最終更新日 2025-10-04

江戸町奉行設置(1608)

1608年、徳川幕府は江戸町奉行を設置。急増する江戸の人口と社会問題に対応するため、行政・司法・警察を担う専門機関を創設。幕府の支配体制確立と江戸の発展・安定に貢献した。
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戦国から江戸へ ― 江戸町奉行設置(1608年)に至る都市統治の系譜と確立

序章:泰平の礎としての都市統治

慶長13年(1608年)、徳川幕府が江戸に町奉行を設置したことは、単なる一職制の創設に留まるものではない。それは、百年に及ぶ戦国の乱世に終止符を打ち、続く二百六十余年の泰平の世を制度的に担保するための、画期的な一歩であった 1 。この出来事は、徳川政権が「軍事による制圧」の段階から「法と行政による統治」という新たな段階へ本格的に移行したことを象徴している。武力で支配する「城下町」から、法で治める「首都」への質的転換点であり、その意味は極めて大きい。

本報告書は、この江戸町奉行設置という事象を、歴史年表上の一項目として静的に捉えるのではなく、一つの動的なプロセスの帰結として解明することを目的とする。具体的には、織田信長や豊臣秀吉といった戦国大名による都市統治の経験という「過去」の遺産を継承しつつ、徳川家康による巨大都市江戸の建設という未曾有の事業が生み出した「現実」の混沌にいかにして直面し、それに対応するために町奉行という専門機関が創設されるに至ったのか。その歴史的必然性を、戦国時代という大きな潮流の中に位置づけ、詳細かつ時系列に沿って、臨場感をもって描き出すものである。

第一部:戦国時代の遺産 ― 近世都市統治の萌芽

江戸町奉行という制度は、全くの無から生まれたものではない。その根底には、戦国大名たちが自らの本拠地たる城下町をいかに統治し、富と権力を集中させるかという、絶え間ない試行錯誤の歴史が存在した。特に、織田信長と豊臣秀吉による都市政策は、江戸の統治システムを構想する上で重要な先例となった。

第一章:織田信長の革新 ― 安土城下町の実験

徳川家康の都市統治の前史として、まず織田信長が安土で試みた革新的な政策を分析せねばならない。信長以前の城が、多くの場合、純粋な軍事拠点としての性格を色濃く持っていたのに対し、安土城は政治と経済の中心地として明確に構想されていた 2 。これは、都市そのものを権力の源泉と見なす、新しい時代の思想の現れであった。

その中核をなしたのが「楽市楽座」である。市場税の免除(楽市)と、同業者組合「座」の特権廃止(楽座)を柱とするこの政策は、表面的には商業の自由化を促し、全国から商人を呼び込むことで城下を繁栄させる経済政策であった 3 。これにより、新規参入の商人は自由に営業活動を行うことが可能となり、活発な物流と取引が生まれ、安土には富が集積した 3

しかし、この政策の真意は、単なる経済振興に留まらない。それは、旧来の権威から経済的実権を奪い、大名による一元的な支配を強化するための、極めて高度な政治戦略であった。当時、商業活動の多くは「座」によって独占され、その「座」の多くは有力な寺社や公家を後ろ盾としていた 4 。つまり、商業から生まれる利益の多くは、信長ら戦国大名とは別の旧権力へと流れていたのである。信長は楽市楽座によってこの構造を破壊し、「座」に属さない新興商人を自らの直接支配下に置くことで、富の流れを自身へと向けた。これは経済の「規制緩和」という手法を通じて、旧来の社会秩序を解体し、大名という新たな権力中心の下に社会を再編成しようとする「社会革命」の試みであった。

さらに信長は、家臣団を城下に強制的に集住させ 6 、あるいは宣教師に三階建ての瓦葺きの屋敷を提供するなど 6 、身分や役割に応じた計画的な都市空間の配置を行った。これは、都市空間そのものを通じて支配者の意図を可視化する試みであり、後の近世城下町の明確な原型となった。徳川家康は、この信長の「経済を支配することが社会を支配することに繋がる」という思想を深く理解し、後の江戸の都市設計に応用していくことになる。

第二章:豊臣秀吉の壮図 ― 商都・大坂の建設

信長の構想を継承し、さらに壮大なスケールで発展させたのが豊臣秀吉である。彼は、石山本願寺の跡地に大坂城を築城し、この地を天下統一後の日本の首都として構想していた 7 。秀吉の都市計画は、大坂を単なる政治の中心地ではなく、日本経済の中枢、すなわち「天下の台所」とすることにあった。

そのために秀吉が最も重視したのが水運であった。東横堀川や西横堀川といった運河を新たに掘削し、市中に水路網を張り巡らせることで、大坂を瀬戸内海と直結する海運・水運の一大拠点へと変貌させた 7 。そして、全国各地から商人を移住させ、木綿、油、薬種といった諸産業を集積させることで、経済都市としての基盤を固めた 8

秀吉の大坂城下町は、その空間構成においても画期的であった。城郭を上町台地の北端に置き、その南と西に有力大名や家臣の屋敷を配置。さらにその外周に町人地を設け、町人地を取り囲むように寺町を配置した 9 。このような、身分や機能に応じた階層的なゾーニングは、江戸の都市構造に直接的な影響を与えることになる。

統治システムにおいて特筆すべきは、町人による自治組織を積極的に活用した点である。大坂の各町では、町人の代表者である「町年寄」が選ばれ、彼らの意見はさらに地域の代表である「組の惣年寄」を通じて、幕府の出先機関である町奉行へと上申される仕組みが作られていた 10 。これは、支配の末端を町人自身に委ねることで、効率的な都市運営を目指したものであり、トップダウンの支配とボトムアップの自治を両立させる巧みな統治モデルであった。

しかし、この秀吉のモデルは、あくまで大坂という「商都」において有効なものであった。商人同士の利害調整や共同体の維持には町人自治が機能したとしても、全国の諸大名とその膨大な数の家臣団が強制的に集住させられる江戸の「政治・軍事都市」としての複雑性と潜在的な対立構造を管理するには、このシステムは不十分であった。例えば、薩摩藩の足軽と会津藩の御用商人の間で刃傷沙汰が起きた場合、町人の自治組織では到底対応できない。江戸の統治には、幕府の絶対的な権威を背景とし、あらゆる身分の者を(その所属ではなく、場所に基づいて)裁くことができる、より強力な幕府直轄の司法・警察権力が必要とされたのである。

項目

安土(織田信長)

大坂(豊臣秀吉)

江戸(町奉行設置前)

都市の性格

政治・経済の中心地、近世都市の原型

天下統一の拠点、商都、物流ハブ

徳川氏の関東支配拠点、巨大軍事基地

主要政策

楽市楽座、家臣団集住

水運網整備、商人集住、海外交易

土地造成(埋立・開削)、インフラ整備(上水)

統治主体

信長直轄

大坂城代、町奉行

関東総奉行(広域管轄)

住民自治

(記録限定的)

惣年寄を中心とした町人自治組織

世襲町年寄(樽屋、奈良屋、喜多村)

統治の課題

(発展途上で本能寺の変)

豊臣家滅亡により統治体制崩壊

急激な人口増による社会問題の頻発、管轄の曖昧さ

第二部:巨大都市・江戸の誕生と混沌(1590年~1608年)

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により関東へ移封された徳川家康は、江戸をその本拠地と定めた。この時点から、江戸は日本の歴史上、類を見ないスピードとスケールで巨大都市へと変貌を遂げていく。しかし、その急激な発展は、深刻な都市問題と社会的な混沌をもたらすことになった。

第一章:江戸入府とグランドデザイン(1590年~)

家康が入府した当時の江戸は、現在の皇居の東側、日比谷あたりまで深く入り江が入り込み、広大な湿地帯が広がる寂れた土地であった 11 。大軍を駐留させ、将来日本の中心とするには、あまりにも脆弱な地盤であった。

家康は、この地を日本の中心とするため、壮大な江戸の大改造に着手した。その構想は、まず都市の基盤となる土地と水を確保するという、極めて現実的かつ軍事的な発想に基づいていた。商業振興や文化育成よりも、「生存」と「兵站」の確保が最優先されたのである。

最初に行われたのが、大規模な土地の創出であった。家康は、江戸城の北方にあった神田山を切り崩し、その膨大な量の土砂で日比谷の入り江を埋め立てるという、まさに無から土地を創造する大工事を命じた 13 。これにより、広大な武家屋敷地や町人地が生み出され、都市の物理的なキャパシティが根本から拡大された。

次に確保されたのが、生命線である水である。家康は、武蔵野台地の豊富な湧水を水源とする井の頭池から、高低差を利用して江戸市中まで水を引く「神田上水」の整備に着手した 11 。これにより、急増する人口を支える清浄な飲料水が確保された。さらに、物資輸送の動脈として、江戸城の内堀や外堀、そして市中を流れる運河が整備され、水運ネットワークが構築された 11 。この一連の巨大土木事業は、徳川の強大な力を関東の諸勢力に見せつける、政治的なデモンストレーションでもあった。

第二章:「天下普請」と人口爆発(1603年~)

慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開くと、江戸の都市建設は新たな段階に入る。それは「天下普請」と呼ばれる、全国の諸大名を動員した国家的な建設事業であった 15

この天下普請には、複数の政治的意図が込められていた。第一に、壮大な江戸城や市街地を建設することで、徳川の権威を全国に誇示すること 16 。第二に、普請にかかる莫大な費用を大名に負担させることで、その財力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むこと 15 。そして第三に、普請を通じて先進的な土木・築城技術を諸大名に学ばせ、全国のインフラ整備を促すことであった 17

この天下普請と、それに続く参勤交代制度の確立は 19 、江戸に未曾有の人口爆発をもたらした。工事のために全国から大名とその家臣団、膨大な数の労働者が江戸に集結。さらに、彼らの巨大な消費を支えるため、商人や職人も全国から流入した。その結果、慶長14年(1609年)には15万人と推定される江戸の人口は、その後も加速度的に膨れ上がっていった 19

しかし、この人口の爆発的増加は、深刻な社会の歪みを生み出した。異なる文化、価値観、利害を持つ人々が、狭い空間に密集すれば、トラブルが頻発するのは必然であった。土地や水を巡る紛争、衛生問題、そして何よりも治安の悪化が深刻化した。特に、全国から集まった血気盛んな武士や労働者、素性の知れない人々による喧嘩、刃傷沙汰、窃盗、詐欺といった事件が日常茶飯事となったと推測される。当時の江戸は、地方から単身で流入する男性が圧倒的に多く、極端な「男性過多」社会であったことも、社会的な緊張を高める一因となった 20

ここに、江戸町奉行設置に至る本質的な因果の連鎖が見出せる。「天下普請という政治戦略」が、「全国からの強制的な人口集中」を引き起こし、それが「未曾有の人口爆発と社会の複雑化」をもたらした。その結果、「既存の統治機構では対応不可能なほどの民事紛争と刑事事件の激増」という事態を招き、最終的に「専門的な都市行政・司法機関の設立」が不可避となったのである。江戸町奉行は、この連鎖の必然的な帰結として誕生したと言える。

第三章:統治機構の模索 ― 町奉行設置以前の江戸

では、1608年に町奉行が設置される以前の江戸は、どのように統治されていたのだろうか。そこには、二元的な統治体制が存在したが、巨大化する都市の混沌を管理するには、その機能はもはや限界に達していた。

一つは、幕府による広域行政を担う「関東総奉行」である。徳川家康の重臣であった青山忠成や内藤清成らがこの役に任じられた 21 。彼らの職務は、江戸市中に限定されず、知行割の実施など関東全体の農村部も含む庶務全般を管轄するものであった 21 。彼らは江戸専門の都市行政官ではなく、その目は常に広大な関東全域に向けられていた。

もう一つが、町人地の自治を担う「町年寄」である。これは、家康の江戸入府以前からの旧家である樽屋、奈良屋、喜多村の三家が世襲で務めた 23 。彼らは、幕府からの御触れの伝達、町人地の代表者である町名主の任免、各種調査などを通じて、江戸の町人社会の頂点に立つ存在であった 23 。これは、豊臣政権下の大坂における惣年寄制度を参考にしたものと考えられる 10

この二元的な体制は、江戸がまだ小規模な城下町であった時代には機能したかもしれない。しかし、人口が爆発し、社会が複雑化する中で、その限界は明らかであった。増え続ける複雑な訴訟や犯罪に対応するための、専門的な司法権・警察権が決定的に欠如していたのである。関東総奉行はあまりに広域を管轄しすぎており、個別の都市問題に迅速に対応できない。一方、町年寄はあくまで町人の代表者であり、強制力を持つ公権力ではなかった。特に、異なる藩に属する者同士のトラブルや、武士と町人の間の紛争など、利害が複雑に絡み合う事件を権威をもって裁定する仕組みが存在しなかった。

つまり、町奉行設置以前の江戸は、「大名領」としての関東を統治するマクロな視点(関東総奉行)と、「村」の延長線上にある町人共同体の自治というミクロな視点(町年寄)が混在し、その中間を埋める「都市」という単位を専門に統治する視点が欠落していたのである。町奉行の設置は、この「中間領域=都市」を専門に管轄する、全く新しい行政レイヤーの創設を意味した。

第三部:慶長13年(1608年) ― 江戸町奉行の確立

社会の混沌が頂点に達しつつあった慶長13年(1608年)、徳川幕府はついに江戸の都市行政と司法を専門に司る「町奉行」を設置するという決断を下す。これは、江戸という都市の統治における、そして徳川の支配体制における、一つの分水嶺であった。

第一章:設置への道程

なぜ「慶長13年(1608年)」というタイミングであったのか。それは、当時の政治・社会情勢と深く関わっている。

1603年の幕府開設から5年が経過し、徳川による全国支配の体制は、制度的にも実質的にも整備が進み、一定の安定期に入っていた。しかし、その一方で、大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、西国大名の中には豊臣家に恩義を感じる者も少なくなかった 15 。国内の完全な平定は未了であり、来るべき最終決戦の可能性は誰もが意識していた。

このような緊迫した状況下で、首都江戸の安定化は、徳川政権にとって最優先課題の一つであった。首都の混乱は、政権の足元を揺るがしかねない。特に、全国から大名や武士が集まる江戸の治安が悪化すれば、幕府の威信は失墜し、豊臣方につけ入る隙を与えることにもなりかねない。

社会状況もまた、限界に達していた。天下普請による人口集中はピークを迎え、都市問題はもはや場当たり的な対応では収拾がつかないレベルに達していた。同年には、これまで流通していた永楽銭の使用が禁止されるなど 25 、経済面でも幕府による統制強化の動きが見られた。社会のあらゆる側面で、より強力で体系的な管理体制が求められていたのである。

こうした背景から、1608年の町奉行設置は、来るべき「大坂の陣」(1614-15年)を見据えた、一種の国内体制固め、兵站基地の安定化策という側面を持っていたと考えられる。民政を安定させることは、徳川の軍事行動の自由度を高めるための、高度な戦略的判断に基づいていた。首都の秩序を確立するための恒久的な専門職の設置は、もはや先延ばしにできない課題となっていたのである。

第二章:江戸町奉行の職掌と構造

新設された江戸町奉行は、その後の江戸時代の都市行政の根幹をなす、極めて重要な役職であった。その職務内容は広範にわたる一方、その権限には明確な限界が設けられており、そこに江戸の複合的な統治構造が端的に現れている。

町奉行の職務は、江戸の町人地における行政、司法、警察の全てを一手 に担うものであった 26 。具体的には、道路や橋、上水道の管理、消防といった都市インフラの維持管理(行政)、町人同士の金銭貸借や土地家屋を巡る争いの裁定(民事司法)、そして窃盗や傷害、殺人といった犯罪の捜査、犯人の逮捕、裁判(刑事司法・警察)まで、その職掌は多岐にわたった 28 。その権限の広さから、現代の東京都知事、警視総監、そして地方裁判所長官を兼ねるような存在と評されることもある 28

しかし、この絶大な権力は、あくまで「町人地(町方)」とその住民である町人にのみ及ぶものであった。江戸の市街地は、町人地の他に、大名や旗本が住む広大な「武家地」、そして寺や神社が広がる「寺社地」によって構成されていた。武家地で起きた事件は大目付や目付が、寺社地で起きた事件は寺社奉行が管轄し、たとえ犯人が町人であっても、町奉行は原則としてこれらの区域に立ち入って捜査を行うことはできなかった 30 。この武家地・寺社地・町人地の三者がそれぞれ異なる権力によって統治される「三者分治」こそが、江戸の統治の最大の特徴であった。この体制は、一見非効率にも見えるが、権力の過度な集中を防ぎ、厳格な身分秩序を都市空間に反映させるという、徳川幕府の基本的な統治思想の現れであった。

幕府の職制において、江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行と共に「三奉行」と総称された 32 。これら三奉行は、幕府の最高意思決定機関である老中の諮問を受け、重要事項を審議・裁判する「評定所」の主要な構成員でもあった 32 。ただし、三奉行の間には明確な格式の差が存在した。寺社奉行が通常一万石以上の譜代大名から任命されたのに対し、江戸町奉行は三千石程度の旗本から任命されるのが通例であった 32

設置当初の体制としては、特定の奉行所庁舎はなく、任命された者の邸宅が役宅兼執務場所として使用された 32 。やがて、南北二つの奉行所が設置され、月番交代で執務にあたる制度が確立されていく 32 。この月番制は、一人の奉行に権力が集中することを防ぐための工夫であった 36

奉行職

寺社奉行

江戸町奉行

勘定奉行

任命者の身分

譜代大名(奏者番兼任)

旗本(3000石級)

旗本

格式

三奉行筆頭

(寺社奉行に次ぐ)

(町奉行と同格または下)

主な管轄対象

全国の寺社、寺社領、僧侶、神職

江戸府内の町人地および町人

幕府直轄領(天領)、幕府財政全般

主な職務

宗教統制、寺社領の管理、関連訴訟

江戸の行政・司法・警察・消防

年貢徴収、財政運営、天領での訴訟

権限の地理的範囲

全国

江戸の町人地に限定

全国に点在する天領

終章:江戸町奉行が拓いた未来

慶長13年(1608年)の江戸町奉行設置は、戦国乱世の終焉と近世という新たな時代の到来を告げる、象徴的な出来事であった。それは、戦国時代の都市統治の経験を継承しつつも、江戸という未曾有の巨大政治都市が内包する特殊な課題に対応するために生み出された、画期的な統治システムであった。

織田信長が安土で試みた、経済を支配の根幹に据える思想。豊臣秀吉が大坂で活用した、住民自治を組み込んだ統治モデル。これらの戦国期の遺産を吸収しつつ、徳川幕府は、江戸の極めて高い政治的・軍事的緊張感に対応するため、強力な公権力を備えた専門機関として町奉行を創設するという、独自の解を導き出したのである。

町奉行所の存在は、その後の江戸の発展と安定に不可欠な役割を果たした。複雑化する都市の行政を円滑に進め、頻発する紛争や犯罪を裁定することで社会の秩序を維持し、それによって町人たちが経済活動に専念し、豊かな文化を花開かせる土壌を提供した 27 。江戸町奉行は、まさに幕府による安定した支配の象徴であり、二百六十余年にわたる泰平の世を支える、最も重要な制度的基盤の一つとなった。

その歴史的意義は、江戸時代に留まらない。明治維新後、江戸が東京へと名を変える中で、町奉行所の機能は市政裁判所へと引き継がれ 37 、その広範な職掌は、やがて現代の東京都庁、警視庁、そして裁判所へと分化・発展していった。江戸町奉行が確立した「巨大都市を専門に、行政・司法・警察を一元的に管理する」という思想は、形を変えながらも、現代日本の大都市制度の中に、その遺伝子を確かに受け継いでいるのである。戦国の混沌から生まれたこの制度は、まさに日本の近世、そして近代の都市統治の礎を築いたと言えよう。

引用文献

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