最終更新日 2025-09-19

朝鮮通信使来日(1607)

1607年、朝鮮通信使が来日。秀吉の朝鮮出兵で断絶した日朝関係を徳川家康が回復させ、平和的交流の時代が始まった。これは戦国時代の終焉と徳川外交の黎明を象徴する出来事であった。
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慶長十二年 回答兼刷還使来日詳報:戦国終焉の象徴と徳川外交の黎明

序章:戦禍の記憶と和平への胎動 ―なぜ1607年だったのか―

慶長12年(1607年)、朝鮮王朝からの使節団が江戸に来着した。この出来事は、単に江戸時代における日朝交流の始まりを告げるものではない。それは、豊臣秀吉が引き起こした未曾有の侵略戦争、すなわち文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)という、戦国時代の負の遺産を清算し、徳川の治世による新たな国際秩序の構築を内外に宣言する、極めて象徴的な転換点であった。この歴史的事件を理解するためには、まずその背景にある戦禍の深い爪痕と、平和へと向かう政治的力学を解き明かす必要がある。

文禄・慶長の役が残した爪痕

豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵は、朝鮮半島全土を焦土へと変え、両国間に修復しがたいほどの深い断絶と不信感をもたらした 1 。この戦争は、国家間の武力衝突に留まらず、朝鮮の民衆にとっては生活基盤と文化、そして人々の尊厳そのものが踏みにじられた国家的トラウマであった。数十万人ともいわれる人々が捕虜として日本へ強制的に連行され、その中には多くの陶工や学者、職人が含まれていた 1 。彼らの拉致は、朝鮮にとっては文化的な損失であると同時に、家族を引き裂かれた無数の悲劇を生み出した。国交の断絶とは、こうした癒しがたい記憶の上に成り立っていたのである。

徳川家康の対朝鮮政策転換

秀吉の死後、日本の政治的実権を掌握した徳川家康は、その対外政策において秀吉の膨張主義を明確に否定し、朝鮮との国交回復へと大きく舵を切った 4 。家康自身が慶長の役には反対の立場であり、秀吉の死後は前田利家らと共に日本軍の撤兵を主導したとされている 5 。その姿勢は、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利を収め、天下人としての地位を固めると、より一層明確になる。家康は戦後処理に追われる間もなく、対馬藩主の宗氏に対し、朝鮮との国交回復交渉に着手するよう指示を下した 5 。この迅速な行動は、家康の描く新たな国家構想において、朝鮮との関係正常化が極めて高い優先順位を占めていたことを示唆している。

家康のグランドストラテジー

家康にとって、朝鮮との国交回復は単なる善隣友好政策ではなかった。それは、彼の築き上げようとする新たな徳川の世の礎を固めるための、多層的な目的を持つ高度な政治戦略(グランドストラテジー)の一環であった。

第一に、 国内統治の安定化 である。関ヶ原の戦いは終結したものの、西国には依然として豊臣恩顧の大名が多く存在し、大坂には豊臣秀頼がいた。彼らの軍事力を削ぎ、そのエネルギーを内向きの統治や平和的な経済活動へと転換させることは、徳川政権の安定にとって不可欠であった 7 。朝鮮使節の招聘と、その道中における饗応を西国大名に負担させることは、彼らの財力を削ぐと同時に、徳川の権威への服従を強制する効果的な手段であった。

第二に、 徳川政権の正統性の誇示 である。秀吉が破壊した国際関係を、自らの手で平和的に再構築してみせることは、徳川の治世が秀吉のそれよりも優れ、平和と安定をもたらすものであることを内外に示す絶好の機会であった 4 。外国からの使節を丁重に迎え入れる儀礼は、将軍の権威を国際的に可視化し、徳川政権が日本を代表する唯一の中央政府であることを証明する政治的デモンストレーションに他ならなかった。この外交イベントは、家康にとって対外的な「和解」であると同時に、国内向けの「戦後処理完了宣言」であり、秀吉の負の遺産を清算し、徳川の時代の到来を告げる、計算され尽くした政治的パフォーマンスだったのである。

第三に、 経済的実利の追求 である。対馬藩にとって朝鮮貿易の再開が死活問題であったことは言うまでもないが 1 、それは西日本の諸藩にとっても大きな経済的利益をもたらすものであった。平和的な通交関係の確立は、経済の活性化を通じて国内の安定に寄与するという、実利的な側面も持ち合わせていた。

このように、1607年の使節来日は、戦国という時代の暴力性を克服し、新たな秩序を構築しようとする徳川家康の強い意志と、国内政治と国際関係を連動させる巧みな戦略の結実だったのである。

第一章:対馬宗氏の綱渡り外交 ―国書偽造の真相―

徳川家康の国交回復という大方針と、朝鮮側の深い不信感との間に立ち、この困難な交渉を現実のものとしたのが、国境の島・対馬を治める宗氏であった。彼らの置かれた絶体絶命の状況と、藩の存続を賭けた苦渋の決断がなければ、1607年の使節来日は実現しなかったであろう。

対馬藩の宿命と朝鮮側の厳しい要求

対馬は山がちで耕作地に乏しく、古来より朝鮮との中継貿易を経済的な生命線としてきた 1 。秀吉の朝鮮出兵は、宗氏にとってまさに死活問題であった。貿易路は断絶し、島は国防の最前線へと変貌し、経済は破綻寸前に追い込まれた 9 。家康からの国交回復交渉の命令は、藩の存亡を賭けた起死回生の好機であった 11

しかし、交渉の道のりは険しかった。文禄・慶長の役で甚大な被害を受けた朝鮮王朝は、日本に対し深い不信感を抱いており、国交再開の条件として極めて厳しい要求を突きつけた。その核心は二点に集約される。第一に、 日本側が先に国書を送り、公式に和議を要請すること 。これは実質的に、侵略戦争に対する謝罪の意を示すことを求めるものであった。第二に、 宣陵(ソンルン)・靖陵(チョンルン)といった王陵を暴いた犯人(犯陵賊)を捕らえ、朝鮮側に引き渡すこと であった 6

国書偽造という禁じ手

これらの要求は、交渉担当者である対馬藩主・宗義智を窮地に陥れた。新たに「征夷大将軍」となった徳川家康が、朝鮮国王に対し下手に出る形で国書を発信することは、幕府の権威に関わる問題であり、到底受け入れられるものではなかった。また、戦乱の混乱の中で行われた王陵盗掘の犯人を特定し、身柄を確保することも事実上不可能であった。

幕府の威信と朝鮮側の要求との間で板挟みとなった宗義智と、その家臣である景轍玄蘇、柳川調信らは、究極の選択を迫られる。そして彼らは、藩の存続を賭け、歴史を動かす禁じ手に打って出た。すなわち、 徳川家康の名を騙った国書を偽造し、朝鮮側に渡す という前代未聞の方策である 1 。さらに、この偽の国書に対する朝鮮側からの返書を受け取った際には、その内容が偽造の事実と矛盾しないよう、

返書そのものも幕府に提出する前に改竄した のである 1

「互恵的偽善」の上に築かれた和平

驚くべきは、朝鮮側がこの国書を、おそらくは偽造の可能性を認識しつつも、公式に受け入れ、使節派遣を決定したことである 14 。この背景には、朝鮮が直面していたもう一つの安全保障上の脅威があった。北方において、女真族(後の後金、清)が急速に勢力を拡大しており、朝鮮の国境を脅かし始めていたのである 8 。朝鮮王朝にとって、北方の脅威に専念するためには、南方の日本との関係を安定させることが急務であった。

ここに、日朝双方の国益と、その実現のために「嘘」を黙認するという、極めて現実的な政治的妥協が成立する。日本側(対馬藩)は、幕府の権威を損なうことなく交渉を進めるために国書を偽造した。朝鮮側は、国内の対日強硬派を抑え、北方問題に対処するという戦略的判断から、その偽造を黙認した。両国は公式な「面子」を保ちつつ、和平という「実利」を得るために、対馬藩の偽造という非公式な嘘を暗黙の了解事項としたのである。1607年の国交回復は、清廉な友好の証というよりも、このような「互恵的偽善」の上に築かれた、冷徹な国際政治の産物であった。対馬藩の命懸けの偽造工作は、この複雑な関係性における「必要悪」としての潤滑油の役割を果たしたと言えよう。

第二章:回答兼刷還使、漢陽を発つ ―使節団の構成と目的―

対馬藩の外交努力と、日朝双方の政治的判断が交錯する中で、ついに朝鮮からの使節派遣が決定された。この使節団は、その名称、構成、そして与えられた任務において、極めて特殊な性格を帯びていた。

回答兼刷還使という名称

江戸時代を通じて計12回派遣された朝鮮通信使のうち、慶長12年(1607年)の第1回から寛永元年(1624年)の第3回までの使節は、通称の「朝鮮通信使」とは異なり、「 回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし) 」という正式名称で呼ばれた 1 。この名称には、使節団に課せられた二つの重大な任務が明確に示されている。

  • 回答 : これは、対馬藩が持参した(偽造された)徳川家康の国書に対し、朝鮮国王が公式に「回答」するという意味を持つ 8 。形式上は日本の要請に応える形をとりつつ、国交回復の主導権が朝鮮側にあることを示す狙いがあった。
  • 刷還 : これは、文禄・慶長の役の際に日本へ拉致された朝鮮人被虜人を「刷(あつ)め還(かえ)す」、すなわち連れ戻すことを意味する 3 。数万人にのぼる同胞の帰還は、朝鮮王朝にとって国民の期待に応えるための最重要課題であり、使節派遣の最大の目的の一つであった 7

使節団の壮麗な陣容

慶長12年の第1回回答兼刷還使は、正使(せいし)の 呂祐吉(ヨ・ウギル) 、副使(ふくし)の 慶暹(キョン・ソム) 、従事官(じゅうじかん)の**丁好寛(チョン・ホグァン)**という三使(さんし)を筆頭とする、総勢450名から500名を超える大規模な外交使節団であった 20

その構成は極めて多彩であり、単なる外交官の集団ではなかった。

  • 三使 : 正使、副使、従事官は、いずれも朝鮮王朝の中枢を担う文官エリートであり、将来の政府首脳候補者から選抜された 15
  • 専門家集団 : 外交文書の作成を担当する製述官や書記、当代一流の画家や医師、複数の言語に通じた訳官(通訳)、そして儀礼や宴席で朝鮮の文化を披露するための楽隊や、馬上で曲芸を行う馬上才なども同行した 21
  • 随員 : これら上層部のほか、彼らの身の回りの世話をする者、護衛の武官、そして数百隻の船を操る船乗りなど、多くの人々で構成されていた 23

この壮麗な陣容は、徳川幕府に対して朝鮮の国威と文化の高さを誇示する目的も有していた。彼らは外交使節であると同時に、朝鮮文化の粋を集めた文化使節団としての性格を色濃く帯びていたのである。

使節団の多目的性

回答兼刷還使に与えられた任務は、公式発表の裏に、より戦略的な目的を隠し持っていた。

  1. 公式目的 : 朝鮮国王の国書を徳川将軍に奉呈し、日朝間の国交を正式に回復すること。そして、日本各地に散らばる朝鮮人被虜人を可能な限り捜索し、故国へ連れ帰ること 3
  2. 裏の目的(情報収集) : 使節団には、もう一つの重要な任務が課せられていた。それは、戦乱が終息し、徳川家康によって新たな政権が樹立された日本の国情を、自らの目で詳細に視察し、本国に報告することであった 24 。政権の安定度、軍事力の実態、経済の状況、そして民衆の暮らしぶりまで、あらゆる情報が収集の対象となった。副使・慶暹が道中の見聞を詳細に日記として記録した『
    海槎録(ヘサロク) 』は、まさにこの諜報任務の成果物であり、当時の日本社会を知るための第一級の史料となっている 25

決死の覚悟で日本へ渡る使節団は、和平交渉と人道支援という表の顔の裏で、冷徹な情報分析官としての役割も担っていたのである 19

第三章:江戸への道程 ―リアルタイム時系列詳報―

慶長12年(1607年)初頭、漢陽(現在のソウル)を発った一行の旅は、帰国まで約7ヶ月に及ぶ壮大なものであった。副使・慶暹が残した『海槎録』や、日本側の諸記録を基に、その行程を時系列で再現する。この道程は、単なる移動の記録ではなく、初めて見る徳川日本の姿を使節の目が捉え、各地で文化が交差した「動く外交の舞台」そのものであった。

回答兼刷還使 行程表(慶長12年 / 1607年)

日付(新暦/旧暦)

場所

主要な出来事・特記事項

典拠

2月8日 / 1月12日

漢陽(ソウル)

国王・宣祖に拝謁後、呂祐吉を正使とする一行が出発。

27

3月下旬

釜山

約20日間の陸路を経て釜山に到着。渡海準備を行い、対馬藩が用意した船団と合流。永嘉台にて航海の安全を祈る海神祭を執り行う。

22

4月上旬

対馬・府中(厳原)

釜山を出航し、対馬に到着。藩主・宗義智による最初の饗応を受ける。ここから対馬藩士約800名が護衛として同行する。

22

4月中旬

壱岐・相島

壱岐を経由し、筑前・相島(福岡藩領)に上陸。福岡藩主・黒田長政による饗応を受ける。

8

4月24日 / 3月28日

上関(山口県)

赤間関(下関)を経て、長州藩領の上関に寄港。藩主・毛利輝元からの饗応を受け、藩の迎賓館である御茶屋に宿泊。

8

5月上旬

蒲刈・牛窓・室津

瀬戸内海を東進。安芸・蒲刈(広島藩)、備前・牛窓(岡山藩)、播磨・室津(姫路藩)など、風光明媚な寄港地で各藩から盛大な饗応を受ける。

6

5月中旬

大坂

摂津・大坂に上陸。海路の旅を終える。大坂町奉行が接待役を務め、壮麗な行列は多くの見物人を集めた。ここから淀川を川船で遡上する。

1

6月上旬

京都・伏見

伏見に到着し、ここから江戸まで陸路の旅が始まる。京都所司代の出迎えを受ける。

1

6月17日 / 5月24日

江戸

東海道を約2週間かけて進み、品川宿を経て江戸に到着。幕府の役人に出迎えられ、宿舎に入る。

22

6月29日 / 6月6日

江戸城

二代将軍・徳川秀忠に謁見し、国書を奉呈する。

8

7月中旬

駿府(静岡)

江戸を発ち、帰路の東海道を進む。駿府にて大御所・徳川家康に謁見。家康自らの歓待を受ける。

8

8月10日 / 6月15日

上関(山口県)

復路にて再び上関に寄港。この時は船上での宿泊となる。

29

8月下旬

対馬・府中(厳原)

対馬に帰着。日本各地から集められた被虜人約1,300名を引き取り、彼らと共に帰国の途につく。

8

道中の実態:饗応と統制

使節団が通過する道中では、幕府の威信をかけて、経由する各藩による最大級の饗応が行われた。その費用は莫大で、一回の来日で総額100万両に達したともいわれ、当時の幕府の年間予算を上回る規模であった 14 。これは各藩にとって大きな財政的負担となったが、徳川への忠誠を示す絶好の機会でもあった。

一方で、沿道の民衆に対しては厳しい統制が敷かれた。広島藩が出したとされる触書には、「火の用心を徹底し、家から煙を立てないこと」「一行を見下ろさないこと」「大声を出したり、酔っぱらったりしないこと」など、細かな規定が設けられていた 31 。これは、幕府がこの外交イベントを国家的な一大儀礼と位置づけ、万全の体制で臨んでいたことを示している。

使節団の目には、こうした日本の姿が克明に焼き付けられた。『海槎録』には、瀬戸内海の美しい風景に感動する記述 33 の一方で、日本の城郭の堅固さや、清須城下の繁栄ぶりに驚嘆する様子も記されている 19 。彼らの記録は、戦国の動乱が終わり、新たな秩序と活気が生まれつつある徳川日本の実像を、異邦人の冷静な視点から捉えた貴重な証言となっている。

第四章:二つの謁見 ―江戸城と駿府城―

江戸に到着した使節団のクライマックスは、徳川政権の最高首脳との謁見であった。しかし、その舞台は一つではなかった。公式な権威の象徴である江戸城での将軍・秀忠との謁見と、実質的な最高権力者である駿府城の大御所・家康との謁見。この二つの謁見は、それぞれ異なる目的と性格を持ち、当時の徳川政権が持つ二元的な権力構造を巧みに利用した、高度な外交戦略の表れであった。

江戸城での謁見:公式な権威の確立

慶長12年6月29日(旧暦6月6日)、使節団は最も格式の高い正装である金冠朝服(きんかんちょうふく)に身を包み、厳粛な儀礼のもと江戸城に登城した 34 。彼らは二代将軍・徳川秀忠に謁見し、朝鮮国王からの国書を丁重に奉呈した 8 。この儀式は、単なる外交文書の交換ではなかった。それは、徳川幕府が日本を統治する正統な中央政府であり、外国の公式な使節を迎え入れるだけの権威と格式を備えていることを、天下に、そして国際社会に宣言するものであった 8 。この時点での秀忠は、あくまで「日本の国王」という公的な役割を演じることに徹し、徳川政権の公式な顔としての威厳を示した。実質的な政治判断や交渉は、父である家康に委ねられていたのである。

駿府城での謁見:実質的なトップ会談

江戸での公式行事を終えた使節団は、帰路の途中、駿府城に隠居していた大御所・徳川家康のもとを訪れた 8 。こちらが、事実上の日朝トップ会談の場であった。江戸城での儀礼的な謁見とは対照的に、駿府での会見はより実質的で、人間的な交流の側面が強かった。

『海槎録』などの記録によれば、家康は使節団に対し、豊臣秀吉の朝鮮出兵について「自分は関知しないことである」と述べ、侵略が自らの意図ではなかったことを強調した 36 。これは、朝鮮側の面子を立て、過去の不幸な歴史と決別し、新たな関係を築こうとする強い意志を示すための、極めて重要な政治的発言であった。

さらに家康は、公式な饗応に留まらず、個人的なもてなしで使節団を歓待した。自ら駿河湾に数隻の船を浮かべて遊覧に誘い、富士山の雄大な景色を楽しませるなど、心尽くしの対応で和やかな雰囲気を作り出した 31 。この個人的な信頼関係の構築への努力は、硬直した国家間の関係を軟化させ、未来志向の関係を築く上で大きな効果を発揮した。

この江戸(公式の将軍)と駿府(実質的な最高権力者)という二元的な謁見の仕組みは、徳川政権の巧みな外交戦略であったと言える。これにより、「国家の公式な権威(タテマエ)」と「実力者の個人的な配慮(ホンネ)」を効果的に使い分けることが可能となった。厳格な外交儀礼によって国家の威信を保ちつつ、相手の感情に寄り添う柔軟な対応を両立させることに成功したのである。また、この二元体制は、朝鮮側に対し、将軍秀忠の権威を国際的に承認させると同時に、外交の最終的な決定権が依然として父・家康にあることを見せつけ、徳川政権の安定性と権力の所在を明確に認識させる効果も持っていた。

第五章:文化の交差 ―筆談と交流の記録―

1607年の回答兼刷還使の来日は、政治的な国交回復に留まらず、文禄・慶長の役によって断絶していた両国の文化的・知的交流を再開させる重要な契機となった。使節団が江戸に至る道中や滞在中には、様々な階層で活発な文化の交差が見られた。

学者たちの知的対話

使節団には、正使・呂祐吉をはじめとする当代一流の文人や学者が含まれており、彼らは日本の知識人との交流を渇望していた。その中心的な役割を果たしたのが、徳川家康に仕える儒学者・林羅山であった。羅山は使節団の宿舎を訪れ、漢詩の応酬や学問に関する筆談を重ねた記録が残っている 38 。両国の学者たちは、東アジア共通の知的基盤である朱子学や漢文学についての深い議論を交わした。朝鮮の学者から禅仏教の影響を指摘された羅山が、真摯に教えを乞う場面も見られるなど 38 、互いの学問的水準に対する敬意に基づいた、高度な知的交流が行われた。これは、武力ではなく文化の力による関係構築を目指す、徳川時代の新たな日朝関係を象徴する出来事であった。

饗応にみる食文化の交流

使節団をもてなすために、道中の各藩や江戸の幕府は、当代最高級の日本料理を用意した 39 。その献立は詳細に記録されており、近世初期の日本の食文化を知るための貴重な史料となっている 40 。饗応は、単に空腹を満たすためのものではなく、日本の豊かさと文化水準の高さを示すための重要な文化的パフォーマンスであった。提供された料理の食材、調理法、食器に至るまで、すべてが計算された「おもてなし」であり、食を通じた文化交流の一環であったと言える。

日本文化への影響と民衆の眼差し

総勢500名近くに及ぶ使節団の壮麗な行列は、道中の人々にとって一生に一度見られるかどうかの壮大な見世物であった 1 。異国風の衣装や音楽、馬上での曲芸などは、民衆の好奇心を大いに刺激し、その様子は多くの絵巻物や屏風絵の題材として描かれた 15 。これらの視覚的記録は、朝鮮通信使が当時の日本社会に与えたインパクトの大きさを物語っている。また、使節団がもたらした書籍や医学、印刷技術などの先進的な知識や文化は、日本の学術・文化の発展に少なからぬ刺激を与えた。

被虜人を通じた文化移転

文化の交流は、公式な使節団だけによってもたらされたわけではない。文禄・慶長の役で日本に強制的に連行された朝鮮人の中には、優れた技術を持つ陶工や、高い学識を持つ儒学者などが多数含まれていた 1 。彼らは、日本の各地、特に西日本において、陶磁器技術の飛躍的な発展(有田焼や薩摩焼など)や、日本における朱子学の興隆に大きく貢献した。1607年の使節来日は、こうした人々の一部を故国に帰す機会となったが、同時に、彼らによってもたらされた文化が既に日本社会に深く根付き、新たな文化として花開き始めていたという現実を浮き彫りにした。戦争という悲劇が、期せずして文化移転と融合を加速させたという、歴史の皮肉な側面がここにはっきりと見て取れる。

第六章:帰路と被虜人刷還の実態

使節団が江戸と駿府での謁見を終え、帰国の途につくにあたり、彼らに課せられたもう一つの、そして最も重要な任務の遂行が本格化した。それは、使節団の名称にも冠された「刷還」、すなわち日本各地に散らばる朝鮮人被虜人の送還であった。

交渉の成果と人道的意義

被虜人の送還は、朝鮮王朝が国交回復を受け入れる上での絶対的な条件であり、使節団にとって最大の懸案事項であった 8 。徳川家康は駿府での会談において、被虜人の帰還に最大限協力することを約束したとされる 36 。その約束に基づき、幕府は諸大名に対し、領内にいる朝鮮人被虜人を捜索し、使節団に引き渡すよう命じた。

その結果、この第1回の使節派遣によって、約1,300名から1,400名ほどの朝鮮人が故国の土を再び踏むことができた 7 。黒田長政が領内の「やき物焼之唐人(陶工)」を送還した事例も記録されている 43 。拉致された人々の総数から見ればごく一部ではあったが、この成果は国交回復が単なる政治的合意に留まらない、具体的な人道的成果を伴うものであることを朝鮮側に示し、両国間の信頼関係を醸成する上で計り知れないほど大きな意味を持った。

送還が直面した厳しい現実

しかし、朝鮮側が求めた「全員送還」には程遠いのが実情であった。数万人ともいわれる被虜人の多くが、日本に残らざるを得なかった背景には、複数の深刻な障壁が存在した。

  1. 所有物としての被虜人 : 多くの被虜人は、彼らを捕らえた大名や武士の所有物と見なされ、貴重な労働力、特に陶工などの技術者として領内の産業に組み込まれていた。彼らを手放すことは、大名にとって経済的な損失を意味した。
  2. 海外への転売 : 拉致された人々の中には、ポルトガル商人などを介して、マカオや東南アジアの奴隷市場に売り飛ばされてしまった者も少なくなかった 8 。彼らの足取りを追うことは、もはや不可能であった。
  3. 日本での定着 : 拉致から既に10年近い歳月が経過しており、日本で家族を持ち、新たな生活基盤を築いてしまった者もいた 8 。彼らにとって、すべてを捨てて帰国することは、必ずしも幸福な選択ではなかった。また、幼少期に連れてこられたために故郷の記憶や言葉を失ってしまった者や、既に日本で亡くなっていた者も多数存在した 37
  4. 帰還の困難 : 幸運にも帰国できた者たちも、その道中は困難を極めた。一部の船乗りが帰還する女性を奴隷のように扱ったり、その夫を海に突き落としたりするなどの非道な行為があったことも記録されている 37

被虜人刷還の問題は、その後も第2回、第3回の回答兼刷還使によって継続されたが、帰国者の数は次第に減少し、この歴史の悲劇が完全に癒えることはなかった。しかし、徳川幕府がこの困難な問題に対し、協力的な姿勢を示したこと自体が、戦争によって生まれた深い傷を少しずつでも癒し、新たな平和な関係を築くための重要な一歩となったのである。

結論:新時代の黎明 ―1607年使節来日の歴史的意義―

慶長12年(1607年)の回答兼刷還使の来日は、戦国時代という長く続いた動乱の時代に、外交的な意味で最終的な終止符を打った画期的な出来事であった。その歴史的意義は、多岐にわたる。

第一に、 「戦国時代」の完全な終焉 を象徴するものであった。この使節来日は、豊臣秀吉の対外侵略戦争という、戦国時代の暴力性と膨張主義がもたらした最大の負の遺産を、外交交渉によって清算するプロセスであった。これにより、日本は名実ともに国内の戦乱のみならず、対外的な戦争状態からも脱却し、徳川の治世下における「天下泰平」が国内だけでなく、国際関係においても始まったことを内外に示した。

第二に、 徳川型外交秩序の確立 である。秀吉が朝鮮を服属させようとしたのに対し、徳川幕府は(少なくとも表向きは)礼儀と信義を重んじる「通信」の関係を基軸とする、新たな日朝関係の礎を築いた 14 。これは、以後約200年間にわたり12回続く朝鮮通信使の第一歩であり、いわゆる「鎖国」体制下において、日本が朝鮮を対等な外交関係を持つ唯一の「通信国」として遇する基本方針を決定づけた 1

第三に、 東アジア地域の安定への寄与 である。当時、北方で勢力を拡大する女真族(後金)という共通の脅威に直面していた朝鮮にとって、日本との関係安定化は安全保障上の喫緊の課題であった 15 。日朝の和解は、朝鮮が北方の脅威に集中することを可能にし、結果として東アジア地域全体の緊張緩和に貢献した。

そして最後に、この出来事が現代に残した 平和的交流の遺産 である。戦争という最悪の関係から始まった徳川期の日朝関係は、1607年の国交回復を機に、200年以上にわたる平和的かつ文化的な交流の時代へと転換した。対立と不信を乗り越え、相互理解と共存を模索した両国の先人たちの努力の結晶である一連の外交記録は、その普遍的な価値が認められ、2017年に「朝鮮通信使に関する記録」としてユネスコ「世界の記憶」に登録された 44

1607年の使節来日は、戦国という一つの時代の終わりと、徳川という新たな時代の幕開けが、国際関係において交差した歴史的な瞬間であった。それは、外交が如何にして戦争の傷を癒し、新たな平和を築きうるかを示す、貴重な歴史的教訓として、現代の我々にも多くの示唆を与え続けている 46

引用文献

  1. 「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」と岸和田藩 (ミニ岸和田再発見第14弾) https://www.city.kishiwada.lg.jp/site/toshokan/mini-14.html
  2. みなとオアシス対馬 厳原 朝鮮通信使の歴史と文化 https://www.mlit.go.jp/common/001248158.pdf
  3. www.city.mishima.shizuoka.jp https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_kobako017281.html#:~:text=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%9A%E4%BF%A1,%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AF%E6%82%AA%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  4. 江戸期の日中韓交流 - 多摩大学 https://www.tama.ac.jp/guide/inter_seminar/2014/asia.pdf
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  36. 朝鮮通信使(1607年)の家康謁見記録(原文) - megmi farm めぐみ農場(野島恭一)のブログ https://kyoichinojima.seesaa.net/article/503455115.html
  37. 付録 『通航一覧』より https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-32.html
  38. 朝鮮通信使25 - 日朝文化交流史 - FC2 https://tei1937.blog.fc2.com/blog-entry-622.html
  39. 朝鮮通信使(中世編) https://jkcf.or.jp/cms/wp-content/uploads/2019/11/1_1_3j.pdf
  40. 朝鮮通信使をもてなした料理: 饗応と食文化の交流 - 高正晴子 - Google Books https://books.google.com/books/about/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%9F%E6%96%99%E7%90%86.html?id=ErgqSgAACAAJ
  41. 朝鮮通信使の饗応 | SHOSHO - 石川県立図書館 https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/bib/1009910210581
  42. 朝鮮通信使の饗応 - 株式会社 明石書店 https://www.akashi.co.jp/smp/book/b64381.html
  43. 「文禄・慶長の役」時の朝鮮被虜人に関する研究史 - researchmap https://researchmap.jp/araki-k/published_papers/42888906/attachment_file.pdf
  44. 「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日韓の平和構築と文化交流の歴史」がユネスコ記憶遺産に登録されました - 対馬市 https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/gyousei/soshiki/kanko/kankoshokoka/tsuusshinshi/869.html
  45. 朝鮮通信使との交流(その2) http://www.qsr.mlit.go.jp/suishin/story2019/01_4.html
  46. 朝鮮通信使とは - 京都国際 https://kyoto-kokusai.ed.jp/jp/wp/wp-content/uploads/2020/05/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF%E3%81%A8%E3%81%AF.pdf