最終更新日 2025-09-17

永正の錯乱(1507)

永正四年、管領細川政元が暗殺され「永正の錯乱」が勃発。三人の養子による家督争いは、細川京兆家を二つに分裂させ、将軍家も巻き込む大乱へと発展。戦国時代の下剋上を象徴する事件となった。
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永正の錯乱(1507年):中央政権崩壊の序曲と戦国乱世の本格的到来

序章:権力の頂点とその亀裂 ― 細川政元政権の実像

永正四年(1507年)に京都を震撼させた「永正の錯乱」は、単なる一大名の内紛に留まらず、室町幕府の中央権力構造を根底から覆し、戦国時代の到来を決定づけた画期的な事件である。この事変を深く理解するためには、まずその中心人物である室町幕府管領・細川政元が築き上げた、盤石に見えて極めて脆い権力の実像を解き明かす必要がある。

「半将軍」政元の絶対的権力

応仁・文明の乱(1467-1477年)を経て室町幕府の権威は大きく揺らいだが、その中で細川京兆家は管領として幕政を主導する地位を確立していた。細川政元は、父・勝元の地盤を継ぎ、明応二年(1493年)、クーデターによって将軍・足利義材(後の義稙)を追放し、自らが選んだ足利義高(後の義澄)を第11代将軍として擁立した 1 。この「明応の政変」は、管領が将軍を廃立するという前代未聞の事態であり、これによって政元は幕府権力を完全に手中に収め、その権勢は「半将軍」とまで称されるに至った 2 。以後、約15年間にわたり、政元は畿内における絶対的な権力者として君臨し、その治世は一応の安定をもたらしていた。

権力者の奇行 ― 修験道への傾倒とその影響

しかし、この絶対権力者の内面には、極めて特異な精神世界が広がっていた。政元は修験道に深く傾倒し、山中での修行に没頭するだけでなく、天狗の扮装をして空を飛ぶ術を試みるなどの奇行を繰り返したと伝えられる 1 。彼の信仰は単なる個人的な趣味の域を超えていた。修験道が説く女人禁制の戒律を厳格に守るため、政元は生涯にわたって妻帯せず、女性との関係を一切持たなかった 4 。その結果、彼には実子が存在しなかったのである 4

この個人的な信条は、細川京兆家という一大権門の存続に関わる、極めて重大な政治問題を引き起こした。守護大名家にとって、血縁による家督の安定継承は、その権力を維持するための根幹である。政元が実子を持たなかったことは、この根幹を自ら揺るがすに等しい行為であった。彼の修験道への情熱は、家臣団(内衆)にとって理解し難い奇行であると同時に、家の将来を危うくする深刻な懸念材料となっていたのである 4

政元の個人的な信仰という「私事」が、細川京兆家の後継者問題、ひいては畿内全体の政治秩序という「公事」を直接的に脅かす構造。この公私の区別の崩壊こそが、権力者の個人的資質が政局全体を左右する戦国時代の到来を象徴していた。永正の錯乱に至る全ての悲劇の種は、この権力者の特異な信条の中に既に蒔かれていたのである。

第一章:後継者問題の深層 ― 三人の養子と派閥の形成

実子なき政元が、家の存続のために選択した方策は「養子」であった。しかし、彼は一人の後継者を定めるのではなく、異なる出自を持つ三人の養子を迎えるという、極めて不安定な後継者体制を築いた。この三人の養子の存在は、家中に深刻な派閥対立を生み出し、やがて政元自身の命を奪う刃へと変わっていく。


表1:永正の錯乱 主要人物相関図

カテゴリ

人物名

役職・立場

主要な関係性

細川京兆家

細川政元

室町幕府管領、細川京兆家当主

暗殺の対象。三人の養子を迎え、内紛の原因を作る。

細川澄之

政元の第一養子(九条家出身)

香西元長・薬師寺長忠に擁立され、政元を暗殺し家督を簒奪。

細川澄元

政元の第二養子(阿波細川家出身)

三好之長に支持される。政元暗殺後の正統な後継者候補。

細川高国

政元の第三養子(野州家出身)

当初は澄元と協調し澄之を討伐。後に澄元と対立。

澄之派(反澄元派)

香西元長

山城国守護代

澄之を擁立し、政元暗殺を主導。三好之長の台頭に反発。

薬師寺長忠

摂津国守護代

澄之を擁立し、政元暗殺を主導。兄・元一と対立。

澄元派(阿波勢)

三好之長

澄元の家臣

阿波勢を率い、澄元を強力に支持。軍事面での実力者。

薬師寺元一

前摂津国守護代

澄元を養子に迎えることを主導。後に政元に反乱(1504年)。

将軍家

足利義澄

第11代将軍

政元に擁立された傀儡将軍。澄之の家督継承を一時承認。

足利義稙

前第10代将軍

政元に追放され、大内義興を頼る。政元死後に上洛を目指す。

その他有力大名

大内義興

周防・長門等の守護

義稙を保護。政元死後の混乱を好機と捉え、上洛軍を起こす。


第一の養子・細川澄之 ― 公家の血筋と脆弱な基盤

政元が最初に迎えた養子は、関白・九条政基の末子である澄之であった 4 。延徳三年(1491年)、わずか2歳で養子となり、京兆家嫡子の証である幼名「聡明丸」を与えられた 4 。細川家の血を全く引かない公家からの養子という選択は異例であったが、これには当時政元が将軍に擁立した足利義澄が澄之の従兄弟にあたるという、政治的な計算があったとされる 4 。しかし、血縁的正統性を欠く澄之の立場は、家中で盤石なものとは言えなかった。彼の支持基盤は、後に三好氏の台頭を警戒するようになる香西元長や薬師寺長忠といった、一部の伝統的な内衆に限られていた 4

第二の養子・細川澄元 ― 阿波からの血族

澄之の立場が政元との関係悪化などにより不安定になると、次に後継者候補として浮上したのが、細川一門である阿波守護・細川義春の子、澄元であった 4 。文亀三年(1503年)、細川家の血を引く後継者を望む内衆、特に薬師寺元一らの主導によって養子に迎えられた 4 。澄元の最大の強みは、その出自である阿波細川家の強力な軍事力にあった。特に、その家臣である三好之長は武略に長け、阿波の軍勢を率いて中央政界に進出。政元の軍事行動を支える実力者として台頭し、当然ながら主君の子である澄元を次期当主として強力に後援した 4

第三の養子・細川高国 ― 畿内の代弁者

三人目の養子が、細川一門の分家である野州家の細川政春の子、高国である 1 。彼が養子となった正確な時期は不明瞭で、政元暗殺時点では、後継者争いの表舞台には立っていなかった 3 。しかし、彼の存在は後の展開に決定的な意味を持つことになる。高国は、澄元を後援する三好之長ら「阿波勢」の急速な台頭に反感や脅威を抱く、畿内の国人衆や伝統的な内衆の受け皿としての役割を担っていくことになるのである 1

この三人の養子を巡る対立は、単なる個人の家督争いではなかった。それは、細川京兆家の権力構造の内部に潜在していた、二つの勢力のヘゲモニー争いの表出であった。一つは、香西氏や薬師寺氏に代表される、古くから京兆家に仕えてきた「畿内勢力」。もう一つは、澄元と共に中央に進出し、その軍事力を背景に発言力を増す三好之長ら「新興の阿波勢力」である。澄之を支持した香西元長らが政元暗殺という凶行に及んだ根源的な動機は、澄之個人への忠誠心以上に、澄元が家督を継ぐことによって三好氏が京兆家の実権を握るという事態を、何としても阻止しようとする強い危機感にあった。政元は、この深刻な内部対立を調停するどころか、気まぐれに後継者候補を乱立させることで、自ら破滅の引き金を引いてしまったのである。

第二章:暗殺前夜の不穏 ― 京兆家を蝕む内訌

永正四年六月二十三日の暗殺は、決して突発的な事件ではなかった。それに至る数年前から、細川政元政権の内部では、権力の基盤を揺るがす深刻な亀裂が走り始めていた。これらの兆候は、来るべき悲劇の伏線であり、政元自身の政治的失策の証左でもあった。

家臣団の反乱 ― 薬師寺元一の乱(1504年)

暗殺の3年前にあたる永正元年(1504年)、政権を震撼させる事件が起きた。澄元を養子に迎えることを主導した重臣・薬師寺元一が、淀城に籠って政元に叛旗を翻したのである 4 。驚くべきことに、この反乱の目的は「政元を廃して澄元を擁立する」ことにあった 9 。これは、この時点で既に、家臣が武力を用いて主君を交代させようとする「下剋上」の空気が、政権中枢にまで蔓延していたことを示している。この反乱は、皮肉にも元一の実弟である薬師寺長忠によって鎮圧された 10 。しかし、この長忠こそが3年後、今度は澄之を担いで政元を暗殺する張本人となるのである 4 。兄弟が敵味方に分かれて戦うという事実もまた、京兆家家臣団の分裂と混乱を象徴していた。

新興勢力の台頭と摩擦 ― 三好之長の躍進

薬師寺元一の乱以降、澄元の後見人である三好之長の存在感はますます増大した。之長は阿波の軍勢を率い、赤沢朝経と共に大和・河内へ出兵し、さらには丹後の一色義有攻めにも参加するなど、政元の軍事行動の主力として各地で戦功を重ねた 4 。武略に長けた之長は政元の信任を得て中央政界での発言力を強め、三好氏の威勢を大きく伸張させた 8 。しかし、この阿波からの新興勢力の躍進は、旧来の内衆である香西元長らにとって、自らの既得権益を脅かす深刻な脅威と映った 4 。三好氏への反感と危機感は、彼らを反澄元派として先鋭化させ、やがては澄之を担いでのクーデター計画へと駆り立てていくのである。

権力の中枢における軍事的空白

絶対的な権力者であったはずの政元だが、暗殺当夜、彼の周囲は驚くほど手薄であった。事件当時、政元は丹後の一色義有攻めや、大和・河内における畠山氏との戦いなど、多方面に細川軍の主力を派遣していた 7 。これにより、政権の中心地である京都、とりわけ政元自身の身辺警護は、深刻な軍事的空白状態に陥っていた 11 。これは、自身の権力に安住し、足元で進行していた家臣団の亀裂や殺意といった危険な兆候を、政元が完全に軽視していたことを物語っている。薬師寺元一の乱という明確な警告があったにもかかわらず、彼はその根本原因である派閥対立に手を打たず、むしろ軍事的に有用な三好氏を重用し続けることで、反三好派を追い詰めていった。自らの安全に対するこの過信が、暗殺者たちに実行の好機を与えたのである。政元暗殺は、周到に準備された計画であると同時に、政元自身の危機管理能力の欠如が招いた、必然の結末であったとも言える。

第三章:「永正の錯乱」― 永正四年六月、激動の数日間(時系列分析)

永正四年(1507年)六月二十三日、細川政元暗殺によって幕を開けた「永正の錯乱」。その後の約四十日間、京都の政治状況は目まぐるしく変動した。ここでは、事件発生からクーデター政権の崩壊までを、可能な限り時間軸に沿って詳細に再構成し、各勢力のリアルタイムな動向を追う。


表2:永正の錯乱 詳細年表(永正4年6月23日~8月2日)

日付

出来事

主要人物

場所

備考

6月23日

細川政元、入浴中に暗殺される。

細川政元、香西元長、薬師寺長忠、竹田孫七

京都・細川政元邸

澄之派によるクーデター開始。

6月23日夜~24日

澄之派、細川澄元・三好之長の屋敷を襲撃。

香西元長、薬師寺長忠、細川澄元、三好之長

京都

澄元・之長は敗走し、近江国甲賀郡へ逃れる。

6月24日

細川澄之、将軍義澄に拝謁し、家督相続を認められる。

細川澄之、足利義澄

京都

クーデター成功。澄之政権が樹立される。

6月26日

赤沢朝経、丹後からの撤退中に討死。

赤沢朝経、一色義有、石川直経

丹後国

政元派の有力武将が排除される。暗殺計画の周到さを示す。

6月下旬~7月上旬

反澄之連合が形成される。

細川高国、細川政賢、細川尚春

畿内各所

高国が中心となり、細川一門が澄元支持で結束。

7月28日

薬師寺長忠の居城・茨木城が陥落。

薬師寺万徳丸、薬師寺長忠

摂津国・茨木城

澄之派の内部からも離反者が出る。

7月29日

香西元長の居城・嵐山城が陥落。

細川高国

山城国・嵐山城

澄之派の主要軍事拠点が失われる。

8月1日

反澄之連合軍、澄之の最後の拠点・遊初軒を総攻撃。

三好之長、細川高国、細川澄之

京都・遊初軒

近江から帰還した三好軍と高国軍が合流。

細川澄之、自害。澄之派が滅亡。

細川澄之、香西元長、薬師寺長忠

京都・遊初軒

クーデター政権、約40日で崩壊。

8月2日

細川澄元、将軍義澄に拝謁し、正式に家督を継承。

細川澄元、足利義澄

京都

澄元政権が成立。「永正の錯乱」第一幕が終結。


永正四年(1507年)六月二十三日 ― 管領、死す

その日、細川政元は自邸の湯屋にいた。修験道の儀式である月待ちの準備、あるいは魔法を修するための行水であったともいわれる 4 。この極めて無防備な瞬間を、暗殺者たちは見逃さなかった。廃嫡の危機に瀕していた養子・澄之を擁する香西元長、薬師寺長忠らの計画のもと、間諜として潜入していた竹田孫七が凶刃を振るったとされる 11 。享年42、「半将軍」と恐れられた権力者の最期は、あまりにもあっけないものであった 2

六月二十三日夜~二十四日 ― 電光石火のクーデター

政元暗殺の成功は、直ちに次の行動への号砲となった。香西・薬師寺の手勢は、その夜のうちに、もう一人の後継者候補である細川澄元と、その後見人・三好之長の屋敷を急襲した 13 。不意を突かれた澄元と之長は善戦したものの、多勢に無勢であり、夜明けを待たずに京都からの脱出を余儀なくされる。彼らは、政元が擁立した将軍・足利義澄を頼ることさえできず、近江国甲賀郡へと落ち延びていった 1 。競争相手を首都から駆逐した澄之派は、二十四日、将軍・義澄に拝謁し、細川京兆家の家督相続を強引に認めさせる 3 。ここに、武力によるクーデターは成功し、澄之政権が樹立された。

六月二十六日 ― 遠征軍の悲劇

一方、政元の命令で丹後に出兵していた重臣・赤沢朝経は、主君の訃報に接し、軍をまとめて京都へ引き返そうとしていた 13 。しかし、その動きは敵に筒抜けであった。撤退の途上、これまで敵対していた一色義有や現地の国人・石川直経に行く手を阻まれ、挟撃される 11 。奮戦も虚しく、朝経は敗死に追い込まれた 13 。この出来事は、暗殺計画が事前に丹後方面にも通じており、政元派の有力な軍事指揮官を帰還させずに排除する手筈まで整えられていたことを示唆している 11

澄之派のクーデターは、軍事的には完璧に近い成功を収めたと言える。目標(政元)の暗殺、競争相手(澄元)の追放、そして権威(将軍)による追認という、クーデターの成功要件をわずか一日で満たした。しかし、その成功は、極めて重大な要素を無視していた。それは「細川一門」という、家督相続における最大の利害関係者の総意である。九条家出身という血縁的正統性を欠く澄之が 4 、主君殺しという大罪を犯して家督を簒奪することを、細川一門が認めるはずはなかった。澄之政権は、樹立されたその瞬間に、自らの正統性を根底から欠いており、一門からの猛烈な反撃を受けることは、もはや運命づけられていたのである。

第四章:束の間の澄之政権と、復讐の狼煙

クーデターによって成立した細川澄之政権の命運は、極めて短かった。その基盤はあまりにも脆く、主君殺しの汚名を着た簒奪者に対する反発は、瞬く間に細川一門全体を巻き込む巨大な渦となっていった。

反澄之連合の形成 ― 一門の総意

澄之の家督簒奪に対し、最初に動いたのはもう一人の養子、細川高国であった。彼は、摂津分郡守護の細川政賢や淡路守護の細川尚春といった、畿内に勢力を持つ細川一門の有力者たちに働きかけた 13 。彼らは「政元の後継者は、血縁者である澄元こそが正統である」という点で速やかに合意 15 。ここに、澄之を「主君殺しの逆賊」として討伐するという、大義名分を掲げた反澄之連合が形成されたのである 16 。一方、近江へ逃れた澄元と三好之長も、ただ雌伏していたわけではない。彼らは甲賀の国人衆などを味方につけ、着々と反攻の機会を窺っていた 1

七月下旬 ― 反撃開始、澄之派拠点の陥落

七月に入ると、反澄之連合は具体的な軍事行動を開始する。七月二十八日、かつて政元に反乱を起こした薬師寺元一の遺児・万徳丸が、叔父であり政元暗殺の主犯である薬師寺長忠の居城・摂津茨木城を攻め落とした 13 。これは、澄之派の内部からも離反者が出たことを示す象徴的な出来事であった。翌二十九日には、細川高国が軍を率いて、もう一人の主犯・香西元長の拠点である山城嵐山城を攻略 13 。澄之派を支える二本の柱が、わずか二日間でへし折られたのである。

八月一日 ― クーデター政権の最期

そして運命の八月一日。近江で軍勢を再編した三好之長が、満を持して京に帰還。細川高国の軍勢と合流を果たした 13 。数で圧倒する連合軍は、澄之が最後の拠点としていた京都の自邸(遊初軒)に総攻撃をかけた 1 。もはや抵抗する術はなく、追い詰められた細川澄之は自害。香西元長、薬師寺長忠らクーデターの首謀者たちもことごとく討ち取られ、ここに澄之政権は、成立からわずか四十日余りで完全に崩壊した 1

翌八月二日、細川澄元は将軍・足利義澄に拝謁し、改めて細川京兆家の家督を正式に継承した 1 。「永正の錯乱」の第一幕は、こうして澄元派の完全勝利で幕を閉じた。

しかし、この勝利の裏で、新たな時代の主役が静かにその地位を固めていた。細川高国である。彼はこの反撃において、一門衆を糾合し、反乱鎮圧の主導権を握ることで、家中における発言力を飛躍的に高めた。表向きは澄元を助け、家の秩序を回復した功労者であるが、その実、彼は澄元と三好之長という「阿波勢」に対抗しうる「畿内勢力」の結集軸としての地位を確立したのである。高国にとって、澄之討伐は目的ではなく、次なる戦いへの布石に過ぎなかった。澄之の死は終わりではなく、より根深く、より大規模な対立の始まりを告げるものであった。

第五章:新たな火種 ― 高国と澄元の対立、そして「両細川の乱」へ

細川澄之の死によって内乱は終息するかに見えた。しかし、それは畿内を20年以上にわたって苛む、より大きな戦乱の序曲に過ぎなかった。「永正の錯乱」によって生じた権力の亀裂は、修復されるどころか、新たな対立の火種を宿し、やがて「両細川の乱」と呼ばれる泥沼の抗争へと発展していく。

澄元政権の成立と三好之長の専横

正式に細川京兆家の家督を継いだ澄元であったが、若年の彼に代わり、政権の実権を握ったのは後見人である三好之長であった。阿波の軍事力を背景に持つ之長の権勢は、主君である澄元のそれを凌ぐほどであったとされ、その振る舞いは専横と見なされることも少なくなかった 8 。この「阿波勢」による政権運営は、澄之討伐に協力した細川高国や、彼を支持する畿内の国人衆の間に、深刻な不満と反発を急速に広げていった 1 。共通の敵であった澄之を失った今、かつての協力者であった澄元と高国の間には、新たな対立の構図が生まれつつあった。

西からの脅威 ― 大内義興と足利義稙の上洛計画

時を同じくして、西国では巨大な政治的・軍事的な地殻変動が始まっていた。周防国(現在の山口県)を本拠とする大大名・大内義興は、かつて明応の政変で政元に追放された前将軍・足利義稙を長年にわたり保護していた 17 。義興にとって、政元の暗殺とそれに続く細川家の内紛は、義稙を奉じて上洛し、幕政の実権を掌握するという長年の野望を果たすための千載一遇の好機であった 4 。義興は日明貿易などで蓄えた莫大な財力を背景に、九州・中国地方の諸大名に動員をかけ、上洛のための大軍を編成し始めた 17

永正五年(1508年) ― 高国の離反と新勢力の結集

永正五年、大内義興の上洛が現実味を帯びる中、澄元政権は対応を迫られた。澄元は、この難局を打開すべく、高国を大内氏との和睦交渉役に任じようとした 1 。しかし、これは致命的な判断ミスであった。三好之長の専横に強い不満を抱いていた高国は、この機会を逆に利用する。彼は澄元を裏切り、交渉相手であるはずの大内義興・足利義稙と密かに結託したのである 1 。三好氏の台頭を快く思わない畿内の国人衆も、雪崩を打って高国の下に馳せ参じた 4 。ここに、将軍・足利義澄を擁する「細川澄元・三好之長」の阿波勢力と、前将軍・足利義稙を擁する「細川高国・大内義興」の畿内・西国連合軍という、二つの巨大な政治・軍事ブロックが明確に形成された。

首都の陥落と政権交代

永正五年四月、大内義興率いる大軍が義稙を奉じて畿内に進軍すると、澄元政権はなすすべもなかった。澄元と将軍義澄は、戦うことなく京都を放棄し、再び近江へと逃亡する 1 。六月、足利義稙は15年ぶりに京都へ帰還し、将軍職に復帰。そして、このクーデターの立役者である細川高国が細川京兆家の家督を継承して管領に就任し、大内義興は管領代として幕政の実権を握った 1 。「永正の錯乱」から一年も経たぬうちに、政権の枠組みは完全に覆されたのである。

この一連の出来事がもたらした最も重大な帰結は、細川京兆家という中央政権の「単一権力」が崩壊し、それぞれが正統性を主張する二つの権力(二人の管領候補と二人の将軍)が並立する状態を生み出したことであった 13 。これにより、畿内の争いはどちらか一方が他方を完全に滅ぼすまで終わらない、ゼロサムゲームの様相を呈するようになった。これが、船岡山合戦(1511年) 19 をはじめとする、20年以上に及ぶ泥沼の内戦「両細川の乱」の本質であり、「永正の錯乱」が畿内に解き放ったパンドラの箱であった。

終章:「永正の錯乱」が戦国時代に与えた歴史的意義

「永正の錯乱」は、単なる細川京兆家の家督争いに終わる事件ではない。それは、室町幕府という中央政権の最終的な崩壊を決定づけ、権力構造の流動化を促し、「下剋上」に象徴される戦国乱世の価値観を畿内において確立させた、日本史上の重要な転換点であった。

室町幕府中央政権の最終的崩壊

応仁の乱によって大きく権威を失墜させた室町幕府であったが、明応の政変以降、細川政元という強力な独裁者の下で、畿内の政治秩序はかろうじて維持されていた。政元個人に集中した権力は、幕府のシステムに代わる「重し」として機能していたのである。「永正の錯乱」は、この最後の重しを取り除いた。細川京兆家が二つに分裂し、それぞれが別の将軍を擁立して争うという事態は、幕府権力を完全に無力化させた 13 。もはや幕府には全国の紛争を調停する能力も権威も残されておらず、これ以降、名目上の存在へと転落していくことが運命づけられた。

権力構造の流動化と新たな勢力の台頭

細川京兆家という巨大権力が内紛によって自己崩壊したことは、畿内における権力の真空地帯を生み出した。この混乱と流動化の中から、新たな勢力が台頭する土壌が形成された。その最たる例が三好氏である。当初は細川家の有力な家臣に過ぎなかった三好之長、そしてその後継者である元長、長慶は、「両細川の乱」という長期の戦乱を通じて軍事力を蓄え、政治的影響力を拡大させていく 8 。やがて三好長慶は、主家である細川氏を凌駕し、将軍さえも操る存在へと成長を遂げる 21 。守護大名が支配した時代から、その家臣や国人といった階層が実力で成り上がる時代への移行。「永正の錯乱」は、その大きな流れを加速させる契機となったのである。

「下剋上」時代の本格的到来

家臣が主君を暗殺し(香西元長ら)、血縁のない養子が家督を簒奪し(澄之)、そして昨日までの味方が敵となる(高国の裏切り)。この事件は、戦国時代のキーワードである「下剋上」の論理が、白昼堂々と展開された典型的な事例であった 6 。これ以降の「両細川の乱」を通じて、家格や血縁といった旧来の秩序よりも、個人の武力や策略といった「実力」が全てを決定するという価値観が、畿内において決定的に確立された 20 。応仁の乱が戦国の「序章」であったとすれば、「永正の錯乱」は、まさにその「本編」の始まりを告げる号砲であったと言える。この事件以降、畿内は安定を失い、約一世紀にわたる本格的な戦乱の時代へと突入していくのである。

引用文献

  1. 閑話 永正の錯乱 - 【改訂版】正義公記〜名門貴族に生まれたけれど、戦国大名目指します〜(持是院少納言) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816452219435992138/episodes/16816927859159598000
  2. 【徹底解説】細川政元とは何者か?戦国時代への扉を開いた「オカルト武将」の奇行と実像 https://sengokubanashi.net/person/hosokawamasamoto/
  3. 細川高国〜戦国時代前半のフィクサーをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/687/
  4. 「永正の錯乱(1507年)」細川政元の3人の養子による家督相続争い - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/74
  5. 「両細川の乱(1509年~)」細川京兆家の家督・将軍の座をめぐる対立が絡み合った戦乱 https://sengoku-his.com/175
  6. 戦国時代の30日天下!細川澄之の権力闘争と波乱の顛末|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/nd29e9565a445
  7. 永正の錯乱 ~細川政元の暗殺!~【室町時代ゆっくり解説#6】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=mQCOnO6-iNE
  8. 三好之長 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MiyoshiYukinaga.html
  9. 永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(二)薬師寺元一の挙兵と細川政元の後継者問題について - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ https://amago.hatenablog.com/entry/2023/06/15/025929
  10. 永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(一)関連する出来事の一覧 https://amago.hatenablog.com/entry/2023/06/10/045007
  11. 細川政元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83
  12. 戦国史上の衝撃的暗殺事件:一人の刺客が歴史を変えた永正の錯乱|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n9a08f82eada1
  13. 永正の錯乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%8C%AF%E4%B9%B1
  14. 船岡山合戦/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11088/
  15. 「細川澄元」高国との覇権争いに敗れ、遺児・晴元に後を託す。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/808
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  17. 「大内義興」乱世の北九州・中国の覇権を確立。管領代として幕政 ... https://sengoku-his.com/811
  18. 戦国最初の天下人、大内義興はどうして京都を放棄したのか? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/yoshioki-ouchi/
  19. 船岡山合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
  20. 明応の政変(2/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/2/
  21. 戦国の天下人 三好長慶と阿波三好家 https://ailand.or.jp/wp-content/uploads/2023/03/1521b7be191e0a21ebc56d430720998f.pdf
  22. 三好長慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6