海賊停止令(1588)
天正十六年、豊臣秀吉は海賊停止令を発令。独立勢力であった海賊衆を解体し、武力独占と海上交通安定化を図る。刀狩令と連動し、陸海両面で兵農分離を徹底、近世社会の礎を築いた。
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『天下統一の総仕上げ:豊臣秀吉の「海賊停止令」—その実態と歴史的意義の再検証』
序章:戦国日本の海と「海賊」という権力
天正十六年(1588年)、豊臣秀吉によって発令された「海賊停止令」。この法令は、単に瀬戸内海の治安を強化したという表層的な理解に留まるものではない。それは、戦国時代を通じて日本の海上世界を支配してきた一つの独立した権力構造を解体し、日本という国家のあり方を根底から変革する、壮大な天下統一事業の総仕上げであった。この歴史的事件の全貌を解明するためには、まず、法令の対象となった「海賊」が、現代人が抱くイメージとは全く異なる存在であったことを理解する必要がある。
「海賊」概念の再定義
一般に「海賊」と聞けば、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者、いわゆる「パイレーツ」の姿を想起するかもしれない 1 。しかし、戦国時代の日本、特に瀬戸内海で活動した「海賊衆」あるいは「水軍」「警固衆」と呼ばれる人々は、そのような単純な略奪者ではなかった。彼らは、特定の海域を勢力圏とし、独自の「掟」に基づいて行動する、高度に組織化された海上武装集団であった 1 。
彼らの主要な活動は、むしろ海上交通の秩序維持にあった。複雑な潮流と無数の島々が点在する瀬戸内海において、彼らは卓越した操船技術と地理的知識を駆使し、通行する船の水先案内人を務めた 2 。さらに、他の海賊や不測の事態から船荷を守る「海のボディーガード」として機能し、その対価として「警固料」と呼ばれる通行料を徴収した 2 。彼らが拠点とする島々や海峡には「海の関所」が設けられ、このシステムを通じて瀬戸内海の交易と流通の秩序は支えられていたのである 1 。もちろん、時には敵対勢力の船を襲撃し、略奪を行うこともあったが、それは彼らの活動の一側面に過ぎなかった。
海上領主としての「水軍」「警固衆」
海賊衆は、単なる海上集団ではなく、海を領地とする「海上領主」とでも言うべき存在であった。彼らの本拠地は「海城」と呼ばれ、陸の大名が築いた城郭と同様に、政治・軍事・経済の中心地として機能した 1 。芸予諸島などの要衝に海城を配置し、そこを拠点として広大な海域の支配権を確立していたのである 4 。
この事実は、戦国期の日本が、陸上の主権を大名が、そして海上の主権を事実上海賊衆が掌握するという、いわば「分割された主権」の状態にあったことを示唆している。陸の大名が海を利用しようとすれば、海の領主である海賊衆の協力が不可欠であった。逆に、海賊衆もまた、陸の大名と提携することで、自らの経済的・軍事的基盤を強化した。海賊停止令の本質を理解するためには、この陸と海にまたがる独特の権力構造をまず認識することが不可欠である。
瀬戸内海の地政学的重要性
四方を海に囲まれた日本において、海上交通路は国家の動脈であった。中でも、畿内(政治・経済の中心地)と西国(豊かな穀倉地帯と対外交易の窓口)を結ぶ瀬戸内海は、最も重要な生命線であった 5 。この海域の制海権を握ることは、兵糧や武器の「海上輸送」を確保し、敵の補給路を断つ「海上封鎖」を可能にすることを意味し、戦国大名にとって文字通り死活問題だったのである 5 。
二大勢力の台頭
戦国時代が深化するにつれ、数多の海賊衆は次第に集約され、二つの巨大な勢力が台頭した。一つは、芸予諸島を本拠地とし、能島・因島・来島の三家からなる連合体として瀬戸内海に君臨した「村上水軍」である 4 。彼らは主に西国の雄・毛利氏と結びつき、その強大な海上戦力は、宣教師ルイス・フロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめたほどであった 1 。1555年の厳島の戦いでは、村上水軍の参戦が毛利元就に決定的な勝利をもたらしたことは、彼らの力が陸の戦いの趨勢すら左右したことを示す象徴的な出来事である 2 。
もう一つは、伊勢・志摩を拠点とし、織田信長、そして豊臣秀吉に仕えた「九鬼水軍」である 2 。特に九鬼嘉隆は、信長の水軍の将として石山合戦などで活躍し、海賊としては異例の「海賊大名」として領地を与えられた 6 。第一次木津川口の戦い(1576年)では、村上水軍を主力とする毛利水軍が九鬼水軍を破ったが、第二次木津川口の戦い(1578年)では、九鬼嘉隆が信長の命で建造した鉄甲船が村上水軍の焙烙火矢戦術を打ち破り、制海権を奪い返した 2 。
このように、戦国末期の海上世界は、毛利を後ろ盾とする村上水軍と、中央政権(織田・豊臣)の水軍である九鬼水軍という二大勢力の対立を軸に展開していた。彼ら海賊衆は、もはや単なる大名の下請けではなく、天下の動向をも左右する独立したプレーヤーだったのである 1 。
第一章:天下統一への道程と海洋戦略(1582年~1587年)
天正十六年(1588年)という特定の年に海賊停止令が発令されたのは、決して偶然ではない。それは、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる過程で直面した、極めて現実的な軍事・戦略上の課題から生まれた必然的な帰結であった。特に、四国、そして九州へと軍を進める中で、独立勢力としての海賊衆の存在が、自らの軍事行動における致命的なアキレス腱となり得ることを、秀吉は痛感することになる。
秀吉の権力掌握と西国への進出
天正十年(1582年)の本能寺の変の後、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家を破り、織田政権内における後継者としての地位を不動のものとした 8 。その後、彼の目は西国、すなわち中国・四国・九州へと向けられた。これらの地域を平定し、名実ともに天下人となるためには、海を越えて大軍を動かす必要があった。
四国平定(1585年)と海賊衆への初期対応
天正十三年(1585年)、秀吉は長宗我部元親が支配する四国の平定に乗り出す。この戦いにおいて、秀吉は早くも海賊衆の独立性が作戦遂行の障害となる現実を目の当たりにする。瀬戸内最強を誇る能島村上氏は、秀吉への服従を拒否したため、秀吉は毛利氏の重鎮・小早川隆景にその討伐を命じなければならなかった 9 。隆景の巧みな火計によって難攻不落の能島城は陥落し、能島村上氏も秀吉に従うことになったが、この経験は秀吉に強烈な教訓を残した。すなわち、自らの命令に直ちに従わない海上勢力の存在は、大規模な軍事作戦において許容しがたいリスクである、という認識である。
九州平定(1586年~1587年)—決定的転換点
秀吉の海洋戦略における決定的な転換点となったのが、天正十四年(1586年)から翌年にかけて行われた九州平定であった。当時、九州では島津氏が破竹の勢いで勢力を拡大し、九州統一を目前にしていた 8 。秀吉は、大名間の私的な争いを禁じる「惣無事令」を発し、島津氏に停戦を命じたが、島津義久はこれを拒否 11 。ここに、豊臣政権と島津氏の全面対決は避けられないものとなった。
秀吉がこの戦いに動員した兵力は、総勢25万とも30万とも言われる、前代未聞の大軍であった 8 。この膨大な数の兵員と、彼らを支える兵糧・武具を、畿内から九州の戦場まで輸送する必要があった。この壮大な兵站作戦の生命線は、言うまでもなく畿内と九州を結ぶ瀬戸内海航路であった 5 。しかし、この大動脈の支配権は、豊臣政権ではなく、依然として独立性を保つ海賊衆が握っていた。これは、自国の軍隊が、その動向を完全には制御できない勢力の支配域を通過して補給を受けねばならないという、極めて深刻な戦略的脆弱性であった。
このリスクを深く認識していた秀吉は、九州出兵に備え、天正十四年(1586年)頃には、来るべき大戦に備えて瀬戸内海の航路安全を確保するため、限定的な海賊禁止令をすでに出していたと考えられている 14 。九州平定という巨大な軍事プロジェクトは、海賊衆の独立性を放置することが、豊臣政権の天下統一事業における最大の障害であることを白日の下に晒したのである。海賊停止令は、平和主義的な理念からではなく、この軍事兵站上の要請という、極めて現実的な動機から生まれた政策であった。
「惣無事令」思想の海上への展開
九州平定の前提となった「惣無事令」は、豊臣政権の許可なく大名同士が私的に戦うことを禁じ、領土紛争はすべて秀吉の裁定に委ねさせるというものであった 11 。これは、戦国時代を通じて続いてきた「自力救済」の原則を否定し、豊臣政権を唯一最高の調停者として位置づける画期的な政策であった。
この「私闘の禁止」という論理が、海上にまで拡張されるのは必然的な流れであった。海賊衆による警固料の徴収や敵対勢力への攻撃は、彼らの視点から見れば正当な権益の行使であったが、統一政権の視点から見れば、それは許可なき私的な実力行使、すなわち「海における私戦」に他ならなかった。陸の大名に私戦を禁じた以上、海の領主である海賊衆にも同様の規制を課し、海上における武力行使を豊臣政権の管理下に置こうとするのは、統一国家を創出する上で論理的な帰結であった 15 。九州平定の成功は、秀吉にこの国家改造を断行する絶大な自信と権威を与えたのである。
第二章:天正十六年(1588年)—陸と海の武装解除
九州を平定し、残す敵対勢力が関東の北条氏と東北の諸大名のみとなった天正十六年(1588年)、豊臣秀吉は、自らが築き上げつつある新秩序を盤石にするための、二つの画期的な法令を矢継ぎ早に発令する。一つは「刀狩令」、そしてもう一つが「海賊停止令」である。驚くべきことに、この二つの法令は、天正十六年七月八日という同日に布告された 16 。これは単なる偶然ではない。両者は、陸と海という異なる舞台を対象としながらも、全く同じ思想に基づき、武士階級以外の武装を社会から一掃し、豊臣政権による武力の独占を完成させるための、対をなす壮大な国家改造計画であった。
「刀狩令」—陸における兵農分離
まず、陸を対象とした「刀狩令」は、全国の百姓に対し、刀、脇差、弓、槍、鉄砲といった武具の所有を固く禁じ、それらを没収するものであった 18 。その表向きの理由は、没収した武具を溶かして京都の方広寺大仏殿の釘や鎹にするというものであったが、真の目的は二つあった。第一に、百姓が武器を持って蜂起する「一揆」を未然に防ぐこと。第二に、戦時には兵士となり、平時には農業に従事するという、中世を通じて曖昧であった武士と百姓の境界を明確に引き、武士は軍事、百姓は農業にそれぞれ専念させる「兵農分離」を徹底することであった 18 。これにより、武士は城下町に集住する支配階級として、百姓は土地に縛り付けられた被支配階級として、その身分が固定化されていったのである 22 。
「海賊停止令」—海における武装解除
刀狩令と同日に発令された「海賊停止令」は、この兵農分離の論理を海上世界に適用するものであった。この法令は三ヶ条からなり、その内容は以下の通りである 16 。
定
一、諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ、このたび備後・伊予両国のあいだ、伊津喜島にて盗船仕るの族これある由聞し食され、曲事に思し食すこと。
一、国々の浦々の船頭・猟師、いずれも舟使い候者、その所の地頭代官として速やかに相改め、向後いささかもって海賊仕るまじき由誓紙申し付け、連判をさせ、その国主取り集め上げ申すべきこと。
一、自今以後、給人領主由断いたし、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下末代召し上げらるべきこと。
右条々堅く申し付くべきものなり。もし違背の族これあらば、たちまち罪科に処せらるべき者なり。
天正十六年七月八日(朱印)
この条文を現代語に訳すと、その意図はより明確になる。
- 第一条(海賊行為の再禁止): 全国の海上で海賊行為は固く禁止しているにもかかわらず、最近、備後国(広島県東部)と伊予国(愛媛県)の間にある伊津喜島(斎島)で盗みを働く船があったと聞いた。言語道断である。
- 第二条(海民からの誓約書徴収): 全国の浦々にいる船頭や漁師など、船を扱う者すべてについて、その土地の領主や代官は速やかに調査せよ。そして、「今後は決して海賊行為はいたしません」という内容の誓約書に連署させ、各国の領主がそれらを取りまとめて(豊臣政権に)提出しなければならない。
- 第三条(領主の連帯責任): 今後、もし領主が取り締まりを怠り、その領内で海賊行為を行う者が現れたならば、その領主を処罰し、問題が起きた場所の所領は末代まで没収する。
この法令の本質は、曖昧な存在であった「武装せる海民」を、「武士(水軍)」か「非武装の漁民・船頭」かへと強制的に分離・再定義することにあった。刀狩令が土地に根差す「兵」と「農」を分離するものであったとすれば、海賊停止令は海に生きる「兵」(水軍)と「漁」(漁民・船頭)を分離する、いわば「海における兵農分離」であった 24 。漁業や海上輸送という生産・経済活動と、警固や合戦という軍事活動を兼業する、中世的な「兵漁未分離」の状態は、もはや許されなくなったのである。
二つの法令の連動性
刀狩令と海賊停止令は、それぞれ陸と海を舞台としながら、豊臣政権による「暴力の独占」という共通の目的を追求する、一体不可分の政策パッケージであった 14 。これにより、武士という特定の身分階級以外のすべての者が武装を解除され、私的な武力行使は社会から排除された。中世的な「武装する自営業者」ともいえる存在は一掃され、すべての人間が「士(兵)・農・工・商」のいずれかの身分に固定される、近世的な身分制社会の基礎が、陸と海の両面から同時に築き上げられたのである。
第三章:法令の執行と海賊衆の選択
海賊停止令の発令は、長きにわたり海に生きてきた海賊衆に対し、彼らの生き方そのものを根本から変える厳しい選択を迫るものであった。法令は、彼らに三つの道を示した。すなわち、①豊臣政権の直臣たる「大名」となる、②既存の大名の「家臣」として組み込まれる、③すべての武装を放棄し、一介の「百姓」(漁民や船頭)となる、のいずれかである 2 。
しかし、この法令の執行は一律ではなく、極めて政治的な意図を持って行われた。法令は、海賊衆の過去の政治的行動を査定し、豊臣政権への忠誠度に応じて彼らを新たな秩序の中に序列化・再編するための、強力な道具として機能したのである。秀吉は巧みなアメとムチを使い分け、かつての独立勢力を完全に解体し、自らの意のままに動かせる駒へと変えていった。
【事例研究1】大名への道(アメ)
豊臣政権への早期の協力者や、その実力を高く評価された者は、新たな支配体制の中で厚遇された。
- 来島通総: 瀬戸内最強を誇った村上三家の中で、来島家の当主・通総は、いち早く時代の流れを読み、秀吉がまだ毛利氏と敵対していた段階で、主家であった伊予の河野氏や同族の能島・因島村上氏から離反し、秀吉に恭順した 27 。この「功績」は高く評価され、四国平定後、通総は伊予国風早郡に1万4千石の所領を与えられ、海賊衆から豊臣大名へと華麗な転身を遂げた 30 。彼の事例は、政権への忠誠が大きな見返りを生むことを、他の海賊衆に示す強烈なメッセージとなった。
- 九鬼嘉隆: 織田信長の時代から中央政権の忠実な水軍の将として仕え、第二次木津川口の戦いなどで武功を挙げてきた九鬼嘉隆は、秀吉政権下でもその地位を安堵された 32 。彼は志摩国鳥羽を拠点に3万石を領する大名となり、豊臣水軍の中核として重用され続けた 6 。
【事例研究2】家臣への道(ムチ)
一方で、最後まで秀吉に抵抗したり、旧来の主家との関係を重視したりした勢力は、厳しい処遇を受けることになった。
- 能島・因島村上氏: 村上水軍の宗家であり、最強と謳われた能島村上氏は、毛利氏との義を重んじ、秀吉の四国平定の際には抵抗した 9 。このため、海賊停止令後、彼らは長年の本拠地であった能島からの退去を命じられるなど、その独立性を完全に剥奪された 33 。最終的に、能島・因島村上氏は毛利家の家臣団に組み込まれ、かつての「海の領主」としての威光は失われた 28 。彼らは毛利氏の家臣として存続はしたが、それはもはや独立した権力ではなく、大名権力に従属する一機能に過ぎなかった。
【事例研究3】領主責任の徹底
法令の第三条に定められた「領主の連帯責任」は、法令の執行を確実なものにする上で絶大な効果を発揮した。毛利輝元や小早川隆景といった、領内に多くの海賊衆を抱える西国の大名たちは、もし配下の海民が海賊行為を行えば、自らの領地が没収されかねないという厳しいリスクを負わされた 16 。これにより、大名たちは自主的かつ徹底的に領内の海民の調査と武装解除を進めざるを得なくなった。豊臣政権は、直接手を下すことなく、既存の大名権力を利用して、末端の漁村に至るまで法令を浸透させることに成功したのである。
以下の表は、主要な海賊衆が海賊停止令後に辿った運命をまとめたものである。彼らの停止令以前の提携大名と、停止令後の地位を比較することで、秀吉への政治的態度がいかに彼らの処遇を決定づけたかが一目瞭然となる。
表1:主要な海賊衆(水軍)の海賊停止令後の動向比較
海賊衆(水軍) |
拠点 |
停止令以前の主要提携大名 |
停止令後の選択と地位 |
能島村上氏 |
芸予諸島・能島 |
毛利氏、河野氏 |
毛利氏の家臣 |
因島村上氏 |
芸予諸島・因島 |
毛利氏(小早川氏) |
毛利氏の家臣 |
来島村上氏(来島氏) |
芸予諸島・来島 |
河野氏、後に豊臣氏 |
豊臣政権下の大名(伊予1万4千石) |
九鬼水軍 |
志摩・鳥羽 |
織田氏、豊臣氏 |
豊臣政権下の大名(志摩3万石) |
この表が示すように、海賊停止令は、海の世界に「豊臣体制」という新たな序列を持ち込むための、極めて効果的な政治的手段であった。秀吉は、自らに忠実な者を抜擢して大名とし、敵対した者や旧来の秩序に固執した者を既存大名の管理下に置くことで、中世を通じて独立を保ってきた海上勢力を完全に解体し、新たな国家秩序の中に再配置したのである。
第四章:新たなる海上秩序の形成とその帰結
海賊停止令は、日本の海上世界に構造的な、そして不可逆的な変化をもたらした。中世を通じて続いてきた、海賊衆による多元的で私的な海上支配は終焉を迎え、豊臣政権による一元的・中央集権的な管理体制へと移行した。この変革は、経済、軍事、そして社会のあらゆる側面に甚大な影響を及ぼした。
経済的影響:海上交通網の統一と商業の活性化
海賊停止令がもたらした最も直接的な恩恵の一つは、海上交通の安定化であった。それまで海賊衆によって徴収されていた警固料などの私的な通行料は禁止され、航行の自由と安全が、少なくとも建前上は、豊臣政権という統一権力によって保障されることになった 2 。これにより、商人たちは予測不能なコストや危険に晒されることなく、海上交易に従事できるようになった。
特に、西国の豊富な物資を大坂や京都といった中央市場へ運ぶ瀬戸内海航路の安定は、経済的に計り知れない価値を持った 36 。物流の円滑化と活性化は、豊臣政権の財政基盤を強化するとともに、大坂を全国の物資が集散する「天下の台所」へと発展させる大きな原動力となった 11 。中世的な分断された経済圏が、統一された海上交通網によって結び付けられ、近世的な全国市場が形成されていく、その礎がこの法令によって築かれたのである。
軍事的帰結:文禄・慶長の役と国家動員体制
海賊停止令が、秀吉の壮大な野望であった大陸進出、すなわち文禄・慶長の役(1592年~)を見据えた布石であったことは、多くの研究者が指摘するところである 24 。朝鮮半島へ数十万の軍勢を送り込み、その補給を維持するためには、国家の総力を挙げて水軍を動員できる体制が不可欠であった。
海賊停止令以前の「分割主権」状態では、このような大規模な水軍の動員は不可能であった。作戦のたびに、独立した海賊衆と個別に交渉し、多額の報酬を約束して協力を取り付ける必要があり、指揮系統の統一もままならなかった。しかし、法令によって海賊衆が大名やその家臣として豊臣政権の支配下に組み込まれたことで、状況は一変した 37 。秀吉は、命令一下で全国の水軍力を動員する「国家的指揮権」を初めて手に入れたのである。
事実、かつての海賊衆の頭領たちは、豊臣大名あるいは大名の家臣として、朝鮮出兵に水軍の将として動員された。大名となった来島通総や九鬼嘉隆は、自らの水軍を率いて朝鮮水軍と激戦を繰り広げた 29 。来島通総は慶長の役の鳴梁海戦で戦死するなど、彼らはもはや独立した海の領主ではなく、国家の対外戦争の駒としてその命を賭す存在となっていた 27 。この法令なくして、豊臣政権による朝鮮出兵という国家事業は遂行不可能だったのである。それは、国内の武力を完全に掌握して初めて、その武力を国外に向けることが可能になるという、国家形成の普遍的な法則を示すものであった。
日本の「海賊」の終焉
この法令は、日本の歴史から「海賊衆」という特異な存在形態そのものを消し去った 25 。彼らは、中世を通じて、ある時は交易の担い手、ある時は海の秩序の守護者、そしてまたある時は恐るべき軍事力として、海上世界に君臨してきた。しかし、海賊停止令によって、彼らがその独立性を維持するための経済的基盤(警固料徴収)と軍事的基盤(自由な武装)は、共に奪われた 24 。
彼らは、近世的な身分制度の中に吸収されていった。一部の者は大名や武士となり、支配階級の一員として新たな道を歩んだ。そして、大多数の者は武装を解かれ、純粋な漁民や船頭として、国家の管理下で海と共に生きることを選択した。こうして、中世の海を彩った自由で荒々しい「海賊」の時代は、完全に終わりを告げたのである。
終章:海賊停止令が日本史に刻んだもの
豊臣秀吉による海賊停止令は、単なる一過性の治安対策ではなかった。それは、日本が中世から近世へと移行する上で、決定的な役割を果たした社会構造の根本的な変革であった。この法令が日本史に刻んだ意義は、以下の三点に集約される。
第一に、 国家による「暴力の独占」の完成 である。同日に発令された刀狩令が陸上の私的な武力を禁じたのに対し、海賊停止令は海上の私的な武力を禁じた。この二つの法令が揃ったことで、日本全土において、武力の行使は豊臣政権という中央権力が独占的に行うもの、という近代的国家の基本原則が確立された。個々人や地域集団が自らの力で紛争を解決する「自力救済」の時代は終わり、すべての紛争は国家の法と権威によって裁定される、新たな時代が到来したのである。
第二に、 統一的「国民空間」の創出 である。戦国時代、日本の国土は、大名の領国や海賊衆の支配海域といった、モザイク状の独立した権力空間に分断されていた。海賊停止令は、それまで国家の主権が及ばなかった海上世界を、初めて統一的な公権力の管理下に置いた。これにより、陸と海にまたがる一元的な「国家空間」が創出され、日本は名実ともに一つの統一国家としての相貌を整えるに至った。
そして第三に、 近世社会への扉を開いた ことである。海賊停止令によって確立された中央集権的な海上管理体制、そして刀狩令と連動して進められた厳格な身分制度は、その後の江戸幕府の統治政策にほぼそのまま引き継がれた。独立した武装勢力が社会から一掃され、安定した身分秩序が確立されたことは、約250年にわたる「天下泰平」の世の礎の一つとなった。
戦国という混沌の時代、海は自由であったが、危険でもあった。海賊停止令は、その自由を奪う代償として、統一された秩序と安全をもたらした。それは、中世的な多元的社会の終焉であり、近世的な一元的国家の誕生を告げる、歴史の大きな転換点だったのである。
引用文献
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- 日本の海賊【村上水軍】の歴史やライバルに迫る! 関連観光 ... https://thegate12.com/jp/article/494
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- 解説シート - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi%20half(1-15).pdf
- 村上海賊の盛衰 https://umenoyaissei.com/murakamikaizokunoseisui.pdf
- 今治・村上水軍博物館考察 ~海に生きた人々の教えに学ぶ - SHIKOKU-NET http://www.shikoku-net.co.jp/s-seikei/jukuhou212.htm
- 江戸時代の瀬戸内海交通 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版 https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b548493.html
- 朝鮮役における水軍編成について https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/8169/files/jouflh_20th_267.pdf
- 熊野水軍について | 三段壁洞窟【公式】 https://sandanbeki.com/suigun/index3.php