平塚宿整備(1601)
徳川家康は天下統一の一環として東海道整備に着手。1601年、戦略的要衝の平塚に宿場を設置し、人馬継立や継飛脚を担う伝馬制度を確立した。
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戦国終焉の帰結点:慶長六年の平塚宿整備に見る徳川の天下布武
序章:慶長六年、関ヶ原の残響
慶長六年(1601年)。この年は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた直後の、静かながらも決定的な重要性を持つ時間軸に位置する。前年の慶長五年(1600年)秋、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、徳川家康の覇権を決定づけた。しかし、戦場での勝利は、そのまま恒久的な支配体制を意味しない。むしろ、ここからが家康にとって真の「天下布武」―すなわち、武力によって得た権力を、揺るぎない統治システムへと昇華させるための、壮大な国家建設事業の始まりであった。
この国家的課題に対し、家康が戦後処理と並行して、驚くべき迅速さで着手したのが、全国規模での道路制度改革である 1 。慶長六年正月、家康は東海道の各宿に対し伝馬の常備を義務付ける朱印状を発し、街道整備を本格化させた。これは単なる戦後復興やインフラ整備という次元の事業ではない。江戸を基点として全国の主要都市を結ぶ五街道構想の一環であり、謀反を起こした大名へ討伐軍を迅速に派遣するための軍用道路の確保 2 、そして幕府の政策に権威付けを与える朝廷との連携を円滑にするための政治的動脈の確保 3 という、明確な戦略的意図に基づいていた 4 。
本報告書が主題とする「平塚宿整備」は、この壮大な構想の中で、極めて象徴的な意味を持つ。それは、物理的な「道」と「宿場」の建設であると同時に、戦国時代を通じて分断され、各々の領主の論理で閉ざされていた空間を、江戸を中心とする統一された国家的空間へと再編成する、思想的・イデオロギー的な事業の具体的な現れであった。平塚に打たれた一本の杭は、戦国という分権体制の時代の終焉を告げ、新たな中央集権体制の礎を築くための標石であった。本報告は、この慶長六年の平塚宿整備という一事象を、「戦国時代」という視点から深く掘り下げ、それが如何にして戦国の世の帰結点となり、新たな時代の出発点となったのかを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一章:宿駅成立以前の「平塚」― 後北条氏支配下の相模国
慶長六年(1601年)の徳川幕府による指定をもって、近世の「平塚宿」が誕生したという見方は、歴史の一側面に過ぎない。この土地が全くの白紙状態から選ばれたわけではなく、そこには重層的な歴史の堆積が存在した。特に、徳川による再編の「前史」として、約百年にわたり関東に君臨した戦国大名・後北条氏の支配下で、この地域が果たしていた役割を理解することは不可欠である。
「平塚」という地名は古く、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にその名が見える 5 。さらに時代は下り、正和五年(1316年)の書状には「平塚宿」との記述が確認されており、鎌倉時代には既に交通の結節点、すなわち宿駅としての機能を有していたことが窺える 6 。これは、徳川家康が全くの無から宿を創造したのではなく、既存の歴史的基盤の上に、新たな国家構想を上書きする形で整備を進めたことを示唆している。
戦国時代、相模国は後北条氏の本拠地であり、平塚周辺地域もその強固な支配体制下に組み込まれていた。小田原城を中核とする「本城支城体制」が関東一円に張り巡らされ、各地域の城が防衛ネットワークを形成していた 7 。平塚にも、室町時代に大森氏が拠点とした平塚城が存在した記録があり、この地が軍事的な要衝の一つと見なされていたことがわかる 6 。当時の街道は、後北条氏の領国経営を支えるためのものであり、その主目的は軍事物資の輸送や、城と城とを結ぶ伝令の迅速な往来にあった。
とりわけ、平塚の東を流れる相模川(下流域は馬入川とも呼ばれる)は、後北条氏の防衛戦略において決定的に重要な役割を果たしていた。戦国期において、大河は敵の進軍を阻む天然の要害であり、防衛線であった 8 。北条氏政が豊臣軍の侵攻を前に、利根川が増水していることを頼みとしたように、河川は渡河を困難にさせることで自領を守るための最大の味方となり得た 9 。そのため、戦略的な理由から大規模な架橋は意図的に避けられ、渡河地点は「渡し場」に限定され、厳しく管理されていたのである 10 。
ここに、後北条氏の交通システムと、後に徳川が構築するそれとの本質的な差異が浮かび上がる。後北条氏にとって、道や川は領国を防衛し、内部を効率的に結ぶための「閉鎖的」なシステムであった。彼らは検地や税制改革によって合理的で強固な領国支配を確立しており 12 、その伝馬制度もまた、この閉じた領国内で完結するものであった。対照的に、徳川が目指したのは、江戸を中心に全国を結び、人・物・情報を円滑に流通させるための「開放的」なシステムであった。しかし、その開放性は、幕府が交通のあらゆる側面を完全に掌握し、管理することを前提とした「管理下の開放性」であった。後北条氏の閉鎖的な防衛思想と、徳川の開放的な支配思想。この二つの思想が交錯し、せめぎ合う舞台として、平塚とその周辺地域は、新たな時代の到来を待っていたのである。
表1:戦国期(後北条氏)と近世(徳川幕府)における交通・伝馬制度の比較
比較項目 |
後北条氏の伝馬制度(推定) |
徳川幕府の宿駅伝馬制度 |
目的 |
領国経営、軍事行動の円滑化 |
全国支配、軍事・政治・経済の掌握 |
範囲 |
関東一円の領国内に限定 |
全国(五街道・脇往還) |
管理主体 |
小田原の北条宗家 |
江戸の幕府(道中奉行) |
統一性 |
領国内での統一基準 |
全国的な統一基準(御伝馬之定) |
性格 |
閉鎖的・内向的 |
開放的(管理的)・外向的 |
河川政策 |
防衛線として厳格に管理(架橋せず) |
防衛思想を維持しつつ公的な渡しとして制度化 |
第二章:天正十八年の激震 ― 小田原征伐と徳川の関東入府
平塚宿整備という、近世の幕開けを象徴する事業の直接的な契機は、慶長六年から遡ること十一年、天正十八年(1590年)の歴史的転換に求められる。この年、豊臣秀吉による小田原征伐は、単に一つの戦国大名家を滅ぼしただけでなく、関東地方の統治構造そのものを根底から覆し、徳川家康による新たな秩序構築のための「更地」を創出したのである。
天正十八年、秀吉が率いる圧倒的な大軍の前に、約百年にわたり関東に覇を唱えた後北条氏は降伏し、その支配は終焉を迎えた 7 。戦後、秀吉は「関東仕置」と呼ばれる大規模な領地再編を行う。その最大の眼目が、徳川家康を長年本拠地としてきた三河・遠江・駿河から、北条氏の旧領である関東八州へと転封(国替え)させることであった 15 。これは、強大な力を持つ家康を豊臣政権の中心地である上方から遠ざけ、江戸に封じ込めようとする秀吉の深謀遠慮であった。しかし、この一見すると冷遇とも思える処遇が、皮肉にも家康に、誰の干渉も受けずに広大な関東一円を自らの理想とする国家の実験場として再開発する、千載一遇の機会を与えることになった。
関東に入府した家康は、直ちに旧北条領の統治基盤を解体し、徳川による新たな支配体制を構築するための作業に着手した。その第一歩が、領内全域で実施された総検地である 17 。この検地は、単に村々の石高(米の生産力)を測り、年貢徴収の基礎を固めるという財政的な目的だけに留まらなかった。それは、領内の土地の広さ、質、村の人口、地理的特徴、資源、生産力といったあらゆる情報を網羅的に収集し、土地と人民を直接的に把握するための、大規模な情報収集活動であった。後北条氏が築いた既存の支配秩序は一旦リセットされ、全ての土地と村が、徳川の物差しによって再定義されたのである。
この困難な事業を実務レベルで支え、家康の構想を現実のものとしたのが、伊奈忠次や大久保長安に代表される「代官頭」と呼ばれるテクノクラート(技術官僚)集団であった 18 。彼らは後世の代官とは異なり、担当地域の開発、支配、街道整備、産業振興など、徳川家の権力と財務の基盤を築くために全権を与えられた万能の行政官であった 19 。伊奈忠次は検地や治水事業、新田開発を精力的に推し進め 21 、徳川の関東支配の屋台骨を築き上げた。慶長六年の東海道整備において、彼が中心的な役割を担ったことは、決して偶然ではない 24 。
天正十八年(1590年)から慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに至るまでの約十年間は、家康にとって雌伏の時であると同時に、来るべき天下獲りのための地盤を固める「関東経営の時代」であった。この期間に、検地による領内把握、治水や新田開発による経済基盤の強化、そして代官頭を中心とする効率的な行政システムの構築が着々と進められた。慶長六年の平塚宿整備を含む東海道整備は、突発的に始まった事業ではなく、この十年間にわたる緻密な関東経営戦略の集大成であり、軍事征服後の「統治」という、より困難な課題に対する徳川家康の明確な回答だったのである。
第三章:家康の個人的関与 ― 中原御殿の造営と戦略的意図
慶長六年の平塚宿の選定と整備が、単なる机上の計画ではなく、徳川家康自身の深い地理的知見と個人的な戦略的意図に根差していたことを示す、極めて重要な物証が存在する。それが、宿駅制度が制定される五年も前の慶長元年(1596年)に、平塚の地に造営された「中原御殿」である。
公式な記録によれば、中原御殿は、家康が江戸と、隠居城としていた駿府との間を往復する際や、趣味であった鷹狩を行う際の宿舎として建てられた別荘であった 25 。この御殿は、江戸城の虎ノ門を起点とし、平塚の中原地域を結ぶ「中原往還(現在の中原街道)」沿いに位置していた 28 。家康は相模川を「四之宮の渡し」で渡り、この中原往還を頻繁に利用していたことが記録からわかる 27 。
戦国武将にとって、鷹狩りは単なる遊興ではなかった。それは、広大な領内の地理・地形を自らの足で巡り、その土地の戦略的価値を肌で感じ取るための、軍事演習と実地調査を兼ねた重要な統治行為であった。家康は鷹狩りを名目として、関東平野の要衝をくまなく視察し、その地理を完全に掌握していたと考えられる。中原御殿の造営は、彼が数ある場所の中から、この平塚周辺地域を戦略的に重要な結節点として「マーキング」していたことの証左に他ならない。
注目すべきは、この御殿が造営された慶長元年(1596年)という時期である。この時点では、まだ豊臣秀吉は健在であり、家康は豊臣政権下の一大名という立場であった。そのような政治的に微妙な時期に、自身の本拠地である江戸と、西国(上方)への玄関口である駿府を結ぶルート上に、私的な大規模拠点を設けるという行為は、将来起こりうる東西対決を明確に見据えた、極めて戦略的な布石であった可能性が高い。
さらに、慶長六年(1601年)、東海道整備と時を同じくして、家康は代官の伊奈忠次に命じ、東海道の往来から中原御殿の内部が見通せないように、松並木による「中原御林」を造成させている 30 。これは、御殿の防衛能力と秘匿性を高めるための措置であり、この場所が単なる休息地ではなく、軍事的・政治的な機密性を要する重要拠点であったことを物語っている。
以上の事実から、平塚宿の設置は、家康の個人的な戦略構想が、国家的なインフラ計画へと昇華した瞬間であったと結論づけることができる。古代以来の公道である東海道と、家康が来るべき決戦に備えて整備した私的な戦略ルートである中原往還が交差する、まさにその結節点に、新たな宿場が計画的に配置されたのである 28 。平塚宿の誕生は、家康の公私にわたる深謀遠慮が、現実の都市計画として結実したものであった。
第四章:天下統一のインフラ戦略 ― 宿駅伝馬制度のグランドデザイン
平塚宿という一個の宿場の整備は、それ自体が目的ではなく、徳川幕府が天下統一を盤石にするために構想した、より巨大な国家システムの一部であった。そのシステムこそが「宿駅伝馬制度」である。この制度は、戦国時代の脆弱で分断された交通・通信システムを根本から刷新し、徳川による中央集権体制の神経網として、その後二百数十年にわたる泰平の世の根幹を支えることになる。
その始動は、関ヶ原の戦いの熱気も冷めやらぬ慶長六年(1601年)正月であった。幕府は、東海道筋に位置する各宿に対し、徳川家康自身の権威を示す「伝馬朱印状」と、腹心の代官頭である伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の三名が連署した「御伝馬之定」という具体的な規則集を交付した 24 。この二つの文書をもって、近世の東海道、そして宿駅伝馬制度が公式に成立したとされる。
「御伝馬之定」には、制度を運用するための詳細な規定が盛り込まれていた。各宿場が常に準備しておかなければならない人馬の数(当初は伝馬三十六疋) 31 、公用の荷物を次の宿場まで責任を持って継ぎ送る「継立」の義務、そして隣接する宿場の指定など、極めて具体的かつ実践的な内容であった。
この制度が担った主要な機能は、大きく三つに分類できる 32 。
第一に、「人馬継立」。これは、幕府の公用、あるいは大名の参勤交代など、朱印状や証文を持つ者の荷物や乗り物を、無償で、かつ最優先で次の宿場まで運ぶという、物流・交通の中核をなす機能である。
第二に、「継飛脚」。幕府の公文書や緊急の指令を、宿場ごとに人馬を乗り継ぐリレー方式で、驚異的な速度で伝達する通信機能である。江戸・京都間(約492km)を、通常徒歩で二週間かかるところを、わずか三日から四日で結んだとされ、これは幕府が全国の情報を瞬時に把握し、指令を伝達するための生命線であった 32。
第三に、「宿泊の提供」。大名や公家、幕府の役人といった身分の高い者が宿泊するための「本陣」や「脇本陣」を整備し、彼らの往来を支える機能である。
これらの重い義務を宿場町だけで担うことは、現実的に不可能であった。そのため、後に宿場の周辺に位置する村々が、人馬を提供する「助郷」という役務を課されることになる 33 。この助郷制度は、宿場町の機能を維持する上で不可欠であったが、一方で農村にとっては耕作に支障をきたすほどの大きな負担となり、近世を通じて社会問題化していく。
これらの複雑な制度全体を統括管理したのが、幕府の「道中奉行」であった 35 。道中奉行は、全国の街道と宿場を統一された基準で管理し、システムの円滑な運用に責任を負った。
宿駅伝馬制度は、単なる物流・交通システムではなかった。それは、幕府による「情報」と「時間」の独占的管理を可能にする、高度な統治ツールであった。戦国時代、情報の伝達速度は合戦の勝敗を左右する決定的な要因であった。徳川家康は、この戦場で得た教訓を平時の統治に応用し、情報の速度を制度化することで、地方で不穏な動きがあっても、江戸が常に情報戦において圧倒的優位に立つことを可能にした。朱印状一つで全国の宿場が動き、幕府の指令が飛脚によって瞬時に伝わる。このシステム自体が、徳川の権威が日本の隅々にまで及んでいることを日々可視化する、巨大な装置として機能したのである。平塚宿の整備とは、この壮大な情報・物流・権威のネットワークに、新たな「中継拠点」を一つ、戦略的に設置する行為に他ならなかった。
第五章:慶長六年の平塚 ― 宿駅誕生のリアルタイム・クロニクル
慶長六年(1601年)、徳川による天下統一のグランドデザインは、相模国平塚の地で具体的な形を取り始めた。壮大な国家計画が、一つの地域でどのように実行されていったのか。史料から推測される当時の状況を時系列に沿って再構築し、宿駅誕生のリアルタイムな様相を描写する。
初頭(1月~3月):計画と通達
慶長六年正月、江戸城において発令された「御伝馬之定」は、直ちに関東郡代・伊奈忠次の指揮下にある役人たちを通じて、東海道筋の村々へと伝達された 20 。平塚周辺の村々にとっても、それは新たな時代の到来を告げる、まさに青天の霹靂であっただろう。計画の骨子は、鎌倉時代以来の歴史を持つ既存の集落を核としながらも 6 、それを徳川の規格に合うように再編することにあった。道幅は七間(約11メートル)程度に拡幅され、宿場の範囲、そして中核施設である問屋場や本陣の配置などが、家康自身の戦略的意図(特に中原御殿への動線)も加味された上で、最終決定された 28 。
春~夏(4月~8月):建設と編成
雪解けと共に、実際の建設工事が始まった。まず、街道の拡幅が行われ、路面には砂利や砂が敷き詰められて固められた 1 。これは、雨天時でも人馬の通行を容易にするための措置である。次に、宿場の範囲を物理的に画定するため、その東西の出入り口に「見附」と呼ばれる土塁が築かれた 37 。東側の江戸方面からの入り口が「江戸口見附」、西側の京方面への出口が「京方見附(上方見附)」である 38 。この二つの見附に挟まれた空間が、公式な「平塚宿」となった。
並行して、宿駅機能の心臓部となる「問屋場」の建設が、西仲町に進められた 37 。問屋場は、人馬の割り振りや公用荷物の受付、飛脚の中継など、伝馬制度の全てを差配する指令センターである。同時に、周辺の村々から、伝馬役を担う人足と馬の員数が査定され、名簿への登録が行われた。彼らにとって、これまで経験したことのない「公役」という新たな負担が、現実のものとして重くのしかかり始めた瞬間であった。
秋~冬(9月~12月):機能開始
秋には、主要な施設が完成し、平塚宿は東海道の公式な宿駅として、その機能を本格的に開始した。最初の公用荷物が問屋場に持ち込まれ、割り当てられた人馬によって大磯宿へと継ぎ立てられていく。江戸からの指令を携えた最初の継飛脚が、土煙を上げて駆け抜けていったであろう。
このとき、もう一つの重要な措置が、宿場のすぐ東を流れる相模川(馬入川)で講じられた。川には、戦国時代と同様に橋は架けられなかった。代わりに、渡河は幕府が厳格に管理する「馬入の渡し」に限定された 39 。馬入村には川の管理を司る「川会所」が設置され、常備すべき渡船の数(馬も乗せられる馬船と人専用の歩行船)、武士と庶民で異なる渡船料、そして増水時に渡河を禁止する「川留め」の厳格な基準などが定められた 39 。
この、相模川に橋を架けなかったという決定は、慶長六年という時点における徳川政権の本質を最も象徴的に示している。家康は、駿河国の富士川に舟橋を架けるほどの土木技術と動員力を持っていた 23 。相模川に橋を架けることが技術的に不可能だったわけではない。架橋しない理由は、明確に軍事的・政治的なものであった。万が一、西国で反乱が起きた場合、橋は反乱軍が江戸へ迅速に進軍することを助けてしまう。渡河地点を渡し場に限定することで、人の流れを完全に監視・統制下に置き、一種の検問所として機能させることができる 11 。これは、後の箱根関所における「入鉄炮に出女」の監視に代表される、厳格な交通管理思想の原点である。
すなわち、平塚宿の整備は、交通の円滑化という「アクセル」と、渡し場による交通の制限という「ブレーキ」を同時に実装する、二律背反的な事業であった。このアクセルとブレーキの巧みな使い分けこそが、徳川による長期安定支配の根幹をなす統治技術であり、その思想的プロトタイプが、慶長六年の平塚の地に見て取れるのである。それは、「戦国時代の記憶」と「新たな支配への不安」が色濃く反映された、「平和のための軍事的措置」であった。
第六章:平塚宿がもたらした変革 ― 戦国から泰平への移行
慶長六年の平塚宿の成立は、単に街道沿いに新たな施設が建設されたという物理的な変化に留まらなかった。それは、この地域に住む人々の経済、社会、そして生活様式そのものを根底から変革し、戦国時代の村落共同体を、近世的な宿場町へと移行させる、不可逆的なダイナミズムを生み出した。
経済的変革:農から商へ
最大の変革は、経済構造の転換であった。宿駅として指定されたことで、平塚は江戸と上方を結ぶ人流・物流の大動脈に組み込まれた。参勤交代の大名行列、幕府の役人、商人、そして伊勢参りなどの庶民に至るまで、日々多くの旅人が往来するようになった。彼らを対象としたビジネスが、新たな経済の柱として急速に成長した。街道沿いには、旅人が宿泊するための旅籠が約50軒も軒を連ね、食事を提供する茶屋や蕎麦屋、酒屋などが次々と開業した 36 。これにより、米の生産と年貢の納入を基本とした閉鎖的な農業経済から、貨幣を介した多様な商業活動が共存する、開放的で複合的な経済構造へと大きく舵を切ったのである。
社会的変革:役務と格差
宿場町の住民は、新たな経済的機会を得る一方で、国家から重い公役を課せられた。それが「伝馬役」である。彼らは、昼夜を問わず、幕府の公用人馬の需要に応えなければならなかった。この重い役務を担う代償として、宿場の住民は家屋敷地にかかる税(地子)を免除されるといった特権を与えられた 32 。しかし、増加し続ける交通量に、宿場町の人馬だけでは到底対応しきれなくなった。その不足を補うために導入されたのが、前述の「助郷制度」である。平塚宿の周辺に位置する村々は助郷に指定され、宿場からの要請に応じて人馬を提供する義務を負わされた 33 。この制度は、宿場町と助郷村との間に新たな経済的・社会的格差を生み出し、両者の間に深刻な緊張関係をもたらす要因となった。
物理的・文化的変革:新たな都市空間とアイデンティティ
宿場の成立は、町の景観を一変させた。自然発生的に形成された戦国時代の村落とは異なり、平塚宿は江戸口見附から京方見附までの東西約1.5キロにわたって、街道の両側に町屋が整然と並ぶ、計画的な直線的都市空間として設計された 36 。しかし、その立地から、江戸や京からの旅人が宿泊する場所としては、小田原や戸塚といった宿場が選ばれることが多く、平塚宿は休憩地として利用される傾向にあった 41 。それでも、絶え間ない人の往来は、江戸や上方の新しい文化や情報を地域にもたらし、住民の生活や意識に大きな影響を与えた。
この変革の過程は、平坦なものではなかった。伝馬継立の負担は地域経済を圧迫し続け、ついに慶安四年(1651年)、宿場の機能を補強するため、隣接する八幡村の一部が「加宿」として平塚宿に加えられ、「平塚新宿」が誕生した 6 。これは、宿駅制度という国家システムが、当初の想定以上に大きな負担を地域社会に強いたことの動かぬ証拠である。
平塚宿の成立は、この地に住む人々のアイデンティティを、特定の領主に属する「村人」から、徳川の「天下」を支える「宿場町の住人」へと変貌させた。彼らの生活は、良くも悪くもローカルな共同体の論理から切り離され、江戸を中心とする全国的なネットワークへと強制的に接続された。戦国的な自律性を持った共同体は解体され、幕藩体制という巨大な国家システムに組み込まれた一つの歯車へと再編成されていった。慶長六年の平塚宿整備は、その最も具体的で象徴的な現れであった。
終章:歴史的意義の再確認
慶長六年(1601年)の平塚宿整備は、単なる年表上の一項目として語られるべき事象ではない。それは、戦国時代という百年にわたる動乱の時代を終わらせ、法と制度による「システムによる支配」という新たな時代を創始するための、具体的かつ象徴的な国家事業であった。
本報告で詳述したように、この一事象は、戦国時代の軍事的・政治的力学の直接的な帰結点に位置づけられる。後北条氏が築いた閉鎖的な領国支配システムを解体し、徳川家康が自身の個人的な戦略構想と、伊奈忠次ら技術官僚の卓越した実行力を融合させ、全く新しい目的を持つ全国規模のネットワークを構築する。その過程は、まさに戦国の世の論理を、近世の論理で上書きしていくプロセスそのものであった。
平塚宿の整備は、家康個人の深謀遠慮、それを具現化するテクノクラート集団の能力、そして名もなき民衆が担った重い負担という、三者の相互作用の上に成り立っていた。相模川にあえて橋を架けず、渡し場による厳格な管理体制を敷いたことに見られるような、戦国的な軍事思想の残存。そして、江戸と京都を迅速に結び、全国の情報を一元的に管理しようとする、極めて近世的な支配構想の共存。この二つの側面が同居している点にこそ、戦国から泰平へと移行する慶長年間という時代の特性が、最も鮮やかに体現されている。
故に、「平塚宿整備(1601)」は、日本の歴史が大きく転換したことを印す、画期的な出来事であったと結論づけられる。それは、戦国の血と汗が染み込んだ大地の上に、徳川家康が「泰平」という新たな時代の設計図を、揺るぎない意志をもって力強く刻み込んだ、歴史の転換点を告げる一里塚なのである。
引用文献
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- 大名行列が通った道 : 五街道と脇往還 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08604/
- 東海道五十七次(3) 江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ? https://arukitabi.biz/blog/20241118a/
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- 後北条氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
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