箱根宿整備(1601)
箱根宿は1601年の東海道宿駅制度発足時には設置されず、1618年に幕府が計画的に創設。戦国期の軍事拠点から近世の交通要衝への転換は、幕府支配確立の象徴。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
戦国の要衝から天下の公道へ:箱根宿整備の歴史的深層 — 慶長六年(1601年)の宿駅制度と元和四年(1618年)の宿駅創設
序章:問いの提示 — なぜ箱根宿は「1601年」ではなかったのか
慶長六年(1601年)、関ヶ原の合戦に勝利し天下の覇権を掌握した徳川家康は、全国支配の基盤を固めるべく、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道に宿駅伝馬制度を制定した。これは、徳川幕府による新たな国家交通網構築の第一歩を印す画期的な出来事であった。利用者様が提示された「箱根宿整備(1601)」という事象は、この歴史的文脈の中に位置づけられる。
しかし、史料を詳細に分析すると、一つの重大な事実に突き当たる。慶長六年(1601年)の制度発足時、東海道の宿駅リストに「箱根宿」の名は存在しなかったのである 1 。天下の険として知られる箱根に宿駅が正式に設置されたのは、それから実に17年の歳月を経た元和四年(1618年)のことであった 3 。
この「17年間の空白」こそが、本報告書が解き明かすべき中心的な謎である。それは単なる行政上の遅延や地理的困難さのみに起因するものではない。むしろ、この期間には、戦国時代から江戸時代へと移行する体制転換期における、政治的、軍事的、そして社会的な力学が凝縮されている。本報告書では、「戦国時代という視点」からこの事象を深く掘り下げる。具体的には、戦国期に関東を支配した後北条氏が箱根に構築した「私的な軍事防衛線」を、徳川幕府がいかにして「公的な全国交通網」へと再編・統合していったのか、その困難なプロセスを解明する。箱根宿の整備は、戦国の遺産を克服し、近世的な国家支配を確立する象徴的な事業だったのである。
まず、本報告書で扱う時代の全体像を把握するため、主要な出来事を年表で示す。
表1:箱根を巡る主要年表(1590年〜1620年)
西暦 |
和暦 |
主要な出来事 |
1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉による小田原征伐、後北条氏が滅亡。徳川家康が関東に入府する。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の合戦。徳川家康が天下の覇権を握る。 |
1601年 |
慶長6年 |
徳川幕府が東海道に宿駅伝馬制度を発令。しかし箱根宿は設置されず。 |
1604年 |
慶長9年 |
江戸日本橋を起点とする一里塚の設置が開始される 4 。 |
1618年 |
元和4年 |
幕府の事業として箱根宿が芦ノ湖畔に新設される。 |
1619年 |
元和5年 |
箱根宿に隣接して箱根関所が設置される。 |
この年表が示すように、箱根宿の整備は1601年の一度の出来事ではなく、後北条氏の滅亡から箱根関所の設置に至る約30年間の連続した歴史的プロセスの中に位置づけられるのである。
第一章:戦国期における箱根 — 関東の蓋、後北条氏の絶対防衛線
徳川家康による東海道整備を理解するためには、まず、その前史である戦国時代、箱根がいかなる場所であったかを知る必要がある。箱根は、単なる地理的な難所ではなく、関東支配の要となる極めて重要な軍事拠点であった。
鎌倉時代以来の要衝
箱根路の重要性は、戦国時代に始まったものではない。鎌倉時代には、幕府が置かれた鎌倉と朝廷のある京を結ぶ主要街道として、多くの人々が往来した 4 。また、武士たちの間では箱根権現、伊豆山権現、三島明神を参詣する「三所詣(さんしょもうで)」が盛んに行われ、箱根路はその参詣道としても利用されていた 4 。このように、箱根は古くから交通と信仰の両面で特別な意味を持つ場所であった。
後北条氏による箱根の軍事要塞化
室町時代後期、伊勢宗瑞(後の北条早雲)に始まる後北条氏は、小田原城を本拠地として約100年にわたり関東一円を支配した戦国大名である 6 。彼らにとって、西国からの侵攻を食い止める上で、箱根山は天然の要害であり、絶対に死守すべき防衛線、まさに「関東の蓋」であった。
後北条氏はこの地理的特性を最大限に活用し、箱根路を意図的に軍事防衛に適したルートとして維持・管理した。例えば、三島側の西坂は関東に侵入する敵を発見しやすい尾根道に、小田原側の東坂は外敵を迎撃しやすい谷筋に経路がとられたと伝えられている 3 。これは、街道が「通行の利便性」よりも「防衛の効率性」を優先して設計されていたことを示している。
さらに後北条氏は、具体的な防衛施設として、箱根山の西側(伊豆国)に山中城を築城した。この山中城は、それまで存在した関所の機能を吸収し、通行管理の拠点となった 9 。これにより、箱根の通行管理は、通行税を徴収する経済的な目的から、敵の侵入を阻む純粋な軍事目的へとその性格を大きく変えた。本拠地である小田原城も、城下町全体を総延長9kmにも及ぶ長大な土塁と堀で囲む「総構(そうがまえ)」を築き、難攻不落の巨大要塞へと徹底的に改修された 10 。箱根の防衛ラインと小田原城の総構は、一体となって後北条氏の支配領域を守る一大防衛システムを形成していたのである。
小田原征伐(1590年)と地政学的転換
天正十八年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉は、約18万ともいわれる大軍を率いて小田原を包囲した。後北条氏は約100日にわたり籠城戦を続けたが、衆寡敵せず開城し、ここに100年続いた関東の覇者は滅亡した 7 。この戦いの際、秀吉軍が将兵の疲労回復のために箱根の底倉温泉を利用したという逸話も残っており、軍事行動と地域の関わりを物語っている 12 。
後北条氏の滅亡は、箱根の地政学的な意味を根底から覆す出来事であった。後北条氏の「私的な軍事拠点」としての役割は終わりを告げ、関東の新たな支配者となった徳川家康の下で、その位置づけが根本から問い直されることになったのである。
家康が構想する、江戸を中心とした全国的な交通網にとって、後北条氏が徹底して要塞化した箱根は、物理的にも制度的にも大きな「障壁」であった。道は防衛のために険しく、通行管理は軍事目的のために閉鎖的であった。家康の目的が東海道を「通させる」ことであったのに対し、後北条氏のそれは「通させない」ことであり、その目的は正反対であった。この前代の統治イデオロギーが色濃く残る場所を、いかにして新たな支配体制に組み込むか。この「戦国の遺産の克服」という課題こそが、1601年の宿駅制度制定時に箱根を「保留」とさせ、その後の17年という時間を要した根本的な背景にあると考えられる。
第二章:天下統一と東海道 — 徳川家康による交通網再編の始動
後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入府してから10年後の慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦が勃発する。この戦いに勝利した家康は、名実ともに天下の支配者としての地位を確立し、新たな国家体制の構築に着手した。その最重要課題の一つが、全国的な交通・通信網の整備であった。
関ヶ原の合戦(1600年)後の政治情勢
関ヶ原の勝利は、徳川の支配を決定づけたが、天下が完全に泰平になったわけではなかった。「戦国の遺風が残る当時においては、政情を安定させるために東西の交通の掌握が必要不可欠であった」 4 。政治の中心地として整備を進める江戸と、依然として朝廷の権威が残り、豊臣氏の残存勢力が存在する京・大坂との間の連絡を迅速かつ確実に行うことは、幕府の統治基盤を固める上で死活的に重要であった 13 。このため、東海道は当初、西国への脅威に対応するための軍用道路としての性格を色濃く帯びていたのである 14 。
慶長六年(1601年)宿駅伝馬制度の発令
このような政治的・軍事的要請を背景に、家康は天下統一事業の皮切りとして、慶長六年(1601年)正月、東海道に宿駅伝馬制度を制定した 15 。これは、江戸の日本橋を起点として全国へ放射状に延びる「五街道」(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)整備の第一歩であり、徳川幕府の権力集中を象徴する事業であった 15 。
この制度の核心は、幕府公用の書状や荷物を、指定された宿駅から次の宿駅へとリレー形式で迅速に輸送する仕組みを確立することにあった 16 。これにより、中央政府の命令を全国に伝え、各地からの情報を吸い上げる、中央集権的な支配体制を物理的に支える通信・兵站ネットワークを構築することを目指したのである。
制度の具体的な内容は以下の通りであった。
- 人馬提供の義務: 幕府から指定された各宿場は、「伝馬朱印状」を持つ幕府公用の通行者に対し、人足と伝馬(駅馬)を準備する義務を負った 16 。
- 常備数: 制度発足当初、各宿には36疋の伝馬と、それに応じた人足の常備が命じられた 4 。
- 代償としての特権: この重い義務を負う見返りとして、宿場には地子(じし)と呼ばれる土地税が免除された 2 。また、一般の旅行者を対象とした旅籠(はたご)などの休泊業や、荷物を運ぶ運送業を独占的に営む権利が与えられた 18 。
この宿駅伝馬制度は、単なる交通インフラの整備計画に留まるものではなかった。それは、街道沿いの宿場町に対し、「公役負担という義務」と「経済的特権」をセットで与えることにより、彼らを幕府の支配体制の末端に直接組み込む、極めて巧みな社会統制システムであった。宿場町は、このアメとムチの構造を通じて、自律的に幕府の支配を支える重要な機関として機能することになった。これは、戦国大名が純粋な武力によって地域を支配したのとは対照的に、経済的なインセンティブを用いて社会を統制するという、近世的な統治手法への移行を明確に示している。
第三章:慶長六年の宿駅伝馬制度と「空白地帯」箱根
慶長六年(1601年)、徳川家康の号令一下、東海道の主要な集落に次々と伝馬朱印状が交付され、宿駅としての機能が公式に定められた。神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原といった宿場がこの時に成立している 2 。しかし、この壮大な国家交通網構想の中に、箱根は「空白地帯」として取り残された。
1601年時点の東海道:小田原宿と三島宿の直結
制度発足時、東海道の伝馬継立は、箱根の東麓に位置する小田原宿と、西麓の三島宿との間で直接行われることになった 3 。これは、約八里(約32km)に及ぶ「箱根八里」として知られる天下の険を、一つの継立区間として扱わなければならないことを意味した 3 。中間に休息や馬を交換する宿駅が存在しないため、小田原宿と三島宿は、この長大で過酷な区間の輸送責任をすべて負うことになり、その負担は極めて大きかったと推察される。
なぜ箱根は宿駅に指定されなかったのか? — 複合的要因の分析
幕府がこの最重要区間に宿駅を設けなかった理由は、単一ではない。地形的な問題、在地社会の事情、そして幕府創成期の政策的判断が複雑に絡み合った結果であったと考えられる。
要因1:地形的困難性と未整備な道路
最大の理由は、箱根の地形そのものの厳しさである。当時の箱根路は、雨が降れば「すねまでつかる泥道」と化す劣悪な状態で、とても安定した交通を維持できる状態ではなかった 23。幕府も当初は、滑り止めのために箱根竹を路面に敷くといった対策を講じたが、竹はすぐに腐敗するため頻繁な敷き替えが必要であった。その維持管理には、約3,000人の人足と年間120両から130両(現在の価値で1億円以上)にも達する莫大な費用がかかったという 4。このような場所に、常に定められた数の人馬を常備する宿駅を設置し、安定的に運営することは物理的に極めて困難であった。
要因2:既存集落「芦川宿」の抵抗
郷土史料には、当時芦ノ湖畔に「芦川」という集落が存在し、幕府が当初この芦川に伝馬朱印状を交付して宿駅の役割を担わせようとしたが、芦川側がこれを固辞したという記録が残されている 24。その理由は定かではないが、公役負担の重さを嫌ったか、あるいは古くからの箱根権現の門前町としての独立性を維持しようとしたためかもしれない。いずれにせよ、この逸話は、幕府の意向が必ずしも在地社会にスムーズに受け入れられたわけではなかったことを示す貴重な証拠である。
要因3:幕府創成期の政策的優先順位
発足直後の徳川幕府にとって、最優先課題は、まずは平地の主要な宿駅を確実に機能させ、江戸と京・大坂を結ぶ幹線交通網の骨格を早急に確立することであった。箱根のような最も困難な区間への抜本的な対策は、多大なコストと時間を要するため、後回しにされたという政策的判断が働いた可能性は高い。
1601年時点での箱根宿の「不在」は、江戸で描かれた壮大な国家交通網構想と、箱根という土地が持つ厳しい自然条件、そして在地社会の自律性という「現実」との間に存在した深刻な乖離を象徴している。幕府は、全国一律の基準で宿駅伝馬制度を適用しようとしたが、箱根の特殊性はその画一的な計画を頓挫させた。結果として、東海道の心臓部ともいえる区間が制度上の「空白地帯」となり、公用交通に深刻な支障をきたすことになった。この初期の失敗の経験こそが、17年後の元和四年に、単なる宿駅指定ではなく、住民の強制移住という強権的な手段を伴う「計画的都市開発」によって箱根宿を創設させる直接的な原因となったのである。1601年のつまずきが、1618年のより強力なトップダウンによる解決策を生み出したと言える。
第四章:元和四年の箱根宿創設 — 国家事業としての難所克服
慶長六年の宿駅伝馬制度発令から十数年が経過し、大坂の陣を経て「元和偃武」が成り、世情は安定期へと向かっていった。それに伴い、人々の往来は活発化し、東海道の交通量は増大の一途をたどった。この中で、制度上の欠陥として残されていた箱根の問題は、いよいよ看過できないレベルに達していた。
宿駅設置の機運醸成:増大する交通需要
交通量の増大、特に諸大名が江戸と国元を往復する機会が増えたことが、箱根宿設置の直接的な引き金となった。参勤交代が正式に制度化されるのは寛永十二年(1635年)であるが、大名が江戸に参勤する慣行は既に始まっていた 19 。彼らにとって、小田原・三島間で人馬を替えられない箱根越えの困難さは、肉体的にも経済的にも大きな負担であった。こうした状況から、多くの大名たちから幕府に対して、箱根に新たな宿駅を設置してほしいという強い要請が寄せられたと伝えられている 3 。
幕府による計画的都市開発
これらの要請を受け、幕府はついに箱根の難所克服に乗り出す。しかしその手法は、既存の集落を指定するものではなく、国家の意思によって新たな町を創り出すという、極めて計画的な都市開発であった。
- 候補地の選定: 幕府は当初、古くから箱根権現の門前町として栄えていた元箱根に宿場を設置することを検討した。しかし、寺社勢力との関係性や管理のしやすさを考慮した結果、これを避け、新たに芦ノ湖畔の未開地を開拓して宿場を設置することを決定した 3 。これは、既存のコミュニティのしがらみに影響されず、幕府の完全な管理下に置くことができる新たな拠点を創設するという、強い意志の表れであった。
- 住民の強制移住: 新たな宿場町をゼロから創設するため、幕府は小田原宿から50軒、三島宿から50軒、合計100軒の住民を強制的に移住させるという前代未聞の手段を講じた 3 。この事実は、箱根宿が自然発生的に生まれた集落ではなく、国家事業として創られた計画都市であったことを明確に物語っている。現在も箱根町には、移住元の地名に由来する「小田原町」「三島町」という地名が残り、その歴史を今に伝えている 3 。この大規模事業の具体的な担当者名は史料に残されていないが、道中奉行が制度化される以前のことであり、老中や代官といった幕府中枢の役人が直接指揮を執ったと考えられる 26 。
翌元和五年(1619年)の箱根関所設置
箱根宿が設置された翌年の元和五年(1619年)、幕府は宿場に隣接する形で箱根関所を設置した 27 。関所の目的は、宿駅とは全く異なり、軍事的・警察的な通行管理にあった。特に、江戸への武器の流入を防ぐ「入鉄炮(いりでっぽう)」と、人質として江戸に住まわせている大名の妻子が国元へ逃亡するのを防ぐ「出女(でおんな)」の取り締まりが、その最重要任務であった 27 。
この結果、箱根には、宿駅が担う「交通・経済機能」と、関所が担う「軍事・警察機能」という、二つの異なる国家機能が隣接して併存することになった。これは、戦国時代に後北条氏の山中城が交通管理と軍事防衛の機能を渾然一体として担っていた 9 のとは対照的である。徳川幕府は、平和な時代の到来に合わせ、戦国期には一体であった機能を、近世的な国家統治のために「経済(宿駅)」と「警察(関所)」へと意図的に分化・専門化させたのである。この機能分化こそ、支配のあり方が、領域全体を要塞化する戦国的な「面的支配」から、街道という「線」の上を流れる人・モノ・情報を効率的に管理する近世的な「線的支配」へと移行したことを象徴している。
表2:箱根宿と箱根関所の機能比較
項目 |
箱根宿 |
箱根関所 |
設置年 |
元和4年(1618年) |
元和5年(1619年) |
主な目的 |
公用交通の円滑化(人馬継立) |
治安維持、謀反の防止 |
主な機能 |
輸送、休泊、通信の中継 |
通行人の監視、荷物検査 |
思想 |
「通す」ための施設 |
「改める」ための施設 |
重点取締対象 |
なし(円滑な継立が使命) |
入鉄炮・出女 |
管轄(後年) |
道中奉行 |
大目付(関所管掌) |
この表が示すように、箱根宿と箱根関所は、その目的も機能も全く異なる施設であった。両者の相次ぐ設置は、徳川幕府による精緻な統治システムの確立を示す画期的な出来事だったのである。
第五章:稼働する箱根宿 — 江戸幕府の交通支配の象徴
元和四年に創設された箱根宿は、東海道十番目の宿場として、また天下の険を越える旅人にとっての重要な中継拠点として、急速に発展を遂げていった。その運営は、幕府の厳格な管理下に置かれ、江戸時代の交通と経済を支える重要な役割を担ったが、その繁栄は周辺地域の重い負担の上に成り立っていた。
宿場の運営体制と経済
箱根宿の運営の中核を担ったのは、宿場の中央に設けられた「問屋場(といやば)」であった。ここには、宿場の代表者である「問屋(といや)」、その補佐役である「年寄(としより)」、そして事務・会計を担当する「帳付(ちょうづけ)」といった宿役人が常駐し、幕府公用の人馬継立業務を滞りなく行うための差配を行った 32 。江戸時代後期には、大名などが宿泊する本陣が6軒、脇本陣が1軒、そして一般の旅人が利用する旅籠が36軒を数える規模にまで発展し、多くの人々で賑わった 3 。
助郷制度の重い負担
参勤交代の本格化や物流の活発化に伴い、東海道の交通量は幕府の想定を超えて増大した。その結果、宿場に常備されている人馬だけでは、日々の需要に応えきれなくなる事態が頻発した 18 。この不足分を補うために制度化されたのが、「助郷(すけごう)」である。これは、宿場周辺の村々に対し、石高に応じて人馬を提供する義務を課すものであった 22 。
助郷役は、指定された村々にとって極めて重い負担であった。公役であるため低賃金での労働力提供を強いられ、農繁期であってもこれを拒むことはできなかった。そのため、本来の生業である農作業に深刻な支障をきたし、村の経済を著しく圧迫した 18 。やがて、人馬を直接提供する代わりに金銭で代納する「代助郷」も行われるようになったが、交通量が増え続ける幕末期にかけてその金銭的負担は増大し、多くの村々を苦しめることになった 37 。
「箱根八里」の道普請 — 維持管理の変遷
宿駅が設置されても、箱根路の維持管理は依然として大きな課題であった。当初の竹敷きは、前述の通り維持費がかさむため、幕府はより恒久的な対策を迫られた 4 。そして延宝八年(1680年)、幕府は大規模な改修工事に踏み切り、幅二間(約3.6m)に及ぶ石畳道を敷設したのである 25 。
この石畳には、当時の最先端の土木技術が結集されていた。石材には、加工しやすく平らな面が得やすい安山岩が用いられ、歩きやすさが追求された。急な坂道では、滑り止めとして小さな礫(こいし)を敷き詰める工夫がなされた。さらに、雨水を効率的に路肩へ流すため、石畳を斜めに横切るように段差をつけた「斜め排水路」が設けられるなど、自然条件に対応するための様々な知恵が凝らされていた 4 。この石畳の道は、徳川幕府の高い技術力と、交通インフラの維持に対する強い意志を示すものであった。
往来する人々の実態
整備された箱根宿と東海道は、様々な身分の人々が行き交う舞台となった。
- 参勤交代: 大名行列は、数百人から時には千人を超える規模で箱根を越えた 39 。彼らは本陣や脇本陣に宿泊し、宿場に大きな経済効果をもたらした 19 。
- 庶民の旅: 太平の世が続くと、経済的に余裕のできた庶民の間で伊勢参りなどの長旅が流行した 19 。彼らは一日平均約30kmの道のりを徒歩で旅し、旅籠に泊まりながら目的地を目指した 42 。彼らにとっても、箱根越えは旅の最大の難所であり、同時にハイライトでもあった 23 。
箱根宿を中心とする東海道の繁栄は、幕府による巧みな制度設計と石畳普請に代表される技術投資という「光」の側面と、助郷の村々のような周辺コミュニティの犠牲という「影」の側面から成り立っていた。この国家インフラが、誰のどのような負担の上に成立していたのかを直視することは、その歴史的実像を理解する上で不可欠である。
結論:戦国の要衝から天下の公道へ — 箱根宿整備が持つ歴史的意義
本報告書は、「箱根宿整備(1601)」という問いに対し、それが単一の事象ではなく、慶長六年(1601年)の「宿駅伝馬制度」制定と、17年の歳月を隔てた元和四年(1618年)の「箱根宿」創設という、二段階にわたる長期的なプロセスであったことを明らかにした。そして、このプロセス全体が、戦国時代における後北条氏の私的な「軍事防衛線」であった箱根を、徳川幕府による公的な「全国交通網の結節点」へと変貌させる歴史的な事業であったことを論証した。
この箱根宿整備が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、 戦国時代の終焉の象徴 である。1601年の時点では、箱根の持つ戦国期以来の地理的・政治的特殊性が、徳川幕府による全国一律の制度導入を阻んだ。しかし、1618年の強制移住を伴う計画的な宿駅創設と、翌1619年の関所設置による機能分化は、幕府の中央集権的な権力が、在地社会の抵抗や地域の特殊性を乗り越え、近世的な支配体制を確立したことを明確に示している。これは、武力と軍事論理が支配した時代の終わりを告げる象徴的な出来事であった。
第二に、 近世国家のインフラ思想の体現 である。箱根宿の整備は、単なる道直しの事業ではなかった。それは、交通網を国家の血管とみなし、その安定的な維持のために、計画的な都市開発(宿駅創設)、高度な土木技術の投入(石畳敷設)、そして周辺農村からの収奪システム(助郷制度)を組み合わせた、総合的な国家プロジェクトであった。この事業は、公益の実現のためには、一部の犠牲を前提とするという、近世国家の非情な側面をも内包していた。
最後に、箱根宿の整備は、 「分断」から「結合」への転換 を意味する。後北条氏にとって、箱根は関東と西国を「分断」するための防壁であった。それに対し、徳川幕府は、この難所にあえて宿駅という中継点を設けることで、江戸と京・大坂を、ひいては日本全土を緊密に「結合」するための公道へとその役割を転換させた。戦国時代の要衝は、天下の公道へと生まれ変わったのである。この一点において、箱根宿の整備は、戦国から江戸への時代の大きな転換を物語る、歴史的な一大事業であったと結論付けることができる。
引用文献
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- 東海道と箱根八里 https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido
- いにしえの石畳「箱根旧街道」 - 建設コンサルタンツ協会 https://www.jcca.or.jp/kaishi/234/234_toku6_matsugane.pdf
- 「箱根越えルート」の変遷 ~古代から現代まで~ 【彰義隊の発起人・須永伝蔵シリーズ③】 https://www.toyahachi.com/20250312hakonegoe/
- 小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/409637/1-20210610160019.pdf
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- 百年もの間、小田原城を中心に関東を支配していた北条五代を知ろう https://colors-style.com/articles/454
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- 毎日約40kmを歩く江戸の一大ブーム|伊勢参りでみた庶民の健脚ぶり【江戸のはるかなる徒歩旅】 | YAMAP MAGAZINE https://yamap.com/magazine/43949