水口宿整備(1601)
水口宿は、1601年に徳川家康が甲賀地域の独立性を解体し、東海道の要衝として整備。関ヶ原後の国家統治戦略の一環で、軍事拠点から経済・交通の中心への転換を象徴し、幕府の支配を確立した。
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天下統一の礎:水口宿整備(1601)に見る徳川家康の甲賀支配戦略
序章:宿場整備という名の「戦後処理」
慶長6年(1601年)、天下分け目の関ヶ原の戦いからわずか1年。その戦火の煙が未だ燻る中、徳川家康は新時代の幕開けを告げる一大事業に着手した。東海道に五十三の宿場を設け、伝馬制度を確立するという、全国規模での街道整備である 1 。これは単なる交通インフラの刷新に留まるものではなかった。江戸と京・大坂という二大拠点を結ぶ大動脈を掌握し、有事の際の迅速な軍隊移動を可能にする兵站路を確保すると同時に、幕府の法令や情報を全国の隅々にまで伝達し、人の往来を管理下に置くことで徳川の権威を浸透させるという、極めて高度な政治的意図を内包した「天下統一の総仕上げ」であった。
本レポートは、この壮大な国家プロジェクトの中でも、特に近江国甲賀郡に位置する「水口宿」の整備に焦点を当てる。なぜなら、水口の事例は、家康がいかにして戦国時代を通じて強固な独立性を保ってきた地域を、巧みに新秩序へと組み込んでいったかを示す、象徴的な縮図と言えるからである。
水口が位置する甲賀郡は、戦国時代を通じて特定の戦国大名による直接支配を許さず、「甲賀郡中惣」と呼ばれる地侍たちの連合自治組織によって統治されてきた、他に類を見ない特殊な地域であった 2 。彼ら甲賀武士は、時に忍びとしても活躍し、その卓越したゲリラ戦術と情報収集能力は全国に知れ渡っていた。徳川家康自身も、本能寺の変直後の「神君伊賀越え」をはじめ、その生涯で幾度となく甲賀の者たちの力を借り、その独立性と戦闘能力を誰よりも深く認識していた 5 。
この一筋縄ではいかない土地に対し、家康は武力による強圧的な支配ではなく、「宿場を整備する」という、一見穏健な手法を選択した。本レポートでは、この水口宿整備という事象を、豊臣政権の軍事拠点であった「水口岡山城」の解体という「破壊」と、徳川政権の経済・交通拠点である「水口宿」の建設という「創造」の連続したプロセスとして捉える。これにより、戦国時代の「武」の論理に基づく支配から、近世江戸時代の「法」と「経済」を基盤とする支配への、日本の歴史における重大なパラダイムシフトが、水口という一つの宿場町の成立過程から、いかにして成し遂げられたのかを時系列に沿って明らかにしていく。
第一章:舞台背景 ― 慶長以前の甲賀と水口
慶長6年(1601年)の水口宿整備を理解するためには、まず、それ以前の甲賀郡と水口が、いかなる歴史的・政治的文脈の中に置かれていたかを知る必要がある。この地は、在地勢力による古くからの自治の伝統と、中央集権化を目指す外部権力との緊張関係が交錯する、特異な場所であった。
1-1. 独立の地、甲賀:「甲賀郡中惣」の実態
戦国時代の甲賀郡は、特定の戦国大名による恒久的な支配を受けず、「甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)」と呼ばれる地侍たちの連合自治組織によって運営されていた 2 。この組織は、郡内に拠点を置く「甲賀五十三家」とも称される小領主たちが、互いに対等な立場で結んだ水平的な連合体であった 4 。郡全体に関わる重要事項は、一部の有力者による独裁ではなく、代表者たちによる合議制によって決定されるという、戦国乱世にあっては極めて稀有な統治形態を維持していたのである 4 。
彼ら甲賀武士は、近江守護であった六角氏の傘下にありながらも、その関係は従属というよりは緩やかな同盟に近く、強い独立性を保持していた。その力の源泉は、卓越したゲリラ戦術や情報収集能力であり、長享元年(1487年)の鈎(まがり)の陣では、室町幕府の大軍を相手に奇襲を繰り返し、将軍・足利義尚を敗死寸前にまで追い込んだことで、その名を全国に轟かせた 7 。このような自治の伝統と、自らの力で地域を守り抜いてきたという誇りが、甲賀という土地の独特な気風を形成していた。彼らは、外部からの権力支配に対し、常に警戒心と抵抗の意志を内に秘めていたのである。
1-2. 豊臣政権による支配の楔:「水口岡山城」の築城
天下統一事業を推し進める豊臣秀吉は、この独立性の高い甲賀郡を中央集権体制に組み込むことの重要性を認識していた。そこで天正13年(1585年)、腹心の家臣である中村一氏に命じ、甲賀郡の中心地であり、東海道が貫く交通の要衝でもあった水口の地に、「水口岡山城」を築城させた 9 。
古城山(現在の城山)に築かれたこの城は、単なる防衛拠点ではなかった。それは、甲賀郡中に睨みを利かせ、地侍たちの動向を監視すると同時に、京と東国を結ぶ大動脈・東海道を完全に押さえるための、豊臣政権による支配の楔そのものであった 9 。城の威容は、甲賀の在地領主たちに対し、もはや自治の時代は終わり、豊臣という強大な中央権力に従属しなければならないという無言の圧力を与え続けた。
城の麓には城下町も形成され始めたが、その本質はあくまで軍事拠点であり、そこに住まう人々の営みは、城の政治的・軍事的機能に従属するものであった 11 。この水口岡山城の存在は、土地に根差した内発的な秩序である「甲賀郡中惣」と、外部から持ち込まれた中央集権的な秩序との間に、常に潜在的な緊張関係を生み出していた。慶長以前の水口は、これら二つの異なる秩序がせめぎ合う、地政学的な断層地帯だったのである。
第二章:激震 ― 関ヶ原の戦いと水口岡山城の落城(1600年)
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、水口の運命を根底から揺るがす激震となった。豊臣政権の支配の象徴であった水口岡山城は、この戦いの中で劇的な終焉を迎え、甲賀の地は新たな権力構造の再編へと向かうことになる。
2-1. 西軍の拠点としての水口岡山城
関ヶ原の戦いが勃発した当時、水口岡山城の城主は、豊臣政権の中枢を担う五奉行の一人、長束正家であった 12 。丹羽長秀の家臣から秀吉に見出され、卓越した算術能力で豊臣家の財政を支えた正家は、石田三成らと共に西軍の主力を形成し、徳川家康の打倒を目指した。彼の居城である水口岡山城は、西軍にとって近江における重要な後方拠点の一つと位置づけられていた。
しかし、運命の9月15日、関ヶ原の本戦において、長束正家は毛利秀元らと共に家康の本陣背後にあたる南宮山に布陣したものの、東軍に内通していた吉川広家の妨害によって、最後まで動くことができなかった 13 。結果として、西軍は主戦場で奮戦することなく敗北。水口岡山城の運命も、この瞬間に事実上決したのである。
2-2. 落城のリアルタイム・シークエンス
関ヶ原での敗報は、驚くべき速さで各地に伝播した。水口岡山城が落城に至るまでの数日間は、まさにリアルタイムの政変劇であった。
- 慶長5年9月15日夕刻~16日 : 関ヶ原での西軍壊滅の報が、水口にもたらされる。城内は計り知れない混乱と動揺に包まれたであろう。城主・長束正家は、主戦場で何もできぬまま敗走を余儀なくされ、手勢を率いて居城である水口岡山城へと逃げ帰った 12 。
- 追撃と包囲 : 東軍は勝利の勢いを駆って、西軍残党の掃討作戦を迅速に開始した。池田輝政の弟・池田長吉らが率いる部隊が正家を追撃し、間もなく水口岡山城を完全に包囲した。権力の空白を瞬時に突く、徳川方の素早い軍事行動であった。
- 開城と自刃 : 包囲された城内で、正家はもはや抵抗が無意味であることを悟った。彼は城を明け渡し、城内で自刃して果てた 12 。これにより、天正13年(1585年)の築城以来、15年間にわたって甲賀の地を支配してきた豊臣政権の拠点は、名実ともに終焉を迎えた。水口の大徳寺には、落城の際に焼失した天守の焼け残りの材で本堂を建てたという伝承や、切腹した武将の血手形が天井に残されているという逸話もあり、その凄惨な結末を今に伝えている 13 。
2-3. 甲賀武士たちの選択と戦後
この天下分け目の大戦において、独立性の高い甲賀武士たちは一枚岩ではなかった。彼らはそれぞれの思惑と利害に基づき、東軍と西軍に分かれて戦った。この分裂こそが、戦後の徳川による甲賀支配を容易にする重要な要因となった。
東軍方についた代表的な人物が、山岡景友である。彼は早くから家康に仕え、関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いでは、鳥居元忠らと共に城を死守し、西軍の大軍を足止めする上で大きな功績を挙げた 5 。家康はこの功績を高く評価し、戦後、景友に同郷の甲賀武士たちを統率する「甲賀百人衆」の指揮権を与え、常陸国古渡藩の初代藩主に取り立てるなど、破格の厚遇で報いた 14 。
一方で、旧主である六角氏や豊臣家との関係から西軍に与した者たちも少なくなかった。彼らは戦後、領地没収などの厳しい処分を受けることとなった。この戦いを通じて、家康は甲賀武士団の内部に「親徳川派」という強力な楔を打ち込むことに成功したのである。
2-4. 権力の空白と徳川による接収
長束正家の死と開城により、水口岡山城は一時的に池田長吉の管理下に置かれた後、速やかに徳川幕府の直轄領(天領)へと編入された 12 。そして家康は、この豊臣支配の象徴であった城を再利用するという選択をしなかった。彼は、この城を完全に「廃城」とすることを命じたのである 9 。
これは単なる軍事拠点の無力化を意味するものではなかった。城は、単なる建造物ではなく、権威と記憶の象徴である。甲賀の人々にとって、山上に聳える水口岡山城は、豊臣政権の力の象徴であった。家康がこの城を破壊し、打ち捨てるという行為は、「戦の時代は終わった。豊臣の支配も終わった。これから始まるのは全く新しい徳川の時代である」という強烈な政治的メッセージを、甲賀の地、ひいては天下に示すものであった。この豊臣の記憶を物理的に消去する「破壊」によって生み出された物理的・心理的な空白地帯にこそ、家康は次なる「創造」、すなわち水口宿という新たな秩序の種を蒔くのである。
表1:水口における支配構造の変遷(戦国末期~江戸初期)
時代 |
支配主体 |
主要拠点 |
統治理念・特徴 |
関連する主要事象 |
戦国時代(~天正期) |
甲賀郡中惣(地侍連合) |
各地の城館(寺前城など) |
在地領主による水平的・合議制の自治 |
六角氏への従属と自律性の維持 |
豊臣政権期(天正13年~) |
豊臣政権(中村一氏、長束正家など) |
水口岡山城(山城) |
中央集権権力による垂直的・軍事的支配 |
郡中惣の監視、東海道の掌握 |
関ヶ原直後(慶長5年) |
徳川家康(東軍) |
(権力の空白) |
軍事的制圧と旧権力の解体 |
長束正家の自刃、水口岡山城の落城・接収 |
徳川政権初期(慶長6年~) |
徳川幕府(直轄領) |
水口宿 (平地の宿場町) |
経済・交通・情報による全国一元的支配 |
水口宿の整備 、岡山城の廃城、郡中惣の解体 |
徳川政権安定期(寛永11年~) |
徳川幕府(将軍家) |
水口城(平城・将軍宿館) |
圧倒的な武家の権威の誇示 |
三代将軍家光の上洛、水口城の築城 |
第三章:新時代の布石 ― 水口宿整備という名の「無血占領」(1601年)
水口岡山城の廃城によって旧時代の象徴を破壊した家康は、間髪入れずに新時代の秩序を創造する行動に移った。それが、慶長6年(1601年)に断行された水口宿の整備である。これは単なるインフラ整備ではなく、甲賀の社会構造そのものを変革し、徳川の支配体制に組み込むための、巧妙に計算された「無血占領」であった。
3-1. 家康の迅速な決断
関ヶ原の戦いが終結してからわずか数ヶ月後の慶長6年、家康は矢継ぎ早に全国の主要街道の整備を命じ、東海道には53の宿駅が正式に定められた 1 。水口もその一つとして、土山宿と共に東海道五十番目の宿場町として指定されたのである 16 。この驚くべきスピード感は、家康が軍事的勝利を、いかに早く恒久的な政治的・経済的支配へと転換させるかを重視していたかを物語っている。彼は、戦乱の熱気が冷めやらぬうちに、新たな秩序のレールを全国に敷設しようとしたのである。
3-2. 「破壊」と「創造」の同時遂行
水口における徳川の支配戦略は、「破壊」と「創造」を同時に行うことで、その効果を最大化するものであった。
- 旧権力の象徴の破壊 : 前章で述べた通り、山上に位置する軍事拠点「水口岡山城」は完全に廃城とされ、その政治的・軍事的機能は停止させられた 9 。これにより、豊臣政権の威光と、それに伴う「武」を絶対的価値とする時代の終焉が宣言された。
- 新秩序の基盤の創造 : それと同時に、廃城となった城の麓、東海道が貫く平地に、新たな経済と交通の中心地として「水口宿」の整備が開始された。これは、支配の拠点を「山(軍事)」から「道(経済・交通)」へと劇的に転換させることを意味した。人々はもはや山上の城を見上げるのではなく、街道沿いの町の賑わいの中に、新たな時代の価値を見出すことになったのである。
3-3. 宿場整備の具体的なプロセス
水口宿の整備は、極めて計画的に進められた。それは、徳川幕府による新たな社会システムをこの地に根付かせるための、具体的な施策の集合体であった。
- 幕府直轄領化と自治権の解体 : 水口岡山城落城後、この地は徳川の天領となり、幕府から代官が派遣され、直接的な行政管理下に置かれた 15 。これにより、戦国時代を通じてこの地を規定してきた地侍たちの自治連合組織「甲賀郡中惣」は、その存在意義を失い、事実上の解体へと向かった 17 。
- 計画的な都市設計 : 宿場町は、東海道を中心に、特徴的な「三筋町」として発展するよう計画的に町割りがなされた 11 。これは、自然発生的に形成された村落とは異なり、幕府の明確な都市計画思想に基づいて設計されたことを示唆している。
- 新秩序を支える中核施設の設置 :
- 本陣・脇本陣 : 大名や旗本、公家、幕府役人といった貴人が宿泊・休憩するための施設として、本陣と脇本陣が設置された。水口宿の本陣は、この地の古い家柄であった鵜飼伝左衛門家が代々経営を担った 16 。これは、在地有力者を単に支配するのではなく、彼らに名誉ある役職を与えることで新体制に積極的に取り込み、その権威を利用して宿場町を円滑に運営するという、家康の巧みな統治術の現れであった。
- 問屋場 : 宿駅制度の心臓部とも言えるのが問屋場である。ここでは、公用の書状や荷物を次の宿場まで運ぶための人足と馬(伝馬)の継ぎ立て業務が差配された 11 。問屋場を掌握することは、幕府が全国の物流と情報を完全にコントロール下に置くことを意味した。
- 高札場 : 幕府の法令や禁令を庶民に周知させるための掲示板である高札場が、町の中心の最も人目につきやすい辻に設置された 20 。これにより、徳川の権威と法が、常に領民の日常生活の中に可視化されることになった。
これらの施策を通じて、水口の地は大きく変貌した。かつて甲賀武士たちの力の源泉であった土地の領有と軍事力(武)という価値は相対的に低下し、それに代わって、街道沿いでの商業活動や幕府の公役を担うことによる「経済力」と「幕府への奉仕」が、新たな社会的身分や名誉を規定する価値基準として導入された。かつてのように「惣」を組んで武力で抵抗するよりも、宿場町の一員として経済活動に従事し、幕府の秩序に協力する方がはるかに有益であるという状況が作り出されたのである。これこそが、武器を一切使わずに地域の価値観そのものを変容させ、支配を確立する「無血占領」の本質であった。
第四章:支配の浸透と完成 ― 水口宿の発展と徳川の威光
慶長6年(1601年)に蒔かれた種は、その後、徳川の治世が安定するにつれて着実に根を張り、花開いていった。水口宿は経済的な繁栄を謳歌する一方で、幕府による統制システムも隅々にまで浸透した。そして、寛永期には徳川の威光を天下に示す象徴的な建造物が築かれ、水口における徳川支配は最終的な完成を見ることになる。
4-1. 「街道一の人止め場」への発展
徳川幕府の計画通り、水口宿は交通の要衝として目覚ましい発展を遂げた。多くの旅人や物資が行き交い、その賑わいは「街道一の人止め場」と称されるほどであった 18 。天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によれば、水口宿の家数は692軒、人口は2692人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒のほか、41軒もの旅籠屋が軒を連ねていた 16 。これは、隣接する土山宿の家数351軒と比較しても圧倒的に多く、水口宿が周辺地域の中核として大きな経済的繁栄を享受していたことを示している 19 。
この繁栄を支えた要因の一つが、名物として知られた干瓢(かんぴょう)の生産であった 21 。街道を通じて全国に流通した干瓢は、水口に大きな富をもたらし、宿場町の経済基盤を強固なものにした。このように、幕府が整備した街道システムは、地域に経済的な恩恵をもたらすことで、人々が自発的に新秩序を受け入れ、その維持に協力するインセンティブを生み出したのである。
4-2. 統制と監視のシステム
しかし、宿場の繁栄は自由放任の結果ではなかった。その裏では、幕府による厳格な管理と監視のシステムが機能していた。
- 見附の設置 : 宿場の東西の出入り口には、それぞれ「東見附(江戸口)」と「西見附(京口)」と呼ばれる防御施設が設けられた 21 。これらは、枡形の土塁や柵で区画され、夜間は閉じられる木戸や、旅人の往来を監視する番所が置かれるなど、厳重な警備体制が敷かれていた 21 。これにより、宿場町は一種の関所としての機能も有し、不審者の流入や犯罪者の逃亡を防ぐ役割を担っていた。
- 甲賀百人衆の役割 : 関ヶ原の戦いで徳川方についた山岡景友指揮下の甲賀武士たちは、戦後「甲賀百人衆」として組織された 14 。彼らの多くは江戸へ赴き、江戸城の警備や幕府の諜報活動に従事したが 5 、一部は地元に残り、水口宿をはじめとする地域の治安維持や監視といった、新たな時代の警察力としての役割を担ったと考えられる。これは、戦国時代の武士が持っていた戦闘技術という能力を、旧来の自治組織のためではなく、幕府の統制システムを維持するために再利用・再配置するという、巧みな人材活用策であった。
4-3. 支配の最終象徴:「水口城」の築城
水口宿の整備から約30年の時が流れた寛永11年(1634年)、徳川の支配が盤石となったことを天下に示す、決定的な出来事が起こる。三代将軍・徳川家光が大規模な行列を率いて上洛するにあたり、その宿館として、水口の地に新たな「水口城」が築かれたのである 1 。
この城は、かつて廃城となった山上の水口岡山城とは全く性格を異にするものであった。東海道沿いの平地に築かれ、作事奉行には当代随一の文化人であった小堀遠州が任じられた 22 。その建物構成は京都の二条城に共通する壮麗なものであり、軍事的な防衛機能よりも、天下人たる徳川将軍の絶対的な権威と威光を天下に誇示するための、壮大な「見せるための城」であった 11 。
この水口城の築城は、水口における徳川支配の完成を宣言するものであった。豊臣の城跡を顧みることなく、全く新しい場所に、将軍のためだけの壮麗な城を建設するという行為そのものが、もはや他の誰にも追随を許さない徳川の圧倒的な財力と権力を示していた。1601年の水口宿整備が、経済と交通という「実利」を掌握するための現実的な政策であったとすれば、1634年の水口城築城は、徳川の「権威」を可視化し、人々の心に刻み込むための最終仕上げであった。この「実利」と「権威」の両輪によって、水口の地における戦国的な独立性は完全に過去のものとなり、徳川の治世は盤石のものとなったのである。
終章:水口宿整備が歴史に刻んだもの
慶長6年(1601年)の水口宿整備という事変を、「戦国時代」という視点から深く掘り下げてきた。その結果、この出来事が単なる宿場町の設置という行政的措置に留まらず、日本の歴史が大きな転換点を迎える上で、極めて重要な意味を持っていたことが明らかになる。
第一に、水口宿整備は、戦国時代を通じて甲賀の地を規定してきた、在地領主による自律的な「惣」という秩序を事実上解体し、徳川幕府による中央集権的な支配体制へと移行させる画期的な事変であった 17 。それは、武力による支配から、法と経済、そして情報を基盤とする新たな支配へのパラダイムシフトを象徴している。家康は、甲賀武士の武力を直接的に弾圧するのではなく、宿場町という新たな経済圏を創出することで、彼らの価値観そのものを変容させ、自発的に新秩序へ参画させるという、極めて高度な統治戦略を実践したのである。
第二に、この事例は、徳川家康という人物の卓越した国家構想を浮き彫りにする。彼にとって、東海道、そしてその要衝である水口宿の整備は、関ヶ原の勝利を恒久的なものとし、江戸を基点とする新たな国家秩序を構築するための最重要課題であった。水口の地で展開された、旧権力の象徴(水口岡山城)の「破壊」と、新秩序の拠点(水口宿)の「創造」という一連のプロセスは、彼の構想が単なる軍事的な制圧に終わらず、社会構造そのものを長期的な視点に立って変革しようとするものであったことを雄弁に物語っている。
結論として、「水口宿整備(1601)」とは、関ヶ原の戦火の煙がまだ燻る中で放たれた、旧時代の秩序を破壊し、新時代の経済と情報の血流を全国に行き渡らせるための、静かなる、しかし決定的な一手であった。それは、戦国乱世の終焉を告げ、二百六十余年にわたる泰平の世の礎を築く、「天下統一の総仕上げ」と呼ぶにふさわしい歴史的事業だったのである。
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- 水口宿の古い町なみ - 甲賀市観光ガイド https://koka-kanko.org/see/minakuchijyuku/
- 東海道五十三次の宿場町をめぐる~滋賀県甲賀「水口宿」~ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/171130-shiga-koka-6/
- 旧東海道を歩く(土山宿~水口宿)その11:水口宿・本陣跡~平町 | JINさんの陽蜂農遠日記 https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/202004200000/
- 水口宿 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/4227/
- 水口宿 みな http://www.mismonet.com/inc/wp-content/uploads/2024/06/M_Tokaido_42.pdf
- 水口宿東見附跡 - 甲賀市観光ガイド https://koka-kanko.org/see/minakuchijyuku-mitsuke/