豊臣秀吉死去(1598)
1598年、豊臣秀吉死去。幼い秀頼への継承のため五大老・五奉行制度を構築したが、朝鮮出兵と秀吉の死が豊臣政権崩壊を招き、徳川家康の台頭を許し関ヶ原へ繋がった。
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巨星墜つ:豊臣秀吉の死と天下の行方—慶長三年、権力闘争の序曲
序章:天下人の黄昏—慶長三年、春
慶長三年(1598年)、豊臣秀吉によって統一された日本の天下は、一見すると安定の極みにあった。しかし、その巨大な権力構造は、秀吉という一個人の圧倒的なカリスマと権威によってかろうじて支えられているに過ぎず、その内実には深刻な脆弱性を抱えていた。この危うい均衡をさらに揺るがしていたのが、朝鮮半島で泥沼化していた「慶長の役」である 1 。文禄の役(1592-1593年)の和議交渉が決裂した末に再開されたこの大規模な外征は、日本、明、朝鮮の三国に甚大な消耗を強いる不毛な戦いとなっていた 1 。特に、派兵の主力を担った西国大名たちの間には厭戦気分が広がり、その国力は著しく疲弊していた 3 。この外征は、秀吉晩年の判断力の陰りを象徴する事業であり、豊臣政権の足元を静かに蝕んでいた。
この状況下で、秀吉にとって最大の懸案は、わずか6歳の嫡子・豊臣秀頼への権力継承であった。自身の死期が近いことを悟った秀吉は、政権の存続を図るため、一種の集団指導体制を構築する。それが、有力大名からなる「五大老」と、政権の実務を担う「五奉行」の制度である 4 。五大老には徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家という全国屈指の実力者が名を連ね、重要政務の合議を担った 5 。一方、五奉行には浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以といった秀吉子飼いの吏僚が任命され、豊臣家の直轄領(蔵入地)の管理や日常的な行政実務を司った 7 。
しかし、この制度は円滑な協力を前提としたものではなく、むしろ秀吉の深い洞察と猜疑心から生まれた、巧妙な権力分散の仕組みであった。特に、関東に250万石を超える広大な領地を持つ徳川家康の存在を警戒した秀吉は、五奉行の行政権限を意図的に強化し、五大老の軍事力・政治力と拮抗させる構造を作り上げた。近年の研究では、従来考えられていたような「五大老が上で五奉行が下」という単純な序列ではなかったことが明らかにされている 8 。特に、大名の力を左右する知行(領地)の配分において、五奉行がその実務を主導し、五大老は秀頼の名代としてそれに署名するに過ぎないという側面があった 8 。これは、豊臣家の財政基盤を握る五奉行が、実質的に政権の「門番」としての役割を担っていたことを意味する。秀吉は、忠実な家臣である奉行衆と、半ば独立した大大名である大老衆との相互牽制によって、秀頼が成人するまでの時間稼ぎをしようとした。しかし、この意図的に埋め込まれた対立構造は、最高権力者である秀吉の死後、政権を崩壊へと導く致命的な断層となる運命にあった。
第一章:死への秒読み—伏見城最後の日々
三月:醍醐の花見—最後の栄華
慶長三年三月十五日、秀吉は病身を押して、京都の醍醐寺三宝院で空前絶後の花見の宴を催した 3 。招待客は1,300人にも及び、北政所や淀殿をはじめとする女房衆が華やかな衣装を競い、諸大名がその威勢を誇示したこの宴は、天下人・秀吉の権勢が未だ揺るぎないことを天下に示す、壮大な政治的パフォーマンスであった 9 。
しかし、その華やかさの裏で、秀吉の肉体は確実に死へと向かっていた。当時の記録である『西笑承兌書状』には、この頃すでに「春以来度々体調を崩され」「ふだんより食事が減っている」と記されており、その衰弱は側近たちの目には明らかであった 3 。指導者の健康状態が政権の安定に直結する時代にあって、自身の衰えが家康ら有力大名の野心を刺激しかねないことを、秀吉は痛いほど理解していた。それゆえに、この醍醐の花見は単なる遊興ではなく、自らの健在を誇示し、かろうじて保たれている政権の秩序を維持するための、必死の演出であったと言える。その絢爛豪華さは、むしろ秀吉が抱える深い不安の裏返しだったのである。
四月~七月:病状の悪化と権力移譲の準備
花見を境に、秀吉の病状は急速に悪化の一途をたどる。食欲は完全に失われ、体は見る影もなく痩せ衰え、慢性の下痢や不眠といった症状に苦しんだ 9 。後世の医学史家たちは、その死因を脳動脈硬化や多発性梗塞、あるいは結核や悪性腫瘍といった消耗性疾患などと推測しているが、いずれにせよ、もはや回復の見込みがないことは誰の目にも明らかであった 10 。
自身の死期を悟った秀吉と側近たちは、水面下で権力移譲の準備を急いだ。七月十三日、秀吉は正式に五大老・五奉行を召し出し、死後の政権運営を委任した 3 。しかし、その直前の動きは、すでに始まっていた権力闘争の萌芽を物語っている。五奉行筆頭の石田三成が九州に出張していた隙を突くかのように、七月十五日、徳川家康と前田利家が連名で、毛利輝元や島津義久といった西国の有力大名から、秀頼への忠誠を誓う起請文を個別に提出させている 11 。これは、他の大老・奉行衆を格下の立場に置き、家康と利家の二人が政権を主導する「二大老体制」を既成事実化しようとする家康主導の動きであった可能性が指摘されている 11 。豊臣政権の集団指導体制は、その発足前から内部に深刻な亀裂を抱えていたのである。
八月五日:『御遺言覚書』—天下人の懇願
慶長三年八月五日、もはや筆を執る力も尽きかけていた秀吉は、五大老を枕元に呼び、最後の遺言を口述させた。その内容は、天下国家を論じる壮大なものではなく、ただひたすらに最愛の息子・秀頼の将来を案じる、一人の父親としての切実な懇願に満ちていた 12 。
「返す返す秀より事、たのみ申し候、五人のしゆたのみ申候」(繰り返し繰り返し、秀頼のことをお頼み申す。五人の衆(大老)にお頼み申す) 13 。この言葉は、もはや天下人としての命令ではなく、衰弱した老人が、日本で最も力を持つ五人の男たちにすがるような、悲痛な響きを持っていた。彼は、この遺言で「なに事も此ほかにわおもひのこす事なく候」(万事、このほかには、未練を残すことはない)と述べ、秀頼の安泰こそが唯一の心残りであることを吐露している 13 。
一方で、政権運営の具体的な細則については、「いさい五人の物(奉行)ニ申わたし候」(詳しいことは五人の奉行に言い渡してある)と記した 13 。この一文は、実務を奉行衆に委ねるという秀吉の意図を示すと同時に、大老と奉行の権限の境界を曖昧にし、結果的に両者の対立を助長する火種となった。
八月十八日:太閤薨去
慶長三年八月十八日、天下人・豊臣秀吉は、自らが築いた壮麗な伏見城の一室で、その波乱に満ちた62年の生涯を閉じた 3 。
その死は、徳川家康らごく一部の首脳部によって直ちに秘匿された。絶対的権力者の死がもたらす権力の真空は、国内の政情不安を招くだけでなく、遠く朝鮮半島で戦う14万もの将兵の士気を崩壊させ、全軍の壊滅に繋がりかねない。秀吉の死という衝撃的な事実を管理し、ソフトランディングさせること。それが、残された者たちに課せられた最初の、そして最大の課題であった。
死の床で詠んだとされる辞世の句は、彼の心境を雄弁に物語っている。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
(露としてこの世に生まれ、露のようにはかなく消えていく我が身であることよ。栄華を極めた大坂での日々も、今となってはまるで夢の中で見た夢のようだ) 15。
一代で天下の頂点に上り詰めた男が最後に見たものは、権勢の儚さと、すべてが幻であったかのような空虚感だったのである 18。
第二章:秘匿された死—朝鮮からの撤退戦
指令と情報統制
秀吉の死は、豊臣政権の存亡を揺るがす最高機密とされた。徳川家康ら五大老と五奉行は、国内の動揺を防ぎ、権力移譲を円滑に進めるため、その死を厳重に秘匿した。朝鮮半島に展開する大軍への撤退命令が発せられたのは、秀吉の死から一週間後の八月二十五日であった 3 。使者が博多から海を渡り、釜山の日本軍本営にその報を届けたのは、さらに一ヶ月以上が経過した十月一日のことである 3 。この情報統制と時間差は、最高司令官の不在という致命的な事態が前線の混乱と瓦解を招くことを防ぎ、秩序ある撤退作戦を準備するために不可欠な措置であった 19 。
情報真空地帯での死闘
秀吉がこの世を去ったことを知らぬまま、朝鮮南岸に築かれた倭城群の日本軍将兵は、依然として明・朝鮮連合軍との熾烈な戦いを続けていた。この約一ヶ月半の「情報真空期間」に、慶長の役における最大級の激戦が繰り広げられた。
- 第二次蔚山城の戦い(九月二十一日〜): 前年末の第一次蔚山城の戦いで地獄の籠城戦を耐え抜いた加藤清正のもとに、再び数万の明・朝鮮軍が押し寄せた。今回は大きな戦闘には至らず、数日で敵軍は撤退したが、前線の緊張は極度に高まっていた 3 。
- 泗川の戦い(十月一日): 島津義弘は、わずか7,000の兵で16,000と号する明・朝鮮軍を泗川城外に誘い出し、これを壊滅させた。この戦いでの勇猛さから、島津義弘は「石蔓子(イシマンズ)」と恐れられることになる 3 。
- 順天城の戦い(九月十九日〜): 小西行長が守る順天倭城にも、水陸から23,000の敵軍が殺到。行長は13,700の兵でこれをよく防ぎ、一ヶ月にわたる攻防の末、敵軍を撃退した 3 。
これらの戦いは、秀吉の死を知らず、あくまで持ち場を死守せよとの命令を遂行していた現場の将兵による、壮絶な防衛戦であった。しかし、結果的にこれらの勝利は、日本軍全体の崩壊を防ぎ、明・朝鮮軍に大きな損害を与えて追撃の意図を挫くことに繋がった。もしこのいずれかの戦線で日本軍が大敗を喫していれば、撤退命令が届く前に全軍がパニックに陥り、壊滅的な敗走となっていた可能性は高い。皮肉にも、秀吉の死を知らずに戦われたこれらの死闘が、その後の秩序ある撤退を可能にするための戦術的基盤を築いたのである。
史上最大の撤退作戦と露梁海戦
十月一日、五大老連署の撤退命令が釜山に到着すると、14万の将兵を帰国させるという、史上最大規模の海上撤退作戦が開始された 3 。日本本土では石田三成、毛利秀元、浅野長政らが博多に陣取り、帰還する将兵の受け入れと差配を指揮した 3 。
しかし、敵前での撤退は困難を極めた。特に、朝鮮水軍の再建を果たした名将・李舜臣は、日本の水軍を徹底的に追撃し、退路を脅かした。順天城の小西行長は、李舜臣と明の水軍に海上を封鎖され、絶体絶命の窮地に陥る 19 。この小西軍を救出するため、十一月十八日、島津義弘率いる艦隊が露梁海峡で明・朝鮮連合水軍に決戦を挑んだ。これが「露梁海戦」である。夜間の奇襲で始まったこの海戦で、島津軍は多大な犠牲を払いながらも敵艦隊の包囲網に風穴を開け、その隙に小西軍は順天からの脱出に成功した 21 。この激戦の最中、朝鮮の英雄・李舜臣もまた、流れ弾に当たり戦死を遂げている。
露梁海戦を最後に、日本軍の組織的な抵抗は終結した。十一月二十三日には加藤清正が釜山城に火を放って帰国の途につき、これを皮切りに諸将が続々と日本へと渡航した 21 。十二月には、ほぼ全ての部隊が帰国を完了し、7年間にわたって東アジア全域を巻き込んだ未曾有の大戦は、侵略者である日本の完全な敗北という形で幕を閉じた 2 。
第三章:権力の真空—動き出す野心
家康の掟破り—私婚政策による派閥形成
秀吉の死によって生まれた権力の真空を、最も迅速かつ巧みに利用したのは、五大老筆頭の徳川家康であった。秀吉の死からわずか5ヶ月後の慶長四年(1599年)正月、家康は秀吉が遺言で固く禁じていた「大名間の無許可での婚姻」を公然と断行する 4 。
家康は、自身の六男・松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫、養女・満天姫と福島正則の養子・福島正之、さらに加藤清正の子とも縁組を進めた 22 。これらは単なる血縁関係の構築ではない。豊臣政権の最高法規である「御掟」を意図的に破ることで、自らがもはや豊臣家の一大名に留まらない存在であることを内外に誇示し、朝鮮出兵を通じて石田三成ら文治派に不満を募らせていた武断派の有力大名たちを、自らの派閥へと巧みに引き込むための、計算され尽くした政治的策略であった。
利家との対峙—一触絶発の伏見・大坂
家康のこの露骨な覇権掌握の動きに対し、豊臣政権の忠臣たちは激しく反発した。五奉行の石田三成、増田長盛、長束正家らは即座に家康の違法行為を弾劾。そして、秀吉から秀頼の後見人(傅役)を託され、大坂城にあって幼君を守護していた五大老第二席の前田利家もこれに同調した 24 。利家は、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家ら他の三大老と連携し、家康に対して詰問の使者を派遣した 26 。
事態は一気に緊迫する。家康は伏見城に、利家は大坂城に拠り、両者の屋敷にはそれぞれの与党に属する大名たちが武装して集結した 26 。京・大坂の市中は武士で溢れかえり、店舗は戸を閉ざし、天下分け目の戦が間近に迫っているかのような緊張感に包まれた 26 。この時、唯一家康と対等に渡り合える政治力と軍事力、そして秀吉との長年の友情という「格」を兼ね備えていたのが利家であった。彼の断固たる姿勢は、さすがの家康も無視することはできなかった。最終的に、家康は「今後は御掟を遵守する」という内容の誓書を提出し、利家の仲裁を受け入れる形で事態は収拾された 22 。一時は豊臣政権の結束が保たれたかに見えた。
閏三月三日、利家の死—権力均衡の崩壊
しかし、この危うい均衡は長くは続かなかった。家康との対峙で心身をすり減らした前田利家は、騒動の収束からわずか一ヶ月後の慶長四年閏三月三日、大坂の自邸で病死した 26 。享年62。秀吉の盟友であり、豊臣政権内で家康を唯一抑制し得た「重石」が、この瞬間、失われたのである 27 。
利家の死は、豊臣政権の内部対立を決定的に加速させた。これまで利家という調停役の存在によってかろうじて抑えられていた、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派の積年の対立が、堰を切ったように噴出する。豊臣政権の崩壊は、もはや誰にも止められない段階へと突入した 27 。
第四章:分裂する豊臣家—関ヶ原への道
石田三成襲撃事件—文治派の失脚
前田利家が息を引き取ったその夜、豊臣政権の分裂を象徴する事件が発生する。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、かねてより深く対立していた石田三成を討ち果たすべく、武装して大坂の三成屋敷を襲撃しようと計画したのである 29 。
彼らの憎悪の根源は、7年間に及んだ朝鮮出兵にあった。戦地での功績を正当に評価せず、些細な軍規違反をことさらに報告してくる軍目付、そしてその背後で全てを統括していると見なされた石田三成に対し、命を懸けて戦った武断派の将軍たちの不満は頂点に達していた 31 。利家という最後の歯止めがなくなったことで、その怒りが一気に爆発した。
三成は、佐竹義宣らの手引きで辛くも大坂を脱出し、伏見城下の自邸に逃げ込んだ(通説では家康屋敷に逃げ込んだとされるが、これは後世の創作であるとの見方が現在では有力である) 30 。この騒動の仲裁役として登場したのが、徳川家康であった。家康は七将の怒りを鎮めるという名目で、三成を五奉行の職から解任し、居城である近江・佐和山城での蟄居を命じた 4 。これは家康にとって、対立する両者を巧みに手玉に取り、政敵である三成を中央政界から排除すると同時に、武断派の諸将を自らの陣営に引き入れるという、一石二鳥の妙手であった。
前田家への圧力と上杉家への征伐令
三成を失脚させた家康は、次なる手として五大老の無力化に着手した。まず標的となったのは、利家の跡を継いで加賀百万石の当主となった前田利長であった。家康は利長に「家康暗殺計画」を企てたという濡れ衣を着せ、加賀征伐の構えを見せた 33 。前田家内では主戦論も沸き起こったが、最終的には利長の母・芳春院(まつ)が、家の存続を第一に考え、自ら人質として江戸へ下ることを決断する 35 。これにより、五大老の一角であった前田家は家康に恭順の意を示し、豊臣政権の中枢から事実上脱落した 36 。
次なる標的は、会津120万石の大領を持つ上杉景勝であった 37 。家康は、景勝が領国で新たな城(神指城)の普請や道路整備、軍備増強を進めていることを「謀反の兆し」と断じ、弁明のために上洛するよう厳命した 38 。これに対し、上杉家家老・直江兼続が家康の非を鳴らす挑発的な返書(いわゆる「直江状」)を送ったことを口実に、家康は諸大名を動員しての「会津征伐」を宣言する 38 。これは、あくまで豊臣秀頼公への忠誠を誓わない上杉家を討つという「公儀の戦い」として位置づけられ、多くの豊臣恩顧の大名が家康の下に馳せ参じた 39 。
西軍の決起—打倒家康への狼煙
慶長五年(1600年)六月、家康が会津征伐のため、大軍を率いて大坂を発った。この権力の空白を、佐和山で雌伏していた石田三成は見逃さなかった。三成は盟友の大谷吉継らと謀り、五大老の一人である毛利輝元を総大将として擁立し、反家康勢力を結集して挙兵する 40 。
ここで注目すべきは、総大将となった毛利輝元の動向である。従来の歴史観では、輝元は三成に担ぎ上げられただけの気概のない当主と見なされがちであった。しかし、近年の研究では、輝元こそがこの西軍決起の黒幕の一人であり、家康との対決を機に毛利家の勢力回復と天下への野心を抱いていた、主体的な指導者であったという見方が強まっている 42 。事実、輝元は家康打倒の檄文である「内府ちかひの条々」が発せられるよりも早く、六万の兵を率いて本拠の広島を出発し、家康不在の大坂城を電光石火の速さで占拠、秀頼をその保護下に置いている 43 。これは、輝元が単なる神輿ではなく、この政変の能動的なプレイヤーであったことを示唆している。関ヶ原の戦いは、単なる「家康対三成」の私闘ではなく、秀吉が遺した統治機構が二つに割れ、毛利輝元と徳川家康という二人の大老をそれぞれの頂点として激突した、豊臣政権の内戦であった。
氏名 |
役職 |
主要領地・石高 |
関ヶ原での所属 |
主な動向と結果 |
徳川 家康 |
五大老 |
関東 255万石 |
東軍 総大将 |
会津征伐を主導。関ヶ原で勝利し、天下の実権を掌握する。 |
前田 利長 |
五大老 |
加賀 83万石 |
東軍 |
家康に恭順。関ヶ原の本戦には不参加だが、北陸で西軍方と交戦。 |
毛利 輝元 |
五大老 |
安芸 120万石 |
西軍 総大将 |
大坂城に入り秀頼を擁するも、本戦には不参加。戦後、大幅に減封される。 |
上杉 景勝 |
五大老 |
会津 120万石 |
西軍 |
会津で東軍の伊達・最上軍と交戦。本戦には不参加。戦後、減封。 |
宇喜多 秀家 |
五大老 |
備前 57万石 |
西軍 |
西軍の主力として本戦で奮戦するも敗北。八丈島へ流罪となる。 |
石田 三成 |
五奉行 |
近江 19万石 |
西軍 (実質的指導者) |
家康打倒のため挙兵。関ヶ原で敗北し、捕縛・処刑される。 |
福島 正則 |
(武断派) |
尾張清洲 24万石 |
東軍 |
家康方に付き、関ヶ原の戦端を開く。三成と深く対立。 |
加藤 清正 |
(武断派) |
肥後 25万石 |
東軍 |
九州で西軍方と交戦。三成と深く対立。 |
小早川 秀秋 |
(豊臣一門) |
筑前 30万石 |
西軍→東軍へ寝返り |
関ヶ原の戦局を決定づける寝返りを行う。 |
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結論:夢のまた夢—太閤の遺産と徳川の時代の幕開け
慶長三年八月十八日の豊臣秀吉の死は、一個人の死に留まらず、一つの時代の終わりと、新たな時代の胎動を告げる歴史の転換点であった。農民の子から天下人へと駆け上がった英雄が一代で築き上げた巨大な権力構造は、その絶対的な支柱を失った瞬間から、急速に崩壊への道をたどり始めた。
秀吉が幼い秀頼の将来を案じて遺した五大老・五奉行による集団指導体制は、彼の理想とは裏腹に、諸大名の野心と利害が衝突する権力闘争の舞台と化した。その構造的欠陥は、圧倒的な実力を有しながらも巧みに爪を隠していた徳川家康の存在と、唯一彼を抑制し得た前田利家の早すぎる死によって、致命的なものとなった。
さらに、秀吉晩年の大事業であった朝鮮出兵は、豊臣政権に二重の打撃を与えた。莫大な戦費は豊臣家の財政を圧迫し、派兵の主力であった西国大名の国力を疲弊させた 3 。その一方で、この戦争は豊臣家臣団の内部に「武断派」と「文治派」という修復不可能な亀裂を生み出し、家康がその対立に乗じて勢力を拡大する絶好の土壌を提供したのである。
秀吉が辞世の句に詠んだ「浪速のことも 夢のまた夢」という言葉は、彼自身の人生の儚さのみならず、彼が築いた豊臣家の栄華そのものが、彼の死と共にまさに夢の中の夢のごとく消え去る運命を予言していたかのようである 15 。秀吉の死から関ヶ原の戦いに至るわずか2年間の激動は、個人のカリスマが時代を動かした戦国乱世の終焉と、より強固な制度に基づく徳川幕藩体制という新たな秩序の到来を告げる、日本の歴史における決定的な分水嶺であった。巨星の墜落は、必然的に新たな時代の夜明けを促したのである。
引用文献
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- 文禄・慶長の役 - スタンプメイツ http://www.stampmates.sakura.ne.jp/gv-jBnKecho.html
- 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1597/
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的 ... https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 【高校日本史B】「五奉行と五大老」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12796/point-2/
- 「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/479426
- 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
- 五大老と五奉行の上下関係に疑問符!? 実は五奉行の方が偉かった ... https://www.rekishijin.com/2117
- 豊臣秀吉の死因は?病気説や毒殺説など諸説あり - 大阪城観光ガイド https://osaka-castle.jp/toyotomihideyoshi/toyotomi-hideyoshi-shiin.html
- 【識者の眼】「絶対権力者の性格変化 豊臣秀吉」早川 智 – 日本医事 ... https://www.jmedj.co.jp/blogs/product/product_19339
- 考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文 ... https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2019/10/22/140026
- 一 秀吉死後の政情 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8034
- [170]豊臣秀吉の遺言状 - 未分類 - 未形の空 - FC2 https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-170.html
- 露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢 - おいどんブログ https://oidon5.hatenablog.com/entry/2019/08/04/213132
- 豊臣秀吉の辞世 戦国百人一首①|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n14ef146b40f1
- 戦国武将の辞世の句10選!有名・マイナーな武将たちの最後の言葉 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/samurai-death-poem/
- [78]豊臣秀吉辞世の歌 - 未形の空 https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-79.html
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- 秀吉の掟「完全無視」で討伐される寸前!家康の“政略結婚”が異例だった理由 https://diamond.jp/articles/-/331428
- すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
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- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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