最終更新日 2025-10-05

白須賀宿整備(1601)

慶長六年、徳川家康は東海道の難所・潮見坂の麓に白須賀宿を整備。これは関ヶ原直後の天下統一事業の一環で、交通の安定化と支配体制の強化が目的であった。
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白須賀宿整備(1601年)の総合的分析:戦国終焉と天下統一を象徴するインフラ戦略

序章:天下分け目の直後 – 慶長六年(1601年)の日本

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原における激闘は、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この「天下分け目」の一戦は、豊臣政権内部の対立に終止符を打ち、家康が次代の覇者であることを天下に知らしめる決定的な出来事であった。しかし、この勝利が即座に徳川による安泰な支配を意味したわけではない。むしろ、慶長六年(1601年)の日本は、戦いの煙が未だ燻り続ける、薄氷を踏むような緊張感の中にあった。

関ヶ原の戦勝後、家康は石田三成をはじめとする西軍首脳を処刑し、毛利輝元や上杉景勝といった大名には大幅な減封を、島津義弘には厳しい詰問を行うなど、苛烈な戦後処理に着手した。西軍に与した大名の多くが改易・減封の憂き目に遭い、その旧領には家康子飼いの譜代大名や、東軍として功績のあった外様大名が配置された 1 。これは、力による秩序の再編成であり、徳川の威光を示すものであった。しかし、豊臣秀頼は依然として母・淀殿とともに巨城・大坂城にあり、摂津・河内・和泉の三国にまたがる広大な蔵入地を保持し続けていた。豊臣家恩顧の大名も西国を中心に数多く残存しており、彼らが再び豊臣の下に結集する可能性は、決してゼロではなかった 2

このような状況下で、地方の治安は極めて不安定であった。例えば、合戦直後の近江国では、戦乱が自村に及ぶことを恐れた村々が、軍資金の提供と引き換えに家康から「禁制」(不可侵の保証)を得ようと接近する動きが見られた 3 。これは、徳川の支配がまだ末端まで完全には浸透しておらず、民衆レベルでは自衛の意識が強く働いていたことの証左に他ならない。家康の覇権は確立されつつあったが、それは未だ脆弱な基盤の上に立つものであり、一つの失策が新たな動乱の火種となりかねない危険性をはらんでいた。

この武力による制圧と並行して、家康は法と制度による恒久的な支配体制、すなわち「幕藩体制」の構築へと、国家運営の舵を切り始めていた 4 。この武断政治から文治政治への移行期において、物理的なインフラストラクチャーの整備は、新たな秩序を全国に可視化し、浸透させるための極めて重要な手段であった。そして、その最優先課題として着手されたのが、日本の大動脈である東海道の交通網整備であった。

特筆すべきは、その驚くべき迅速性である。東海道の宿駅伝馬制度の制定が布告されたのは、関ヶ原の戦いからわずか四ヶ月後の慶長六年(1601年)正月であった 6 。これは単なる公共事業ではない。豊臣家が健在である大坂、そして未だ服従の度合いが浅い西国大名への監視と牽制、さらには有事の際の迅速な情報伝達と軍事展開能力を確保するための、極めて高度な政治的・軍事的判断が背後にあった。江戸と京・大坂を結ぶ最重要幹線を完全に掌握することは、家康にとって自らの支配体制の生命線を確保することと同義だったのである。この迅速さは、家康の卓越した危機管理意識と、天下人として日本を統治する強い意志の表れであった。「白須賀宿整備」という一見すると地方的な出来事は、まさにこの天下統一事業の最前線で、新たな時代の礎を築くために行われた、戦略的な一手だったのである。

第一章:国家の動脈を掌握せよ – 徳川家康の交通政策と東海道

徳川家康が慶長六年に断行した東海道宿駅伝馬制度の整備は、日本の交通政策史における画期的な出来事であった。それは、過去の制度を継承しつつも、その目的と規模において全く新しい次元を目指すものであり、徳川による全国支配の根幹をなす壮大な国家構想の一環であった。

伝馬制度の歴史的変遷

日本の公的交通制度の起源は、七世紀後半から八世紀初頭にかけて成立した律令国家の「駅伝制」にまで遡ることができる 8 。これは、中央(都)と地方の国府を結ぶ官道に約三十里(約16 km)ごとに「駅家(うまや)」を設置し、駅馬を常備して公的な使者の移動や情報伝達を担わせるシステムであった 8 。しかし、この中央集権的な制度は、律令制の弛緩とともに次第に形骸化していく。

鎌倉・室町時代を経て、戦国時代に入ると、各地に割拠した戦国大名たちは、それぞれの領国(分国)経営のために独自の交通政策を展開した 6 。彼らは、本城と支城を結ぶ軍用道路を整備し、兵士の移動や軍需物資の輸送を円滑にするため、領国内に限定された伝馬制を敷いた 8 。例えば、北条氏、武田氏、今川氏などは、領内で独自の駅制を定めていた記録が残っている 8 。しかし、これらはあくまで各大名の軍事・政治的必要性から生まれたものであり、そのネットワークは領国の境界を越えることはなく、全国的な統一性や規格は存在しなかった。いわば、分断された領国ごとに閉じた「点と点を結ぶ線」の集合体に過ぎなかったのである。

豊臣秀吉もまた、天下統一の過程で、大坂や伏見といった政治拠点を中心に、主要な街道や城を結ぶ継送ルートを整備した 11 。秀吉の小田原征伐や奥州仕置の際には、これらのルートを通じて膨大な文書がやり取りされたことが確認されている。家康の制度は、こうした戦国末期に形成された交通基盤を部分的に継承したことは間違いない 11 。しかし、家康の構想は、特定の軍事行動や政治的イベントに対応するための一時的なものではなく、恒久的な国家支配を目的とした、より体系的で広範なものであった。

家康の「五街道」構想と東海道の戦略的地位

家康が目指したのは、自らが新たな政治の中心地と定めた江戸を中心とした、全国的な交通・情報ネットワークの構築であった。その中核をなすのが、江戸の日本橋を起点として放射状に延びる五つの主要幹線道、すなわち「五街道」(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の整備計画である 1 。この計画は、単に道を整備するだけでなく、各街道に一定の間隔で宿場(宿駅)を設置し、公用の人馬を常備させる「宿駅伝馬制度」を全国規模で施行するという、前代未聞のプロジェクトであった 5

この制度は、戦国大名の伝馬制とは本質的に異なっていた。それは、個々の領国経営のための閉じたネットワークから、江戸を中心とした全国支配のための開かれた「面を覆うネットワーク」へと、交通政策のパラダイムを根本的に転換させるものであった。領国の境界を越えてシームレスな公用交通を可能にすることで、幕府の命令は迅速に全国へ伝達され、各地からの情報は江戸へ集約される。これは、もはや一地方領主ではない、「天下人」としての視点から生まれた統治システムであった。

表1:戦国期と徳川初期における伝馬制度の比較

比較項目

戦国大名の伝馬制

徳川幕府の宿駅伝馬制度

目的

軍事・領国統治が中心

政治・経済・軍事の複合的、全国統治

管理主体

各大名(分国的)

幕府直轄(道中奉行による一元的管理)

範囲

領国内に限定

全国規模(五街道を基幹とする)

規格

不統一(大名ごとに異なる)

統一規格(宿場の人馬数、積載量など)

担い手

家臣団、領民への賦役

専門の宿場(地子免除等の特権と引き換え)

この壮大な五街道構想の中でも、東海道は別格の重要性を持っていた。東海道は、新たな政治の中心・江戸と、天皇の座する古都・京都、そして依然として経済の中心地である大坂を結ぶ、まさに国家の「大動脈」であった 13 。西国大名の監視、参勤交代のルート確保、そして経済物流の活性化など、あらゆる面で東海道の安定的な機能は不可欠であった。そのため、その整備は他の街道に先駆けて、関ヶ原の戦いの直後という異例の速さで着手されたのである 6 。慶長六年の白須賀宿整備は、この巨大なネットワークを構成する、最初の重要な結節点(ノード)の一つとして、歴史の舞台に登場することになる。

第二章:遠江国、西の玄関口 – 白須賀の地理的・歴史的特質

徳川家康による国家規模の交通網整備というマクロな視点から、次はその具体的な舞台となった白須賀というミクロな場所へと焦点を移す。白須賀が宿場として選定された背景には、遠江国という地域の歴史的重要性と、この地が持つ特異な地理的条件が深く関わっていた。

遠江国の歴史的位置づけ

遠江国は、現在の静岡県西部、大井川以西の地域を指す令制国である 10 。その名は、都から見て遠くにある淡水湖、すなわち浜名湖の古称「遠淡海(とおつあわうみ)」に由来するとされ、琵琶湖を指す「近淡海(ちかつあわうみ)」、すなわち近江国と対をなす名称である 16 。古代より東海道が貫く交通の要衝であり 18 、中世には今川氏が守護としてこの地を支配した。

戦国時代に入ると、遠江国は駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして三河の徳川氏という三つの強大な勢力が国境を接する、文字通りの係争地となった。特に、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後は、徳川家康が三河から勢力を伸張し、武田信玄との間で激しい争奪戦を繰り広げた 10 。家康は浜松に城を築き、ここを拠点として遠江支配を固め、後の天下取りへの足掛かりとした。このように、遠江国は家康にとって、自らの本拠地である三河に隣接し、東海道の防衛線を構成する上で極めて重要な戦略的地域だったのである。

1601年時点の宿場「古白須賀」

ここで極めて重要な点を明確にしておく必要がある。慶長六年(1601年)に宿場として整備された「白須賀宿」は、現在の静岡県湖西市の高台に位置する、江戸時代の面影を残すあの宿場町ではない。現在の白須賀宿は、宝永四年(1707年)に発生した宝永大地震とそれに伴う大津波によって、壊滅的な被害を受けた後に高台へ集団移転したものである 19

1601年当時、家康によって宿場に指定されたのは、潮見坂の下、遠州灘の海岸線に沿った砂丘地帯に存在した集落であった 22 。この場所は、後の宿場と区別して「古白須賀(こしらすか)」あるいは「元白須賀(もとしらすか)」と呼ばれている 19 。その地名は、「須賀」が砂の集まる場所を意味することからもわかるように、遠州灘から吹き付ける強い潮風と飛砂に常に晒される、厳しい自然環境下にあった 21 。この海岸沿いの立地こそが、白須賀宿が抱える課題と、その整備が持つ意味を理解する上で鍵となる。

景勝地にして難所「潮見坂」

古白須賀のすぐ西側には、東海道屈指の景勝地として、また同時に難所として知られた「潮見坂」がそびえていた 23 。この坂は、京都方面から東へ向かう旅人が、長い道程の末に初めて広大な太平洋(遠州灘)を望むことができる場所であり、その劇的な眺望は多くの文人墨客の心を捉えてきた 24 。室町幕府六代将軍・足利義教もこの景色に感嘆したと伝えられている 24

しかし、その風光明媚な姿とは裏腹に、潮見坂は旅人にとっては天下の険・箱根と並び称されるほどの難所でもあった 24 。急峻で曲がりくねった坂道は、徒歩の旅人はもちろん、馬や駕籠にとっても大きな負担となった 25 。この坂を越えるためには、相当な体力と時間が必要であり、旅程における大きな障害となっていた。

この物理的な難所である潮見坂と、遠州灘の強風や飛砂といった過酷な自然環境は、この区間の旅を極めて不安定なものにしていた。天候が悪化すれば、海岸沿いの道は波に洗われ、砂に埋もれて通行が困難になることもあったであろう。このような不安定な区間を、特に幕府の公用通信や物資輸送のために、安全かつ迅速に通過させる必要があった。

ここに、「遠州砂丘の宿場を整備し旅程安定」という言葉の真意が浮かび上がってくる。これは単に道を補修したということではない。それは、潮見坂という物理的難所と、遠州灘沿岸の過酷な自然環境に対し、幕府の権威による「制度的安定性」を強制的に導入する行為であった。坂を上り下りする直前の地点である古白須賀に宿場を設置し、人馬の交代を義務付けることで、疲弊した人馬を確実に休ませ、強力な新しい人馬に交代できる保証を制度として確立したのである。自然の脅威と地理的困難に対して、人為的なシステムで対抗し、公用交通の遅滞というリスクを最小化する。これこそが、慶長六年の白須賀宿整備が目指した「旅程安定」の核心であった。

第三章:【時系列詳解】慶長六年、白須賀宿整備のリアルタイム・ドキュメント

慶長六年(1601年)、古白須賀の村は、徳川家康の天下統一事業の奔流に否応なく巻き込まれていく。一介の海辺の集落が、国家のインフラストラクチャーの一翼を担う「宿場」へと変貌を遂げるまでの過程を、残された史料の断片から時系列に沿って再構成する。

第一節:慶長六年正月 – 「御朱印」江戸を発つ

年の瀬の喧騒も静まった慶長六年正月。関ヶ原の戦勝に沸く江戸城では、新たな国家建設に向けた具体的な指令が次々と発せられていた。その中の一つが、東海道の宿駅伝馬制度の確立であった。

この日、家康の名において、東海道の各宿場に指定された村々(その中には遠江国最西端の白須賀も含まれていた)に宛てた二種類の公文書が発給された 27 。一つは「伝馬朱印状」である 29 。これは、家康の朱印が押された証書であり、これを持つ幕府の公用使者に対して、宿場は人馬を優先的かつ無償で提供しなければならないことを命じるものであった。これは、宿場に絶対的な義務を課す、権威の象徴であった。

もう一つは「伝馬定書(御伝馬之定)」と呼ばれる文書である 7 。こちらには、宿場が遵守すべき具体的な規則が記されていた。白須賀宿を含む東海道の各宿場は、常時三十六疋の伝馬(輸送用の馬)と、それに対応する数の人足を用意しておくこと、伝馬一疋あたりの積載量は三十貫目(約112.5 kg、後に四十貫目に改定)を上限とすることなどが定められていた 7

これらの朱印状と定書は、幕府の飛脚、すなわち「継飛脚(つぎびきゃく)」によって江戸を発った 7 。彼らは御状箱を担ぎ、品川、川崎、神奈川と、整備されつつある東海道の宿場をリレー形式で駆け抜けていく。彼らが運ぶのは単なる紙の文書ではない。それは、戦国の世の終焉と、徳川による新たな支配秩序の到来を告げる、力強い指令そのものであった。

第二節:代官の入村と検分

朱印状と定書が江戸を発ってから数日後、遠江国を管轄する徳川家の代官、あるいは後の道中奉行の前身となる役人たちが、古白須賀の村を訪れた 9 。彼らの目的は、江戸からの指令に基づき、この村を「宿場」として機能させるための実地検分と準備作業を行うことにあった。

役人たちはまず、村の有力者や長老を呼び集め、幕府の命令を伝達したであろう。そして、村の地理や構造を詳細に検分し始めた。宿場機能の中核となる「問屋場(といやば)」はどこに設置すべきか。問屋場は、公用人馬の割り振りや荷物の継ぎ立てを差配する、いわば宿場の司令塔である 7 。村の中心部で、街道に面した便の良い場所が選ばれたはずである。

次に、大名や公家、幕府の高級役人が宿泊するための「本陣」と、その予備施設である「脇本陣」の指定である。これらには、村で最も格式と規模の大きい有力者の屋敷が選ばれるのが通例であった。役人たちは、建物の規模、部屋数、警備のしやすさなどを吟味し、本陣・脇本陣としての指定を行った。この指定は、村の有力者にとっては名誉であると同時に、多大な負担を強いられるものでもあった。

その他、一般の旅人が利用する旅籠(はたご)の数や規模、人馬を繋ぎとめておく場所、水の確保(井戸)の状況など、宿場として機能するために必要なあらゆる要素が調査された。この検分は、村の日常に幕府の権力が直接介入し、その構造を「公用」という目的のために再編成していく、まさにその第一歩であった。

第三節:伝馬役の賦課と住民の反応

検分が終わると、代官は村の住民に対して、伝馬定書に定められた具体的な役務、すなわち「伝馬役(てんまやく)」を正式に賦課した 7 。常時三十六疋の馬と人足を供出しなければならないという命令は、漁業やわずかな農業で生計を立てていたであろう古白須賀の住民にとって、まさに青天の霹靂であったに違いない。

これは、彼らの生活と経済のあり方を根底から変える、極めて重い負担であった。馬を飼育し、屈強な人足を常に確保しておくことは、莫大なコストと労力を要する。幕府の使者が来れば、昼夜を問わず、次の新居宿まで人馬を提供しなければならない。この重労働に対し、当初は戸惑いや反発の声も上がったと想像される。

しかし、幕府はただ義務を課すだけではなかった。この重い伝馬役を担う見返りとして、宿場には様々な特権が与えられた。その最も大きなものが「地子(じし)」、すなわち土地にかかる税の免除であった 7 。さらに、宿場は公用以外の一般旅行者を相手にした運送業や宿泊業を独占的に営むことが認められ、そこから利益を上げることも可能であった 12

住民たちの胸中には、新たな役務への不安や戸惑いと、地子免除や商業活動による利益への期待が入り混じった、複雑な感情が渦巻いていたであろう。しかし、関ヶ原で勝利した徳川の命令は絶対であり、彼らに選択の余地はなかった。こうして古白須賀の住民は、徳川の支配体制の末端を支えるという、新たな役割を担うことになったのである。

第四節:宿場機能の構築

役務の賦課と並行して、宿場としての物理的な機能の構築が進められた。

まず、検分で定められた場所に「問屋場」が正式に開設された。建物には幕府の定めた高札が掲げられ、ここが公的な施設であることが示された。そして、村の有力者の中から「問屋(といや)」「年寄(としより)」といった宿役人が任命され、彼らが中心となって伝馬役の差配や公文書の管理を行う体制が整えられた 7

公用交通のルールも徹底された。家康の朱印状を持つ使者は、問屋場でそれを提示すれば、最優先で無償の人馬を利用できる 29 。朱印状を持たない幕府の役人などは、幕府が定めた公定料金(御定賃銭)を支払って利用する。そして、一般の商人や旅人は、需給に応じた相対(あいたい)料金、おおむね公定料金の二倍程度で人馬を雇うことができた 29 。これにより、公私の別に応じた階層的な利用システムが確立された。

慶長六年、古白須賀は、もはや単なる海辺の村落ではなくなった。それは、江戸と京・大坂を結ぶ国家の大動脈の一部として、情報、物資、そして人々を滞りなく流すための重要な責務を負った「宿場町」へと、その性格を強制的に転換させられたのである。この瞬間、徳川による新たな支配体制は、遠江国の西の果ての、一見些細なこの村の隅々にまで及んだのであった。

第四章:整備がもたらした変革 – 白須賀宿の初期機能と旅程への影響

慶長六年の整備事業を経て、古白須賀は「白須賀宿」として新たな機能を担うことになった。この変革は、単に村の様相を変えただけでなく、東海道全体の交通システムに組み込まれることで、旅そのものの質と、徳川幕府の支配体制に大きな影響を与えた。

情報・物資輸送の拠点として

新たに宿場として指定された白須賀は、江戸と西国を結ぶ情報・物流ネットワークの重要な中継点となった。幕府の飛脚が運ぶ公用の書状や荷物は、前の宿場である舞坂宿から白須賀宿へ届けられると、問屋場の差配によって速やかに新しい人馬に引き継がれ、次の新居宿へと送られた 12 。この「人馬継立(じんばつぎたて)」と呼ばれるリレー方式により、一つの人馬が長距離を移動することによる疲弊や遅延を防ぎ、迅速かつ安定した輸送が可能となった 32

特に、関ヶ原の戦後間もない時期において、西国大名の動向や京・大坂の情勢といった機密情報をいち早く江戸へ伝えることは、家康にとって死活問題であった。白須賀宿をはじめとする東海道各宿場の整備は、この情報伝達の速度と確実性を飛躍的に向上させ、徳川の政治的・軍事的優位を支える神経網として機能したのである。

旅人の安全と便宜

白須賀宿の設置は、一般の旅人にとっても大きな恩恵をもたらした。最大の効果は、難所・潮見坂の克服にあった。それまで旅人が自力で、あるいは不安定な私的な人馬を雇って越えなければならなかったこの急峻な坂に対し、白須賀宿は制度的なサポートを提供する場となった。

東へ向かう旅人は、潮見坂を上る手前にある白須賀宿で確実に休息を取り、食事を済ませ、体力を回復させることができた。そして、強力な伝馬や人足を雇うことで、坂越えの負担を大幅に軽減することが可能になった。逆に西へ向かう旅人も、坂を下りきった場所にある宿場で、疲弊した足を休めることができた。このように、難所の前後に公的なサービス拠点が設けられたことで、旅の安全性と定時性は格段に向上した。これは、徳川の治世がもたらす「平穏(パックス・トクガワーナ)」を、旅人が身をもって体感できる具体的な変化であった。

新居関所との連携

白須賀宿がもたらした変革を語る上で、隣接する新居関所(今切関所)の存在を無視することはできない。新居関所は、浜名湖が遠州灘と繋がる今切口に設けられた、東海道で最も重要な関所の一つであった 33 。関ヶ原合戦の直後に設置され、白須賀宿の整備とほぼ同時期にその機能を本格化させている 34

この白須賀宿と新居関所の近接配置は、決して偶然ではない。それは、交通の「促進」と「統制」という、一見すると矛盾する二つの機能を意図的に組み合わせた、徳川幕府による巧みな支配システムであった。

まず、白須賀宿は、宿駅伝馬制度によって人や物の「流れ」を円滑にし、加速させる役割を担った。これは交通の「アクセル」機能である。幕府は、公用交通の迅速化を通じて、効率的な統治と経済の活性化を目指した。

一方で、そのすぐ西隣に位置する新居関所は、その「流れ」を厳しく監視し、制限する役割を担った。これは交通の「ブレーキ」機能である。関所では、謀反を企む者が江戸へ武器を持ち込むことを防ぐ「入り鉄砲」と、大名が人質として江戸に置いた妻子が国元へ逃げ帰ることを防ぐ「出女」が、特に厳しく取り締まられた 7 。これにより、幕府は治安維持と軍事的防衛という目的を果たそうとした。

つまり、幕府は白須賀宿で旅の便宜を図って往来を活発化させつつ、その直後に新居関所で厳格なチェックを行うという二段構えの体制を敷いたのである。これにより、経済や情報の流通は過度に妨げることなく、体制に対する脅威となる要素だけを的確に排除することが可能となった。これは、飴と鞭を巧みに使い分ける、極めて高度な統治技術の表れであり、白須賀宿が単独の施設ではなく、より大きな支配システムの一部として設計されていたことを明確に示している。

結論:一点から見る天下統一 – 白須賀宿整備の歴史的意義

慶長六年(1601年)に行われた白須賀宿の整備は、遠江国の一漁村を宿場町へと変貌させた一地方の出来事である。しかし、その歴史的意義は、単なる地域開発に留まるものではない。この事象は、徳川家康による天下統一という壮大な事業の中で、極めて象徴的かつ戦略的な意味を持つものであった。白須賀宿という「点」の分析を通じて、戦国の世の終焉と、二百六十余年に及ぶ江戸時代という新たな時代の幕開けを支えた、巨大な構想の輪郭が浮かび上がってくる。

第一に、白須賀宿の整備は、ミクロなインフラ整備がマクロな国家統治に直結していたことを示している。白須賀宿という一つの「点」の整備は、東海道という国家の大動脈という「線」を活性化させた。そして、その円滑な機能は、江戸を中心とする徳川の支配という「面」を全国に広げ、盤石にするための不可欠な一手であった。一つ一つの宿場は、巨大なネットワークを構成する細胞であり、その全てが正常に機能することによって初めて、徳川の支配体制という生命体は維持される。白須賀宿の整備は、その壮大なプロジェクトの、まさに最初のピースの一つだったのである。

第二に、この事業は日本の物理的空間の再定義を意味した。戦国時代の日本は、各大名が支配する分断された領国の集合体であり、その境界はしばしば交通の断絶を意味した。家康は、五街道と宿場を整備することで、これらの断絶を乗り越え、日本の物理的空間を、江戸を絶対的な頂点とする階層的で連続的な空間へと再編成した。あらゆる道は江戸に通じ、幕府の権威は街道を通じて全国の隅々にまで及ぶ。白須賀宿の設置は、この新しい空間秩序を、遠江国の西の玄関口に刻み込む行為であった。

最後に、そして最も重要なこととして、白須賀宿の整備は、時代のパラダイムシフトを象徴する出来事であった。鉄砲の数や城の堅固さといった軍事力で覇を競い合った戦国の世は、関ヶ原の戦いをもって事実上終焉した。それに代わって訪れたのは、法、制度、そしてインフラといった統治能力(ガバナンス)によって国を治める「近世」という新たな時代である。慶長六年の白須賀宿整備は、もはや戦の道具ではなく、統治の道具によって天下を治めるという家康の強い意志の表れであった。それは、戦乱の時代に別れを告げ、恒久的な平和と秩序を築こうとする、具体的かつ力強い一歩だったのである。

遠州灘の砂丘に設けられた一つの宿場は、徳川の天下が単なる武力による勝利ではなく、緻密な国家構想とそれを実行する卓越した行政能力に裏打ちされたものであったことを、静かに、しかし雄弁に物語っている。

引用文献

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  22. 東海道白須賀宿 | 地震と津波で消滅した歴史がある宿場 http://kaidou.nagoya/shizuoka/shirasuka.html
  23. おんやど白須賀 | 御宿場印めぐり | 一般社団法人 静岡県信用金庫協会 https://shizuoka-shinkin-kyoukai.or.jp/goshukuba/detail.php?S=39
  24. 潮見坂|湖西・新居観光協会【公式】 https://hamanako-kosai.jp/location/813/
  25. 湖西市郷土カルタ https://www.city.kosai.shizuoka.jp/material/files/group/33/furusato.pdf
  26. 港区の坂・「潮見坂」 - いざまち https://iza-machi.com/minatoku/shiba-sinbashi/1117/
  27. 東海道で結ぶ御宿場印めぐり 始まりました! - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/info/details.php?ti=543
  28. “街道と宿場”の豆知識 http://akiyama.my.coocan.jp/kaiteikaidoumame.pdf
  29. 東海道53次とは? - ちょっと寄り道・東海道ひとり旅 https://toma-m.com/about.html
  30. 赤坂宿 - 豊川市 https://www.city.toyokawa.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi/2/2/11746.html
  31. 浮世絵東海道五十三次 https://hamasakaba.sakura.ne.jp/u07meisyo/073m/7316/sub7316.html
  32. 「東海道名城図屏風」で見る宿場町/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/tokaido-shukubamachi/
  33. 新居宿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B1%85%E5%AE%BF
  34. 31 旧東海道 新居宿(あらいしゅく)(掛川から豊橋)-6 | 山の風音 https://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=200