長崎活版印刷所開設(1590)
1590年、長崎で日本初の活版印刷所が開設。秀吉の追放令下、ヴァリニャーノの戦略と天正遣欧少年使節の尽力で実現。キリシタン版を出版したが、禁教により終焉を迎えた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
1590年長崎活版印刷所開設の深層:戦国終焉期における政治・宗教・技術の交錯
序章:1590年、天下統一の完成と異文化の胎動
天正十八年(1590年)。この年は、日本の歴史において一つの時代が終わり、新たな秩序が形成される画期的な年として記憶されている。約一世紀にわたって列島を分断した戦乱の時代は、豊臣秀吉という稀代の英雄の手によって、ついに終焉を迎えた。同年七月、関東の雄であった小田原の北条氏が降伏し、それに続く奥州平定によって、秀吉の武力による天下統一事業は名実ともに完成したのである 1 。日本は強力な中央集権体制の下で、新たな安定の時代へと歩みを進めようとしていた。
しかし、この国内の政治的ベクトルが「統一」と「安定」へと収斂していくその只中で、列島の西端、肥前の国では、全く異なる論理に基づいたもう一つの歴史的な事象が静かに進行していた。同月、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに率いられた一行が、ヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルク式活版印刷機を携えて長崎に上陸し、近郊の加津佐(かづさ)に日本初の活版印刷所を開設したのである 4 。
この二つの出来事の同時発生は、単なる偶然ではない。そこには、戦国時代の終焉期における日本の複雑な状況が凝縮されている。特筆すべきは、秀吉がわずか三年前に「伴天連追放令」(1587年)を発令し、キリスト教に対して公式には厳しい姿勢を示していたという事実である 7 。この政治的逆風の真っ只中に、なぜキリスト教布教の最重要戦略ツールとも言える活版印刷機が、白昼堂々と日本に持ち込まれ、稼働を開始することができたのか。
この一見して矛盾した事象こそが、本報告書が解き明かすべき中心的な謎である。それは、秀吉が構築しようとした国内秩序という「内向き」のベクトルと、ヴァリニャーノらが推し進めたヨーロッパ世界の知的・技術的インフラを導入しようとする「外向き」のベクトルが、最高権力者の意図とは異なる形で交錯した特異点であったことを示唆している。秀吉が作り出した「安定」という土壌の上で、彼自身が警戒するキリスト教の「知の種子」が蒔かれたという、歴史の皮肉な構造がここには存在する。本報告書は、「長崎活版印刷所開設」という事変を、戦国時代という大きな文脈の中に位置づけ、その背景にある政治的駆け引き、壮大な宗教戦略、そして東西文化の衝突と融合のダイナミズムを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
表1:活版印刷機導入から事業停止までの詳細年表
年代 |
国内の政治・社会動向 |
ヴァリニャーノと印刷事業の動向 |
1579 |
織田信長、安土城を拠点に天下布武を進める |
ヴァリニャーノ、初来日。教育の重要性と出版の必要性を認識 6 。 |
1582 |
本能寺の変。秀吉が台頭 |
天正遣欧少年使節、長崎を出帆 6 。 |
1587 |
秀吉、九州を平定。 伴天連追放令を発令 7 。 |
使節団、ヨーロッパで印刷技術を習得 6 。 |
1588 |
秀吉、刀狩令を発令。 |
使節団、ゴアでヴァリニャーノと再会。『原マルティノの演説』を印刷 6 。マカオに滞在開始。 |
1590 |
秀吉、 小田原征伐により天下統一を完成 1 。 |
ヴァリニャーノ、インド副王使節として来日し秀吉に謁見。印刷機を伴い長崎に到着 6 。加津佐コレジオに印刷所を開設。 |
1591 |
秀吉、千利休に切腹を命じる。 |
『サントスの御作業の内抜書』を印刷 4 。コレジオと印刷所が天草へ移転 9 。 |
1592 |
文禄の役が始まる。 |
『平家物語』『伊曽保物語』などを天草で印刷。 |
1598 |
秀吉、死去。 |
ヴァリニャーノ、最後の来日。 |
1600 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
『和漢朗詠集』などを印刷。 |
1603 |
徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 |
『日葡辞書』などが長崎で印刷される。 |
1612 |
幕府、直轄領に禁教令を発布 10 。 |
|
1614 |
幕府、全国にキリシタン追放令を発令 。 |
印刷所は閉鎖され、印刷機と技術者はマカオへ追放される 11 。 |
第一章:背景 ― 秀吉の天下とイエズス会の戦略
活版印刷所の開設という事象は、二つの巨大な論理が衝突し、そして時に奇妙な形で共存した結果として生まれた。一つは、天下人・豊臣秀吉による国家統治の論理。もう一つは、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが描いた壮大な世界戦略の論理である。この二つの背景を理解することなく、事変の真相に迫ることはできない。
第一節:統治者・秀吉の論理 ― 安定と警戒
1590年、秀吉は長年の戦乱に終止符を打ち、日本に新たな政治秩序を打ち立てた。彼の統治の根幹は、太閤検地や刀狩令に象徴される、強力な中央集権体制の構築にあった 2 。全国の土地と民衆を直接把握し、大名の軍事力を削ぐことで、豊臣家を頂点とする絶対的な権力構造を確立しようとしたのである。この秀吉の論理から見れば、国内のあらゆる勢力は、その秩序の中に組み込まれるべき管理対象であった。
この文脈の中で、1587年の伴天連追放令を読み解く必要がある。九州平定の過程で、博多の町を破壊し、長崎がイエズス会の治外法権的な領地と化している実態を目の当たりにした秀吉は、キリスト教勢力が自らの統制を受け付けない独立した政治・軍事単位となることに強い危機感を抱いた 8 。かつて織田信長を苦しめた一向一揆のように、宗教的結束が強力な武装集団を形成する「本願寺的性格」を、秀吉はキリシタンの中に見出したのである 13 。
したがって、この追放令は、キリスト教の「信仰」そのものを根絶しようとする純粋な宗教的弾圧というよりも、宣教師(バテレン)という指導者を国外に追放することで、キリシタン大名と教会が強力に連携することを防ぎ、彼らを政治的に無力化することを目的とした、極めて政治的な統制策であったと解釈できる 8 。事実、追放令発令後も、その取り締まりは必ずしも厳格ではなく、多くの宣教師が国内に潜伏し、非公式ながら活動を継続していた 8 。秀吉にとって重要なのは、キリスト教が彼の築く秩序を乱さないことであり、その限りにおいては、ある程度の黙認も許容された。この「建前と実態の乖離」こそが、後にヴァリニャーノが外交的な突破口を見出すための重要な隙間となったのである。
第二節:戦略家・ヴァリニャーノの論理 ― 適応と育成
秀吉が国内の秩序構築に腐心していた頃、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、全く異なるスケールで日本の未来図を描いていた。彼は、それまでのヨーロッパ中心的な布教方針を根本から覆し、布教対象となる地域の文化、慣習、礼法を深く尊重し、それに「適応」することでキリスト教を浸透させるという、画期的な「適応主義」戦略を提唱した 14 。彼は日本人を「有能で教養があり、我々の神聖な法に関する事柄を正しく理解し、全東洋で最良のキリスト教徒になるに最もふさわしい人々」と高く評価し、彼らの知性に訴えかける布教の必要性を説いた 14 。
この戦略の核心にあったのが、日本人自身の手による布教を将来的に可能にするため、高度な教育を施した日本人聖職者を育成するという長期的ビジョンであった。そのための高等教育機関として、コレジオ(大神学校)やセミナリヨ(小神学校)の設立を精力的に進めたのである 14 。
そして、この壮大な教育事業を軌道に乗せるための不可欠なツールこそが、活版印刷機であった。当時、教育に必要な教科書や教材は、すべて手で書き写すしかなかった。しかし、この方法では膨大な時間と労力がかかるだけでなく、書写の過程で誤りが生じ、教義の解釈にブレが生じる危険性もあった。ヴァリニャーノは、この非効率とリスクを根本から解決するために、活版印刷機の導入を計画した。その目的は多岐にわたっていた。第一に、教育用テキストの安定的かつ大量な供給。第二に、印刷による教義の正確な伝達と統一(異端の排除)。そして第三に、来日する宣教師たちが日本語を効率的に学ぶための辞書や文法書を作成することであった 6 。
興味深いことに、秀吉の「追放令」とヴァリニャーノの「出版計画」は、一見すると全く対立するベクトルを持ちながら、その根底では「情報統制」という共通のテーマで繋がっている。秀吉は、宣教師という「情報の媒介者」を物理的に排除することで、キリスト教勢力の政治的拡大という情報の流れをコントロールしようとした。一方、ヴァリニャーノは、印刷という「情報の複製技術」を用いて、教義の純粋性を保ち、教育の質を均一にすることで、情報の質そのものをコントロールしようとした。1590年の出来事は、この二人の戦略家による、高度な情報戦略の応酬の一幕であったと見ることもできるのである。
第二章:準備 ― 天正遣欧少年使節に託された使命
活版印刷機の導入計画は、日本の歴史上、類を見ない壮大なプロジェクト「天正遣欧少年使節」と分かちがたく結びついていた。1582年、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら四人の少年が、九州のキリシタン大名の名代としてローマを目指して旅立ったこの出来事は、単なる宗教的巡礼ではなかった。それは、ヴァリニャーノの周到な戦略に基づき、複数の目的を内包した一大事業だったのである。
公式の目的は、日本のキリスト教徒の存在をヨーロッパ世界、特にローマ教皇に直接伝え、その祝福を得ることにあった 18 。しかし、その背後にはヴァリニャーノの深謀遠慮が隠されていた。第一に、少年たちにカトリック世界の中心であるヨーロッパの権威と文化を直接体験させ、帰国後、彼らを「生き証人」として布教活動に活用すること 20 。第二に、ヨーロッパ側に日本の文化水準の高さを伝え、日本布教の重要性を改めて認識させること 20 。そして第三に、最も実務的かつ重要な使命が、かねてからの計画の要であった活版印刷機と、それを操作するための技術者を日本に連れ帰ることであった 4 。
この計画は極めて周到に実行された。使節団に随行したジョルジェ・デ・ロヨラやコンスタンチーノ・ドゥラードといった日本人修道士たちは、ヨーロッパ滞在中、ポルトガルのリスボンで活版印刷の専門技術を習得した 6 。特筆すべきは、単に機械を持ち帰るだけでなく、日本語を印刷するための活字をヨーロッパで特注した点である。ロヨラの美しい筆跡を手本として、日本語をローマ字で表記するための活字が鋳造された 6 。これは、計画が単なる思いつきではなく、ヴァリニャーノの構想段階から具体的に練り上げられていたことを雄弁に物語っている。
このように考えると、天正遣欧少年使節は、ヴァリニャーノの「適応主義」を国際的なスケールで実践した、壮大な「広報・技術導入プロジェクト」であったと言える。少年たち自身が「歩くメディア」として、日本とヨーロッパの双方向の文化理解を促進する役割を担う一方で、その華やかな旅の裏では、活版印刷機という極めて重要な戦略物資を日本へ移送するという、具体的かつ戦略的なタスクが着々と進められていた。少年たちの旅は、宗教的情熱に彩られた巡礼であると同時に、この戦略物資をヨーロッパから日本へと運ぶための、壮大な「隠れ蓑」であり、その行動を正当化するための装置でもあった。宗教的情熱と冷徹な戦略性が同居した、見事なプロジェクト設計であった。
第三章:実行 ― 活版印刷機、日本へ
使節団のヨーロッパでの成功と、戦略物資である活版印刷機の確保は、計画の第一段階に過ぎなかった。真の困難は、伴天連追放令という厳然たる障壁が存在する日本へ、いかにしてこの「禁制品」を持ち込むかという点にあった。ここからの道のりは、国際情勢と個人の機知が織りなす、緊迫した外交劇の様相を呈していく。
【時系列】帰還の旅路と「追放令」という壁 (1588年~1590年初頭)
1588年、帰路についた使節団は、インドのゴアでヴァリニャーノと感動的な再会を果たす。この時、一行は早速持ち運んでいた印刷機を使い、使節の一人である原マルティノがゴア副王の前で行った感謝の演説を『原マルティノの演説』として印刷した 6 。これは、来るべき日本での出版事業の成功を占う試金石であり、彼らが技術を完全に習得していることを示すデモンストレーションでもあった。
しかし、日本の状況は彼らの帰国を許さなかった。既に秀吉による伴天連追放令が発令されていたため、一行は直ちに日本へ渡ることができず、中継地のマカオで長期の足止めを余儀なくされた 6 。だが、彼らはこの時間も無駄にはしなかった。マカオの地で印刷機を稼働させ、『キリスト教子弟の教育』(1588年)や、使節たちのヨーロッパでの見聞を対話形式でまとめた『遣欧使節対話録』(1590年)などを次々と出版したのである 6 。このマカオでの活動は、印刷技術を維持・向上させると同時に、日本での本格稼働に向けた貴重な準備期間となった。しかしその一方で、技術習得の中心人物であったジョルジェ・デ・ロヨラがマカオで病死するという悲劇にも見舞われ、計画は大きな痛手を被った 6 。
【時系列】外交的突破 (1590年7月)
宣教師としての入国が禁じられている状況をいかにして打開するか。ここでヴァリニャーノは、常人では思いもよらない奇策を講じる。彼は自らの身分を「宗教家」から「外交官」へと転換させたのである。すなわち、ポルトガル領インド副王の公式な使節という資格を帯びることで、追放令の対象外となることを狙ったのだ 6 。
この戦略は功を奏した。天正十八年(1590年)7月、ヴァリニャーノは帰国した天正遣欧少年使節を伴い、聚楽第で秀吉との謁見を果たした。この歴史的な対面の場で、少年たちはヨーロッパで習得したヴィオラやハープといった西洋楽器を見事に演奏し、秀吉を大いに喜ばせたという 5 。天下人として、諸外国との公式な外交関係を無視できない秀吉は、ヴァリニャーノを「追放すべき宣教師」としてではなく、「歓待すべき使節」として扱わざるを得なかった。この役割変換(ロールチェンジ)こそが、追放令という静的な法の壁を乗り越えるための鍵であった。ヴァリニャーノは、自らが動的な役割を演じることで法の論理を無効化し、使節団および戦略物資である活版印刷機を、合法的に日本国内へ運び込むことに成功したのである。
【時系列】肥前国加津佐への設置 (1590年後半)
1590年7月21日、八年半の歳月を経て、使節団は長崎の港に凱旋した 5 。彼らと共に上陸した活版印刷機は、長崎からほど近い肥前国加津佐(現在の長崎県南島原市加津佐町)にあったイエズス会のコレジオ(学林)へと運び込まれ、そこに日本初の活版印刷所が設置された 4 。加津佐が最初の設置場所に選ばれたのは、この地がキリシタン大名である有馬晴信の領内にあり、秀吉の直接的な影響が及びにくく、比較的安全な活動拠点であったためと考えられる。
1590年の後半、加津佐のコレジオでは、印刷所の設営、ヨーロッパから運ばれてきた膨大な活字の整理、そして日本における最初の出版物となる『サントスの御作業の内抜書』の翻訳・編集作業が急ピッチで進められた。戦国時代の終焉を告げる天下統一が完成したその年に、日本の知の歴史を大きく塗り替えるための準備が、西海の僻地で着々と整えられていったのである。
第四章:始動 ― キリシタン版の誕生と文化交流
加津佐に設置された印刷所は、翌1591年から本格的に稼働を開始し、以後約23年間にわたり、後に「キリシタン版」と総称される数々の貴重な出版物を世に送り出した。それらは、当時の日本の文化や学術に多大な影響を与えると同時に、西洋式活版印刷技術が日本で直面した技術的な課題をも浮き彫りにした。
第一節:日本初の活字本とその衝撃
天正十九年(1591年)、加津佐のコレジオにおいて、日本で初めて西洋式活版印刷術によって印刷された記念碑的書物『サントスの御作業の内抜書』が刊行された 4 。これは、聖人たちの伝記、特に信仰のために命を捧げた殉教者たちの言行を抜粋して翻訳したものであった 22 。この書が最初の出版物に選ばれたことには、明確な意図があったと考えられる。秀吉による伴天連追放令が発令され、キリスト教徒への風当たりが強まる中で、来るべき迫害の時代に備え、信徒たちに殉教の精神を説き、その信仰心を鼓舞することが急務であったからである。この一冊は、それまでの日本の書物生産の主流であった木版印刷や手書きの写本とは異なり、活字を組み替えることで多様な書物を効率的に生産できるという、新たな時代の到来を告げるものであった。
第二節:キリシタン版の内容と多岐にわたる目的
キリシタン版の出版物は、その目的に応じて多岐にわたっていた。それらは大きく四つのカテゴリーに分類することができる 17 。
- 教義・信心書: 『ドチリナ・キリシタン』(キリスト教教義問答集)に代表される、教義の正確な普及と信徒の信仰生活の指針を示すことを目的とした書籍群。これらは、教義の統一を図る上で不可欠なものであった 23 。
- 語学書: 『日葡辞書』や『ラテン文典』など、言語学習のための実用的な教材。来日した宣教師が日本語を学ぶため、また日本人神学生が神学の共通言語であるラテン語を学ぶために作成された 23 。
- 文学・教養書: 日本の古典である『平家物語』や『和漢朗詠集』、そして西洋の古典である『伊曽保(イソップ)物語』など。これらは、単なる読み物としてではなく、高度な戦略的意図を持って出版された。日本人エリート層の教養に関心を示し、キリスト教が日本文化と敵対するものではないことをアピールする、ヴァリニャーノの「適応主義」の実践であった。同時に、宣教師たちが日本の歴史や価値観を学ぶための、また日本人信徒がローマ字を学ぶための優れた教材としても活用された 23 。
- 実用書: 『ばうちずもの授けやう』(洗礼の作法書)など、ミサや儀式を執り行う上で必要な典礼の手引書。
これらの出版物群は、キリシタン版の印刷事業が、単なる宗教書の出版に留まらず、教育、語学、文化交流といった多角的な目的を持つ、壮大な知的プロジェクトであったことを示している。
第三節:技術的側面 ― 活版印刷と木版印刷
キリシタン版で用いられたのは、ぶどうの圧搾機を応用したスクリュープレス式の印刷機で、鉛・スズ・アンチモンを主成分とする合金製の活字と、紙に定着しやすい油性のインクを用いて印刷する、当時最新のグーテンベルク式印刷術であった 26 。
ヨーロッパではルネサンスの三大発明の一つに数えられ、社会に革命的な変化をもたらしたこの技術も、日本では限定的な普及に留まった。その最大の理由は、日本語という言語の特性にあった。数千から万単位の文字種を持つ漢字文化圏では、アルファベットのように数十種類の活字で事足りるヨーロッパとは異なり、活字の鋳造と管理が極めて煩雑であった 28 。また、絵や図と文字を一体で版に彫ることができ、草書体のような流麗な連綿体も自由に表現できる木版印刷が、江戸時代を通じて大衆出版文化の主流であり続けた 28 。
しかし、キリシタン版の真の歴史的価値は、当時の印刷業界に与えた直接的なインパクトよりも、その出版物が後世にもたらした「言語学的・文化的な副産物」にあると言える。布教という本来の目的は政治によって潰えたが、その過程で生み出された出版物、特にローマ字で日本語が表記された文献は、意図せずして16世紀末の日本語の音韻体系を極めて正確に記録する「タイムカプセル」となった。日本人が記した文献では曖昧になりがちな発音の違い(例えばハ行の子音 h と f の区別など)が、ポルトガル語の音韻体系を基準としたローマ字表記によって客観的に記録されたのである 31 。その結果、これらの文献は、後世の国語学や歴史言語学の分野において、当時の日本語の姿を復元するための第一級の史料として、不滅の価値を放ち続けている。
表2:主要キリシタン版出版物一覧
刊行年(西暦) |
書名 |
分類 |
刊行場所 |
使用文字 |
主な内容・目的 |
1591 |
サントスの御作業の内抜書 |
教義・信心書 |
加津佐 |
国字(漢字・片仮名) |
聖人伝。殉教の精神を伝え、信徒の信仰を鼓舞する 22 。 |
1592 |
ドチリナ・キリシタン |
教義・信心書 |
天草 |
国字(漢字・平仮名) |
キリスト教の基本教義問答集。信徒教育の基本テキスト 23 。 |
1592 |
平家物語 |
文学・教養書 |
天草 |
ローマ字 |
日本の古典文学。日本語学習教材および日本文化への理解を示す 24 。 |
1593 |
伊曽保物語 |
文学・教養書 |
天草 |
ローマ字 |
イソップ物語。西洋の古典を通じた教化と日本語学習教材 23 。 |
1594 |
ラテン文典 |
語学書 |
天草 |
ラテン語・日本語 |
日本人神学生のためのラテン語文法書 23 。 |
1600 |
和漢朗詠集 |
文学・教養書 |
長崎 |
国字 |
日本の古典詩歌集。『平家物語』と同様の目的 24 。 |
1603 |
日葡辞書 |
語学書 |
長崎 |
ポルトガル語・日本語 |
ポルトガル語話者のための日本語辞書。約3万2千語を収録 24 。 |
1604 |
落葉集 |
語学書 |
長崎 |
国字・ローマ字 |
日本語の漢字辞典。漢字の音訓引き、部首引きが可能。 |
第五章:流転と終焉
輝かしい成果を上げたキリシタン版の印刷事業であったが、その歴史は常に政治情勢の荒波に翻弄される、流浪と苦難の道のりであった。印刷所の物理的な移動の軌跡は、そのまま日本におけるキリスト教の「許容度」が、地理的にも時間的にも縮小していく過程を象徴している。
最初の拠点であった加津佐も、決して安泰の地ではなかった。秀吉の支配が九州の隅々にまで及ぶ中、より潜伏に適した場所を求め、コレジオと印刷所は1591年、強力なキリシタン大名であった小西行長の領国、天草へと移転した 9 。天草の河内浦に置かれたコレジオは、その後数年間にわたりキリシタン版出版の中心地となり、『平家物語』や『伊曽保物語』といった重要な書物がこの地で生み出された 19 。これは、地方のキリシタン大名の権力が、中央の禁令に対するある種の「防波堤」として機能していたことを示している。
しかし、この庇護も長くは続かなかった。1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉がキリスト教への態度を硬化させ、翌年には長崎で二十六聖人の殉教が起こるなど、弾圧は次第に厳しさを増していった 5 。さらに1600年の関ヶ原の戦いで西軍の主力であった小西行長が敗死すると、天草の拠点も完全に失われた。印刷事業は、多くのキリシタンが居住し、南蛮貿易の窓口として特殊な地位を築いていた長崎へと、再び移転を余儀なくされる。大名の個人的な庇護に頼ることがもはや不可能となり、国際的な治外法権的空間に最後の望みを託した形であった。
最終的な破局は、徳川の世となって訪れた。当初、貿易の利益を重視しキリスト教を黙認していた徳川家康も、幕藩体制の安定を最優先する立場から、ついに全国的な禁教へと舵を切る。1612年に幕府直轄領に禁教令が発布され、1614年にはそれが全国へと拡大された 10 。これにより、キリスト教徒への弾圧は組織的かつ徹底的なものとなり、潜伏キリシタンの受難の時代が始まる 36 。
慶長十九年(1614年)、徳川家康によるキリシタン追放令は、印刷事業に最終的な死を宣告した。イエズス会の主要な宣教師たちと共に、長崎にあった活版印刷機、そしてその技術を担った人々もまた、マカオへと追放されたのである 11 。1591年に加津佐で最初の産声を上げてから約23年、日本の知の歴史に大きな足跡を残したキリシタン版の印刷事業は、技術や文化の優劣ではなく、純粋に政治権力の論理によって、その歴史に完全に幕を下ろした。
結論:戦国時代の終焉に咲いた徒花か、未来への布石か
1590年の長崎(およびその周辺)における活版印刷所の開設は、戦国時代の終焉という激動の時代に、アレッサンドロ・ヴァリニャーノという一人の宣教師が描いた壮大な構想と、天正遣欧少年使節をはじめとする多くの人々の情熱と努力によって実現した、東西文化交流史における金字塔であった。それは、単なる技術の導入に留まらず、異なる文明が互いを理解し、知を共有しようとした崇高な試みであった。
しかし、その事業は徳川幕府による徹底した禁教政策によって、わずか20数年で根絶やしにされた。日本の出版文化の主流となることなく、歴史の闇に消えていったその姿は、時代に先駆けすぎた「徒花(あだばな)」であったと言えるかもしれない。政治の嵐の中で、文化の精華がいかに脆く、儚いものであるかを物語っている。
だが、その歴史的意義を事業の存続期間だけで測ることはできない。その短い活動期間に残された出版物、すなわち「キリシタン版」は、後世の我々に計り知れない恩恵をもたらした。特に、当時の日本語の口語や発音を克明に記録した語学関連の資料群は、日本の言語史研究において他に代えがたい不滅の価値を持っている 31 。また、西洋の思想や物語を日本に紹介する一方で、日本の古典をヨーロッパに紹介する双方向の役割を果たした点も、文化交流史において特筆すべき功績である 23 。
結論として、長崎活版印刷所は、政治の論理によって潰えた事業ではあったが、その成果は知の遺産として時代を超えて生き残り、我々に当時の文化の豊かさと、歴史の複雑さを雄弁に物語っている。それは単なる過去の出来事ではなく、未来に向けて蒔かれた知の種子であり、日本が世界へと開かれていく過程で生まれた、かけがえのない「未来への布石」であったと評価すべきであろう。
引用文献
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- 豊臣秀吉 http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000083
- 【豊臣秀吉の年表・データベース】百姓から天下人まで上りつめた秀吉の誕生から没まで https://www.imagineflag.jp/busho/hideyosi/nenpyou/index.html
- 活版印刷はじまりの地、加津佐 | 青い月 aoitsuki press http://aoi-tsuki.com/press/?p=231
- スタッフからの現地便り(2009年08月10日)|ロイヤルシティ別府湾杵築リゾート - 大和ハウス工業 https://www.daiwahouse.co.jp/shinrin/blog/blog_detail.asp?bukken_id=kitsuki&Mct=2009&blog_id=40
- キリシタン版 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%89%88
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- 狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その二) - 新「俳諧と美術」 - Seesaa https://yahan.seesaa.net/article/2022-01-27.html
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- キリシタン版|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1998
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- 【五足のくつ】17周年記念 『オリジナル活版印刷はがき』ができました! - 天草 LOVERS https://www.amakusa-lovers.jp/gosokunokutsu-news/9619
- グーテンベルクの活版印刷術はいつ確立されたのか https://www.centwell.co.jp/blog/archives/1151
- 天草コレジヨにおける活版印刷再現の試み https://sh.higo.ed.jp/amakusaths/wysiwyg/file/download/17/4753
- 20世紀の印刷文化を振り返る - 日本印刷技術協会 https://www.jagat.or.jp/story_memo_view.asp?StoryID=3320
- 木版印刷から活版印刷へ ある日本人の活躍~印刷の歴史(2) https://www.lowcost-print.com/column/%E6%9C%A8%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B4%BB%E7%89%88%E5%8D%B0%E5%88%B7%E3%81%B8%E3%80%80%E3%81%82%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B4%BB%E8%BA%8D%EF%BD%9E%E5%8D%B0/
- 江戸時代の活版印刷について - セントウェル印刷株式会社 https://www.centwell.co.jp/blog/archives/1129
- キリシタン資料から解き明かす中世日本語の姿 川口 敦子 - 三重大学全学シーズ集 https://seeds.mie-u.ac.jp/seeds/1210.html
- キリシタン資料のローマ字原文対応和文テキストの作成 https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/record/192447/files/IPSJ-CH2018014.pdf
- 日本の近世・近代翻訳論研究プロジェクト成果報告 アンソロジーと解題 序論 http://honyakukenkyu.sakura.ne.jp/shotai_vol19/No_19-012-Anthology_project.pdf
- 天草コレジヨ館 - 熊本県天草観光ガイド https://www.t-island.jp/spot/88
- 徳川幕府の禁教令により国外追放されたキリシタン大名の数奇な人生|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【高山右近編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1024143/2
- 天正遣欧少年使節 - 長崎市 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/church/4/index.html