岡山城天守完成(1597)
慶長二年、豊臣五大老・宇喜多秀家は岡山城天守を完成。漆黒の「烏城」は、秀吉の大坂城に範をとり、不等辺五角形の天守台を持つ。旭川の流路変更で城下町を整備し、豊臣政権の威光を示す西国の拠点となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
岡山城天守完成(1597年):戦国末期、相克の時代に聳え立った漆黒の巨城
序章:慶長二年(1597年)、相克のシンボル
慶長二年(1597年)、日本の歴史は、破壊と創造という二つの巨大なエネルギーが激しく衝突する、特異な時空間を現出させていた。一方では、豊臣秀吉の命により、約14万もの将兵が再び玄界灘を渡り、朝鮮半島を戦火に染め上げていた(慶長の役) 1 。他方、その戦役の喧騒を遠く離れた備前国岡山では、8年にも及ぶ歳月を費やした壮大な建築事業が、ついにその集大成を迎えようとしていた。豊臣五大老の一人、宇喜多秀家が築き上げた岡山城天守の完成である 3 。
この二つの事象は、単なる偶然の同時発生ではない。朝鮮半島で繰り広げられる凄惨な破壊活動と、備前の地に聳え立つ壮麗な創造物。この鮮烈な対比は、天下統一を成し遂げながらも、その権力基盤の最終的な安定を見ることなく、晩年の妄執に突き進む豊臣政権が内包した矛盾そのものを象徴していた。岡山城天守の完成は、一地方大名の居城が完成したという単純な出来事ではなく、戦国という時代の終焉と、それに続く新たな時代の胎動を告げる、時代の転換点を刻む画期的な事象であった。
さらに深く考察するならば、この巨大建築の完成には、極めて高度な政治的意図が込められていたと見ることができる。この対外戦争において日本軍の総大将という重責を担っていたのは、他ならぬ城主・宇喜多秀家その人であった 6 。彼が遠く異国の最前線で死闘を繰り広げているまさにその時に、本国では彼の威光を示す巨大な天守が完成する。これは、宇喜多家の豊臣政権に対する揺るぎない忠誠と、戦時下にあっても57万石の領国を安定的に経営し、巨大普請を完遂せしめるほどの圧倒的な経済力・統治能力を、内外に誇示する一大デモンストレーションであった。すなわち、慶長二年に完成した岡山城天守は、単なる軍事拠点や居館を超え、戦時下における一種のプロパガンダ装置としての役割をも担っていたのである。本報告書は、この「岡山城天守完成」という一点を多角的に掘り下げ、それが置かれた時代の文脈、すなわち豊臣政権末期の動乱と、城主・宇喜多秀家の栄光と悲劇を、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一部:天下の動乱 ― 慶長の役と豊臣政権の黄昏
岡山城天守がその威容を現した慶長二年、日本を取り巻く環境は、かつてないほどの緊張に包まれていた。城主・宇喜多秀家が身を投じた「慶長の役」の動向は、岡山城の存在意義を理解する上で不可欠な、マクロな国際環境そのものであった。この章では、秀家が置かれていた極限状況を詳述し、本国での築城事業がいかに異様な状況下で進められていたかを浮き彫りにする。
第一章:和平決裂と再征の号令
文禄元年(1592年)に始まった第一次朝鮮出兵(文禄の役)は、明の参戦により戦線が膠着し、やがて日本と明の間で和平交渉が開始された 8 。しかし、この交渉は当初から双方の思惑の齟齬と、交渉担当者の欺瞞に満ちていた。明側の交渉担当者であった沈惟敬は、豊臣秀吉が要求する条件(明の皇女を日本の天皇の后とすること、日明間の勘合貿易の復活、朝鮮南部の割譲など)が到底受け入れられないことを知りながら、明の皇帝には「秀吉は降伏し、明の臣下となることを望んでいる」と偽りの報告を行った 1 。
一方、秀吉もまた、小西行長らからの報告を都合よく解釈し、明が日本の要求を呑んで降伏するものと信じ込んでいた。慶長元年(1596年)、明からの使者が大坂城を訪れ、秀吉を「日本国王」に冊封する儀式が行われた。しかし、そこで読み上げられた国書の内容は、秀吉を明皇帝の臣下として遇するものであり、彼の要求は一切無視されていた。この時初めて欺かれていたことを知った秀吉は激怒し、即座に使者を追い返すと、明を膺懲すべく、再び朝鮮半島への出兵を断固決意したのである 2 。
こうして、慶長二年(1597年)1月、秀吉は西国を中心とする諸大名に対し、再び動員令を発令。約14万人の大軍が編成され、朝鮮半島への再上陸が開始された 1 。それは、合理的な戦略目標よりも、天下人の個人的な怒りと威信の回復という動機に突き動かされた、極めて危険な遠征の始まりであった。
第二章:海の向こうの戦火 ― 慶長二年の戦況
再度の出兵は、当初から凄惨な様相を呈した。秀吉は諸将に対し「全羅道を悉く成敗し、忠清道へも進攻すべし」との朱印状を発し、徹底的な殲滅戦を命じた 2 。以下に、岡山城天守が完成した慶長二年(1597年)に、朝鮮半島と日本国内でリアルタイムに進行していた主要な出来事を時系列で示す。
表1:慶長二年(1597年)関連年表
年月 |
朝鮮半島の動向(慶長の役) |
日本国内の動向(豊臣政権) |
岡山城および宇喜多家の動向 |
慶長2年 (1597) |
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1月 |
日本軍、再上陸を開始。 |
秀吉、西国大名に動員令を発令。上杉景勝の会津への転封など、国内大名の配置転換も進む 1 。 |
宇喜多秀家、総大将格として渡海準備。 |
2月 |
朝鮮水軍の英雄・李舜臣が讒言により罷免、投獄される 1 。 |
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7月 |
【漆川梁海戦】 藤堂高虎、脇坂安治らの日本水軍が、元均率いる朝鮮水軍を奇襲し、壊滅させる。制海権を一時的に確保 1 。 |
医師ルイス・フロイスが長崎で死去 1 。 |
宇喜多秀家、左軍を率いて内陸へ進軍中。 |
8月 |
【南原城の戦い】 宇喜多秀家、小西行長、島津義弘ら約4万5千が南原城を総攻撃。15日に陥落させ、明・朝鮮軍および城内の民衆に甚大な被害が出る 1 。続いて加藤清正らが黄石山城を攻略。 |
室町幕府最後の将軍・足利義昭が大坂で死去 1 。 |
秀家、南原城攻略で中心的な軍功を挙げる。 |
9月 |
【鳴梁海峡海戦】 水軍統制使に復帰した李舜臣が、わずか13隻の船で潮流を利用し、300隻以上の日本水軍を奇跡的に撃破。日本側の将・来島通総が戦死 1 。 |
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10月 |
日本軍は補給路の危機に直面し、南岸部へ戦線を縮小。越冬に備え、蔚山、順天、梁山などに倭城の普請を開始する 1 。 |
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秀家、南岸部へ後退し、順天倭城の築城などを指揮 9 。 |
(年内) |
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【岡山城天守、完成】 8年にわたる大事業が結実し、漆黒の天守が威容を現す 4 。 |
12月 |
【第一次蔚山城の戦い】 普請中の蔚山倭城を、楊鎬・権慄率いる約5万6千の明・朝鮮連合軍が包囲。加藤清正率いる約1万の兵が籠城し、壮絶な兵糧攻めに苦しむ 1 。 |
明の交渉担当者であった沈惟敬が、欺瞞の罪で処刑される 1 。 |
国許では天守が完成し、宇喜多家の権威は頂点に達する。 |
この年表が示すように、宇喜多秀家が南原城で凄惨な殺戮を伴う激戦を指揮していた頃、彼の本拠地・岡山では壮麗な天守の完成が間近に迫っていた。この戦役は、文禄の役以上に戦略目標が曖昧であり、戦果をめぐる武断派(加藤清正ら)と、兵站や交渉を重視する文治派(小西行長、石田三成ら)の対立を決定的に深めた 8 。莫大な戦費と人的損耗は、特に動員の中心となった西国大名を疲弊させ、豊臣政権への求心力を著しく低下させた。慶長二年の朝鮮半島での戦火は、単なる対外戦争に留まらず、豊臣政権という巨大な構造物が内部から崩壊していく過程を加速させる、強力な触媒として機能したのである。岡山城天守の完成は、まさにこの崩壊への序曲が奏でられる中で迎えた、束の間の栄光の瞬間であった。
第二部:烏城の主、宇喜多秀家 ― 栄光と責務
岡山城という巨大なモニュメントを理解するためには、その築城主である宇喜多秀家という人物の特異な生涯と、豊臣政権下における彼の立場を深く知る必要がある。彼は、戦国末期に彗星の如く現れた貴公子であり、その栄光と権力は、岡山城の威容と分かちがたく結びついていた。
第一章:豊臣家の貴公子
宇喜多秀家は、元亀三年(1572年)、備前の梟雄・宇喜多直家の嫡男として生を受けた 13 。父・直家は、一代で備前・美作二カ国を支配する大大名に成り上がった、下剋上を体現する人物であった 14 。しかし、天正九年(1581年)に直家が病没すると、わずか10歳で家督を継いだ秀家の前途は多難に見えた 9 。
この幼き当主の運命を劇的に変えたのが、羽柴(豊臣)秀吉との出会いであった。当時、織田信長の命を受けて中国地方の毛利氏と対峙していた秀吉は、直家の死後、宇喜多家を自身の勢力下に組み込み、秀家を強力に後見した 15 。本能寺の変の後、急速に天下人への道を駆け上がった秀吉は、秀家を実の子のように寵愛した。秀吉の養女(前田利家の娘)・豪姫を正室に迎えさせ、自身の「秀」の字を与えて「秀家」と名乗らせた 15 。これにより秀家は、秀吉の「養女婿」として豊臣一門に準ずる破格の待遇を受けることになったのである 6 。
秀家の栄達は目覚ましく、紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐と、秀吉の主要な合戦にことごとく従軍し、若年ながらも軍功を重ねた 13 。その結果、彼の所領は備前・美作に加え、備中半国、播磨の一部にまで及び、その石高は57万4千石(一説には47万4千石)に達した 9 。そして、秀吉の晩年には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といった歴戦の宿将たちと並び、豊臣政権の最高意思決定機関である「五大老」の一員に、20代半ばという異例の若さで任命された 6 。秀家は、名実共に関白・豊臣秀吉の庇護の下で、戦国末期における最も輝かしい出世街道を突き進んだ貴公子であった。
第二章:備前宰相、再び海を渡る
秀家の豊臣政権における役割は、国内での栄達に留まらなかった。文禄の役において、彼はわずか21歳で日本軍全体の総司令官(元帥)に任ぜられている 7 。これは、彼の軍事的能力以上に、秀吉との血縁に近い関係性が重視された結果であった。実際の作戦指導は石田三成ら奉行衆が担ったものの、秀家は総大将として漢城(現ソウル)に駐屯し、兵站線の確保などの重責を果たした 7 。
そして慶長二年(1597年)、再び戦端が開かれると、秀家は毛利秀元と共に再び海を渡り、日本軍の中核を担った 10 。この慶長の役において、秀家は左軍の総大将として進軍し、8月には南原城の攻略で中心的な役割を果たした 1 。この戦いは凄惨を極め、城兵のみならず多くの民衆が犠牲となった記録が残されている 1 。その後、日本軍が戦線を南岸部へ縮小する方針を採ると、秀家は他の諸将と共に順天倭城の築城を指揮するなど、異郷の地で過酷な任務に従事し続けた 9 。
しかし、秀家のこの輝かしい経歴と権力の源泉は、その大部分を秀吉個人の寵愛と後見に依存していた。彼の五大老就任や57万石という破格の所領は、彼自身の政治的実績や軍功のみによって得られたものではなく、「秀吉の身内」という立場が極めて大きく作用していた 6 。このことは、他の歴戦の大名たちからの嫉妬を招きやすく、また、父・直家の代から仕える譜代の家臣たちとの間に、微妙な軋轢を生む素地ともなっていた。後に宇喜多家を崩壊へと導く「宇喜多騒動」は、秀吉という絶対的な後ろ盾を失った時、この構造的な脆弱性が一気に露呈した結果であった 9 。慶長二年の時点における秀家の栄光は、まさに秀吉の存在そのものと不可分であり、秀吉の死期が迫るにつれて、その足元は静かに、しかし確実に揺らぎ始めていたのである。岡山城の壮麗さは、この本質的に脆い権力基盤を糊塗し、その権威を実体以上に見せかけるための装置という側面をも色濃く帯びていた。
第三部:漆黒の巨城、岡山に立つ ― 築城の全貌
慶長二年に完成した岡山城は、単なる一つの城ではない。それは、戦国乱世の終焉期に現れた、新しい時代の到来を告げる建築思想と、宇喜多秀家という若き大名の野望が結晶化した巨大なモニュメントであった。その計画から完成に至るプロセスと、建築に込められた政治的・軍事的思想を解剖することで、この漆黒の巨城が持つ真の意味が明らかになる。
第一章:父・直家の遺産から秀家の野望へ
岡山城の歴史は、秀家から始まったわけではない。その礎は、父・宇喜多直家によって築かれていた。南北朝時代からこの地には城が存在したと伝えられるが、戦国期に本格的な拠点としたのは直家であった 18 。元亀元年(1570年)、謀略によって金光宗高からこの地を奪った直家は、それまでの居城であった沼城から、当時は「石山」と呼ばれた小高い丘に本拠を移した 18 。
直家は、単に城を改築するだけでなく、極めて先進的な都市計画に着手した。城の北方を走っていた西国街道(山陽道)を城の南側に付け替えて城下に引き込み、人の流れと物流を掌握した 18 。さらに、備前福岡や西大寺といった領内の主要な商業地から商人を積極的に招聘し、城下町の経済的基盤を固めたのである 18 。これは、織田信長が安土城を築城するよりも前のことであり、直家の先見性を示すものであった 18 。
父の死後、家督を継いだ秀家は、この直家の遺産を基盤としながらも、それを遥かに凌駕する壮大な構想を抱いた。天正十八年(1590年)頃、秀家は豊臣秀吉の指導のもと、本丸を従来の「石山」から、その東隣に位置する「岡山」の丘陵へと移し、全く新しい近世城郭としての岡山城の築城を開始した 21 。父が築いた石山城は新たな城郭の一部として取り込まれ、8年にも及ぶ大事業が始まったのである 22 。
第二章:天守に込められた思想と技術
慶長二年に完成した天守は、当時の最先端技術と、豊臣政権の政治的イデオロギーを色濃く反映したものであった。その建築的特徴は、以下の三点に集約される。
第一に、その外観である。壁面には黒漆塗りの下見板が全面に張られ、その漆黒の姿から「烏城(うじょう)」という異名で呼ばれるようになった 3 。この黒を基調とするデザインは、豊臣秀吉が築いた大坂城天守に範をとったものであり、豊臣系城郭の象徴的なスタイルであった 24 。白漆喰を基調とする姫路城(白鷺城)との対比は、豊臣政権とそれに続く徳川政権の建築美学の違いをも示唆している 25 。
第二に、権威の象徴としての装飾である。屋根には金箔を施した瓦が葺かれていたとされ、発掘調査でもその破片が発見されている 24 。これにより、岡山城は「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれた 18 。黒い壁に金の装飾という組み合わせは、まさに秀吉の聚楽第や大坂城に通じる、見る者を圧倒する豊臣政権の権威の表現であった。
第三に、全国的に見ても極めて稀な、不等辺五角形の天守台である 4 。天守の初層平面もこの五角形の天守台に沿って建てられ、上層階に行くにつれて徐々に正方形に近づくという、複雑な構造を持っていた 24 。この特異な形状は、元々あった「岡山」の丘陵の地形に沿って、未発達な技術で石垣を築いたためと一般的に説明されている 27 。しかし、これは単なる技術的制約の結果と見るだけでは不十分である。築城初期段階では、父の代から続く地形に依存した旧来の縄張り思想が用いられたが、その上に載る天守本体は、信長の安土城や秀吉の大坂城を範とした最新の望楼型であった 4 。結果として、旧来の縄張り思想に基づく五角形の土台の上に、最新の設計思想を持つ天守が載るという、一種の「ハイブリッド構造」が生まれた。これは、秀家が父・直家の遺産を受け継ぎつつ、そこに秀吉から学んだ最新の城郭思想を融合させようとした、彼の政治的立場そのものを象徴しているとも解釈できる。この構造は、まさに日本の城郭建築が中世から近世へと移行する、過渡期の姿を今に伝える貴重な証左なのである。
第三章:大地を創る ― 旭川改修と城下町建設
宇喜多秀家による岡山城築城は、単に天守や石垣を建設するに留まらなかった。それは、自然の地形を大胆に造り変え、新たな都市を創造する、巨大な土木事業・都市開発事業であった。
その最大の事業が、旭川の流路変更である。当時、岡山平野を流れる旭川は複数の派川に分かれていた 19 。秀家は、城の東側を流れる川筋を本流とし、他の流れを堰き止めることで、川の流れを一本化した 19 。これにより、雄大な旭川の流れを城の北から東を巡る天然の外堀として利用することに成功したのである 5 。この大事業は、城の防御力を飛躍的に高めると同時に、城下町を洪水から守るという治水上の目的も兼ね備えていた 30 。しかし、この不自然な流路は後世に度々水害の原因ともなり、江戸時代には放水路「百間川」が建設される契機となった 30 。
さらに秀家は、父・直家が着手した城下町の整備を一層推し進めた。城の南側を通っていた西国街道を、さらに城下町の中心部を貫通するルートへと変更し、経済活動の活性化を図った 19 。領内の商人や職人を城下に集住させ、政治・経済・文化の中心地としての岡山の礎を築いたのである 25 。こうして、天守の完成と時を同じくして、岡山城とその城下町は、西国における豊臣政権の威光を示す、一大拠点として完成した。秀家が創造したのは、単なる城ではなく、その後の岡山の街の発展の原点となる、生命力あふれる都市そのものであった。
第四部:城主不在の普請 ― 激戦の裏側で
慶長二年に岡山城天守が完成した時、城主・宇喜多秀家はその場にいなかった。彼は海の向こう、朝鮮半島で日本軍の総大将として死闘を繰り広げていた。主君が国家の命運を賭けた戦争の最前線にいるという異常事態の中で、国許・岡山では誰が、そしてどのようにしてこの前代未聞の巨大普請を推進したのか。その実行体制と、それを支え、同時に蝕んでいった財政的背景に迫る。
第一章:国許を預かる者たち
秀家は朝鮮出兵中も、戦地から指示を出し、岡山の城下町づくりに深く関与していたと伝えられている 32 。しかし、日々の細かな差配や現場の指揮は、国許に残った家臣団に委ねられていた。その中心的な役割を担ったと考えられるのが、秀家の側近として頭角を現していた新進の官僚派家臣たちである。
その筆頭格が、長船紀伊守綱直であった 33 。彼は文禄三年(1594年)、秀家が分担した伏見城の普請において奉行を務めた際、その卓越した能力を豊臣秀吉本人に認められた 33 。秀吉の推挙により、宇喜多家の国政を司る「仕置家老(執政)」に抜擢された綱直は、同じく秀家の側近であった中村次郎兵衛らと共に、領国経営の刷新に取り組んだ 33 。彼らが伏見城という豊臣政権中枢の巨大普請で得た経験と知識は、岡山城の築城においても遺憾なく発揮されたと推測される。岡山城の先進的な設計や壮麗な意匠には、彼らのようなテクノクラート(技術官僚)の存在が不可欠であった。
しかし、彼らの台頭は、宇喜多家の内部に深刻な亀裂を生じさせる原因ともなった。秀家が寵用する長船綱直、中村次郎兵衛、そして浮田太郎右衛門といった側近たちは、いずれもキリシタンであった 34 。彼らが主導する新しい領国経営や財政改革は、旧来のやり方に固執し、かつ熱心な日蓮宗徒であった戸川達安や岡貞綱といった、父・直家の代からの譜代の武功派重臣たちとの間に、抜き差しならない対立を生んだのである 33 。
第二章:戦費と築城費の狭間で
宇喜多家が直面していた問題は、家臣団の対立だけではなかった。より深刻だったのは、破綻寸前の財政状況である。文禄・慶長の二度にわたる朝鮮出兵は、宇喜多家にとって莫大な軍役負担を強いるものであった。総大将という立場上、他の大名以上の兵員と物資を動員する必要があった。それに加え、豊臣政権の中枢にいる五大老としての交際費や、8年にも及ぶ岡山城の築城費用が、財政に重くのしかかった 35 。
この財政危機を乗り切るため、長船綱直ら改革派は、領内において厳格な検地(太閤検地に準ずるもの)を実施し、年貢徴収の強化を図った 17 。しかし、この増税策は、領民や国人層の不満を高めるだけでなく、既得権益を脅かされた譜代家臣たちの猛烈な反発を招いた 34 。彼らにとって、新参の側近たちが主君の名を借りて領国を切り盛りし、自分たちの所領や影響力を削いでいくことは、到底容認できるものではなかった。
こうして、岡山城天守の完成という華々しい成果の裏側では、財政難と、それに起因する家臣団の分裂が、まるで時限爆弾のように進行していた。秀家は、若さゆえか、あるいは秀吉への忠勤に忙殺されるあまり、この深刻な内部対立を十分に調停することができなかった。彼の権力基盤が秀吉個人の後見に大きく依存していたことも、譜代家臣たちを完全に掌握する上での弱点となった。
したがって、慶長二年(1597年)の天守完成は、宇喜多家の栄光が頂点に達した瞬間であると同時に、その権力を支えるべき家臣団組織が内部から崩壊し始めていた、極めて危険な瞬間でもあった。この内部矛盾こそが、絶対的な庇護者であった秀吉の死後、わずか3年で宇喜多家を滅亡へと導く、直接的な原因となるのである。漆黒の天守の礎には、すでに崩壊の亀裂が深く刻み込まれていた。
第五部:慶長二年の到達点 ― 烏城、完成す
幾多の困難と内部の軋轢を乗り越え、慶長二年、岡山城天守はついに完成した。それは戦国乱世の終焉を飾るにふさわしい、壮麗な巨城であった。しかし、その栄華はあまりにも短く、城主・宇喜多秀家と、彼が忠誠を誓った豊臣家の運命と共に、激動の渦に飲み込まれていくことになる。
第一章:威容を現した天守
慶長二年(1597年)、8年の歳月を経て完成した岡山城は、西国における豊臣政権の権威を象徴するに足る威容を誇っていた 11 。旭川の清流を天然の堀とし、高く積み上げられた石垣の上に、漆黒の下見板で覆われた三層六階の天守が聳え立つ 4 。屋根には金箔瓦が輝き、見る者を圧倒したことであろう 24 。その姿は、まさしく豊臣秀吉の大坂城の威光を、備前の地に再現したものであった。
不等辺五角形という特異な天守台の上に立つその姿は、見る角度によって様々な表情を見せ、単調ではない力強さと風格を備えていた 37 。城と一体で整備された城下町には、西国街道が引き込まれ、多くの商人が行き交い、活気に満ち溢れていた 19 。この時、岡山城は軍事拠点としてだけでなく、政治・経済の中心地としても、その機能を完成させたのである 25 。遠く朝鮮の地で戦う城主・宇喜多秀家にとって、国許におけるこの天守の完成は、自らの権勢と豊臣家への忠義の証として、何よりの誇りであったに違いない。
第二章:束の間の栄華、そして関ヶ原へ
しかし、この栄光の時は、あまりにも短かった。天守完成の翌年、慶長三年(1598年)8月、宇喜多秀家の絶対的な庇護者であった豊臣秀吉が、伏見城でその波乱の生涯を閉じた 2 。巨星の墜落は、豊臣政権のタガを外し、天下の情勢を急速に不安定化させた 2 。
秀吉という重しがなくなったことで、宇喜多家が内包していた矛盾が一気に噴出する。慶長四年(1599年)、戸川達安ら譜代の重臣たちが、秀家の側近である中村次郎兵衛らの排除を求めて大坂の宇喜多屋敷を占拠するという、世に言う「宇喜多騒動」が勃発した 9 。このお家騒動は、五大老筆頭であった徳川家康の介入を招き、結果として戸川達安ら多くの有力家臣が宇喜多家を去るという、最悪の結末を迎えた 17 。宇喜多家は、来るべき天下分け目の決戦を前に、自らの手でその軍事力を大きく削いでしまったのである。
そして慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが勃発する。秀吉への恩義を貫いた秀家は、石田三成に応じ、西軍の副大将格として1万7千の大軍を率いて参戦した 6 。宇喜多勢は東軍の福島正則隊と激しく衝突し、関ヶ原で最も熾烈な戦いを繰り広げたと伝えられるほどの奮戦を見せた 9 。しかし、味方であるはずの小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなり、秀家もまた敗走を余儀なくされた 21 。
戦後、薩摩の島津家にかくまわれていた秀家であったが、やがて徳川方に引き渡される 9 。島津家や、妻・豪姫の実家である前田家の助命嘆願により死罪は免れたものの、慶長十一年(1606年)、遠く伊豆諸島の八丈島へと流罪に処された 9 。彼はその後、赦されることなく、明暦元年(1655年)に84歳で没するまで、半世紀近くを流人として過ごした 39 。
主を失った岡山城には、関ヶ原での裏切りの功により、小早川秀秋が51万石で入封した 21 。宇喜多氏による岡山支配は、天守完成からわずか3年にして、その幕を閉じたのである。岡山城の築城は、秀吉の天下統一が完成した1590年に始まり、秀吉の死の直前である1597年に完成した。その設計思想も、城主・秀家の栄達も、すべては豊臣政権と共にある「運命共同体」であった。関ヶ原の戦いを経て、城主が豊臣恩顧の宇喜多氏から徳川方の小早川氏(後に池田氏)へと代わったことは、この城の持つ政治的意味が「豊臣の城」から「徳川体制下の城」へと完全に転換したことを象徴する出来事であった。1597年の天守完成は、豊臣の時代の最後の輝きであり、その後の城の歴史は、そのまま戦国時代の終わりと江戸時代の始まりを物語っている。
終章:歴史の証人として
慶長二年(1597年)の岡山城天守完成は、単なる建築史上の一コマではない。それは、戦国という長く続いた乱世が終焉を迎え、近世という新たな社会秩序が形成される、巨大な歴史のうねりの只中で起きた象徴的な出来事であった。
海の向こうでは、国家の威信を賭けた凄惨な戦いが繰り広げられ、国内では、絶対的権力者・豊臣秀吉の死期が迫り、次なる天下の覇権をめぐる緊張が静かに高まっていた。このような破壊と再編のエネルギーが渦巻く時代にあって、岡山城は、一つの時代の到達点として、そして来るべき時代の序章として、その漆黒の威容を現した。
城主・宇喜多秀家は、豊臣秀吉という太陽の光を一身に浴びて、若くして栄光の頂点に立った。彼が築いた岡山城は、その若き貴公子の野心と、豊臣家への揺るぎない忠誠心、そして57万石の大名の財力が結集した夢の結晶であった。しかし、その壮麗な城は、同時に、戦費と普請費の重圧に喘ぐ領国の疲弊や、深刻化する家臣団の対立といった、宇喜多家が内包する構造的脆弱性を覆い隠すための、華麗な帳でもあった。
天守完成からわずか3年で、城主はすべてを失い、遠い絶海の孤島へと流された。城は新たな主を迎え、徳川の治世下で新たな歴史を刻み始める。宇喜多秀家が遺した漆黒の巨城は、豊臣政権と共に生まれ、豊臣政権と共にその最初の役割を終えた。それは、一個人の栄光と悲劇を超えて、戦国末期の希望と矛盾、そして時代の非情な転換を、今に伝える歴史の証人として、静かに聳え立っているのである。
引用文献
- 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1597/
- 慶長の役/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7048/
- 岡山城 - 岡山県 https://okayama.mytabi.net/okayama-castle.php
- 岡山城(烏城) - 岡山観光WEB https://www.okayama-kanko.jp/fc/location/12905
- 岡山城(烏城) | 観光スポット | 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net https://okayama-kanko.net/sightseeing/spot/38/
- 宇喜多秀家は何をした人?「イケメン若大将は関ヶ原で負けて八丈島に流罪となった」ハナシ https://busho.fun/person/hideie-ukita
- 宇喜多秀家中編[文禄・慶長の役] - 備後 歴史 雑学 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page025.html
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