最終更新日 2025-10-09

氏康家法整備(1556頃)

北条氏康は1556年頃、河越合戦後の領国拡大と三国同盟を背景に家法整備を推進。検地、税制改革、目安箱設置、小田原衆所領役帳作成で統治システム確立、繁栄の礎。
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相模の獅子、秩序を紡ぐ ― 北条氏康の領国経営改革、その十年間の軌跡

序章:1556年という「時点」を超えて

日本の戦国時代において、後北条氏三代目当主、北条氏康が弘治2年(1556年)頃に断行したとされる「家法整備」は、しばしば家中統制を徹底した画期的な出来事として語られる。しかし、この変革を単一の時点における法令発布として捉えることは、その本質を見誤る恐れがある。氏康の改革は、特定の年に完結した静的な事象ではなく、天文23年(1554年)の甲相駿三国同盟の締結から、永禄4年(1561年)に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)による未曾有の侵攻を撃退するまでの、約10年間にわたって展開された、壮大かつ連続的な領国経営システム構築のプロセスそのものであった。1556年という年は、この大変革期の中間点として、象徴的な意味を持つに過ぎない。

では、北条氏康はなぜこの時期に、これほど集中的かつ体系的な改革を断行する必要に迫られたのか。本報告書は、この問いを起点とし、改革の背景にあった軍事的・政治的要請を解き明かす。そして、思想的基盤の構築から検地による領国資産の可視化、税制改革、さらにはその集大成である『小田原衆所領役帳』の作成に至るまで、個々の施策が如何に有機的に連携し、後北条氏の支配体制を磐石なものへと昇華させたのか。その軌跡を時系列に沿って詳細に論証するものである。

第一章:秩序構築への序曲 ― 1550年代前半、改革前夜の関東

1550年代、北条氏康が大規模な領国経営改革に着手する以前の関東は、一つの大きな軍事的勝利の光と、それがもたらした濃い影に覆われていた。栄光と課題、そして目前に迫る新たな脅威が交錯する中で、氏康は旧来の支配体制からの脱却を迫られていた。

1-1. 河越合戦の勝利がもたらした栄光と課題

天文15年(1546年)、河越城をめぐる戦いにおいて、北条氏康は関東管領山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らの連合軍を奇襲によって打ち破った 1 。この「河越合戦」における劇的な勝利は、扇谷上杉氏を滅亡させ、山内上杉氏の勢力を関東から駆逐する決定的な一撃となり、後北条氏は名実ともに関東最大の勢力へと躍り出たのである 2 。しかし、この輝かしい成功は、同時に深刻な統治の危機をもたらした。まさに「勝利が産んだ統治の危機」であった。

版図の急速な拡大は、北条氏の支配領域に旧上杉方であった国人衆や、元来独立性の高い在地領主たちを数多く組み込むことを意味した 3 。彼らの忠誠心は極めて不安定であり、いつ離反してもおかしくない状態にあった。初代早雲、二代氏綱の時代から続く、個々の武将との人間関係や武威に依存した属人的な支配体制では、この広大かつ複雑な領国を効率的に管理し、その全ての力を結集することは不可能であった。新領土の資産、すなわち土地の生産力や動員可能な兵力を正確に把握する術を持たず、税収は不安定で、軍役の動員も確実性を欠いていた。この支配の脆弱性は、いつ内部から崩壊してもおかしくない危険性を常に孕んでおり、新たな統治システムの構築が喫緊の課題として氏康の前に突きつけられた。この「勝利のジレンマ」こそが、彼を体系的な改革へと突き動かした根本的な動因であった。

1-2. 甲相駿三国同盟(1554年)の戦略的意義

このような内部の課題を抱える一方で、北条氏は西に甲斐の武田氏、駿河の今川氏、北に関東管領を追われた上杉氏という、三方の敵に囲まれる状況にあった 2 。この地政学的危機を打開するため、氏康は外交によって活路を見出す。天文23年(1554年)、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介により、北条氏は武田氏、今川氏との間に同盟を締結した。世に言う「甲相駿三国同盟」である 4 。この同盟により、氏康の娘が今川義元の子・氏真に、武田信玄の娘が氏康の子・氏政に嫁ぎ、三国は姻戚関係で結ばれた。

この三国同盟の意義は、単なる軍事的な相互不可侵条約に留まらない。これは、氏康がこれから着手する大規模な内政改革を断行するための、戦略的な「時間」と「安全」を確保する高等戦術であった。検地や税制改革といった、領国内の既得権益に深く切り込む政策は、家臣団の反発を招くリスクを必然的に伴う。もし西方の武田・今川と交戦状態にあれば、そのような内政の混乱は即座に国家の存亡に直結しかねない。三国同盟は、最も厄介な西方の二正面を外交によって安定化させ、国内の改革に反対する勢力が外部勢力と結びつくリスクを低減し、改革に集中できる政治的空間を創出したのである。まさしく、来るべき新たな脅威との決戦に備え、国力を最大化するための「内政改革のための戦略的平和」であった 2

1-3. 来るべき脅威 ― 越後の長尾景虎(上杉謙信)

西方を安定させた氏康の視線の先には、新たな、そしてより強大な脅威が姿を現しつつあった。河越合戦で敗れ、関東を追われた上杉憲政が亡命先の越後で、長尾景虎(後の上杉謙信)に関東出兵を要請していたのである 2 。景虎は「関東管領」という、関東の旧秩序を象徴する権威を掲げて侵攻してくることが予想された。これは、北条氏による関東支配の正統性を根底から揺るがす、存亡に関わる危機であった。

この明確かつ強大な外部脅威の存在は、逆説的に氏康が推進する中央集権的な改革にとって、強力な「触媒」として機能した。「景虎来襲」という領国共通の危機意識は、「今は小田原を中心に一丸となるべき」という大義名分を氏康に与え、検地や軍役強化といった痛みを伴う改革の正当性を担保したのである 3 。家臣団は、個人的な利害を超えて協力せざるを得ない状況に追い込まれた。氏康はこの状況を巧みに利用し、「対景虎」という旗印の下で、これまで大きな抵抗が予想された中央集権化政策を一気に推し進める。皮肉にも、謙信の脅威は北条氏の内部結束を強化し、より強固な統治体制を構築する絶好の機会を提供したのである。

第二章:統治の礎を築く ― 思想的基盤と経済的把握

目前に迫る危機と、内部に抱える構造的課題を克服するため、氏康の改革はまず、領国支配の根幹をなす思想の共有と、経済基盤の正確な把握から着手された。それは、法制度という骨格を支えるための、倫理的なインフラ整備と、国家資産の徹底的な可視化であった。

2-1. 武士の心得 ― 「早雲寺殿廿一箇条」にみる統治哲学

氏康の改革を理解する上で、後北条氏の家中に脈々と流れる統治哲学を無視することはできない。その原点となるのが、初代・北条早雲が定めたとされる家訓『早雲寺殿廿一箇条』である 9 。この家訓は、全21ヶ条から成り、神仏への崇敬に始まり、早寝早起き、質素倹約、礼儀作法、文武両道といった、武士が日常生活で守るべき心得を、極めて簡潔明瞭な言葉で説いている 10

これは、武田氏の『甲州法度之次第』や今川氏の『今川仮名目録』のような、具体的な罰則を伴う分国法ではない。むしろ、法が円滑に機能するための前提となる、家臣団の精神的・倫理的な「インフラ」を整備する役割を担っていた。例えば、第十四条で「上下万人に対し、聊かも偽を申すべからず(嘘をついてはならない)」と説き、第十条や第十三条で主君や宿老の前での礼儀を厳しく戒めている 11 。これらの規範を日常レベルで浸透させることは、後の『小田原衆所領役帳』に代表される、厳格な命令系統と義務の履行を前提とした統治システムが、単なる強制力だけでなく、家臣の内面的な規範意識によっても支えられる土壌を育んだ。氏康の改革は、家臣に自己の所領データを正直に申告させ、定められた軍役を忠実に履行させることを要求するものであった。これを実現するには罰則による強制(ハードパワー)だけでは限界がある。『早雲寺殿廿一箇条』は、創始者・早雲の権威を利用して「正直」「忠誠」「勤勉」といった価値観を家中に植え付けるソフトパワーとして機能し、法制度の実効性を高め、統治コストを低減させるという、法治と徳治を組み合わせた高度な統治技術の基盤となっていたのである。

2-2. 全ての改革の第一歩 ― 検地の徹底による領国資産の可視化

思想的基盤と並行して、氏康は領国経営の根幹をなす経済的把握に着手した。その手段が「検地」である。後北条氏は、戦国大名の中でも特に検地を重視し、初代早雲が伊豆を平定した直後の永正3年(1506年)には既に検地を実施している 15 。特に、当主が代替わりするごとに行う大規模な「代替わり検地」は、北条家の慣例となっていた 15

父・氏綱の死後、家督を継いだ氏康もこの慣例に倣い、天文11年(1542年)から翌12年にかけて、相模、南武蔵、伊豆などで大規模な代替わり検地を一斉に実施した 15 。さらに、河越合戦後の版図拡大を受け、弘治元年(1555年)には北武蔵において「卯の検地」と呼ばれる検地を断行している 3 。これらの検地は、単なる土地調査に留まるものではなかった。それは、荘園制以来の複雑な土地所有権や様々な中間的権益を一旦否定し、全ての土地を「貫高」という統一された数値基準に置き換える、画期的な「資産の抽象化・可視化」プロセスであった。

検地によって、土地の肥沃度や伝統的権益といった曖昧な要素は排除され、全ての土地はその面積と標準収量に基づいて「貫高」という単一の価値指標を付与された 19 。これにより、家臣の所領は具体的な「〇〇村の土地」という存在から、「〇〇貫文の価値を持つ知行」へと概念的に変換された。領国全体が、大名による一元的な管理が可能な「データベース」へと姿を変えたのである。この抽象化された「貫高」を基準とすることで、全ての家臣に対して公平かつ合理的な軍役・税役の賦課が可能となり、次なる改革の頂点である『小田原衆所領役帳』の作成に不可欠な、基礎データが収集されたのであった 17

2-3. 民衆との絆 ― 税制改革と目安箱

氏康の改革の射程は、家臣団の統制のみならず、領国の末端を支える民衆にまで及んでいた。彼は、それまで複雑多岐にわたっていた諸公事を廃止し、検地によって確定した貫高の6%を「懸銭(かけせん)」として納めさせるという、明快な税制改革を実施した 21 。これにより、不定期かつ恣意的な徴収から百姓は解放され、結果的に負担は軽減された。同時に、税が中間支配者を経由せず、直接北条氏の蔵に納められるシステムは、国人衆や代官といった中間支配者層の経済基盤である中間搾取を奪う効果を持っていた。

さらに氏康は、領民が身分を問わず直接、為政者の不法を訴えることができるよう「目安箱」を設置した 21 。これは、単なる民衆への恩恵政策ではない。国人衆や代官といった中間支配者層の力を削ぎ、大名と領民を直接結びつけるための高度な政治戦略であった。目安箱によって、領民は中間支配者を飛び越えて大名に直接正義を求めることが可能になる。これにより、領民は中間支配者ではなく、北条氏康を「真の支配者」「公正な裁定者」と認識するようになった。民衆の支持を直接得ることで、氏康は中間支配者層に対する圧倒的な優位性を確立し、より強固な中央集権体制を築くことに成功したのである。

第三章:統制の頂点 ― 『小田原衆所領役帳』の完成(1559年)

1550年代を通じて進められた氏康の改革は、永禄2年(1559年)、一つの到達点を迎える。検地によって可視化された領国の全貌を、家臣団の軍事動員体制へと直結させる画期的な台帳、『小田原衆所領役帳』の完成である。これは、北条氏の統治システムが、近世的な官僚支配へと大きく舵を切ったことを示す象徴であった。

3-1. 検地成果の集大成

永禄2年(1559年)2月、氏康は重臣の太田豊後守、関兵部丞、松田筑前守の3名を奉行に任命し、一門・家臣団の所領とそれに基づく諸役の賦課状況を調査させ、一台帳に編纂させた 3 。これが『小田原衆所領役帳』(以下、『役帳』)である。この『役帳』には、後北条氏に仕える560名の家臣一人ひとりについて、その知行地の郷村名と、検地によって確定した「貫高」が詳細に記されていた 21

『役帳』の最大の意義は、北条氏の統治システム全体を「見える化」したことにある。これにより、大名である氏康は、自国が動員可能な総兵力と、その兵科構成(馬、鉄砲、槍など)を正確に把握できるようになった。一方で家臣たちも、自身が負うべき軍役や普請役などの義務を明確に予見できるようになった 21 。軍事動員や徴税は、もはや属人的な交渉や曖昧な慣習ではなく、台帳に基づいた合理的かつ官僚的な手続きへと変貌を遂げた。この「予見可能性」の確立こそが、安定した長期的な領国経営の基盤となり、来るべき上杉謙信との総力戦において、迅速かつ大規模な軍事動員を可能にする源泉となったのである。

3-2. 「衆」による軍団再編成

『役帳』は、単に家臣の知行高を羅列した名簿ではなかった。そのもう一つの重要な特徴は、家臣団を本城である小田原城に属する「小田原衆」や「御馬廻衆」を筆頭に、「玉縄衆」「江戸衆」「伊豆衆」「津久井衆」といった、各地の支城を核とする15の「衆」に分類・編成していた点にある 21

この「衆」単位での編成は、単なる名簿上の分類ではない。これは、北条氏の広大な領国を、小田原の本城と各地の支城が連携する「方面軍」体制へと再編成する、軍事ドクトリン上の革新であった。指揮命令系統は地理的に整理され、有事の際には各方面の「衆」が、まず自己完結的に初動対応を行うことが可能となった 24 。例えば、下総方面で紛争が起きた場合、まず江戸衆や河越衆が迅速に対応し、小田原からの本隊が到着するまでの時間を稼ぐ。指揮官である各支城の城主も、自分が指揮すべき兵力(『役帳』に記載された所属家臣)が明確であるため、迷いなく動員を行える。これは、中央集権的な統制を維持しつつ、現場レベルでの即応性を高める、極めて合理的な軍事システムであった。

3-3. 貫高と軍役の換算基準

『役帳』の合理性を最も端的に示しているのが、知行貫高と軍役負担の間に設けられた、明確な換算基準である。これにより、家臣に課される軍役は、恣意性を排した客観的な数値に基づいて決定された。現存する資料からは、その具体的な基準を推定することができる。

ある資料によれば、軍役の人員は「5貫文につき一人」、装備については「100貫文あたり馬上三騎、鉄砲一挺、鑓六本、大小旗一本」が標準であったとされている 3 。また、別の事例として、池田孫左衛門尉という武将は、自身の知行と配下の寄子の知行を合わせて約389貫文に対し、自身を含め56人の兵員を動員するよう規定されていた 25 。これらの数値を基に、軍役換算基準を以下の表にまとめる。

知行貫高 (基準)

動員人数 (推定)

装備 (推定)

典拠資料

5貫文

1人

-

3

100貫文

20人 (5貫文/人 換算)

馬上3騎、鉄砲1挺、槍6本、旗1本

3

389貫文 (池田孫左衛門尉)

56人

槍、弓、鉄砲、旗指物など詳細な規定あり

25

このような明確な換算基準の存在は、後の豊臣秀吉による兵農分離や石高制に先駆けて、戦国大名が如何に家臣団の軍事力を定量的に管理しようと試みたかを示す先進的な事例である。これにより、北条氏は自軍の兵科構成(騎馬、鉄砲、長槍兵の比率)までもある程度コントロールすることが可能となり、戦術の幅を広げることができた。これは、単なる兵力の確保から、軍の「質」の管理へと踏み出したことを意味しており、北条氏の軍事思想の先進性を示すものであった。

第四章:改革の結実と遺産 ― 新たな秩序の確立

1550年代を通じて、北条氏康が心血を注いで築き上げた新たな統治システムは、1560年代に入ると、その真価を問われることになる。未曾有の国難、そして次代への権力継承という二つの大きな試練を乗り越えることで、改革の成果は証明され、その遺産は後北条氏100年の繁栄を支える礎となった。

4-1. 永禄4年(1561年)の試練 ― 小田原籠城戦

永禄3年(1560年)、上杉憲政から関東管領職と上杉の姓を譲り受けた長尾景虎改め上杉政虎(謙信)は、関東の諸将を糾合し、10万ともいわれる大軍を率いて関東へ侵攻した。北条方についていた関東の国人衆のほとんどが謙信に靡き、北条軍は瞬く間に追い詰められ、永禄4年(1561年)3月、ついに本拠・小田原城を包囲されるに至った 2 。まさに絶体絶命の危機であった。

しかし、氏康はこの窮地を乗り越える。彼が選択したのは、野戦ではなく籠城戦であった 2 。この選択自体が、自らが築き上げた統治システムへの絶対的な自信の表れであった。動員令一下、『役帳』に基づいて編成された各支城の「衆」は計画通りに小田原へと集結し、長期の籠城を支える兵力となった。検地と税制改革によって安定した財政は、豊富な兵糧の備蓄を可能にした。民政の安定は、領民の離反を防ぎ、後方の安全を確保した。結果、補給線が伸びきった謙信の大軍は、堅固な小田原城を攻めあぐね、約1ヶ月後には越後への撤退を余儀なくされたのである 26 。この小田原籠城戦の成功は、1550年代を通じて行われた一連の改革が、実戦という最も過酷な状況下で完璧に機能したことを証明した。氏康の改革は、机上の空論ではなく、国家の存亡を救う実用的なシステムであった。

4-2. 次代への継承 ― 氏康から氏政へ

統治システムの集大成である『役帳』が完成した永禄2年(1559年)、氏康は家督を嫡男の氏政に譲り、隠居した 5 。しかし、その後も「御本城様」として実権を握り続け、若き当主である「若殿様」氏政との二頭政治体制を敷いた 27 。この権力移譲のタイミングは、極めて象徴的である。氏康は、個人的なカリスマや武威といった属人的な要素に依存する支配ではなく、客観的な台帳と制度に基づいた「システムによる支配」を確立し、それを次世代に引き継ごうとしたのである。

戦国大名にとって、代替わりは内紛や家臣の離反を招く最大の危機であった。氏康は、自身の隠居前に統治のルールブックである『役帳』を完成させ、それを氏政に引き継いだ。その後の二頭政治は、単なる院政ではなく、この複雑な統治システムを氏政に習熟させるための、周到に計画された「実務研修」期間であったと考えられる。氏政の権威は、彼個人の資質だけでなく、「確立された制度の正統な継承者」という側面からも担保され、極めて安定した権力移譲が実現した。このシステムは氏政、そしてその子・氏直の代まで継承され、北条氏の長期安定支配を支え続けた 28

4-3. 戦国大名としての先進性

氏康が構築した統治システムは、同時代の他の戦国大名と比較した際に、その先進性が際立っている。例えば、武田信玄の『甲州法度之次第』や今川義元の『今川仮名目録』は、喧嘩両成敗の規定に代表されるように、家臣団内部の紛争解決や社会規範の維持といった、中世的な「裁判と刑罰」を中心とした法治国家的な性格を色濃く残している 30

それに対し、氏康の一連の改革は、検地と『役帳』を中心とした、より定量的で管理的な側面に特徴がある。それは、領国を一つの巨大な「経営体」と捉え、その資産(土地・人)を最大限に活用するための、近代的・経営的な発想に基づいていた。貫高という統一会計基準を導入し、『役帳』という事業計画書を作成し、それに基づいて資源(軍事力)を配分する手法は、他の大名とは一線を画す、後北条氏の際立った先進性を示している。それは「法治国家」から、より合理的な「経営国家」への飛躍であったと言えるだろう。

結論:氏康の「家法整備」が戦国史に刻んだもの

北条氏康が1556年頃に行ったとされる「家法整備」は、単一の法令発布という一点の事象ではなく、1550年代を通じて周到に計画・実行された、軍事・政治・経済・社会の全てを連動させた総合的な国家改造計画であった。それは、上杉謙信という外部の軍事的脅威を内政改革の推進力へと転化させ、思想的基盤の整備から、検地による資産の可視化、税制改革による民心の掌握、そして『小田原衆所領役帳』による統治のシステム化へと至る、見事な論理的連鎖を成していた。

この改革によって確立された、合理的で予見可能性の高い統治システムは、上杉謙信や武田信玄といった当代屈指の強敵との熾烈な生存競争を勝ち抜くための原動力となった。そして、後北条氏がその後約30年にわたり、広大な関東に覇を唱え続けるための揺るぎない礎を築いたのである。

北条氏康は、単に勇猛な武将であっただけでなく、戦国時代屈指の先見性を持った「国家経営者」として再評価されるべきである。彼の遺産は、個人のカリスマに依存した支配から、客観的なデータと制度に基づく統治へと移行する、後の近世的な支配体制の萌芽とも言える、極めて先進的なものであった。相模の獅子が紡ぎ出した新たな秩序は、戦国乱世における国家統治の一つの理想形として、日本の歴史に深く刻まれている。

引用文献

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  2. 「北条氏康」関東支配を巡り、上杉氏と対立し続けた後北条氏3代目の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/368
  3. #43 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
  4. 第3回 三大戦国大名 比較年表(1536~1552年)- 関東戦国史1438-1590 https://www.kashikiri-onsen.com/kantou/gunma/sarugakyou/sengokushi/chronology03.html
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