長宗我部家改易(1600)
慶長五年(1600年)、長宗我部盛親は関ヶ原で西軍に与するも不戦敗。帰国後、兄津野親忠を殺害したことが家康の怒りを買い、長宗我部家は改易。戦国大名の終焉。
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慶長五年 土佐国大変動の記録:長宗我部家改易の全貌
序章:四国の覇者、その栄光と脆弱性
戦国時代末期、土佐国から現れ、一時は四国全土をその手中に収めようとした長宗我部氏。その興隆と滅亡は、戦国という時代のダイナミズムと、天下統一の奔流に飲み込まれていく地方権力の運命を象徴している。慶長5年(1600年)の改易という結末は、関ヶ原の戦いという単一の事象によってのみもたらされたものではなく、その栄光の裏に潜んでいた構造的脆弱性が、時代の転換期に一挙に露呈した結果であった。
長宗我部元親の功績と限界
長宗我部元親は、若年期にはその色白でおとなしい風貌から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されることもあった 1 。しかし、永禄3年(1560年)の初陣において目覚ましい武功を挙げると、その評価は一変し、「土佐の出来人」として家臣団の期待を一身に背負う存在となる 1 。父・国親の跡を継いだ元親は、その卓越した軍事能力を発揮し、天正3年(1575年)には土佐一条氏を放逐して土佐国を統一 2 。その勢いは留まることなく、阿波、讃岐、伊予へと侵攻し、天正13年(1585年)には伊予の河野氏を降し、四国平定をほぼ成し遂げるに至った 2 。
しかし、その絶頂期は長くは続かなかった。同年、天下統一を進める羽柴(豊臣)秀吉による圧倒的な軍事力の前に、元親は降伏を余儀なくされる。四国征伐の結果、長宗我部家は土佐一国のみを安堵され、豊臣政権下の一大名として組み込まれることとなった 5 。
豊臣政権下における土佐国の位置づけ
豊臣政権下において、長宗我部家が領有する土佐国は、幕府の公認石高である表高としては20万2600石余とされた。しかし、元親が天正15年(1587年)から実施した検地(長宗我部地検帳)に基づく実質的な石高(内高)は24万石余に達していたとされ、これは後の山内家入封後の記録からもうかがえる 10 。
元親は、九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役といった豊臣政権の軍役に忠実に従う一方で、中央の政局とは巧みに距離を保ち、大局的な外交戦略においては必ずしも長けていたとは言えなかった 5 。彼の関心は、あくまで土佐という「山の国」の統治と、その独立性の維持にあった。この中央政局へのある種の無頓着さが、後に家康の台頭という新たな政治力学への対応を誤らせる遠因となった可能性は否定できない。
破滅の遠因 ― 嫡男・信親の戦死
長宗我部家の未来を大きく狂わせた決定的な出来事は、天正14年(1586年)に起こる。豊臣政権の一員として参加した九州征伐において、嫡男であり、文武に優れ将来を嘱望されていた長宗我部信親が、戸次川の戦いで壮絶な戦死を遂げたのである 13 。この悲劇は、父・元親に計り知れない精神的打撃を与えただけでなく、長宗我部家の後継者計画を根底から覆すものであった。信親という強力な後継者を失ったことで、組織は内部から崩壊するリスクを抱え込むことになった。元親が一代で築き上げた急成長の組織は、この時から、その脆弱性を露呈し始める。信親の死に端を発する約15年間にわたる家中の動揺が、関ヶ原という天下の動乱期に、改易という最悪の形で結実することになるのである 7 。
第一章:凋落の序章 ― 揺らぐ長宗我部家
英雄・元親の死は、長宗我部家が抱えていた後継者問題を顕在化させ、家中を深刻な対立へと導いた。四男・盛親の家督継承は、父の強権によって成し遂げられたものの、その正統性には常に疑問符が付きまとった。この不安定な権力基盤こそが、後の悲劇的な結末へと続く凋落の序章であった。
慶長4年(1599年)5月19日:元親の死と盛親の家督継承
慶長4年(1599年)5月19日、長宗我部元親は京都伏見の邸にて、61年の波乱に満ちた生涯を閉じた 17 。その跡を継いだのは、四男の長宗我部盛親であった。盛親(幼名:千熊丸)は、嫡男・信親の死後、父・元親の強い後押しを受けて天正16年(1588年)に世子として指名されており、元親の死をもって正式に家督を継承した 18 。時に盛親、25歳であった 21 。
家督継承を巡る根深い対立
しかし、この家督継承は決して平穏なものではなかった。信親亡き後、家臣団の間では次男で讃岐の名門・香川氏を継いだ香川親和や、三男で土佐の有力国人・津野氏を継いだ津野親忠を後継者として推す声が根強く存在していた 14 。特に親和は、豊臣秀吉から後継者として認める旨の朱印状を得ていたにもかかわらず、元親がこれを黙殺したと伝えられる。その心労がたたったのか、親和は家督が盛親に定まった後、まもなく病死した 1 。
元親は、最愛の息子・信親を失った悲しみからか、晩年には冷静な判断力を欠く場面が見られた。彼は、盛親の家督継承に公然と反対した重臣の吉良親実や比江山親興らに対し、切腹を命じるという強硬手段に打って出た 16 。この粛清は、一時的に反対派を沈黙させたものの、家中に深刻なしこりと、盛親の正統性に対する拭い難い疑念を残す結果となった。
盛親体制の課題
若くして家督を継いだ盛親は、父が残した負の遺産、すなわち家中の深刻な対立と混乱の収拾に忙殺されることとなる 18 。彼の統治は、当初から「正統性の欠如」という致命的な弱点を抱えていた。この弱点を克服し、自身の権力基盤を固めようとする焦りが、彼のその後の行動原理を支配していく。
さらに、中央政権との関係においても、盛親の立場は盤石ではなかった。豊臣政権は、元親の死後も盛親による長宗我部家の家督継承と土佐一国の支配を、公式には承認しないまま関ヶ原の戦いを迎えたとする説も存在する 5 。これは、盛親が常に自身の地位を脅かす存在、特に兄たちに対して強い警戒心を抱かざるを得ない状況にあったことを示唆している。この根深い不信感と権力基盤の脆弱性が、関ヶ原での敗走という極限状況下において、彼の判断を致命的に狂わせる心理的土壌を形成していったのである。
第二章:天下分け目の決断 ― 関ヶ原への道
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の戦いへと発展する。この国家的な動乱に際し、長宗我部盛親は重大な決断を迫られた。彼の選択は、豊臣家への恩顧という大義名分と、不安定な自らの立場を確立したいという内政的な動機が複雑に絡み合ったものであった。
慶長5年(1600年)夏:天下動乱
徳川家康が会津の上杉景勝討伐を名目に、諸大名を率いて東国へ下向すると、その機を捉えて石田三成、毛利輝元、宇喜多秀家らが挙兵した。7月19日には、家康が残した伏見城への攻撃が開始され、天下は東西両軍に分かれて、戦乱の渦に巻き込まれていった 22 。
盛親の決断 ― 西軍参加
この報が土佐にもたらされると、長宗我部家中では東軍に味方すべきか、西軍に与すべきか、あるいは静観を保つべきかで議論が紛糾した 21 。しかし、最終的に当主である盛親は、西軍への参加を決断する。
その最大の理由は、父・元親の代から豊臣秀吉に臣従し、土佐一国を安堵された恩顧にあった 21 。秀吉亡き後、その遺児である秀頼を奉じる三成らの西軍に加わることは、豊臣恩顧の大名として、当時の武家の道義に適う選択であった。しかし、その背景には、より現実的な計算も働いていたと考えられる。家督継承の正統性に問題を抱える盛親にとって、この戦で西軍の勝利に貢献することは、自らの地位を豊臣政権下で盤石なものにする絶好の機会であった。それは、自身の政治的弱点を克服するための、起死回生を狙った戦略的選択でもあったのだ。
土佐からの出陣と伊勢方面への展開
決断を下した盛親は、約6,600の兵を率いて土佐を出陣した 17 。大坂で西軍に合流した後、8月には毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家らで構成される伊勢方面攻略軍に加わった 22 。この部隊は、東軍方の伊勢安濃津城などを攻撃したが、戦いの主軸が美濃に移るにつれて、西軍の主戦力は大垣城へと集結していく。盛親もまた、天下の趨勢を決する決戦の地、関ヶ原へと向かうことになった。
第三章:南宮山の悲劇 ― 戦わずして迎えた敗北
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原。長宗我部盛親にとって、この日は自らの武名と家の命運を懸けた一日となるはずであった。しかし、現実はあまりにも残酷であった。西軍内部の足並みの乱れと裏切りにより、彼は戦うことすらできずに敗北の憂き目を見ることになる。南宮山での悲劇は、西軍全体の構造的欠陥の縮図であり、盛親はその巨大な歯車の犠牲者の一人となった。
慶長5年(1600年)9月15日:関ヶ原合戦当日
長宗我部盛親率いる軍勢は、西軍総大将・毛利輝元の名代である毛利秀元、そして安国寺恵瓊、長束正家らの部隊と共に、関ヶ原の主戦場の南東に位置する南宮山に布陣した 23 。この南宮山軍団は、東軍の背後を脅かす重要な遊軍としての役割が期待されていた。
午前8時頃、濃霧が晴れると同時に、主戦場では東軍の井伊直政隊の発砲を皮切りに激しい戦闘が始まった 24 。戦況は一進一退を続け、西軍の石田三成は南宮山の毛利勢に出撃を促す狼煙を上げた 25 。しかし、南宮山は動かなかった。山麓の最前線に布陣していた毛利家の重臣・吉川広家が、かねてより徳川家康と内通しており、毛利家の安泰を条件に進軍を拒否したからである 23 。
総大将の毛利秀元や長束正家が再三にわたり出撃を促すも、広家は「今、兵に弁当を食べさせている最中である」などと不可解な理由を付けてこれを拒み続けた 28 。この逸話が、後に毛利軍の不活発さを揶揄する「宰相殿(毛利秀元)の空弁当」として語り継がれることになる 29 。広家の部隊に進路を完全に塞がれた毛利秀元本隊は動けず、その後方にいた長宗我部盛親の軍勢も、ただ戦況を傍観するしかなかった。盛親は、西軍が総崩れになるまで、ついに一兵も動かすことなく、戦いの終結を迎えたのである 23 。
9月15日夜~下旬:関ヶ原からの撤退
西軍の敗北が決定的になると、南宮山の諸隊も混乱のうちに退却を開始した 30 。盛親は伊勢路を選択して撤退するが、その道中は困難を極めた。夜間には「カウツの町」で地元の一揆勢の襲撃を受け、家臣の福富親政らが殿(しんがり)となってこれを防ぐ一幕もあった 30 。
その後、大坂を経由し、堺近郊の石津浦に待機させていた自軍の船団と合流しようとしたところ、東軍方の小出秀家(あるいは吉親)の軍勢と遭遇し、交戦状態となる 19 。この危機を辛うじて切り抜けた盛親は、海路で故郷・土佐へと帰還を果たした。しかし、彼を待ち受けていたのは、安息ではなく、自らの手で家の破滅を決定づける、さらなる悲劇であった。
第四章:破滅への引き金 ― 津野親忠殺害事件
関ヶ原からの敗走は、長宗我部盛親を肉体的にも精神的にも極限状態へと追い込んだ。家督の正統性への不安と、敗軍の将となったことへの焦りが、彼の理性を麻痺させる。そして、土佐帰国直後に下された一つの決断が、長宗我部家の命運に決定的な終止符を打つことになる。それは、徳川家康への謝罪や交渉の道を自ら断ち切り、改易という最も厳しい処分を招き寄せる、致命的な失策であった。
慶長5年(1600年)9月下旬:土佐帰国直後の凶行
戦場から命からがら土佐に帰り着いた盛親は、息つく間もなく、破滅的な行動に出る。かねてより土佐国内に幽閉していた実の三兄、津野親忠の殺害を命じたのである 7 。
この凶行の直接的な引き金となったのは、盛親の側近である久武親直の讒言であった。親直は盛親に対し、「親忠殿は、東軍の将である藤堂高虎と共謀し、この機に乗じて土佐半国を自らの所領としようと画策しております」と吹き込んだとされる 1 。親忠は、かつて豊臣家への人質として上方で過ごした経験から、特に藤堂高虎と親交が深かった 16 。関ヶ原で敗北し、自らの立場が極度に不安定になった盛親にとって、東軍の有力武将と繋がりを持つ兄の存在は、自身の地位を根底から覆しかねない脅威と映った。追い詰められた盛親は、この讒言を鵜呑みにし、将来の禍根を断つという短絡的な思考から、兄の殺害という最悪の選択をしてしまったのである。
徳川家康の反応
この「兄殺し」という非道な行いは、すぐさま戦後処理を進めていた徳川家康の耳に達した。家康はこの報告に激怒したと伝えられている 7 。家康が構築しようとしていた新しい天下の秩序において、西軍に与したことは「政治的対立」として交渉の余地があり得たが、私怨や猜疑心による「兄殺し」は、武家の道義にもとる許されざる蛮行であった。
結果として、この津野親忠殺害事件は、家康が長宗我部家を取り潰すための、抗弁の余地のない格好の口実を与えることになった。盛親は、自らの手で破滅への引き金を引いてしまったのである。
第五章:改易 ― 土佐国没収と戦国大名の終焉
津野親忠殺害という致命的な過ちを犯した長宗我部盛親であったが、なおも一縷の望みをかけて家の存続を図ろうと試みる。しかし、その行動は一貫性を欠き、新たな天下人である徳川家康の不信感を増幅させるだけであった。関ヶ原の戦後処理は、単なる勝敗の清算ではなく、新しい時代への適応能力を問うものであった。この点において、長宗我部家は他の西軍大名と比較しても、決定的に対応を誤ったのである。
慶長5年(1600年)10月~11月:最後の望みと断罪
土佐に戻った盛親は、徳川四天王の一人であり、戦後交渉の中心的役割を担っていた井伊直政を仲介役として、家康への謝罪と家名存続の嘆願を行った 18 。しかし、その一方で、万一交渉が決裂した場合に備え、本拠地である浦戸城の防備を固め、兵糧を運び込むなどの臨戦態勢を整えていた 18 。謝罪と抵抗準備という、この矛盾した二枚舌の対応は、家康に盛親の真意を測りかねさせ、不信感を募らせる結果となった。
盛親は自ら上洛し、直接弁明する機会を求めたが、時すでに遅かった。家康の怒りは、関ヶ原で敵対したこと以上に、戦後の混乱に乗じて兄を殺害したという道義に反する行為に向けられていた。最終的に、津野親忠殺害が決定的な理由とされ、長宗我部家は土佐一国24万石の所領をすべて没収、すなわち改易という最も厳しい処分を下された 5 。
比較考察:島津家との比較
同じく西軍の主力として関ヶ原で戦った島津家の処遇と比較すると、長宗我部家の対応の拙劣さは一層際立つ。島津義弘は、主戦場で東軍と激しく戦い、退却時には家康の本陣近くを突破して井伊直政や松平忠吉を負傷させるなど、徳川方に対して多大な損害を与えた。にもかかわらず、島津家は戦後、本領安堵(減封なし)という破格の扱いで家名を存続させている 35 。
その背景には、島津側の巧みな戦後戦略があった。第一に、出陣したのは当主の義久ではなく、弟の義弘であるという体裁を整え、交渉の余地を残した。第二に、薩摩に帰国後、領国境を固めて徹底抗戦の構えを見せ、家康に「島津討伐は多大な犠牲を払うことになる」と認識させた。そして第三に、井伊直政や本多正信らを介して、2年近くにも及ぶ粘り強い外交交渉を展開したのである 35 。
これに対し、長宗我部家は当主である盛親自らが出陣し、交渉の鍵となる時期に「兄殺し」という道義的タブーを犯し、外交戦略も一貫性を欠いていた。家康の評価基準は、敵対したかどうか以上に、新しい秩序の構成員として信頼に足るかどうかにあった。島津は手強いが統治能力のある交渉相手と見なされた一方、盛親は家中すらまとめられない危険な人物と断じられたのである。長宗我部家の改易は、新時代において秩序を乱す大名を容赦なく排除するという、徳川の天下統治の基本方針を示す見せしめとしての意味合いも強かったと言えよう。
第六章:最後の抵抗 ― 浦戸一揆の蜂起と鎮圧
長宗我部家の改易は、当主・盛親一人の失脚に留まらなかった。それは、四百年にわたり土佐に根を張り、苦楽を共にしてきた家臣団、とりわけ「一領具足」と呼ばれる半農半兵の武士たちの生活基盤とアイデンティティを根底から揺るがすものであった。彼らの旧主への忠誠心と、未来への絶望が交錯した時、土佐の地で最後の、そして最も悲劇的な抵抗が始まった。
慶長5年(1600年)11月:一揆の勃発
長宗我部家の改易と、新たな土佐国主として遠江掛川城主・山内一豊の入封が決定されると、徳川家康は井伊直政の家臣を上使として土佐に派遣し、長宗我部家の本拠地・浦戸城の速やかな明け渡しを命じた 4 。
この報に、長宗我部家の家臣団は激しく動揺した。特に、元親の時代からその躍進を支えてきた一領具足たちは、この決定を到底受け入れることができなかった 39 。彼らは、「旧主・盛親公に、せめて土佐半国(あるいは一郡)だけでも安堵していただきたい」と嘆願し、城の明け渡しを断固として拒否。浦戸城に立てこもり、抵抗の意思を明確にした 1 。一揆勢の数は1万7千人にまで膨れ上がり、徳川方上使が宿所としていた麓の雪蹊寺を包囲するほどの勢いを示した 38 。これはもはや単なる嘆願ではなく、新権力に対する公然たる反乱であった。
約50日間の攻防と鎮圧
世に言う「浦戸一揆」である。一揆勢は、竹内惣左衛門を事実上の指導者(物頭)とし、吉川善助、徳井佐亀之助ら8名の大将を中心に結束し、約50日間にわたって籠城を続けた 38 。事態を重く見た家康は、周辺の四国諸大名に鎮圧への出兵を命令。新領主である山内一豊も、弟の山内康豊を鎮圧軍として派遣した 4 。
しかし、一揆の命運を分けたのは、外部からの攻撃以上に、内部の分裂であった。籠城側では、最後まで徹底抗戦を主張する一領具足ら「家中方」と、もはや抵抗は無益と考え、新領主・山内氏への恭順による家の存続を模索する重臣級の「年寄方」との間で、意見が激しく対立した 4 。この内部対立に、山内側が巧みに付け入った。最終的に、山内側の謀略と、内応した長宗我部旧重臣の手引きによって、一揆の指導者たちは討ち取られ、組織的な抵抗は終わりを告げた 40 。
慶長5年(1600年)12月29日:悲劇の結末
鎮圧後、討ち取られた一揆勢の首は273を数えた 38 。これらの首は塩漬けにされ、新秩序への反逆の証として、大坂の井伊直政のもとへ送られた 40 。主を失った胴体は浦戸の地にまとめて埋葬され、後にその地は「石丸塚」と呼ばれ、彼らの悲劇を後世に伝えることとなる 1 。
慶長6年(1601年)1月、山内一豊が土佐に入国。浦戸城は廃城となり、新たに高知城の築城が開始され、土佐は山内氏による統治の時代へと移行した 41 。浦戸一揆の悲劇は、戦国的な主従関係の終焉と、徳川の新しい集権的秩序によって、地方の旧来のシステムが暴力的に解体されていく過程を象徴する出来事であった。
慶長五年(1600年)長宗我部家改易に至る時系列表
年月日(慶長5年/1600年) |
長宗我部盛親の動向 |
中央(家康・三成)の動向 |
土佐国内の状況 |
5月3日 |
父・元親の一周忌を執り行う |
家康、上杉景勝討伐を決定し、諸大名に出兵を命じる |
盛親の家督継承に対する不満が燻る |
7月17日 |
(西軍参加を決断) |
石田三成ら、家康に対する弾劾状を諸大名に発し挙兵 |
- |
8月~9月上旬 |
6,600の兵を率い、伊勢方面軍として安濃津城などを攻める |
西軍、伏見城を落とす。東軍、西進を開始 |
出陣中 |
9月15日 |
南宮山に布陣。吉川広家の妨害で戦闘に参加できず。西軍敗報を受け撤退開始 |
関ヶ原の戦い。東軍が勝利 |
- |
9月15日夜~下旬 |
伊勢路を経て敗走。道中で一揆の襲撃や小規模な戦闘を経験し、海路で土佐に帰国 |
家康、大津城で戦後処理を開始 |
- |
9月下旬 |
土佐帰国直後、久武親直の讒言を信じ、幽閉中の兄・津野親忠を殺害 |
家康、三成・小西行長らを捕縛 |
家中に衝撃と動揺。親忠殺害が実行される |
10月~11月 |
井伊直政を介し家康に謝罪。並行して浦戸城の防備を固める |
家康、盛親の兄殺しに激怒。長宗我部家の改易と山内一豊への土佐下賜を決定 |
改易の報が伝わり、家臣団が動揺 |
11月17日頃 |
(京に滞在か) |
徳川方上使が土佐に到着。浦戸城の明け渡しを要求 |
旧臣(一領具足)が要求を拒否し、浦戸城に籠城(浦戸一揆勃発) |
11月~12月 |
- |
- |
約50日間にわたる籠城戦。重臣と一領具足の間で対立 |
12月29日 |
- |
- |
重臣の内応により一揆鎮圧。指導者ら273名が討死。首は塩漬けにされ大坂へ送られる |
慶長6年(1601年)1月 |
(改易され浪人に) |
- |
山内一豊、土佐に入国。新体制が始まる |
終章:歴史的考察 ― 長宗我部家改易が残したもの
長宗我部家の改易は、戦国時代の終焉期における一つの象徴的な事件である。それは単なる一地方大名の没落に留まらず、時代の大きな転換点において、政治的判断の誤りが如何に致命的な結果を招くかを示す教訓に満ちている。
一連の事象の総括
本報告書で詳述してきた通り、長宗我部家の改易は複合的な要因が連鎖した結果であった。その根源は、天正14年(1586年)の嫡男・信親の戦死にまで遡る。この悲劇が引き起こした後継者問題は、家中を分裂させ、四男・盛親の権力基盤を終始不安定なものにした。この正統性の欠如と内なる不安が、関ヶ原という天下分け目の決戦において、西軍参加というハイリスクな選択へと彼を駆り立て、南宮山での不戦敗という結果を招いた。そして、敗走後の極限状態において、猜疑心から兄・津野親忠を殺害するという最悪の失策を犯し、自ら改易の口実を徳川家康に与えてしまったのである。一連の出来事は、個人的な悲劇と政治的未熟さが、時代の奔流と交錯した時に生まれる悲劇の典型例と言えよう。
その後の長宗我部盛親
改易処分を受け、土佐を追われた盛親は、京都で大岩祐夢と号し、寺子屋の師匠として糊口をしのぐなど、14年間にわたる浪人生活を送った 18 。しかし、武将としての誇りと、長宗我部家再興の夢を捨てることはなかった。
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が頂点に達し、大坂冬の陣が勃発すると、盛親は豊臣秀頼からの誘いに応じ、土佐一国の返還を条件に、かつての家臣らと共に大坂城に入城する 13 。翌年の大坂夏の陣では、豊臣方の主力部隊を率い、八尾・若江の戦いで因縁の相手である藤堂高虎の軍勢と激戦を繰り広げるなど、最後の輝きを見せた 19 。しかし、豊臣方は徳川の大軍の前に敗北。大坂城は落城し、再起の夢は潰えた。盛親は戦場から脱出を図るも、潜伏先で捕縛され、慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で斬首された。享年41 17 。彼の5人の息子たちも処刑され、ここに長宗我部家の嫡流は完全に断絶した 7 。
土佐における体制交代の意義
長宗我部氏の滅亡と、その最後の抵抗であった浦戸一揆の鎮圧は、土佐における戦国時代の完全な終焉を告げるものであった。新領主として入国した山内一豊は、長宗我部家臣団を厳しく峻別した。自らに従った旧重臣層などを郷士(下士)として取り立てる一方、自らが率いてきた家臣団を上士として、両者の間に明確な身分差を設けた。この山内家による統治体制は、その後260年以上にわたって続くことになるが、上士と下士の間の根深い対立構造は幕末に至るまで解消されず、坂本龍馬や中岡慎太郎といった郷士出身の志士たちが、藩の枠組みを超えて活動する遠因ともなった。長宗我部家の改易は、土佐という一国の歴史に、長く深い影響を残したのである。
引用文献
- 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
- 四国を統一した武将、長宗我部元親が辿った生涯|秀吉の四国攻めで臣下に降った土佐の戦国大名【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1144083
- 長宗我部元親の四国進出はどのように展開されていったのか(1575~79年) | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/39
- 浦戸一揆と一領具足 - 浦戸の歴史 - 高知市立浦戸小学校 https://www.kochinet.ed.jp/urado-e/rekishi/1.html
- 長宗我部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F
- 長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか) 拙者の履歴書 Vol.112~二十一年の生涯、戦国の嵐 https://note.com/digitaljokers/n/nab60429cc4b2
- 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
- 長宗我部氏 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F
- 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
- 長宗我部元親|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1614
- 文久2年(1862)の土佐藩の石高と人口を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000128778
- 長宗我部元親の名言・逸話23選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/182
- 非業の死から復姓へ!長曾我部家の隆盛と再興、双方のきっかけを作った「島弥九郎事件」とは? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/166394/2
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