甲州街道整備(1602)
徳川家康が天下統一後、甲州街道を整備。武田信玄の遺産を継承し、軍事・経済・文化の大動脈へ発展。大久保長安が八王子宿を築き、泰平の世を支えた道の物語。
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甲州街道整備(1602年)の総合的考察:戦国から泰平へ、徳川覇権を支えた道
序章:1602年、甲州街道整備の歴史的意義
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の歴史における一大転換点であった。この戦いに勝利した徳川家康は、事実上の天下人として、新たな国家体制の構築に乗り出す 1 。戦乱の世を終焉させ、恒久的な平和(泰平)を築くためには、武力による支配だけでなく、国全体を効率的に統治するための社会基盤、すなわちインフラストラクチャーの整備が不可欠であった。この時期に家康が着手した交通網の整備は、単なる利便性の追求を目的としたものではなく、徳川の軍事力と政治権力を日本の隅々にまで迅速かつ確実に行き渡らせるための、極めて戦略的な国家事業だったのである 2 。
徳川幕府は、慶長6年(1601年)の東海道への宿駅伝馬制度の導入を皮切りに、江戸の日本橋を起点とする五街道の整備を本格化させる 4 。その一環として、慶長7年(1602年)頃から本格的に整備が始まったのが甲州街道(甲州道中)である。しかし、この街道が持つ意味合いは、他の街道、特に経済の大動脈として栄えた東海道とは大きく異なっていた。甲州街道の整備計画の根底には、戦国の記憶が生々しく残る時代ならではの、色濃い軍事・戦略的意図が存在した。それは、万が一の有事に備えた将軍の避難路であり、江戸という徳川政権の中枢を守るための最終防衛線としての役割であった 6 。
さらに、この甲州街道整備という事業を深く理解するためには、それが全くの白紙から創造されたものではないという視点が不可欠である。その道筋、宿駅の概念、そして整備を支えた技術と思想の多くは、戦国時代、特に甲斐国を支配した武田信玄が築き上げた統治システムの継承、再構築、そして発展形であった。信玄が領国経営のために張り巡らせた道、兵站を支えた伝馬制、そして甲斐の自然を制御した治水技術は、徳川の世において形を変え、新たな国家の礎として再利用されたのである 9 。本報告書は、1602年の甲州街道整備を、戦国という時代の遺産(レガシー)が、いかにして江戸の泰平を支える基盤へと昇華していったのかを解き明かすことを目的とする。それは、一人の天下人が描いた壮大な国家構想と、それを支えた技術官僚たちの緻密な実行力の物語であり、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを象徴する事業の全貌を明らかにする試みである。
第一部:戦国の遺産 ― 武田信玄の領国経営と甲州街道の原型
徳川家康による甲州街道整備を理解する上で、その前提となる武田信玄の時代に遡ることは不可欠である。信玄の領国経営、特に交通網に関する政策は、後の甲州街道の物理的、そして制度的な基盤を形成した。信玄が甲斐国に築いた道と制度は、徳川幕府によって継承され、全国規模の統治システムへと昇華されることになる。
第一章:甲斐九筋と棒道 ― 軍事国家・武田の血管網
武田信玄の軍事戦略は、自国、甲斐を戦場とせず、積極的に他国へ侵攻して戦うことを基本としていた 9 。この外征戦略を支える生命線が、領国内に張り巡らされた道路網であった。信玄は、甲斐国から周辺諸国へ通じる九つの古道、通称「甲斐九筋(かいくすじ)」を戦略的に整備し、活用した 9 。
これらの道は、それぞれが明確な軍事目的を持って整備されていた。例えば、信濃(現在の長野県)攻略のために八ヶ岳山麓を貫いて造られた軍用路「棒道」は、その名の通り、棒のように直線的で、馬二頭が並んで疾走できるほどの道幅を持っていた 11 。山がちな甲斐・信濃の地形において、このような直線的な広路は、大部隊の迅速な展開を可能にし、武田軍の機動力を飛躍的に高めた。同様に、駿河(現在の静岡県)侵攻の際には、最短距離で両国を結ぶ「駿州往還(すんしゅうおうかん)」が軍事ルートとして重要な役割を果たした 9 。
領国の拡大に伴い、増大する軍勢の移動と膨大な兵糧・武具の輸送(兵站)を円滑に行うことは、信玄にとって最重要課題であった。山国である甲斐は、平野部と比べて物資の大量輸送に著しい困難を伴う 12 。この弱点を克服するために、信玄は画期的な兵站システムを創始した。それが、宿駅(宿場)を中継拠点とし、荷物をリレー方式で次々と輸送する「伝馬制」である 9 。信玄が発行した伝馬朱印状は、この制度が彼の統治下で確立されていたことを示す動かぬ証拠である。この伝馬制は、後の徳川幕府が全国の街道に整備した宿駅伝馬制度の直接的な原型となり、信玄の先見性を示す好例と言える 5 。
第二章:信玄堤と領国経営 ― 道が支えた経済と民政
信玄の領国経営は、軍事一辺倒ではなかった。彼は、甲斐国の経済的発展と民生の安定にも腐心した名君であった。その象徴が、釜無川の治水事業として名高い「信玄堤」である 11 。度重なる水害から領民と農地を守るためのこの大規模な土木事業は、単なる堤防の建設に留まらなかった。
信玄は、完成した堤防を恒久的に維持管理するための社会システムをも同時に構築した。永禄3年(1560年)、彼は信玄堤のほとりに居住者を募る朱印状を発給し、移住者には諸役(税金や労役)をすべて免除するという破格の特権を与えた 14 。これにより人々が集まり、堤防の維持管理を担う新たなコミュニティ「龍王河原宿」が形成された。これは、インフラ整備と地域社会の形成を一体のものとして捉える、極めて高度な統治思想の表れである。
さらに信玄は、堤防の維持管理の責任を、その恩恵を受ける釜無川流域の村々にも課した 14 。この「受益者負担」の原則は、共同体の利益は共同体で守るという思想に基づいている。この考え方は、江戸時代に宿場の負担を周辺の村々が分担した「助郷(すけごう)制度」にも通底するものであり、信玄の民政思想が後世に与えた影響の大きさを示唆している。道が軍事と経済の動脈であるならば、それを支える宿場や村落は、国家を構成する細胞であった。信玄は、その細胞の一つ一つを活性化させることで、強固な国家を築き上げたのである。
徳川家康が甲州街道を整備するにあたり、彼が参照したのは、単に物理的な道の存在だけではなかった。家康は、武田氏滅亡後にその遺臣を積極的に登用し、甲州金や甲州枡といった武田の優れた制度(武田遺制)をそのまま継承したことが知られている 15 。甲州街道整備の実務責任者であり、後に詳述する大久保長安もまた、元は武田家に仕えた人物であった 17 。これらの事実を繋ぎ合わせると、甲州街道の整備とそれに付随する宿駅制度は、徳川による全く新しい発明ではなく、戦国時代に軍事・経済目的で開発され、その有効性が実証された統治システムを、全国支配という新たなスケールで応用・標準化したものと結論付けられる。これは、家康が敵将であった信玄の卓越した統治能力を深く理解し、その「無形の遺産」を自らの覇権確立のために戦略的に利用したことを物語っている。
第二部:天下人の深謀 ― 徳川家康のグランドデザインと甲斐国の戦略的位置づけ
関ヶ原の戦いを経て、徳川家康は日本の新たな支配者として、その権力を盤石にするための国家構想を描き始めた。その中で、甲斐国とそこを貫く道は、極めて重要な戦略的要素として位置づけられた。甲州街道の整備は、単なる地方の交通路の改善ではなく、江戸を中心とした徳川の軍事防衛網を完成させるための、壮大なグランドデザインの一部であった。
第一章:「江戸の西門」としての甲斐
甲斐国は、その地理的条件から、古来より戦略的な要衝であった。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、甲斐は主を失い、徳川、豊臣(当時は羽柴)、北条という三大勢力がその領有を巡って激しく争う最前線の地となった 15 。最終的に甲斐を手中に収めた家康にとって、この地は自らの本国である三河・遠江・駿河に隣接し、新たに関東を支配する上での西の守りを固めるために不可欠な拠点であった 19 。
関ヶ原の戦いの勝利により、この状況は決定的なものとなる。甲斐国は徳川の直轄領(天領)となり、その周辺には親藩や譜代大名が配置された 21 。これにより、甲斐から江戸に至る一帯は、徳川の絶対的な支配下に置かれることになった。これは、甲州街道という一本の道を、幕府の意のままに整備し、管理するための政治的・軍事的な環境が完全に整ったことを意味していた。甲斐は、もはや国境の係争地ではなく、徳川の心臓部である江戸を守るための強固な「西門」としての役割を担うことになったのである。
第二章:甲府城 ― 将軍の最終防衛線
甲州街道整備の目的を解き明かす上で、最も重要な鍵となるのが、その終着点である甲府城の存在である。複数の記録が示すように、甲州街道整備の最大の目的の一つは、平時における物流や連絡のためではなく、有事を想定したものであった。すなわち、万が一、江戸城が敵の攻撃によって陥落、あるいはその危機に瀕した場合に、将軍が安全に避難するための「脱走路」を確保することにあった 6 。
そして、江戸を脱出した将軍が籠城し、態勢を立て直して反撃に転じるための最終拠点こそが、甲府城だったのである 23 。皮肉なことに、甲府城は元々、天下統一を果たした豊臣秀吉が、関東の家康を牽制・包囲するための戦略拠点として築城を命じたものであった 9 。しかし、徳川の世が到来すると、その戦略的価値は180度転換する。かつて家康に向けられた矛は、今や家康自身が江戸を守るための最強の盾となった。甲府城は、江戸の西側からの侵攻を防ぐ前線基地であると同時に、将軍家の最後の砦、すなわち「後詰めの城」という二重の極めて重要な役割を担うことになったのである 23 。このため、甲府城は堅固な石垣と堀、鉄板で防御を固めた門などを備え、高い防御機能を持つ城として維持された 26 。
この戦略は、幕末に至るまで徳川幕府の基本戦略として生き続けた。鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍が、新政府軍に先んじて甲府城を確保しようとしたのは、この城が持つ戦略的重要性を熟知していたからに他ならない 23 。
第三章:五街道構想と甲州街道の特殊性
家康は、江戸の日本橋を起点として全国に伸びる五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)の整備を、徳川による全国支配体制を確立するための根幹事業と位置づけていた 1 。これらの道は、人、物、情報、そして軍隊を迅速に移動させることで、中央集権体制を支える血管網の役割を果たした。
しかし、その中で甲州街道は極めて特殊な性格を持っていた。以下の表1が示すように、他の主要街道、特に東海道や中山道が、多くの大名の参勤交代や活発な商業活動で賑わったのに対し、甲州街道は際立ってその利用が少なかった。
【表1】五街道の比較概要
項目 |
甲州街道 |
東海道 |
中山道 |
日光街道 |
奥州街道 |
起点・終点 |
日本橋~下諏訪 |
日本橋~京都三条大橋 |
日本橋~草津 |
日本橋~日光 |
日本橋~白河 |
総距離 |
約209km 8 |
約492km |
約534km |
約145km |
約184km |
宿場数 |
45宿 8 |
53宿 |
69宿 |
21宿 |
27宿 |
主な役割 |
江戸の軍事防衛、将軍避難路 6 |
経済の大動脈、参勤交代 |
経済、参勤交代(姫街道) |
日光東照宮参詣 |
東北地方支配 |
参勤交代利用大名数 |
3藩 8 |
140藩以上 |
約30藩 |
- |
- |
常備人馬数(基準) |
25人25疋 27 |
100人100疋 |
50人50疋 |
25人25疋 |
25人25疋 |
この表から明らかなように、参勤交代で甲州街道を利用した大名は、信濃の高遠藩、高島藩、飯田藩のわずか3藩に過ぎなかった 8 。常備すべき人馬の数も、東海道の4分の1であり、公的な交通量が著しく少なかったことを示している 27 。
この事実は、甲州街道の性格が、徹頭徹尾、軍事・防衛に特化していたことを裏付けている。その思想は、街道の物理的な構造にも色濃く反映されていた。宿場町の出入り口や甲府城下には、敵の侵攻速度を削ぎ、見通しを悪くするために、道を意図的に直角に曲げた「枡形(ますがた)」と呼ばれる構造が随所に設けられた 28 。また、江戸への最終的な入り口である四谷には「四谷大木戸」が設置され、江戸に出入りする人や物資が厳しく監視された 27 。
第一部で見た信玄時代の甲斐の道が、甲府を起点に信濃や駿河へ向かう「外向き」の侵攻路であったのに対し、家康が整備した甲州街道は、江戸を起点に甲府へ向かう「内向き」の避難路としての性格が最優先された。この道の「ベクトル」の劇的な逆転は、時代の支配者の立場と戦略思想の根本的な違いを浮き彫りにする。領土拡張を目指す地方の覇者であった信玄にとって、道は敵国を突く「矛」であった。一方、全国の頂点に立ち、中央の拠点をいかに維持するかを考えた天下人・家康にとって、道は自らを守る「盾」であり、最後の「逃げ道」であった。甲州街道の整備は、単なるインフラの更新ではなく、戦国時代の「攻め」の思想から、江戸時代の「守り」の思想へと、国家の戦略パラダイムが完全に転換したことを象徴する、歴史的な事業だったのである。
第三部:実行者たちのリアルタイム ― 大久保長安と八王子のまちづくり
徳川家康が描いた壮大な国家構想は、有能な実務官僚たちの手によって初めて現実のものとなる。甲州街道整備において、その中心的役割を担ったのが、関東代官頭・大久保長安であった。特に彼が手掛けた八王子宿の建設は、街道整備が単なる道路工事に留まらず、都市計画、治水、防衛、経済振興を包含する総合的な「まちづくり」であったことを示す格好の事例である。ここでは、構想が現場でいかに具現化されていったのかを、リアルタイムの視点で追跡する。
第一章:元武田家臣、大久保長安という男
大久保長安(1545年~1613年)は、その出自と経歴において異色の存在であった。元は甲斐武田家に仕え、信玄お抱えの猿楽師であったとも伝えられるが、その一方で鉱山経営、検地、治水、そして兵站管理といった内政実務に卓越した手腕を持つ、当時としては稀有なテクノクラート(技術官僚)であった 18 。
武田氏滅亡後、家康はその非凡な才能を見抜き、自らの家臣として召し抱えた 17 。天正18年(1590年)に家康が関東へ入府すると、長安は関東代官頭という要職に抜擢される。彼の任務は、広大な幕府直轄領(天領)を統治し、検地や新田開発を通じて、まだ脆弱であった徳川家の財政基盤を確立することであった 34 。武田家で培われた内政手腕は、新たな主君の下で、関東一円というさらに広大な舞台で発揮されることになった。
第二章:八王子宿の建設 ― 甲州街道整備のモデルケース
長安に与えられた重要な任務の一つが、甲州街道の要衝である八王子の再建であった。かつてこの地にあった北条氏の八王子城は、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城し、城下町は廃墟と化していた 20 。長安は、防御には優れるが不便な山城を放棄し、東方の平地に新たな宿場町を建設するという、大胆な都市計画を立案し、実行に移した 20 。これは、単に宿場を移転させるというレベルの話ではなく、近世的な都市をゼロから創造する試みであった 35 。
その計画は、極めて総合的かつ緻密なものであった。
- 道路設計と都市区画 : 長安は「山当て法」と呼ばれる測量技術を用い、遠方の山を目印にして、町の中心を貫く見通しの良い直線的な幹線道路、すなわち甲州街道を敷設した 20 。道幅は9間(約16.2メートル)と当時としては非常に広く取られ、その両側には間口と奥行きが規格化された町屋が計画的に配置された 20 。
- 大規模な治水事業 : 新たな町の建設地は、頻繁に氾濫を繰り返す浅川の流域にあった。長安は、領民からの聞き取り調査に基づき 39 、大規模な堤防を築いた。この堤防は、彼の官途名「石見守」にちなんで「石見土手」と呼ばれている 35 。さらに、川の流れを意図的に合流させる「瀬替え」や、洪水を一時的に貯留する遊水地を伴う「霞堤」といった、当時最先端の土木技術を駆使して水害を克服した 33 。
- 防衛機能の組み込み : 町の中心部には、統治の拠点となる代官陣屋が設けられた 20 。そして、その西側、すなわち甲斐・甲府方面からの玄関口にあたる場所には、旧武田遺臣を中心に組織された郷士集団「八王子千人同心」の屋敷が集中的に配置された 17 。彼らは平時には農業に従事しつつ、有事には江戸の西の守りを固める重要な軍事力とされた 29 。
- 生活インフラの整備 : 長安は、住民の生活基盤の整備も怠らなかった。街道の中央には18本もの井戸が掘られ、生活用水を確保するとともに、用水路を流して衛生環境の向上にも努めた 20 。
このように、大久保長安が八王子で実践したのは、単なる「線」としての道路工事ではなかった。それは、街道という「線」を軸に、宿場町という「面」、治水という「面」、そして防衛体制という「面」を統合した、立体的な社会基盤構築プロジェクトであった。道がその機能を最大限に発揮するためには、その結節点である宿場が経済的に自立し、安全でなければならない。長安は、道を引くだけでなく、その道によって繁栄する「社会」そのものをデザインしていたのである。彼の事業には、戦国時代の城下町建設で培われた防衛思想と、近世的な民政・経済振興の視点が見事に融合していた。
第三章:一里塚の設置と街道の標準化
長安の功績は、八王子という一都市の建設に留まらない。彼は、全国的な交通網の整備に不可欠な「標準化」という概念を導入した。その代表例が、街道に一里(約3.9キロメートル)ごとに土を盛り、木を植えた「一里塚」の設置である 35 。
一里塚は、旅人にとっては行程の目安となり、馬や人足の交代時期を知らせる重要な目印となった。これにより、旅行や物資輸送の計画性が格段に向上し、交通の近代化に大きく貢献した。さらに重要なのは、長安が「1里=36町」「1町=60間」「1間=6尺」といった、今日まで続く距離の単位(度量衡)を統一した人物であるという点である 32 。全国に街道を整備するという壮大な事業は、こうした地道な「標準化」の努力があって初めて可能となった。大久保長安は、家康の構想を現実の形にする上で、まさに不可欠な頭脳であり、実行者であった。
第四部:制度の確立 ― 宿駅伝馬制度の光と影
甲州街道という物理的なインフラ(ハードウェア)が整備された後、それを円滑に運用するための制度的な仕組み(ソフトウェア)が確立された。それが、幕府の公用交通を支える宿駅伝馬制度である。この制度は、極めて効率的に機能した一方で、その運営コストは地域社会、特に農村部に重い負担を強いることになった。ここでは、その制度の光と影の両面に迫る。
第一章:宿場の機能と構造
街道沿いに設けられた宿場(宿駅)は、幕府の公的な通信・輸送網の中核を担う拠点であった。その主な役割は、幕府の朱印状を持つ公用の使者や荷物を、人馬を交代させながら次の宿場までリレー形式で運ぶ「継ぎ立て」を行うことであった 4 。各宿場には、この業務を遂行するための専門的な施設と役人が置かれていた。
- 問屋場(といやば) : 宿場の運営における心臓部であり、人馬の継ぎ立て業務を統括する事務所であった 43 。ここでは、宿場の最高責任者である「問屋」(多くは村の名主など地域の有力者が務めた)の指揮の下、「年寄」が補佐役を、「帳付」が事務や会計を担当し、日々の業務を処理した 44 。
- 本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん) : 大名や公家、幕府の高級役人といった、身分の高い人々が宿泊、または休憩するための特別な施設であった 45 。特に、参勤交代の大名が宿泊する本陣は、その滞在中、当該大名家の治める領域と見なされるほどの格式を持っていた 44 。脇本陣は、本陣に宿泊できない場合や、大名の家臣団が利用するための予備的な施設であった 45 。
- 常備人馬数 : 幕府は、街道の重要度に応じて、各宿場が常に用意しておくべき人足と馬の数(常備人馬数)を定めていた。経済と軍事の最重要路線であった東海道が各宿100人100疋(ひき)、それに次ぐ中山道が50人50疋であったのに対し、甲州街道をはじめとする他の三街道は、原則として25人25疋が基準とされた 27 。この数は、甲州街道の公的な交通量が比較的少なかったことを物語っている。
第二章:助郷制度の導入とその負担
宿場が常備する人馬の数は、あくまで平時の需要を基準としたものであった。そのため、参勤交代の大規模な大名行列が通過する際や、公用の往来が集中した際には、宿場の人馬だけでは到底対応しきれなくなる事態が頻発した 46 。
この不足分を強制的に補わせるために導入されたのが、「助郷(すけごう)制度」である。これは、宿場周辺の農村を「助郷村」として指定し、宿場からの要請に応じて人馬を提供する義務を課すものであった 47 。この制度は、幕府の公用交通を維持するためには不可欠であったが、指定された農村にとっては極めて過酷な負担となった。
助郷役は、無償、あるいは幕府が定めた非常に安い公定賃金(御定賃銭)での奉仕であり、実質的な経済的損失を伴った 49 。特に、田植えや収穫といった農繁期に動員がかかると、村の農業生産は深刻な打撃を受けた 50 。記録によれば、村の年間支出の4割から5割が助郷関連の費用で占められることもあり、多くの農村がこの重圧によって疲弊していった 49 。この過重な負担は、宿場と助郷村の間、あるいは助郷村同士での深刻な対立や紛争を引き起こす原因ともなった 48 。
宿駅伝馬制度は、幕府という中央権力がその目的を効率的に達成するために設計した、非常に合理的なシステムであった。しかし、その運営コスト、特に需要の変動に対応するための負担は、最終的に最も弱い立場にある農村に転嫁されていた。徳川の泰平と、それを支える交通網の円滑な機能という「光」の部分は、農村の犠牲という「影」の部分によって成り立っていたのである。この制度の分析は、徳川の支配体制が、中央の都合を地方、特に農村に強いることで維持された、非対称な権力構造の産物であったことを明らかにしている。
第三章:宿場の成立と発展の時系列
甲州街道の宿場は、街道整備と同時に一斉に成立したわけではなく、時代の要請に応じて段階的に形成・発展していった。
当初、江戸の日本橋を出発して最初の宿場は高井戸宿(現在の下高井戸・上高井戸)であったが、日本橋からの距離が約15キロメートルと遠く、旅人にとっては大きな負担となっていた 51 。この不便を解消するため、元禄12年(1699年)、浅草の町人であった高松喜兵衛らの幕府への度重なる請願が実を結び、信濃高遠藩内藤家の下屋敷があった土地の一部を収用して、新たな宿場が設けられた 51 。これが「新しい宿」という意味を込めて名付けられた「内藤新宿」であり、五街道の中で最も遅く成立した宿場であった 51 。
内藤新宿は、単なる宿場としてだけでなく、江戸の新たな行楽地・歓楽街として開発された側面も持っていた 53 。多くの旅籠は「飯盛女」と呼ばれる実質的な遊女を置き、「岡場所」と呼ばれる非公認の遊郭としても大いに賑わった 53 。しかし、その繁栄は風紀の乱れを招き、8代将軍吉宗による享保の改革において風紀取締りの対象となる。そして享保3年(1718年)、開設からわずか20年足らずで、幕府により宿場機能が廃止されてしまう 52 。
しかし、その後、他の主要街道で公用交通量が増大し、品川や板橋といった既存の宿場の財政が逼迫する中で、甲州街道の交通を分担させる必要性が再認識されるようになった 53 。地元からの粘り強い再興運動の結果、明和9年(1772年)、内藤新宿は実に54年ぶりに宿場として復活を遂げたのである 3 。この一連の経緯は、宿場が幕府の統制と庶民のエネルギーがせめぎ合う、ダイナミックな社会空間であったことを示している。
第五部:泰平の世の変容 ― 軍用路から経済・文化の大動脈へ
江戸幕府による統治が安定し、二百数十年にわたる泰平の世が訪れると、当初は純粋な軍事・防衛目的で整備された甲州街道も、その役割を大きく変容させていった。戦国の緊張感を色濃く残した道は、次第に人々の生活を支える経済の道へ、そして信仰や文化が交流する賑わいの道へと姿を変えていく。
第一章:物流路としての発展
江戸時代の中後期になると、甲州街道の軍事的重要性が相対的に低下する一方で、経済的な重要性が飛躍的に高まった。甲州(山梨県)や信州(長野県)の豊かな産物が、この道を通って人口100万人を超える大消費地・江戸へと運ばれるようになり、街道は江戸の台所を支える重要な物流路となったのである 22 。
甲州街道を運ばれた主要な産物としては、まず甲州ブドウに代表される果物類が挙げられる。勝沼周辺で栽培されるブドウやモモ、柿などの「甲州八珍果」は、江戸の食卓を彩る高級品として珍重された 28 。また、甲斐の郡内地域で生産される高品質な絹織物「郡内縞」も、江戸の庶民の間で人気を博した特産品であった 22 。
山がちで大規模な河川輸送が困難な甲斐国では、古くから牛や馬を用いた陸上輸送が輸送手段の主役であった 57 。江戸時代に入り街道が整備されると、「伝馬」や「中馬(ちゅうま)」と呼ばれる輸送業者が活躍し、街道は物資を運ぶ牛馬で賑わった。特に、身延道や信州道との分岐点にあたる交通の要衝・韮崎宿には、三十軒以上もの馬宿が軒を連ね、物流の一大拠点として繁栄した 57 。
第二章:人の往来と文化の交流
物流の活発化とともに、街道を往来する人々の種類も多様化していった。
幕府の公用としては、毎年春になると、将軍家御用達の宇治茶を詰めた茶壺を江戸まで運ぶ「お茶壺道中」の大行列が甲州街道を通行した 22 。これは、街道の権威を象徴する一大イベントであり、沿道の宿場に大きな賑わいをもたらした。また、甲府城の警備を担う「甲府勤番」の武士たちや、江戸の西の守りである「八王子千人同心」も、この道を利用して江戸と任地を往復した 28 。
一方で、庶民の旅も活発になった。特に江戸の町人の間で爆発的な人気を誇ったのが、富士山への集団参詣である「富士講」であった 22 。白装束に身を包んだ多くの信者たちが、富士山を目指して甲州街道を西へ向かった。また、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺への参詣の道としても、甲州街道は重要な役割を果たした 59 。
このように、武士、商人、職人、農民、そして巡礼者といった、多種多様な人々が街道を行き交うようになると、そこは文化交流の舞台となった。江戸の最新の文化や情報が地方へともたらされる一方、地方の素朴な文化や芸能が旅人を通じて江戸へと伝播した 28 。街道沿いの宿場では、旅人をもてなすための独自の娯楽や芸能が育まれ、今なおその痕跡を各地に留めている。かつて将軍の避難路として静かに整備された道は、泰平の世の到来とともに、日本の経済と文化を支える活気あふれる大動脈へと生まれ変わったのである。
終章:甲州街道が後世に遺したもの
慶長7年(1602年)を起点とする甲州街道の整備事業は、日本の歴史において重要な意義を持つ。それは、戦国時代の軍事合理主義と統治技術を、江戸の泰平という新たな時代を支える社会基盤へと巧みに昇華させた、画期的な国家プロジェクトであった。当初は、江戸城の危機に備えた将軍の避難路という、極めて特殊な軍事目的を持って計画されたこの道は、徳川幕府の長期安定と中央集権体制の確立に不可欠な役割を果たした。
この事業の成功は、武田信玄が遺した道や伝馬制といった「戦国の遺産」を的確に評価し、それを国家規模で再構築した徳川家康の構想力と、大久保長安に代表される、旧時代のノウハウと近世的な合理性を兼ね備えた実務官僚たちの実行力とが、見事に噛み合った結果であった。街道の整備は、単なる「線」の工事ではなく、宿場町という「面」の都市計画、治水、防衛、経済振興を一体とした総合的な社会基盤構築であり、徳川の支配体制を地域レベルで具現化するプロセスそのものであった。
時代が下り、天下泰平の世が定着すると、甲州街道はその役割を大きく変容させた。軍用路としての緊張感は薄れ、甲州・信州の産物を江戸に運ぶ物流の大動脈として、また、富士講や身延詣の信者が行き交う信仰の道として、多くの人々の生活と文化を支える存在となった。この変容の過程は、インフラが時代の要請に応じてその機能を柔軟に変化させていくダイナミズムを如実に示している。
甲州街道が後世に遺したものは大きい。その主要なルートは、驚くべきことに、今日の国道20号線にほぼそのまま継承されており 22 、江戸時代に築かれた国土の骨格が、現代日本の交通網の基礎を形成していることを示している。そして、街道沿いに今なお点在する一里塚の跡、往時の面影を留める宿場の町並み、そして数少なくなった本陣の建物は、単なる観光地ではない 57 。それらは、戦国から江戸へ、そして近代へと続く日本の歴史の連続性とダイナミズムを、私たちに静かに語りかける貴重な歴史遺産なのである。甲州街道を辿ることは、徳川三百年の平和の礎が、いかにして築かれたのかを体感する旅に他ならない。
【表2】甲州街道整備に関する主要年表
年代 |
主な出来事 |
関連情報 |
永禄3年 (1560) |
武田信玄、信玄堤脇に龍王河原宿を設置 |
治水事業と宿駅形成の連動 14 |
天正10年 (1582) |
武田氏滅亡、甲斐が徳川家康の所領となる |
甲斐国の戦略的重要性が高まる 15 |
天正18年 (1590) |
徳川家康の関東入府、大久保長安が関東代官頭に就任 |
八王子の新たなまちづくりが開始される 34 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い |
徳川による全国支配体制が事実上確立 1 |
慶長6年 (1601) |
幕府、東海道に宿駅伝馬制度を定める |
五街道整備の本格的な始まり 5 |
慶長7年 (1602) |
甲州街道の整備、宿駅設置が本格化 |
本報告書の中心事象 |
慶長8年 (1603) |
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府 |
徳川による統治体制が名実ともに始まる |
元和2年 (1616) |
四谷大木戸の設置 |
江戸の防衛機能がさらに強化される 27 |
元禄12年 (1699) |
内藤新宿の開設 |
街道機能の拡充と江戸の西の玄関口の形成 51 |
享保3年 (1718) |
内藤新宿、一時廃止 |
風紀問題と享保の改革による幕府の統制強化 53 |
明和9年 (1772) |
内藤新宿、再興 |
交通需要の増大と経済的要請による復活 3 |
引用文献
- 甲州街道とは | ちょっと寄り道・甲州街道ひとり旅 https://koshu.toma-m.com/about.html
- 大名行列が通った道 : 五街道と脇往還 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08604/
- 五街道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93
- 歴史3 近世 https://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi3.html
- 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-01-01.htm
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- 甲州街道~江戸城からはじまる守りの道 - BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/kaidou/archives/120223.html
- 日本橋五街道とは?歴史や各街道の特徴を解説します! https://tone-to-nihonbashi.com/nihonbashi-gokaidou/
- 山梨を拓く甲州街道とともに https://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/koshu/
- 武田信玄|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1171
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- 戦国の名将・武田信玄の偉業‼ 領民のために考案した「信玄堤」 甲斐の領国経営 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/16102
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- 甲府市 - 出世の街 浜松|ゆかりの地めぐり https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/yukari/detail.html?p=1773
- 【取材記事】没後410年!八王子のまちの基礎を築いた「代官頭・大久保長安」 - 町田 https://shopper-news.com/2023/04/20/ookubo-802/
- 大久保長安陣屋跡 - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-d87a.html
- 信玄公が愛した山梨に残る徳川家康の足跡 #3 右左口宿を歩く https://www.yamanashi-kankou.jp/special/shingen_ieyasu_ubaguchi.html
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- 《甲州街道》整備の目的は将軍の身が危ぶまれた際の脱走路!?|浮世絵からひも解く、五街道と地域文化 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148788
- 明治維新150周年企画 【甲府城】新撰組の宴が敗因?!無血開城した要の城 https://shirobito.jp/article/281
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- 甲府城に関する史料 https://www.nns.ne.jp/~minagawa/kofujyo3.html
- 桜の名所、甲府城〜武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康。甲斐の国と城は名将と共に - 週末はじめました。 https://www.ritocamp.com/entry/31
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- 中山道の宿場町を巡っちゃう?(下調べ編)|ソロ活女子 - note https://note.com/solokatsu_502100/n/nf7cd0ccc0a12
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- 「五街道」とは?江戸時代に整備された陸上交通路をかんたんに解説! | ノミチ https://nomichi.me/gokaido/
- 特集 Vol.3 ブドウで栄えた大規模な宿場町「勝沼宿」を旅する - 国土交通省 地方運輸局 https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/kankou/kankou/edokaidoportal/feature/vol_03/index.html
- 【甲州街道】山梨の古道巡りで江戸時代を体感する癒やしの旅 - 富士眺望の湯 ゆらり https://www.fuji-yurari.jp/recommend-info/old-road-kosyu-kaido.html
- 甲州街道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/koshukaido/
- 甲州道中(甲州街道)【五街道】 | 街道なう https://kaido-now.com/kaido/koshukaido/