慶長伏見地震(1596)
文禄5年(1596年)、慶長伏見地震が発生し、秀吉の伏見城と方広寺大仏が壊滅。この天災は豊臣政権の威信を揺るがし、外交破綻や財政悪化を招き、徳川家康の台頭を許すなど、豊臣家滅亡の遠因となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天動説の終焉:慶長伏見地震が揺るがした豊臣政権の威信と天下の行方
序章:文禄五年の畿内―天下人の城と迫り来る天変地異の影
文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉の権勢はまさに天頂に達していた。小田原征伐による天下統一事業の完成、それに続く太閤検地の全国的な施行は、日本の隅々にまでその支配を浸透させた 1 。さらにその目は国内に留まらず、朝鮮半島へと向けられ、文禄の役が開始されるなど、秀吉の威光は日ノ本の内外に轟いていた 2 。この絶頂期において、秀吉が新たな天下統治の拠点として心血を注いだのが、京都南郊の地に築かれた伏見城であった。
伏見城築城の政治的意図―隠居城から本城へ
伏見城の建設計画は、当初、秀吉個人のための「隠居所」として始まった 3 。天正19年(1591年)、秀吉が関白の位と政庁たる聚楽第を甥の豊臣秀次に譲ったことを受け、自らの余生を送るための邸宅として、風光明媚な観月の名所・指月の丘が選ばれたのである 3 。
しかし、この計画は二つの重大な出来事によって、その性格を劇的に変容させる。第一に、文禄2年(1593年)の嫡子・豊臣秀頼の誕生。待望の後継者を得た秀吉は、秀頼に本拠たる大坂城を譲り、自らは伏見を新たな政務の本拠地とする構想を抱くようになった 3 。第二に、朝鮮出兵を巡る明との講和交渉の本格化である。秀吉は、来日する明の使節団に対し、日本の国威と自らの権勢を最大限に見せつけるための壮麗な迎賓館が必要であると考えた 3 。
この結果、伏見城は単なる隠居屋敷から、秀吉自身の本城、すなわち日本の新たな政治・軍事中枢へとその位置づけを昇華させた 4 。宇治川の流路を城の外濠として引き込み、城下に港湾を整備し、奈良街道を付け替えるといった大規模な土木工事は、伏見という地を大坂と京都を結ぶ政治・経済・交通の要衝へと変貌させる壮大な国家プロジェクトであった 3 。伏見城の壮麗さは、秀吉個人の趣味嗜好を超え、豊臣政権の永続と威信をかけた国家的事業の象徴だったのである。
不穏なる天の前兆
天下人の権勢が絶頂を謳歌する一方で、天は不吉な兆候を示し始めていた。地震発生の約2ヶ月前、文禄五年六月二十七日(西暦1596年8月20日)、京都から堺にかけての広範囲で、原因不明の降灰が記録された。醍醐寺座主であった義演が記した『義演准后日記』には、「土器の粉の如き物」が雨のように降り注ぎ、「大地霜の朝の如し」と、その異様な光景が描写されている 7 。遠方の火山噴火によるものと推測されるこの現象は、当時の人々にとって得体の知れない不安を掻き立てるものであった。
さらに追い打ちをかけるように、その2日後には夜空に彗星が出現し、数週間にわたって不気味な光を放ち続けた 7 。天変地異が凶事の前触れと固く信じられていた時代、これらの現象は、天下の行く末に暗い影を落とすものとして、人々の心に深く刻み込まれたのである。
本報告書は、この慶長伏見地震という天災が、戦国末期の政治・社会に与えた衝撃を時系列に沿って再構築し、それが豊臣政権の命運、ひいては天下の潮目をいかに変えたかを多角的に分析するものである。
表1:慶長伏見地震 関連時系列表
年月日(和暦/西暦) |
出来事 |
関連情報 |
文禄元年 (1592) |
秀吉、指月での隠居屋敷建設を開始 |
3 |
文禄2年 (1593) |
豊臣秀頼、誕生。伏見城が本城へと性格変化 |
3 |
文禄5年6月27日 (1596/8/20) |
京都・堺で原因不明の降灰 |
7 |
文禄5年閏7月9日 (1596/9/1) |
慶長伊予地震発生 (M≈7.0) |
8 |
文禄5年閏7月13日 (1596/9/5) |
慶長伏見地震発生 (M≈7.5) |
8 |
文禄5年閏7月15日 (1596/9/7) |
秀吉、木幡山での伏見城再建を命令 |
3 |
文禄5年10月27日 (1596/12/16) |
「慶長」へ改元 |
9 |
慶長2年 (1597) |
慶長の役(第二次朝鮮出兵)開始 |
2 |
慶長3年8月18日 (1598/9/18) |
豊臣秀吉、伏見城にて死去 |
3 |
第一章:閏七月十三日、子の刻―大地鳴動、畿内を襲う
発生の瞬間―闇夜の激震
文禄五年閏七月十三日(西暦1596年9月5日)、人々が寝静まった子の刻(深夜23時から午前1時頃)、畿内の大地は突如として猛烈な揺れに襲われた 9 。当時の記録文書を現代の震度階級に当てはめると、その揺れは震度6から7に相当する、凄まじいものであったと推定される 11 。眠りから叩き起こされた人々は、立っていることもままならず、何が起きたのかも理解できないまま、茫然自失の状態に陥ったであろう 11 。闇夜を切り裂く家々の倒壊音と人々の悲鳴が、畿内一円に響き渡った。
地震の科学的分析
この地震は、マグニチュード(M)が7.5前後(7.25~7.75)と推定される、極めて大規模な内陸直下型地震であった 8 。震源断層については複数の説が存在するが、京都府伏見付近を震源とし、近畿地方を縦断する有馬-高槻断層帯、あるいは六甲・淡路島断層帯が活動したとする説が有力視されている 7 。これらの断層帯は、現代においても日本の主要な活断層として知られている。
特筆すべきは、この大地震が孤立した現象ではなかった可能性が高い点である。発生のわずか4日前、閏7月9日には、四国の伊予国(現在の愛媛県)で中央構造線を震源とする慶長伊予地震(M≈7.0)が発生していた 8 。さらに遡れば、九州の豊後でも大地震が起きていた。近年の研究では、九州で発生した慶長豊後地震による地殻変動の歪みが、中央構造線を通じて四国、そして畿内へと伝播し、伏見地震を誘発したとする連動型地震の可能性が指摘されている 9 。これは、豊臣政権がその支配領域の西半分において、予測不能な自然の力による連続的な挑戦に晒されていたことを意味する。敵対大名や国外勢力との戦いとは全く異なる、抗いようのない脅威が、政権の足元を揺るがしていたのである。
この400年以上前の天災は、現代とも無関係ではない。1995年に発生し、甚大な被害をもたらした兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は、この慶長伏見地震で活動した六甲・淡路島断層帯の地下深くに残された「滑り残し」部分が破壊されたことで発生したとする説がある 9 。これは、慶長伏見地震が単なる過去の歴史的事件ではなく、400年の時を超えて現代にまで影響を及ぼす地質学的イベントであったことを物語っている。
広域にわたる被害の概観
被害は震源地である伏見を中心に、京都、大坂、堺といった畿内の主要都市に壊滅的な打撃を与え、その影響は淡路島や四国の一部にまで及んだ 7 。全体の死者数については諸説あるが、京都と堺だけでも1,000人以上が犠牲になったと記録されている 8 。また、ある記録では全体の死者数が45,000人に達したとも伝えられており 10 、その被害の甚大さが窺える。畿内は一夜にして、阿鼻叫喚の地獄へと変貌したのである。
第二章:伏見城の崩壊―天下人の権威、地に堕つ
権力の象徴、一夜にして瓦礫へ
天下人の威光を示すべく、贅の限りを尽くして築かれた指月伏見城は、この未曾有の激震によって、完成を目前にしながらも無惨な姿を晒した。その惨状は、同時代を生きた人々の記録によって生々しく伝えられている。醍醐寺座主・義演は、その日記『義演准后日記』に次のように記した。
伏見事、御城・御門・殿以下大破、或顛倒、大殿守悉崩テ倒了
(伏見の事、城・門・殿以下大破、あるいは転倒し、大天守はことごとく崩れて倒壊した)11
また、都に住まう公家・山科言経も、その日の記録『言経卿記』に「伏見御城ハテンシユ崩了」と簡潔ながらも衝撃的な事実を書き留めている 11 。複数の信頼性の高い一次史料が一致して伝える天守の完全崩壊は、物理的な建造物の破壊に留まらなかった。それは、秀吉の絶対的権威という「見えざる城」の崩壊をも象徴する出来事であった。人の力では抗いようのない「天」の力によって、天下人の権力の頂点が無残に打ち砕かれたという事実は、諸大名や民衆に対し、「秀吉の威光も天災の前には無力である」という強烈なメッセージとして受け取られたに違いない。
城内の惨状と人的被害
城内は、まさに地獄絵図であった。『義演准后日記』は、「男女御番衆數多死、未知其數(男女の御番衆、数多死す、その数を知らず)」と記し、城内で görev にあたっていた武士や女中など、身分の上下を問わず多数が圧死したことを伝えている 11 。城内だけで死者は500人から600人にのぼったとされ、これは城郭における災害としては異例の規模である 8 。
この人的被害が甚大化した背景には、極めて不運なタイミングがあった。当時、伏見城では明からの講和使節団を迎え、引見するための準備が着々と進められていた。そのため、城内には警護の武士や接待役の侍女、諸役人などが通常よりはるかに多く詰めかけていたのである 16 。国威発揚の晴れ舞台となるはずだった場所が、多くの人々の命を奪う墓場と化した。この皮肉な事実は、豊臣政権にとって致命的な外交的失態でもあった。講和交渉において日本側の威容を見せつけることは、有利な条件を引き出すための重要な戦略であったが、そのための舞台が瓦礫と化したことで、秀吉は最大の交渉カードを失い、著しく面目を失った。この屈辱が、後の交渉決裂と慶長の役という無謀な決断に繋がる心理的要因の一つとなった可能性は否定できない。
犠牲者の中には、徳川家康の家臣であった加賀爪政尚や、秀吉の側近であった横浜一庵といった著名な武将の名も含まれている 9 。
秀吉、九死に一生を得る
城内にあって被災した秀吉自身も、命の危険に晒された。しかし、まさに九死に一生を得て、奇跡的に難を逃れた 3 。地震直後は、幸いにも倒壊を免れた台所施設で一夜を明かし、夜が明けるのを待って、指月伏見城から北東約1kmのより地盤の固い高台である木幡山に仮の小屋を建てて避難した 3 。この場所が、後に新たな伏見城が再建される地となる。
悲劇の要因―地盤の脆弱性
指月伏見城がこれほどまでに壊滅的な被害を受けた最大の要因は、その立地にあった。城が築かれた指月の丘は、かつて広大な巨椋池に面した湿地帯に隣接する場所であり、地盤が極めて軟弱だったのである 9 。平安時代より観月の名所として知られた風光明媚な景観を優先した立地選定が、結果的に被害を甚大化させる人災としての側面を持っていたことは、歴史の大きな教訓と言えよう。
第三章:京の都と方広寺大仏殿の悲劇
地震の猛威は、天下人の居城だけに留まらなかった。帝都・京都と、そこに建立された豊臣家繁栄の象徴たるべき巨大仏にも、無慈悲な爪痕を残した。伏見城の崩壊が「政治的・軍事的権威」の失墜であるとすれば、これから述べる方広寺大仏の損壊は、「宗教的・精神的権威」の失墜を意味する。秀吉は、この二つの巨大建造物によって天下を物理的にも精神的にも掌握しようとしたが、地震はその両方を同時に打ち砕いたのである。
表2:主要一次史料に見る被害状況の比較
史料名 |
著者 |
著者の立場 |
伏見城の被害記述 |
方広寺大仏の被害記述 |
京都市中の被害記述 |
『義演准后日記』 |
義演 |
醍醐寺座主(高位の僧侶) |
「大殿守悉崩テ倒了」「男女御番衆數多死」 11 |
「大仏左御手落、御胸崩」 11 |
(詳細な記述は少ない) |
『言経卿記』 |
山科言経 |
公家 |
「伏見御城ハテンシユ崩了」 11 |
「大佛ハ堂ハ不苦、但柱ヲ二寸程土ヘ入了」 11 |
「私宅ユカミ了」「當町ニハ…家顛倒了」 11 |
帝都・京都の惨状
京都の市中もまた、甚大な被害に見舞われた。由緒ある寺社仏閣も例外ではなく、東寺では仏殿や南大門が倒壊し、天龍寺や仁和寺といった名刹も大きな損害を被った 8 。公家である山科言経は、自身の体験を『言経卿記』に生々しく記録している。それによると、彼の邸宅は激しい揺れで歪み、危険を感じて家族と共に庭上へと避難し、そこで不安な夜を明かしたという。また、彼の住む町内では「川那卩宗兵衞、大野伊兵衞等家顛倒了、其外大破ニ及了」とあり、近隣の町家が倒壊・大破し、洛中が広範囲にわたって混乱に陥っていた様子が窺える 11 。
豊臣家繁栄の象徴、大仏の損壊
この地震がもたらした被害の中で、物理的な損壊以上に人々の心に衝撃を与えたのが、方広寺大仏殿の悲劇であった。秀吉が奈良・東大寺の大仏を凌ぐ規模で造立したこの巨大な木造大仏は、国家鎮護と豊臣政権の永続を祈願する、まさに権威の象徴であった 18 。
幸いにも、当時世界最大級の木造建築であった大仏殿そのものは倒壊を免れた。しかし、『言経卿記』によれば、その巨大な柱が二寸(約6cm)も地面にめり込むほどの凄まじい衝撃を受けており、建物の基礎構造に深刻なダメージが及んでいたことがわかる 11 。
そして、その内部に鎮座する本尊・盧舎那仏は、無残にも損壊した。『義演准后日記』には「大仏左御手落、御胸崩(大仏の左手が落ち、胸が崩れた)」と、その痛ましい姿が記録されている 11 。豊臣政権の守護仏たるべき存在が、天災の前には自らの身さえも守れなかったという事実は、人々に大きな衝撃と動揺を与えた。秀吉の支配が「天」に認められていないのではないかという、為政者にとって最も恐ろしい疑念が、人々の心に芽生えるには十分な出来事であった。
この大仏は、その後も悲運に見舞われる。地震後の修復作業中の慶長7年(1602年)、鋳造作業の炉から失火し、大仏もろとも壮麗な大仏殿は炎上、焼失してしまう 19 。建立からわずか7年、豊臣家の栄華を象徴した巨像は、灰燼に帰したのである。
経済都市・堺の被害
畿内の経済を支える大商業都市・堺もまた、この地震で深刻な被害を受けた。『言経卿記』は、和泉国・堺の状況について「事外相損、死人余多有之(ことのほか損壊し、死人あまり多くこれあり)」と記しており、家屋の倒壊や多数の犠牲者が出たことがわかる 16 。政治の中心地である伏見・京都だけでなく、経済の中心地である堺も打撃を受けたことで、畿内全体の社会経済活動は一時的に麻痺状態に陥ったと考えられる。
第四章:混乱下の対応と人心の動揺
未曾有の大災害に見舞われた権力者と民衆は、それぞれ異なる形でこの危機に対応しようとした。天下人・秀吉が「権威の再建」という政治的手段を講じたのに対し、名もなき民衆は「祈り」という精神的手段に救いを求めた。この対照的な反応は、同じ災害を経験しながらも、その受け止め方や対処法が社会的階層によって大きく異なっていたことを示している。
秀吉の初動―権威維持への渇望
権威の象徴たる伏見城を失った秀吉の対応は、驚くほど迅速であった。地震発生からわずか2日後の閏七月十五日には、指月より地盤の固い木幡山での新城再建に着手させている 3 。この驚異的なスピードは、倒壊した指月城から再利用可能な木材などの資材が多く残っていたことに加え、何よりも一刻も早く権威の象徴を復活させ、内外に自らの健在と政権の盤石さを示威する必要があったためである。これは単なる復旧工事ではない。権威の失墜を防ぎ、人心の動揺を鎮めるための、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。
「地震加藤」伝説の誕生と史実
混乱の中、主君への忠義を貫いた武将として後世に名を残したのが加藤清正である。朝鮮出兵を巡る意見の対立から秀吉の怒りを買い、伏見の屋敷で謹慎中であった清正が、大地震の発生を知るや、主君の安否を気遣い、いかなる咎めも覚悟の上で真っ先に伏見城へ駆けつけた、という「地震加藤」の美談は、講談や落語を通じて広く知られている 22 。この逸話は、主君への揺るぎない忠誠心の鑑として、特に明治以降の教育において称揚された 24 。
しかし、この感動的な物語は、残念ながら一次史料による裏付けがなく、後世の創作である可能性が高い。確実な史料の中には、地震当時、清正は京に不在であったことを示唆するものも存在する 9 。では、なぜこの伝説が生まれ、広く受け入れられたのか。それは、未曾有の国難に際し、人々が私心を捨てて主君のために尽くすという、理想の武将像、理想の忠義の形を清正に求めたからに他ならない。史実とは別に、この伝説の流布は、当時の人々が抱いていた価値観や社会心理を理解する上で、極めて興味深い事例である。
民衆の祈りと恐怖
絶え間なく続く余震に怯える民衆は、人知の及ばぬ天災に対し、神仏や超自然的な力に救いを求めた。『言経卿記』には、当時の民衆の切実な心情を伝える貴重な記録が残されている。それによると、地震除けの和歌を記した札を「門ニ押ス(門に貼る)」という風習が、京の町々で広まったという 21 。誰が始めたかもわからないこの行為は、科学的知識の乏しい時代、人々が目に見える形で不安を和らげ、共同体としての連帯感を確認しながら、この未曾有の恐怖を乗り越えようとした様を示している。
さらに、人々の不安を掻き立てるかのように、奇怪な現象が続く。地震発生の2日後、閏七月十五日には、「天から毛髪のようなもの」が降ってきたと『義演准后日記』は記録している 7 。これは遠方の火山噴火による火山毛であった可能性が指摘されているが、当時の人々にとっては、天がさらなる凶事をもたらそうとしているとしか思えなかったであろう。相次ぐ異常現象は、人々の間に終末観を一層色濃く広げていったに違いない。
第五章:政治的インパクト―揺らぐ権力基盤と天下の潮目
慶長伏見地震は、単なる自然災害に留まらず、豊臣政権の衰退と徳川の台頭という、日本の歴史における一大転換点を加速させた「触媒」として機能した。地震によって生じた権威の失墜、外交の失敗、そして財政の悪化という三重の打撃は、豊臣政権の屋台骨を根底から揺るがしたのである。
改元―天意をリセットする試み
地震や干ばつといった天変地異が続いたことを受け、朝廷は文禄五年十月二十七日を以て元号を「文禄」から「慶長」へと改めた 9 。これは、多発する凶事を旧年号と共に葬り去り、新たな御代の安寧を願うという、為政者の伝統的な対応であった。しかし、それは同時に、「文禄」の世が災厄に満ちた不吉な時代であったことを、政権自らが公に認めることでもあった。人心を一新しようとする試みは、裏を返せば、それだけ人心が離れつつあったことの証左でもあった。
慶長の役への道―外交交渉の破綻
前述の通り、地震による伏見城の崩壊は、明の使節に対する秀吉の面目を完全に潰した。国威発揚の舞台が瓦礫と化したことによる屈辱と、明側が提示した講和条件(秀吉を日本国王として冊封するという内容)への激しい怒りが、和平交渉の決裂を決定的なものにした。そして、この外交的失敗を取り繕うかのように、秀吉は慶長2年(1597年)、再び朝鮮半島へ大軍を送る慶長の役(第二次朝鮮出兵)という、破滅的な戦争へと突き進んでいく 2 。地震がなければ、あるいは和平交渉は異なる結末を迎えていたかもしれない。その意味で、この地震は東アジア全体の歴史にも大きな影響を及ぼしたと言える。
豊臣政権の威信低下と財政的打撃
絶対的権力者である秀吉自身が天災に襲われ、その居城と権威の象徴たる大仏が崩壊したという事実は、全国の諸大名の心に「豊臣の世も決して盤石ではない」という認識を植え付けた 18 。さらに、莫大な費用を要する伏見城の再建、方広寺の修復、そして第二次朝鮮出兵という三大事業が同時期に重なったことで、豊臣家の財政は深刻な打撃を受けた。天下統一の過程で蓄積された莫大な富は、これらの事業によって急速に費やされていった。
徳川家康の相対的浮上
畿内が地震によって甚大な被害を受け、豊臣政権がその対応に追われる一方で、徳川家康の領国である関東は、この地震による被害が皆無に等しかった 18 。家康は、被災した豊臣政権を尻目に、着々と領国経営を進め、国力を蓄えることができたのである。この非対称な被害状況は、豊臣と徳川の間のパワーバランスを、目に見えない形で、しかし確実に変化させた。歴史学者・磯田道史氏が指摘するように、この地震は「豊臣から徳川へ人心が移りはじめたきっかけ」であり、「完全に政治の潮目が変わった」と評価できるほどのインパクトを持つ出来事であった 18 。秀吉の死後、豊臣家が急速に衰退し、家康が天下を掌握していく歴史の大きな流れは、この慶長伏見地震によって敷かれたレールの上を進んでいった側面があることは、決して見過ごしてはならない。
終章:歴史の転換点としての大地震
伏見城再建と秀吉の最期
天下人・豊臣秀吉は、その執念で木幡山に新たな伏見城を完成させた。その壮麗さは以前にも増して輝いていたと言われるが、秀吉がその栄華を享受する時間は長くはなかった。地震による心労、その後の再出兵の失敗などが重なり、慶長三年(1598年)8月18日、再建された伏見城で波乱の生涯を閉じた 3 。彼の死期が、この大地震によって早められた可能性は否定できない。
災害史における慶長伏見地震
慶長伏見地震は、日本の災害史において極めて重要な位置を占める。特に、震源域や活動した断層帯が1995年の兵庫県南部地震と深く関連していることは、過去の災害が決して過去のものではなく、現代そして未来の防災を考える上で貴重な教訓を与えてくれることを示している 9 。また、権力の中枢が巨大な直下型地震に襲われた際に、いかなる政治的・社会的混乱が生じるのかを示す歴史的ケーススタディとして、後世に多くの示唆を与え続けている。
結論―見過ごされた歴史の分岐点
慶長伏見地震は、豊臣秀吉という一個人の権力だけでなく、彼が築き上げた一つの時代の「天動説」そのものを揺るがした。すなわち、「秀吉こそが天下の中心であり、その権力は神仏にも守られた不動のものである」という、当時の人々が抱いていた観念を根底から打ち砕いたのである。
この天災によって生じた権力の真空と人心の動揺は、徳川家康という新たな中心が台頭するための歴史的土壌を準備した。戦国時代から江戸時代へと至る大きな歴史の潮流は、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった軍事衝突だけで決定づけられたのではない。その背景には、この慶長伏見地震という、見過ごされがちでありながらも、日本の運命を決定づけた極めて重要な分岐点が存在したのである。大地は、時に人の世の理をも揺るがし、新たな時代への扉を開く。慶長伏見地震は、まさにそのような歴史の転換点であった。
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