検地騒動(1591)
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天正19年(1591年)紀伊国検地騒動 ― 中央集権化の奔流と在地社会の相克
序章:天正十九年、紀伊に燻る火種
本報告書は、天正19年(1591年)に紀伊国で発生した「検地騒動」を、単なる農民一揆としてではなく、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階で生じた、中央集権権力と在地社会の自立性との間の構造的・必然的な衝突として捉え直し、その詳細な経緯と歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
天正18年(1590年)の小田原征伐と奥州仕置を経て、豊臣秀吉による天下統一は事実上完成した。翌天正19年には九戸政実の乱が鎮圧され、武力による国内平定は最終局面を迎える 1 。しかし、まさにその年に、紀伊国では豊臣政権の根幹を揺るがしかねない大規模な抵抗運動が燃え上がった。利用者様がご存知の「検地実施に反発し各地で騒動が発生」という一行の記録の背後には、時代の転換点における深刻な軋轢と、人々の葛藤の物語が横たわっている。
核心的な問いは、なぜ、天下統一が完成したはずの天正19年に、紀伊国で大規模な抵抗運動が発生したのか、という点にある。それは偶発的な事件だったのか、それとも時代の転換点に必然的に生じた軋轢だったのか。この問いを軸に、本報告書は騒動の背景、詳細な時系列的展開、そしてそれが日本史上に遺した意味を深く掘り下げていく。
第一部:騒動の前提 ― 二つの巨大な力
この騒動を理解するためには、まずその背景にある二つの対立する巨大な力、すなわち豊臣政権が推し進める「統一」への強烈な意志と、紀伊国が中世を通じて育んできた「自立」の強固な伝統を詳細に分析する必要がある。
第一章:天下人の「ものさし」― 太閤検地の衝撃
豊臣秀吉が断行した太閤検地は、単なる租税台帳の作成や年貢徴収の合理化に留まるものではなかった。それは、中世以来の社会構造を根底から覆し、天下人の下に全ての土地と人民を直接的に掌握しようとする、革命的な国家改造計画であった 2 。
豊臣秀吉の国家改造計画
太閤検地の本質は、全国の土地の生産力を「石高」という統一された客観的な数値で把握することにあった 4 。これにより、秀吉は各大名に対し、その所領の石高に応じた軍役を賦課する義務を負わせることが可能となった 6 。同時に、耕作者を検地帳に登録することで、年貢を確実に徴収する体制を確立した 2 。この石高制の導入は、秀吉が自らの裁量で大名の加増や減封、国替えを自由に行うことを可能にし、天下人としての絶対的な権力を集約させるための基盤となったのである 5 。
この事業は、中世を通じて日本の土地制度の根幹であった荘園制を完全に解体するものであった 3 。かつては公家や寺社、国人領主など、一つの土地に幾重にも重なっていた複雑な権利関係は否定され、土地と人民は天下人である秀吉の権力の下に一元化されることになった。それはまさに、律令制における公地公民の理念を、戦国時代の現実に合わせて再構築しようとする壮大な「構造改革」であった 3 。
「一地一作人」の原則と在地社会の動揺
太閤検地の画期的な点は、「一地一作人」の原則を打ち立てたことにあった。検地帳には、実際にその土地を耕作している農民(作人)の名が登録され、その者に土地の保有権が公的に認められた 6 。これは、耕作者の地位を安定させるという側面を持つ一方で、それまで地域社会に君臨してきた在地領主層、すなわち国人、地侍、有力農民(名主)といった中間層が持っていた土地への支配権益を根こそぎ否定するものであった 6 。
検地の実施方法もまた、在地社会に大きな衝撃を与えた。長さ6尺3寸(約191cm)の竿を1辺とする正方形を1歩とし、300歩を1反とする全国統一の基準が定められ、枡も京枡に統一された 7 。検地竿は極めて正確に作られ、測量は厳格に行われた 8 。さらに、それまで黙認されてきた隠田(おんでん)も容赦なく摘発された 7 。これらの手法は、地域ごとに存在した多様な慣習や度量衡を一切無視し、中央の「ものさし」を一方的に押し付けるものであった。在地の人々にとって、それは自らの生活基盤と共同体の秩序そのものを揺るがす脅威として受け止められたのである。この政策は、経済的な改革であると同時に、中世以来の在地社会が育んできた多様な「記憶」と「慣習」を消去し、豊臣政権という単一の価値観で全国を塗り替えるための、極めて政治的かつ文化的な意味合いを持つ事業であった。したがって、検地への抵抗は、単なる経済的損失への反発に留まらず、自らの共同体の歴史、慣習、そして自治のあり方を守るための、アイデンティティを賭けた闘争という側面を色濃く帯びることになる。
抵抗への峻烈な姿勢
豊臣政権は、この革命的な事業を断行するにあたり、いかなる抵抗も許さなかった。検地の実施に際しては、その土地の本来の領主とは異なる人物が検地奉行として中央から派遣されるのが常であった 9 。これは、在地領主と農民が結託して石高を過少に申告するなどの不正を防ぎ、中央の意思を直接貫徹するための措置であった。
検地奉行には絶大な権限が与えられ、その指示は絶対であった。豊臣政権期の文書には、検地に抵抗する者は「なで斬り」にせよ、という峻烈な指示が散見される 9 。これは、太閤検地が平和的な土地調査ではなく、武力を背景とした非情な権力行使であったことを如実に物語っている。公正・厳正を要求された検地奉行の入国は、在地社会にとって、服従か死かの二者択一を迫る最後通牒に等しかったのである。
第二章:服従せざる国 ― 紀伊の自立性と記憶
太閤検地という中央集権化の巨大な波が押し寄せたとき、紀伊国は日本の中でも特に激しい反応を示した。その背景には、戦国時代を通じて培われた、この国の特異な歴史と社会構造があった。
武装「共和国」の実像
戦国期の紀伊国は、特定の強力な戦国大名による一元的な支配を受けることなく、地域ごとに有力な勢力が割拠する、さながら分権国家連合のような様相を呈していた。中でも、雑賀衆、根来衆、そして高野山といった寺社勢力や国人衆は、強固な連合体を形成し、高度な自治を確立していた 10 。
当時のイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、この地の様相を「百姓たちの共和国」と評している 10 。彼らの力の源泉は、惣村と呼ばれる農民の自治組織と、当時最新鋭の兵器であった鉄砲による武装にあった。特に雑賀衆と根来衆は、それぞれ数千挺もの鉄砲を保有し、独自の戦術を編み出した戦国最強の鉄砲集団として知られていた 11 。その軍事力は、時に傭兵集団として各地の大名の戦に参加し、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで言わしめるほどであった 11 。彼らの存在は、紀伊国が中央の権力に容易に服従しない、独立不羈の気風を持つ土地であることを象徴していた。
天正13年(1585年)紀州征伐の記憶
天下統一事業を推し進める豊臣秀吉にとって、紀伊国のこのような独立性は、到底看過できるものではなかった。天正13年(1585年)3月、秀吉は弟の秀長を総大将とする10万ともいわれる大軍を紀伊に派遣し、この「共和国」を武力で屈服させようと試みた(紀州征伐) 14 。
この戦いで、根来衆の本拠地であった根来寺は焼き払われ、雑賀衆も降伏を余儀なくされた。しかし、この勝利は、豊臣軍が兵力の損耗を全く意に介さない圧倒的な物量で押し切った結果であった 14 。紀伊の人々にとって、この征伐は力による一方的な蹂躙であり、その記憶は豊臣政権への深い遺恨と不信感として、人々の心に刻み込まれた。この紀州征伐は、紀伊における中世の終わりを告げる画期的な出来事であったと同時に 15 、6年後に起こる検地騒動の直接的な伏線となるものであった。1591年の騒動は、いわば1585年の紀州征伐の「第二幕」であったと位置づけられる。武力で一度は押さえつけられた紀伊の自立の精神が、統治体制の変動という権力の空白を突き、より徹底した中央集権化政策である太閤検地に対して再び噴出したものと解釈できるのである。
統治者・豊臣秀長の存在
紀州征伐後、紀伊国は大和国などと合わせて、秀吉の弟である豊臣秀長に与えられた 15 。秀長は、兄の苛烈な性格とは対照的に、温厚篤実にして優れた政治手腕を持つ武将として知られ、豊臣政権内では兄の「暴走」を抑えることができる唯一の補佐役と目されていた 16 。
秀長は紀伊国の統治にあたり、天正13年閏8月には検地の実施を布告し、翌14年から実行に移している 15 。これは、後に全国で展開される太閤検地の先駆けともいえるものであった 18 。また、天正13年には紀州で「原刀狩令」とも呼ばれる武器の没収を行い、農民に耕作への専念を命じている 19 。しかし、秀長の統治は、単なる力による支配ではなかった。彼は在地勢力との一定の対話や妥協を通じて、巧みに支配体制を築いていったと考えられる。彼の存在そのものが、中央からの過酷な要求と、独立性の高い在地社会との間に立つ「緩衝材」として機能していた。この秀長による6年間の統治下で辛うじて保たれていた均衡が、彼の死によって崩壊した時、騒動の火蓋が切られることになる。
第二部:激動の天正十九年 ― 検地騒動の時系列的再構築
利用者様の「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に最大限応えるため、この部では天正19年(1591年)に紀伊国で起こった出来事を、あたかも歴史の現場を追体験するかのように、時系列で再構築する。まず、騒動の全体像を把握するため、関連する出来事を年表にまとめる。
表1:天正19年(1591年)紀伊国検地騒動 関連年表
年月 |
紀伊国の動向 |
日本国内の主要動向 |
天正13 (1585) |
3月: 紀州征伐。根来・雑賀衆が秀吉に敗北。 閏8月: 豊臣秀長が紀伊国主に。検地実施を布告。 |
7月: 秀吉、関白に就任。 |
天正14 (1886) |
秀長による検地(天正検地)が開始される。 紀南の山間部で山本氏ら熊野牢人衆が蜂起(天正の一揆)。 |
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天正18 (1590) |
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7月: 小田原征伐完了。北条氏滅亡。 8月: 奥州仕置。徳川家康が関東へ移封。 |
天正19 (1591) |
1月22日: 統治者・豊臣秀長、大和郡山城で病没。 (春~夏頃): 豊臣政権、紀伊国への再検地を命令。青木一矩・杉若無心を奉行に任命か。 (夏~秋頃): 検地奉行・役人が入国し、検地を開始。北山郷など各地で抵抗運動・騒動が発生。 (秋~冬頃): 騒動の拡大に対し、豊臣政権が武力鎮圧。 |
2月: 千利休が切腹を命じられる。 8月: 秀吉の嫡男・鶴松が夭逝。 12月: 秀吉、関白職を甥の秀次に譲る。 |
天正20 (文禄元, 1592) |
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3月: 文禄の役(朝鮮出兵)が開始される。 |
この年表は、紀伊国検地騒動が孤立した事件ではなく、豊臣政権の体制移行期という極めて不安定な時期に発生したことを明確に示している。特に、紀伊国の統治者であった秀長の死と、秀吉の後継者問題(鶴松の死と秀次への関白委譲)が同一年内に発生している点は重要である。これらの出来事が連鎖し、騒動の引き金となっていった過程を以下で詳述する。
第一章:大和大納言の死 ― 権力の空白(正月)
天正19年(1591年)1月22日、大和・紀伊など100万石を領した大和大納言・豊臣秀長が、居城である大和郡山城で病没した 16 。享年52。兄・秀吉の片腕として数々の戦功を挙げ、また温厚で思慮深い人柄から豊臣家中の重臣や諸大名から絶大な信頼を得ていた彼の死は、豊臣政権全体に大きな衝撃を与えた。
とりわけ、彼の所領であった紀伊国に走った動揺は深刻であった。在地勢力にとって、秀長の死は単なる領主の交代以上の意味を持っていた。6年間にわたり、時に厳しく、時に柔軟に築き上げられてきた統治体制が崩壊し、秀吉本体による、より直接的で苛烈な支配に晒されるのではないかという不安が瞬く間に広がった。後世の歴史家が、秀長の死を豊臣政権の「自壊の道」の始まりであったと評するように 16 、彼の存在がいかに大きな安定装置であったかが窺える。
秀長の跡は、養子に迎えていた甥の豊臣秀保(関白となる豊臣秀次の弟)が継いだが、彼はまだ13歳という若年であった 16 。実質的な統治能力に欠ける秀保の家督相続は、紀伊国における権力の空白を決定的なものとし、中央からの直接介入を招き入れる隙を生じさせる結果となった。
第二章:検地令、発せらる ― 奉行たちの入国(春~夏頃)
秀長の死によって生じた紀伊国の権力空白を、豊臣政権が見過ごすはずはなかった。秀吉はこれを、秀長時代には手付かずだったかもしれない在地勢力の権益を完全に排除し、紀伊国を完全に中央の管理下に置く絶好の機会と捉えた。天正19年の春から夏にかけて、豊臣政権は紀伊国に対し、太閤検地の総仕上げとして、より厳格な基準に基づく再検地の実施を命令した。
この重大な任務を遂行する検地奉行として、二人の武将が任命されたとみられている。一人は青木紀伊守一矩(かずのり)、もう一人は杉若越後守無心(むしん)である 21 。
- 青木一矩 は、もとは秀長の家臣であり、天正13年の紀州征伐でも功を挙げて1万石の大名となっていた人物である 23 。秀長の旧臣として在地事情にある程度通じていた可能性がある一方で、秀吉への忠誠を示すため、あえて厳しい態度で検地に臨んだとも考えられる。
- 杉若無心 は、紀伊の在地領主の出身でありながら秀吉に仕え、田辺城主となっていた 14 。土着の事情を熟知しているがゆえに、在地勢力との癒着を疑われぬよう、非情な態度を取らざるを得ないという難しい立場にあったと推測される。
彼らに率いられた検地役人たちが、統一された検地竿を手に村々へと足を踏み入れ始めると、紀伊国、特に中央の支配が及びにくい紀南の山間部や、大和国との国境に位置する北山郷などで、緊張が一気に高まっていった 15 。これらの地域は、かつて秀長が行った検地でさえも拒否するほどの強い抵抗を示した過去があった 22 。秀長という緩衝材を失った今、中央から直接送り込まれた奉行による非妥協的な検地は、彼らにとって生存そのものを脅かす侵略行為に他ならなかった。
第三章:抵抗の狼煙 ― 各地で頻発する紛争(夏~秋頃)
検地奉行による測量や田畑の等級査定、そして隠田の摘発が強行されるにつれ、在地住民による抵抗が各地で始まった。当初は検地帳の破棄や役人の追放といった散発的なものであったが、やがてそれは武装した国人・地侍が指導する組織的な一揆へと発展していった。
特に抵抗が激しかったのが、険しい山々に囲まれた天然の要害である北山郷であった 21 。この地域に住む人々は、古くから強い独立心と共同体意識を育んできた。彼らにとって、検地は先祖代々の土地と自治権を奪う、許しがたい侵害行為であった。
この騒動は、単なる農民の自然発生的な暴動ではなかった。その背後には、指導者層の存在があった。彼らは、天正13年の紀州征伐で所領を失ったり減らされたりした旧来の国人領主や地侍、あるいはその一族の牢人たちであったと考えられる。彼らは、豊臣政権への積年の恨みを晴らし、失地を回復する好機と捉え、検地に不満を抱く農民たちを巧みに組織し、一揆の指導者となった。天正14年に山本氏ら熊野牢人衆が蜂起した「天正の一揆」 15 は、まさにこの大規模な検地騒動の前兆と言うべき事件であった。検地という必然的な中央集権化の波が、秀長の死という偶然の出来事をきっかけとして、紀伊の強固な在地社会に直接叩きつけられた結果、予測可能でありながらもその規模と激しさを増幅された「騒動」という爆発が起こったのである。
第四章:武力鎮圧 ― 豊臣政権の対応(秋~冬頃)
夏から秋にかけて、紀伊国各地で散発的に上がっていた抵抗の狼煙は、やがて互いに連携し、国全体を巻き込む大規模な「検地騒動」へと発展した。もはや検地奉行の手に負えなくなった事態に対し、豊臣政権は断固たる措置を取ることを決断する。天下統一事業の総仕上げの段階で、自らの権威が足元から揺らぐことを、秀吉は決して許さなかった。
騒動鎮圧のため、中央から本格的な軍が派遣された。詳細な戦闘の記録は乏しいものの、一揆勢は紀伊の険しい地形を利したゲリラ的な戦術で抵抗し、鎮圧軍を大いに苦しめたと推測される。天正14年の小規模な一揆でさえ、鎮圧に約1ヶ月を要したという事実 24 からも、天正19年のより大規模な騒動の鎮圧が、決して容易ではなかったことが窺える。
しかし、最終的には、圧倒的な兵力と組織力、そして兵站能力を誇る豊臣政権の鎮圧軍によって、騒動は武力で制圧された。首謀者と目された国人や地侍は捕らえられ、見せしめとして斬首などの厳しい処罰を受けた。村々は徹底的に改められ、抵抗の芽はことごとく摘み取られた。こうして、天正19年の紀伊国を揺るがした検地騒動は終息し、紀伊国における在地勢力による組織的な抵抗は、ひとまずの終焉を迎えることになったのである。
第三部:騒動が遺したもの
騒動の鎮圧は、紀伊国に静けさを取り戻させたが、それは力によって押さえつけられた表面的なものに過ぎなかった。この事件は、紀伊国の社会と豊臣政権、そして日本史全体に、深く、そして不可逆的な影響を及ぼした。
第一章:紀伊国のその後 ― 近世支配体制の確立へ
騒動の鎮圧後、抵抗勢力が一掃された紀伊国では、中断されていた太閤検地が滞りなく完了した。これにより、村ごとの石高が確定し、耕作者の名が記された検地帳が作成され、近世的な支配体制の基礎が確立された 25 。紀伊国に根を張っていた国人・地侍といった中間領主層は、この過程で完全に解体・再編され、豊臣大名による直接的で一元的な支配が貫徹されることになった 26 。
この検地によって確定した石高は、直ちに具体的な形で紀伊の人々に重くのしかかることになった。翌天正20年(文禄元年、1592年)から始まる文禄の役(朝鮮出兵)において、紀伊国は石高に応じて定められた軍役を負担させられたのである。騒動の鎮圧は、目前に迫った大規模な対外戦争への国内総動員体制を確立する上で、豊臣政権にとって不可欠なプロセスであった。この戦争は、出兵を担った西国大名を著しく疲弊させたが 27 、その負担は紀伊の民衆にも大きな犠牲を強いることになった 29 。
しかし、一度の鎮圧で紀伊の人々の抵抗の精神が完全に消え去ったわけではなかった。この騒動の記憶は、豊臣政権、そして後の支配者への根深い不信感として残り続けた。約20年後の大坂の陣(1614-15年)の際には、当時の領主であった浅野氏の支配に対し、再び北山郷などを中心に大規模な一揆(慶長十九年の北山一揆)が発生している 30 。これは、紀伊の在地社会に深く根付いた自立と抵抗の伝統がいかに強固なものであったかを雄弁に物語っている。
第二章:歴史的意義 ― 検地騒動とは何だったのか
天正19年(1591年)という年は、日本史において一つの画期をなす。この年、北の奥州では九戸政実の乱が、そして西の紀伊国ではこの検地騒動が、いずれも豊臣政権によって鎮圧された 1 。これらは、秀吉の天下統一事業に対して、旧来の在地領主層が主体となって起こした、最後の大規模な組織的抵抗であったと言える。この騒動の鎮圧をもって、群雄が割拠した日本の「戦国時代」は実質的に終焉を迎え、中央集権的な近世封建社会が確立されるのである 4 。
この騒動は、豊臣政権による「天下統一」という輝かしい成果の裏面史でもある。それは、中央集権化と均質化という巨大な奔流の中で、切り捨てられ、踏み潰されていった在地社会の論理と実情を浮き彫りにする。地域の多様性や自治の伝統が、いかに暴力的に解体されていったかを示す、歴史の貴重な証言である。この事件は、豊臣政権の支配が持つ「脆さ」と「強さ」という、逆説的な二つの側面を同時に示している。天下統一が宣言された直後にこれほど大規模な抵抗が起こったという事実は、秀吉の支配がまだ人心や社会の末端まで浸透しきっていなかったという「脆さ」を露呈した。一方で、その抵抗を最終的に、そして徹底的に鎮圧し、目的であった検地を完遂させた事実は、個々の在地勢力が束になっても抗うことのできない、中央政権の圧倒的な軍事力と強固な国家構想という「強さ」を証明した。
結論として、紀伊国検地騒動は、日本史が中世的な「分権・多元」の社会から、近世的な「集権・一元」の社会へと移行する、まさにその転換点で発生した象徴的な事件であった。それは、新しい時代の秩序が生まれる際に必然的に伴う、旧秩序の激しい抵抗と断末魔の叫びだったのである。
結論:必然の衝突
天正19年(1591年)の紀伊国検地騒動は、単発的な一揆ではなく、複数の歴史的要因が交錯して発生した必然的な衝突であった。その構造を総括すると、以下の三点に集約される。
第一に、それは豊臣政権が推し進める中央集権化という時代の必然と、紀伊国が中世を通じて育んできた自立の伝統という歴史的必然とが、正面から激突した事件であった。荘園制を解体し、石高制によって全国を一元的に支配しようとする太閤検地は、雑賀衆・根来衆に代表される「百姓たちの共和国」の存立基盤そのものを否定するものであり、両者の衝突は避けられなかった。
第二に、この衝突のタイミングと激しさを決定づけたのは、統治者・豊臣秀長の死という偶然の引き金であった。彼の存在は、中央の論理と在地の論理の間に立つ緩衝材として機能していた。この安定装置が失われたことで、二つの必然的な力は直接的に、そして最も暴力的な形で衝突することになった。
第三に、この騒動の鎮圧は、日本の戦国時代の真の終わりと、近世社会の幕開けを告げる画期であった。それは、統一された秩序の前に、地域の多様な世界がその姿を消していく、時代の非情な転換点を象徴する出来事であった。利用者様がご存知であった一行の概要の背後には、このような壮大で、かつ人間的な葛藤に満ちた歴史が横たわっているのである。
引用文献
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- 太閤検地をわかりやすく知りたい!豊臣秀吉の政策の目的とは - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/taiko-kenchi
- 第6章 郷土の三英傑に学ぶ資金調達 - 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
- 太閤検地と刀狩り - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/taikokenchi-katanagari/
- 中公新書 太閤検地―秀吉が目指した国のかたち - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784121025579
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- 太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6165
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