最終更新日 2025-09-28

郡上八幡城築城(1559)

永禄二年、遠藤盛数は兄の暗殺を大義名分に旧主・東氏を打倒し、郡上八幡城を築城。斎藤義龍の台頭を背景とした下剋上であり、当初は軍事拠点だったが、後に大改修と城下町整備で発展し、郡上八幡の礎となった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

永禄二年、郡上八幡城誕生の刻 ― 美濃国郡上郡における権力交代劇の時系列的再構築

序章:戦国史の一断面としての郡上八幡城築城

永禄二年(1559年)、美濃国北部の山間に、のちに郡上八幡城として知られることになる城が産声を上げた。しかし、この「築城」という事実は、決して平穏な環境下で進められた普請事業を意味するものではない。それは、血で血を洗う権力闘争の末に勝ち取られた、一つの戦利品であった。この事変の本質は、戦国時代の日本列島を席巻した「下剋上」の典型、すなわち、長年にわたり地域に君臨してきた宗家を、その分家が武力によって滅ぼし、支配権を簒奪するという、冷徹な生存競争のプロセスそのものであった。

一般に「郡上八幡城築城」として知られるこの出来事は、単に山城が一つ建設されたという歴史的事実にとどまらない。その背後には、美濃国全体の政治力学の変動、地域支配をめぐる旧主と新興勢力の確執、そして個々の武将の野心と戦略が複雑に絡み合った、濃密な人間ドラマが存在する。

本報告書は、この永禄二年の事変を、単なる城の沿革史としてではなく、一つの権力交代劇として捉え、その発端から終結までを可能な限り「リアルタイム」で再構築することを目的とする。登場人物たちが置かれた状況、彼らの下した決断、そしてその行動がもたらした結末を時系列に沿って丹念に追うことで、城が生まれる瞬間に立ち会った人々の息遣いと、時代を動かした大きなうねりを解き明かしていく。これは、石垣と天守の物語であると同時に、野心と裏切り、そして新たな秩序の誕生を描く物語である。

第一章:永禄二年(1559年)に至る美濃・郡上郡の情勢

郡上郡における権力闘争がなぜ永禄二年に勃発したのか。その問いに答えるためには、当時の美濃国全体を覆っていたマクロな情勢と、郡上郡内部で進行していたミクロな力学、その双方を理解する必要がある。

第一節:下剋上の嵐吹く美濃国 ― 斎藤道三の死と義龍の時代

郡上八幡城築城のわずか三年前、弘治二年(1556年)、美濃国は国盗りの梟雄・斎藤道三とその実子・義龍との間で繰り広げられた「長良川の戦い」によって震撼した 1 。この戦いで道三は敗死。死の直前、彼は実子以上にその才を評価していた婿の織田信長に対し、「美濃国を譲る」という趣旨の遺書を送ったと伝えられている 2

道三の死は、しかし、美濃国に権力の空白を生じさせたわけではなかった。父・道三から無能と評されていた義龍は、その評価を覆すだけの傑出した能力の持ち主であった。彼は長良川の戦いにおいて、道三に不満を抱いていた美濃の国衆(在地領主)の圧倒的な支持を集めて勝利を収めると 1 、速やかに国内の掌握に取り掛かった。所領の再編や用水をめぐる争いの裁定など、卓越した内政手腕を発揮して領国支配を安定させ 4 、さらには当時の将軍・足利義輝からその地位を公認されるなど、中央との関係構築にも成功した 4 。その結果、道三の遺言を大義名分として幾度となく侵攻してきた織田信長の軍勢を、義龍はその死に至るまでの五年間、完全に退け続けたのである 4

この一連の動きが示唆するのは、道三から義龍への代替わりが、単なる混乱や弱体化ではなく、むしろ美濃国における権力構造の「再編」であったという事実である。道三時代に重用された勢力が後退し、新たに義龍を支持する勢力が国政の中枢を担う体制へと移行した。この美濃国全体の権力再編の波は、当然、北部の山間地帯である郡上郡にも及ぶ。後述する遠藤盛数の挙兵は、こうした国内の政治力学の変動を背景に、旧体制に連なる郡上の旧主・東氏を排除し、斎藤義龍による新体制へ自らを最適化させようとする、極めて計算された戦略的な行動であったと解釈することができる。それは、混乱に乗じた単発的な反乱ではなく、美濃国全体の秩序が再構築される過程で起きた、地域レベルでの必然的な政変であった。

第二節:三百四十年の栄華 ― 郡上郡の旧主・東氏の権威と翳り

郡上八幡城築城の事変において滅ぼされることとなる東氏は、鎌倉時代以来、約340年もの長きにわたり郡上郡を支配してきた名門であった 6 。彼らは篠脇城や、事変の舞台となる赤谷山城(東殿山城)を拠点とし、この地の支配者として君臨し続けてきた 6

東氏の権威は、単なる武力によるものだけではなかった。例えば、九代当主の東常縁は室町時代を代表する歌人としても名高く、政敵であった斎藤妙椿に居城の篠脇城を急襲され奪われた際、和歌十首を詠み送ったところ、その見事さに妙椿が感服し、城と領地を返還したという逸話が残るほど、高い文化的権威をも有していた 8 。このような武威と文治を兼ね備えた伝統こそが、東氏の長期支配を支える基盤であった。

しかし、戦国乱世において、伝統的権威は時に脆弱である。事変当時の当主・東常慶の嫡男であった常堯は、複数の記録において「悪逆非道」な人物であったと評されている 7 。彼の非道な振る舞いは、長年東氏に仕えてきた家臣や地域の国人たちの心を離反させ、三百余年の歴史を誇る名門の内部結束を著しく弱体化させていたと考えられる。後に遠藤盛数が挙兵した際、多くの郡内諸豪が彼に味方したのは 9 、この人心離反が深刻なレベルに達していたことの証左に他ならない。東氏の滅亡は、遠藤氏という外部からの武力によって引き起こされたと同時に、自らの内部分裂と権威の形骸化によって招かれた、必然的な結末であったとも言えるだろう。

第三節:野心の胎動 ― 分家・遠藤盛数の台頭と宗家との確執

東氏を滅ぼし、郡上八幡城を築くことになる遠藤盛数は、東氏の支族、あるいは同族とされ、木越城主・遠藤胤縁の弟にあたる人物である 10 。さらに、彼の妻は東氏当主・東常慶の娘であり 9 、この婚姻関係は、両家が少なくとも表面的には緊密な協力関係にあったことを示している。事実、盛数は過去に宗主である常慶と共謀し、勢力を拡大しつつあった同族の和田五郎左衛門を暗殺するなど 9 、東氏の支配体制を維持するための一翼を担っていた。

しかし、その水面下で、盛数は冷徹な野心を燃やし続けていた。記録には、彼が「かねてより宗家に取って代わることを考えていた」と明確に記されており 9 、宗家への服従はあくまで仮の姿であったことが窺える。彼は協力者として宗家の内情を探りつつ、下剋上の機会を虎視眈々と窺っていたのである。

この盛数の長年の野心にとって、兄・胤縁が東常堯によって暗殺されるという事件は、悲劇であると同時に、またとない好機となった。彼はこの事件を「兄の弔い合戦」という、誰もが否定し得ない「大義名分」として掲げることに成功する。これにより、彼の行動は単なる私的な権力欲や反乱ではなく、非道な主君の嫡男を討つという公的な正義の戦いへと昇華された。戦国時代の武将たちが、いかにして「大義名分」を自らの行動を正当化し、支持を集めるための政治的・軍事的な武器として巧みに利用したか、遠藤盛数の行動はその典型的な事例と言える。


表1:東氏と遠藤氏の比較

項目

東氏(宗家)

遠藤氏(分家)

出自・歴史

鎌倉以来の名門、約340年の支配

東氏の支族、新興勢力

本拠地

赤谷山城(東殿山城)、篠脇城

木越城、鶴尾山城

当時の当主

東常慶、嫡男・常堯

遠藤盛数、兄・胤縁

権威の源泉

伝統、文化的権威

実力、軍事力

政治的立場

旧体制(斎藤道三派)の可能性

新体制(斎藤義龍派)への接近


第二章:赤谷山城の戦い ― 郡上支配をめぐる十日間の攻防

永禄二年八月、郡上郡の勢力図は、わずか十日余りの間に劇的に塗り替えられることとなる。遠藤胤縁の暗殺から赤谷山城の落城に至るまでの攻防を、日付を追って再現する。


表2:赤谷山城の戦い 主要年表

年月日(永禄二年)

出来事

関連資料

8月1日

八朔の祝いの席で、東常堯が遠藤胤縁を鉄砲で暗殺。

7

8月1日~14日

遠藤盛数、「弔い合戦」を掲げ郡内諸豪を糾合。飛騨三木氏の支援も得る。

9

8月14日

盛数軍、出陣。赤谷山城の対岸・八幡山に布陣(郡上八幡城の創始)。

9

8月15日~23日

10日間にわたる攻城戦。

9

8月24日

赤谷山城が落城。東常慶は死亡、東氏は滅亡。

6


【永禄二年八月一日】発端:赤谷山城に響いた一発の銃声 ― 遠藤胤縁の暗殺

永禄二年八月一日、この日は「八朔の祝い」として、家臣が主君のもとへ祝賀の挨拶に訪れる慣例の日であった 17 。遠藤氏の当主であった遠藤胤縁もまた、この慣例に従い、宗家である東氏の居城・赤谷山城へと登城した。

しかし、彼を待ち受けていたのは祝宴ではなかった。東氏の嫡男・常堯は、かねてより胤縁に深い恨みを抱いていた。その原因は、常堯の非道な振る舞いを理由に、胤縁が自身の娘と常堯との縁談を拒絶したことにあったとされる 9 。この私怨を晴らすべく、常堯は周到な計画を立てていた。胤縁が城内に入ったところを、家臣の長瀬内膳に命じ、当時まだ貴重な兵器であった鉄砲で射殺させたのである 7 。祝賀の儀礼という、最も油断した状況を狙った計画的な暗殺であった。赤谷山城に響いたこの一発の銃声は、単に一人の武将の命を奪っただけでなく、郡上郡の歴史を大きく転換させる引き金となった。

【八月一日~十四日】動乱:弔い合戦を大義名分に ― 遠藤盛数の挙兵と郡内諸豪の糾合

木越城にあって兄の訃報に接した遠藤盛数の行動は迅速であった。彼は直ちに「兄の弔い合戦」を宣言し、常堯の非道を郡内に広く訴え、東氏を見限った国衆や在地領主たちに参集を呼びかけた 13 。東氏の内部分裂と常堯への不満が蔓延していた状況下で、この大義名分は絶大な効果を発揮し、多くの勢力が盛数の下に集った。

さらに盛数は、郡内だけでなく外部勢力との連携も図っていた。一説には、美濃国の北に隣接する飛騨国の実力者、三木良頼(後の姉小路氏)からの加勢も得ていたとされる 9 。飛騨の三木氏と美濃の斎藤氏は婚姻関係を通じて同盟関係にあり 19 、盛数がその三木氏の支援を取り付けたことは、彼が斎藤義龍の新体制に連なる存在として、間接的に認められていた可能性を示唆している。暗殺という突発的な事件からわずか二週間足らずで、内外の勢力をまとめ上げて挙兵に至ったこの事実は、盛数が単なる感情的な報復に駆られたのではなく、常日頃から有事を想定し、周到な準備と政治的計算のもとに行動した戦略家であったことを物語っている。

【八月十四日】布陣:赤谷山城を見下ろす八幡山への着陣 ― 郡上八幡城、創始の瞬間

八月十四日、軍勢を整えた遠藤盛数はついに出陣する。しかし、彼の軍は東氏の籠もる赤谷山城へ直接攻めかかることはしなかった。吉田川を挟んで赤谷山城と対峙する、八幡山(牛首山とも呼ばれる)の山頂に陣を構えたのである 6

この布陣は、戦術的に極めて優れた選択であった。第一に、敵城を一望できる commanding position を確保することで、城内の動きを完全に監視下に置き、籠城する敵兵に絶え間ない心理的圧力を与えることができる。第二に、川を自然の防御線として利用し、自軍の背後を安全に保ちながら、攻城戦の拠点と退路を確保できる。盛数がこの戦いのために八幡山に構えたこの「陣」こそが、郡上八幡城の歴史の始まり、創始の瞬間であった 15 。郡上八幡城は、勝利を記念して建てられたモニュメントではなく、まさに戦闘の真っ只中において、純粋な軍事的必要性から生まれたのである。

【八月十五日~二十三日】攻防:吉田川を挟んだ十日間の攻城戦の実態

八幡山に陣を敷いた盛数軍に対し、赤谷山城に籠もる東常慶方は、盛数軍の渡河を阻止すべく吉田川に架かる橋を破壊して抵抗を試みたが、これは失敗に終わった 14 。これにより赤谷山城は三方から攻められる形勢となり、孤立無援の籠城戦を強いられることとなる。

攻城戦は十日間に及んだと記録されている 9 。具体的な戦闘の様相を伝える詳細な記録は少ないが、当時の山城攻防戦の定石に鑑みれば、八幡山からの弓矢や鉄砲による遠距離攻撃、吉田川を渡った別動隊による麓からの強襲、そして補給路を断つことによる兵糧攻めの要素などが組み合わされた、執拗な攻撃が繰り返されたと推測される 21

この戦いの激しさは、後世にいくつかの伝承を残している。城の東側に位置する険しい谷は、この戦いで多くの兵士が追い詰められて転げ落ちたことから、今なお「地獄谷」と呼ばれている 14 。また、籠城側が城内に水が豊富にあると見せかけるため、貴重な白米で馬を洗って敵を欺こうとしたが、麓の老婆の密告によって見破られ、落城に繋がったという「白米城伝説」も、籠城戦の絶望的な状況を物語る逸話として伝えられている 14

【八月二十四日】落城:炎上する赤谷山城と東氏の滅亡

十日間にわたる熾烈な攻防の末、ついにその時は訪れた。八月二十四日、赤谷山城は炎上して落城 14 。城主であった東常慶は、城と運命を共にし、戦死あるいは自害したとされる 6

一方、この全ての元凶となった嫡男・常堯は、燃え盛る城から辛くも脱出し、飛騨の内ケ島氏を頼って落ち延びた 14 。しかし、彼が再び郡上の地を踏むことはなかった。この日をもって、鎌倉時代から約340年にわたり郡上郡に君臨してきた名門・東氏は、歴史の表舞台からその姿を消したのである。

第三章:新時代の幕開け ― 郡上八幡城の創始と両遠藤体制

赤谷山城の煙が消え去った後、郡上郡には新たな支配秩序が構築された。それは、遠藤盛数の野心と、戦国武将としての冷静な政治感覚が反映されたものであった。

第一節:八幡山への築城 ― 軍事拠点から支配の象徴へ

勝利を収めた遠藤盛数は、滅ぼした東氏の居城であった赤谷山城を自らの本拠地とすることはなかった。彼は、攻城戦の際に自らが陣を構え、勝利を手にした対岸の八幡山に、新たに城を築くことを決断した 7 。これが、郡上八幡城の本格的な築城の始まりである。

この選択は、単なる気分の問題や地政学的な優位性だけによるものではない。赤谷山城は、三百余年にわたる「旧主・東氏の権威」そのものを象徴する場所であった。そこをあえて放棄し、自らが勝利を掴んだ場所に新たな城を築くという行為は、「古い時代は終わり、これからは遠藤氏の時代が始まる」という、郡内の全ての人々に対する極めて強力な政治的メッセージであった。新しい城は、新しい支配者の権威を可視化する、新時代の象徴そのものであったのだ。

もっとも、永禄二年(1559年)時点での郡上八幡城は、後世に知られるような天守閣や壮麗な石垣を備えた城ではなかった。それはあくまで戦闘の延長線上で築かれた、土塁や木柵を中心とする砦のような軍事拠点であったと考えられている 13 。支配の象徴としての役割を担いつつも、その本質は、まだ戦乱の世を生き抜くための実用的な要塞だったのである。

第二節:「両遠藤」体制の成立と郡上郡の分割統治

郡上郡全土を手中に収めた盛数であったが、彼はその全てを独占するという道を選ばなかった。彼は、この戦いの発端となった暗殺事件の遺族、すなわち兄・胤縁の子である胤俊に対し、所領の半分を分与し、遠藤氏代々の居城であった木越城の城主としてその地位を認めたのである 9 。これ以降、盛数を祖とする八幡遠藤家と、胤俊を祖とする木越遠藤家の二家は、合わせて「両遠藤」と称され、郡上郡を分割して統治する体制が成立した 17

この措置は、盛数の優れた政治的バランス感覚を如実に示している。第一に、兄の遺族に報いるという姿勢を明確にすることで、「弔い合戦」という大義名分を最後まで貫徹し、自らの行動の正当性を郡内外に改めて示した。第二に、胤縁に与していた家臣団の不満を解消し、甥の一族を独立した勢力として遇することで、遠藤一族内の分裂を防ぎ、郡内の安定化を迅速に図った。それでいて、最も戦略的に重要な新拠点・郡上八幡城は自らがしっかりと押さえることで、郡上郡全体における実質的な主導権は手放さなかった。

第三節:美濃の新たな秩序へ ― 斎藤氏配下としての遠藤氏とその後

郡上郡における新たな支配体制を確立した「両遠藤」は、美濃国の新たな支配者である斎藤義龍、そしてその子・龍興の配下として、その地位を公認された 9 。これは、盛数のクーデターが斎藤氏の新体制構築の潮流に乗ったものであったことを裏付けている。

その証拠に、永禄四年(1561年)、織田信長が美濃国に侵攻した「森部の戦い」において、両遠藤は斎藤軍の一翼を担い、信長軍と実際に矛を交えている 9 。彼らはもはや郡上郡の一在地領主ではなく、美濃斎藤氏の家臣団に組み込まれた正式な戦国武将となっていた。

しかし、下剋上を成し遂げた遠藤盛数自身の治世は、あまりにも短かった。郡上八幡城主となってからわずか三年後の永禄五年(1562年)、盛数は井ノ口(現在の岐阜市)の陣中にて病没する 7 。彼の跡は、まだ13歳という若年の長子・慶隆が継ぐこととなった 9 。盛数の野心は成就したが、彼が築いたばかりの新たな支配体制は、幼い跡継ぎのもとで、再び不安定な時代へと突入していくことになる。

第四章:郡上八幡城の戦略的意義と後世への影響

永禄二年の事変によって誕生した郡上八幡城は、その後の郡上支配の中心として、また地域の戦略拠点として重要な役割を果たし、時代と共にその姿を変えながら発展していった。

第一節:山間交通の要衝 ― 美濃・飛騨・越前を結ぶ戦略拠点としての価値

郡上八幡という地が持つ最大の地理的特徴は、交通の要衝であるという点にある。この地は、北の飛騨高山から南へ、また西の越前から東へ抜ける街道が交差する結節点であった 23 。戦国時代において、街道を制することは物流と軍事行動の生命線を握ることを意味する。

郡上八幡城を拠点とすることは、すなわち美濃国北部の防衛線を確立すると同時に、隣国である飛騨や越前への進出、あるいはそれらの勢力からの侵攻を牽制するための重要な前線基地を確保することを意味した。遠藤盛数が、滅ぼした東氏の赤谷山城ではなく、この八幡山に新たな城を築いた背景には、こうした地政学的な重要性に対する深い理解があったことは想像に難くない。この城は、郡上郡という一地域を支配するためだけの拠点ではなく、より広域な戦略的視野のもとに選ばれた場所だったのである。

第二節:城と城下町の発展 ― 稲葉氏による大改修と近世城郭への変貌

遠藤盛数が築いた当初の郡上八幡城は、あくまで戦時の砦であった。この城が、現在我々が目にするような壮大な石垣を持つ「近世城郭」へと変貌を遂げるのは、少し後の時代のことである。遠藤氏が一時的に郡上を離れた後、天正十六年(1588年)に新たな城主となった稲葉貞通(美濃三人衆の一人、稲葉一鉄の子)が、城の大規模な改修を行った 23

この大改修によって、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」と呼ばれる工法で堅固な総石垣が築かれ、天守を建てるための土台である天守台も設置された 23 。これにより、盛数が築いた土と木の「砦」は、石垣を多用した恒久的な「城郭」へと生まれ変わった。

一方、城下町の本格的な整備は、再び郡上の領主として復帰した遠藤盛数の子・慶隆の時代に始まり 15 、さらにその後の三代目藩主・遠藤常友の時代に大きく進展した 13 。特に常友は、大火からの復興を機に、防火を目的として町中に用水路を張り巡らせるという画期的な都市計画を実施した 13 。この時に整備された水路網こそが、現在の「水の町」郡上八幡の美しい町並みの原型となっている。

永禄二年の築城は、あくまで「点」としての城の誕生であった。しかし、その後の歴代城主たちの手によって、それは「面」としての堅固な城郭と機能的な城下町へと発展し、地域の政治・経済・文化の中心としての役割を確立していったのである。

結論:1559年の事変が郡上の歴史に刻んだもの

永禄二年(1559年)の「郡上八幡城築城」は、単なる建築行為ではなく、戦国時代の縮図ともいえる激しい権力闘争の帰結であった。遠藤盛数という一人の武将が、斎藤義龍の台頭という美濃国全体の権力再編の潮流を的確に読み、兄の暗殺という悲劇を自らの野心を実現するための政治的触媒として最大限に利用し、そして周到に準備された軍事行動によって、三百余年続いた旧主・東氏を打倒した下剋上事変であった。

この事変の過程で、軍事拠点として八幡山に構えられた陣が、郡上八幡城の直接的な起源となった。それは、平和の象徴としてではなく、戦火の中から生まれた城であった。そして、この勝利によって郡上の新たな支配者となった遠藤氏は、旧主の権威を象徴する城を捨て、自らが勝利を掴んだこの地に新たな城を築くことで、新時代の到来を宣言した。

この事変によって誕生した郡上八幡城は、その後、稲葉氏による大改修を経て近世城郭へと変貌し、遠藤氏によって城下町が整備される中で、単なる軍事拠点に留まらず、郡上地方の政治・経済・文化の中心地としての地位を不動のものとしていった。現在、日本最古の木造再建城として、また地域のシンボルとして多くの人々に親しまれている郡上八幡城。その礎は、永禄二年のあの血腥い十日間の攻防の中に、確かに築かれたのである。

引用文献

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  24. お城の楽しみ方 - 郡上八幡城 https://hachiman-castle.com/enjoy/
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