武田晴信出家改名(1551)
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武田晴信の出家と「信玄」号の誕生:その時期、背景、および多層的意義に関する包括的考察
序論:通説の向こう側へ ― なぜ晴信は「信玄」となったのか
戦国時代の甲斐国主、武田晴信が法号「信玄」を名乗り、後世に知られる象徴的な僧形姿となった事変は、日本の歴史における重要な転換点の一つとして認識されている。一般的に「天文20年(1551年)、権威づけのために出家改名した」という理解は、この出来事の核心を捉える上での出発点となるが、その背後には遥かに複雑で深遠な歴史的実像が横たわっている。
本報告書は、この「武田晴信出家改名」という事象を、単一の出来事としてではなく、1550年代の東国情勢というダイナミックな文脈の中に位置づけ、その多層的な意味を解き明かすことを目的とする。特に、この事変を理解する上で最大の鍵となるのが、その「時期」をめぐる問題である。天文20年(1551年)説や、『甲陽軍鑑』が記す天文21年(1552年)説 1 、そして近年の研究で最も有力視される永禄2年(1559年)説 3 など、複数の説が存在する。この年代論争を丹念に解き明かすことこそが、晴信が出家を決意した真の動機、すなわち、彼がなぜ「晴信」という名を捨て、「信玄」として生まれ変わる必要があったのかという根源的な問いに答えるための不可欠なプロセスとなる。本報告書は、この歴史的探究を通じて、一人の戦国大名が行った自己変革が、いかにして覇権戦略へと昇華されていったのかを明らかにする。
第一章:戦国大名の「出家」― 俗世を超えた権力装置
戦国時代において、武将が「出家」するという行為は、単に世俗を捨てて仏門に入るという宗教的帰依に留まるものではなかった。それはむしろ、既存の権力構造や価値観を乗り越えるための、極めて高度な政治的・社会的行為としての側面を色濃く持っていた。
出家の多義性
武士の出家は平安時代後期から見られるが、戦国時代にはその意味合いがさらに多様化した 4 。最大の特質は、出家によって朝廷から与えられた官位や官職を返上するという建前を取りながら、現実の軍事力や領国支配権といった実質的な権力は保持し続ける点にある 4 。これにより、大名は官位の上下によって規定される序列から形式的に離脱し、俗世の価値観とは異なる、別次元の権威を自身に付与することが可能となった。
また、出家は政治的なジェスチャーとしても機能した。合戦での敗北や政治的失策の責任を取る形で剃髪し、恭順や謝意を示すことで、敵対勢力からの追及をかわし、再起の機会をうかがうための手段となることもあった 4 。さらに、僧侶という身分は、諸国を比較的自由に行き来できる立場であったため、各地の寺社勢力が持つ広範な情報網や外交ルートを活用する上で有利に働いた。高僧はしばしば大名間の交渉を仲介する外交官の役割を担い、そのネットワークは情報収集の観点からも極めて重要であった 5 。
他大名との比較に見る出家の様相
武田信玄の出家を理解するためには、同時代の他の大名たちの事例と比較することが有効である。
宿敵である 上杉謙信 は、その生涯で幾度か出家を宣言している。特に弘治2年(1556年)の出家騒動は、家臣団の統制に悩み、半ば現実逃避的に高野山へ向かおうとしたものであった 7 。謙信の出家は、彼の篤い信仰心と、時として政治的危機が結びついた、極めて個人的かつ情動的な色彩が強い 9 。
一方、相模の 北条氏康 は、家督を嫡男・氏政に譲った後に出家し、「宗哲」と号した 10 。これは権力の円滑な移譲を進めつつ、自身は隠居の身として後見役に回り、家中に影響力を保持し続けるという、計算された政治的行為であった。
武田家中に目を向ければ、信玄の次男・信親(竜芳)や七男・信清も出家しているが、これは盲目であったり、家督相続の序列から外れたりした者が、家中で波風を立てずに身を処するための選択という意味合いが強い 11 。これらは、信玄自身が当主として行った出家とは、その目的とするところが根本的に異なっている。
これらの事例から、戦国大名の出家が、個人の信仰、政治的パフォーマンス、権力継承の手段など、多様な目的で用いられていたことがわかる。晴信の出家を考察するにあたっては、彼が単に「権威を高めたかった」という一面的な理由だけでなく、当時の政治状況の中で「既存の権威システム(官位序列など)の限界を感じ、それを超越するための新たな権威パラダイムを必要としていた」という、より深い戦略的意図があったことを念頭に置く必要がある。それは、後の章で詳述する上杉謙信との熾烈な権威獲得競争への布石であった。
第二章:出家の時期をめぐる歴史学的探究 ― 「1551年」説から「1559年」説へ
武田晴信がいつ出家し「信玄」と名乗るようになったのか。この時期の特定は、彼の動機を解明する上で決定的に重要である。しかし、その年代については複数の説が存在し、歴史学的な検証が求められる。ここでは各説を比較検討し、史料の信頼性に基づいて最も確からしい年代を導き出す。
武田晴信出家時期に関する諸説比較
説(年代) |
主な根拠史料 |
史料の性質 |
支持される点 |
問題点・反証 |
天文20年(1551年)説 |
恵林寺の寺伝など |
寺社に伝わる後年の記録 |
信玄が比叡山延暦寺から大僧正位を賜ったとされる年と一致する 12 。 |
僧位の授与と、剃髪を伴う「出家」は必ずしも同義ではない。同時代の一次史料による裏付けが乏しい。 |
天文21年(1552年)説 |
『甲陽軍鑑』 |
江戸時代初期成立の軍学書 |
母・大井の方の没年であり、物語として出家の動機付けがしやすい 1 。 |
『甲陽軍鑑』は史実誤認や創作を多く含み、歴史史料としての信頼性は高くない 1 。 |
永禄2年(1559年)説 |
松原神社(信濃国佐久郡)への願文など |
同時代の一次史料(古文書) |
永禄3年(1560年)付の願文が「信玄」の署名を持つ初見史料であり、出家がその直前であることを強く示唆する 3 。 |
特になし。多くの研究者によって支持されている最も有力な説である 3 。 |
各説の詳細な検討と結論
天文20年(1551年)説 は、信玄が比叡山から「大僧正」という高位の僧位を授かったという寺伝に基づいている 12 。信玄は熱心な仏教徒であり、出家以前から主要な寺社と深い関係を築いていたため、僧位の授与自体はあり得たかもしれない。しかし、これはあくまで名誉的な位階であり、彼がこの時点で剃髪し、俗名を捨てたことを直接証明するものではない。両者が混同され、この説が生まれた可能性が考えられる。
天文21年(1552年)説 の唯一の根拠は、江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』である 1 。この年は、晴信が深く敬愛した母・大井の方が亡くなった年にあたる 1 。『甲陽軍鑑』は、母の死を悼んで出家したという、物語として感動的な筋書きを採用するために、意図的にこの年を設定した可能性が高い。しかし、軍学書としての性格上、史実の正確性よりも教訓や物語性を重視する傾向があり、年代設定に関しては慎重な扱いを要する。
これに対し、 永禄2年(1559年)説 は、極めて信頼性の高い同時代の一次史料に基づいている。現存する文書の中で、晴信が「信玄」という法号を署名として用いた最も古いものは、永禄3年(1560年)に信濃の松原神社へ奉納した願文である 3 。これは、出家改名がこの願文の奉納直前、すなわち永禄2年(1559年)に行われたことを強く示唆する。他の多くの史料もこの時期を支持しており 13 、現代の歴史学においては、この永禄2年2月頃の出家が定説となっている 16 。
以上の検討から、武田信玄の出家年を特定する作業は、単なる日付の訂正に終わらないことがわかる。それは、後世に創られた物語的記憶(『甲陽軍鑑』)と、同時代に生きた人々の記録(古文書)のどちらに歴史の真実を求めるかという、歴史研究の根幹に関わる問いなのである。本報告書は、この学術的コンセンサスに基づき、晴信の出家を**永禄2年(1559年)**の出来事として位置づけ、その歴史的背景を深く掘り下げていく。
第三章:永禄2年(1559年)前後の政治・軍事状況 ― 出家へのリアルタイム・クロノロジー
永禄2年(1559年)という時期に出家した背景には、当時の緊迫した政治・軍事状況があった。晴信の決断は、北信濃をめぐる宿敵・上杉謙信との長期にわたる闘争の、新たな局面に対応するための戦略的行動であった。
北信濃情勢の膠着と深化(1555年~1558年)
弘治元年(1555年)の第二次川中島の戦いは、200日以上にも及ぶ長期の対陣となった末、駿河の今川義元の仲介と、それに続く将軍・足利義輝の調停によって和睦が成立した 19 。しかし、これは一時的な停戦に過ぎず、両陣営による水面下での調略活動は、むしろ激化の一途をたどった。武田方は、真田幸隆らの働きにより、川中島周辺の要衝である尼厳城を攻略するなど 20 、北信濃における上杉方の国人衆の切り崩しを着々と進めていった。
これに対し、弘治3年(1557年)には上杉謙信(当時は長尾景虎)が再び信濃へ出兵し、第三次川中島の戦いが勃発する。しかし、晴信は上杉軍との全面決戦を巧みに回避し、決定的な勝敗はつかなかった 21 。この一連の戦いを通じて、純粋な軍事力のみで北信濃を完全に制圧することの困難さが、晴信にとって痛切な課題として浮かび上がってきた。戦況は膠着し、武力以外の手段による現状打破が求められる状況にあった。
宿敵・長尾景虎(上杉謙信)の権威上昇
軍事的状況が膠着する一方で、政治・外交の舞台では、武田方にとって看過できない事態が進行していた。永禄2年(1559年)春、長尾景虎が大規模な軍勢を率いて上洛を敢行したのである。景虎は京都で将軍・足利義輝や正親町天皇に拝謁し、その歓待ぶりは破格のものであった 14 。この上洛は、景虎個人の名声を高めただけでなく、彼に「幕府の権威を背景に持つ正義の将」という政治的なお墨付きを与えるものであった。
これは、後の関東管領職就任(永禄4年)への重要な布石であり、晴信にとっては自らの権威を相対的に低下させる深刻な脅威であった 23 。景虎が「官軍」として武田を討伐するという大義名分を得る可能性が現実味を帯びてきたのである 25 。信濃の国人衆が、より権威のある景虎になびく危険性も増大した 23 。
武田方の外交的安定
一方で、武田氏の背後は安定していた。天文23年(1554年)に成立した、今川氏(駿河)、北条氏(相模)との甲相駿三国同盟は堅固に機能しており、南と東からの脅威は完全に封じられていた 25 。この外交的安定があったからこそ、晴信は全力を北信濃と対上杉戦略に傾注することができた。
以上の状況を総合すると、永禄2年(1559年)の出家は、決して突発的なものではなく、極めて戦略的なタイミングで行われたことがわかる。軍事的には膠着状態にあり、政治的にはライバルが中央の権威を背景に急速に台頭してくるという二重の圧力の中で、晴信は新たな手を打つ必要に迫られていた。その答えが、武力闘争や既存の権威競争とは異なる土俵、すなわち仏法の権威を自らのものとする「出家」だったのである。それは、軍事적膠着状態を打破し、政敵の権威上昇に対抗するための、「非軍事的手段による戦略的転換」であったと言える。
第四章:出家を支えた人々 ― 信仰と教育の系譜
晴信の出家という決断は、前章で述べたような冷徹な政治的計算のみによって下されたわけではない。その根底には、彼の人間形成に深く関わった人物たちの影響、とりわけ母と師から受け継いだ信仰と教養の系譜が存在した。
母・大井の方の薫陶
晴信の母・大井の方は、甲斐西郡の有力国衆であった大井信達の娘であり、武田一門の出身でもあった 18 。彼女は熱心な仏教徒として知られ、その信仰心は晴信の精神世界に大きな影響を与えた。大井の方の功績として特筆すべきは、晴信の幼少期に、臨済宗の名僧・岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を師として招いたことである 18 。
寺伝によれば、大井の方は幼い晴信を伴い、居城の躑躅ヶ崎館から岐秀元伯が住持を務める長禅寺まで通い、学問を学ばせたという 27 。その教育内容は、儒学の経典である『四書五経』から、『孫子』『呉子』といった中国の兵法書にまで及んだ 18 。この高度な教育が、晴信を単なる勇猛な武人ではなく、深い教養と戦略的思考を兼ね備えた為政者へと育て上げる礎となった。
師・岐秀元伯
岐秀元伯は、臨済宗妙心寺派の禅僧であり、晴信にとっては生涯にわたる学問の師であり、精神的な支柱であった 1 。晴信と岐秀元伯の関係は、単なる知識の伝達に留まらなかった。晴信は政務の合間を縫っては高僧を招いて問答にふけったとされ、禅の教えが彼の意思決定や人間観に深く浸透していたことがうかがえる 27 。
この深い師弟関係の集大成が、永禄2年(1559年)の出家であった。岐秀元伯は、晴信の得度式において戒師(儀式を執り行う導師)を務め、彼に新たな仏弟子としての道を授けた 1 。そして、後世にまで語り継がれる法号「機山信玄」を与えたのも、この岐秀元伯であったとする説が最も有力である 18 。
信仰の拠点・長禅寺
武田氏の信仰政策を象徴する寺院が長禅寺である。この寺はもともと、大井氏の菩提寺として南アルプス市(旧大井荘)に存在した(現在の古長禅寺) 33 。天文21年(1552年)に母・大井の方が亡くなると、晴信はその菩提を篤く弔うため、城下町である甲府の中心部に寺を移転させ、新たに長禅寺を建立した 18 。そして、師である岐秀元伯をその開山として迎えたのである 1 。
この新しい長禅寺は、後に信玄が京都や鎌倉の五山制度にならって定めた「甲府五山」の筆頭に位置づけられ、武田領国における宗教・文化の中心的な役割を担うことになった 29 。
このように、晴信の出家は、政治的必要性と個人的な信仰が見事に融合した決断であった。幼少期から母と師によって培われた禅への深い帰依は、単なる私的な信心に留まらなかった。それは、上杉謙信との権威競争という国家的な課題を解決するための、最も有効かつ正当な手段として昇華されたのである。この公私の分かちがたい結びつきこそが、彼の決断に揺るぎない説得力と歴史的な重みを与えている。
第五章:儀式と法号 ― 「信玄」誕生の瞬間
永禄2年(1559年)2月頃、甲斐国府中の長禅寺において、武田晴信は俗世の名を捨て、新たな道を歩み始める儀式に臨んだ。この瞬間は、単なる改名に留まらず、彼の自己認識と公的なアイデンティティの根本的な再構築を意味していた。
出家儀式の再現
出家得度式の具体的な内容を記した同時代の詳細な記録は現存しない。しかし、導師が臨済宗の岐秀元伯であったことから、臨済宗の儀礼に則って執り行われたと推測される。儀式は、厳粛な雰囲気の中で進められたであろう。
まず、晴信は俗世の象徴である髪を剃り落とす「剃髪」の儀に臨む。これにより、彼は世俗の身分や執着から離れることを表明する。次に、戒師である岐秀元伯から、仏弟子として守るべき「戒律」を授けられる。そして、俗人の衣服を脱ぎ、僧侶の証である法衣を身にまとう。この一連の儀式を経て、彼は「武田晴信」から、仏弟子「信玄」へと生まれ変わった。戦国時代の儀礼は、武士の出陣式に見られるように極めて格式高いものであり 38 、この得度式もまた、武田家中の重臣たちが見守る中、国家の重要儀式として執り行われたと考えられる。
法号の解読
この儀式で授けられた法号には、彼の新たな生き方を示す深い意味が込められていた。
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徳栄軒信玄(とくえいけん しんげん)
これは、古文書などで確認できる彼の正式な法号である 3。法号や戒名は、宗派によって呼び方が異なるが、仏門に入った証として授けられる名である 42。「徳栄軒」という号には、為政者として「徳」をもって領国を治め、民に「栄」をもたらすという、仏法に基づいた理想の統治者像への願いが込められていると解釈できる。「軒」は、高位の人物が用いる号の一つである。 -
機山信玄(きざん しんげん)
恵林寺の寺伝などで伝えられ、彼の墓石にも刻まれているもう一つの重要な号である 18。この号は、岐秀元伯から授けられたとする説が有力だが 28、後に信玄が深く帰依した恵林寺の快川紹喜から与えられたとする説もある 47。「機」という字は、「時機」や「機略」に通じる禅の用語であり、百戦錬磨の兵法家としての側面を象徴する。一方、「山」は、何事にも動じない不動の精神を表す。すなわち「機山」とは、状況に応じて変幻自在の策略を巡らす知性と、泰然自若とした精神力を兼ね備えた理想の指導者像を示すものであった。 -
「信玄」の由来
「信」の字は、武田家が代々用いてきた通字であり、武家の伝統を継承する意思を示している。一方、「玄」の字の由来については、臨済宗の開祖である臨済義玄(りんざいぎげん)や、信玄が帰依した妙心寺派の開山・関山慧玄(かんざんえげん)といった、禅宗の偉大な祖師から一字を取ったとする説がある 48。これは、自らが禅宗の正統な系譜に連なる者であることを内外に示し、その権威を自らのものとする意図があったと考えられる。
この改名が持つ最も重要な意味は、「晴信」から「信玄」への移行そのものにある。「晴信」の「晴」は、元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から賜った一字であった 17 。これは名誉であると同時に、彼が幕府の権威秩序の中に位置づけられていることを意味していた。それに対し、「信玄」は仏法の普遍的な権威に根差す名である。これは、衰退しつつある旧来の権威(幕府)との従属的な関係を清算し、自らの信仰と実力に基づく新たな権威を創出するという、晴信の明確な独立宣言であった。
第六章:出家の影響とその後 ― 「信玄」という名の権威
永禄2年(1559年)の出家改名は、単なる個人的な回心に終わらず、武田家の内外に広範かつ深遠な影響を及ぼした。それは「信玄」という名を、一個人の法号を超えた、強力な政治的・文化的ブランドへと昇華させる契機となった。
武田家中の反応と結束強化
主君の決断は、家臣団にも大きな影響を与えた。武田四天王の一人に数えられる猛将・馬場信春(当時は信房)は、信玄の出家を機に自らも剃髪し、「清岸」と号したと伝えられる 50 。これは、主君への絶対的な忠誠心と、出家という行為が家中でいかに重く受け止められたかを示す象徴的な逸話である。
信玄は出家後、その宗教的権威を家臣団の統制に巧みに利用した。特に、永禄10年(1567年)に謀反の疑いで廃嫡した長男・義信の死後、動揺する家臣団に対し、改めて忠誠を誓わせる起請文を提出させている 51 。この起請文の宛名は当然「信玄」であり、家臣たちの忠誠の対象が、単なる「武田家当主」という立場から、「信玄公」という人格的・宗教的権威へと、より強く集約されていった様子がうかがえる。
対外的影響と権威競争の新次元
出家は、最大のライバルであった上杉謙信との関係にも新たな次元をもたらした。謙信自身も毘沙門天を篤く信仰する敬虔な仏教徒であり、信玄の出家を単なる政治的パフォーマンスとして一笑に付すことはできなかった。これにより、両者の争いは、信濃の領土をめぐる「俗世の覇権争い」に加え、どちらがより仏法の加護を受けた存在であるかという「宗教的権威の競争」という側面を帯びることになった。
外交文書においても、これ以降「信玄」という法号が彼の正式な呼称として用いられるようになり、「武田信玄」というブランドが確立されていった 52 。
宗教政策の本格化と領国経営
出家を契機として、信玄は領国内の宗教勢力の統制と活用をさらに本格化させた。前述の通り、甲府に長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺の五つの禅寺を「甲府五山」として定め、これを庇護することで、領国の宗教的・文化的中心地としての甲府の地位を高めた 29 。
さらに永禄7年(1564年)、美濃から当代随一の名僧と謳われた快川紹喜を招き、武田家の菩提寺である恵林寺の住職とした 31 。信玄は快川紹喜に深く帰依し、仏法の師として、また政治の相談役として厚い信頼を寄せた 53 。これにより、恵林寺は武田氏の精神的支柱としての役割を担い、武田家の文化・学問の拠点として栄えることになった 54 。信玄は、こうした宗教的権威を、人心の掌握や領国経営を円滑に進めるための有効な手段として、極めて自覚的に活用していたのである 5 。
このように、「信玄」という名は、彼の統治システムそのものを象徴する強力なブランドへと成長した。出家という行為は、武田領国を単なる軍事力によって支配される領域から、「信玄公」という絶大な宗教的・人格的権威を頂点とする一つの精神的な共同体、すなわち「国家」へと変貌させるための、重要な礎となったのである。
結論:晴信から信玄へ ― 自己変革による覇権戦略
武田晴信が永禄2年(1559年)に断行した出家改名は、「1551年の権威づけ」というような単純な図式では到底捉えきれない、極めて複合的かつ戦略的な歴史的決断であった。それは、戦国乱世という激動の時代を生き抜くための一人の武将による、壮大な自己変革の儀式であった。
本報告書で明らかにした通り、この事変には多層的な意義が存在した。
第一に、それは 政治的対抗策 であった。宿敵・上杉謙信が上洛によって中央の権威(幕府・朝廷)をその身にまとう中、晴信は官位序列という既存の権力構造の外に、仏法という普遍的な権威を確立することで、この政治的劣勢を覆そうとした。
第二に、それは 個人的信念の表明 であった。母・大井の方から受け継いだ深い信仰心と、幼少期からの師である岐秀元伯の薫陶は、彼の精神世界の根幹をなしていた。出家は、政治的計算と同時に、彼の信仰に基づく必然的な帰結でもあった。
第三に、それは アイデンティティの再構築 であった。将軍の権威に連なる名である「晴信」を捨て、仏法の権威に根差す「信玄」を名乗ることで、彼は自らの存在を再定義した。それは、旧来の価値観からの決別と、自己の力に基づく新たな時代の創造者たらんとする強烈な意志表示であった。
そして最後に、それは 国家形成の礎 であった。「信玄」という名は、一個人の法号を超え、家臣と領民を精神的に統合する強力なブランドとなった。この絶大なカリスマ性を核として、武田領国は単なる支配地から、一つの強固な共同体へと昇華され、後の西上作戦に代表される覇権拡大を支える原動力となった。
晴信から信玄への変貌は、一人の戦国大名が、激化する生存競争の中で、軍事力のみならず、政治、宗教、文化といった人間社会のあらゆる要素を駆使して、自らを時代の頂点へと押し上げようとした究極の覇権戦略であった。この決断なくして、後世に「戦国最強」と謳われる武将・武田信玄の姿はあり得なかったのである。
引用文献
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- 岐秀元伯 | 戦国の足跡を求めて...since2009 http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-745.html
- 武田信玄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
- 【やさしい歴史用語解説】「出家」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1513
- 武田信玄 公 生誕五百年祭 大法要 - 甲府商工会議所 https://kofucci.or.jp/img/event/shingen500th/houyou_20211103.pdf
- 安国寺恵瓊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A
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- 27歳の上杉謙信が書いた手紙を大公開!出家願望は本心?それともフェイク? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/167424/
- 命を懸けた戦国武将たちの心の支えとは?…乱世を生き抜き、歴史を創った「信仰の力」 https://sengoku-his.com/236
- 「北条幻庵(宗哲)」一族の長老的な存在として後北条氏を支え続けた重鎮 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/344
- 武田信玄の子孫は実在するのか!?武田滅亡後の一族の血脈を辿る! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/763
- 恵林寺の武田不動尊は、誰がいつ制作したか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000294717&page=ref_view
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- 武田信玄が入道した動機と年令についての資料があるか - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000000804&page=ref_view
- 武田信玄|歴史人物いちらん|社会の部屋 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/takedasinngen.htm
- 武田氏・真田氏年表 - フレイニャのブログ https://www.freynya.com/entry/2023/03/26/205327
- 武田信玄とは 法の下の平等で常勝、甲斐の大名 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/takedashingen.html
- 長禅寺~武田信玄の母大井夫人の菩提寺:甲府五山~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/kai/tyozenji.html
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- 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu4.php.html
- 武田信玄 | 乾徳山 恵林寺 https://erinji.jp/history/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
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- 甲府五山 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/gozan.html
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