最終更新日 2025-09-23

関東郡代設置(1603)

慶長8年、徳川家康は江戸幕府を開き関東郡代を設置。伊奈忠次・忠治親子は利根川東遷や荒川瀬替えで関東平野を開発。江戸の繁栄と幕府の基盤を築き、泰平の世を支えた。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

関東郡代設置の真実 ― 1590-1653 戦国から泰平へ、関東平野を創造した男たち

序章:慶長八年(1603年)への問い

慶長八年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任官し、江戸に幕府を開いた年。この歴史的な画期と時を同じくして、「関東郡代」が設置され、広域行政の監督が始まったと記録されることがある。しかし、この簡潔な記述は、一つの巨大な歴史的事業の、いわば中間地点を示すに過ぎない。関東郡代という役職の真の姿を理解するためには、時計の針を13年遡り、天正十八年(1590年)の関東から物語を始めなければならない。

本報告書は、「関東郡代設置」という事象を、1603年という単一の「点」としてではなく、1590年の徳川家康の関東入府に始まり、伊奈忠次・忠治親子二代の生涯をかけた半世紀以上にわたる、壮大な「線」としての国家建設事業として捉え直すものである。それは、単なる役職の設置という静的な行政行為の記録ではない。戦国の価値観が支配する荒れた土地を、二百数十年の泰平の世を支える豊穣な大地へと「創造」する、ダイナミックな国づくりのプロセスそのものであった。

なぜ1603年という年が重要なのか。そして、なぜその実態は1590年にまで遡るのか。この問いを解き明かすことは、関東郡代という職の本質、ひいては江戸幕府という統治体制の基盤が如何にして築かれたかを理解する鍵となる。本報告書は、その壮大な物語の全貌を、リアルタイムな時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。

第一部:黎明期 ― 新たな「国づくり」の始まり(1590年~1600年)

第一章:空白地への入府

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が、関東に約100年間君臨した後北条氏を滅亡させた。この戦後処理において、徳川家康は、三河以来の本領を離れ、新たに関東八州への移封を命じられる 1 。これは、家康の勢力を豊臣政権の中枢である畿内から遠ざけ、いまだ不穏な情勢にあった東北大名への抑えとする、秀吉の巧みな政治的戦略であった 1

しかし、家康はこの国替えを単なる左遷とは捉えなかった。旧領の約100万石から240万石以上へと加増される実利を得るとともに 4 、先祖代々の土地のしがらみから家臣団を切り離し、新たな支配体制を構築する絶好の機会と捉えたのである 4

家康が新たに入府した関東は、決して白紙の土地ではなかった。後北条氏は、領国経営において先進的な取り組みを行っており、検地に基づく税制(貫高制)を整備し、「四公六民」という比較的穏健な税率で民心を安定させていた 6 。徳川氏の統治は、この後北条氏が遺した統治システムを部分的に継承しつつ、それを根本から作り変えることから始まった。

しかし、その一方で、当時の関東平野は、地理的に大きな課題を抱えていた。特に利根川と荒川という二大河川は、定まった流路を持たずに関東平野を縦横に乱流し、ひとたび大雨が降れば広大な範囲が洪水に見舞われる湿地帯であった 8 。江戸の町もその例外ではなく、河川の氾濫に常に脅かされていた。この「暴れ川」を如何に制御し、湿地帯を生産性の高い土地に変えるか。これが、関東経営における最大の挑戦であった。

第二章:「関東代官頭」の誕生

新たな本拠地・関東の経営にあたり、徳川家康が白羽の矢を立てたのは、戦場で武功を立てた猛将ではなく、伊奈備前守忠次という一人の行政官僚であった 9 。忠次は三河時代から検地や兵站確保などでその卓越した実務能力を発揮しており、家康の信頼が厚い人物であった 9 。家康は、大久保長安、長谷川長綱、彦坂元正といった吏僚派の家臣らと共に、忠次を「関東代官頭」に任命した 12 。この人事は、これからの関東経営が軍事力による制圧ではなく、民政と経済開発を主軸とする「国づくり」であることを明確に示すものであった。

この「代官頭」という役職は、後世の一般的な代官とはその権限において一線を画していた。通常の代官が年貢の徴収や限定的な民政を主務とするのに対し、忠次に与えられた代官頭の権限は、担当地域の開発、支配、街道整備、産業振興など、統治に関わるあらゆる事項に及ぶ「万能代官」とも言うべきものであった 12 。家康は忠次に対し、関東経営の全権を委任したのである。この初期に与えられた広範かつ特殊な権限こそが、その後約200年にわたって伊奈家が関東において別格の地位を保ち続ける力の源泉となった 12

忠次は早速、武蔵国足立郡小室(現在の埼玉県伊奈町)に陣屋を構えた 14 。この地名は、彼の姓に由来するものである 15 。小室陣屋は、江戸からほど近く、関東平野のほぼ中央に位置する交通の要衝であり、ここを拠点として、広大な関東一円の支配と開発が開始されたのである 8

第三章:統治基盤の構築

伊奈忠次が代官頭として最初に着手した最重要課題は、関東領国の総検地であった。天正十九年(1591年)から慶長年間にかけて、関東全域で大規模な検地が実施された 16 。この検地の目的は、単に土地の面積を測量することに留まらなかった。それは、後北条氏が採用していた「貫高制」から、徳川氏が新たに導入する「石高制」へと、領国支配の基本原則そのものを転換させる、一種の社会革命であった。

貫高制とは、土地の価値を面積に応じて「貫」(銭の単位)で固定的に評価する制度である 19 。例えば、後北条氏の支配下では、田1反が500文、畠1反が165文というように、土地の生産力に関わらず年貢額が固定されていた 21 。これは領主にとって徴税が簡便である一方、土地ごとの生産性の違いを反映しておらず、領国全体の潜在的な生産力を正確に把握することは困難であった 22

対して石高制は、土地の等級(上・中・下など)を査定し、そこから得られる米の標準収穫量、すなわち「石高」を算出する制度である 19 。これにより、徳川氏は関東の全ての土地の生産力を米という統一された基準で数値化し、正確に把握することが可能となった。この石高を基準として、農民から徴収する年貢の量が決まり、さらには家臣に与える知行地の価値が定まり、それに応じた軍役の負担が課せられた 21

この石高制への転換は、関東の支配体制に画期的な変化をもたらした。第一に、領国全体の経済力を精密に掌握し、安定的かつ公平な徴税基盤を確立した。第二に、家臣団に対する論功行賞や軍役負担を客観的な数値に基づいて行うことを可能にし、属人的な支配から脱却した近世的な主従関係を構築した。伊奈忠次が指揮した総検地は、関東という巨大な「資産」の価値を査定し直し、新たな経営計画の礎を築く、極めて重要な事業だったのである。

この新たな石高制に基づき、家康は家臣団への知行割(領地の再配分)を断行した。江戸城を中心として、主要街道沿いの要衝には譜代の重臣を、その周辺には旗本を配置し、江戸の防衛体制を固めるとともに関東一円に支配網を張り巡らせたのである 1 。こうして、軍事と民政の両面から、徳川氏による新たな関東統治の基盤が、わずか数年のうちに急速に構築されていった。

第二部:激動期 ― 国家建設と江戸開府(1600年~1618年)

天正十八年(1590年)の関東入府から始まった徳川氏の「国づくり」は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いと、それに続く慶長八年(1603年)の江戸幕府開府という二つの大きな歴史的転換点を経て、その規模と目的を大きく変容させていく。一地方領主の領国経営であった関東開発は、日本の新たな首都圏を支える国家事業へと昇華していくのである。


表1:関東支配体制の変遷と伊奈氏の関与(1590年~1653年)

西暦

和暦

主要な政治・軍事動向

伊奈氏当主

主要な土木事業・施策

備考

1590年

天正18年

徳川家康、関東へ入府

伊奈忠次

関東代官頭に任命、小室に陣屋を構える

関東経営の開始

1591年

天正19年

伊奈忠次

関東総検地を開始(石高制への転換)

統治基盤の確立

1594年

文禄3年

伊奈忠次

利根川東遷事業に着手(会の川締め切り)

巨大治水事業の始動

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦い

伊奈忠次

小荷駄奉行として兵站を確保

天下分け目の戦い

1603年

慶長8年

江戸幕府開府

伊奈忠次

第一次天下普請(江戸城増改築)と連携

関東開発が国家事業化

1604年

慶長9年

伊奈忠次

備前渠用水を開削

「伊奈流」土木技術の展開

1610年

慶長15年

伊奈忠次

伊奈忠次、死去

1610年

慶長15年

伊奈忠政

家督と代官頭職を継承

長男による継承

1618年

元和4年

伊奈忠政

伊奈忠政、死去

1618年

元和4年

伊奈忠治

代官頭職を継承

次男・忠治の登場

1629年

寛永6年

伊奈忠治

赤山に陣屋を移転。 荒川の瀬替え(西遷) 、見沼溜井の造成に着手

忠治による事業の本格化

1635年

寛永12年

伊奈忠治

江戸川の開削 に着手

利根川東遷事業の最終段階

1642年頃

寛永19年頃

伊奈忠治

関東の諸代官を統括し、河川管理を専管。 事実上の「関東郡代」となる

職務内容の確立 23

1653年

承応2年

伊奈忠治

伊奈忠治、死去

伊奈氏による世襲体制が確立


第四章:天下分け目と関東

慶長五年(1600年)、豊臣政権内の対立が激化し、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原で激突した。この天下分け目の決戦において、伊奈忠次は戦場の最前線ではなく、後方支援の要である小荷駄奉行(兵糧や武器の輸送担当)として、その卓越した兵站管理能力を発揮した 9 。数十万の軍勢を動かすには、膨大な物資の円滑な補給が不可欠であり、忠次の働きは東軍の勝利に不可欠な要素であった。これは、彼が単なる内政官僚ではなく、大規模なロジスティクスを管理できる稀有な能力の持ち主であったことを示している。

関ヶ原の戦いにおける勝利は、家康を事実上の天下人へと押し上げた。戦後、西軍に与した大名の領地が没収・削減され、それらは徳川家や東軍の諸大名に再分配された。これにより、徳川氏の直轄領(天領)は全国規模で大幅に拡大し、伊奈忠次が代官頭として管轄する範囲も関東に留まらなくなった 2 。彼の職務の重要性は、徳川の権力が拡大するにつれて、ますます増大していったのである。

第五章:慶長八年(1603年)、画期としての江戸開府

関ヶ原の勝利から三年後の慶長八年(1603年)、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた 2 。この瞬間、江戸は単なる徳川家の本拠地から、名実ともに日本の政治的中心地、すなわち「首都」へとその地位を昇華させた。

この江戸開府こそが、伊奈忠次が進めていた関東開発事業の「目的」を根本的に変える決定的な転換点であった。それまで「徳川家のための基盤整備」であったものが、これ以降は「日本という国家の首都を支えるための社会インフラ整備」へと、その規模と重要性を飛躍的に増大させたのである 13

首都となった江戸には、全国から大名や武士、商人、職人が集まり、人口は爆発的に増加していく。この巨大都市の胃袋を満たす食糧を供給し、膨大な消費を支える物資を円滑に輸送する体制の構築は、もはや一地方の課題ではなく、国家的な最重要課題となった。

時を同じくして、家康は全国の諸大名に命令し、江戸城の大規模な増改築工事(第一次天下普請)を開始した 25 。これは、諸大名の財力を削ぎ、徳川の絶大な権威を示すという政治的な目的と同時に、首都にふさわしいインフラを急速に整備するという実利的な目的を併せ持っていた。伊奈忠次が指揮する関東の治水・開発事業は、この国家プロジェクトと密接に連携し、その根幹を支える役割を担うことになった。関ヶ原の勝利と幕府の成立は、忠次の事業に国家的な正当性と緊急性を与え、彼の役割を事実上、一地方の代官頭から、首都圏整備の最高責任者へと押し上げたのである。

第六章:関東平野の大改造 ― 伊奈忠次のグランドデザイン

江戸開府という新たな時代の要請を受け、伊奈忠次が長年温めてきた関東平野改造のグランドデザインが、国家事業として本格的に始動する。その中核をなすのが、利根川の流れを東の銚子方面へと変える、世に言う「利根川東遷事業」であった 8

この事業は、文禄三年(1594年)頃から既に始まっていたが 9 、江戸開府後はそのペースを加速させる。その目的は複合的かつ壮大であった。

第一に、江戸を利根川の洪水から守る「防災」。当時の利根川は現在の荒川の流路に近い場所を通り、江戸湾に注いでおり、江戸の町は常にその氾濫の脅威に晒されていた 8。

第二に、氾濫を繰り返していた広大な湿地帯を干拓し、新たな水田を開発する「生産力の向上」 8。

第三に、新たに開削する河川を、江戸へ物資を運ぶための「水運網」として活用する「経済振興」である 25。

忠次は、一つの土木事業によって、防災、農業、経済という三つの課題を同時に解決しようとしたのである 13。

この大事業を支えたのが、「伊奈流」あるいは「関東流」と呼ばれる、忠次とその配下の技術者集団が持つ高度な土木技術であった 28 。彼らは、U字形の管に水を入れた水準器を用いて土地の高低差を正確に測量し、和算の知識を駆使して勾配を計算するなど、当時最先端の技術を駆使した 30 。慶長九年(1604年)に開削された「備前渠用水」や、綾瀬川の氾濫を防ぐために築かれた「備前堤」など、関東各地に残る「備前」の名を冠した治水施設は、忠次の功績を今に伝えている 27

しかし、この壮大な事業の完成を見ることなく、慶長十五年(1610年)、伊奈忠次は没した 9 。その遺業は長男の忠政が継承したが、彼もまた元和四年(1618年)に34歳の若さでこの世を去ってしまう 10 。関東平野改造という前人未到のプロジェクトは、志半ばで最大の危機を迎えることになった。

第三部:完成期 ― 「関東郡代」体制の実質的確立(1618年~1653年)

父・忠次と兄・忠政の相次ぐ死により、伊奈家の関東支配と、進行中であった数々の巨大プロジェクトは岐路に立たされた。この国家的な危機を乗り越え、父のグランドデザインを完成へと導いたのが、忠次の次男・伊奈忠治であった。彼の時代に、関東代官頭の職務は実質的に「関東郡代」へと進化し、その体制は盤石のものとなる。

第七章:二代目・伊奈忠治の登場

元和四年(1618年)、兄・忠政が亡くなった時、その嫡男・忠勝はまだ8歳の幼少であった。このため、家督は忠勝が継いだものの、関東開発の総責任者である関東代官の職務は、忠政の弟であり、当時27歳であった伊奈忠治が継承することとなった 31

若くして重責を担うことになった忠治は、まず支配体制の再構築に着手する。寛永六年(1629年)、彼は拠点を父の代からの小室陣屋から、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市)へと移した 14 。この移転は極めて戦略的な意味を持っていた。赤山は、江戸にさらに近く、また荒川や綾瀬川といった主要な河川交通の結節点に位置していた。広域化・複雑化する治水事業や領国経営をより効率的に指揮・管理するため、中枢機能を江戸近郊の要衝へと移したのである。この赤山陣屋は、以後、伊奈氏による関東支配の拠点として、約170年間にわたり機能し続けることになる。

第八章:巨大プロジェクトの完成

赤山への拠点移転と同じ寛永六年(1629年)、伊奈忠治は父の代からの事業を継承し、さらに発展させる形で、関東平野の大改造を再始動させる。この年は、忠治の事業が本格化する画期的な年となった。

その一つが、「荒川の瀬替え(西遷)」事業である 27 。かつて江戸の東部、現在の隅田川の流路を流れていた荒川を、熊谷市久下付近で締め切り、西側の入間川の流路へと合流させ、江戸の西側を通って江戸湾へと注ぐ現在の流路へと付け替えるという、壮大な河川改修工事であった。これにより、江戸の東部に広がる低湿地帯は荒川の洪水から恒久的に守られることになり、後の時代に広大な新田地帯として開発される素地が築かれた。

同時に、この瀬替えによって生まれた荒川の旧河道を巧みに利用し、巨大な堤(八丁堤)で堰き止めることで、一大貯水池である「見沼溜井」を造成した 27 。この溜井は、周辺の数十の村々に安定した農業用水を供給する、関東有数の水源となった。

さらに忠治は、父が着手した利根川東遷事業の最終仕上げに取り掛かる。寛永十二年(1635年)から、利根川の膨大な水量を分散させ、江戸への洪水リスクをさらに低減させるため、下総国関宿から江戸湾へ至る新たな分水路、すなわち「江戸川」の開削に着手したのである 8 。この一連の事業により、関東平野の水系ネットワークは根本から再編成され、洪水のリスクは劇的に減少し、広大な農地と安定した水運網が確保された。伊奈忠治は、父・忠次が描いた壮大な青写真を、見事に現実のものとしたのである。

第九章:「関東郡代」の誕生

伊奈忠治がこれらの大事業を指揮する中で、彼が務める「関東代官頭」の職務と権限は、父の時代からさらに大きく進化していた。寛永十九年(1642年)頃には、忠治は関東に点在する他の幕府代官を統括し、特に河川の改修や築堤といった広域的な土木事業を専管する権限を幕府から正式に命じられている 23 。この時点で、彼の役職は名称こそ代官頭であったが、その職務の実態は、まさに関東一円の郡を統べる「郡代」そのものであった。後の元禄期に「関東郡代」が正式な職名となるが、その職務の実態は、この伊奈忠治の時代に完全に確立されたと言える 14


表2:関東代官頭(郡代)と一般代官の権限比較

項目

関東代官頭(郡代)

一般代官

主な職務

年貢徴収、民政、警察・司法に加え、 広域的な治水・利水事業、新田開発、河川管理を専管 23

年貢徴収、民政、警察・司法(軽犯罪)が中心 34

管轄範囲

関東八州の幕府直轄領。他の代官の管轄地にも治水事業等で権限が及んだ 14

数万石程度の限定された幕府直轄領

管轄石高(最大時)

約100万石 23

通常は5万石前後

幕府内での支配系統

当初は勘定奉行支配、後にその重要性から 老中支配 となることもあった 23

原則として勘定奉行支配

特殊権限

他の関東代官の統括権 、将軍の鷹場の管理 14

原則としてなし

世襲の有無

伊奈氏による約200年間の世襲 10

原則として一代限り


この表が示すように、関東郡代は一般の代官とは比較にならないほどの広範な権限と広大な管轄地を持ち、幕府内でも別格の地位を占めていた。その役宅は江戸の馬喰町に置かれ、そこから関東一円の民政を指揮した 23

承応二年(1653年)、伊奈忠治は62歳でその生涯を閉じた 10 。彼の死をもって、父・忠次から始まった関東平野の大改造事業は一つの完成を見た。そして、この職は忠治の子・忠克に継承され、以後、寛政四年(1792年)に12代忠尊が罷免されるまで、約200年間にわたり伊奈氏によって世襲されることになる 10 。特定の家系がこれほど長期にわたり重要な役職を世襲することは、江戸幕府の制度の中では極めて異例であった。これは、伊奈家とその家臣団が二代にわたって蓄積した、関東の水系と農政に関する高度な専門知識と技術的ノウハウが、幕府にとって他に代えがたい、不可欠なものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

伊奈忠治の時代は、「開発」の段階から、関東平野という巨大な社会インフラを「維持・管理」する段階へと移行する時期であった。彼が行った数々の事業は、システム全体の最適化と安定化を目指すものであり、その維持管理には継続的な専門知識が不可欠であった。幕府にとって、この職を伊奈家に世襲させることは、国家の心臓部である首都圏の安定を担保するための、最も合理的かつ効率的な選択だったのである。

終章:創造された関東と江戸の繁栄

伊奈忠次・忠治親子二代、実に60年以上にわたって続けられた一連の事業は、かつて「暴れ川」が乱流する広大な湿地帯であった関東平野を、日本有数の生産力を誇る大穀倉地帯へと文字通り「創造」した 9

この飛躍的な農業生産力の向上が、その後、人口100万人を超える世界最大級の巨大都市へと成長する江戸の胃袋を満たし、安定した食糧供給を可能にした 25 。また、整備された河川網は、関東各地の物産を江戸へと運ぶ大動脈となり、江戸の経済的繁栄を支えた。伊奈氏の事業は、二百六十年にわたる「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」の経済的基盤そのものを築いたと言っても過言ではない。

結論として、利用者様の問いであった「関東郡代設置(1603年)」とは、単なる一つの役職の設置を指す言葉ではない。それは、戦国の動乱を乗り越え、新たな泰平の世を築こうとした徳川家康の国家構想と、その壮大なビジョンを、親子二代にわたる卓越した技術と執念で現実に変えた伊奈氏という稀代のテクノクラート(技術官僚)による、関東平野そのものを「創造」する巨大事業の総称なのである。

そして、慶長八年(1603年)の江戸開府は、その事業が徳川家という一個の勢力のための領国経営から、日本という国家の首都を支えるための不可逆的な国家プロジェクトへと質的に転換した、決定的な一里塚であった。伊奈忠次・忠治の功績は、あまりにも長期的で foundational であったため、すぐには評価されず、死後300年以上が経過した大正時代になってから、ようやくその功績が認められ、それぞれ正五位、従五位が贈られた 26 。これは、彼らの事業がいかに時代を超えて、日本の社会基盤に大きな影響を与え続けたかを物語っている。関東郡代の設置とは、戦国時代の終焉と、近世日本の幕開けを告げる、大地に刻まれた壮大な叙事詩だったのである。

引用文献

  1. 3. 家康 関東移封 - itclorg https://itclorg.jp/2023/07/31/3-%E5%AE%B6%E5%BA%B7-%E9%96%A2%E6%9D%B1%E7%A7%BB%E5%B0%81/
  2. 幕藩体制の成立/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/120959/
  3. 「江戸は寒村」はウソだった!?豊臣秀吉と徳川家康の”国替え”に隠された壮大な戦略とは?【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/247007
  4. 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
  5. 3.水をめぐる混乱【農と歴史】:関東農政局 - 農林水産省 https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/ryoso/rekishi/03.html
  6. 後北条氏のすごい支配体制だった小田原城下町~神奈川県の歴史 ... https://articles.mapple.net/bk/523/?pg=2
  7. 北条氏政・氏直と小田原征伐:後北条氏100年の滅亡、その理由と歴史的背景を徹底解説 https://sengokubanashi.net/history/hojoujimasa-2/
  8. 伊奈忠次の河川改修と新田開発 https://www.japanriver.or.jp/kataru/kataru_report/pdf/no210_resume.pdf
  9. 利根川東遷 伊奈忠次・忠治の墓(勝願寺):埼玉県鴻巣市 | 石造物を巡る https://nomeshikoki17.fc2.page/3739/
  10. 【関東郡代伊奈氏の代々】 - ADEAC https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/text-list/d000010/ht001780
  11. 第1回〈関東流〉治水利水の祖、伊奈忠次・忠治父子 https://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/topics/pdf/08rensai/mizunogijyutusya/2021_summer_03.pdf
  12. 関東郡代伊奈氏の200年展 https://araijuku2011.jp/wp-content/uploads/2016/10/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B0%8F%E5%B1%95%E5%86%8A%E5%AD%90%E7%89%88B.pdf
  13. 伊奈忠次・忠治父子の物語 - 新井宿駅と地域まちづくり協議会 https://araijuku2011.jp/wp-content/uploads/2016/10/%E5%B0%8F%E5%86%8A%E5%AD%90%E6%B0%B4%E3%82%92%E6%B2%BB%E3%82%81%E3%80%81%E6%B0%B4%E3%82%92%E5%88%A9%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%8B%E9%96%8B%E3%81%8D%E7%94%A8.pdf
  14. 関東郡代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%A1%E4%BB%A3
  15. 伊奈忠次PR映像『伊奈忠次ー関東の水を治めて、泰平の世を築くー』 | バラのまち埼玉県伊奈町公式ホームページ Ina Town Official Web site https://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000003676.html
  16. 天正検地帳 - 船橋市 https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/0005/p008847.html
  17. 天正検地帳(てんしょうけんちちょう) 下総国海上郡三崎庄猿田郷村野帳(しもうさのくにうなかみごおりみさきのしょうさるたのごうそんやちょう) - 銚子市 https://www.city.choshi.chiba.jp/edu/sg-guide/page210169.html
  18. 検地 - 『れきナビ―やしお歴史事典』 http://yashio-rekinavi.com/reki-navi/index.php?title=%E6%A4%9C%E5%9C%B0
  19. 【高校日本史B】「太閤検地(2)」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12795/point-2/
  20. 知行制のうち、家臣に与える土地(田畠) https://ywl.jp/file/NRqWAmKHoklYApKfXLU2/stream
  21. 石高制(こくだかせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6-264938
  22. 貫高制と石高制はどう違う?それぞれのメリットとは? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/penetration-system/
  23. 関東郡代(カントウグンダイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%A1%E4%BB%A3-49344
  24. 江戸時代の政治と三大改革/ホームメイト - 中学校検索 https://www.homemate-research-junior-high-school.com/useful/20100_junio_study/2_history/edo/
  25. 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
  26. 2.孫の代まで60年かけて、利根川東遷事業を成し遂げた伊奈 忠次 https://industry-co-creation.com/lifestyle/88848
  27. 伊奈一族の治水 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670308.pdf
  28. 備前渠用水 (元圦から堤外水路まで) https://fukadasoft2.sakura.ne.jp/renga/bizen/index.html
  29. KUMASHIN Home Page https://www.kumashin.co.jp/05sanpo/05_11.html
  30. 玉川上水実地踏査学習会 https://s1592a205c5785692.jimcontent.com/download/version/1587607811/module/18426537525/name/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E5%AE%9F%E5%9C%B0%E8%B8%8F%E6%9F%BB%E5%AD%A6%E7%BF%92%E4%BC%9A.pdf
  31. 伊奈忠治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E5%BF%A0%E6%B2%BB
  32. 地域の歴史(伊奈氏の歴史) - 新井宿駅と地域まちづくり協議会 https://araijuku2011.jp/history/
  33. 郡代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%BB%A3
  34. 江戸の代官 https://www.viva-edo.com/daikan.html