織田信長上洛(1568)
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織田信長上洛(1568年)― 戦国史を塗り替えた電撃的軍事行動の全貌
序章:戦国史の転換点としての上洛
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて京都へ進軍した事変は、単なる一地方大名の軍事行動に留まらない、日本の政治構造そのものを根底から覆す「革命」の序章であった。この出来事は、応仁の乱以来100年以上続いた戦乱の世に終止符を打ち、武力による天下統一という新たな時代への扉を開いた、まさに戦国史の転換点として位置づけられる。
これ以前にも、大内義興や三好長慶といった実力者が将軍を擁して上洛し、幕政を掌握した例は存在する 1 。しかし、彼らの目的は既存の室町幕府という権威構造の枠内で、その実権を代行・維持することにあった 3 。対して信長の上洛は、その様相を全く異にする。彼は足利将軍家の権威を「利用」はするものの、最終的にはそれを乗り越え、旧来の秩序を破壊し、全く新しい支配体制を創造することを企図していた。本報告書は、この歴史的転換点となった信長の上洛について、その背景、リアルタイムで展開された軍事行動の様相、そして事後の政治的帰結という三つの側面から、多角的かつ詳細にその全貌を解明するものである。
第一部:上洛前夜 ― 畿内の権力真空と信長の野望
信長の電光石火の上洛成功は、彼の軍事的才能のみならず、畿内における権力の空白と、それを生み出した政治的混乱という絶好の機会を的確に捉えた結果であった。
永禄の変と三好政権の崩壊
上洛の直接的な引き金となったのは、永禄8年(1565年)5月19日に発生した「永禄の変」である 5 。この日、室町幕府第13代将軍・足利義輝が、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)と松永久秀らによって二条御所で殺害されるという、前代未聞の事態が発生した。将軍が家臣に討たれるという禁忌が破られたことで、室町幕府の権威は完全に地に堕ち、畿内には巨大な権力の真空地帯が生まれた 6 。
しかし、将軍暗殺という目的を達成した三好政権は、すぐさま内紛に陥る。かつて三好長慶の下で双璧をなした重臣、松永久秀と三好三人衆の間で政権の主導権を巡る対立が先鋭化 7 。当初は三好家当主の三好義継を擁していた三人衆に対し、松永久秀は離反し、両者は泥沼の抗争へと突入した 8 。この争いは永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の焼失という悲劇を生むなど、畿内全域を巻き込み、その社会経済を著しく疲弊させた 7 。
この畿内の内紛こそ、信長に「完璧な好機」を与えた。三好三人衆と松永久秀が互いに潰し合う状況は、信長にとって外部から介入する上でこれ以上ない理想的な環境であった。畿内の支配者であるはずの三好勢は、内訌によって力を削がれ、一致団結して信長の進軍に抵抗することが不可能な状態に陥っていた。さらに重要なのは、三人衆との戦いで劣勢に立たされていた松永久秀にとって、信長は自らの勢力を回復させてくれる唯一の希望となった点である 11 。結果として信長は、畿内における最大の障害であった三好勢力を戦わずして無力化し、かつその一方の雄であった松永久秀を味方につけるという、極めて有利な状況で上洛戦を開始することができたのである。彼の成功は、軍事力だけでなく、畿内の政治的対立構造を的確に見抜いた、卓越した戦略眼の賜物であった。
さまよえる将軍・足利義昭
兄・義輝を殺害された足利義昭(当時は僧籍にあり一乗院覚慶と名乗った)は、細川藤孝や和田惟政らの手引きで幽閉先の奈良・興福寺を脱出 5 。近江、若狭、そして越前へと、自らを将軍の座に就けてくれる有力な庇護者を求めて流浪の旅を続けた 6 。
義昭が最大の期待を寄せたのは、越前の名門守護大名・朝倉義景であった。義景は義昭を丁重に一乗谷に迎え入れ、元服の儀を執り行うなど後見人として振る舞った 13 。しかし、義昭が再三にわたり要請した上洛の軍を起こすことには、終始冷淡な態度を取り続けた。その理由としては、畿内で強大な勢力を誇る三好氏との全面対決をためらったこと、領国の一向一揆問題に忙殺されていたこと、さらには嫡男の急死による当主自身の意気消沈などが複合的に絡み合っていたとされる 13 。
一向に動こうとしない義景にしびれを切らした義昭陣営、特に幕府再興に燃える細川藤孝は、次なる頼みの綱として、当時、美濃国を完全に平定し、破竹の勢いを見せていた織田信長に活路を見出す 17 。この両者の連携を仲介し、歴史的な同盟を成立させたのが、義昭の家臣でありながら信長の正室・濃姫の縁者であったともされる明智光秀であった 19 。永禄11年(1568年)7月、義昭はついに越前を離れ、信長の本拠地である美濃へと移った 23 。
「天下布武」への布石
一方の織田信長は、6年にも及ぶ攻略の末に美濃斎藤氏を滅ぼし(1567年)、その本拠地であった稲葉山城を岐阜城と改名。この頃から「天下布武」と刻まれた朱印を使用し始め、その眼差しは尾張・美濃という一地方から、文字通り「天下」へと向けられていた 18 。彼にとって足利義昭という将軍候補の存在は、上洛を成し遂げ、天下に号令するためのこの上ない「大義名分」であった 18 。
信長は義昭を美濃に迎える以前から、上洛計画を成功させるための周到な地政学的準備を進めていた。
- 浅井長政との同盟強化: 美濃から京都への最短ルート上に位置する北近江の支配者・浅井長政との同盟は、作戦の生命線であった。信長は妹のお市の方を長政に嫁がせることでこの同盟を血縁によって固め、進軍路の安全を確保した 18 。
- 六角氏への圧力: 上洛ルートの最後の障害となる南近江の守護・六角義賢、義治父子を牽制するため、その同盟勢力である北伊勢の豪族・神戸具盛らを攻め、三男・信孝を養子に送り込むなどして屈服させ、六角氏を外交的・軍事的に孤立させる布石を打っていた 18 。
- 徳川家康との連携: 東方の背後の憂いを断つため、三河の徳川家康との清洲同盟を堅持。上洛に際しては援軍の派遣を取り付け、万全の態勢を整えた 18 。
- 大義名分の獲得: 永禄10年(1567年)11月、信長は正親町天皇から、尾張・美濃両国における皇室領の回復を命じる綸旨(りんじ)を受け取っていた 5 。これは、信長の父・信秀の代からの朝廷への経済的貢献が実を結んだものであり 27 、信長の上洛が単なる私戦ではなく、天皇の意思を奉じた公的な軍事行動であるという、極めて強力な正当性を与えるものであった 28 。
こうして、畿内の権力闘争、さまよえる将軍、そして天下を目指す信長の野望という三つの要素が、明智光秀という触媒を介して結びつき、歴史を動かす準備は整ったのである。
第二部:電光石火の軍事行動 ― 永禄十一年九月の記録
永禄11年9月7日の岐阜出立から、わずか1ヶ月余りで畿内を平定するに至る信長の軍事行動は、その速度と計画性において、戦国時代の常識を覆すものであった。
日付(永禄11年) |
場所 |
主要な出来事 |
9月7日 |
美濃・岐阜城 |
信長、総勢5〜6万の大軍を率いて上洛のため出陣。 |
9月11日 |
南近江・愛知川 |
織田軍本隊が着陣。六角氏との対決が不可避となる。 |
9月12日 |
南近江・箕作城 |
観音寺城の戦い勃発。木下秀吉らの夜襲により箕作城が一日で陥落。 |
9月13日 |
南近江・観音寺城 |
六角義賢・義治父子が城を捨て甲賀へ逃亡。観音寺城は無血開城。 |
9月26日 |
山城・京都 |
信長、足利義昭を奉じて入京。三好三人衆は戦わずして撤退。 |
9月28日-29日 |
山城・勝龍寺城 |
柴田勝家らが岩成友通の籠る勝龍寺城を攻撃、陥落させる。 |
9月29日-30日 |
摂津・芥川山城 |
信長本隊が進軍。三好長逸らが城を捨てて逃亡。 |
10月2日 |
摂津・池田城 |
池田勝正が籠る池田城を攻撃、降伏させる。 |
10月18日 |
山城・京都 |
足利義昭、第15代征夷大将軍に任ぜられる。 |
進軍開始と南近江平定
永禄11年9月7日、織田信長は美濃・岐阜城からついに出陣した 6 。その軍勢は、信長直属の尾張・美濃衆を中核に、同盟者である徳川家康から派遣された松平信一率いる三河衆、そして浅井長政率いる北近江衆などが加わり、総兵力は5万から6万という、当時としては破格の大軍に膨れ上がっていた 6 。
信長は上洛に先立ち、進路上に本拠を構える南近江の守護・六角義賢、義治父子に、義昭の上洛を助けるよう使者を送った 5 。しかし、六角氏はこれを拒絶する。彼らは三好三人衆と連携しており 30 、また源氏の名門・佐々木氏の嫡流として代々近江守護を務めてきたプライドが、新興勢力である信長の下風に立つことを許さなかったのである 19 。
交渉が決裂したことで、軍事的衝突は不可避となった。9月11日、織田軍の先鋒は南近江へと進攻し、本隊は愛知川の北岸に布陣 5 。決戦の火蓋が切って落とされた。
観音寺城の戦い ― 信長流戦術の真髄
六角氏の敗北は、単なる兵力差以上に、信長の革新的な戦術思想の前に、旧来の戦術が全く通用しなかったことを示している。
|
織田連合軍(総兵力:約5〜6万) |
六角軍(総兵力:約1万1千) |
総大将 |
織田信長 |
六角義治・義賢 |
本城 |
- |
観音寺城(六角父子、馬廻り衆1千) |
主要拠点 |
第1隊(稲葉良通) → 和田山城 |
和田山城(田中治部大輔ら主力6千) |
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第2隊(柴田勝家、森可成) → 観音寺城 |
箕作城(吉田出雲守ら3千) |
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第3隊(信長、丹羽長秀、木下秀吉ら) → 箕作城 |
その他支城群(被官衆) |
六角軍は、織田の大軍がまず最前線の支城である和田山城に攻めかかってくると予測し、そこに主力を配置。これを本城の観音寺城やもう一つの重要支城である箕作城から出撃して挟撃するという、伝統的な防衛戦略を立てていた 5 。
しかし、信長の狙いはその遥か上を行った。彼は敵の予測の裏をかき、点在する支城群を完全に無視。9月12日の早朝、愛知川を渡った織田軍は三隊に分かれ、稲葉良通隊が陽動として和田山城へ向かう一方、柴田勝家・森可成隊は本城の観音寺城へ、そして信長自らが率いる丹羽長秀、木下秀吉らの主力部隊は箕作城へと、敵の指揮系統の中枢に同時多発的な攻撃を仕掛けたのである 5 。
戦端は箕作城で開かれた。急峻な地形に築かれた堅城であり、吉田出雲守率いる城兵の守りも固く、当初織田軍は多大な損害を出して苦戦を強いられた 5 。だが、ここで木下秀吉(後の豊臣秀吉)が献策し、夜襲を決行する。数百本の松明を城の中腹で一斉に灯して陽動し、城兵の注意を惹きつけた上で、別方向から精鋭部隊を突入させた 5 。7時間以上も攻め続けられた直後の夜襲は城兵の意表を突き、箕作城はその日の夜のうちに、わずか1日で陥落した 5 。
この一報は、六角氏の戦意を根底から粉砕した。長期戦を想定していた六角父子は、防衛の要と頼んでいた箕作城が瞬く間に落ちたことに衝撃を受け、その日の夜に観音寺城を捨てて、ゲリラ戦を得意とする甲賀方面へと逃亡してしまった 5 。当主が逃亡したことで指揮系統は完全に崩壊し、観音寺城は戦わずして無血開城。和田山城をはじめとする18の支城も、次々と織田方に降伏した 5 。この時、六角氏の重臣であった蒲生賢秀も降伏し、嫡男の蒲生氏郷を人質として信長に差し出している 5 。
この戦いは、信長の「電撃戦」思想の最初の実践例であった。彼の狙いは城を一つ一つ攻略することではなく、敵の指揮系統と士気という「重心」を一撃で破壊することにあった。予測外の目標への集中攻撃と、常識外れの速度での攻略は、六角氏に物理的な損害以上の心理的衝撃を与えた。軍事的に敗北する以前に、心理的に敗北させたのである。この「速度」と「心理的破壊」を重視する戦術こそが、後の信長の戦いの基本形となり、天下布武を推進する原動力となった。
京へ ― 無人の都と残敵掃討
南近江の電撃的な平定の報は、京都を支配していた三好三人衆に恐慌をもたらした。彼らは松永久秀との内紛で疲弊し、背後の六角氏という防波堤を失った今、織田の大軍と正面から戦う力も意志もなかった。彼らは満足な抵抗もせず、9月25日までに京都を放棄し、本国の阿波へと撤退した 5 。
そして永禄11年9月26日、織田信長は足利義昭を奉じ、何の抵抗も受けることなく、無人の都・京都へと入った。信長は東福寺に、義昭は清水寺に本陣を構え、ついに上洛の目的を達成した 5 。
しかし、信長の作戦はここで終わりではなかった。彼は畿内の完全掌握を目指し、間髪入れずに残敵掃討作戦を開始する。
- 9月28日〜29日 勝龍寺城の戦い: 京都南方の西国街道の要衝・勝龍寺城には、三好三人衆の一人、岩成友通が籠っていた。信長は柴田勝家、森可成、蜂屋頼隆、坂井政尚らの部隊を派遣。28日の城外での前哨戦で織田軍が勝利し、50余りの首級を挙げた。翌29日、信長本隊も迫る中、友通は城を支えきれず開城し、摂津方面へ敗走した 33 。
- 9月29日〜30日 芥川山城の戦い: 勝龍寺城を落とした信長は、そのまま軍を西に進め、三好氏の摂津における拠点・芥川山城に迫った。ここには三好長逸と、将軍候補として三人衆が擁立していた足利義栄の弟・細川昭元が籠城していた 37 。信長軍が城の麓の市場に火を放つなどの示威行動を見せると、城兵の戦意は喪失。30日の夜、長逸らは城を捨てて逃亡した 29 。信長は義昭をこの芥川山城に迎え入れた 33 。
- 10月2日 池田城の攻略: 続いて信長は、摂津の有力国人・池田勝正が籠る池田城を攻撃。激しい戦闘の末、町は炎上したが、最終的に勝正は人質を差し出して降伏した 29 。
この一連の掃討戦と並行して、信長は巧みな外交手腕も見せる。三好三人衆と敵対していた松永久秀は、信長の上洛を千載一遇の好機と捉え、いち早く名物茶器「九十九髪茄子」を献上して恭順の意を示した 11 。信長は、将軍義輝暗殺の当事者の一人である久秀を罰するよう求める義昭をなだめ、その罪を許し、大和一国の支配を安堵した 11 。これにより信長は、戦わずして大和国を平定し、畿内の有力者を巧みに取り込むことで、その支配体制を盤石なものとしたのである。
第三部:新秩序の胎動 ― 義昭政権の樹立と信長の実権掌握
軍事作戦の成功後、信長はすぐさま新たな政治秩序の構築に着手する。それは、足利義昭を将軍として権威の象徴に据えつつ、その実権を自らが掌握するという、二重構造の支配体制であった。
将軍誕生と束の間の蜜月
畿内全域が信長の制圧下に入った後、朝廷は信長の強力な後押しを受け、永禄11年10月18日、足利義昭を第15代征夷大将軍に任命した 6 。3年以上にわたる流浪の生活の末、義昭はついに兄の跡を継ぎ、幕府再興という悲願を達成したのである 39 。
当初、信長は義昭を立て、自らはその忠実な臣下として振る舞った。荒廃した京都の治安維持に努め、皇居の修理を命じるなど、幕府と朝廷の権威を回復させることに尽力する姿勢を見せた 19 。この時期は、信長と義昭の協力関係が最も良好に機能した「蜜月」の期間であった。
「殿中御掟」という名の軛(くびき)
しかし、この蜜月は長くは続かなかった。翌永禄12年(1569年)1月、京都を脱出していた三好三人衆が逆襲に転じ、義昭の宿所である本圀寺を急襲する事件(本圀寺の変)が勃発する 19 。この襲撃は、明智光秀らの奮戦と、信長の迅速な援軍によって撃退されたものの、新将軍の政権がいかに脆弱であるかを白日の下に晒した。信長はこの事件を機に、幕府の運営体制を自らの厳格な管理下に置く必要性を痛感し、義昭の権力を合法的に制限する手段に打って出た。
同年1月14日と16日の二度にわたり、信長は義昭に「殿中御掟」と呼ばれる9か条と追加7か条からなる掟書を提示し、承認させた 40 。これは、一見すると幕政の混乱を是正し、正常化を目指すための規則に見える。しかし、その真の狙いは、将軍の権力を骨抜きにし、幕府の意思決定プロセスを信長の影響下に置くことにあった。
条文(現代語訳の要旨) |
信長の政治的意図(解説) |
訴訟は正規の手続きを経ずに将軍に直接取り次いではならない 40 。 |
将軍の恣意的な判断を封じ、信長が影響力を持つ奉行衆を通じて訴訟をコントロールする。 |
奉行衆が出した意見を無視して将軍の一存で決めてはならない 40 。 |
義昭が側近政治を行うことを防ぎ、幕府の意思決定を透明化(=信長の監視下に置く)する。 |
門跡や僧侶、医師、陰陽師などをみだりに殿中に入れてはならない 40 。 |
兄・義輝のように、義昭が幕府外の人物をブレーンとして用いることを禁じ、情報源を制限する。 |
寺社領などを不当に押領してはならない 40 。 |
幕臣たちが経済的自立を果たすことを防ぎ、信長からの恩賞に依存させる。 |
この「殿中御掟」は、義昭を「権威の象徴」として祭り上げつつ、その実権を合法的に奪うための、極めて巧妙に設計された「法的な檻」であった。
亀裂の萌芽
信長の将軍権力への介入は、さらにエスカレートしていく。元亀元年(1570年)には、先の掟に加えて、さらに露骨な内容の「追加五か条」を義昭に突きつけた。その中には、「将軍が諸大名に出す命令書には、必ず信長の副状を添えること」「天下の政治は信長に任された以上、将軍は一切口出ししないこと」といった条項が含まれており、これにより義昭は完全に信長の傀儡と化した 41 。
自らの無力化に、将軍としてのプライドを深く傷つけられた義昭は、信長への不満と憎悪を募らせていく。そして、水面下で各地の有力大名(越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、甲斐の武田信玄、中国地方の毛利氏、さらには石山本願寺や延暦寺といった宗教勢力)に密かに御内書を送り、反信長の旗の下に結集するよう画策を始めた 43 。
ここに、信長の上洛がもたらした歴史のパラドックスが浮かび上がる。信長は義昭を担ぐことで上洛を成功させ、畿内に一時的な「天下静謐」をもたらした。しかし、その過程で確立された「将軍を凌駕する信長」という新たな権力構造は、旧来の価値観を持つ多くの勢力にとって到底受け入れがたいものであった。そして、その不満の受け皿となり、反信長勢力を結集させる最高の大義名分となったのが、他ならぬ将軍・足利義昭その人だったのである。信長は義昭の権威を利用して天下に近づいたが、その義昭の存在自体が、今度は自らを滅ぼしかねない最大の脅威へと転化した。上洛の成功の内に、次なる「信長包囲網」という、より大規模で深刻な全国規模の争乱の種子が蒔かれていたのである。
結論:歴史を動かした一ヶ月
永禄11年9月7日の岐阜出立から、10月18日の足利義昭の将軍宣下まで、わずか一ヶ月強。この期間に織田信長が展開した一連の軍事・政治行動は、日本の歴史の潮流を決定的に変えた。
信長の上洛は、単に京都を占領しただけではない。それは、周到な外交戦略、常識を覆す電撃的な軍事戦術、そして旧権力を無力化する巧妙な法制度の構築という、三位一体の総合的な国家戦略であった。この成功により、応仁の乱以来続いてきた室町幕府という中世的な権威システムは事実上の終焉を迎え、武力と実績に基づく新たな権力者が天下を支配する時代が幕を開けた。
この事変は、信長個人のキャリアにおいて画期的な成功であったと同時に、彼自身を新たな、より巨大な戦いの渦中へと引きずり込む出発点でもあった。しかし、彼が切り開いた「武力による天下統一」への道は、後の豊臣秀吉、そして徳川家康へと受け継がれ、長く続いた戦国の乱世を終結させる原動力となった。その意味において、1568年の上洛は、近世日本の幕開けを告げる、実質的な第一歩であったと言えるだろう。
引用文献
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- 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡 ... https://sengoku-his.com/384
- 三好長逸は何をした人?「三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄 ... https://busho.fun/person/nagayasu-miyoshi
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- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
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