最終更新日 2025-09-18

越中一向一揆体制(1530頃)

越中一向一揆体制は、門徒が信仰で築いた独立国家。畠山氏の衰退に乗じ、鉄砲を手に戦国大名と渡り合うも、上杉謙信に敗れ織田勢に解体。
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越中一向一揆体制興亡史 ― 門徒が創りし百年の自治とその終焉

序章:黎明 ― 「門徒の国」の胎動(14世紀末~1520年)

1530年頃、日本の戦国史において特異な光を放つ地域支配体制が越中国(現在の富山県)に確立された。それは特定の戦国大名による支配ではなく、浄土真宗本願寺教団の門徒たちが、その信仰の力をもって構築した「越中一向一揆体制」である。この体制は、単なる農民反乱の延長線上にあるものではなく、約半世紀にわたり越中の政治・軍事・経済を動かした独立した地域国家であった。その成立を理解するためには、時計の針を1世紀以上巻き戻し、越中の地に信仰の種が蒔かれ、既存の権力が崩壊していく過程から紐解く必要がある。

第一節:信仰の根付き ― 越中における本願寺教団の拡大

越中における浄土真宗の歴史は古く、親鸞聖人が越後へ流罪となった承元年間(1207年~1211年)にまで遡る。聖人の弟子となった願海房信性が、聖人の命を受けて越中で布教を開始したことが、その原点とされる 1 。しかし、これが強固な教団組織として北陸の地に根を張るには、本願寺教団自身の組織的な展開を待たねばならなかった。

その大きな画期となったのが、明徳元年(1390年)の本願寺第5世法主・綽如による越中井波での瑞泉寺創建である 2 。瑞泉寺は、越中における本願寺教団の布教活動の最大拠点として、着実にその影響力を拡大していった。さらに嘉吉2年(1442年)、綽如の孫娘を娶った如乗(第6世法主・巧如の次男)が、加賀に本泉寺を建立した 3 。この本泉寺は、瑞泉寺を支援する目的で建てられており、当初から越中と加賀の教団は密接な連携関係にあった 5

そして15世紀後半、本願寺中興の祖と称される第8世法主・蓮如が越前吉崎に坊舎を構えると(1471年)、北陸における本願寺教団の勢力は爆発的に増大する 6 。蓮如は「御文(御文章)」と呼ばれる平易な手紙形式の法話を通じて、武士から農民に至るまで幅広い階層の人々の心を掴み、強固な門徒集団を組織していった。越中においても、瑞泉寺を中心とする既存の基盤の上に蓮如の教えが広まることで、単なる宗教団体から、社会を動かす力を持つ巨大な組織へと変貌を遂げる土壌が形成されていったのである。

第二節:権力の真空 ― 守護畠山氏の凋落と在地領主の相克

一向一揆勢力が台頭する背景には、宗教的な熱狂という内的な要因だけでなく、既存の政治秩序が崩壊したという外的な要因が大きく作用していた。当時の越中は、室町幕府の管領家の一つである畠山氏が守護職を世襲していた。しかし、畠山氏は在京していることが常であり、現地の政治は守護代である遊佐氏、神保氏、椎名氏といった有力国人に委ねられていた 7

この統治構造は、明応2年(1493年)に勃発した「明応の政変」を境に大きく揺らぎ始める。この政変により、将軍・足利義材(後の義稙)と共に畠山政長が京で討ち死にし、その子・尚順は紀伊へ逃れることとなった 8 。これ以降、畠山宗家は畿内における細川氏との抗争や一族内の内紛に明け暮れ、遠国の越中に対する支配力を著しく低下させていく 9

上位権力である守護・畠山氏の権威が失墜すると、その代理人であった守護代たちは、もはや畠山氏の代官としてではなく、自らの勢力拡大を目指す独立したプレイヤーとして行動を開始する。特に、射水・婦負郡を地盤とする神保氏と、新川郡を地盤とする椎名氏が越中を二分して激しく争うようになり、国内は恒常的な戦乱状態に陥った 11 。国全体を安定させる権力が存在しない「権力の真空」が、越中に生まれていたのである。このような先の見えない混乱の中で、信仰による強固な結束力と「講」という相互扶助の組織網を持つ一向一揆勢力は、在地社会にとって武士に代わる新たな秩序の担い手、あるいは混乱から身を守るための避難所として、その存在感を増していった。

第三節:田屋川原の衝撃(1481年) ― 武士を破りし門徒たち

文明13年(1481年)、一向一揆勢力が単なる宗教集団から、在地武士を軍事的に打倒しうる地域権力へと変貌を遂げた象徴的な事件が起こる。「田屋川原の戦い」である。この戦いは、加賀守護・富樫政親による一向一揆弾圧に端を発する。政親に追われた加賀の門徒たちは、国境を越えて越中の瑞泉寺へと逃げ込んだ 3

この事態を脅威と見なしたのが、越中砺波郡南部の福光城主・石黒光義であった。石黒氏は古くからこの地を治める名族であり、一向一揆の勢力拡大を座視できなかった 13 。彼は加賀の富樫政親と連携し、瑞泉寺の討伐に乗り出す 14 。しかし、石黒軍が瑞泉寺に迫った田屋川原(現在の富山県南砺市)において、瑞泉寺を中心とする一向一揆勢がこれを迎え撃ち、石黒光義はまさかの敗死を遂げた 3

この戦いの詳細を伝えるのは『闘諍記』という後世に成立した軍記物語であり、同時代の一次史料が存在しないことから、その記述の信憑性については議論がある 13 。しかし、この時期に在地領主の石黒氏が没落し、砺波郡一帯が一向一揆の強固な勢力圏と化したことは歴史的な事実と見なされている 13 。田屋川原の戦いは、その実在性の議論はあれど、越中の一向一揆が守護の権威に頼らず、自らの武力で在地武士を排除し、領地を支配する能力を内外に示した最初の狼煙であった。この衝撃的な勝利により、彼らは後の体制構築に向けた最初の、そして最も重要な地盤を自らの手で築き上げたのである。

第一章:体制の確立 ― 享禄・天文の動乱と越中の支配者たち(1521年~1540年代)

田屋川原の戦いを経て、越中西部に確固たる地盤を築いた一向一揆勢力。しかし、彼らが国人領主の一角から越中全体の支配者へと飛躍するには、さらなる政治的動乱を必要とした。1520年代から30年代にかけて、越中内外で発生した複数の争乱が複雑に絡み合い、結果として越中に独自の支配体制が誕生するという、歴史の妙が展開されることになる。

第一節:さらなる権力の空白 ― 神保慶宗の自刃と長尾氏の介入

田屋川原の戦い以降も、越中一向一揆は在地領主との連携と対立を繰り返していた。特に守護代筆頭格であった神保氏との関係は、越中の情勢を左右する重要な要素であった。永正3年(1506年)、一向一揆は神保慶宗と連合し、畠山氏の要請で越中に出兵してきた越後守護代・長尾能景を般若野の戦いで討ち取るという大金星を挙げる 12

しかし、この勝利は新たな、そしてより強力な敵を越中に招き入れる結果となった。父の仇を討つべく燃える能景の子・長尾為景(上杉謙信の父)が、執拗な越中侵攻を開始したのである。為景と慶宗の戦いは長期に及び、ついに永正17年(1520年)12月、為景の猛攻の前に神保慶宗は敗れ、自刃に追い込まれた 12 。これにより、越中における神保氏の勢力は一時的に壊滅状態となり、大永・享禄期(1521年~1532年)の史料からはその活動がほとんど見られなくなる 16

守護・畠山氏が機能不全に陥り、さらに守護代筆頭の神保氏までもが崩壊したことで、越中の「権力の真空」は決定的なものとなった。介入してきた長尾為景もまた、越後国内で上条定憲らが蜂起した「享禄・天文の乱」という大規模な内乱に巻き込まれており、越中に恒常的な支配体制を築く余裕はなかった 17 。まさにこの、いずれの武士勢力も越中を完全に掌握しきれない絶妙なパワーバランスの空白期間が、一向一揆が次なる飛躍を遂げるための、またとない好機となったのである。

第二節:運命の分岐点 ― 加賀「大小一揆」(1531年)の衝撃

1531年(享禄4年)、隣国・加賀で勃発した内乱が、越中の運命を決定づけることになる。本願寺の支配下にあった加賀で、在地化した教団幹部や国人衆(小一揆)と、本願寺中央から派遣された坊官やそれに従う勢力(大一揆)との間で、「大小一揆」と呼ばれる大規模な内戦が勃発したのである 3 。この内乱は、畿内における本願寺と細川晴元、畠山義堯らの政争、いわゆる「享禄・天文の乱」とも密接に連動しており、本願寺が畿内で大規模な軍事動員を行うほどの総力戦であった 18

この重要な局面において、越中の一向一揆勢力、特に射水郡の勝興寺(当時の土山御坊)は、本願寺法主の意向に従い「大一揆」側に与して参戦した 3 。戦いは本願寺側(大一揆)の勝利に終わり、本願寺は加賀に対する支配を再構築することになる。

ここでの本願寺の戦略的判断が、越中に独自の体制を生み出す直接的な原因となった。大小一揆の勝利後、本願寺は内乱の再発を防ぐため、加賀を最重要拠点と位置づけ、坊官を派遣して直接統治下に置くことを決定した 12 。これは、加賀が「百姓の持ちたる国」として半ば独立状態にあったことを改め、本願寺中央の統制を徹底する狙いがあった。

一方で、越中は本願寺にとって二次的な地域であった。大小一揆において本願寺への忠誠を示した勝興寺と、それに協調した瑞泉寺に現地の統治を委ねる方が、統治コストも低く、効率的であると判断された。その結果、加賀では本願寺の支配が強化されたのとは対照的に、越中では現地の二大寺院による自律的な支配体制が、本願寺中央から公認される形となったのである。つまり、「越中一向一揆体制」は、越中の門徒たちが自らの革命によって勝ち取ったというよりも、隣国・加賀の内乱と、それに対する本願寺中央の戦略的判断の「副産物」として成立した側面が強い。この成立過程は、後の体制が持つ自律性と同時に、本願寺への従属性という二面性の根源ともなった。

第三節:二頭支配体制の誕生

大小一揆の結果、越中は勝興寺と瑞泉寺という二大寺院の共同支配下に入ることが確定した 12 。これにより、守護や守護代といった旧来の武家支配構造は完全に形骸化し、信仰組織を核とする新たな地域支配体制が名実ともに確立された。これが、本報告書で定義する「越中一向一揆体制」である。1531年は、越中が戦国時代の多様な地域国家形成史の中でも、極めてユニークな「門徒の国」として、その歴史を歩み始めた画期的な年として記憶されるべきであろう。

第二章:体制の実像 ― 統治構造と社会(分析的視点)

1531年の大小一揆を経て確立された「越中一向一揆体制」。それは、具体的にどのような統治構造を持ち、いかなる社会を形成していたのだろうか。本章では、時系列の進行を一旦止め、この特異な地域国家の内部構造を分析的に解剖する。

第一節:信仰と軍事の結合 ― 統治のピラミッド

越中一向一揆体制は、しばしば「百姓の持ちたる国」と称された加賀一向一揆と混同されがちだが、その実態は農民による共和制のようなものではなかった 19 。むしろ、その統治構造は、信仰を頂点とする階層的なピラミッド構造を成していた。

体制の頂点に君臨したのは、井波の瑞泉寺と、高岡の勝興寺(当時は土山御坊)という二つの大寺院であった 12 。これら二大寺院は、さらに加賀の本泉寺の監督下にあり、その最上位には大坂の本願寺法主が存在するという、教団の指揮命令系統に組み込まれていた 21

その下には、各地の門徒たちが「講」という信仰共同体を単位として組織されていた 22 。この「講」が、平時においては地域の結束を固め、本願寺への寄進(事実上の年貢)を取りまとめ、有事の際には動員される兵力の源泉となった。

そして、この体制の軍事的な実務を担ったのが、一揆に与した土豪や浪人といった武士階級であった。彼らは平時には門徒の顧問的な役割を果たし、戦時においては部隊の指揮官として前線に立った 23 。この構造は、体制の正統性の源泉が本願寺法主への信仰という宗教的権威にある一方で、実際の軍事指揮や在地支配は世俗の武士階級が担うという、いわば「神政封建制」とも呼べるハイブリッドなものであった。一般の農民門徒は、依然として「被治者」であり、領主が守護大名から寺院や土豪に変わっただけで、社会階層そのものが覆されたわけではなかったのである 23

第二節:経済基盤 ― 寺内町の繁栄と流通の掌握

この体制が約半世紀にわたり、周辺の強力な戦国大名と渡り合うことができた背景には、強固な経済基盤の存在があった。瑞泉寺や勝興寺の門前には「寺内町」が形成され、多くの商工業者が集住した 24 。寺内町は寺院の権威によって守られ、ある程度の自治が認められたため、経済活動の中心地として繁栄した 26

特に、沿岸部に位置していた勝興寺は、日本海を通じた舟運を掌握し、大きな富を蓄えていた。寺の御用商人として活躍した塩屋のような豪商が、その財力を通じて寺の運営に深く関与し、体制を経済的に支えていたのである 27 。門徒からの寄進に加え、商業や流通から得られる利益が、大量の鉄砲を調達し、長期にわたる戦争を遂行するための原動力となっていた。

第三節:二頭支配の内実 ― 瑞泉寺と勝興寺の役割分担

体制の中核を成した瑞泉寺と勝興寺は、同格の協力関係にありながらも、その性格や役割には明確な違いがあった。両者の特徴を比較することで、この二頭支配体制の内実をより深く理解することができる。

項目

井波 瑞泉寺

高岡 勝興寺(土山御坊)

地理的位置

砺波郡(越中西南部・内陸)

射水郡(越中西部・沿岸)

成立背景

綽如上人による創建(古刹) 2

蓮如の子・蓮聖による創建(蓮如直系)

本願寺との関係

本願寺一門が住職を務める 28

当初は傍系だが、大小一揆の功績で一門格へ 21

主な支持基盤

山間部・内陸部の門徒

沿岸部・平野部の門徒、舟運関係者 27

大小一揆での立場

勝興寺と協調

本願寺(大一揆)側につき、主導的役割を果たす 12

近世における処遇

加賀藩より無禄 29

加賀藩より200石の寺領安堵 29

この表が示すように、瑞泉寺は古くからの拠点で内陸部を、勝興寺は蓮如直系の寺院として沿岸部と舟運を基盤としていた。特に、大小一揆において本願寺側として主導的な役割を果たした勝興寺は、体制内での発言力を強めたと考えられる。この戦国時代の活動の差が、後の江戸時代に加賀藩から勝興寺のみが寺領を安堵されるという処遇の違いに繋がったことは、非常に示唆に富んでいる 29 。両寺院は、時に協力し、時に競争しながら、越中という国を共同で統治する、絶妙なバランスの上に成り立っていたのである。

第三章:戦国大名との角逐 ― 神保・椎名氏との共存と対立(1540年代~1560年代)

支配体制を確立した一向一揆であったが、越中から武士勢力が一掃されたわけではなかった。一時的に没落していた神保氏が息を吹き返し、椎名氏との抗争が再燃する中で、一向一揆は越中の覇権を巡る複雑な三つ巴の争いへと巻き込まれていく。この時代、彼らは単なる宗教勢力ではなく、越中の政治情勢を左右する戦略的なキープレイヤーとして振る舞うことになる。

第一節:神保長職の台頭と揺れ動く関係

神保慶宗の自刃後、沈黙していた神保氏は、長職の代になって目覚ましい復活を遂げる。長職は富山城を築き、越中中央部から東部へと勢力を拡大し、再び越中の最有力国人としての地位を確立した 11

当初、神保長職は国内最大の勢力である一向一揆との協調路線を選択した。自身の支配を安定させるためには、門徒たちの支持が不可欠であると判断したからである。長職は富山城に門徒の代表を招いて対話し、年貢の一部減免や自治権の部分的な承認といった譲歩も行ったとされる 31 。一向一揆側もまた、神保氏と協力することで、自らの支配領域の安定を図った 32

しかし、この協力関係は盤石なものではなかった。長職が勢力を固め、越後の長尾氏(上杉氏)との関係を模索し始めると、両者の関係は緊張をはらむようになる。やがて家中の内紛をきっかけに、長職はそれまで親密だった一向一揆への攻撃を開始するなど、関係は協調から敵対へと大きく揺れ動いた 33 。長職にとって一向一揆は、ある時は自らの支配を補完する協力者であり、またある時は打倒すべき競争相手であった。これは、信仰で結ばれた組織と、世俗の権力者が、互いの利害に基づいて離合集散を繰り返す、戦国時代の権力闘争の現実を如実に示している。

第二節:椎名康胤の参戦と三つ巴の抗争

神保長職の勢力拡大は、越中東部の新川郡を地盤とする椎名氏にとって深刻な脅威であった。椎名氏はこれに対抗するため、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)と結び、その支援を受けて神保氏との抗争を繰り広げた 11 。これにより、越中は「神保氏 対 椎名・上杉連合」という構図が基本となる。

この状況下で、越中一向一揆は極めて重要な戦略的地位を占めることになった。彼らは国内で最大の動員力を誇る軍事集団であり、その動向が越中の勢力バランスを決定的に左右したからである。神保氏と椎名氏のどちらも、単独で越中を統一する力はなく、一向一揆を味方につけることが勝利への鍵であった。

一向一揆は、この状況を巧みに利用した。当初は神保氏と敵対し、上杉方と協調することもあったが、やがて上杉氏の越中介入が本格化し、自らの自治が脅かされると判断すると、外交方針を転換する。神保氏との内紛や上杉氏の圧力に不満を抱いていた椎名康胤が、武田信玄の調略に応じて反旗を翻すと、一向一揆はこれに同調し、椎名氏と軍事同盟を結んで上杉氏と敵対した 35

このように、越中一向一揆は、神保・椎名両陣営を天秤にかけ、常に自らの存続と利益が最大化されるよう、極めて現実的な政治判断を下していた。彼らはもはや単なる一勢力ではなく、越中の政治情勢の行方を左右する「キャスティングボート」を握る存在となっていたのである。

四章:終焉への序曲 ― 越後の龍、来襲(1560年代~1572年)

1560年代に入ると、越中を巡る情勢は新たな局面を迎える。川中島で宿敵・武田信玄と激闘を繰り広げていた越後の龍・上杉謙信が、背後の安全を確保し、さらには上洛の足掛かりとするため、越中への本格的な軍事介入を開始したのである。これは、約40年にわたり越中を支配してきた一向一揆体制にとって、存亡をかけた最大の試練の始まりであった。

第一節:上杉謙信の越中平定戦

謙信の越中経営は、当初から困難を極めた。神保長職を富山城から追放し、支援していた椎名康胤には裏切られるなど、越中の国人たちは離合集散を繰り返し、戦況は泥沼化の様相を呈した 36

謙信の執拗な攻撃に強い危機感を抱いたのが、大坂の本願寺法主・顕如であった。当時、本願寺は織田信長と石山合戦の真っ只中にあり、信長と同盟関係にあった謙信は、本願寺にとって打倒すべき敵であった。顕如は、武田信玄と連携し、北陸の門徒に対して謙信への総攻撃を指令した 38 。これにより、越中一向一揆は単なる地域紛争の当事者から、天下の情勢を左右する謙信包囲網の一翼を担う存在へと変貌した。

第二節:決戦、尻垂坂(1572年)

元亀3年(1572年)、本願寺の指令を受けた加賀・越中の一向一揆連合軍は、一斉に蜂起した。その勢いは凄まじく、杉浦玄任を総大将に、日宮城、白鳥城、そして富山城といった越中各地の上杉方の拠点を次々と攻略 39 。救援に駆けつけた上杉方の部隊も、一揆勢の巧みな奇襲の前に惨敗を喫し、神通川は血に染まった 41 。一向一揆の攻勢は頂点に達し、越中における上杉勢力は風前の灯火であった。

この危機的状況に、ついに謙信自らが動く。同年8月、1万余の精鋭を率いて越中に入り、新庄城に本陣を構えた 42 。対する一向一揆連合軍は、加賀からの援軍も得て数万の兵力に膨れ上がり、富山城に籠城。しかも、彼らは当時最新鋭の兵器であった鉄砲を大量に保有しており、その火力は上杉軍を凌駕していた 39

戦いは、約1ヶ月にわたり膠着状態に陥った。鉄砲で固められた富山城に、謙信も迂闊に攻撃を仕掛けることができなかったのである 41 。しかし9月初旬、戦況を動かす天候の変化が訪れる。連日の長雨により、戦場一帯は泥田のようになっていた 42 。この機を謙信は見逃さなかった。守りを固める富山城から一揆勢が打って出てきた瞬間、上杉軍の誇る騎馬隊が猛然と突撃を開始したのである。

ぬかるみに足を取られ、統率を失った一揆勢は、精強な上杉軍の前に成す術もなかった。信仰心に支えられた彼らの士気は高かったが、百戦錬磨の謙信が率いるプロの軍事集団の組織的な戦術の前には、その勢いも通じなかった。混乱の中で数千もの門徒が討ち取られ、総大将の杉浦玄任も富山城を捨てて敗走 41 。「尻垂坂の戦い」における一向一揆の歴史的大敗であった。

この一戦は、越中一向一揆体制の軍事的な命運を事実上、絶つものであった。兵力数と最新兵器で優位に立ちながら、卓越した軍事指導者の戦術の前に脆くも崩れ去ったこの敗北は、門徒と土豪の寄せ集めである一揆軍が持つ力の限界、すなわち「プロフェッショナルな戦国大名」に対する「アマチュアリズムの限界」を露呈した瞬間であった。この敗戦により、富山城は陥落し、神通川以東の越中東部は完全に謙信の支配下に入った 3 。ここに、半世紀続いた門徒の国の黄昏が始まったのである。

終章:体制の解体と遺産(1573年~近世)

尻垂坂の戦いで軍事的に壊滅的な打撃を受けた越中一向一揆体制。その後、上杉謙信の急死という予期せぬ事態が起こるも、歴史の潮流は彼らに再起の機会を与えなかった。天下統一への道を突き進む織田信長の勢力が北陸に及び、かつての「門徒の国」は、より強大な近世的権力によって解体され、新たな支配体制へと組み込まれていくことになる。

第一節:織田信長勢力による越中平定

天正6年(1578年)の上杉謙信の死後、上杉家では後継者を巡る内乱「御館の乱」が勃発し、越中への影響力を大きく後退させた。この機を逃さず、織田信長は北陸方面軍を編成し、柴田勝家を総大将として、佐々成政、前田利家らを越中へと侵攻させた 32

尻垂坂の敗戦で主力を失っていた一向一揆の残存勢力や、弱体化した上杉方に、織田の大軍を押しとどめる力はもはや残されていなかった。柴田・佐々軍は越中の諸城を次々と攻略し、天正9年(1581年)には佐々成政が越中の守護代に任じられ、富山城を居城とした。そして天正11年(1583年)頃までには、成政による越中平定がほぼ完了する 32 。これにより、1531年の大小一揆以来、約半世紀にわたって続いた「越中一向一揆体制」は、名実ともにその歴史の幕を閉じたのである。

第二節:武装解除と近世寺院への変貌

本能寺の変後、佐々成政は羽柴秀吉と対立して敗れ、越中は秀吉の盟友である前田利家の支配下に入った。新たな支配者となった前田氏にとって、強固な信仰心を持つ越中の門徒たちは、下手に弾圧すれば大規模な反乱につながりかねない、潜在的な脅威であった。

そこで前田氏は、一向一揆の力を根絶やしにするのではなく、そのエネルギーを巧みに統治体制へと組み込む方策をとった。まず、体制の中核であった勝興寺や瑞泉寺に対し、武装を禁じ、検地を実施して寺領を限定することで、領主としての権力(一円支配権)を完全に剥奪した 46 。これにより、寺院は独立した政治・軍事勢力から、純粋な宗教施設へと変貌させられた。

その一方で、彼らの宗教的権威は温存された。特に、大小一揆で本願寺への忠誠を示し、戦国期を通じて体制の中心であった勝興寺は、前田家から200石の寺領を安堵され、越中における浄土真宗寺院を統括する「触頭(ふれがしら)」に任命された 29 。これは、藩の意向を全門徒に円滑に伝達するための公式なルートを確保するものであり、かつて独立勢力の中核であった寺院が、今度は藩の支配体制を補完する、いわば「宗教部門の出先機関」として再利用されることを意味した。抵抗のエネルギーを統治のエネルギーへと転換させる、これは近世大名の極めて高度な支配技術であった。

第三節:結論 ― 越中の地に刻まれた記憶

「越中一向一揆体制」は、守護権力の崩壊という政治的真空地帯に、強固な信仰組織が地域権力へと発展した、戦国時代の日本における他に類を見ない社会実験であった。それは約半世紀にわたり越中を実効支配し、神保・椎名といった在地領主の動向を左右し、上杉謙信という当代随一の戦国大名と互角に渡り合った。しかし、その力はプロフェッショナルな軍事指導者の前には及ばず、最終的には天下統一という、より大きな権力構造の中に飲み込まれていった。

しかし、その歴史が越中の地に何も残さなかったわけではない。武装は解かれても、人々の心に深く根差した信仰は残り続けた。近世を通じて、瑞泉寺や勝興寺は越中門徒の精神的な支柱であり続け、その記憶は、この地域の歴史と文化の重要な一部を形成している。戦国の世に、門徒たちが自らの力で創り上げようとした自治の国の夢と挫折の物語は、今なお越中の地に深く刻み込まれているのである。

引用文献

  1. 縁起(歴史と歩み) – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 https://www.gankaiji.com/about/
  2. 越中真宗史異聞①〜浄土真宗第5世宗主・綽如と瑞泉寺をめぐる「子細」 https://www.ctt.ne.jp/~okamura/094.html
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  5. 寺号の由来 - 加賀二俣 松扉山 本泉寺 http://honsenji.huruike.com/rekishi.html
  6. 図説福井県史 中世13 浄土真宗のひろがり(1) https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B13/B131.htm
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  41. 上杉謙信VS一向一揆!『尻垂坂の戦い』は謙信の軍略が光った一戦だった! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Szlyc0ENn_g
  42. 新庄城跡、尻垂坂古戦場(富山市) | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/scenery-of-toyama-article/200702-shinjyo-jyo
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  45. "機を見て敏"に動けなかった柴田勝家の後悔|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-031.html
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  47. 歴史 創建から現在の地への移転 [ 国宝 ] 雲龍山 勝興寺 https://shoukouji.jp/history02.html