想は、この忠興の中に共存する「武」と「数寄(すき)」という、二つの人格の葛藤と融合の産物であったと言える。もし彼が単なる勇猛な武将であったならば、小倉城はより機能本位で画一的な城になっていたかもしれない。しかし、彼が当代随一の文化人でもあったからこそ、自然石の力強さを誇示する「野面積み」の石垣と、常識を覆す奇抜な「唐造り」の天守という、豪放さと繊細さ、伝統と革新が同居する独創的な城が生まれたのである。小倉城とは、忠興の内部でせめぎ合う二つの情熱が、石垣と天守という形で具現化した、類稀なる「作品」であった。
第二章:慶長五年~七年(1600-1602):豊前入封とグランドデザイン
関ヶ原の戦後処理から築城開始に至るまでの約二年間は、細川忠興が自らの新たな役割を自覚し、小倉という都市の壮大なグランドデザインを練り上げていった、極めて重要な期間であった。その動向を時系列で追うことで、一大事業の始動に至るまでのリアルタイムな思考の軌跡を辿ることができる。
慶長五年(1600年):論功行賞と豊前入封
九月十五日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わる。この合戦における細川忠興の武功は際立っていた。それだけでなく、合戦前に大坂屋敷で西軍の人質となることを拒み、家臣の手によって命を絶った妻・ガラシャの忠節もまた、家康によって高く評価された 12 。
戦後、家康は忠興に対し、豊前一国(企救、京都、田川、築城、仲津、上毛、下毛、宇佐の八郡)と豊後二郡(国東、速見)、合わせて実高三十九万九千石という破格の加増をもって報いた 3 。これは単なる恩賞ではなく、九州の安定という重責を忠興に託すという、家康の明確な意思表示であった。同年十二月二十六日、忠興は長年拠点とした丹後宮津を離れ、豊前の国府が置かれていた中津城に入城した 13 。中津城は、稀代の軍師・黒田官兵衛が築いた名城であったが、九州全土に睨みを利かせるという新たな任務を遂行し、忠興自身の壮大な構想を実現するには、必ずしも最適な地ではなかった 9 。
慶長六年(1601年):新拠点・小倉の選定と構想
入封後、忠興は精力的に領内を検分し、新たな本拠地の選定に着手した。その結果、中津よりも地政学的に遥かに優位な小倉に白羽の矢を立てる。関ヶ原の合戦直後、弟の細川興元に小倉城の守備を任せていることからも、忠興が当初からこの地の重要性を認識していたことが窺える 15 。
この時期、忠興の頭の中では、既存の城を改修するというレベルを遥かに超えた、城と城下町が一体となった巨大な防衛都市の構想が練り上げられていた。その核となる思想が、城下町全体を堀と土塁で囲い込む「総構え(そうがまえ)」である。これは当時、豊臣氏の大坂城や、徳川氏が威信をかけて建設を進める江戸城で採用されていた、最先端かつ最大規模の築城術であった 16 。この選択は、小倉を単なる一藩の首府ではなく、大坂や江戸に比肩する西日本の一大拠点都市にするという、忠興の並々ならぬ野心を示すものであった。彼が自らの役割を、単なる一地方領主ではなく、徳川政権下における「西国探題」に匹敵する九州の統括者と自己規定していたことの現れとも言える。
慶長七年(1602年):築城開始
周到な準備期間を経て、慶長七年、忠興は居城を中津から小倉へ正式に移し、前代未聞の大規模な築城(実質的には新築に近い大改修)に着手した 3 。
計画の骨子は、地形を最大限に活用した壮大なものであった。城の東を流れる紫川と西を流れる板櫃川を天然の外堀として取り込み、さらに南の寒竹川から北の響灘に向かって新たな堀(現在の砂津川の原型)を掘削することで、周囲八キロメートルにも及ぶ広大な城郭都市を形成するというものであった 16 。この壮大なグランドデザインの実現に向け、豊前の大地が動き始めたのである。
表1:小倉城築城 関連年表(1600年~1609年)
年(西暦/和暦) |
月 |
出来事 |
1600年(慶長5年) |
9月 |
関ヶ原の戦い。細川忠興、東軍で活躍。 |
1600年(慶長5年) |
12月 |
忠興、豊前・豊後二郡39万9千石を与えられ、中津城に入城 13 。 |
1601年(慶長6年) |
- |
忠興、新本拠地として小倉を選定。「総構え」の構想を練る。 |
1602年(慶長7年) |
- |
忠興、小倉へ移り、本格的な築城(大改修)を開始 3 。 |
1602-1608年 |
- |
石垣普請、堀の掘削、曲輪の造成、城下町の整備が進行。 |
1609年頃(慶長14年頃) |
- |
天守を含む城郭全体が約7年の歳月を経て完成 4 。 |
第三章:普請のリアルタイム ― 巨石と格闘した男たち
慶長七年から約七年間に及んだ小倉城の普請は、膨大な労働力と物資、そして当代最高の技術を要する国家的な巨大プロジェクトであった。それは単なる建設作業ではなく、細川氏による豊前支配を確立するための巨大な「装置」として機能した。その過程を、「石垣」「労働力」「縄張り」という三つの側面から再現する。
第一節:石垣普請 ― 権力の象徴としての「野面積み」
城の骨格をなす石垣の普請は、築城の根幹をなす作業であった。その石材は、主に城の東方に聳える足立山から切り出されたと伝えられている 18 。石工たちは、岩盤の目に沿って「矢穴(やあな)」と呼ばれる楔を打ち込むための穴をいくつも穿ち、そこに鉄製の楔を打ち込んで巨大な岩を割り出した 20 。
切り出された巨石は、「修羅(しゅら)」と呼ばれる木製のソリや、「手子木(てこぎ)」という梃子の原理を応用した道具を使い、数百人もの人々の力を結集して普請場所まで運ばれた 21 。この運搬作業がいかに困難を極めたかは、中津口門の石垣に使われた巨石の運搬にまつわる逸話からも窺える。あまりの重さに石が動かなくなったことに激怒した忠興が、責任者の首を刎ねたところ、恐れをなした家来たちが必死になって運び終えたという伝説は、真偽はともかく、忠興の激しい気性と、普請事業の過酷さを物語っている 8 。
技術的な側面で特筆すべきは、忠興が用いた石垣の技法である。当時、石の接合面を加工して隙間なく積み上げる「打込接(うちこみはぎ)」が、関ヶ原の戦いを境に主流となりつつあった 23 。しかし忠興は、あえて自然石をほとんど加工せずにそのまま用いる、より古い技法である「野面積み(のづらづみ)」を多用したのである 4 。
これは決して技術的な後退ではなく、忠興の明確な意志に基づいた選択であった。伝えられる彼の言葉、「石を加工するのは誰にでもできるが、美しく大きな石を集めさせることは権力者にしかできない」が、その意図を雄弁に物語っている 8 。加工された石がもたらす整然とした機能美よりも、巨大な自然石が持つ圧倒的な素材感と、それを動員できる自らの絶大な権力を見せつけることを、彼は選んだのである。それは、戦国の荒々しい気風を色濃く残す、武人・忠興ならではの美学と権力観の表明であった。ただし、石垣の隅角部には、強度を確保するために直方体の石を交互に組み合わせる「算木積み(さんきづみ)」という先進技術も的確に用いられており、古い技法への固執ではなく、意図的な使い分けであったことがわかる 20 。
第二節:労働力の動員 ― 城普請と領国経営の一体化
この巨大な普請事業を支えたのは、領内から徴発された膨大な労働力であった。小倉城築城に関する直接的な動員記録は乏しいものの、当時の大規模な城普請は、領内の村々に対して、その石高(米の収穫量)に応じて人足を供出させる「夫役(ぶやく)」によって担われるのが一般的であった 25 。
この夫役の徴発は、単なる労働力の確保に留まらなかった。忠興は入封直後から領内の検地や法整備(「九カ条の覚」の発布など)に着手しており、その過程で確立された支配体制が、築城のための組織的かつ大規模な労働力動員を可能にしたと考えられる 13 。夫役を課すことは、村々の石高と人口を正確に把握し、徴発に滞りなく応じさせることで、細川家の権威を領内の末端まで浸透させる絶好の機会となった。領民たちは、石垣普請や堀の掘削といった具体的な共同作業を通じて、新しい支配者の下にある「小倉藩」という新たな共同体の一員として、物理的にも精神的にも組み込まれていったのである。
もちろん、普請の中核を担ったのは、石工や大工、鍛冶といった専門技術を持つ職人集団であった。忠興は城下町の繁栄策の一環として、全国から優れた商人や職人を積極的に誘致しており、彼らの高度な技術が、この難工事を支えた 4 。
第三節:縄張の形成 ― 水と土のグランドデザイン
普請と並行して、城と城下町の骨格を定める「縄張(なわばり)」が形成されていった。計画の根幹である「総構え」を実現するため、大規模な土木工事が展開された。特に、南の寒竹川から北の響灘へと水を導き、東の外堀(現在の砂津川)を新たに開削する工事は、地形そのものを大きく変える、まさにグランドデザインと呼ぶにふさわしいものであった 16 。
城郭の内部は、本丸を中心に、南に松ノ丸、北に北ノ丸を配し、それらを二ノ丸、三ノ丸が同心円状に囲む「梯郭式(ていかくしき)」の縄張りが採用された 24 。それぞれの区画(曲輪)は、高く盛られた土塁と深く掘られた堀によって厳重に区画され、敵の侵入を阻むために複雑に折れ曲がった虎口(こぐち、出入口)が設けられた 28 。
さらに、普請と一体で城下町の区画整理も進められた。紫川を境として、西岸に武家屋敷、東岸に町人地を配置し、その二つを常盤橋で結ぶという、明確な都市計画に基づいていた 16 。七年間にわたる普請の期間は、単に城という建造物が立ち上がっていく期間ではなく、細川氏による豊前支配が、領民を巻き込みながら実質的に根付いていった期間でもあったのである。
第四章:天守建立 ― 破格の「唐造り」の誕生
約七年に及ぶ普請の最終段階にして、城の象徴である天守の建設は、細川忠興の独創性が最も鮮烈に発揮された局面であった。ここに、戦国気風の豪放さと、近世の洗練された美意識が交錯する、全国でも類例のない「唐造り(からづくり)」の天守が誕生する。
構造的特徴
小倉城天守の最大の特徴は、その異様なまでのシルエットにある。四階と五階(最上階)の間に、通常あるべき屋根の庇(ひさし)が存在せず、なおかつ五階の床面積が下の四階よりも大きく、外側に張り出しているのである 30 。この特異な構造は、その目新しさ、風変わりさから「唐造り」あるいは「南蛮造り」と呼ばれた 30 。「唐」や「南蛮」という言葉は、異国の様式という意味合い以上に、「当世風の」「斬新な」といったニュアンスで用いられた呼称である。
外観は四重に見えるが、内部は五層の構造を持ち、一層から四層までは白漆喰の壁で塗られ、最上階の五層目のみが黒い板張りであったとも伝えられている 33 。破風(はふ)などの装飾をほとんど持たないシンプルな層塔型の構造を基本としながら、最上階にだけ大胆な変化を持たせるという、極めて意匠性の高いデザインであった。
設計思想の考察
なぜ、このような前代未聞のデザインが採用されたのか。その理由を直接示す史料は現存しないが 34 、忠興の人物像と時代背景から、いくつかの可能性を考察することができる。
第一に、機能性を追求した結果とする見方である。張り出した五階部分は、下階の屋根代わりとなると同時に、高所からの視界を遮るものが一切ないため、関門海峡を航行する船舶などを監視する物見としての機能を最大限に高める狙いがあった可能性が指摘されている 36 。
第二に、忠興の類稀なる美意識の現れとする見方である。茶の湯の達人であった忠興は、完全な調和よりも、意図的に均衡を崩す「破調(はちょう)」の中に美を見出す感性を持っていた。単調になりがちな層塔型天守のシルエットに、あえて異質な要素を加えることで、見る者に強烈な印象を与え、飽きさせない視覚的効果を狙ったのではないか。これは、茶の湯における「わび・さび」の精神にも通じる、完璧さからの逸脱を良しとする、数寄者ならではの発想とも解釈できる 37 。
第三に、自らの先進性を誇示する意図があったとする見方である。当時最新の建築様式であった層塔型天守をいち早く採用し、さらにそこに独自の工夫を加えることで、他の大名には真似のできない自らの先進性と創造性を、天下に示す意図があった可能性も考えられる 37 。
「唐造り」の天守は、戦国時代の終焉期における、城郭建築の実験と創造性の爆発を象徴するモニュメントであった。関ヶ原の戦いを経て世の中が安定に向かう中で、城郭の純粋な軍事施設としての役割が相対的に低下し、大名の権威や個性を象徴する「シンボル」としての意味合いが強まっていった。その過渡期にあったからこそ、実用性と意匠性、伝統と革新が融合した「唐造り」のような大胆なデザインが生まれ得たのである。それは、戦国の実用主義と、近世の象徴主義が交差する一点に咲いた、徒花(あだばな)のような存在であったと言えるかもしれない。
表2:同時代の主要城郭との比較
城郭名 |
築城/改修主体 |
築城/改修時期 |
規模(総構え等) |
天守の構造 |
石垣の技法 |
小倉城 |
細川忠興 |
1602-1609年 |
周囲約8kmの総構え 16 |
唐造り(南蛮造り) 30 |
野面積み 24 |
江戸城(慶長期) |
徳川家康(天下普請) |
1606年~ |
日本最大の総構え |
慶長期天守(層塔型) |
打込接 |
名古屋城 |
徳川家康(天下普請) |
1610-1612年 |
広大な城郭 |
層塔型 |
打込接 |
姫路城(池田輝政期) |
池田輝政 |
1601-1609年 |
三重の螺旋状の堀 |
連立式天守(望楼型) |
打込接 |
熊本城 |
加藤清正 |
1601-1607年 |
巨大な城郭 |
望楼型 |
打込接(武者返し) |
注:江戸城、名古屋城、姫路城、熊本城の情報は、小倉城との比較のために一般的な知見に基づき記載。 |
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第五章:慶長十二年頃(1609頃):城下町の完成と「西国経略の要」
慶長七年から始まった大普請は、約七年の歳月を経て、慶長十二年から十四年(1607-1609年)頃に完成の時を迎えた 4 。それは、単に一つの城が完成したというだけでなく、徳川政権下における西国支配の拠点が、名実ともに始動した歴史的な瞬間であった。
完成した小倉城は、まさに壮麗な威容を誇っていた。本丸には藩主の政務と生活の場である壮大な御殿が築かれ、天守の周囲には、平櫓百十七基、二重櫓十六基を含む大小の櫓が林立し、城の防備を固めていた 24 。海と三方の川・堀に囲まれた「総構え」は、九州では群を抜く規模を誇り、西日本では姫路城に匹敵する巨大な要塞都市となった 5 。その規模は熊本城の約二倍にも達したとされ、細川忠興の構想の壮大さを物語っている 5 。
忠興の視線は、城郭の内部だけに留まらなかった。彼は、城下町そのものを活性化させるための都市経営にも辣腕を振るった。故郷である京都を模した碁盤目状の町割りを行い、京町、室町といった地名を与えた 6 。そして、全国から優れた商人や職人を積極的に誘致し、商工業の保護政策を実施した 4 。さらに、海外貿易も奨励し、小倉は九州における経済の一大中心地としても活況を呈した 3 。また、京都から八坂神社を勧請し、小倉祇園祭を創始するなど 6 、文化的な振興策を通じて町の賑わいを創出し、人々の心を掌握することも忘れなかった。
こうして完成した小倉城と城下町は、徳川家康が意図した「西国経略の要」としての機能を十全に発揮し始める。軍事的には、九州に割拠する外様大名たちへの睨みを利かせる一大拠点として機能した。後に細川家が肥後熊本へ転封された後、徳川譜代の大名である小笠原忠真が十五万石で入封したことは、この城の戦略的重要性が幕府によって一貫して認識されていたことを示している 3 。小笠原氏には、九州諸大名を監視するという特命が与えられていたことからも、その役割は明らかである 5 。
政治・交通の面では、九州の諸街道の起点として、人、物、そして情報が集中するハブとなり、徳川の支配と秩序を九州の隅々にまで浸透させる役割を担った 3 。小倉城というハードウェアの完成は、九州全体の政治・経済・交通のネットワークを再編し、徳川を中心とする新たな秩序(ソフトウェア)をこの地域にインストールする、決定的な契機となったのである。小倉城の完成は、九州における「戦国」の時代の終わりと、「近世」の時代の始まりを画する、象徴的な出来事であった。
結論:戦国から近世への架け橋として
慶長七年(1602年)に始まった細川忠興による小倉城築城は、単一の歴史事象として捉えるべきではない。それは、戦国という激動の時代を生き抜いた一人の武将の生涯の集大成であると同時に、徳川家康が描いた天下泰平への壮大な設計図の、西の要を担う重要な一片であった。
この城は、二つの時代の精神を内包している。自然石の荒々しい力をそのままに組み上げた「野面積み」の石垣は、実力こそが全てであった戦国の気風を今に伝え、常識を打ち破る「唐造り」の天守は、新たな価値観が生まれる近世の到来を告げている。それは、戦国の武将でなければ持ち得ない豪胆さと、泰平の世の文化人でなければ発想し得ない独創性の、奇跡的な融合であった。
小倉城の完成は、九州という地域社会に決定的な変革をもたらした。それまで各地に割拠し、互いに鎬を削っていた大名たちは、良くも悪くも小倉を、そしてその背後にいる徳川幕府を意識せざるを得なくなった。街道は小倉に通じ、幕府からの指令は小倉を経由して伝達され、経済は小倉を中心に回り始める。小倉城は、単なる軍事拠点ではなく、政治、経済、文化を内包し、九州という広大な地域を戦国の混沌から近世の秩序へと導くための、巨大な「架け橋」となったのである。
小倉城築城という事変を「戦国時代という視点」で捉えるとき、我々はそこに、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりが交錯する、歴史のダイナミズムそのものを見出すことができる。それは、戦国乱世の終焉を告げる静かな序曲であり、二百六十年にわたる徳川の泰平を支える、西の礎石が置かれた瞬間であった。
引用文献
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- 【どうする家康】家康が天下をとれた深いワケ、関ヶ原の戦い後の「巧みな人事」とは? https://diamond.jp/articles/-/332161?page=2
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- 小倉城の歴史 - 小倉城 公式ホームページ https://kokura-castle.jp/history/
- 小倉城 天守閣 - 小倉城 公式ホームページ https://kokura-castle.jp/castle/
- 第1話 小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉の町に ... - 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/11/story1-hosokawatadaoki/
- 細川忠興 京都の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-tadaoki/
- 陸海の交通の要衝 細川忠興築城の小倉城 [続日本100名城] [福岡県 ... https://note.com/rena_fr/n/n849d5fae5065
- (細川忠興と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/35/
- 歴史の目的をめぐって 細川忠興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-30-hosokawa-tadaoki.html
- 細川忠興ゆかりの史跡/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44032/
- 永青文庫美術館 http://www.eiseibunko.com/collection/rekishi3.html
- となり、子の勝永とともに土佐に流された。 豊前六郡を領有し、 中津城にいた黒田長政は東軍方に属して活 http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/5-3-1-1.pdf
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- 第27話 小倉城の総構えと城下町 - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2020/11/story27/
- 0327小倉城 - 写真で見る日本の歴史 http://www.pict-history.com/archive/series03/27-kokura.htm
- 小倉城庭園 英彦山 上 野焼 小倉城の石垣 - 北九州市 https://kitakyushucity.guide/galleries/pamphlet/pdf/kokuracastle.pdf
- 小倉城の石垣の積み方は何ですか?その積み方の特長などを書いている本を紹介してください。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000057382&page=ref_view
- 小倉城 石垣の秘密~誰が積んだ石垣なのか - note https://note.com/kokura_castle_g/n/n67389d831185
- 【超入門!お城セミナー】こんなに大きな石材をどうやって運んだのか? https://shirobito.jp/article/361
- 【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第26回 石材の調達と運搬方法 https://shirobito.jp/article/1093
- 第43話 城の石垣の積み方を紹介。小倉城の石垣はどんな積み方? - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2021/07/story43/
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- 小倉城について https://kokurajotakeakari.com/kokuracastle/
- 甦る威容。個性あふれる日本の名城。 九州の門戸に聳え立つ秀麗清楚な南蛮造り天守閣。「小倉城」 - 幻の城 - 建築デザイン http://castle.atorie-ad.com/kokura.shtml
- 【小倉城築城】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050740
- 唐造 | テーマに沿って城めぐり - 攻城団 https://kojodan.jp/badge/34/
- 唐造 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E9%80%A0
- 小倉城の天守閣は昭和時代に復元されたが本来の姿とは異なる!? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/10806/?pg=2