最終更新日 2025-09-16

越後御館の乱(1578)

上杉謙信の急死後、二人の養子景勝と景虎の間で勃発した家督争い。謙信の曖昧な後継者構想と家臣団の対立、武田・北条の介入が乱を激化。景勝が勝利するも、上杉家は国力を消耗し、その後の衰退を招いた。
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越後御館の乱(1578-1579)― 「軍神」亡き後の国家分裂と権力闘争の力学 ―

序論:越後の巨星、墜つ

天正6年(1578年)3月9日、越後国春日山城内において、戦国時代に「軍神」「越後の龍」と畏怖された上杉謙信が厠で突如倒れた 1 。意識が回復することなく、4日後の3月13日に49年の生涯を閉じたその死は、あまりにも突然であった 1 。謙信の死因について、上杉景勝が国外の諸将に送った書状では「不慮の虫気」、上杉家の公式記録である『上杉年譜』では「卒中」と記されており、脳溢血などの可能性が指摘されている 1 。この越後国の絶対的支柱であった巨星の墜落は、単なる一時代の終わりを意味するものではなかった。それは、謙信という強大な求心力によってかろうじて抑えられていた、上杉家内部の構造的矛盾と権力闘争の火種を一気に噴出させる、破滅的な内乱の引き金となったのである 1

本報告書は、この「御館の乱」を、単に二人の養子による後継者争いという表層的な理解にとどめず、以下の三つの複合的要因が複雑に絡み合って発生した必然的な事象として分析するものである。第一に、上杉家臣団内部に根深く存在した派閥間の構造的対立。第二に、謙信自身の不明確な後継者構想がもたらした、家臣団の分裂と権力闘争の誘発。そして第三に、周辺大国である武田氏、北条氏の地政学的思惑と軍事介入が、乱の趨勢を決定づけた力学である。これらの多角的な視座から、御館の乱の全貌を時系列に沿って詳細に解明することを目的とする。

第一章:乱の萌芽 ― 曖昧な遺志と二人の後継者候補

御館の乱がなぜ不可避であったのか、その根源的な構造を解き明かすためには、謙信存命中の上杉家の権力構造にまで遡る必要がある。謙信の死は、いわば乱の「原因」ではなく、あくまで伏在していた亀裂を顕在化させた「きっかけ」に過ぎなかった。

第一節:謙信の曖昧な後継者構想

謙信は生涯不犯を貫き、正室も側室も持たなかったため実子が存在しなかった 5 。そのため、後継者は養子の中から選ばれることになったが、謙信が家督継承に関する明確な遺志を示した一次史料は、今日に至るまで確認されていない 2 。この後継者指名の欠如、あるいはその曖昧さが、家臣団の分裂と外部勢力の介入を招く最大の要因となった。謙信の構想については、江戸時代から様々な説が存在し、議論が続いている。

上杉景虎後継者説の論拠

景虎が後継者として優遇されていたことを示唆する事実は複数存在する。第一に、謙信が自身の初名である「景虎」という名を授けたことである 1。これは、単なる養子以上の特別な意味を持つ象徴的な行為であった。第二に、謙信の名代として雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を発給するなど、外交儀礼上の重要な役割を担っていたこと 1。第三に、軍役を課されないなどの特権的待遇を受けていたことである 1。これらの事実は、景虎が単なる越相同盟の人質ではなく、上杉家一門として特別な地位にあったことを示している。

上杉景勝後継者説の論拠

一方、景勝が実質的な後継者であったとする論拠もまた強力である。第一に、景勝は謙信の実姉・仙洞院の子であり、血縁的に最も近い甥であった 5。第二に、天正3年(1575年)、謙信が称していた官職「弾正少弼」を譲られ、上杉一門衆の筆頭としての地位を公式に確立したこと 1。第三に、同年の『上杉家軍役帳』において、景勝は家中最大級の兵力(375名)を負担する立場にあり、家臣たちから謙信への尊称「御実城様」に類似した「御中城様」という特別な呼称で呼ばれていたことである 1。これは、景勝が実質的な軍権と家中の序列において、他の追随を許さない地位にあったことを物語っている。

その他の説

これらの二者択一的な見方以外にも、謙信は関東管領職と山内上杉家家督を景虎に、越後国主の座を景勝に継がせるという「家督分権説」や、両者を競わせることで上杉家の結束を固めようとしていたとする説も存在する 13。いずれにせよ、謙信の構想が一筋縄ではなかったこと、そしてその構想が家臣団に明確に共有されていなかったことが、死後の混乱を招いたことは間違いない。

第二節:二人の養子の出自と立場

後継者候補と目された二人の養子は、その出自において実に対照的な存在であった。

上杉景勝 ― 血統の後継者

弘治元年(1555年)、越後魚沼郡の上田長尾家当主・長尾政景の次男として坂戸城下に生まれる 5。母は謙信の実姉である仙洞院であり、謙信は叔父にあたる 5。さらに、景勝の祖母は上条上杉家の出身であり、越後守護上杉家の血も引いていた 1。この血統的な正統性は、越後の国衆にとって受け入れやすいものであった。永禄7年(1564年)に父・政景が謎の溺死を遂げた後、叔父である謙信の養子となり春日山城に入った 5。

上杉景虎 ― 同盟の貴公子

天文23年(1554年)、長らく謙信の宿敵であった相模国の北条氏康の七男(異説あり)として生まれる 1。幼名は三郎。永禄12年(1569年)に上杉氏と北条氏の間で越相同盟が締結されると、その同盟の証として人質として越後へ送られることが決まった 3。元亀元年(1570年)4月、春日山城にて景勝の姉(または妹)である清円院を娶り、正式に上杉一門となった 7。彼の存在は、上杉家の対関東政策における外交上の重要な楔であり、その貴公子然とした容貌と教養は、多くの家臣に好意的に受け入れられたと言われる。

第三節:伏在した亀裂 ― 上杉家臣団の内部対立

御館の乱における家臣団の分裂は、景勝・景虎個人への忠誠心のみによって決定されたわけではない。その根底には、謙信の時代以前から存在する、越後長尾家内部の根深い派閥抗争が存在した。この乱は、いわば長年の内部対立が、後継者問題を触媒として一気に表面化した「代理戦争」としての性格を色濃く帯びていた。

この対立構造の核心にあったのが、景勝の出身母体である 上田長尾家 と、古志郡を地盤とする 古志長尾家 (当主・上杉景信)との長年にわたるライバル関係である 3 。乱が勃発すると、上杉景信をはじめとする古志長尾家の一門は、血縁的にはるかに近い景勝ではなく、外部から来た景虎を支持するという、一見すると不可解な選択をした 3

この選択の背景には、冷徹な権力闘争の力学があった。古志長尾家にとって、最大の脅威は景虎ではなく、ライバルである上田長尾家出身の景勝が上杉家の家督を継ぐことであった。景勝が当主となれば、上田長尾家が上杉家の中枢を完全に掌握し、自派の没落は避けられないと判断したのである。それに対し、景虎は越後国内に固有の政治的・軍事的基盤を持たない「よそ者」であった。それゆえに、古志長尾家やその他の反上田長尾家勢力にとって、景虎は自分たちの影響力を維持・拡大するための、いわば御しやすい「神輿」として最適の存在だったのである。

したがって、御館の乱は景勝と景虎の個人的な資質や人気を巡る争いという側面以上に、上杉家内部に深く根を張っていた既存の権力ブロック(上田派 vs 反上田派)が、謙信という絶対的な調停者の死を機に、それぞれが後継者候補を擁立して全面衝突した「代理戦争」であったと理解することが、その本質を捉える上で不可欠である。

第二章:奔流の刻 ― 乱の勃発と越後全土への拡大(天正6年3月~8月)

謙信の死の直後から、戦線が膠着状態に陥るまでの約半年間、越後の情勢は目まぐるしく動いた。この期間の動きは、乱の初期段階における主導権争いの重要性と、それが後の展開をいかに決定づけたかを示している。

第一節:先手必勝 ― 景勝の電撃的行動(3月13日~3月24日)

謙信死去の報に接した上杉景勝の行動は、驚くほど迅速かつ的確であった。天正6年3月15日には、謙信の遺言であると称して、春日山城の中枢である「実城(本丸)」を占拠 2 。さらに、上杉家の軍事力と経済力の源泉である金蔵と兵器蔵を完全に掌握した 2 。この初動の速さが、その後の乱の趨勢を事実上決定づけたと言っても過言ではない。

景勝が掌握した黄金は、一説に27,000両にのぼり、これは現代の価値に換算して13億円以上とも言われる莫大なものであった 17 。これにより、景勝は潤沢な軍資金を確保し、兵の動員や外部勢力への工作を有利に進めることが可能となった。政庁機能、軍資金、そして「謙信の正当な後継者」という大義名分を物理的に掌握した景勝は、圧倒的な優位に立った。

そして3月24日、景勝は国内外の諸勢力に対し、自身が謙信の後継者となったことを宣言する書状を発し、既成事実化を推し進める 1 。同時に、春日山城の三の丸に屋敷を構えていた景虎への攻撃を開始。合議を経ず、武力によって後継者の座を確定させるという、極めて強硬な手段に打って出たのである 1

第二節:両陣営の形成と対峙(4月~5月)

景勝の攻撃を受けた景虎は、春日山城内での戦闘の末、城を脱出せざるを得なくなった。5月13日、景虎は前関東管領・上杉憲政が居住していた「御館」へと移り、ここを抵抗の拠点とした 3 。この「御館」は、かつて謙信が関東管領・上杉憲政を迎えるために春日山城下に建設した館であり、謙信自身も政庁として使用した象徴的な場所であった 1 。景虎がここを拠点としたのは、自らの正統性をアピールする狙いがあったと考えられる。

景勝の強硬な後継者宣言は、越後国衆の間に不信と反発を招き、景虎を後継者として擁立する動きが急速に広まった 1 。5月に入ると、越後各地の国衆が続々と旗幟を鮮明にし、春日山城の景勝と御館の景虎を核とする両陣営が形成された。5月5日には大場(現在の上越市)で両軍が衝突するなど、越後全土を巻き込む内乱へと発展していった 17

両陣営の構成は、上杉家内部の複雑な人間関係と利害関係を如実に反映していた。

氏名

所属陣営

主要拠点/役職

背景・動機

上杉景勝

景勝方

春日山城主

謙信の甥、上田長尾家出身

斎藤朝信

景勝方

赤田城主

謙信側近

直江信綱

景勝方

与板城主

謙信側近

河田長親

景勝方

松倉城主

謙信側近

本庄繁長

景勝方

本庄城主

揚北衆

新発田長敦

景勝方

新発田城主

揚北衆

上条政繁

景勝方

上条城主

上杉一門(上条上杉家)

山浦国清

景勝方

山浦領主

上杉一門(山浦上杉家)

上杉景虎

景虎方

御館主

謙信の養子、北条氏康の子

上杉憲政

景虎方

御館

前関東管領

上杉景信

景虎方

-

上杉一門(古志長尾家当主)

本庄秀綱

景虎方

栃尾城主

謙信旗本

北条高広

景虎方

厩橋城主

上杉氏重臣

神余親綱

景虎方

三条城主

謙信側近

堀江宗親

景虎方

鮫ヶ尾城主

謙信旗本

蘆名盛氏

景虎方

黒川城主

外部勢力(陸奥大名)

武田勝頼

景虎方(当初)

躑躅ヶ崎館主

外部勢力(甲斐大名)

北条氏政

景虎方

小田原城主

外部勢力(相模大名、景虎実兄)

(出典: 3

この表が示すように、景勝方には斎藤朝信や直江信綱といった謙信側近の多くと、本庄繁長ら揚北衆の有力者が味方した。一方、景虎方には前関東管領の上杉憲政や、上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家当主の上杉景信ら一門衆の多くが加わった。また、親子兄弟で敵味方に分かれる家(山本寺家、柿崎家など)も存在し、乱の悲劇性を物語っている 13

第三節:一進一退の攻防(6月~8月)

夏に入ると、戦況は一進一退の攻防を続けた。6月、景勝方は交通の要衝であった猿毛(柿崎)、旗持(柏崎)、直峰(安塚)といった景虎方の拠点を次々と攻略 17 。これにより、景勝は中越・下越地方の味方との連携を強化し、逆に御館に籠もる景虎への兵糧や物資の輸送路を断つことに成功した。

しかし、景虎方も黙ってはいなかった。蘆名氏の支援を受けた景虎方は安田城を乗っ取るなど各地で反撃を展開し、戦線を押し戻す場面も見られた 17 。越後国内の戦力は拮抗しており、どちらの陣営も決定的な勝利を掴めないまま、戦線は膠着状態に陥った。

この膠着状態を打破するため、両陣営は越後国外の勢力、すなわち甲斐の武田氏と相模の北条氏に支援を求め、その介入を模索し始めた。この瞬間、御館の乱は越後一国の内乱から、東国全体の勢力図を揺るがす広域紛争へと、その性質を大きく変質させることになったのである。

第三章:天下の秤 ― 武田・北条の介入と甲越同盟の成立(天正6年6月~9月)

越後国内の戦いが膠着する中、乱の趨勢を最終的に決定づけたのは、外部勢力、特に甲斐の武田勝頼の外交判断であった。彼の行動は、戦国時代の冷徹な国際関係の力学を浮き彫りにするものであり、景虎の運命を決定的に左右した。

第一節:景虎の頼み ― 北条氏政の遅れた援軍

窮地に陥った景虎にとって、最大の頼みの綱は実家である北条家からの援軍であった。景虎は実兄である北条氏政に再三援軍を要請した 19 。しかし、氏政の動きは鈍かった。その最大の理由は、当時、北条氏が常陸国の佐竹義重と激しく対立しており、主力をそちらに割かざるを得ず、越後へ大規模な援軍を迅速に派遣する軍事的余裕がなかったためである 19

さらに、地理的・季節的な制約も北条軍の行動を大きく阻害した。関東と越後を隔てる三国峠は険しい難所であり、特に冬期には雪に閉ざされ、大軍の通行と兵站の維持は極めて困難であった 20 。これらの複合的な要因により、北条氏の支援は効果的に機能せず、景虎は孤立を深めていった。苦慮した氏政は、同盟者であった武田勝頼に対し、景虎を支援するための越後出兵を依頼するという次善の策を取らざるを得なかった 19

第二節:武田勝頼の冷徹な天秤

北条氏政の要請を受け、武田勝頼は越後へ軍を進める。しかし、彼の真の目的は、同盟者である北条の要請に応えることや、義理の弟である景虎を救出することではなかった。それは、この内乱を利用して自国の利益を最大化するという、極めて現実的な戦略的判断に基づいていた。勝頼の介入は「救援」ではなく、上杉家の内乱という状況に便乗した「投機」だったのである。

当時の勝頼が置かれていた戦略的状況を考慮すると、その判断の背景が明確になる。武田家にとって最大の脅威は、東から圧力を強める織田・徳川連合であった 21 。したがって、背後、すなわち越後方面の安定確保は国家戦略上の至上命題であった。勝頼の前には、二つの選択肢があった。

  • 選択肢A(景虎支援) : 当初の要請通り景虎を支援する。これにより、同盟者である北条氏に大きな恩を売ることができ、勝利すれば上杉家を北条氏と共に傀儡化できる可能性もあった。しかし、武田家が直接的に得られる領土や金銭といった実利は少ない。また、将来的に強大化した北条・上杉連合が、逆に武田家への脅威となるリスクも内包していた。
  • 選択肢B(景勝支援) : 北条氏との同盟を反故にして景勝を支援する。この選択は北条氏との関係破綻を意味するが、その見返りは極めて魅力的であった。窮地に立たされた景勝は、勝頼に対し「信濃北部に残る上杉領の割譲」と「莫大な黄金の進上」という破格の条件を提示したのである 21 。内乱で疲弊し、武田家に大きな恩義を負うことになる景勝の上杉家は、もはや武田家の脅威ではなく、対織田戦線における従属的な同盟者、すなわち防波堤として利用できる。

最終的に、勝頼は短期的な同盟関係の維持よりも、長期的な国家戦略(対織田戦線の安定化)と、即物的かつ莫大な国益(領土と資金)を優先した。彼の行動は、単なる「裏切り」と断じることはできず、戦国大名としての極めて合理的かつ冷徹な「戦略的投機」であったと評価できる。

第三節:甲越同盟の成立と北条の孤立

天正6年6月初旬、景勝と勝頼の間で和睦、すなわち事実上の軍事同盟(甲越同盟)が成立した 17 。勝頼は景勝から割譲された上杉領を接収しながら越後へ進軍。6月下旬には、表向きは景勝と景虎の和睦を調停するという名目で越府近郊に着陣した 21

勝頼の軍事的圧力を背景に、8月下旬には一時的に景勝と景虎の間で和睦が成立する。しかし、その直後に徳川勢が駿河へ侵攻したとの報が入り、勝頼が急遽帰国すると、この脆い和睦は即座に破綻した 17

この一連の外交劇の結果、戦局のバランスは決定的に景勝方へ傾いた。景虎は最大の頼みであった武田軍を失い、逆に景勝は背後の脅威から完全に解放された。梯子を外された形の北条氏は、武田氏との同盟関係が決定的に悪化し、単独で景勝・武田連合と対峙せざるを得ないという、極めて困難な戦略的状況に追い込まれたのである 21

第四章:落日の御館 ― 景勝の勝利と景虎の最期(天正6年9月~天正7年3月)

武田勝頼の介入という最大の変数を経て、御館の乱は最終局面へと向かう。甲越同盟の成立は、戦いの天秤を景勝方へと大きく傾け、景虎とその支持者たちを絶望的な状況へと追い込んでいった。

第一節:戦局の逆転と御館への総攻撃

武田という背後の脅威が消滅したことにより、景勝は自軍の全戦力を御館とその周辺の景虎方拠点の攻略に集中させることが可能となった。9月、事態を重く見た北条氏政・氏照の軍勢が、ついに本格的な軍事行動を起こし越後へ侵攻する。しかし、景勝方の頑強な防戦に加え、抑止力として機能する武田軍の存在が、北条軍の進撃を阻んだ 1 。戦局を覆すには至らず、冬の訪れとともに北条軍の動きは鈍化し、撤退を余儀なくされた。

雪に閉ざされた越後で、御館は完全に孤立した。兵站は途絶え、士気は低下し、景虎方の諸将は次第に追い詰められていった。

第二節:御館陥落と憲政の死

年が明けた天正7年(1579年)2月、景勝軍は御館への総攻撃を開始した。長期間の籠城で疲弊しきっていた景虎方に、もはや抵抗する力は残されていなかった。激しい戦闘の末、御館は陥落。この時、景虎を庇護し、乱の調停に奔走していた前関東管領・上杉憲政も、その子・憲重らと共に命を落とした 3 。かつて謙信に越後への亡命を余儀なくされ、その庇護下で生きてきた老管領の最期は、一つの時代の終わりを象徴する出来事であった。

第三節:悲劇の終焉 ― 鮫ヶ尾城の攻防(3月24日)

御館を辛くも脱出した景虎は、妻である清円院や子らと共に、実家である小田原の北条家を目指して落ち延びようとした。その途中、味方であった堀江宗親が城主を務める鮫ヶ尾城(現在の新潟県妙高市)へと逃げ込んだ 24

しかし、ここが景虎の終焉の地となった。景勝方の勝利が目前に迫る中、城主の堀江宗親は景勝方からの調略に応じ、主君である景虎を裏切ったのである 24 。最後の頼みの綱であったはずの味方にまで刃を向けられ、進退窮まった景虎は、天正7年3月24日、鮫ヶ尾城内にて妻子と共に自刃した 24 。享年26。その華やかな出自とは裏腹に、戦国の世の非情な力学に翻弄された短い生涯であった。

景虎の死をもって、約1年間にわたって越後全土を焦土と化した御館の乱は、軍事的には終結した。しかし、その傷跡はあまりにも深く、上杉家の未来に暗い影を落とし続けることになる。

第五章:越後の傷跡 ― 乱が残した影響と上杉家の変容

景勝の勝利によって御館の乱は終結したが、それは上杉家にとって新たな苦難の始まりに過ぎなかった。この内乱は、越後の国力に深刻なダメージを与え、その後の東国情勢、ひいては日本の勢力図全体に長期的な影響を及ぼした。

第一節:国力の著しい消耗と軍事力の低下

約1年間にわたる内乱は、越後の国力を根底から揺るがした。景勝方と景虎方の勢力は拮抗しており、越後全土で激しい戦闘が繰り広げられたため、人的・経済的な損失は甚大であった 3 。多くの有能な武将が命を落とし、田畑は荒廃した。かつて謙信が一代で築き上げ、戦国最強と謳われた上杉軍の精強さは、この内乱によって大きく損なわれたのである 28

第二節:織田信長の北陸侵攻

御館の乱がもたらした最大級の地政学的影響は、中央で天下布武を進める織田信長に、「北陸平定の絶好機」を与えたことであった。謙信存命中は、その圧倒的な軍事力を前にして、織田軍の北陸方面への侵攻は停滞を余儀なくされていた。手取川の戦いは、その象徴的な出来事である。謙信は、信長にとって天下統一を進める上での最大の障害の一つであった。

その謙信が世を去り、後継者たちが国を二分して相争うという状況は、信長にとってまさに「漁夫の利」を得る千載一遇の好機であった。上杉家が内乱で身動きが取れない隙を突き、柴田勝家を総大将とする織田の北陸方面軍は、加賀、能登、そして越中へと破竹の勢いで進軍を開始した 3

御館の乱は、単に上杉家を内部から弱体化させただけでなく、日本の勢力図を塗り替えるパワーバランスの劇的な変動を引き起こした。謙信という巨大な「重し」が取り除かれた北陸地方に、織田の勢力が一気に流れ込むことを可能にした、まさに歴史の分水嶺であった。後に景勝が直面することになる、越中魚津城の悲劇などは、この時に始まった流れの必然的な帰結と言える。

第三節:新たな火種 ― 論功行賞と新発田重家の乱

乱を制して越後の新たな国主となった景勝であったが、その前途は多難であった。戦後処理、すなわち論功行賞の配分を巡り、勝利に貢献した景勝方の武将たちの間に深刻な対立が生まれたのである 3

特に、乱において多大な武功を挙げた揚北衆の重鎮・新発田重家は、与えられた恩賞に強い不満を抱いた 23 。その原因は、景勝が自らの出身母体である上田長尾家以来の譜代の側近たちを重用し、乱の勝利に不可欠であった外様の国衆を軽んじたことにあったとされる 31 。謙信が個々の将の自主性を重んじたのに対し、景勝は自らの権力基盤を固めることを優先したのである 33

この不満が、陸奥の蘆名氏や伊達氏、そして越中まで迫っていた織田信長の調略と結びつき、天正9年(1581年)、ついに「新発田重家の乱」として新たな内乱が勃発する。この反乱は、その後7年間にわたって続き、御館の乱で疲弊した上杉家の国力をさらに消耗させ続けることになるのであった。

結論:御館の乱の歴史的意義

御館の乱は、上杉家の歴史における重大な転換点であった。それは、「軍神」上杉謙信が一代で築き上げた強大な軍事国家・上杉家の栄光が、事実上終わりを告げた瞬間であったと言える。景勝は辛うじて越後を再統一したものの、彼が手にしたのは、謙信時代の栄光とは似ても似つかぬ、内乱によって深く傷ついた国家であった。

この内乱は、戦国時代後期の勢力図にも決定的な影響を与えた。武田勝頼の介入は、長年の甲相同盟を崩壊させ、武田氏滅亡の遠因の一つとなった。北条家は景虎という越後への楔を失い、その後の対外戦略に大きな修正を迫られた。そして何よりも、この乱の最大の受益者は、漁夫の利を得た織田信長であった。上杉家の弱体化は、信長の北陸平定を容易にし、天下統一事業を大きく前進させた。

上杉家内部に目を向ければ、この乱は、謙信が掲げた「義」を重んじる戦いの時代から、景勝の下で生き残りをかけた「実」の外交と権力闘争の時代へと移行したことを象徴する事件であった。景勝はその後、豊臣政権下で五大老の一人として巧みに立ち回り、上杉家を近世大名として存続させることに成功する。しかし、その苦難に満ちた道筋は、まさしくこの御館の乱という、血で血を洗う内乱による国力低下から始まっていたのである。御館の乱は、単なるお家騒動ではなく、戦国史の大きな潮流を変えた重要な一事件として、歴史に深く刻まれている。

引用文献

  1. 「御館の乱(1578~79年)」謙信の後継者争いにして、越後を二分した大規模内乱! https://sengoku-his.com/312
  2. 上杉景虎と御館の乱 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/uesugi/serious02.html
  3. 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  4. 御館の乱が勃発!上杉謙信没後に上杉景虎と長尾景勝ふたりの養子に起こった家督争い https://articles.mapple.net/bk/20311/
  5. 軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎 ... https://mag.japaaan.com/archives/125550
  6. 戦国武将の失敗学① 信玄・謙信もつまずいた「後継問題」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-084.html
  7. file-16 直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/16/
  8. 上杉謙信の家系とその子孫 https://kamakura-kamome.com/15931435261730
  9. 第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」 - BS11+(BS11プラス) https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-103
  10. 【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス(1) ~ 謙信・景虎・景勝はなぜそんな名前に? https://sengoku-his.com/1755
  11. mag.japaaan.com https://mag.japaaan.com/archives/125550#:~:text=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D%EF%BC%88%E3%81%86%E3%81%88%E3%81%99%E3%81%8E%E3%81%8B%E3%81%92%E3%81%8B%E3%81%A4%EF%BC%89&text=%E7%94%9F%E6%AF%8D%E3%81%AF%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E8%99%8E%EF%BC%88%E5%BE%8C,%E8%A1%80%E3%82%82%E5%BC%95%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
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  13. 上杉景虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
  14. 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
  15. 長尾景虎(上杉謙信)のクーデター -謎めいた家督相続劇の実像- https://sightsinfo.com/sengoku/uesugi_kenshin-03
  16. 「上杉景虎」は北条氏からの養子でありながら、上杉謙信の後継を争った武将だった! https://sengoku-his.com/580
  17. 御館の乱年表 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4812.html
  18. 上杉家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugiSS/index.htm
  19. 【歴史のif戦国史】もしも御館の乱で上杉景虎が勝っていたら - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KqTf7glVWSk
  20. 北条氏が積極的に景虎を支援できなかった原因は? | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/155
  21. 「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/20328
  22. 《戦国武田氏三代目・武田勝頼》 - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2019/03/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC%E6%B8%85%E6%B0%B4%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A1.pdf
  23. しかし、諸氏に共通して云えることは、不思議なまでに乱の勃発原因につ - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=705
  24. 上杉景虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97918/
  25. 戦国の血が染みた城址「鮫ヶ尾城」~御館の乱から450年、今も残る9つの遺構|たなぶん - note https://note.com/dear_pika1610/n/n20f7628f7c74
  26. 鮫ヶ尾城 妙高市 http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/niigata.html
  27. 鮫ヶ尾城祉|妙高 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4819.html
  28. 戦国武将の相続・失敗例 上杉謙信と織田信長 https://www.kamomesouzoku.com/16075856387324
  29. 新潟城(舟丘城)/新潟市 : 新潟県北部の史跡めぐり https://rekisi1961.livedoor.blog/archives/2761494.html
  30. 歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 2 https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005180.html
  31. 歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 1 https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005179.html
  32. 義の華、乱に散る ~新発田重家の乱~ 前編|鬼丸国綱 - note https://note.com/onimaru_12/n/nd0d301e89388
  33. 義の華、乱に散る ~新発田重家の乱~ 後編|鬼丸国綱 - note https://note.com/onimaru_12/n/n2f4477ebc3a5