熊本城下町建設(1601)
関ヶ原後、加藤清正は肥後一国を領し、熊本城下町を建設。茶臼山丘陵に難攻不落の城を築き、河川改修で治水と経済を両立。軍事・経済・統治を統合した機能都市を創り上げた。
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慶長肥後国大変革:加藤清正による熊本城下町建設の軌跡(1601-1607)
序章:天下分け目の後、肥後の大地に立つ
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いは日本の運命を決定づけた。しかし、その激震は美濃国関ヶ原のみならず、遠く九州の地をも揺るがしていた。この天下分け目の動乱こそ、近世都市・熊本誕生の直接的な序曲となる。加藤清正による熊本城下町建設という未曾有の事業は、単なる一城主の居城建設に留まらない。それは、関ヶ原の戦いの延長線上にあり、徳川家康が主導する新秩序の構築と、清正個人の領国経営にかける執念が交差する、壮大な戦後処理の総仕上げであった。
関ヶ原の戦いと九州平定
加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いの武将として知られるが、関ヶ原の戦いにおいては徳川家康率いる東軍に与した。しかし、彼の主戦場は関ヶ原ではなかった。家康の深謀遠慮のもと、清正は九州に留まり、西軍に与した諸大名の抑えという重責を担ったのである。これは単なる場当たり的な行動ではなく、家康との間に交わされた周到な事前密約に基づく戦略的行動であった。清正は、肥後国や筑後国を自らの実力で軍事占領することを条件に、両国の領有を保障するという約束を取り付けていた 1 。
この密約を背景に、清正は九州において驚異的な速度で軍事行動を展開する。関ヶ原の本戦の結末が伝わる10日も前から、彼は宿敵であった小西行長の領内へと侵攻を開始していた 1 。行長の居城である宇土城を攻略し、開城させるなど、九州における東軍の勝利を決定的なものとした 2 。この目覚ましい武功が戦後高く評価され、清正は行長の旧領であった肥後南半国を加増される。これにより、長年治めてきた北半国と合わせ、肥後一国52万石を領する大大名へと飛躍を遂げたのである 2 。
肥後統治の宿願
清正にとって肥後一国の完全掌握は、長年の悲願であった。彼が初めて肥後の地を踏んだのは天正16年(1588年)、北半国19万5千石の領主としてであった 6 。しかし、当時の肥後は極めて統治の難しい土地であった。前任者である佐々成政が、検地に反発した国衆一揆を鎮圧できずに切腹に追い込まれたという苦い歴史があり、領内には依然として不穏な空気が渦巻いていた 3 。
さらに、南半国を治める小西行長とは、朝鮮出兵などを通じて宗教観や戦略方針を巡り、深刻な対立関係にあった。一つの国を二人の領主が分割統治するという歪な状況は、効率的な領国経営の大きな妨げとなっていた。肥後一国を統一し、自らの理想とする統治理念を隅々まで浸透させることこそ、清正が描く領国経営の最終目標であった。関ヶ原の戦いは、この宿願を達成するための、またとない歴史的機会を提供したのである。軍事力によって獲得した肥後一国という広大な領地を、政治的・経済的に完全に掌握し、盤石な統治基盤を築き上げる。そのための国家的プロジェクトとして、新城と城下町の建設は、もはや不可欠な次の一手であった。それは、戦乱の時代の論理、すなわち実力による領土獲得から、泰平の時代の論理、すなわち統治による領国経営への移行を、肥後の大地に刻み込む壮大な宣言に他ならなかった。
第一章:築城主・加藤清正の実像 ― 戦乱と異郷が育んだ才幹
熊本城下町という、類稀なる規模と機能性を誇る都市を構想し、実現し得た人物、加藤清正。彼の卓越した能力は、天賦の才のみによるものではない。それは、戦国の世を駆け抜け、異国の戦場で生死の境を彷徨うという、過酷な経験を通じて磨き上げられた実践知の結晶であった。清正の築城術と都市計画思想は、師である豊臣秀吉から受け継いだ「権威を見せる城」の思想と、朝鮮出兵で骨身に染みた「生き残るための城」という実戦思想が融合し、さらに彼自身の領国経営者としての視点が加わった、独自のハイブリッド思想と呼ぶべきものである。
豊臣秀吉の子飼いとしての経験
清正のキャリアは、豊臣秀吉がまだ長浜城主であった頃に小姓として仕え始めたことに端を発する 9 。秀吉にその才能を見出された彼は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて目覚ましい武功を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる栄誉を得た 7 。築城の名手であった秀吉の側近くに仕える中で、清正は安土城に始まる織豊系城郭の最先端技術を目の当たりにする。特に、秀吉が天下人となってから手がけた大坂城や、朝鮮出兵の拠点となった名護屋城の普請に奉行として関わった経験は、彼に比類なき知見をもたらした 9 。壮麗な天守や広大な曲輪、そして高く堅固な石垣。これらは、天下人の権威を可視化するための装置であり、清正の築城観の根底に「見せる」という思想を植え付けた。
しかし、清正の役割は武将として戦場で槍を振るうだけではなかった。秀吉政権下では、蔵入地の代官や上使、後方支援といった実務も数多くこなしており、武勇だけでなく、組織を動かし、物事を差配する優れた行政官僚としての一面も持ち合わせていた 2 。この武と文の両面にわたる経験が、後に軍事拠点と行政・経済の中心地を一体化させるという、熊本城下町の複合的な都市構想へと繋がっていく。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の苛烈な体験
清正の築城思想に決定的かつ不可逆的な影響を与えたのが、二度にわたる朝鮮出兵であった。特に慶長の役における蔚山城の籠城戦は、彼の脳裏に生涯消えることのない記憶を焼き付けた。明・朝鮮連合軍の猛攻の中、援軍の来ない城内で兵糧と水が尽き、極限の飢餓に苦しめられたのである 10 。この地獄のような体験は、城というものが単なる権威の象徴ではなく、兵士たちの命を守り、生き残るための究極のシェルターでなければならないという、痛切な教訓を彼に与えた。
この経験から、清正の築城思想には二つの絶対的な原則が確立された。第一に、敵の侵入を物理的に不可能にする、徹底的に堅固な防御機能の追求。第二に、長期間の籠城に耐えうる、兵站の完全な確保である 10 。朝鮮半島各地で、現地の地形や資材を利用して「倭城(わじょう)」と呼ばれる拠点を築いた経験も、彼の技術を飛躍的に向上させた 12 。日本の伝統的な築城術に、大陸での実戦から得た知見を融合させ、独自のスタイルへと昇華させる契機となったのである。
領国経営者としての手腕
清正は、単なる武将や築城家ではなかった。彼は卓越した領国経営者でもあった。肥後入国当初から、彼は戦乱で荒廃した領地の再建に精力的に取り組んだ。特に治水事業や新田開発、商業政策に優れた手腕を発揮し、肥後国を豊かな土地へと変えるための基盤を築いた 3 。長期にわたる朝鮮出兵で疲弊した領民を思い、数年間の年貢や諸役を免除したという記録も残っている 6 。こうした民政への配慮は、領民からの深い信頼と敬愛を勝ち取ることに繋がった。後に、熊本城下町建設という国家プロジェクト級の大事業を遂行するにあたり、膨大な労働力を動員できた背景には、この領民との固い信頼関係があったことは想像に難くない。
このように、熊本城は、大坂城に代表されるような壮麗さ(権威)と、蔚山城や倭城で追求された徹底した防御機能(実戦)、そして城下町がもたらす経済的繁栄(経営)という三つの要素を、一つの巨大な都市システムとして統合しようとした壮大な実験であった。清正の波乱に満ちた生涯そのものが、この他に類を見ないユニークな都市思想を形成したのである。
第二章:グランドデザイン ― 大地の理を読み、水の流れを制す
慶長6年(1601年)、肥後一国の主となった加藤清正が着手した新城下町建設。その壮大な事業の第一歩は、槌を振るい、石を積むことではなかった。それは、大地を読み、水の流れを制することから始まった。清正が描いたグランドデザインは、単なる建築計画に留まらず、地形や河川といった自然環境を巧みに利用し、軍事・経済・生活のすべてを規定するマスタープランであった。この計画の根幹には、自然を克服するのではなく、その力を最大限に活用し、人間の目的に合致させるという、国土デザイナーとも言うべき高度な思想が存在した。熊本城下町は、建造物が建てられる以前の、この大地と水のデザイン段階で、その成功がほぼ約束されていたのである。
戦略的立地選定:茶臼山丘陵
清正が新たな本拠地として選んだのは、熊本市の中心部に位置する茶臼山丘陵であった 16 。この場所は、北から南へと伸びる京町台地の先端にあたり、古くは出田氏が隈本城を、後には佐々成政が本城を置いた、古くからの軍事的な要衝であった 16 。清正がこの地を選んだ理由は、その卓越した地形的優位性にある。三方を崖に囲まれ、一方向のみが陸続きという地形は、防御拠点としてまさに理想的であった 18 。彼はこの茶臼山丘陵全体を取り込み、中世以来の古い城郭の概念を遥かに超える、広大な近世城郭を築くことを計画したのである 16 。
治水と利水を兼ねた河川改修
清正の都市計画の真骨頂は、大規模な河川改修にあった。彼の最初の、そして最も重要な仕事は、城の周囲を流れる河川の流路を大胆に変更することであった。当時、城の南側を流れる白川は頻繁に氾濫を繰り返し、周辺地域に大きな被害をもたらしていた。清正はこの暴れ川の蛇行部分を直線化し、その流れを制御することで、城の南側を守る雄大な天然の外堀として利用した 15 。
さらに劇的だったのは、城の北側を流れる坪井川の改修である。彼は坪井川を大きく西側へ引き回して井芹川と合流させた 17 。この工事は複数の目的を同時に達成する、驚くほど合理的なものであった。第一に、旧河道や新たに生まれた土地を水堀として活用し、城の北側の防御を完璧なものとした。第二に、これまで湿地帯であった広大な土地が、城下町の新たな用地として生まれ変わった 20 。そして第三に、坪井川の舟運機能を活性化させ、城下町の中心部まで物資を船で運び込むための物流ルートを確保したのである 17 。
この一連の河川改修は、単なる防御施設の構築や用地創出に留まらない。それは、洪水という「自然災害リスク」を管理し、舟運という「経済的インフラ」を整備し、城と城下町を有機的に結びつける、極めて高度な統合的計画であった。このような大胆な発想は、土を堰き止めるだけでなく、思うがままに川の流れを変えることを可能にした、当時の最先端技術である石垣の構築技術なくしては実現不可能であった 18 。それは、清正が当代随一の土木技術者であったことを雄弁に物語っている。この事業は、戦国時代の武将が、単なる戦闘指揮官から、領国全体のインフラを整備し経営する「デベロッパー」へと変貌を遂げたことを示す、象徴的な事例と言えるだろう。
第三章:建設のリアルタイム・クロニクル(慶長六年~慶長十二年)
慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)に至る7年間、肥後国熊本では、一つの都市が生まれ変わる壮大なドラマが繰り広げられた。それは、加藤清正の指揮のもと、膨大な労働力と資材が投入され、荒々しい自然の地形が、計算され尽くした機能美を持つ巨大な城塞都市へと姿を変えていく過程であった。この建設事業は、現代のプロジェクトマネジメントにおける「パラレルエンジニアリング」にも通じる、極めて高度な手法で進められた。城という物理的な構造物(ハードウェア)の建設と、城下町という社会・経済システム(ソフトウェア)の構築が、分離されることなく同時並行で、かつ相互に影響を与えながら進められたのである。
初期段階(慶長6年~8年頃):基盤整備と骨格の形成
建設事業の幕開けは、第二章で詳述した大規模な河川改修工事からであった。白川と坪井川の流れが制御され、都市の輪郭が大地に引かれると、それに続いて広範な地域の地盤整理と、城郭全体の配置計画である「縄張り」が実施された。この段階で、城の中核部分、武家屋敷地、町人地、寺社地といった都市の基本骨格が決定された。
工事の進展に伴い、膨大な量の石材の切り出しと運搬、そして労働力の徴発が開始された。この巨大事業は、領民の協力なくしては到底成し得ないものであった。朝鮮出兵後の減税措置などで領民の信頼を得ていた清正の民政の成果が、ここで問われることになった。過酷な労働の中にも、人々を笑わせて人気者だったという足軽「おどけの金太」の逸話が残されていることは、現場に人間的な潤いがあったことを示唆している 21 。
やがて、城の中核をなす天守台や本丸周辺の石垣工事が本格的に着手される。ここで投入されたのが、加藤清正の代名詞とも言える「清正流石垣」の技術である。下部は緩やかな勾配で、上に行くにつれて垂直に近くなる独特の反りを持つこの石垣は「扇の勾配」と呼ばれ、その美しい曲線とは裏腹に、敵兵の侵入を許さないことから「武者返し」の異名をとった 9 。
中期段階(慶長9年~10年頃):象徴の建立と城郭機能の具体化
都市の基盤が整うと、工事の焦点は城の象徴である大小天守の建造へと移る。天守は、領内外に清正の権威と肥後52万石の威光を示すモニュメントであると同時に、広大な城内で行われる諸工事を統括する司令塔としての役割も担った。
城の建設と並行して、城下町の整備も急ピッチで進められた。特に町人地である「古町」地区の形成はこの時期の重要な事業であった。清正は、古くは天正19年(1591年)の段階で、既存の住民を移転させ、その跡地に大坂や堺から大商人を招聘する計画を立てていた 17 。この構想が、肥後一国を手中にしたことで、本格的に実行に移されたのである。古町の町割りは、利用者が当初想定していた「放射状」ではなく、より合理的で防御に適した「碁盤目状」が採用された 22 。一辺が約120m四方の整然とした区画の中心に寺院を一つ配置する「一町一寺」制は、平時には町人たちの信仰とコミュニティの中心となり、有事の際には区画ごと敵を食い止める防衛拠点となる、軍事的・経済的合理性を極限まで追求した画期的な都市計画であった 23 。
後期段階(慶長11年~12年頃):全体の完成と都市機能の始動
天守が威容を現し、城下町の区画が整うと、工事は最終段階へと入る。城全体の多層的な防御網を完成させるため、櫓や城門の建設が次々と行われた。中でも、小西行長が築いた宇土城の天守を移築したと伝えられる三重五階地下1階の宇土櫓 25 をはじめ、最終的には櫓49、櫓門18、城門29という驚異的な数の建造物が城内に林立した 26 。
そして慶長12年(1607年)、7年の歳月を費やした新城の竣工をもって、清正は一つの儀式を執り行う。それは、この地の名を古くからの「隈本」から「熊本」へと改めることであった 4 。「隈」という字には「畏まる」「隠れる」といった意味があり、武運を重んじる武将の居城の名にはふさわしくない、というのがその理由とされている。この改名は、中世以来の古い隈本が終わりを告げ、近世城郭都市・熊本として新たな歴史を歩み始めることを高らかに宣言するものであった。城と城下町が一体のシステムとして機能し始め、肥後国の政治・経済・軍事の中心地としての役割を、この瞬間から担うことになったのである。
表1:熊本城および城下町建設の主要年表(1600年~1611年)
西暦(和暦) |
国内外の主要動向 |
熊本城の建設進捗 |
城下町の整備進捗 |
出典・備考 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。清正は九州で西軍方と戦う。 |
(着工前) |
(着工前) |
1 |
1601年(慶長6年) |
清正、肥後52万石の大名となる。 |
本格的な築城に着手 。縄張り、地盤整理。 |
白川・坪井川の河川改修工事開始。 |
5 |
1602年(慶長7年) |
- |
石垣基礎工事が本格化。「武者返し」の構築。 |
河川改修工事が進行。城下町の用地造成。 |
9 |
1603年(慶長8年) |
徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 |
天守台の石垣完成。大小天守の建設に着手。 |
古町地区の碁盤目状の町割りが開始される。 |
22 |
1604年(慶長9年) |
- |
大小天守の骨格が組み上がる。 |
「一町一寺」制に基づき、寺院の配置が進む。 |
23 |
1605年(慶長10年) |
徳川秀忠、第二代将軍に就任。 |
宇土櫓の移築(伝承)または新築。 |
大坂や堺からの商人招聘が本格化する。 |
17 |
1606年(慶長11年) |
- |
多数の櫓、城門の建設が進み、城郭の全貌が現れる。 |
城下町の主要な街路や区画が完成する。 |
17 |
1607年(慶長12年) |
- |
熊本城、竣工 。 |
清正、地名を「隈本」から**「熊本」**に改める。 |
4 |
1611年(慶長16年) |
豊臣秀頼と家康が二条城で会見。 |
(完成後) |
(完成後) |
清正、会見からの帰途に急死 2 。 |
第四章:機能する城塞都市 ― 防衛・経済・統治の三位一体
慶長12年(1607年)に完成した熊本城下町は、単に壮麗な城と整然とした町並みが広がるだけの都市ではなかった。それは、加藤清正が自身の経験のすべてを注ぎ込み、軍事、経済、統治という三つの要素が有機的に連携する、一個の巨大な生命体として設計された機能都市であった。清正の都市計画は、平時の繁栄を追求するだけでなく、軍事的脅威、自然災害、経済的停滞といった、当時考えうるあらゆるリスクを想定し、そのすべてに対する「解」を都市システムの中に埋め込んだ、いわば「リスクマネジメント都市」と呼ぶべきものであった。この徹底した現実主義こそ、戦国という不確実性の時代を生き抜いた武将ならではの思想の表れである。
軍事機能:難攻不落の要塞
熊本城の軍事機能は、城郭単体で完結するものではなく、城下町全体を巻き込んだ多層的な防御システムとして構築されていた。
- 城郭本体の防御力: 城そのものが、敵兵の登攀を拒む「武者返し」の高石垣 9 、侵入者を袋小路に誘い込み集中攻撃を可能にする複雑な虎口(出入り口) 11 、そして城内に林立する49の櫓によって、鉄壁の防御を誇っていた。西出丸が完成した際には、清正自ら「この郭だけで100日は防禦でき、私が日本のどこに居ても城に戻れる」と豪語したと伝えられている 28 。
- 城下町を含めた総力戦体制: 清正の独創性は、城下町をも防衛ラインの一部と見なした点にある。町人地である古町に導入された「一町一寺」制は、その象徴である。各区画の中心に配置された寺院は、有事の際には兵の駐屯地や抵抗拠点として機能するよう設計されていた 23 。これは、武士だけでなく町人をも巻き込んだ、都市全体での総力戦を想定した先進的な思想であった。
- 徹底した籠城への備え: 蔚山城での飢餓地獄の経験は、清正に籠城戦の重要性を骨の髄まで叩き込んだ。その教訓は、熊本城の設計に余すところなく反映されている。城内には、水の確保のために120以上もの井戸が掘られた 10 。また、籠城時の非常食として、実が食料となり、材木としても利用できる銀杏の木が城内に数多く植えられ、後に「銀杏城」という別名の由来となった 10 。さらに、本丸御殿に設けられた「昭君之間」は、表向きは中国の故事にちなんだ豪華な部屋であるが、実は「将軍之間」の隠語であり、万が一の際に豊臣秀頼を匿うために用意されたという説がある 10 。これは、単なる軍事的な籠城だけでなく、主君を守るという政治的な籠城すら想定していたことを示している。
経済機能:肥後国の経済エンジン
清正は、熊本城下町を単なる軍事拠点ではなく、肥後52万石の富を生み出す経済の中心地として構想していた。
- 計画的な産業誘致政策: 城下町の繁栄は、商工業者の集積にかかっている。清正は、商人が自然に集まるのを待つのではなく、積極的に誘致する政策を採った。早くも天正19年(1591年)の段階で、既存の職人町であった細工町の住民を移転させ、その跡地に「大阪屋」「堺屋」「天満屋」といった屋号が示すように、大坂や堺など、当時日本の経済を牽引していた先進都市から有力な大商人を招聘している 17 。これは、近世における計画的な企業誘致の先駆けとも言える施策であった。
- 物流ネットワークの整備: 都市の経済活動を支えるのは、効率的な物流網である。清正は、河川改修によって坪井川の舟運機能を最大限に活用した 17 。これにより、肥後国内の産物や他国からの物資が、船によって城下町の心臓部まで直接運び込まれるようになり、熊本は肥後国全体の物流ハブとしての地位を確立した。
- 国際貿易への視野: 清正の経済政策は、国内に留まらなかった。彼は南蛮貿易にも積極的に取り組み、海外との交易を通じて領国を豊かにすることを目指していた 21 。熊本城下町は、国内経済の中心であると同時に、世界へと開かれた国際交易都市としてのポテンシャルをも秘めていたのである。
統治機能:身分秩序と行政の中心
完成した城下町は、肥後国を効率的に統治するための行政拠点としても機能した。その空間配置は、近世社会の身分秩序を巧みに可視化するものであった。城郭を中心として、その周辺に上級武士の屋敷が、その外側に下級武士、そして坪井川を隔てたエリアに町人地、さらに要所に寺社地が計画的に配置された。この明確なゾーニングは、人々の身分と役割を空間的に規定し、安定した統治を実現するための都市計画であった。城内には奉行所などの行政機関が置かれ 28 、ここから肥後52万石全域への指令が発せられた。城下町は、この巨大な行政機能を支える経済的・人的基盤であり、軍事・経済・統治の三つの機能が、城を中心に完璧な三位一体をなしていたのである。
終章:石垣に刻まれた遺産 ― 清正の理想とその後の熊本
加藤清正がこの世を去って400年以上が経過した。しかし、彼が肥後の大地に築き上げた熊本城下町という壮大な遺産は、今なおその息吹を現代に伝えている。清正が残したものは、高くそびえる石垣や雄大な堀といった物理的な構造物だけではない。それは、この地に住む人々の心に深く刻まれた「都市としてのアイデンティティ」そのものであった。彼の一大事業によって、熊本は単なる地方都市ではなく、「清正公(せいしょこ)さんの城下町」という強力な物語と誇りを手に入れたのである。この精神的な遺産こそが、幾多の危機を乗り越え、未来へと歩み続ける熊本の力の源泉となっている。
後継者への影響と近代への継承
清正の死後、加藤家は二代で改易となり、寛永9年(1632年)、豊前小倉から細川忠利が新たな藩主として入城した 27 。忠利は、初めて熊本城を目にした際、「江戸のほかにこれほど広い城は見た事がない」と、その壮大さに驚嘆した書状を残している 7 。細川家は、清正が築いた都市の基本骨格をほぼそのまま継承し、240年近くにわたって肥後を治めた。しかし、清正の功績があまりに偉大であったため、その名声は後継の領主である細川家にとって、常に意識せざるを得ない複雑なものであったとも言われている 30 。
時代は下り、明治時代。廃藩置県後、熊本城には陸軍の鎮西鎮台が置かれ、九州における軍事拠点としての役割を担い続けた。そして明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、熊本城は政府軍の拠点として、西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻に晒されることになる 27 。開戦直前の謎の出火により天守閣は焼失する悲劇に見舞われたものの、城は50日以上にわたる籠城戦に耐え抜き、その堅牢さを身をもって証明した。奇しくも、清正が城内に銀杏を植えた際に「この木が天守と同じ高さになった時、この城で戦が起こるだろう」と予言したという伝説が、この時に現実のものとなったと伝えられている 31 。清正が築いた都市の骨格、特に古町地区の碁盤目状の町割りや町名は、400年の時を超えて現代の熊本市中心部に色濃く残り、市民の生活の舞台となっている 22 。
精神的遺産:「せいしょこさん」への敬愛
加藤清正の事業は、単なるインフラ整備に終わらなかった。彼の行った治水事業や新田開発は、肥後の農業生産力を飛躍的に増大させ、領民の生活を豊かにした。その絶大な功績により、彼は死後も領民から神のごとく慕われ、親しみを込めて「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ、信仰の対象となった 15 。この市民からの時代を超えた敬愛こそが、清正が残した最大の無形の遺産である。
平成28年(2016年)の熊本地震では、熊本城は甚大な被害を受け、その無残な姿は多くの人々に衝撃を与えた。しかし、この未曾有の危機に際して、熊本市民、そして全国の人々が一体となって城の復興を支える力の源泉となったのは、まさしくこの「せいしょこさん」への想いであった 33 。熊本城は、単なる歴史的建造物ではない。それは、加藤清正が築いた「場所の記憶」と「共同体の誇り」の象徴なのである。彼の建設事業は、400年以上前に完了した過去の出来事ではなく、人々の心の中で生き続け、未来の熊本を創造する力となり続ける、現在進行形の遺産なのである。
引用文献
- 第三回「熊本の関ヶ原~宇土城攻防戦~」 https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/33/321.html
- 徳川と豊臣の間で苦しんだ加藤清正の「忠義」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27345
- 加藤清正 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-kato/
- 築城名人・加藤清正の城の400年【史上最強の熊本城の歴史 波乱と栄華と復活 】 https://www.rekishijin.com/17769
- 熊本城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/04/
- 加藤清正 公 - オールクマモト https://allkumamoto.com/history/load_kato_kiyomasa
- 【熊本城を巡る歴史旅】実は豊臣秀吉の親戚!?加藤清正と熊本城の関係 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181025-kumamoto-1/
- 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
- 超入門! お城セミナー 第33回【武将】加藤清正はどんな城を造ったの? https://shirobito.jp/article/495
- 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
- 三大築城家/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18731/
- 朝鮮出兵|宇土市公式ウェブサイト https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/32.html
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- 加藤清正の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38334/
- 第2章 特別史跡熊本城跡の概要、 歴史的変遷 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00347139/5_47139_332899_up_ypghd8oe.pdf
- 第 3 章 特別史跡熊本城跡の概要 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji00319443/5_19443_138023_up_QGYVNCOB.pdf
- 熊本城は令和時代でも落とせない!? 城の専門家が語る加藤清正の選地の妙 | 宙畑 https://sorabatake.jp/22304/
- 加藤氏時代の熊本城下町 http://kumamoto-machinami-trust.org/wp-content/uploads/2018/07/HistoricCorridorCity-1.pdf
- No.020 「 熊本城はなぜ落ちなかったか 」 https://kumamoto.guide/look/terakoya/020.html
- 歴史 | 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
- ガイドさんと歩く、熊本城下町めぐり【古町編】 | 【公式】熊本県 ... https://kumamoto.guide/look/detail/366
- 定番から穴場まで、熊本市のおすすめ観光スポット8選 - みちくさガイド - 星野リゾート https://hoshinoresorts.com/jp/guide/area/kyushu/kumamoto-area/kumamoto/kanko-spot-8/
- 【熊本県熊本市】400年以上の歴史。加藤清正がつくった熊本城の町人町「古町」を散策する https://cbj.earth/towndiscovery/kumamoto_furumachi/
- 熊本城 宇土櫓 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/191383
- 熊本城 | 観光スポット | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。 https://kumamoto.guide/spots/detail/12303
- 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/
- 熊本城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E
- 築城した加藤清正公に負けた」とこぼしたそうです。 - 熊本城ボランティアガイド・面白倶楽部 http://omosiro.club/castle.html
- 加藤清正が見た熊本を歩く http://rekiaru.onishi-lab.jp/015.html
- 熊本城|驚きの9つの伝説を紹介! ! https://takato.stars.ne.jp/9.html
- 歴史まちづくり / 熊本市公式サイト https://www.city.kumamoto.jp/list04290.html
- 熊本城界隈・中心市街地 | モデルコース - 熊本市観光ガイド https://kumamoto-guide.jp/modelcourse/kumamoto-joukamachi.html
- 熊本城 |【熊本県公式】熊本県教育旅行サイト https://kumamoto.guide/shugaku/programs/detail/201