最終更新日 2025-09-23

松本城天守完成(1594)

文禄3年、石川数正・康長親子は信濃松本に漆黒の天守を完成。豊臣秀吉の対徳川戦略の要として、軟弱地盤を克服し、実戦的防御と豊臣への忠誠を示す、戦国末期の象徴的城郭。
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文禄三年、信濃に聳え立つ黒き天守 ― 松本城完成の時系列分析と戦国史におけるその意義

序章:1594年、天下の動向と一つの城の誕生

文禄3年(1594年)、日本の歴史は大きな転換点にあった。豊臣秀吉による天下統一事業は完成し、その権勢はまさに頂点に達したかに見えた。しかし、その栄華の裏では、未曾有の大事業である朝鮮出兵(文禄の役)が泥沼化の様相を呈し、国内には静かなる、しかし確実な緊張が張り詰めていた。この特異な年に、天下の中央から遠く離れた信濃国松本の地に、漆黒の巨大な天守がその威容を現した。

本報告書は、この「松本城天守完成」という一点の事象を歴史の深層から丹念に掘り下げ、それが戦国という時代の何を映し出し、如何なる意味を内包していたのかを、あたかも当時の情勢をリアルタイムで追体験するかのように徹底的に解明するものである。単なる建築物の完成という事実を超え、その背景にある国際情勢、国内の政治力学、築城主の宿命、そして城郭建築に込められた思想までを多角的に分析し、一つの城の誕生が持つ重層的な歴史的意義を明らかにしていく。

第一部:激動の世界情勢 ― 1594年前後の日本

松本城天守が完成した文禄3年(1594年)という「点」を正確に理解するためには、まず当時の日本を取り巻いていたマクロな情勢、すなわち「面」としての全体像を把握することが不可欠である。この時代、日本は国内の統一を達成した勢いをそのままに、海外へとその力を放出しようとしていたが、その試みは深刻な軋みを生み始めていた。

大陸への野望とその代償:文禄の役の展開

豊臣秀吉は国内統一を成し遂げた後、その野心の矛先を大陸へと向けた。明の征服を最終目標に掲げ、文禄元年(1592年)、その足掛かりとして朝鮮半島へ大軍を派遣した 。これが文禄・慶長の役(朝鮮側では壬辰・丁酉の倭乱と呼称)の始まりである。

緒戦こそ日本軍は破竹の勢いで進撃し、首都・漢城(現在のソウル)を陥落させたが、1594年時点の戦況は完全に膠着状態に陥っていた 。明からの14万にも及ぶ大援軍と、李舜臣率いる水軍の活躍、そして朝鮮民衆による粘り強い抵抗(義兵活動)に遭い、日本軍の活動範囲は朝鮮半島南部に限定されていた 。特に加藤清正が籠城した蔚山城の戦いでは甚大な被害を出し、兵糧不足も深刻化するなど、前線の諸将は疲弊しきっていた 。

この終わりの見えない戦役は、豊臣政権の内部にも深刻な亀裂を生じさせた。朝鮮で命を懸けて戦う加藤清正や小西行長といった武功派の「武断派」と、国内にあって兵站管理や秀吉の側近として和平交渉を担う石田三成ら吏僚派の「文治派」との間に対立の火種が生まれていたのである 。この対立構造は、秀吉の死後、豊臣家が内側から崩壊していく大きな要因となっていく。

さらに、この出兵は、動員の主力となった西国大名に計り知れない経済的・人的負担を強いた 。多くの大名は、朝鮮から陶工をはじめとする多数の捕虜を日本へ連行し、後の日本の文化発展に寄与する側面もあったが、その代償として国力を大きく消耗したことは否めない 。

国内の統制と新たな秩序:太閤検地と兵農分離

秀吉は、大規模な海外派兵という大事業と並行して、国内の支配体制の磐石化にも余念がなかった。全国で画一的な基準をもって実施された太閤検地、そして刀狩、人掃令といった一連の政策は、いわゆる「兵農分離」を社会の隅々にまで徹底させるものであった 。これにより、武士と農民の身分は固定化され、武士階級は土地から切り離されて城下町に集住することが義務付けられた。これは、各大名の軍事力を直接的に把握し、中央集権的な支配構造を確立するための極めて合理的な政策であった。松本における城郭と城下町の整備も、まさにこの全国的な社会構造変革の大きな流れの中に位置づけられる。

また、文禄2年(1593年)8月には、秀吉待望の嫡男・拾(後の豊臣秀頼)が誕生し、これまで関白豊臣秀次を後継者としていた政権の根幹を揺るがす新たな火種が生まれていた。時を同じくして、秀吉は自らの権力の最終的な象徴として、京都に指月伏見城の築城を開始している 。豊臣政権のリソースが、朝鮮半島と国内の巨大プロジェクトに二分されるという、極めて異例の状況が現出していたのである。

巨龍の雌伏:関東における徳川家康の動向

天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川家康は長年本拠地としてきた東海地方から、旧北条氏の広大な領地であった関東へと移封された。これは250万石という大幅な加増ではあったが、同時に、豊臣政権の中枢である畿内から家康を物理的に引き離すという秀吉の深謀遠慮の結果であった。

家康は、表向きは秀吉への臣従を徹底し、文禄3年(1594年)には豊臣政権内での序列を示す「羽柴」の名字を秀吉から賜っている 。しかし、その水面下では江戸を新たな本拠地と定め、着々と関東における地盤固めを進めていた。その巨大な潜在的軍事力と政治的影響力は、秀吉にとって常に最大の脅威であり続けた。

このため秀吉は、家康を監視し、その力を封じ込めるための方策を幾重にも巡らせていた。その一つが、関東を取り囲むように、信頼の置ける豊臣系大名を配置する「対徳川包囲網」の構築である。信濃国松本は、関東の喉元に突きつけられた刃とも言うべき、この戦略的包囲網の最重要拠点の一つであった 。

このような国内外の情勢を鑑みると、松本城の築城は単なる一地方大名の事業ではなく、対外戦争が政権基盤を揺るがしかねないという秀吉の危機感の裏返しであり、国内最大の脅威である家康を封じ込めるための、国家レベルの安全保障政策の一環であったことが理解できる。信濃は、関東の徳川領と畿内を結ぶ中山道が通過する交通の要衝である。ここに堅固な城を築くことは、有事の際に家康軍の西上を阻止する巨大な「蓋」の役割を果たす。松本城は、単なる監視拠点に留まらず、豊臣政権の対徳川軍事戦略における「前方作戦基地」としての極めて重要な意味合いを帯びていたのである。

【表1】1590年~1595年 国内外主要事象と松本城築城の時系列対照表

松本城の築城が、いかに国内外の激動とリアルタイムで連動していたかを視覚的に示すため、以下に年表を掲げる。この表からは、朝鮮での激戦の最中に、国内では後継者問題が浮上し、それと並行して松本で築城が進められるという、当時の複雑でダイナミックな状況が一目で見て取れる。

第二部:松本城主・石川氏の宿命

松本城という壮大な城郭を理解する上で、その築城主である石川数正・康長親子の特異な経歴と、彼らが置かれていた複雑な立場を抜きにして語ることはできない。彼らの人生そのものが、戦国乱世の激動と非情さを体現していた。

主君への訣別:石川数正、家康からの出奔

石川数正は、徳川家康が今川氏の人質であった幼少期から常にその側に仕え、苦楽を共にした最古参の重臣であった 。家康の独立後は、酒井忠次と並び称される宿老として、特に外交面でその手腕を遺憾なく発揮した。織田信長との軍事同盟である「清洲同盟」の締結交渉を成功させ 、今川氏に囚われていた家康の正室・築山殿と嫡男・信康を人質交換によって見事に取り戻すなど、その功績は枚挙にいとまがない 。彼はまさに、徳川家にとって不可欠な「懐刀」であった。

ところが、天正13年(1585年)、家康と秀吉が激突した小牧・長久手の戦いの後、数正は突如として一族郎党を引き連れて岡崎城を出奔し、それまで敵対していた豊臣秀吉のもとへと走った 。その理由は今なお歴史上の大きな謎とされており、「秀吉の器量に心酔した」「恩賞に目が眩んだ」「徳川家中で本多忠勝ら強硬派との対立により孤立した」など、様々な説が唱えられているが、決定的な定説はない 。

徳川家の軍事機密のすべてを熟知する最高幹部の出奔は、家康に計り知れない衝撃を与えた。徳川軍は、数正によって軍制が秀吉方に漏洩したことを前提に、三河以来の伝統的な軍制を放棄し、武田信玄の軍法を取り入れた新たな軍制へと大規模な改革を断行せざるを得なくなったほどである 。

一方、数正を迎えた秀吉は、その能力と徳川家における重要性を高く評価した。まず和泉国に8万石を与え、天正18年(1590年)に家康を関東へ移封させると、その後釜として、対徳川の最前線である信濃松本に10万石(一説には8万石)を与えて配置した 。これは、数正の能力を最大限に活用すると同時に、かつての家康の腹心に家康自身を監視させるという、秀吉ならではの巧みで、ある意味では酷薄な人事戦略であった 。

父の遺志を継いで:二代目城主・石川康長の時代

松本に入封した数正は、新たな領地の経営と城郭の構想に着手するが、その期間はあまりにも短かった。入封からわずか3年後の文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の拠点である肥前名護屋城に在陣中、あるいはその直後に病没したとされる 。松本城を近世城郭へと生まれ変わらせるという壮大な構想は、志半ばで嫡男の康長へと託されることになった 。

石川康長もまた、父・数正と運命を共にし、徳川家を出奔して豊臣家の家臣となった武将である 。父の死によって家督を相続した彼は、松本城築城という大事業を継承すると同時に、豊臣大名としての軍役も果たさなければならなかった。記録によれば、彼は兵を率いて朝鮮半島へ渡海し、京城(ソウル)まで遠征している 。これは、国内で巨大な土木事業を進めながら、海外での軍事作戦にも参加するという、当時の豊臣大名が置かれた過酷な状況を如実に示している。

このような二重の重圧の下、康長は父の構想を現実のものとするべく普請を強力に推進し、文禄3年(1594年)頃までに、現在我々が目にする大天守、乾小天守、渡櫓の3棟からなる天守群を完成させたと考えられている 。その後も彼は手を緩めることなく、太鼓門や黒門といった城の主要な門や防御施設の建設を進め、近世城郭としての松本城の基礎を盤石なものとした 。

主君を裏切った石川数正にとって、松本城の築城は、新たな主君である秀吉への絶対的な忠誠を、旧主・家康に対する最大の牽制となる堅固な城という物理的な形で証明する、生涯を賭した一大事業であったと言える 。その強烈な意志が、平城でありながら極めて実戦的な「戦う城」を生み出す原動力となった。父の急死によりその重責を一身に背負った康長は、「父の遺志」と「豊臣大名としての使命」という二重のプレッシャーの中で、この難事業を成し遂げたのである。

第三部:黒き天守、大地に立つ ― 築城のリアルタイム・クロニクル

文禄3年(1594年)の天守完成は、一朝一夕になされたものではない。それは、過去の遺産を巧みに利用し、自然の制約を当時の最先端技術で克服し、そして多くの人々の労働と犠牲の上に成り立った、壮大なプロジェクトの集大成であった。

普請の土台:深志城の遺構と縄張り

松本城が築かれた地には、もともと深志城と呼ばれる城が存在した。この城は戦国時代の永正元年(1504年)頃、信濃守護であった小笠原氏の一族によって築かれたのが始まりとされる 。

この深志城の歴史が大きく転換するのは、天文19年(1550年)のことである。甲斐の「虎」武田信玄が信濃に侵攻し、小笠原氏を追放してこの地を支配下に置いた 。信玄は、山城よりも平城である深志城が持つ交通の便の良さと兵站基地としての価値を重視し、ここを信濃経営の拠点として大規模な改修を行った 。この時、土塁によって囲まれた本丸、二の丸、三の丸という、後の松本城の骨格となる基本的な縄張り(区画設計)が形成されたと考えられている 。

天正18年(1590年)に松本に入封した石川数正・康長親子は、この武田氏が整備した実戦的な縄張りを土台として、それを石垣で固め、壮麗な天守を戴く近世城郭へと発展させる形で築城を進めた 。これは、全くの更地に城を築くよりも遥かに効率的であり、戦国時代の城が持つ実用本位の思想を色濃く受け継いでいることを示している。

難工事と技術の粋:軟弱地盤との戦い

石川氏が直面した最大の課題は、その立地にあった。松本城が築かれた場所は、女鳥羽川と薄川という二つの川が形成した複合扇状地の先端にあたり、地下水位が非常に高く、極めて軟弱な湿地帯であった 。このような場所に、総重量が約1000トンにも達すると推計される巨大な天守を建設することは、当時の土木技術にとって極めて困難な挑戦であった 。

しかし、築城にあたった工匠たちは、この難題を驚くべき技術で克服した。

第一に、「筏地形(いかだじぎょう)」と呼ばれる工法である。これは、天守台の石垣を積み上げる前に、その基礎となる堀の底に多数の丸太を筏のようにびっしりと敷き詰め、その上に石を置くことで荷重を面で支え、石垣が不均等に沈下するのを防ぐ技術である 。

第二に、天守台の内部に施された見えない工夫である。石垣の内側には、直径約39cm、長さ約5mにもなる栂(つが)の木の丸太が16本、4x4の格子状に垂直に埋め込まれていた 。これらの支持柱が天守の土台を直接支えることで、天守の巨大な重量を均等に地盤へと伝達していた。これは、現代建築における基礎杭(パイル工法)にも通じる、非常に先進的な発想であった。

これらの技術に支えられ、石垣普請が進められた。天守台の石垣は、自然石をほとんど加工せずに巧みに組み上げていく「野面積み」という、戦国時代末期の特徴をよく示す古風な工法で築かれている 。この種の専門的な工事には、近江の穴太衆(あのうしゅう)に代表されるような、高度な技術を持つ石工集団が動員されたと推測される 。

天守の建立と専門家集団

石垣の完成後、いよいよ天守の建築が始まる。『信府統記』などの記録によれば、文禄2年(1593年)の春頃から天守に用いる木材の調達が開始され、「永井工匠」といった大工の棟梁によって縄張(設計)が行われたと伝えられる 。天守のような複雑かつ巨大な木造建築を建てるには、寺社建築などを手掛ける宮大工をはじめとした、高度な専門技術を持つ職人集団の存在が不可欠であった 。

構造的には、1階と2階、3階と4階、5階と6階をそれぞれ通し柱で一体的に組んだものを、下から順に積み上げていくという手法で、安定した高層化を実現している 。

数多くの職人たちの技術と労働の結晶として、文禄3年(1594年)頃、大天守(外観五重・内部六階)、乾小天守(外観三重・内部四階)、そして両者を連結する渡櫓(二重二階)からなる、壮大かつ複雑な連結複合式の天守群が完成したのである 。

領民の負担と権威の象徴:築城の光と影

この壮大な城の普請は、一方で領民に極めて重い負担を強いるものであった 。その過酷さを生々しく今に伝えるのが、太鼓門の石垣に用いられた巨石「玄蕃石(げんばいし)」にまつわる伝説である 。

この伝説によれば、城主・石川康長(官途名は玄蕃頭)は、重さ22.5トンにも及ぶこの巨石の運搬を自ら石の上に乗って監督していた。あまりの重労働に人夫の一人が不満を漏らしたところ、康長はそれを聞き咎め、即座に石から飛び降りると、その人夫の首を衆目の前で刎ね、槍の先に高く掲げて「者ども、さあ引け」と大音声で号令をかけたと伝えられている 。この逸話は、築城が領民の多大な犠牲の上に成り立っていたことを物語ると同時に、短期間で成果を出すことを厳しく求められた康長の峻烈なリーダーシップと、城主の権威を物理的な巨大さで誇示しようとする意図をも示している。

松本城の築城プロセスは、武田信玄時代の「伝統」的な縄張りを継承しつつ、軟弱地盤を克服する「革新」的な基礎工学技術を導入した、まさに時代の転換点に立つハイブリッド建築であったことを示している。

第四部:徹底解剖・戦うための城郭建築

文禄3年(1594年)に完成した松本城天守は、単なる美しい高層建築ではない。その隅々には、戦国の世を生き抜くための極めて実戦的な思想と、豊臣政権下における大名の政治的立場を表明するための巧みな意匠が込められている。

漆黒の威容:「豊臣の城」としての政治的意匠

松本城天守の最も際立った外観的特徴は、壁面の下見板に施された黒漆塗りである 。この黒い外観は、漆が持つ防水・防腐といった実用的な機能に加え 、極めて重要な政治的メッセージを内包していた。

黒という色は、天下人・豊臣秀吉が自身の居城である大坂城をはじめ、聚楽第などで好んで用いた、いわば「豊臣家のコーポレートカラー」であった 。秀吉は、金箔瓦の輝きを最も引き立たせる色として黒を重用し、それを自らの権威の象徴とした。石川氏が松本城にこの黒い意匠を採用したことは、秀吉への絶対的な忠誠を天下に示す、明確な意思表示であったと考えられる 。同時期に豊臣系の大名によって築かれた岡山城や広島城が同様に黒い外観を持つのも、この文脈で理解できる 。これは、後に徳川の世となり、家康が姫路城などに代表される白漆喰総塗籠の「白い城」を天下普請の標準としたことと、鮮やかな対比をなしている 。

鉄砲戦への備え:平城における防御思想の結晶

松本城は、山などの自然地形を利用した山城とは異なり、平地に築かれた「平城」である 。そのため、地形的な防御力に劣る弱点を補うべく、人工的な防御設備に徹底した工夫が凝らされている。その設計思想の根幹にあるのは、「鉄砲戦への備え」であった。

  • 堀の設計思想 : 城を囲む内堀の幅は、広いところで約60mにも達する 。これは、当時戦の主役となっていた火縄銃の有効射程距離が概ね50mから100mであったことを計算に入れた設計である 。堀幅を広く取ることで、対岸の敵兵からの銃撃の命中精度を下げ、城方からの反撃を一方的に浴びせられるように意図されていた。
  • 狭間と石落とし : 天守の壁面には、無数の穴が開けられている。これは「狭間(さま)」と呼ばれる銃眼であり、弓矢を射るための縦長の「矢狭間」と、鉄砲を撃つための正方形や三角形の「鉄砲狭間」が、合計で115箇所も設けられている 。さらに、天守1階の壁面からは、袴のように張り出した「石落とし」が11箇所に設置されている 。これは、石垣をよじ登ってくる敵兵に対し、石や熱湯を落としたり、真上から鉄砲を撃ちかけたりするための設備であり、城の足元の死角を完全になくすための重要な工夫であった。
  • 堅牢な壁 : 防御は外側だけではない。天守二階の壁は、内部に木の枝などを編んだ芯を入れ、その両側を土で塗り固めた構造になっており、その厚さは約29cmにも及んだ 。これは、火縄銃の弾丸程度では容易に貫通できない、極めて高い防御性能を誇っていた。

武骨さの中の美:戦国期天守の意匠

徹底した実戦本位の思想で貫かれた松本城天守であるが、同時に戦国武将の気概と美意識を反映した、武骨さの中にも洗練された意匠が見られる。

大天守の屋根には、直線的で力強い印象を与える「千鳥破風」と、優美な曲線を描く「唐破風」が絶妙なバランスで配置されており、巨大な構造物に視覚的な変化と威厳を与えている 。

また、乾小天守の最上階などには、「華頭窓(かとうまど)」と呼ばれる、上部が火炎のような曲線を描く特徴的な窓が設けられている 。この様式は、もともと禅宗寺院の建築で用いられたものであり、鎌倉時代に中国から伝わったものである 。これを城郭建築に取り入れることは、城主が単なる武人ではなく、高い教養と文化性を備えた人物であることを示すステータスシンボルであった。実用一点張りの武骨な構造の中に、こうした優雅な意匠をアクセントとして取り入れることで、戦国末期の武将が持っていた複合的な価値観を体現しているのである。

松本城は、まさに「見せるための要塞」であった。その設計思想は、戦国の世の終焉期という、時代が大きく転換する過渡期に特有の現象を映し出している。城は、純粋な軍事拠点であると同時に、大名が自らの権力、財力、そして中央政権との強固な繋がりを内外に誇示するための、巨大なシンボルでなければならなかったのである。

【表2】戦国末期における主要城郭天守の比較分析

松本城の建築的特徴を同時代の他の城郭と比較することで、その歴史的・政治的位置づけはより一層明確になる。特に「黒い城」と「白い城」の対比は、城の色が持つ政治的な意味合いを雄弁に物語っている。

第五部:城と城下町の誕生 ― 政治・経済拠点としての松本

松本城天守の完成は、単に一つの巨大な建物が落成したという出来事に留まらない。それは、城郭を中心とした新たな都市「松本」そのものの誕生を意味し、この地域の政治・経済、そして社会の構造を根底から変革する一大事業であった。

新たな都市計画:城下町の整備

石川数正・康長親子は、城郭本体の普請と完全に一体のものとして、計画的な城下町の建設に着手した 。これは、秀吉政権が進める兵農分離政策に沿ったものであり、武士階級を城の周囲に集住させ、領国支配の効率化を図るものであった。

  • 武家地の形成 : 城の防御の核心部である本丸・二の丸に続き、三の丸の内外には、家臣団を居住させるための「士屋敷」が計画的に建設された 。これにより、有事の際には即座に兵力を動員できる体制が整えられた。
  • 町人地の形成 : 城の東側を流れる女鳥羽川の南岸に、商人や職人が住むための町人地が新たに整備された 。善光寺街道沿いに本町・中町・東町といった基幹となる町(親町三町)が設定され、そこから枝分かれするように多くの町が区画割りされた 。これにより、城下に経済活動の中心地が人為的に創出された。
  • 寺社の戦略的配置 : 城下町の設計において特に注目すべきは、寺社の配置である。多くの寺院は、城下町の外縁部、特に東側のラインに沿って集中して配置された 。寺院の建物は、一般の町屋よりも堅固な造りであり、高い塀や門を備えている。これは、万が一敵が城下に侵攻してきた際に、これらの寺社群を城を守るための第一防衛線、すなわち「出丸」として利用するという、極めて軍事的な意図に基づいた配置であった 。さらに、城下町の主要な出入口にあたる東西南北の四ヶ所には、領内の安寧を祈願する「十王堂」が建立され、町の境界を明確にすると同時に、人々の精神的な支柱としての役割も担った 。

この都市計画は、城下町全体が城を守るための巨大な多層的防御システムとして設計されていたことを示している。敵が天守に到達するためには、まず最外縁の寺社群を突破し、次に迷路のような町人地を抜け、さらに武家屋敷が立ち並ぶエリアを通過しなければならない。城と城下町は、軍事的に不可分の一体として構想されていたのである。

信濃における経済と物流の拠点へ

城と城下町の建設は、軍事的な目的と同時に、この地域に新たな経済的活況をもたらす最大の経済政策でもあった。

城下町が整備され、武士という安定した大規模な消費者層が集住したことにより、松本は急速に信濃国における商品流通の中心地へと変貌を遂げた 。本町や中町には様々な商品を扱う問屋や大店が軒を連ね、東町は街道を往来する旅人のための旅籠屋が並ぶ宿場町として賑わった 。また、松本盆地の豊富な湧水を利用した酒造業、染物業、製紙業なども栄え、地域の特産品を生み出す産業基盤が形成された 。現在も続く正月の「あめ市」などの伝統行事は、400年以上前に始まったこの時代の商人の活気を今に伝えている 。

松本は、日本海側の糸魚川から塩などを運ぶ「塩の道(千国街道)」や、飛騨高山へと続く野麦街道、そして江戸と京を結ぶ中山道へと繋がる、古くからの交通の要衝であった。石川氏による城下町の建設は、この地理的優位性を最大限に引き出し、松本を名実ともに信濃国における政治・経済・物流の中心拠点へと押し上げたのである。

終章:松本城天守が後世に語りかけるもの

文禄3年(1594年)の松本城天守の完成は、日本の歴史が大きなうねりの中にあったことを象徴する出来事であった。それは、長く続いた戦乱の世の終焉と、中央集権的な新たな支配体制である近世の幕開けが交差する、時代の分水嶺に刻まれた記念碑と言える。その堅牢な構造は戦国の実用主義を、漆黒の意匠は豊臣政権の政治力学を、そしてその存在自体が、関東の徳川家康への鋭い警戒という時代の緊張を、今なお雄弁に物語っている。

しかし、歴史の皮肉は、この壮大な城を築き上げた石川氏を待っていた。天守完成からわずか19年後の慶長18年(1613年)、徳川の世が盤石となる中で、城主・石川康長は幕府の重鎮であった大久保長安の不正蓄財事件(大久保長安事件)に連座したとして、突如改易の憂き目に遭う 。城は残り、城主は去る。松本城は、その誕生の瞬間から、戦国の世の非情さと、権力者の栄枯盛衰を静かに見つめ続けてきたのである。

その後、小笠原氏、戸田氏、水野氏など、城主は目まぐるしく入れ替わった 。そして明治維新を迎えると、全国の多くの城郭が「封建時代の遺物」として取り壊される中、松本城も競売にかけられ、解体の危機に瀕した 。しかし、この危機を救ったのは、新たな権力者ではなく、松本の市民であった。市川量造ら地元有志が情熱的な保存運動を展開し、博覧会を開催するなどして資金を集め、天守を買い戻すことに成功したのである 。さらに後年、老朽化による倒壊の危機に瀕した際も、中学校長であった小林有也らが中心となって寄付を募り、「明治の大修理」を成し遂げた 。

文禄の時代に石川氏が戦乱の記憶と政治的野心を込めて築き上げ、明治の市民が郷土への誇りと未来への想いを込めて守り抜いた黒き天守。それは、単なる歴史的建造物ではない。時代を超えて人々の想いが幾重にも積み重なり、今を生きる我々に力強く語りかける、生きた文化遺産なのである。

引用文献

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  42. 天守とその構造 - 国宝 松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/about/tower
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  49. 攻めと守りの要! 何もない場所に「お城」が出来るまで - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/367
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  53. 石川康長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%BA%B7%E9%95%B7
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  62. かるーいお城の雑学(その1)黒い城と白い城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/kuroishiro-to-shiroishiro
  63. 豊臣の城と徳川の城? 黒い天守と白い天守の謎 - お城カタリスト https://shiro1146.com/knowledge/tensyu2/
  64. 秀吉と家康。城の色にも好みの違いが! | 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 https://ginzamag.com/categories/culture/420680
  65. 【日本100名城・岡山城編】令和の改修を終えた!不等辺五角形の天守台にそびえる黒い天守 https://shirobito.jp/article/1306
  66. 探検!史跡広島城 https://hiroshimacastle.jp/about/tanken/
  67. 超入門! お城セミナー 第50回【鑑賞】天守には「黒」と「白」がある!? - 城びと https://shirobito.jp/article/661
  68. 信州令和18 松本城e 天守閣六階 守護神祀り 東西南北一望に/眺望一人占め - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11513501
  69. 国宝 松本城 特設ページ https://www.pmoa.co.jp/product/364_point.html
  70. <松本城(中編)> ”天守”群を構成する各櫓と各曲輪の遺構 | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12440903053.html
  71. 超入門!お城セミナー 第129回【構造】石落って本当に石を落としたの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1668
  72. 【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第53回 国宝天守に行こう②松本城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1640
  73. 天守の印象が劇的に変わる「破風」のデザイン性を比べてみた - - お城カタリスト https://shiro1146.com/knowledge/tensyu6/
  74. 花頭窓(かとうまど)について - 国宝松本城を世界遺産に https://www.oshiro-m.org/%E8%8A%B1%E9%A0%AD%E7%AA%93%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%A9%EF%BC%89%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
  75. 花頭窓|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00158,html
  76. Katōmado Window | Search Details | Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R4-00158.html
  77. 【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第46回 窓を開く - 城びと https://shirobito.jp/article/1514
  78. 2-2 松本城クイズ 松本城天守の仕組み(乾小天守・渡り櫓)(解答・解説) https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a2_2.pdf
  79. 藤森照信|第五回旧閑谷学校講堂の〈火灯窓〉日本らしくない日本の窓 https://madoken.jp/series/14998/
  80. 松本城の築城 松本城の築城 (1)石川家の入城 石川数正(1593 年没)は https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653434.pdf
  81. 城下町の成立 | 国宝 松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/town/know/build
  82. 松本城下北の要 武家のまちと商家のまち - 松本市ホームページ https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/134/3710.html
  83. 城下町松本を知ろう https://www.matsumoto-castle.jp/town/know
  84. 江戸時代から伝わる文化 - 松本まるごと博物館 https://matsu-haku.com/matsuhaku/wp-content/uploads/sites/2/2015/03/A1map_omote-2.pdf
  85. 松本市文化財保存活用地域計画 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/70251.pdf
  86. (2) 商都松本にみる歴史的風致 ア はじめに 松本の城下町の町割は https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/108237.pdf
  87. 石川氏改易ガイド https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/g3_2.pdf
  88. 松本城の歴史 - 松本市ホームページ https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/135/4121.html
  89. 松本藩 - 長野県:歴史・観光・見所 https://www.nagareki.com/jyouka/matumoto.html
  90. 松本城の歴史(年表) https://www.matsumoto-castle.jp/about/history/chronological
  91. 市川量造氏 115回目の命日 - 国宝松本城を世界遺産に https://www.oshiro-m.org/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E9%87%8F%E9%80%A0%E6%B0%8F%E3%80%80115%E5%9B%9E%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%91%BD%E6%97%A5/
  92. Petitions by Ichikawa Ryōzō | Search Details | Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R4-00154.html
  93. 住民が守った松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/value/citizens
  94. 「松本城の日」制定記念講演&新松本市立博物館開館記念講演 イベント - 新まつもと物語 https://visitmatsumoto.com/event/%E3%80%8C%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%8D%E5%88%B6%E5%AE%9A%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%AC%9B%E6%BC%94%EF%BC%86%E6%96%B0%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/
  95. その他の見どころ - 国宝 松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/about/other-spot