熊本城築城(1607)
加藤清正は1607年、肥後に熊本城を築城。戦国終焉の時代、統治困難な肥後を治めるため、蔚山での経験を活かし難攻不落の要塞を完成させた。城は清正の忠誠心と政治的メッセージを秘める。
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熊本城築城―戦国終焉のリアルポリティクスと加藤清正の戦略思想―
序章:なぜ肥後に巨大城郭は必要とされたのか
慶長12年(1607年)、肥後国に前代未聞の巨大城郭、熊本城が完成した 1 。この城の誕生は、単なる一武将による居城建設という事象に留まらない。それは、戦国乱世の終焉と、徳川幕藩体制という新たな支配秩序の確立が交差する、時代の転換点における政治的・軍事的必然の産物であった。熊本城の威容を理解するためには、まず、この城が築かれた肥後という土地が、いかに統治困難な場所であったかを直視せねばならない。
豊臣秀吉による九州平定後、この地は中央政権による「仕置」の最前線となった。しかし、その統治は決して平穏ではなかった。肥後には、古くから独立性の高い在地領主、いわゆる「国衆」が割拠しており、彼らは中央からの支配に対し、激しい抵抗を示した 2 。その反抗の炎が最も激しく燃え上がったのが、天正15年(1587年)の「肥後国衆一揆」である。この一揆は、秀吉から肥後一国を与えられた初代領主、佐々成政の失政に端を発する 3 。成政は性急な検地を強行し、国衆たちの誇りと既得権益を蹂躙した結果、大規模な反乱を招き、自らはその責任を問われて切腹に追い込まれた 3 。
この佐々成政の失敗は、後任者である加藤清正にとって、極めて重要な教訓となった。肥後という土地は、単なる武力による威圧だけでは統治できない。しかし同時に、国衆たちの反抗心を根底から断ち切るほどの、圧倒的な権威と統治能力を可視化する必要があった。ここに、巨大城郭建設の第一の動機が存在する。熊本城は、物理的な防御拠点であると同時に、肥後の国衆、さらには南に睨みを利かせる九州の雄・島津氏に対する「心理的威圧装置」として構想されたのである 6 。城の天を衝く天守、幾重にも連なる石垣、林立する櫓群は、すべてが加藤清正の支配の正当性と永続性を物語るための、雄弁な視覚的メッセージであった。それは、戦国の論理がまだ色濃く残るこの地において、新たな時代の到来を告げる、揺るぎない権力の象徴そのものであったのだ。
第一部:築城前夜 ― 加藤清正、肥後への道(1588年~1598年)
熊本城という壮大なプロジェクトは、加藤清正という一人の武将の経験と思想の結晶である。彼が肥後の地で巨大城郭を構想するに至るまでには、領主としての苦悩、そして異国の戦場で体験した壮絶な原体験が存在した。
第一章:宿命の地、肥後へ
天正16年(1588年)、佐々成政の失脚後、加藤清正は27歳の若さで肥後北半国19万5千石の領主として、隈本城(後の古城)に入城した 7 。これは、母方が豊臣秀吉の遠縁にあたるという縁故だけでなく、賤ヶ岳の戦いなどで示した武功と、秀吉子飼いの武将としての厚い信頼の証であった 10 。しかし、この栄誉は同時に、困難な統治の始まりを意味していた。
肥後は南北に分割され、南半国は同じく秀吉の腹心である小西行長に与えられた 11 。この分割統治は、当初から両者の間に深刻な緊張関係を内包していた。清正は武功を重んじる武断派の筆頭であり、熱心な法華宗徒であったのに対し、行長は堺の商人出身で算術に長けた頭脳派であり、キリシタン大名でもあった 11 。出自も信仰も、そして政治思想も正反対の二人は、事あるごとに対立し、「犬猿の仲」と評されるほどの関係となっていく 11 。このライバル関係は、肥後統治のみならず、後の豊臣政権の分裂、そして関ヶ原の戦いにおける彼らの政治的決断にまで、決定的な影響を及ぼすことになる。
このような複雑な政治状況下で、清正は領主としての第一歩を踏み出す。彼は隈本城に入城すると、天正18年(1590年)には早速城の改修に着手し、来るべき時代に備えた 9 。しかし、彼の目は城の中だけに向けられていたわけではない。長年の戦乱で荒廃した領国を立て直すため、彼は「土木の神様」と後に称されるほどの情熱を治水・利水事業に注ぎ込んだ 10 。白川や坪井川の堤防を築き、灌漑用水路を整備し、新田開発を推し進めた 10 。清正にとって、堅固な城を築くことと、豊かな国を作ること(富国安民)は、決して切り離すことのできない、領国経営の両輪であったのだ 13 。
第二章:蔚山の悪夢 ― 築城思想の原点
清正の築城思想を決定づけたのは、肥後での統治経験以上に、文禄・慶長の役(1592年~1598年)における朝鮮半島での壮絶な戦闘体験であった。特に、慶長の役で経験した蔚山(ウルサン)城での籠城戦は、彼の脳裏に生涯消えることのない「悪夢」として刻み込まれる 14 。
慶長2年(1597年)、清正は蔚山に急造した城で、数万の明・朝鮮連合軍による猛攻に晒された。援軍の当てもない異国の地で、城は完全に包囲され、やがて水と食料が尽きるという極限状況に陥った 15 。兵たちは飢えと渇きに苦しみ、雪を舐め、馬を殺してその血を啜ったと伝えられる。この地獄のような体験は、清正に城郭の最も重要な機能を骨の髄まで叩き込んだ。それは、いかにして長期間の籠城に耐え抜くか、という「継戦能力」の徹底的な追求であった。
日本の戦国時代の籠城戦は、数ヶ月単位が主であり、後詰(援軍)を期待することが前提であった。しかし、蔚山での経験は、援軍の保証なく、城単体で自給自足しながら戦い抜く能力こそが、城の生命線であることを清正に痛感させた。この教訓は、後の熊本城の設計に、具体的かつ執拗なまでに反映されることになる。城内に掘られた120箇所もの井戸、食料として植えられた銀杏の木、壁や畳に塗り込められたとされる干瓢や芋茎といった籠城食の備蓄、そして敵の侵入を許さない複雑怪奇な縄張り。これらすべては、蔚山の悪夢から生まれた、清正独自の築城思想の具現であった 6 。
さらに、この朝鮮出兵は、小西行長や石田三成ら文治派との対立を決定的にした。戦功を巡る讒言により、清正は秀吉の勘気を被り、一時的に帰国を命じられるなど、深い憎悪を彼らに対して抱くようになる 11 。この個人的な確執が、秀吉死後の豊臣政権の分裂を加速させ、清正を徳川家康へと接近させる大きな要因となっていくのである。
第二部:激動の時代と築城の胎動(1599年~1607年)
豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を一気に流動化させた。この激動の中で、加藤清正は自らの生き残りと領国の安寧を賭け、重大な決断を下す。その決断が、熊本城築城という巨大プロジェクトを本格的に始動させる原動力となった。
第三章:天下分け目の決断と肥後統一
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉が逝去すると、清正は朝鮮から帰国し、七年にも及ぶ戦役で疲弊した領国の再建に乗り出した 7 。彼は領民を慰撫するため、数年間の年貢や諸役を免除したと伝えられており、領国経営への強い意志が窺える 7 。しかし、中央政権の内部では、石田三成ら文治派と、清正ら武断派の対立が激化の一途をたどっていた。
朝鮮出兵以来の三成や小西行長への根深い憎悪から、清正は必然的に徳川家康へと接近していく 11 。慶長4年(1599年)には、家康の養女を正室に迎えるなど、その関係を強化した 17 。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。清正は家康率いる東軍に与したが、本戦には参加しなかった。その代わり、家康から事前に「肥後・筑後は実力で切り取次第、領有を認める」という約束を取り付け、九州を第二の戦場とした 3 。
清正は、西軍に与した宿敵・小西行長の領国へ侵攻し、その本拠である宇土城を攻略 19 。さらには立花宗茂の柳川城を開城させるなど、九州における東軍の勝利に絶大な貢献を果たした。この戦功により、戦後、清正は行長の旧領を併合し、肥後一国52万石(後に検地などで54万石となる)の大名へと躍進した 3 。
この肥後統一こそが、熊本城築城を本格化させる決定的な転換点であった。石高が倍以上に増加したことで、巨大城郭を建設するための揺るぎない財政基盤が確立された。また、旧小西領の家臣や領民を新たに支配下に置くにあたり、旧来の隈本城ではない、全く新しい支配体制の象徴としての新城が、政治的にも強く求められたのである。慶長6年(1601年)頃から築城が本格化したという記録は 5 、この政治的・経済的背景と完全に符合している。
第四章:グランドデザインの策定と普請の開始
肥後一国の大守となった清正は、長年温めてきた新城建設の構想を、ついに実行に移す。そのグランドデザインは、彼の武将として、そして領主としての経験のすべてが注ぎ込まれた、壮大なものであった。
立地選定: 新城の建設地として選ばれたのは、茶臼山と呼ばれた広大な台地であった 1 。この地は、古代から交通の要衝であり、周囲を川と崖に囲まれた天然の要害でもあった 6 。さらに、城の地盤である阿蘇山の火砕流が堆積した凝灰岩は、比較的柔らかく、広大な堀の掘削を容易にした 17 。
縄張り(設計): 清正は茶臼山の地形を最大限に活用した。北側から伸びる台地の先端に本丸を置き、北は深く掘り切って台地から切り離し、他の三方は崖とする。さらに、城の東を流れる坪井川の流路を大きく変え、南の白川、西の井芹川と共に城を三重に囲む天然の外堀とする、大規模な土木工事を敢行した 6 。自然の地形を人工的に改変し、理想的な防御空間を創出するこの手腕は、まさに「土木の神様」と称された清正の真骨頂であった 6 。
資源調達: 築城に不可欠な資源も、領内から厳選された。堅固な石垣を築くための石材は、金峰山系の輝石安山岩が選ばれた 21 。これはコンクリートの数倍の強度を持つとされる非常に硬質な岩石であり、加工は困難を極めたが、難攻不落の城を築くという清正の強い意志を反映している。櫓や御殿に使われる木材については、藩の管理下にあった阿蘇の小国杉など、良質な領内産木材が用いられたと推察される 24 。
労働力: これほどの巨大プロジェクトは、領民の多大な労働力(夫役)なしには成り立たない 27 。しかし、清正は領国経営への配慮から、慶長4年(1599年)の普請において、重臣に百姓の動員を禁止するよう指示を出している記録も残っており 17 、築城と民政のバランスを取ろうと腐心していた様子が窺える。
第五章:築城のリアルタイム・クロニクル(1599年~1607年)
熊本城の築城は、天下の情勢と密接に連動しながら、約8年という歳月をかけて進められた。その過程は、まさに時代の激動を映し出す鏡であった。以下の年表は、築城の進捗と当時の国内外の情勢を対比させ、そのリアルタイムな様相を浮き彫りにするものである。
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西暦 |
和暦 |
国内外の主要動向 |
加藤清正の動向・石高 |
熊本城における工事内容 |
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1588年 |
天正16年 |
- |
肥後北半国19万5千石の領主となり、隈本城に入城 7 |
隈本城(古城)の維持・管理 |
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1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉、天下統一 |
- |
隈本城の改修に着手 9 。「磊」(石垣)と堀の普請を指示 17 |
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1592年 |
文禄元年 |
文禄の役(朝鮮出兵)開始 |
第二軍として朝鮮へ渡航 7 |
築城工事は中断 29 |
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1598年 |
慶長3年 |
豊臣秀吉、逝去 |
朝鮮より帰国。領国再建に着手 7 |
- |
|
1599年 |
慶長4年 |
石田三成襲撃事件 |
家康の養女を娶る 17 |
茶臼山にて 新城の築城に着手 8 。昼夜兼行で普請が進められる 17 。高麗門周辺で「慶長四年」銘の瓦が出土 22 |
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1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い |
東軍に与し九州で西軍と交戦 |
戦乱の中、 大天守が完成 したとされる 8 。司令塔としての役割が急がれたか |
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1601年 |
慶長6年 |
- |
戦功により肥後一国52万石の大名となる 5 |
築城が本格化 。全領地からの資源・労働力を投入 |
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1602年~ |
慶長7年~ |
徳川家康、征夷大将軍に(1603年) |
領国経営(治水・検地)を推進 |
石垣普請が加速。近江より 穴太衆 を招聘し「武者返し」を構築 30 。櫓群(全49棟)、門(全47棟)の建設が進む 9 |
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1607年 |
慶長12年 |
- |
- |
熊本城、完成 。「隈本」を「熊本」に改称 1 |
この年表が示すように、築城は決して平穏な状況下で進められたわけではない。特に慶長4年(1599年)の着手は、秀吉死後の政情不安が頂点に達した時期であり、来るべき動乱に備えるという明確な軍事的意図があった。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの最中に大天守が完成したという事実は、この城が当初から実戦を強く意識した要塞であったことを物語っている。そして、肥後一国を領有した慶長6年(1601年)以降、プロジェクトは国家事業ともいえる規模に拡大し、清正が持つ築城技術と領国経営能力のすべてが注ぎ込まれ、完成へと向かっていくのである。
第三部:完成せし不落の要塞 ― その構造と意図
慶長12年(1607年)、約8年の歳月を経て完成した熊本城は、当時の日本の築城技術の粋を集めた、まさに難攻不落の巨大要塞であった。その複雑な構造の隅々には、蔚山の悪夢を乗り越え、戦国の世を生き抜いた加藤清正の徹底した防御思想と、複雑な政治的メッセージが込められていた。
第六章:徹底された防御思想の具現
熊本城の防御システムは、単一の防衛線ではなく、城郭から城下町に至るまで、多層的かつ立体的に構築されていた。
多層防御の空間構成: 城は、中心の本丸へ近づくにつれて防御が指数関数的に厳重になる「梯郭式」の縄張りを採用している 23 。城下町全体を囲む「惣構え」を第一の防衛線とし、その内部に三の丸、二の丸、そして中枢である本丸が同心円状に配置されている 33 。特に、比較的平坦で攻められやすい西側には、西出丸、二の丸、三の丸といった曲輪を重点的に配置し、弱点を補強している 23 。城内へ至る通路は、意図的に狭く、何度も直角に折れ曲がる「枡形」と呼ばれる構造になっている 33 。これは敵兵の突進力を削ぎ、渋滞を引き起こさせ、その混乱した集団を周囲の櫓や塀に設けられた狭間から側面攻撃(横矢)するための、極めて効果的な設計であった 6 。
建築物による防御: 城内に林立する49棟の櫓と47棟の門は、単なる建造物ではなく、すべてが殺傷能力を持つ戦闘施設であった 9 。櫓の壁には無数の「狭間」(鉄砲狭間・矢狭間)が穿たれ、石垣を登る敵の頭上には「石落とし」が口を開けていた 33 。さらに、小天守の石垣基部には「忍び返し」と呼ばれる鋭い鉄串が植え込まれ、忍者ですら侵入を阻むとされた 36 。本丸への正式な入り口の一つである「闇御門」は、全国的にも珍しい地下通路となっており、防御と儀式の両面で重要な役割を果たすとともに、敵の意表を突く構造であった 30 。
城下町との連携: 清正の防御思想は、城郭内だけに留まらなかった。彼が整備した城下町そのものが、城の巨大な外郭として機能するよう計画されていた 22 。武家屋敷は城の周囲を固めるように配置され、有事の際にはそれぞれが独立した防衛拠点となる 22 。街道筋の要所には「構口」と呼ばれる城門や辻番所が設けられ、平時から厳重な警備体制が敷かれていた 22 。このように、城と城下町が一体となった総力的な防衛システムこそが、熊本城を真に「難攻不落」たらしめていたのである。
第七章:石垣と建築に宿る魂
熊本城の物理的な強固さの根幹をなすのは、その象徴ともいえる石垣である。そして、城の中枢に設けられた一室には、清正の秘められた忠誠心が宿っていた。
武者返し(清正流石組): 熊本城の石垣は、通称「武者返し」と呼ばれる独特の形状を持つ 9 。地面付近は緩やかな勾配で登れそうに見えるが、上部に向かうにつれて垂直に近い角度で反り返り、いかなる屈強な兵も登攀を許さないことから、その名がついた 14 。この絶妙な「扇の勾配」を実現したのは、清正が近江から招聘した石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」であった 30 。彼らは、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」という高度な技術を有していた 40 。一見、無造作に積まれているように見えるが、石の重心を巧みに奥へ置き、石同士が噛み合うことで、地震の揺れを吸収・分散させる驚異的な構造的強度を持っていた 40 。その技術の高さは、400年の時を経た2016年の熊本地震において、明治期以降に修復された石垣の多くが崩落したのに対し、築城当初の穴太衆による石垣の多くが耐え抜いたことによって、図らずも証明されることとなった 37 。
「昭君之間」に込められた政治的メッセージ: 2008年に復元された本丸御殿の中心には、「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる、ひときわ豪華絢爛な一室がある 9 。その襖や壁には、中国前漢の悲劇の美女・王昭君の物語が描かれている。しかし、この部屋の真の名前は「将軍之間」の隠語であり、万一の際に豊臣秀吉の遺児・秀頼を徳川の追手から匿うために用意された、というのが通説である 9 。
この一室の存在は、加藤清正の極めて複雑な政治的立場を象徴している。彼は関ヶ原で家康に味方し、徳川政権下で52万石の大名としてその地位を確立した。熊本城の圧倒的な規模と堅牢さは、幕府から与えられた西国鎮護の役割を果たすという「公」の忠誠の表明であった。しかしその一方で、城の中枢に、謀反の意図とも受け取られかねない「昭君之間」を設けた。これは、清正が徳川の臣下であると同時に、幼き日より恩顧を受けた豊臣家への「私」の忠誠心を、決して捨てていなかったことの証左である。熊本城は、徳川体制下で生き抜くための現実的な判断と、滅びゆく主家への個人的な忠節という、相克する二つのベクトルが奇妙に同居する、清正の内心そのものを投影した建築物であったと解釈できる。
結論:戦国の終焉を告げる城
熊本城は、織田信長の安土城に始まる、高石垣、天守、瓦葺き、複雑な縄張りを特徴とする「織豊系城郭」の技術的・思想的な一つの集大成である 22 。それは、加藤清正という一人の武将が、賤ヶ岳の戦場を駆け、朝鮮の役で地獄を味わい、関ヶ原の政争を勝ち抜くという、戦国乱世のあらゆる局面で得た経験と教訓のすべてを注ぎ込んだ、知と力の結晶であった 16 。
特筆すべきは、この城が完成した慶長12年(1607年)という時期である。関ヶ原の戦いは終わり、大坂の陣まではまだ数年の猶予がある。まさに、長く続いた戦乱の時代が終わりを告げ、徳川による泰平の世が訪れようとする、その狭間にこの城は誕生した。結果として、熊本城はその堅牢さを実戦で証明する機会を、幕末の西南戦争まで待つことになる 1 。
したがって、熊本城は日本史上、実戦を想定して築かれた最後の本格的な巨大要塞の一つであり、その完成は一つの時代の終わりを象徴する出来事であったと言える。それは、もはや城が政治や戦闘の中心ではなくなる新たな時代への移行を告げる、戦国時代の終焉を飾る壮大なモニュメントなのである。
引用文献
- 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/
- No.110 「 清正入国以前の肥後 (肥後国衆一揆) 」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/110.html
- 加藤清正 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-kato/
- 【熊本城を巡る歴史旅】実は豊臣秀吉の親戚!?加藤清正と熊本城の関係 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181025-kumamoto-1/
- 0319熊本城 - 写真で見る日本の歴史 http://www.pict-history.com/archive/series03/19-kumamoto.htm
- 熊本城は令和時代でも落とせない!? 城の専門家が語る加藤清正の選 ... https://sorabatake.jp/22304/
- 加藤清正 公 - オールクマモト https://allkumamoto.com/history/load_kato_kiyomasa
- 熊本城的歷史 https://castle.kumamoto-guide.jp/tw/history/
- 歴史 | 【公式】熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/history/
- 肥後と加藤清正 | 【公式】熊本県観光サイト もっと ... - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/018.html
- 加藤清正は何をした人?「虎退治の豪傑は朝鮮出兵で勢い余って隣 ... https://busho.fun/person/kiyomasa-kato
- 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/04.html
- 加藤清正【第二章】シリーズ熊本偉人伝Vol.4 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/4
- 47 「加藤清正 VS 藤堂高虎」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/47.html
- 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
- 熊本城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/04/
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- 日本三名城の一つ「熊本城」の魅力に迫る。戦を想定した防衛機能は必見! | らくらく湯旅 https://onsen.community2.fmworld.net/articles/9409/
- 「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは | 中川政七商店の読みもの https://story.nakagawa-masashichi.jp/102328
- 熊本城再建で注目の穴太衆 織田信長も惚れた込んだ、その技術に迫る - 東和製作所 https://towa-seisakusho.com/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%86%8D%E5%BB%BA%E3%81%A7%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86%E3%80%80%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%83%9A%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%BE%BC/
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