明応地震(1498)
1498年の明応地震は、東海・東南海・南海の三連動地震。室町幕府の権威を失墜させ、戦国大名の台頭を加速。交通網寸断、飢饉、疫病を招き、社会経済に深刻な影響を与え、戦国乱世を加速させた。
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明応七年 天変地異報告書 ― 戦国初期日本の激震、その瞬間の記録と長期的衝撃
序章:明応七年、戦乱の世を揺るがした天変地異
西暦1498年、日本では応仁の乱(1467-1477)が終結して約20年の歳月が流れていた。しかし、その戦火が残した爪痕は深く、室町幕府の権威は地に堕ち、京都を中心とした中央の統制力は著しく減退していた。この権力の空白は、「下剋上」の風潮を全国に蔓延させ、各地で守護大名やその家臣、あるいは新興の国人領主たちが自らの実力をもって領国を支配し、勢力拡大を狙う、まさに戦国時代の黎明期であった。
この激動の時代において、主要な勢力はそれぞれの領国で緊張関係の中にあった。駿河・遠江国(現在の静岡県)では、今川氏親が家督争いを制し、領国支配の基盤を固めつつあった 1 。隣国の伊豆では、幕府から派遣された堀越公方・足利茶々丸が暴政を敷き、領民の不満が高まる中、駿河に身を寄せていた幕臣・伊勢盛時(後の北条早雲)が、その混乱に乗じて介入の機会を虎視眈眈と窺っていた 3 。一方、畿内では明応の政変(1493年)の余波が依然としてくすぶり、政治的な不安定さが続いていた。
このような社会にあって、大規模な自然災害に対する備えは皆無に等しかった。統一された国家による防災・救済システムは存在せず、ひとたび天変地異が起これば、その対応は各地域の領主の力量と、民衆の自助努力に完全に委ねられていた 5 。戦乱に明け暮れる社会は、自然の猛威に対して極めて脆弱な状態にあったのである。
この明応七年(1498年)に発生した巨大地震、すなわち明応地震は、このような政治的に極めて流動的かつ社会的に脆弱な状況を直撃した。それは単なる自然現象に留まらず、戦国初期の政治力学における能動的な「変数」として機能し、権力構造の変革を加速させる一種の「触媒」となった。既存の支配体制の脆弱性を白日の下に晒し、野心的な新興勢力には飛躍の好機を、そして領国を治める者にはその統治能力を問う試金石を突きつけたのである。この点において、明応地震は、後に豊臣政権の命運に大きな影響を与えた天正地震(1586年)や慶長伏見地震(1596年)といった戦国期の巨大災害の先駆けと位置づけることができる 6 。
以下の表は、明応地震を南海トラフで発生した他の巨大地震と比較し、その歴史的・地震学的な位置づけを明確にするものである。
表1:主要な南海トラフ巨大地震の比較
地震名 |
発生年 (西暦) |
推定マグニチュード |
震源域の特徴 |
主要な被害・特記事項 |
明応東海地震 |
1498年 |
- |
東海・東南海(連動) |
浜名湖今切口の形成、安濃津の壊滅。津波被害が特に甚大。 |
慶長地震 |
1605年 |
|
東海・東南海・南海(連動説) |
津波地震の可能性。房総から九州まで広範囲に津波被害。 |
宝永地震 |
1707年 |
|
東海・東南海・南海(同時発生) |
史上最大級の連動型地震。富士山宝永大噴火を誘発。 |
安政東海地震 |
1854年 |
|
東海・東南海 |
安政南海地震の30時間前に発生。現在の津波想定の基準。 |
安政南海地震 |
1854年 |
|
東南海・南海 |
安政東海地震と連動。 |
昭和東南海地震 |
1944年 |
|
東海・東南海 |
昭和南海地震と対になる。 |
昭和南海地震 |
1946年 |
|
南海 |
終戦直後の日本を襲った。 |
典拠: 3
第一部:その日、日本を襲った激震と大津波 ― リアルタイム・クロニクル
古文書に残された断片的な記録を時系列に沿って再構成することで、明応七年八月二十五日、日本の大地と沿岸を襲った未曾有の災害の経過を追体験する。
明応七年八月二十五日 辰の刻(午前8時頃)― 破壊の始まり
明応七年八月二十五日、辰の刻。多くの人々が朝の活動を始めた午前8時頃、突如として大地が激しく揺れた 9 。震源は南海トラフ沿いの東海道沖、北緯34.0度、東経138.0度と推定される 10 。フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む過程で長年にわたり蓄積された巨大な歪みが、この瞬間に一気に解放されたのである 17 。地震の規模はマグニチュード
からと推定され、そのエネルギーは凄まじかった 3 。
揺れは極めて広範囲に及んだ。京都では、公家の近衛政家が自身の日記『後法興院記』にその揺れを記録しており、その後1ヶ月以上にわたって余震が続いたことが記されている 15 。遠く離れた会津地方(現在の福島県)にまで揺れの記録が残っていることから、この地震が日本列島の中枢部を震撼させたことがわかる 9 。
地上の被害も甚大であった。畿内では、奈良の興福寺や摂津の四天王寺などで堂塔が破損・倒壊した 18 。紀伊国(現在の和歌山県)では、霊場・熊野へ続く山道が各所で崩落し、湯の峯温泉では湧出が停止するなど、山間部にも大きな被害をもたらした 18 。『実隆公記』の引用とされる記録には、「五畿七道諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ、…そのうち摂津国尤も甚しかりき」とあり、特に摂津国(現在の大阪府北部から兵庫県南東部)の被害が大きかったことが伝えられている 19 。
揺れの直後 ― 束の間の静寂と不気味な予兆
激しい揺れが収まった直後、沿岸部の人々は安堵する間もなく、次なる災厄の序章を目撃することになる。地震発生から間もなく、津波の第一波が沿岸に到達した。しかし、これは後に来る破局的な大津波に比べれば、比較的小規模なものであった。
悲劇を決定づけたのは、その後に訪れた異常な自然現象であった。伊勢・志摩地方の状況を伝える『皇代記』には、その生々しい記録が残されている。第一波が引いた後、沖合に向かって海水が猛烈な勢いで後退し始め、広大な海底が干上がった。そこには、取り残された無数の魚が跳ねていたという 20 。
この不可解で不気味な光景は、津波の知識を持たない人々にとっては、天からの恵みと映ったのかもしれない。人々は「不思議がり」、干上がった浜へ先を争うように下りていき、魚を拾い始めた 20 。この人間の素朴な行動、あるいは欲が、後に彼らを逃れようのない悲劇の渦中へと突き落とすことになった。自然が仕掛けた、あまりにも残酷な罠であった。
未の刻(午後2時頃)へ ― 「山の如き」大津波の到来
人々が浜辺に満ちていた頃、沖合に異変が生じた。水平線の彼方に、黒い壁のようなものが現れ、みるみるうちにその姿を大きくしていった。『皇代記』は、この第二波の様子を「山の如き高潮」と表現している 20 。この巨大な水の壁が、人々が最も無防備な状態にあった沿岸部に襲いかかった。その破壊力は想像を絶し、「海中から数万の軍勢が押し寄せたよう」であったと記されており、阿鼻叫喚の地獄絵図が眼前に広がるようである 20 。
津波の到達時刻には、地域によって差があったことが記録から読み取れる。地震発生は午前8時頃であったが、伊豆半島の江梨村(現在の沼津市)で津波被害が記録されたのは未の刻、すなわち午後2時頃とされている 15 。この6時間という時間差は、震源域が極めて広大で、複数の断層が時間差で動いた可能性や、津波が複雑な海底地形を伝播する過程で屈折・集中したことなどを示唆している。
津波の高さは圧倒的であった。紀伊半島から房総半島に至る広大な太平洋沿岸を襲い 3 、駿河湾沿岸の江梨や小川(現在の焼津市)で
、伊勢・志摩で$6\mathrm{m}10\mathrm{m}36\mathrm{m}$を超える地点まで到達した可能性が古文書の記述から指摘されている。これは、現在の津波防災の基準ともなっている安政東海地震(1854年)の津波高の約3〜4倍にも相当する規模であり、明応地震の津波がいかに規格外のものであったかを物語っている 3 。
夜、そして翌日へ ― 阿鼻叫喚の世界
日は暮れ、被災地は暗闇と恐怖に包まれた。しかし、悪夢は終わらなかった。『塔寺八幡宮続長帳』には「一日一夜三十度震」と記されており、絶え間なく続く強い余震が、生き残った人々の心身をさらに苛んだ 21 。家屋は倒壊し、津波から逃れても、余震による二次災害の危険が常に付きまとった。
夜が明け、朝日が照らし出したのは、昨日までの日常が跡形もなく消え去った、信じがたい光景であった。沿岸の村々はことごとく流失し、瓦礫と化した家々の残骸、そして数えきれないほどの人々の亡骸が浜辺や内陸に打ち上げられていた。その惨状は、遠く京都の都にまで伝えられた。『後法興院記』には、地震から1ヶ月後の九月二十五日の条に、「伝聞に云く、去月の大地震の日、伊勢、参川、駿河、伊豆に大波打ち寄せ、海辺二、三十町の民屋悉く水に溺れ、数千人命を没す。其の外、牛馬の類は其の数を知らずと云々。前代未聞の事なり」と記されている 15 。海岸から2〜3km内陸の民家までがことごとく流され、数千人が命を落としたという情報は、この災害が局地的なものではなく、東海道一帯を壊滅させた広域・激甚災害であったことを明確に示している。
第二部:沿岸諸国の惨状 ― 被災地ごとの詳細報告
明応地震がもたらした被害は、東海道沿岸の各地域に深刻な爪痕を残した。古文書の記述、地域の伝承、そして近年の地質学的調査から、被災地の具体的な状況を詳細に分析する。
表2:明応地震による主要被災地の被害状況一覧
地域 |
具体的な地名 |
被害内容(古文書・伝承に基づく) |
推定津波高・遡上高 |
典拠史料・調査 |
遠江 |
浜名湖・橋本 |
湖口決壊(今切口形成)、港湾都市「橋本」が壊滅・水没。 |
- |
『東栄鑑』等 |
駿河 |
焼津・小川 |
「小川悉損失す」、林叟院の旧地が海没、死者多数。 |
- |
『妙法寺記』、『日海記』 |
伊豆 |
江梨 |
「庶人海底に沈むこと数知れず」、家屋・財産流失。 |
- |
『江梨航浦院開基鈴木氏歴世法名録』 |
|
仁科 |
海岸から約$2\mathrm{km}$内陸まで津波到達。 |
|
佐波神社棟札 |
伊勢 |
安濃津 |
「日本三津」と称された国際港が壊滅、24年後も荒野のまま。 |
- |
『宗長日記』 |
|
大湊 |
家屋流失1,000戸、死者5,000人。 |
- |
『皇代記』 |
志摩 |
荒島など |
死者250人以上。伊勢・志摩全体で死者1万人との記録も。 |
- |
『皇代記』 |
紀伊 |
- |
熊野の山道崩落、温泉湧出停止。 |
- |
- |
典拠: 3
東海地方 ― 地形を変えた激甚災害
浜名湖の変貌と「今切口」の誕生
明応地震がもたらした最も劇的かつ永続的な影響の一つが、浜名湖の地形変化である。地震以前、浜名湖は遠州灘とは砂州によって隔てられた淡水湖であり、「浜名川」という川を通じて海に注いでいた 9 。しかし、明応七年の巨大地震とそれに続く大津波は、この脆弱な砂州を打ち破った。
記録によれば、地震動と津波の強大なエネルギーによって、湖と海を隔てていた陸地がおよそ360mにわたって決壊 9 。海水が湖に流れ込み、浜名湖は汽水湖へとその姿を一変させた。この時、「今、切れた」場所であることから、この新たな湖口は「今切口(いまぎれぐち)」と呼ばれるようになった 24 。この出来事は、単なる地形の変化に留まらなかった。かつて浜名川の河口に位置し、港湾都市として栄えていた「橋本」の町が、この地殻変動と津波によって完全に壊滅し、水没してしまったのである 17 。生き残った橋本の住民たちは、新たに生まれた今切口周辺の新居(あらい)などへ移住し、16世紀半ばにかけて新たな宿場町を形成していくことになる 27 。
なお、記録の中には、地震の翌年である明応八年(1499年)の暴風雨による洪水が今切口をさらに拡大させたと記すものもあり 25 、地震とそれに続く気象災害が複合的に作用し、この大規模な地形変化を決定づけたプロセスが浮かび上がってくる。
駿河・伊豆沿岸の被害
駿河・伊豆沿岸は、震源域に近いため、津波による被害が特に甚大であった。
- 焼津・小川湊 : 甲斐国(山梨県)の寺院で記された年代記『妙法寺記』には、「小川悉損失す(おがわことごとくそんしつす)」と簡潔ながらも壊滅的な被害を伝える一文がある 15 。さらに、静岡市清水区の海長寺に残る『日海記』には、同寺の僧侶が布教のために訪れていた小川の末寺で津波に遭遇し、寺院もろとも津波に飲み込まれ、多くの人々が命を落としたという生々しい記録が残されている 15 。また、この地域には、元々海辺にあった林叟院という寺院の旧地が津波によって海と化してしまったという伝承も残っており、近年の研究では当時の浸水高は$6.3\mathrm{m}$以上に達したと推定されている 17 。
-
江梨(沼津市)
: 伊豆半島西岸の江梨村では、地元の豪族・鈴木家に伝わる『江梨航浦院開基鈴木氏歴世法名録』に、津波によって「庶人海底に沈むこと数知れず」、鈴木家代々の系図や財宝も家屋と共に全て流失したと記されている
3
。一方で、高台にあった航浦院の本堂は津波の被害を免れた。この本堂の敷地の標高(
)と、津波で被災したとみられる場所の標高を比較する調査から、江梨における津波の浸水高は$10.9\mathrm{m}$以上、$12.6\mathrm{m}$以下であったと、極めて高い精度で推定されている 15 。 - 仁科(西伊豆町) : 西伊豆の仁科では、海岸から約$2\mathrm{km}9.6\mathrm{m}$であったと特定されている 15 。
伊勢湾の悲劇 ― 国際港湾都市の終焉
安濃津の壊滅
明応地震は、伊勢湾に面した国際港湾都市・安濃津(あのつ)に終焉をもたらした。安濃津は、博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)と並び「日本三津」と称され、中国の歴史書にもその名が記されるほどの重要な港であった 22 。伊勢国の「一都会」として4,000〜5,000軒もの家々が立ち並び、国内外の物資と人々が集まる一大経済拠点として繁栄を極めていた 34 。
しかし、この大都市は明応地震による大津波によって、文字通り一瞬にしてその機能を停止し、壊滅した 23 。その惨状は、地震から24年後の大永二年(1522年)にこの地を訪れた連歌師・宗長の紀行文『宗長日記』に克明に記されている。「此津、十余年以来荒野となりて、四、五千間の家、堂塔あとのみ、浅茅、よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり」(この港は、十数年来、荒野となってしまい、四、五千軒あった家や寺社の堂塔は跡だけが残り、チガヤやヨモギが生い茂る森のようになっている。本当に、ニワトリや犬の姿は見えず、鳴くカラスさえ稀である) 27 。この記述は、災害から四半世紀近くが経過しても、復興が全く進まず、かつての大都市が人の気配すらない広大な荒れ地と化していたという衝撃的な事実を伝えている。
大湊・志摩の被害
伊勢湾の他の港町も甚大な被害を受けた。『皇代記』によれば、伊勢大湊(現在の伊勢市)では、津波が八幡社の松を船もろとも越えるほどの高さに達し、家屋1,000戸が流失、死者は5,000人に上ったとされる 10 。また、志摩国荒島(現在の鳥羽市)でも250人以上の犠牲者が出たと記録されている 20 。一部の記録では、伊勢・志摩全体での死者は1万人に達したとも伝えられており、伊勢湾岸一帯が壊滅的な打撃を受けたことがわかる 10 。
議論の的、鎌倉 ― 二つの明応地震
鎌倉の高徳院にある大仏が、現在のように屋外に鎮座している理由として、「明応七年(1498年)の津波で大仏殿が流されたため」という説は広く知られている 3 。しかし、近年の歴史地震学の研究は、この通説に重要な修正を迫っている。
詳細な史料批判の結果、鎌倉を襲った津波被害の記録が、二つの異なる日付で存在することが明らかになった。
- 明応四年(1495年)八月十五日の記録 : 『鎌倉大日記』には、「明応四乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢入大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」との記述がある 21 。これは、大地震と津波(洪水)が発生し、海水が鶴岡八幡宮の参道である段葛(千度檀)にまで達し、その勢いは高徳院(大仏殿)の境内にあった堂や建物を破壊し、200人余りの溺死者を出した、という内容である。
- 明応七年(1498年)八月二十五日の記録 : 『塔寺八幡宮続長帳』には、この日に大地震があったこと、そして鎌倉の由比ヶ浜で海水が湧き、大仏殿まで上がったという記述がある 21 。
近年の研究では、信頼性の高い同時代の記録(『後法興院記』など)との照合から、被害を具体的に記した前者の明応四年の記録の信憑性が高いと評価されている 21 。そして、この明応四年の地震は、伊東市宇佐美遺跡で発見された15世紀末の津波堆積物の分析結果などと合わせ、南海トラフではなく相模トラフを震源とする
関東地震 であった可能性が極めて高いと考えられている 21 。
一方で、明応七年の地震は南海トラフを震源とする東海・東南海地震であり、鎌倉に津波が到達したという明確な一次史料は乏しい。したがって、鎌倉大仏殿の「堂舎屋」を破壊した津波は、明応七年の南海トラフ地震によるものではなく、その3年前に発生した 明応四年(1495年)の関東地震 によるものである可能性が濃厚である。同じ「明応」という元号の短い期間に、二つの異なる巨大地震が関東と東海を襲ったことで、後世にその記憶が混同され、「明応七年の地震で大仏殿が流された」という通説が形成されたと考えられる。これは、災害史研究において、伝承や後代の編纂物だけでなく、同時代の史料に基づいた厳密な検証がいかに重要であるかを示す好例と言える。
第三部:激動の時代における政治的含意 ― 戦国大名たちの動向
未曾有の天災は、単に人々の生活や地理を破壊しただけではない。それは戦国初期の権力闘争の力学に直接介入し、新たな支配者の台頭を促し、また既存の領主には新たな統治のあり方を強いる、政治的な触媒として機能した。
伊勢盛時(北条早雲)― 天災を好機とした「下剋上」
明応地震がもたらした混乱を、自らの野望の実現のために最大限に利用した人物が、伊勢盛時(後の北条早雲)であった。今川家の家臣として駿河に拠点を置いていた盛時は、当時、伊豆国を支配していた堀越公方・足利茶々丸の打倒を計画していた 3 。茶々丸は暴政によって人心を失っており、盛時にとっては介入の大義名分があった。
そこに、明応七年の大地震と津波が伊豆・駿河沿岸を襲った。沿岸部の村々は壊滅し、堀越公方の支配体制は根底から揺らいだ。防御機能は麻痺し、領民は混乱の極みにあった。盛時はこの天災による混乱を千載一遇の好機と捉えた。古文書には、盛時が「津波による混乱で戦いが不利になることを恐れ」、動員可能な手勢だけを率いて電撃的に行動を起こしたと記されている 3 。彼は足利茶々丸が籠る深根城を急襲し、これを攻め滅ぼして伊豆一国を手中に収めた 3 。
この一連の動きは、災害が軍事行動に与える影響を如実に示している。津波によって引き起こされた社会の麻痺状態は、奇襲を得意とする盛時の戦術にとって、この上なく有利な戦場環境を提供した。一介の幕臣に過ぎなかった盛時が、伊豆一国の支配者、すなわち戦国大名の魁となる上で、明応地震が決定的な引き金の一つとなった可能性は極めて高い 3 。
さらに注目すべきは、盛時が伊豆平定後に行ったとされる民政である。伝承によれば、彼は被災した領民に薬を配布し、年貢を減免するなどの救済措置を講じたという 4 。これが事実であれば、盛時は単に武力で領国を奪取しただけでなく、災害対応という具体的な行政手腕を示すことで、新たな支配者としての正当性を領民に認めさせ、人心を掌握しようとしたことになる。これは、まさしく「下剋上」を体現する戦国大名の統治術の萌芽であった。
今川氏親 ― 災害から学ぶ「戦国大名の領国経営」
伊勢盛時が天災を飛躍のバネとした一方、駿河・遠江の領主であった今川氏親は、自らの領国が激甚災害の直撃を受けるという、統治者としての厳しい試練に直面した 1 。
氏親が具体的にどのような災害対応を行ったかを直接示す同時代の詳細な史料は限られている。しかし、後代の記録や状況からの推察によれば、彼は領主として迅速な対応に努めたと考えられる。「駿府の蔵を開き、備蓄していた米を被災民に分け与え、倒壊した家屋の再建にも力を尽くした」といった記述も存在する 2 。また、領国の経済的基盤であった清水港をはじめとする沿岸部の港湾機能の復旧を急いだことは、領国経営の観点から当然の措置であっただろう 2 。
より重要なのは、この未曾有の災害経験が、氏親の統治思想そのものに与えた長期的影響である。目の前で自らの領国が破壊され、多くの民が命を落とす様を目の当たりにした氏親は、領国の安定と富国強兵のためには、単なる軍事力だけでは不十分であり、民生の安定、検地による領内状況の正確な把握、そして非常時に備えた社会システムの構築が不可欠であると痛感したに違いない。
この経験は、氏親が後に制定することになる、戦国時代の分国法の代表例である『今川仮名目録』(1526年制定)に結実していく。この法典は、「喧嘩両成敗」に代表されるような領国内の秩序維持を徹底し、領主の権力を強化することで、より強固で中央集権的な統制の取れた領国を築こうとする強い意志の表れである 41 。その背景には、明応地震の際に露呈したであろう社会の脆弱性を克服し、災害にも耐えうる強靭な領国を作り上げようとする、氏親の統治者としての強い決意があったと解釈できる。
このように、明応地震は、北条早雲には「武力と民政の併用」による新たな支配形態を、今川氏親には「体系的な法整備への志向」を促した。この災害は、戦国大名の役割を、単なる軍事指導者から、領民の生命と財産を保護し、経済を運営する「領域国家の経営者」へと転換させる、一つの歴史的な契機となったのである。
第四部:破壊と再生の物語 ― 災害が変えた社会と地理
明応地震がもたらした衝撃は、一過性のものではなかった。それは日本の社会と地理に不可逆的な変化を刻み込み、人々の生活様式や経済活動のあり方を長期にわたって規定することになった。
失われた都市、生まれた町 ― 住民移動と都市の再編
災害は、いくつかの都市を歴史から消し去り、同時に新たな町の誕生を促した。
- 安濃津から津へ : 壊滅的な被害を受けた国際港湾都市・安濃津の住民は、元の場所での大規模な復興を断念した。彼らは集団でより内陸の安全な場所、すなわち現在の津市の中心部へと移住し、新たなコミュニティを形成した 27 。この移住によって形成された町が、後の藤堂高虎による津城の城下町の基礎となった。明応地震は、中世の大都市を消滅させ、近世の城下町の揺りかごを用意するという、都市の立地そのものを変えてしまうほどのインパクトを持っていたのである 35 。
- 橋本から新居へ : 同様に、浜名湖の湖口にあった港町・橋本も津波によって水没し、歴史の舞台から姿を消した。生き残った住民たちは、新たに開かれた今切口の周辺に移り住み、後の東海道の重要な宿場町となる「新居」の町を形成していった 27 。
これらの事例は、災害が単なる破壊だけでなく、人々の移住を通じて新たな都市構造を生み出す「創造的破壊」の側面を持つことを示している。
交通と経済の再編
地理的な変化は、交通網と経済にも大きな影響を及ぼした。
- 東海道の寸断 : 浜名湖に「今切口」が誕生したことで、それまで陸路で繋がっていた東海道のこの区間は完全に分断された。これにより、今切口を船で渡る「今切の渡し」が設置され、江戸時代を通じて東海道の重要な海上交通路となった 29 。これは、一つの地震が日本の大動脈のルートを数百年単位で変えてしまったことを意味する。
- 港湾機能のシフト : 伊勢湾の経済を牽引していた国際港・安濃津の機能停止は、周辺地域の海上交易ネットワークに大きな変動をもたらした。安濃津が担っていた役割は、他の港へと分散・移転していったと考えられる。例えば、今川氏が支配し、災害からの復興に力を注いだであろう駿河の清水港などの重要性が、相対的に高まった可能性も指摘できる。
戦国期における災害復興の様相
明応地震後の復興の道のりは、極めて困難なものであった。その背景には、戦国時代という時代そのものの特性があった。
- 中央政府の不在 : 当時の室町幕府には、全国規模の災害に対して、体系的な救済活動や復興支援を行う財政力も政治力もなかった。復興は、完全に被災地の領主と住民の自助努力に委ねられた。
- 復興の遅滞 : 戦乱が日常である時代において、大規模な土木工事や計画的な都市再建に必要な資源(労働力、資金、資材)を確保することは至難の業であった。連歌師・宗長が記録した、被災から24年が経過してもなお荒野のままであった安濃津の姿は、戦国期における復興の困難さを何よりも雄弁に物語っている 34 。
- 江戸時代との比較 : この状況は、後の江戸時代とは対照的である。江戸時代には、幕府による被災藩への復興資金の貸付(御救普請)や、藩の垣根を越えた治水工事への協力など、より体系化された救済・復興システムが構築されていた 5 。戦国期の災害は、領主の力量を直接的に試し、乗り越えられなければ即座に地域の衰退や権力者の交代に結びつく、より過酷な現実を突きつけるものであった。
終章:明応地震が現代に問いかけるもの
明応七年(1498年)の巨大地震は、その被害の甚大さ、そして戦国初期の歴史に与えた影響の大きさにもかかわらず、長らく歴史の動乱の中に埋もれ、宝永地震(1707年)や安政東海地震(1854年)ほどには広く知られてこなかった。しかし、古文書の丹念な解読と、津波堆積物などの地質学的調査によって、その驚くべき実像が次々と明らかになっている。それは、南海トラフ巨大地震が秘める破壊のポテンシャルを物語る、第一級の歴史的証拠である。
この災害を生き延びた人々が残した記録には、現代に生きる我々への貴重な教訓が刻まれている。伊勢の惨状を伝えた『皇代記』は、その記録の最後にこう結んでいる。「後代の人、地震の時の用心のため、懇ろに注し置くものなり」(未来の世代の人々が、地震の時に用心するために、ここに心を込めて書き記しておく) 20 。異常な引き潮の後に、山のような大津波が来るという教訓。それは、500年以上前の人々が、あまりにも多くの犠牲と引き換えに後世に残した、命のメッセージに他ならない。
そして、明応地震は現代の防災計画に対しても、重要な警鐘を鳴らしている。沼津で海抜$36\mathrm{m}$まで津波が遡上した可能性や、各地で観測された津波の高さは、現在の防災想定の主な基準となっている安政東海地震の規模を上回る可能性を示唆している 3 。過去に実際に起きた災害の記録を深く、そして謙虚に学ぶこと。それは、未来に起こりうる災害に対する我々の想像力を涵養し、机上の空論ではない、より実効性のある防災体制を構築していく上で、不可欠な営為なのである。明応地震の記憶は、戦国という遠い時代の物語ではなく、今なお活動を続ける南海トラフと共存する我々自身の未来への、重い問いかけであり続けている。
引用文献
- 戦国時代の駿府はどんな土地?明応地震が影響で首都になれなかった? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/prefectures-of-japan/sunpu/
- 今川氏親(いまがわうじちか) 拙者の履歴書 Vol.404~二国を束ね ... https://note.com/digitaljokers/n/n24586474e89f
- 明応地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E5%9C%B0%E9%9C%87
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- 令和7年(2025年)6月公開講座『複雑すぎてわからない?~室町 https://www.tamareki-kamakura.com/202506-2/
- 戦国争乱と巨大津波―北条早雲と明応津波― | 「雄山閣」学術専門書籍出版社 https://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8282
- 今川氏真が直面した領国経営の「選択」と「集中」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22387
- 今川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F
- 今川仮名目録 ~スライド本文・補足説明~ https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/4-2.pdf
- 街の紹介:ゴールドライフ高茶屋 https://life.goldage.co.jp/facility-takacyaya/facility-takacyaya-town/