御土居築造(1591)
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天正十九年 御土居築造の徹底研究 ―天下人・秀吉による京都改造のリアルタイム・クロニクルとその多層的意義―
序論:御土居とは何か ―単なる「防塁」を超えて
天正十九年(1591年)、豊臣秀吉の命により、未曾有の規模と速度で京都の周囲に築かれた巨大な土塁と堀、すなわち「御土居」。それは、単に戦国時代の終焉を告げる都市防衛施設という一面的な理解を遥かに超える、複合的かつ多層的な意義を内包した国家的モニュメントである。本報告書は、この御土居築造という歴史的事象を、戦国時代の終焉と新たな国家体制の確立期というダイナミックな文脈の中に位置づけ、その計画から完成に至るまでの過程を時系列に沿って再現するとともに、その構造、目的、そして後世に与えた影響を徹底的に分析・考察することを目的とする。
御土居が持つ意義は、少なくとも四つの側面に大別できる。第一に、戦国時代の「惣構(そうがまえ)」の究極形としての 軍事施設 。第二に、古来より都を悩ませてきた鴨川の氾濫を防ぐ 治水堤防 。第三に、洛中と洛外を物理的に区画し、新たな社会秩序を空間に刻み込む 都市計画の境界線 。そして第四に、天下人の絶大な権力を可視化する 政治的象徴 である 1 。これらの側面は独立して存在するのではなく、相互に複雑に絡み合いながら、御土居という一つの巨大事業の中に統合されている。本報告書は、これらの多層的な機能を解き明かすことで、豊臣秀吉の国家構想における御土居の真の位置づけを明らかにすることを目指すものである。
第一章:築造前夜―天正十九年(1591年)の天下と京都
1-1. 天下統一の完成と豊臣政権の盤石化
御土居築造が開始された天正十九年(1591年)は、豊臣秀吉の権力がまさに頂点に達した時期であった。前年の天正十八年(1590年)、秀吉は関東の雄・北条氏を小田原征伐によって屈服させ、名実ともに天下統一を成し遂げた 4 。これにより、応仁の乱以来、一世紀以上にわたって続いた戦乱の時代は事実上の終焉を迎えた。さらに天正十九年に入ると、奥州で最後の抵抗を試みた九戸政実の乱を速やかに鎮圧し、日本国内における武力による反抗勢力を完全に払拭した 6 。この時点において、秀吉の権威に異を唱えることのできる大名は、国内にもはや存在しなかった。豊臣政権は、盤石ともいえる絶対的な支配体制を確立していたのである。
1-2. 新たな国家秩序の構築―秀吉の国内政策
武力による国内平定と並行して、秀吉は新たな国家秩序を構築するための社会政策を矢継ぎ早に断行していた。その根幹をなすのが、太閤検地、刀狩、そして人掃令(ひとばらいれい)である。全国的な規模で実施された太閤検地は、土地の生産力を石高という統一された基準で把握し、それに基づいた年貢と軍役を課すことで、大名から農民に至るまでの支配構造を再編するものであった 5 。刀狩と人掃令は、農民から武器を取り上げ、武士身分への転身を禁じることで、兵農分離を徹底させる政策であった 5 。これらの政策は、武士は城下町に、商工業者は都市に、そして農民は農村に、という身分と居住地を固定化し、社会の流動性を抑制することを目的としていた 8 。この思想は、御土居によって首都・京都において「都市(洛中)」と「農村(洛外)」を物理的に区画するという、壮大な都市計画の思想的背景となっていたのである。
1-3. 首都・京都の荒廃と復興
秀吉が対峙した首都・京都は、かつての栄華の面影を失い、深刻な荒廃の中に取り残されていた。その直接的な原因は、応仁・文明の乱(1467-1477)である。11年に及ぶ戦乱の主戦場となった京都は、市街地の大部分が焦土と化し、壊滅的な被害を受けた 9 。乱後、京都は統一された都市としての機能を喪失し、市街地は北の上京と南の下京という二つのブロックに分裂した。それぞれの町衆は自衛のために周囲に堀や土塁を巡らせた「惣構え」を築き、自治的な共同体を形成するに至った 10 。つまり、秀吉が天下人として君臨した時点での京都は、統一された「首都」ではなく、複数の自治的ブロックが寄り集まった分裂状態にあった。秀吉による一連の京都改造事業、そしてその集大成である御土居の築造は、この分裂した都市を根本から再統合し、天下人の首都として再生させるという強固な意志の表れであった。
1-4. 次なる一手への布石―朝鮮出兵計画
国内の平定を完了した秀吉の視線は、すでに日本列島を越え、大陸へと向けられていた。天正十九年三月には、諸大名に対し、石高に応じた軍役を具体的に定めた朝鮮出兵の軍役令が発せられている 6 。御土居の築造命令が下されたのが同年の閏一月であることを踏まえると、両者が極めて近接した時期に計画・実行されていたことがわかる 12 。
この時系列の一致は、御土居の築造目的を考える上で極めて重要な示唆を与える。大規模な軍勢を国外に派遣するということは、必然的に国内、特に政権の中枢である首都の防備が手薄になることを意味する。戦国時代の常として、権力者が本拠地を離れて遠征する間に、国内で謀反や一揆が勃発する危険性は常に存在した。したがって、御土居の持つ「防衛」機能は、すでに存在しない国内の敵対大名からの攻撃に備えるという後ろ向きのものではなく、来るべき大規模な対外戦争を遂行するにあたって、後顧の憂いを断つという、極めて戦略的かつ未来志向の目的を持っていたと考えられる。それは、国家の心臓部である首都の絶対的な安全と秩序を確保し、政権の総力を対外戦争に傾注するための、不可欠な布石だったのである。この視点は、御土居の目的として挙げられる「首都の治安維持」という側面とも完全に合致する 12 。
第二章:御土居築造―空前の国家事業のリアルタイム・クロニクル
2-1. 発令と始動(天正十九年 閏正月)
天下統一の総仕上げと、次なる対外政策への準備が着々と進む天正十九年(1591年)閏正月、秀吉は京都の都市改造における画期的な一手として、市中を周囲から完全に囲い込む土塁と堀、すなわち「御土居」の建築を正式に命じた 6 。この時期、秀吉は聚楽第において諸大名からの新年の参賀を受け、遠くインドから来日した副王使節と謁見するなど、天下人として精力的に政務をこなしていた 14 。その一方で、政権の重鎮であった最愛の弟・大納言秀長の死という個人的な悲劇にも見舞われており、公私ともに激動の最中にあった 14 。
築造命令が下ると、計画は直ちに実行に移された。公家・山科言経の日記『言経卿記』には、閏正月四日の時点で、御土居の建設ルートにかかる屋敷の立ち退き・移転が指示されたという記録が残っており、都市計画が具体的な実務段階に入っていたことが窺える 16 。この巨大事業の現場総責任者には、京都所司代の前田玄以が任じられた 3 。玄以は元々僧侶という異色の経歴を持ちながら、その行政手腕を信長、そして秀吉に見出され、特に寺社勢力や朝廷との折衝に長けた有能な官僚であった 18 。彼の存在なくして、複雑な利害が絡み合う京都での大事業の円滑な遂行は不可能であっただろう。動員体制は、諸大名に石高に応じて普請役を課す「天下普請」の形式がとられ、その規模は数万人に達したと推定されている 21 。
2-2. 驚異的工程の実態(閏正月~四月)
御土居築造の最も特筆すべき点は、その驚異的な工期の短さである。複数の同時代史料が一致して、全長約22.5kmにも及ぶこの巨大構造物が、着工からわずか2ヶ月から4ヶ月という信じ難い速さでほぼ完成したと記している 13 。この時期、京都では方広寺大仏殿の造営や、洛中に散在していた寺院を寺町・寺之内へ強制移転させる事業も並行して進行していた 6 。首都全体が、さながら一つの巨大な工事現場と化し、その喧騒は凄まじいものであったと想像される。
この速度を実現した背景には、徹底した合理性と圧倒的な動員力があった。土塁を構築するための膨大な量の土砂は、主に外側の堀を掘削した際に出る土を再利用することで効率的に確保されたと考えられる 3 。工法としては、土を層状に突き固めて強度を高める版築工法などが用いられた可能性が高い 3 。しかし、技術的な側面以上に重要なのは、この速度が持つ政治的な意味合いであった。
この異常とも言える建設速度は、単なる土木技術の高さを誇示するためだけのものではなかった。それは、豊臣政権の絶対的な権力と、日本全国の大名・民衆を意のままに動員できる支配力を、天下に示すための意図的な「政治的パフォーマンス」であった。大名たちに課せられた「天下普請」は、彼らの財力を削ぎ、豊臣家への忠誠を試すという側面も持っていた 28 。複数の巨大事業を同時並行で進めながら、これほどの速度で完成させるという事実は、諸大名、朝廷、寺社勢力、そして民衆に対し、「秀吉の命令には何人たりとも逆らうことはできない」「彼の構想を実現する能力は人知を超えている」という強烈なメッセージを発信する効果があった。それは、物理的な壁を築くと同時に、人々の心の中に豊臣政権の絶大さを深く刻み込む行為だったのである。
2-3. 竣工と京都の変貌
閏一月に着工された工事は、春たけなわの四月にはほぼその姿を現した 13 。公家の吉田兼見は、自身の日記に動員された人夫が「その数しれず」と記しており、当時の京都が未曾有の活気と喧騒に包まれていた様子を伝えている 22 。御土居の出現によって、京都の景観は文字通り一変した。それまで曖昧な空間認識であった「洛中(らくちゅう)」と「洛外(らくがい)」という概念は、巨大な土塁と堀という、誰の目にも明らかな物理的な境界線によって定義されることになった。これは、京都に住まう人々にとって、自らが生きる世界の構造そのものが根本的に作り変えられるという、大きな衝撃を伴う体験であったに違いない。統一された首都が、ここに誕生したのである。
第三章:構造と規模の徹底解剖
3-1. 全体像と基本構造
豊臣秀吉が築いた御土居は、その壮大なスケールにおいて他に類を見ない建造物であった。北は鷹峯、南は東寺、東は鴨川、西は紙屋川(天神川)を境界とし、南北約8.5km、東西約3.5kmの範囲を囲い込み、その総延長は約22.5km(当時の単位で五里二十六町)に達した 12 。この距離は、現在のJR東海道本線で京都駅から草津駅までの距離にほぼ匹敵するものであり、その規模の大きさが窺える 31 。
築造当時は「堤」「土居堀」「京惣廻土居」「洛中惣構え」など様々な名称で呼ばれていたが、江戸時代以降に「御土居」という呼称が定着した 11 。その基本構造は、土を高く盛り上げた「土塁(土居)」と、その外側に掘られた「堀」が一対となる構成を基本とする 12 。ただし、全周にわたって人工の堀が掘られたわけではなく、東辺では鴨川、西辺では紙屋川を天然の堀として巧みに利用しており、地形を活かした設計思想が見て取れる 2 。
3-2. 断面的考察:土塁と堀の詳細
発掘調査の成果や江戸時代の史料から、御土居の具体的な断面構造が明らかになっている。
- 土塁 : 土塁は、基底部の幅が約20m、高さが約5m、そして頂上部の幅も約5mという、安定感のある台形状をしていた 6 。土塁の斜面には、土砂の崩落を防ぐ補強効果と、美観を整える目的から、竹が密に植えられていた 17 。この竹林は後に「御土居藪」と呼ばれ、江戸時代を通じて幕府によって管理された。
- 堀 : 土塁の外側に設けられた堀は、場所によって規模に差があるものの、幅は約10mから20m、深さは最大で4mから5mに達したと推定されている 6 。近年の発掘調査では、堀底に畝状の障害物を設けて敵の侵攻を妨げる「障子堀」に類似した構造が確認された例もあり、単なる境界線ではなく、実戦を想定した防御施設としての側面も持ち合わせていたことが示されている 24 。
土塁と堀を合わせた幅は最大で40mにも及び、これが22.5kmにわたって連なっていた光景は、まさに圧巻であっただろう。
3-3. 都市の門―「京の七口」との関係
御土居という閉鎖的な構造物には、当然ながら外部の街道と接続するための出入口が設けられた。これらの出入口は「口」と呼ばれ、室町時代から京都への玄関口として存在した「京の七口」の概念を継承するものであった 39 。これにより、御土居は京都内外の人・物資・情報の流通を管理・統制する関門としての役割を担うことになった。
しかし、秀吉は既存の七口をそのまま追認したわけではない。例えば、東海道の起点として最も重要であった粟田口は、御土居の外側に位置づけられた。御土居の東辺は鴨川西岸に築かれたため、三条大橋を渡った先の粟田口は「洛外」となったのである 11 。これは、旧来の交通網を自らの都市計画の中に再編し、首都へのアクセスを完全に掌握しようとする秀吉の強い意志の表れと解釈できる。御土居と接続された主要な「口」は以下の通りである。
口の名称 |
対応する街道 |
御土居における位置 |
現在の地名・ランドマーク |
備考 |
鞍馬口 |
鞍馬街道 |
北辺 |
鞍馬口通、出雲路橋西詰 43 |
若狭方面への出入口 |
大原口 |
若狭街道 |
北東辺 |
河原町今出川付近 43 |
大原、八瀬方面への出入口 |
荒神口 |
山中越(志賀越) |
東辺 |
河原町荒神口 41 |
近江方面への出入口 |
粟田口 |
東海道・中山道 |
(御土居の外) |
蹴上、三条大橋 42 |
御土居は三条大橋西詰に設置され、街道の起点は外側にあった |
伏見口 |
伏見街道 |
南東辺 |
五条大橋西詰 43 |
伏見、大坂方面への重要な出入口 |
鳥羽口 |
鳥羽街道・西国街道 |
南辺 |
九条千本通東入 43 |
西国方面への出入口 |
丹波口 |
山陰街道 |
西辺 |
千本七条上ル 40 |
丹波方面への出入口、JR駅名に残る |
長坂口 |
長坂越(周山街道) |
北西辺 |
鷹峯旧土居町 43 |
周山、若狭への裏街道 |
第四章:多層的なる築造目的の深層
御土居の築造目的は、単一の理由に帰結させることはできない。それは、秀吉の治世が直面していた軍事的、政治的、社会的な課題を解決するための、複合的かつ戦略的な事業であった。
4-1. 軍事的防衛施設―戦国時代の総仕上げとしての「惣構え」
御土居が、戦国時代を通じて各地の城下町で発達した都市全体を囲む防御施設「惣構え」の、日本史上最大かつ最後の作例であることは間違いない 11 。しかし、その軍事的性格を評価する際には、築造された時期が重要となる。国内の敵対勢力が一掃され、天下統一が完了した時点で作られたこの巨大な防塁は、一体何を想定していたのか。
ここに、御土居の軍事目的の二重性が見出せる。第一に、特定の外敵からの侵攻を防ぐという純軍事的な目的よりも、「これにて百年に及ぶ戦乱の世は完全に終わり、天下は泰平となった」と宣言する、 象徴的な防衛施設 としての意味合いが強い。第二に、より現実的な目的として、朝鮮出兵によって政権中枢が手薄になることを見越した、 首都の治安維持装置 としての役割である。国内の不穏分子による小規模な反乱や、社会の混乱に乗じた盗賊の蜂起などを抑止し、首都の秩序を維持することは、対外戦争を遂行する上での大前提であった。当時の記録にも「盗賊の取り締まり」が目的の一つとして記されていることからも、この側面が重視されていたことがわかる 33 。つまり御土居は、戦国的な「城」の概念を、近世的な「首都の警察・治安維持」の概念へと昇華させる、過渡期の建造物であったと言える。
4-2. 治水事業―鴨川の氾濫から首都を守る
京都の歴史は、東に流れる鴨川の氾濫との闘いの歴史でもあった。御土居の東辺は、この鴨川の西岸に沿って築かれており、首都を水害から守る長大な堤防としての機能が意図されていたことは明らかである 1 。この治水機能は、単なる副次的な効果ではなく、築造の主要な目的の一つであった。その何よりの証拠は、江戸時代の寛文十年(1670年)に、幕府によって鴨川に新たな本格的な堤防(寛文新堤)が築かれた後、東辺の御土居がその役割を終えたとして、速やかに払い下げられ、取り壊されて市街地化が進んだという歴史的事実である 12 。この事実は、裏を返せば、寛文新堤が完成するまでの約80年間、御土居が京都の治水において死活的に重要な役割を果たしていたことを雄弁に物語っている。
4-3. 都市計画と空間支配―「洛中」と「洛外」の再定義
御土居が持つ最も根源的かつ革新的な目的は、秀吉が推し進めた社会改革を、首都のランドスケープに直接描き出すことにあった。それは、物理的な境界線を引くことによって、新たな社会構造を可視化し、固定化する壮大な試みであった。
秀吉の兵農分離・商農分離政策は、人々の身分と居住地を一致させることを目指したものであった 5 。御土居は、この政策を京都という都市空間において物理的に完成させるための、決定的なツールとなった。御土居の内側、すなわち「洛中」は、天皇・公家、そして秀吉政権を支える武士、さらには経済を担う商工業者が住まう統治と経済の中心としての「都市空間」と定義された。一方、御土居の外側である「洛外」は、食糧生産を担う農民が住まう「農業空間」として明確に分離されたのである 11 。
この空間再編は、当時まだ洛中に散在し、大きな政治力・軍事力を保持していた寺社勢力の統制とも密接に連動していた。秀吉は、多くの寺院を御土居の東辺内側(現在の寺町通)に強制的に移転させた 6 。これにより、寺社勢力は都市防衛ラインの一角に組み込まれ、その活動は政権の厳格な管理下に置かれることになった。このように、御土居は単なる線引きではなく、秀吉が理想とする身分制社会の秩序を、首都の景観そのものに刻み込む、壮大な都市計画だったのである。
4-4. 権威の象徴―天下人の京都改造
これら全ての目的を統合し、その根底に流れているのは、豊臣秀吉自身の絶大な権威を内外に誇示するという強烈な意志である。応仁の乱以来、荒廃するに任されていた伝統の都・京都を、誰も成し得なかった規模と速度で、自らの構想のままに作り変えるという行為そのものが、彼の権力が過去のいかなる権力者とも比較にならないことを示す、最大のデモンストレーションであった。天皇や公家が住まう古都を巨大な土塁で囲い込み、その境界と構造を自らが決定する。この行為は、伝統的な権威の象徴である朝廷すらも自らの支配の枠組みの中に置くという、暗黙の宣言であった。一部には、御土居が朝廷を外部から遮断し、その情報や行動を制限するための「牢獄」であったとする過激な説も存在するほどである 35 。真偽はともかく、御土居が秀吉の権力の絶大さを物語る不滅のモニュメントであったことは疑いようがない。
第五章:御土居が京都に残した遺産
5-1. 江戸時代における変容と解体
秀吉の死後、政権が徳川に移り、世に「天下泰平」が訪れると、御土居の存在意義は大きく変容した。外敵の脅威がなくなったことで、その軍事的な意味合いは急速に薄れていった 1 。むしろ、京都の人口が増加し、市街地が洛外へと拡大していく中で、巨大な御土居は都市の発展を妨げる障害物と見なされるようになった 11 。
特に変化が著しかったのは、前述の通り、寛文新堤の完成によって治水堤防としての役割を終えた東辺であり、土地は寺社や公家に払い下げられて急速に宅地化が進んだ 11 。また、西側でも生活の利便性を向上させるため、住民の請願によって土塁が切り開かれ、新たな出入口が20箇所以上も設けられた記録が残っている 11 。
しかし、全ての御土居がすぐに破壊されたわけではない。多くは江戸幕府の所有物として残り、土塁上の竹林は厳格に管理されていた 11 。これにより、御土居は軍事施設としての役割を失った後も、都市の「内(洛中)」と「外(洛外)」を明確に区別する境界線として機能し続け、江戸時代を通じて京都に住む人々の空間認識や社会意識に深い影響を与え続けたのである 44 。
5-2. 近代化の波と史跡としての保存
明治維新を迎え、旧幕府の所有地が民間に払い下げられると、御土居は近代化と都市開発の波に晒されることになった。鉄道の敷設や宅地造成のために、残っていた土塁も次々と取り壊されていった 11 。この状況を憂慮した京都府や研究者らによって、大正七年から九年(1918-1920)にかけて、初の本格的な学術調査が実施され、御土居の歴史的価値が再評価される機運が高まった 50 。その結果、昭和五年(1930年)に残存状態の良い8箇所が国の史跡に指定され、さらに昭和四十年(1965年)に1箇所が追加指定され、合計9箇所が文化財として法的に保護されることになった 1 。これらの保存活動がなければ、御土居の痕跡は現代の京都から完全に姿を消していたかもしれない。
5-3. 現代に息づく痕跡
400年以上の時を経た今もなお、御土居は京都の街の随所にその記憶を留めている。北区の大宮交通公園西側に残る「大宮御土居」や、北野天満宮の境内に残る土塁などは、往時の壮大な姿を今に伝える貴重な遺構である 12 。また、直接的な遺構が失われた場所でも、「紫野西土居町」や「鷹峯旧土居町」といった地名、あるいは市街地における不自然な道路のカーブや急な高低差として、その巨大な構造物の名残を地形の中に感じ取ることができる 11 。そして何よりも、現代の京都の人々の心の中に息づく「洛中」と「洛外」という地理的・文化的な境界意識の根源には、豊臣秀吉が京都の地に刻み込んだこの巨大な境界線が、深く影響を与え続けているのである。
結論:豊臣政権の到達点としての御土居
天正十九年の御土居築造は、単一目的の土木事業として語ることはできない。それは、軍事的防衛、治水、都市計画、そして権威の誇示という、当時の豊臣政権が抱える複数の国家的課題を、極めて高度な次元で統合し、解決しようとした国家建設事業の集大成であった。
それは、長く続いた戦国乱世に物理的な終止符を打ち、統一された近世国家の首都のあるべき姿を、大地の上に直接定義する画期的な事業であった。御土居によって囲まれた空間は、新たな社会秩序が適用されるべき聖域「洛中」として再定義され、その外側には広大な「洛外」が広がるという、近世京都の基本的な都市構造を決定づけたのである。
築城の巨匠であった秀吉の死後、彼が築いた豊臣家は歴史の波に呑まれて滅亡する。しかし、彼が京都の地に刻み込んだ御土居という巨大な痕跡は、その構想の壮大さと権力の絶大さを、400年以上にわたって後世に伝え続けている。御土居は、一人の天下人が到達した権力の頂点と、彼が夢見た国家の形を物語る、不滅のモニュメントとして、これからも京都の歴史の中に存在し続けるであろう。
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- 京の都を守った御土居の遺跡を訪ねる https://kyototwo.jp/post/attractions/6896/
- 御土居 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1796