最終更新日 2025-10-06

庄野宿整備(1601)

庄野宿は、1624年に徳川幕府が東海道の四日市・亀山間の長距離を解消するため新設。伝馬制度の課題を克服し、交通網の効率化と安定化を図る政策の一環。歌川広重の浮世絵「白雨」でも知られる。
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庄野宿整備の歴史的深層:戦国末期から徳川期における国家交通網形成のダイナミズム

序章:問題の提起 ― 「1601年」と「庄野宿」の間に横たわる謎

日本の近世社会の礎を築いた徳川家康が、関ヶ原の戦いの直後である慶長6年(1601年)に東海道の宿駅伝馬制度を制定したことは、歴史上の画期的な出来事として広く知られている 1 。この制度は、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈の機能を飛躍的に高め、徳川幕府による中央集権体制の確立に不可欠な役割を果たした。この文脈において、「庄野宿整備(1601年)」という事象は、この壮大な国家インフラ整備計画の一環として理解されがちである。

しかし、史料を詳細に検討すると、一つの重大な事実に突き当たる。伊勢国に位置する庄野宿が、東海道の正式な宿場として設置されたのは、伝馬制度制定から23年もの歳月が流れた寛永元年(1624年)のことなのである 4 。この年代の齟齬は、単なる記録上の誤りや些末な遅延を意味するものではない。むしろ、それは徳川幕府が描いた壮大な国家インフラ計画という「理想」と、街道の地理的条件や増大する交通量という「現実」との間に存在した乖離、そしてその乖離を埋めるために払われた長い年月にわたる努力の証左に他ならない。

本報告書は、この「空白の23年間」に焦点を当て、庄野宿の設立をめぐる歴史的経緯を徹底的に解明することを目的とする。そのために、まず徳川による統一的交通秩序がもたらされる以前、すなわち戦国時代の伊勢国における交通の実態を明らかにし、比較の基軸を定める。次いで、1601年に徳川家康が打ち出した東海道整備の全体構想とその初期計画が抱えていた課題を分析する。そして、その課題を克服する過程で、石薬師宿(1616年)、さらには庄野宿(1624年)がいかにして誕生したのか、そのダイナミックなプロセスを時系列に沿って詳述する。最終的には、新設された庄野宿の経営実態や文化史的側面にまで光を当てることで、一つの宿場の成立史を通して、戦国という分権の時代から近世という統一の時代へといかに社会が変容していったのか、その多層的な実像を浮き彫りにする。

第一章:前史 ― 戦国期伊勢国の交通と支配構造(~1600年)

徳川幕府による街道整備の画期性を理解するためには、その前史、すなわち戦国時代における交通網の実態を把握することが不可欠である。当時の伊勢国、特に後の庄野宿が位置する鈴鹿郡周辺は、統一的な支配とは程遠い、分権的かつ流動的な状況にあった。

1-1. 群雄割拠の北伊勢と在地勢力

戦国期の北伊勢、とりわけ鈴鹿郡周辺は、伊勢平氏の流れを汲む在地領主が割拠する地であった。中でも、亀山城を本拠とする関氏と、その一族で神戸城を拠点とする神戸氏が大きな勢力を誇っていた 8 。彼ら在地勢力は、それぞれの領国を治める独立した支配者であり、その領内を通る街道の管理や交通の許認可権を掌握していた。道は、今日我々が考えるような公的なインフラではなく、各領主の支配権が及ぶ私的な領域の一部と見なされていたのである。

1-2. 織田信長の伊勢侵攻と支配体制の変容(1567年~)

この地域の権力構造に大きな転換点をもたらしたのが、永禄10年(1567年)に始まる織田信長の伊勢侵攻であった。当初、神戸具盛をはじめとする在地領主は信長に抵抗したが、圧倒的な軍事力の前に屈服を余儀なくされる。翌永禄11年(1568年)、神戸氏は信長の三男・信孝を具盛の養嗣子として迎え入れるという形で和睦した 9 。これは事実上、神戸家が織田家の支配下に組み込まれたことを意味する。亀山城の関盛信もまた、抵抗の末に信長に降伏し、その支配体制に組み込まれていった 10 。この一連の出来事により、北伊勢の在地領主による分権的な支配体制は解体され、織田家というより広域的な中央権力による支配へと移行する素地が形成された。

1-3. 「道」の実態:関所の乱立と寸断された交通網

戦国時代の「道」の実態は、極めて寸断されたものであった。統一的な管理者が不在であったため、各地の領主、豪族、さらには有力寺社までもが、自らの領地の境界や交通の要衝に「関所」を設置していた 14 。これらの関所の主たる目的は、通行人や物資から通行税(関銭)を徴収することによる経済的収益の確保と、敵対勢力の侵入を防ぐ軍事的な防衛にあった 14

特に伊勢国は、伊勢神宮への参詣者、いわゆる「道者」が全国から集まるため交通量が多く、関銭は領主にとって魅力的な財源であった 16 。その結果、国内には無数の関所が乱立する事態を招いた。ある記録によれば、桑名から日永に至るわずか三里(約12km)の間に60箇所もの関所が設けられていたとされ、旅人は200m進むごとに関銭を支払わねばならなかったという 15

このような状況は、人や物の自由な往来を著しく阻害し、広域的な商業活動や経済発展の深刻な足かせとなっていた。織田信長は、楽市楽座政策の一環として領内の一部の関所を撤廃したが 14 、それは限定的なものであり、全国的な交通網の統一には程遠い状態であった。徳川家康による後の街道整備は、単に道を整備するという物理的な事業に留まらず、こうした戦国時代に常態化していた「私的で収奪的な交通支配」の構造そのものを解体し、「公的で統一的な交通システム」へと社会を再編する、国家規模の秩序変革事業だったのである。

第二章:天下統一と国家インフラの再構築 ― 慶長6年(1601年)東海道伝馬制度の確立

戦国時代の寸断された交通網は、新たな統一国家を構想する徳川家康にとって、克服すべき最大の課題の一つであった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける勝利は、その課題に取り組むための政治的基盤を家康にもたらした。

2-1. 関ヶ原の戦い後のグランドデザイン

天下分け目の戦いを制した家康は、その支配を盤石なものとするため、矢継ぎ早に国家のグランドデザインに着手した。その中核に据えられたのが、全国を結ぶ主要街道の整備、とりわけ五街道の整備であった 3 。中でも、幕府の政治的拠点である江戸と、天皇の座す京都、そして全国の商業の中心地である大坂を結ぶ東海道は、国家の背骨とも言うべき大動脈として最重要視された 17

この壮大なインフラ整備計画の目的は、多岐にわたる。第一に、全国の諸大名を統制下に置くため、幕府の命令を迅速に伝達し、各地の情報を正確に収集するための情報通信網を確立すること。第二に、幕府の財政基盤を支え、全国規模での経済活動を活性化させるための物流網を整備すること。そして第三に、有事の際に幕府軍を迅速に展開するための軍事路を確保することであった 2 。これらは、新たな時代の中央集権体制を物理的に支えるための根幹的な事業であった。

2-2. 「御伝馬之定」の発布と制度の内容

この構想を具現化するための第一歩が、慶長6年(1601年)正月に断行された。家康は、東海道筋の各宿場に対し、自身の朱印を捺した「伝馬朱印状」と、腹心の代官であった伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の三名が連署した「御伝馬之定」を交付したのである 2 。これが、江戸幕府による宿駅伝馬制度の公式な発足であり、近世交通史の幕開けを告げるものであった。

この制度の核心は、各宿場に公用のための人足と馬(これを「伝馬」と呼ぶ)を一定数常備することを義務付け、幕府の公的な書状や荷物を、隣の宿場まで責任をもってリレー形式で輸送させる点にあった 20 。この「伝馬役」と呼ばれる公役は、宿場住民にとって大きな負担であったが、その見返りとして、宿場内の土地にかかる税が免除されるなどの経済的特権が与えられた 20 。さらに、公役に支障のない範囲で、一般の旅行者を対象とした宿泊業(旅籠)や運送業を営むことも公認された。これにより、宿場は公的機能と商業的機能が一体となった、街道の拠点として発展していくことになった 20

2-3. 1601年時点の計画と「空白地帯」の存在

1601年の制度発足時、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの間に、約45箇所の宿駅が公式に指定された 4 。この配置は、既存の都市やある程度の規模を持つ集落を基盤として、迅速に全国的なネットワークの骨格を構築することを優先したものであったと考えられる。

しかし、このスピードを重視した初期計画には、いくつかの不備や非効率な点が含まれていた。その最も顕著な例が、後の庄野宿が位置することになる、伊勢国の四日市宿と亀山宿の間であった。この区間は、距離にして実に21.5km(約五里半)にも及ぶ長大なものであったにもかかわらず、当初は中間に一つの宿場も設置されていなかったのである 5

この長大な「空白地帯」がなぜ生まれたのか、その理由を直接示す史料は存在しない。しかし、いくつかの可能性が考えられる。一つには、この区間には伝馬役の重い負担に耐えうるだけの経済力を持つ大規模な集落が存在しなかった可能性。また一つには、まずは四日市や亀山といった既存の城下町を確実にネットワークに組み込むことを最優先し、その間の細かな旅程の調整は後回しにされた可能性である。いずれにせよ、1601年の制度は完成形ではなく、いわば国家の交通網という巨大なシステムの基本設計図であった。そして、この設計図は、その後の運用の中で、現実の需要に応じて修正・改良されていくことになるのである。

第三章:空白の23年間 ― 庄野宿誕生に至るリアルタイム・クロノロジー(1601年~1624年)

1601年に東海道伝馬制度が確立された後、平和な時代の到来とともに交通量は飛躍的に増大し、初期計画が抱えていた問題点が次第に顕在化していく。特に、四日市宿と亀山宿の間に存在する長大な「空白地帯」は、旅程を組む上での大きな障害となり、その是正が急務となった。庄野宿の誕生は、この問題を解決するための、20年以上にわたる試行錯誤の末にたどり着いた結論であった。

【表1】庄野宿設立に至る関連年表(1567年~1624年)

年号(西暦)

主要な出来事

関連する人物・勢力

永禄10年(1567)

織田信長、伊勢侵攻を開始。

織田信長、神戸具盛、関盛信

永禄11年(1568)

神戸氏、信長の三男・信孝を養子とし和睦。

織田信長、神戸具盛、織田信孝

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦い。徳川家康が勝利。

徳川家康

慶長6年(1601)

徳川家康、東海道宿駅伝馬制度を制定。

徳川家康、伊奈忠次

慶長8年(1603)

江戸幕府開府。

徳川家康

元和2年(1616)

石薬師宿が新設される。

徳川幕府

寛永元年(1624)

庄野宿が新設される。 東海道五十三次が完成。

徳川幕府

3-1. 交通量の増大と新たな要請(1601年~1615年)

慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開くと、日本社会は急速に安定を取り戻し、経済活動が活発化した。これに伴い、東海道を往来する人や物資の量は、戦国時代とは比較にならないほど増大した。特に、諸大名に江戸への定期的な参勤を義務付ける参勤交代の制度が慣行として定着し始めると(法令としての制度化は1635年)、数千人規模の大名行列が街道を往来するようになり、宿場への負荷は急激に高まった。

このような状況下で、四日市宿と亀山宿の間の21.5kmという距離は、旅人、特に重い荷物を運ぶ人馬にとって深刻な負担となった。健脚な者でも一日で踏破するのは容易ではなく、途中で安全に休息や宿泊ができる施設への需要が日増しに高まっていったのである 5 。幕府としても、公用輸送の効率性と安定性を確保する上で、この長大な区間を放置することは、もはや看過できない問題となっていた。

3-2. 第一の是正措置:石薬師宿の設置(元和2年/1616年)

増大する交通需要と、それに伴う現場からの要請に応える形で、幕府はついにこの「空白地帯」への外科手術的措置を決定する。1601年の制度発足から15年が経過した元和2年(1616年)、四日市と亀山の中間地点に、新たに石薬師宿が設置された 5 。これは、1601年の初期計画に対する最初の、そして極めて重要な「アップデート」であった。

石薬師宿は、古くから弘法大師(空海)が巨石に薬師如来を刻んだという伝承を持つ石薬師寺の門前町として、ある程度の集落基盤が存在した場所に設けられたと考えられる 24 。全くの更地に宿場を建設するよりも、既存のコミュニティを基盤とすることで、比較的円滑に宿場としての機能を立ち上げることが可能であったと推測される。この石薬師宿の設置により、長大区間は二つに分割され、交通の利便性は大きく改善された。

3-3. 第二の是正措置:庄野宿の設置(寛永元年/1624年)

石薬師宿の設置は大きな前進であったが、それでもなお、旅程配分は完全には最適化されていなかった。四日市宿から石薬師宿、そして石薬師宿から亀山宿までの各区間の距離が依然として長く、特に悪天候時や大規模な行列の通行時には、さらなる中継地点の必要性が認識されていた可能性がある。

そこで、石薬師宿の設置からさらに8年後の寛永元年(1624年)、幕府は第二の是正措置として、石薬師宿と亀山宿の間に庄野宿を新設することを決定した 5 。庄野宿の設立プロセスは、既存の集落を基盤とした石薬師宿とは異なり、より計画的な都市開発の性格を帯びていた。史料には、「早くからこの地に居た36戸の他に鈴鹿川東岸の古庄野から34戸が移住して宿場が形成された」と記録されており 5 、「草分け三十六戸、宿立て七十戸」という言葉がその成り立ちを伝えている 19 。これは、幕府の厳格な命令系統の下、伝馬役を担う住民を計画的に移住させ、人工的に宿場町を創設したことを示唆している。

この庄野宿の設置をもって、江戸・日本橋から京都・三条大橋までの東海道五十三次(さらに大坂まで延伸した場合は五十七次)のすべての宿場が出揃い、徳川幕府が構想した基幹インフラは、制度発足から23年の歳月を経て、ついに完成の形を見たのである 4 。庄野宿の誕生は、壮大な国家計画が、現実の需要と対話し、試行錯誤を繰り返しながら、より精緻で実用的なシステムへと進化していく過程を象徴する出来事であった。

第四章:新設宿場の実像 ― 庄野宿の構造・経営・文化

寛永元年(1624年)に誕生した庄野宿は、東海道最後の宿場として、徳川の交通網を完成させるという歴史的役割を担った。しかし、その一方で、後発かつ小規模な宿場として、設立当初から多くの経営的課題を抱えることになった。ここでは、その物理的構造、経済的実態、そして文化史的側面の三点から、新設宿場の実像に迫る。

4-1. 宿場の物理的構造と機能

庄野宿は、南北に約八丁(約870m)の町並みが続く、比較的コンパクトな宿場町であった 24 。しかし、規模は小さくとも、宿場としての基本的な機能は一通り備えられていた。

  • 本陣・脇本陣: 大名や旗本、幕府の公用役人などが宿泊・休憩するための最高級施設。本陣は代々、沢田家が世襲で務めたと記録されている 24 。この他に脇本陣も1軒設けられていた 25
  • 問屋場: 「御伝馬所」とも呼ばれ、宿駅制度の運営を司る中核施設であった。ここでは、幕府の公用書状や荷物の継ぎ立て、公用通行のための人馬の割り振り、さらには人馬が不足した際に近隣の村々から応援を徴発する「助郷」への指示など、交通・輸送に関するあらゆる事務が行われた 19 。記録によれば、問屋2名、年寄4名、書記や馬差といった役人が複数名体制で業務にあたっていた 25
  • 旅籠: 一般の武士や庶民が利用する宿泊施設。その数は時代によって変動し、延享3年(1746年)には24軒、天保9年(1838年)には16軒といった記録が残っている 5
  • 高札場: 幕府が定めた法度(法律)や掟書、あるいは人馬の公定運賃などを木の札に記して掲示する施設。宿場の入口など、人々の目につきやすい場所に設置され、幕府の権威と情報を末端まで周知させる役割を担った 24

4-2. 宿場経営の二重苦

庄野宿の経営は、その立地と成り立ちから、構造的な困難を抱えていた。それは「地理的要因」と「経済的負担」という二つの側面に集約される。

第一に、 地理的要因による収益性の低さ である。庄野宿は、西の石薬師宿からわずか3km弱、東の亀山宿からも約2kmという、東海道の中でも際立って短い距離に位置していた 25 。このため、多くの旅人は庄野宿を宿泊地として選ばず、昼間の休憩で利用するに留まった。宿泊客が少なければ、旅籠や茶屋の収益は上がらず、宿場全体の経済的基盤は脆弱にならざるを得なかった 19

第二に、 経済的負担の重さ である。庄野宿は幕府の直轄領(天領)であり 24 、宿場として公用の人馬を提供する「伝馬役」という重い義務を課せられていた。それに加え、庄野宿は純然たる商業都市ではなく、周辺に田畑を抱える農村としての性格も併せ持っていた。そのため、住民は伝馬役に加えて、収穫物から一定割合を幕府に納める「年貢」の義務も負っていたのである 19 。この「伝馬役」と「年貢」の二重負担は、宿場の財政を恒常的に圧迫した。幕府もこの実情を考慮し、年貢率自体は周辺の藩領に比べて低め(村の総生産高である村高の3割前後)に設定していたが、それでもなお、住民の負担は過酷なものであった 28

この経営の困難さを最も象徴的に物語るのが、公役の根幹である継立人馬数の変遷である。

【表2】庄野宿の運営状況の変遷

調査時点

家数

人口

旅籠数

継立人馬数

備考

設立時(1624年)

約70戸

-

-

100人・100疋

幕府による当初規定 25

延享3年(1746年)

179戸

730人

24軒

-

『庄野宿明細帳』による 5

宝暦8年(1758年)

-

-

-

30人・20疋

負担軽減のため大幅に削減 25

文政3年(1820年)

171戸

850人

24軒

-

5

文政12年(1829年)

-

-

-

-

石薬師・亀山宿と負担半減の協定 25

天保9年(1838年)

210戸

843人

16軒

-

5

明治3年(1870年)

202戸

-

10軒

廃止

農業111戸、宿場関連は少数 5

表が示す通り、設立当初に100人100疋(ひき)と定められていた継立人馬は、宿場の財政では到底維持できず、宝暦8年(1758年)には幕府の許可を得て30人20疋へと、実に8割近い大幅な削減が行われている 25 。これは、幕府の画一的な制度が、現地の経済実態に即して柔軟に修正されたことを示す重要な事例である。さらに、文政12年(1829年)には、同様の苦境にあった隣接の石薬師宿、亀山宿と共同で、公役の負担をさらに軽減するための協定を結んでいる 25 。これは、幕府のトップダウンの支配に対し、現場の宿場同士が水平的に連携し、主体的に負担軽減の交渉を行っていた実態を物語っている。

4-3. 文化史的側面:歌川広重『東海道五拾三次之内 庄野 白雨』

経済的には多くの困難を抱えていた庄野宿であるが、文化史的には不朽の名声を得ることになる。その最大の功労者が、浮世絵師・歌川広重である。天保4年(1833年)頃に刊行された保永堂版『東海道五拾三次』シリーズの中で、広重は庄野宿を「白雨(はくう)」、すなわち夏の夕立の情景として描いた 29

この作品は、坂道を舞台に、突然の激しい雨に慌てふためく駕籠かきや旅人のダイナミックな動きと、風にそよぐ竹林の静けさを劇的に対比させた構図で、シリーズ中の最高傑作の一つと高く評価されている 30 。斜めに降りしきる雨の線、墨の濃淡で表現された雨雲と煙るような竹林のシルエットは、観る者に旅の厳しさと情趣を鮮烈に印象付ける 30

興味深いことに、実際の庄野宿周辺は比較的平坦な地形であり、この絵に描かれているような急な坂道は存在しないと指摘されている 24 。これは、広重が庄野宿の特定の風景を写実的に描いたのではなく、宿場の名前に着想を得て、旅の途中で遭遇する自然の猛威という普遍的な心象風景を、想像力たくましく描き出した可能性を示唆している 29 。この一枚の浮世絵は、庄野宿の経済的な実態とは全く別の次元で、「夕立の庄野」という強力な文化的イメージを創り上げ、その名を日本中に、そして後世にまで広く知らしめることになったのである。

第五章:結論 ― 庄野宿が示す交通網の進化と近世社会の成立

伊勢国における一宿場、庄野宿の成立史を詳細に追跡してきた本報告は、単なる一地域の歴史に留まらない、より大きな歴史的意義を我々に提示する。それは、戦国という分権と混沌の時代から、徳川による統一と秩序の近世社会へと、日本が如何に変貌を遂げたかを示す縮図に他ならない。

5-1. 戦国から近世へのパラダイムシフト

本報告の第一章で詳述したように、戦国時代の交通は、各地の領主による私的な経済収益(関銭徴収)と軍事防衛の対象であり、その結果として交通網は無数の関所によって寸断されていた。これは、道を「支配し、塞ぐ」という発想に基づいていた。これに対し、徳川幕府が慶長6年(1601年)に導入した宿駅伝馬制度は、国家が一元的に管理する統一的かつ計画的なインフラを構築するものであった。これは、道を「管理し、繋ぐ」という、全く異なるパラダイムへの転換を意味する。寛永元年(1624年)の庄野宿の設置は、この巨大なパラダイムシフトが、20年以上の歳月をかけて細部に至るまで浸透し、完成したことを象徴する出来事であった。

5-2. 「生きた制度」としての宿駅伝馬制度

庄野宿が、1601年の当初計画には存在せず、交通量の増大という現実的な社会の要請に応える形で、23年の歳月を経て設立されたという事実は、極めて示唆に富む。それは、徳川幕府の統治システムが、一度定めた計画に固執する硬直的な官僚主義ではなく、社会の実態や現場の状況に応じて政策を柔軟に修正し、最適化していく能力を持った「生きた制度」であったことを証明している。四日市・亀山間の「空白地帯」という初期計画の不備を、まず石薬師宿、次いで庄野宿という二段階の措置によって是正していったプロセスは、幕府のプラグマティックな統治能力の現れであった。

5-3. 「旅程配分の柔軟性向上」の再評価

利用者が当初認識していた「庄野宿整備(1601):宿駅新設で旅程配分の柔軟性が向上」という要約は、結果として正しい。しかし、本報告が明らかにしたのは、その簡潔な一行の裏に、幾重にも折り重なった複雑な歴史的文脈が存在するということである。そこには、戦国以来の交通秩序の抜本的な変革、徳川幕府による壮大な国家構想、理想的な計画と物理的な現実とのギャップを埋めるための20年以上にわたる試行錯誤、そして宿場に指定された住民たちが背負った過酷な公的負担と、その下で続けられた懸命な経営努力の歴史が刻まれている。

5-4. 庄野宿から見る現代

庄野宿の事例は、現代に生きる我々にも重要な視座を提供する。今日、我々が当然のものとして享受している、全国を網羅する安全で効率的な交通インフラは、決して自然発生的に生まれたものではない。その原点は、徳川幕府による国家規模の構想と、庄野宿のような一つ一つの宿場の設置、そしてそこで伝馬役という重い公役を担い、街道を維持し続けた名もなき人々の営みの中にこそ見出すことができる。庄野宿の歴史は、現代社会を支えるインフラが、歴史的な意思決定と無数の人々の努力の積み重ねの上に成り立っているという、自明でありながら忘れがちな事実を、改めて我々に教えてくれるのである。

引用文献

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  8. 武家家伝_神戸氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/kanbe_k.html
  9. 伊勢鈴鹿 信長の北伊勢経略によって亀山城主関氏の庶流神戸氏は不本意ながら和議を結び迎え入れた三男信孝が整備拡張し天守を配した『神戸城』訪問 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11130231
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  19. 庄野宿 - Suzuka Fun! https://suzuka-fun.com/2021/08/22/%E5%BA%84%E9%87%8E%E5%AE%BF/
  20. 伝馬制度 日本史辞典/ホームメイト https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/tenmaseido/
  21. 東海道はかつて「軍用道路」だった! なぜインフラ整備は歴史から学ぶべきなのか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(1) - Merkmal https://merkmal-biz.jp/post/7664
  22. 旧街道宿場町の現状と 街なか再生事例について https://www.uraja.or.jp/wp-content/uploads/2021/12/125kyukaidou.pdf
  23. 宿場町ってどういうところ?地元の歴史を知り地域愛を深めよう - アットホーム https://www.athome.co.jp/town-library/article/123174/
  24. 庄野宿から http://www.mookomo.com/wolking/53walk/NO8_syouno/newpage1.html
  25. 庄野宿 http://home.q08.itscom.net/you99/syouno.htm
  26. 宿駅伝馬制度って、なんのこと? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm
  27. 東海道五十三次の解説 46 庄野 - 一般社団法人日本製品遺産協会 https://www.n-heritage.org/2024/06/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%8046%E3%80%80%E5%BA%84%E9%87%8E/
  28. 26 鈴鹿庄野宿の年貢負担 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail135.html
  29. 『東海道五拾三次』庄野 白雨 | 名品紹介 | コレクション - 町田市立国際版画美術館 https://hanga-museum.jp/collectionimage/list004
  30. 東海道五拾三次之内 庄野 白雨 | 歌川広重 | 収蔵品詳細 | 作品を知る - 東京富士美術館 https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/04366/
  31. 東海道五拾三次之内 46 庄野《白雨》 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/238226
  32. 東海道五十三次 庄野(保永堂版) - MOA美術館 https://www.moaart.or.jp/collections/088/