最終更新日 2025-10-02

酒田港町形成(1609)

慶長14年、最上義光は最上川舟運を整備し、志村光安が酒田港を経済拠点として再建。関ヶ原の戦いを経て、軍事・政治・経済が融合した港町が形成され、羽州随一の繁栄を築いた。
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慶長十四年 酒田港町形成の軌跡:戦国の動乱が生んだ羽州一の湊

序章: 最上川河口、黎明期の港

出羽国を縦貫し、母なる川として人々の営みを支えてきた最上川。その雄大な流れが日本海へと注ぎ込む河口に位置する酒田は、古くから内陸の富が海へと繋がる結節点としての地理的宿命を負っていた。古代、『万葉集』には稲を積んだ舟が往来する様が詠まれ、中世には部分的な舟運が確立されていた記録が残る 1 。しかし、この地が歴史の表舞台に躍り出て、羽州随一の港町としての栄華を築き上げるまでには、戦国乱世の血と野望、そして一人の戦国大名の壮大な構想が不可欠であった。

本報告書は、利用者より提示された慶長十四年(1609年)という年を基点とする「酒田港町形成」について、その事象を単なる都市開発としてではなく、そこに至るまでの戦国時代からの連続性の中で捉え直すことを目的とする。すなわち、庄内平野の支配権を巡る奥羽の武将たちの激しい角逐、天下分け目の戦いと連動した「北の関ヶ原」の死闘、そして勝利者が描いた国家規模の経済インフラ構想という、幾重にも折り重なる歴史の力学を解き明かすものである。1609年という一点の輝きは、それ自体が発光したのではなく、十数年にわたる動乱と創造のエネルギーが凝縮した結果であった。本稿では、その軌跡を時系列に沿って克明に追うことで、「酒田港町形成」の真の姿に迫る。

第一章: 港町形成の前夜 – 庄内平野を巡る奥羽の激闘

酒田港町の運命は、その広大な後背地である庄内平野の支配権と分かち難く結びついていた。この出羽国屈指の穀倉地帯と、日本海への唯一の出口である港を巡る争いは、港町形成に至る長い序曲であった。

在地勢力の動揺

中世以来、庄内地方を支配してきたのは、大宝寺(現在の鶴岡市)を本拠とする武藤氏であった 3 。大宝寺氏、あるいは大泉氏とも呼ばれたこの一族は、源頼朝の時代から続く名門であったが、戦国末期には一族内の対立や家臣団の離反により、その支配体制は大きく揺らいでいた。この権力の空白を好機と捉えたのが、隣国で勢力を急拡大していた「出羽の驍将」最上義光である。天正六年(1578年)に越後の上杉謙信が急逝すると、奥羽におけるパワーバランスは崩壊し、義光は庄内への野心を露わにし始める 3

最上義光、最初の庄内掌握

最上義光は、武力のみならず、巧みな調略をもって庄内の国人たちを切り崩していった。彼は大宝寺氏の家臣たちに離反を促し、内部からその支配を瓦解させる戦略をとった 3 。この策は功を奏し、天正十五年(1587年)、義光はついに敵対する武藤氏を自害に追い込み、庄内地方を一時的ではあるがその手中に収めることに成功した 4 。長年の野望が達成された瞬間であった。

痛恨の敗北「十五里ヶ原の戦い」

しかし、義光の庄内支配は長くは続かなかった。大宝寺氏の遺臣らは、越後の上杉景勝を頼り、その重臣である本庄繁長の支援を取り付けて反撃の機会を窺っていた 3 。翌天正十六年(1588年)八月、義光が大崎合戦に出陣して庄内の守りが手薄になった隙を突き、本庄繁長率いる上杉軍が大宝寺勢を伴って庄内に侵攻した。不意を突かれた最上軍は、十五里ヶ原(現在の鶴岡市)で迎え撃つも、圧倒的な兵力差の前に総崩れとなり、壊滅的な敗北を喫した 3 。この戦いで東禅寺筑前守をはじめとする多くの将兵を失った義光は、庄内からの撤退を余儀なくされる。

この「十五里ヶ原の戦い」は、単なる一合戦の敗北以上の意味を持った。庄内地方は完全に上杉氏の支配下に入り、義光にとっては生涯の屈辱として記憶に刻まれた。一度手にした豊穣な土地と港を奪われたという事実は、彼の心に庄内奪還への執拗なまでの執念を植え付けた。この時の悔しさが、十数年後に訪れる機会を捉え、単に領有するだけでなく、二度と失うことのないよう自らの領国に完全に組み込むための徹底的な開発、すなわち港町の建設と舟運整備へと彼を駆り立てる、強力な心理的動機となったのである。

豊臣政権下の膠着状態

その後、豊臣秀吉による天下統一と奥州仕置により、庄内地方は上杉領として公的に認められ、両者の対立は一時的に膠着状態に入る 5 。しかし、慶長三年(1598年)、上杉景勝が越後から会津120万石へ移封されると、事態は新たな局面を迎える。この国替えにより、庄内地方は引き続き上杉領とされたため、最上領は南の米沢と西の庄内の両方から、仇敵である上杉領に挟撃されるという、極めて危険な戦略的環境下に置かれることになった 5 。もはや両雄の激突は避けられない運命となり、酒田の地は再び歴史の奔流の中心へと引き寄せられていった。

第二章: 運命の転換点 – 「北の関ヶ原」慶長出羽合戦のリアルタイム詳解

慶長五年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立は天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この中央での大乱は、遠く離れた奥羽の地に「北の関ヶ原」とも呼ばれる激戦を誘発し、庄内地方、ひいては酒田港の運命を決定づける直接的な転換点となった。

開戦前夜(慶長五年、1600年)

当初、徳川家康は上杉景勝を討伐するため会津へ軍を進めていた。最上義光は東軍に与し、家康の奥州における拠点としての役割を担っていた。しかし、七月に石田三成が挙兵し、家康が軍を西へ反転させると状況は一変する 5 。家康という最大の脅威が去ったことで、上杉景勝は背後の憂いであった最上義光の排除を決意。義光は上杉領の北方に孤立し、絶体絶命の窮地に陥った。義光は嫡子を人質に差し出す条件で和睦を模索するが、一方で東軍方の秋田実季と連携して庄内を挟撃しようとする動きが露見し、上杉方の怒りを買って交渉は決裂。開戦は不可避となった 5

上杉軍の侵攻と最上軍の死闘

九月八日、上杉軍の総大将・直江兼続は、総勢2万5千ともいわれる大軍を率いて最上領への侵攻を開始した 5 。対する最上軍は、領内各地に兵力を分散させており、総兵力はわずか7千ほどに過ぎなかった。

圧倒的な兵力差の中、最上軍は各所で決死の防衛戦を繰り広げる。九月十二日、最上軍の最前線基地であった畑谷城は、城将・江口光清以下わずか500の兵が玉砕覚悟で抵抗するも、その日のうちに落城。しかし、この抵抗は上杉軍に1000人近い死傷者を出し、その進軍速度を鈍らせる貴重な時間をもたらした 5

上杉軍の主力が義光の居城・山形城に迫る中、その前面に位置する長谷堂城の攻防戦が、この合戦の趨勢を決めることになる。城将・志村伊豆守光安は、わずか1千の兵で、直江兼続率いる1万8千の上杉軍主力を相手に籠城。光安は巧みな防戦術と、九月十六日の夜襲成功など、鬼神の如き奮戦を見せ、半月以上にわたって敵の大軍を城に釘付けにした 5 。この絶望的な状況下で示された志村光安の比類なき武勇と指揮能力は、主君・義光に深く記憶されることとなる。この合戦は、後の酒田開発を担う人物が誰であるかを見極めるための、いわば最終試験の場でもあった。

攻守逆転と庄内奪還

膠着状態が続いた九月二十九日、戦局を根底から覆す報せが長谷堂城を包囲する直江兼続のもとに届く。九月十五日に行われた関ヶ原の本戦で、西軍がわずか一日で大敗したというのである 5 。これにより、上杉軍は徳川方から背後を突かれる危険に晒され、兼続は全軍の撤退を決断した。

この報は最上勢にも伝わり、攻守は完全に逆転した。十月一日、撤退を開始した上杉軍に対し、最上軍は伊達政宗からの援軍と共に猛烈な追撃を開始 5 。兼続は自ら殿(しんがり)を務めるなど苦戦の末、米沢城へと帰還した。

内陸部での主戦場が終結すると、義光はただちに長年の悲願であった庄内奪還へと駒を進める。嫡男・最上義康を総大将とする軍を庄内へ派遣し、かつて上杉方に降っていた将兵も味方につけ、破竹の勢いで進撃した 5 。そして慶長六年(1601年)三月、酒田の拠点であった東禅寺城を攻略し、十五里ヶ原の戦い以来、実に13年ぶりに庄内地方全域を完全にその支配下に置くことに成功したのである 5 。酒田の未来は、遠く離れた美濃国の戦場で決し、志村光安が長谷堂城で稼いだ「時間」が、その運命を繋ぎとめる命綱となったのであった。

慶長出羽合戦 主要戦況時系列表

日付(慶長五年)

場所/出来事

最上軍の動向

上杉軍の動向

戦況への影響

9月8日

最上領各所

防衛体制を敷くも、兵力は圧倒的に劣勢。

直江兼続を総大将に、2万5千の大軍で侵攻開始。

最上領全域が戦場となる。

9月12日

畑谷城

城将・江口光清以下500が玉砕。

1000名近い損害を出しつつも畑谷城を攻略。

上杉軍の進軍速度が鈍化。

9月15日

長谷堂城

城将・志村光安、1千の兵で籠城を開始。

直江兼続率いる主力1万8千が長谷堂城を包囲。

上杉軍主力が山形城手前で足止めされる。

9月16日

長谷堂城

志村光安、200の決死隊で夜襲を敢行し成功。

夜襲により混乱、250名以上の損害を受ける。

最上軍の士気が高揚、籠城戦が長期化。

9月17日

上山城

城将・里見民部、別動隊との連携で上杉軍を撃退。

4千の別動隊が攻撃するも大敗。

上杉軍の別動隊が本隊と合流できず。

9月29日

長谷堂城下

籠城を継続。

関ヶ原における西軍敗北の報を受け、撤退を決断。

合戦の攻守が完全に逆転する。

10月1日

最上領各所

伊達援軍と共に、撤退する上杉軍への追撃を開始。

全軍撤退を開始。殿軍が激しい抵抗を見せる。

最上軍が失地回復を開始。

〜慶長六年三月

庄内地方

嫡男・義康を大将に庄内へ進攻。

庄内地方の諸城が次々と陥落。

庄内地方全域の奪還に成功。

第三章: 最上義光のグランドデザイン – 川と港を繋ぐ国家プロジェクト

慶長出羽合戦の勝利は、最上義光に単なる失地回復以上のものをもたらした。徳川家康は、東軍勝利に大きく貢献した義光の功績を高く評価し、彼が実力で奪還した庄内地方の領有を正式に認めた。これにより最上氏は、従来の領地に加え、庄内・由利郡などを併せて57万石を領する大大名へと飛躍を遂げたのである 5 。しかし、この広大な新領国は、義光に新たな課題を突きつけた。それは、内陸の山形盆地と、日本海沿岸の庄内平野という、地理的にも経済的にも分断された二つの地域を、いかにして一つの強力な経済圏として統合するかという問題であった。

この難題に対し、義光が打ち出した解決策こそ、彼の領国経営者としての非凡さを示すものであった。彼は、領国を貫く最上川を、単なる地理的な存在ではなく、領国経済の全てを繋ぐ大動脈と位置づけたのである。多くの大名が城下町や街道といった「点」や「線」の整備に注力する中、義光は最上川の「流域全体」を一つの経済ユニットとして捉える、壮大な空間認識を持っていた。

この構想を実現するための最大の障壁は、最上川中流部に存在する「三難所」であった。村山地方に位置する碁点、三ヶ瀬、隼の瀬と呼ばれるこの三箇所は、川幅が狭く、岩が露出し、急流が渦巻く舟運の最大の難所であり、古くから多くの船が難破していた 10 。義光は、山形と酒田を結ぶ一貫した舟運を確立するため、この三難所を開削するという、当時としては国家規模の一大土木事業に踏み切った。これは、川底の岩を砕いて掘削し、川幅を拡張するという、極めて困難な工事であった 11

さらに義光は、この川の大動脈に血液を送り込むための毛細血管ともいえる、物流ネットワークの構築にも着手した。三難所の開削と並行して、その直下に位置する大石田や、山形城下に近い船町などを、舟運の中継基地となる「河岸(かし)」として計画的に整備したのである 13 。これらの河岸には、川に沿って荷蔵(倉庫)が立ち並び、その背後の通りには船積荷問屋が軒を連ね、さらには船大工や船頭たちの居住区も計画的に配置された 13 。また、舟運の安全を祈願するための寺社も建立されるなど 13 、単なる船着場ではなく、総合的な物流拠点都市としての機能が与えられた。

これらの事業により、山形盆地や新庄盆地で生産された米や紅花といった莫大な富が、最上川を下って河口の酒田港へと集約される、巨大なサプライチェーンが形成された。酒田港の価値は、もはや庄内平野という限られた後背地を持つ一地方港のものではなくなった。最上川流域という広大な経済圏の全ての富を受け止める最終ターミナルとして、その価値は飛躍的に増大したのである。義光のグランドデザインは、港そのものを造るのではなく、「巨大な集貨システムを創り、その出口として港を再定義する」という、遥かにスケールの大きなものであった。

第四章: 酒田港町建設の実相 – 名代官・志村光安の都市計画

最上義光が描いた壮大なグランドデザインを、現場で具現化する重責を担ったのが、腹心の将・志村伊豆守光安であった。慶長出羽合戦における長谷堂城での功績は絶大であり、戦後、義光は光安を庄内最上川以北3万石の領主とし、酒田の東禅寺城(このとき吉兆にちなみ亀ヶ崎城と改名)の城主に抜擢した 8 。これは最上家臣団の中でも一族に次ぐ破格の待遇であり、義光の光安に対する絶対的な信頼を物語っている。

光安が酒田に着任したとき、町は慶長六年の庄内奪還戦の戦火によって焼け野原と化していた 16 。彼の最初の、そして最大の任務は、この焦土からの復興と、新たな港町を建設することであった。光安はただちに、新たな都市計画である「町割り」に着手する。この時に引かれた区画が、現在の酒田市中心市街地の原型となったのである 17

この町割りは、単なる区画整理ではなかった。それは、来るべき平和な時代の経済発展を見据えた、「商」の論理を最優先する画期的な都市計画であった。戦国時代の城下町が第一に防御を目的として設計されるのとは対照的に、光安の計画は「経済活動を重視」し、港の機能を最大限に引き出すことに主眼が置かれていた 16 。具体的には、最上川からの荷揚げの利便性を高める舟着場の整備、商人や職人が効率的に活動できる居住区の配置、さらには日本海から吹き付ける強い西風による火災の延焼や家屋の損壊を防ぐための工夫など、実用的な配慮が随所に見られた 16

特筆すべきは、光安がこの大事業を為政者の独断で進めなかった点である。彼は、古くから酒田の経済を担ってきた商人たちの代表組織である「三十六人衆」と密に協議を重ね、彼らの意見を都市計画に積極的に反映させた 16 。この官民連携によるアプローチにより、机上の空論ではない、実際に経済を動かす人々のニーズに即した、生きた港町が形成されていった。

志村光安の成功は、彼が長谷堂城で見せた軍事指揮官としての能力と、酒田で見せた民政官僚としての能力という、全く異なる二つのスキルセットを兼ね備えていた点にある。戦国の修羅場を生き抜いた猛将が、新時代の統治者へと自己変革を遂げたのである。最上義光が彼をこの地の責任者に選んだのは、単なる戦功への報奨ではなく、この「武」と「文」を兼ね備えた多才さこそが、新たな港町を創生する上で不可欠であると見抜いていたからに他ならない。

第五章: 慶長十四年(1609年)の酒田 – 繁栄の定着と文化の萌芽

慶長六年(1601年)に始まった志村光安による町割りから約八年の歳月が流れた慶長十四年(1609年)、酒田の町は物理的な骨格をほぼ完成させ、新たな段階へと移行しつつあった。内陸や周辺地域から商人、職人、船乗りたちが集まり、町は活気に満ちた人口集積地となっていた。この年に行われたいくつかの象徴的な出来事は、酒田が単なる物流拠点から、人々が暮らし、祈り、文化を育む永続的な「共同体」へと質的に転換したことを示している。

この年の歴史を語る上で最も重要な出来事が、町の鎮守である山王社(現在の日枝神社)の祭礼の制度化である 19 。この年の四月、それまで慣例的に行われていた可能性のある祭礼が、町の公式行事として初めて定められた。町の裕福な有力者八戸が「頭人(とうにん)」に選ばれ、神事を執り行う責任者となり、これが「毎歳の恒例」とされたのである 19 。祭りは、共同体の成員が一体感を確認し、その存在を内外に示すための重要な儀式である。為政者である志村光安と町の有力者たちが一体となって、町の恒久的な繁栄を祈願する祭礼を制度化したという事実は、ここに永続的な町が成立したという共通認識が生まれたことを意味する。これは、いわば町の「竣工式」であり、社会的な意味での港町形成の完了を告げる「公式な誕生宣言」に等しいものであった。

時を同じくして、町の精神的なインフラ整備も着々と進んでいた。この年の八月には浄徳寺が現在地に移転して本堂を建立し、また光安自身も京都の愛宕山から分霊を勧請し、新たに愛宕神社を建立したと伝えられている 19 。これらの寺社の建立・移転は、移り住んできた人々に精神的な拠り所を与え、共同体の結束を強める上で大きな役割を果たした。

志村光安の統治は、町割りや港湾整備といったハード(インフラ)の側面だけでなく、祭礼の制度化や寺社の保護といったソフト(文化・宗教)の両面に及ぶ、総合的なものであった。彼は、人々が安心して暮らし、日々の商売に励むためには、経済的な基盤だけでなく、精神的な安定や共同体の連帯感が不可欠であることを深く理解していたのである。

したがって、「酒田港町形成(1609年)」という事象が画期として認識されるのは、物理的な建設がある程度完了し、社会的な「定着」と文化的な「萌芽」が明確に確認できる年であるからに他ならない。この年、酒田は単なるワークプレイスから、真の意味でのコミュニティへと昇華したのである。

第六章: 経済の脈動 – 羽州一の湊を目指して

慶長十四年(1609年)頃、その骨格を整えた酒田港は、最上義光の構想通り、領国の富が集積し、日本海へと送り出される経済の心臓部として力強く脈動し始めていた。

最上川舟運という新たに開かれた大動脈を通じて、内陸部の各地から膨大な物資が酒田へと流れ込んだ。その筆頭は、庄内平野および山形盆地で収穫される年貢米である 20 。これに加えて、当時、京の都で最高級品として珍重された染料「最上紅花」や、越後縮などの高級織物の原料となる上質な青苧(あおそ、麻の一種)といった高付加価値の特産品が、酒田に富をもたらす重要な商品であった 2

これらの集積された物資を全国の市場へと送り出し、莫大な利益を上げたのが、廻船問屋と呼ばれる商人たちであった。彼らは単に荷物を運ぶ運送業者ではなく、寄港地で商品を仕入れては別の港で売りさばく、いわば「動く総合商社」であった 24 。その中でも筆頭格として名を馳せたのが、鐙屋(あぶみや)惣左衛門である。鐙屋の旧姓は池田といい、最上義光が庄内を平定した後、その功績を認めて直々に「鐙屋」の屋号を与えたと伝えられている 25 。これは単なる名誉の付与ではない。義光が特定の有力商人を「御用商人」として取り立て、その経済力を藩の統治に組み込むための巧みな政治的手段であった。藩は鐙屋に特権的な地位を与える代わりに、藩の物産を優先的かつ有利な条件で全国に販売させ、市場経済に直接介入することなく、間接的に領国の富を最大化するシステムを構築したのである。

酒田はまた、単なる積出港ではなかった。北前船の航路を通じて、畿内からは播磨の塩、伊勢の木綿、美濃の茶といった生活必需品が、さらには京都の雛人形のような文化的な産物ももたらされた 20 。物資の移動は、文化の移動を伴う。酒田港は、最上川を遡って内陸の出羽国に中央の洗練された文化や情報を流入させる、文化的な「玄関口」としての役割も担い始めたのである 1

この時期の日本海海運は、まだ発展途上にあったが、慶長年間にはすでに朱印船貿易を通じてシャム(現在のタイ)など東南アジアとの交易も行われるなど、そのポテンシャルは日に日に高まっていた 28 。最上義光と志村光安が築き上げた酒田港の強固なインフラと経済基盤は、約六十年後、江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が「西廻り航路」を整備する際に、その最重要拠点として機能するための、揺るぎない礎となったのである 1

結論: 軍事、政治、経済が織りなした港町の創生

「酒田港町形成(1609年)」という事象は、歴史の教科書に記される一行の記述に留まるものではない。それは、慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦という軍事的決着に始まり、最上義光による最上川舟運整備という壮大な国家ビジョン、そして志村光安による卓越した都市計画を経て、慶長十四年(1609年)の共同体としての社会的・文化的定着に至る、約十年間にわたる壮大な連続的プロセスであった。

その成功は、決して偶然の産物ではなかった。それは、以下の四つの要因が奇跡的に噛み合った結果であった。第一に、最上義光の長期的かつ戦略的な構想力(グランドデザイン)。第二に、志村光安の戦場と行政の両方で発揮された卓越した現場での実行能力(プロジェクトマネジメント)。第三に、在地商人層との連携によって経済合理性を追求した柔軟な統治手法(官民連携)。そして第四に、関ヶ原の戦いという、自らの力ではコントロールできない外部要因を好機として捉えた強運(時運)である。

この一大事業の歴史的意義は大きい。それは、戦国の動乱を乗り越え、地域の地理的・経済的ポテンシャルを最大限に活用して新たな富を生み出すという、近世(江戸時代)の社会経済システムの雛形を創り出した点にある。志村光安は、その完成を見届けたかのように慶長十六年(1611年)に没したとされるが 8 、彼が築いた港町は、最上氏の、ひいては徳川三百年の平和と繁栄を支える経済的基盤の一つとなり、後の日本海交易の主役として大きく飛躍していく礎となった。戦国の動乱の終焉期に、軍事、政治、そして経済の力が織りなして生み出されたこの港町は、時代の転換点を象徴する記念碑として、今なお歴史に輝き続けている。

引用文献

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