最終更新日 2025-09-18

雑賀惣国一揆自治(1550頃)

紀伊雑賀の地にて、領主を持たず合議で統治する「雑賀惣国一揆」が興る。鉄砲を巧みに操り、信長を苦しめるも、秀吉の水攻めに屈し自治は終焉。
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紀伊国における自立と抵抗の軌跡 — 雑賀惣国一揆の興亡史

序章:百姓たちの共和国 — 雑賀惣国一揆とは何か

日本の戦国時代史において、「雑賀衆が自治を敷き銃の産地を掌握」したという認識は、一つの側面を捉えてはいるものの、その歴史的実像の深淵を覗くための入り口に過ぎない。紀伊国北部に位置した雑賀の地で展開されたのは、単なる武装集団の割拠ではなく、特定の領主を戴かず、地域の地侍や有力者たちが合議によって自らの共同体を統治するという、戦国時代において極めて特異な政治形態であった。これこそが「雑賀惣国一揆」である。

「惣国一揆」とは、中世後期の日本、特に畿内周辺で見られた統治共同体の一形態を指す 1 。守護大名のような単一の国主による支配を退け、一国あるいはそれに準ずる広域の国人、土豪、地侍が「惣国」として水平的に結合し、検断(警察・司法権)や半済(徴税権)といった統治権を自ら行使する、一種の共和制であった 1 。著名な例としては、守護畠山氏の支配を排除した「山城国一揆」 2 や、織田信長の侵攻に国を挙げて抵抗した「伊賀惣国一揆」 4 が挙げられる。雑賀惣国一揆もまた、この系譜に連なるものであり、その自治のありさまは、当時の日本を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスをして、紀伊国を「百姓たちの共和国」と評せしめたほどであった 6

本報告書は、1550年頃という特定の時点に留まらず、この雑賀惣国一揆が成立するに至った歴史的背景から、その独自の社会構造、そして織田信長、豊臣秀吉という天下統一を目指す巨大な中央集権化の波に抗い、やがて終焉を迎えるまでの一世紀近くにわたる興亡の軌跡を、可能な限り時系列に沿って詳述するものである。それは、戦国の動乱期に自らの手で自由と自治を勝ち取ろうとした人々の、壮大なる抵抗の物語である。

第一部:自治の揺りかご — 惣国一揆成立の歴史的背景(〜1550年頃)

雑賀の地に強固な自治共同体が根付いたのは、決して偶然ではない。それは、紀伊国が置かれた特殊な政治的環境と、雑賀衆が持つ独自の社会的・経済的基盤、そして時代の最先端技術であった鉄砲との運命的な邂逅という、三つの要素が複雑に絡み合った必然の帰結であった。

第一章:権力の空白 — 守護畠山氏の衰退と紀伊国の政治情勢

15世紀後半から16世紀にかけての紀伊国は、名目上の支配者である守護畠山氏の権力が著しく弱体化し、事実上の「権力の空白地帯」と化していた。この状況こそが、雑賀衆をはじめとする在地勢力が自立する最大の要因となった。

室町幕府において三管領家の一つとして重きをなした畠山氏は、15世紀半ばの家督相続問題を機に、畠山政長を祖とする尾州家と、畠山義就を祖とする総州家に分裂した 7 。この両派の対立は、応仁の乱(1467-1477)の主要な原因の一つとなり、乱後も彼らの本拠地である河内国や大和国を中心に、一世紀近くにわたって泥沼の内紛を繰り広げた 3 。絶え間ない合戦は畠山氏の国力を消耗させ、結果として領国の一つであった紀伊国に対する支配力は、有名無実化していったのである 8

守護権力の不在は、紀伊国内における権力のモザイク化を促進した。古くから広大な荘園を有する高野山金剛峯寺、強力な僧兵集団を擁する根来寺、粉河寺といった寺社勢力が一大権門として君臨し、紀南では湯河氏を中心とする国人一揆が、紀北では雑賀衆のような地侍連合がそれぞれ独自の勢力圏を確立していた 8 。このように、紀伊国では戦国時代を通じて突出した単一の政治権力、すなわち戦国大名が生まれず、諸勢力が割拠し、同盟と抗争を繰り返す状況が続いた 6

この畠山氏の衰退は、単に「権力の空白」を生んだだけではなかった。両派の抗争は、雑賀衆を含む紀伊の国人たちを否応なく戦乱に巻き込み、彼らに自らの軍事力と政治的判断力を磨く機会を与えた。彼らは時に傭兵として、時に同盟者として畠山氏の内紛に関与する中で 9 、畿内の政治情勢を肌で感じ、自らの価値を自覚していった。つまり、守護の衰退というプロセスは、在地勢力が受動的に独立を享受する機会であった以上に、彼らが自らの手で自治を運営するための能力を培う、いわば実践的な「訓練期間」として機能したのである。この経験こそが、後に雑賀惣国一揆という高度な政治的結合体を形成する礎となった。

第二章:潮風と鉄の民 — 雑賀衆の成り立ちと組織構造

権力の空白地帯となった紀伊国において、雑賀衆は独自の組織構造を築き上げ、強力な共同体として台頭した。

雑賀衆の支配領域は、現在の和歌山市を中心に、紀ノ川河口域一帯に広がっていた 13 。その内実は、五つの地域連合体、すなわち「雑賀五組(ごくみ)」または「雑賀五搦(ごからみ)」から構成されていた 13 。具体的には、紀ノ川河口の沿岸部に位置する「雑賀荘(さいかのしょう)」と「十ヶ郷(じっかごう)」、そしてやや内陸に位置する「中郷(なかつごう)」「南郷(みなみごう)」「宮郷(みやごう)」の五つである 13 。この地理的な区分は、経済基盤の違いにも直結していた。沿岸部の雑賀荘と十ヶ郷は、農耕には不向きな砂地が多かったが、その立地を活かして漁業や海運業、さらには瀬戸内海や明との交易に従事する人々が多く集まっていた 14 。一方、内陸の三組(中郷、南郷、宮郷)は、紀ノ川がもたらす肥沃な土地で農業を主たる生業としていた 17

雑賀衆が特異であったのは、その構成員の多様性にある。彼らは単一の武士団ではなく、漁民、船乗り、商人、鉄砲鍛冶、農民といった、様々な職業に従事する地侍や有力者たちが地縁に基づいて結びついた共同体であった 18 。この多職種の連合体という性格が、海運による経済力と、職人技術による軍事力という、雑賀衆の二大支柱を形成したのである。

統治形態において、雑賀衆は戦国時代の常識から逸脱していた。彼らの共同体には、大名のような絶対的な支配者は存在しなかった 20 。全ての重要事項は、五組それぞれから選出された有力者、「年寄衆(としよりしゅう)」による合議によって決定された 19 。その実態を雄弁に物語るのが、永禄5年(1562年)に紀南の国人・湯河氏と交わされた起請文である。この文書には、雑賀荘から13人、十ヶ郷から6人、中郷から7人、南郷から8人、宮郷から2人、合計36人もの名が連署されており、彼らが対等な立場で意思決定に関与していたことがうかがえる 13 。このような合議制による共和制的な統治は、伊賀惣国一揆の「十二人評定衆」 21 や、近江の甲賀武士団による「郡中惣」 23 とも共通する構造であり、中央の権力から自立しようとする在地勢力に共通して見られた統治形態であった。

しかし、この「雑賀五組」という連合体構造は、諸刃の剣でもあった。外部からの脅威に対しては強固な結束(惣国)をもたらす一方で、その内部には常に潜在的な対立軸を孕んでいた。経済基盤や生活様式が異なる沿岸部と内陸部では、利害が必ずしも一致しなかった。特に、後に織田信長という巨大な脅威が出現した際、徹底抗戦を主張する沿岸部(主に雑賀荘・十ヶ郷)と、和親の道を探ろうとする内陸部(主に三組)との間で深刻な路線対立が生じることになる 25 。彼らの強みであった「連合」という組織形態そのものが、情勢の変化によっては共同体を内側から崩壊させる最大の弱点にも転化しうるという構造的脆弱性を、この時点で既に内包していたのである。

第三章:時代の寵児、鉄砲との邂逅

雑賀衆を戦国時代の主役の一角に押し上げた決定的な要因は、当時の最新兵器であった鉄砲との出会いであった。

天文12年(1543年)、種子島に鉄砲が伝来すると、その情報は瞬く間に日本各地へ広がった。紀伊国においては、雑賀に隣接する根来寺の僧・津田監物らが種子島からその技術を持ち帰ったのが最初とされる 14 。根来寺の門前町で鉄砲の国産化が始まると、その影響はすぐに雑賀衆にも及び、彼らもまた、いち早く鉄砲を導入し、その軍事的な可能性を深く認識した 18

雑賀の地で鉄砲が大規模に生産されていたかについては、明確な史料は残されていない。しかし、彼らが高度な鉄砲運用能力を有していたことは疑いようがない。その背景には、雑賀が有していた二つの強みがあった。第一に、優れた鍛冶技術の伝統である。雑賀では「雑賀鉢(さいかばち)」と称される、非常に堅牢で実用的な兜が生産されており、高度な技術を持つ鍛冶職人集団が存在していた 14 。彼らが鉄砲の整備や、さらには部品の製造・改良に関わっていた可能性は極めて高い。一説には、一大生産地であった堺で製造される鉄砲の一部は、雑賀の職人が担っていたとも言われている 16

第二に、そしてより決定的なのが、彼らの経済基盤であった。鉄砲を兵器として運用するには、本体だけでなく、弾丸となる鉛と、火薬の主原料である硝石が不可欠であった。特に硝石は、当時の日本国内ではほとんど産出されず、その大半を明や南蛮からの輸入に頼っていた 14 。ここに、海運と交易を生業とする雑賀衆の強みが最大限に発揮される。彼らは堺の商人などと連携し、独自の交易ルートを通じて、硝石や鉛を安定的かつ大量に入手することが可能な立場にあった 17

雑賀衆にとって鉄砲は、単なる新兵器ではなかった。それは、彼らの社会構造と経済基盤に完全に合致した「天与の武器」であったと言える。大名家が鉄砲を「武士の装備の一つ」として既存の垂直的な指揮系統に組み込もうとしたのに対し、雑賀衆は、海運業者が原料を調達し、鍛冶職人が鉄砲を整備し、地侍たちが集団で運用するという、共同体の構成員が水平的に連携する「鉄砲エコシステム」を構築した。この独自のシステムこそが、他の勢力が容易に模倣できない彼らの軍事的優位性の本質であり、数千挺ともいわれる鉄砲で武装した「戦国最強の傭兵集団」 17 を生み出す原動力となったのである。

第二部:戦国の動乱を駆ける — 傭兵集団から一大勢力へ(1550年頃〜1570年)

16世紀半ば、鉄砲という新たな力を手にした雑賀衆は、紀伊国の一在地勢力という枠を超え、畿内の政治・軍事動向に大きな影響を与える存在へと飛躍していく。彼らは傭兵として戦場を駆け、その名声を高めると同時に、やがて来るべき巨大権力との対決に備えていく。

第四章:畿内に響く銃声 — 傭兵集団としての雑賀衆

1550年代から60年代にかけて、雑賀衆は自らの高度な軍事力、とりわけ鉄砲隊を「商品」として、畿内で繰り広げられる大名間の抗争に傭兵として積極的に関与した 18 。特定の主君を持たず、契約に基づいて行動する彼らの存在は、当時の武士社会の常識であった主従関係とは一線を画すものであった。

この時期、彼らの主要な活動舞台となったのが、紀伊守護であった畠山高政と、畿内に覇を唱えた三好長慶との間の熾烈な抗争であった。この戦いにおいて、雑賀衆は自らの価値を天下に示すことになる。

永禄5年(1562年)3月、和泉国で起こった「久米田の戦い」は、その象徴的な戦闘であった。河内奪還を目指す畠山高政の軍に、雑賀衆は根来衆と共に参加。三好長慶の弟で、三好軍の主力部隊を率いていた猛将・三好実休を、鉄砲による一斉射撃で討ち取るという大金星を挙げた 9 。この一戦は、鉄砲という新兵器が集団で運用された時、一人の名将の命すら容易く奪い、合戦の趨勢を決定づける力を持つことを天下に知らしめた。そして、「雑賀衆」の名は、恐怖と賞賛と共に畿内に轟いた。

しかし、同年5月の「教興寺の戦い」では、久米田の雪辱に燃える三好軍の猛攻の前に畠山軍が大敗を喫し、雑賀衆もまた敗北を経験している 9 。勝利と敗北、その両方を経験する中で、彼らは極めて現実的な感覚を磨き上げていった。事実、これらの戦いでは、雑賀衆や根来衆が報酬や利害関係によって敵味方に分かれて戦うことも珍しくなかった 25 。彼らが忠誠やイデオロギーではなく、あくまで共同体の利益を最優先に行動する、合理的なプロフェッショナル集団であったことがうかがえる。やがて、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」という伝説的な評価が、この時期に確立されていったのである 19

こうした傭兵活動は、単なる金銭目的の出稼ぎではなかった。それは、雑賀衆が自らの「惣国」としての自治を維持・強化するための、極めて高度な「外交政策」であった。畿内の紛争に積極的に介入し、自らの圧倒的な軍事力を誇示することで、彼らは周辺の大名たちに「雑賀衆は敵に回すと厄介な存在だ」と強く認識させた。つまり、彼らは戦うことで、自らの故郷が戦場になることを防ぎ、外部勢力からの不可侵を暗黙のうちに勝ち取っていたのである。これは、彼らの行動が単なる戦闘行為に留まらず、自治独立を維持するための計算された戦略であったことを示唆している。

第五章:信仰と利害の一致 — 石山本願寺との連携

雑賀衆が単なる傭兵集団から、天下の情勢を左右する一大政治勢力へと変貌する上で決定的な転機となったのが、浄土真宗本願寺教団との連携であった。

浄土真宗は、本願寺第八世・蓮如の時代から紀伊国でも積極的に布教活動を行っており、特に雑賀の地には熱心な門徒が多く存在した 32 。彼らは「雑賀門徒」と呼ばれ、強い信仰心で結ばれており、雑賀衆の精神的な支柱の一つとなっていた 18 。天文19年(1550年)には、本願寺の紀伊における拠点である「鷺森御坊」が雑賀の地に移されており、両者の物理的・精神的な距離の近さを物語っている 34

永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、破竹の勢いで畿内を席巻し始めると、状況は一変する。信長が推し進める「天下布武」、すなわち武力による中央集権的な国家統一は、本願寺をはじめとする既存の寺社勢力や、雑賀衆のような独立性の高い自治共同体にとって、自らの存立を根底から揺るがす深刻な脅威であった 36

元亀元年(1570年)、信長と本願寺の関係が決裂し、10年にも及ぶ「石山合戦」の火蓋が切られると 38 、本願寺法主・顕如は、最も信頼しうる軍事力として雑賀衆に救援を要請した 35 。雑賀衆にとって、この要請に応じることは、単に信仰上の義務を果たすだけではなかった。信長の天下統一事業が完遂されれば、自分たちの「自治」が蹂躙されることは火を見るより明らかであり、本願寺との連携は、自らの共同体の存亡をかけた政治的・軍事的利害の一致に基づく、必然の選択であった 14

この雑賀衆と本願寺の関係は、単なる「信仰による結束」や「傭兵契約」といった言葉では説明しきれない、より深い「戦略的パートナーシップ」であった。本願寺は、雑賀衆が持つ数千挺の鉄砲隊と、大坂湾の制海権を握るための水軍という比類なき「武力」を必要とした。一方、雑賀衆は、本願寺が持つ全国的な門徒ネットワークという「情報網・兵站線」、そして「仏敵・信長を討つ」という戦いの「大義名分」を必要とした。この両者の強みが有機的に結びつき、互いの弱点を補い合う相互補完関係こそが、当時最強を誇った織田信長の軍団を、10年もの長きにわたって苦しめ続ける原動力となったのである。

第三部:天下人との対峙 — 雑賀惣国の最盛期と苦闘(1570年〜1582年)

石山合戦の勃発は、雑賀衆を歴史の表舞台へと完全に押し出した。彼らは本願寺軍の中核として、織田信長という巨大な敵と対峙し、その軍事的能力を遺憾なく発揮する。この10年間は、雑賀惣国が最も輝いた最盛期であると同時に、その存亡をかけた苦闘の時代の始まりでもあった。

表:雑賀衆関連年表(1570年〜1585年)

この時期の複雑な情勢を理解するため、主要な出来事を時系列で以下に示す。

年月

出来事

雑賀衆の動向・役割

関連資料

1570年9月

石山合戦勃発(野田・福島の戦い)

本願寺方として参戦。鉄砲隊が織田軍を攻撃し、戦線を膠着させる。

25

1576年5月

天王寺の戦い

1万を超える軍勢で織田軍を包囲、大将・塙直政を討ち取る。信長自身も負傷。

18

1576年7月

第一次木津川口の戦い

水軍が出撃。毛利水軍と連携し、焙烙火矢などで織田の九鬼水軍を壊滅させる。

25

1577年2-3月

第一次紀州征伐

信長軍10万の侵攻に対し、地形を活かしたゲリラ戦で徹底抗戦。鈴木孫一らが一旦降伏。

6

1580年8月

石山合戦終結

本願寺、信長と勅命講和。法主・顕如は雑賀の鷺森御坊へ移る。

6

1582年1月

内部抗争激化

親信長派の鈴木孫一が、反信長派の土橋守重を暗殺。雑賀衆は内戦状態に陥る。

40

1582年6月

本能寺の変

織田信長が死去。後ろ盾を失った鈴木孫一は雑賀を離脱し、秀吉を頼る。

27

1585年3月

第二次紀州征伐(秀吉)

秀吉軍10万が侵攻。根来寺が炎上し、壊滅する。

14

1585年4月

太田城水攻め

籠城するも秀吉の水攻めにより降伏。太田左近ら指導者が自刃し、雑賀惣国は事実上崩壊。

43

第六章:十年戦争 — 石山合戦と織田信長との死闘

元亀元年(1570年)、石山合戦が始まると、雑賀衆は直ちに本願寺の主力部隊として大坂へ馳せ参じた 35 。緒戦となった野田・福島の戦いでは、三好三人衆と連携し、その卓越した鉄砲戦術で織田軍の進撃を阻止。戦線を膠着状態に陥らせ、信長を苛立たせた 25 。彼らの集団射撃は、従来の合戦の常識を覆すものであり、織田軍に大きな衝撃を与えた 39

雑賀衆の戦闘力が頂点に達したのは、天正4年(1576年)のことであった。同年5月、本願寺を包囲する織田軍の拠点を叩くため、雑賀衆を中心とする1万5千もの大軍が天王寺砦に殺到した(天王寺の戦い)。彼らは織田方の部隊を次々と撃破し、大将の塙直政を討ち取る。勢いに乗って明智光秀らが守る砦を完全に包囲し、陥落寸前まで追い込んだ。この危機に、信長自らがわずかな手勢を率いて救援に駆けつけ、辛うじて砦を救出するが、その際、信長自身も雑賀衆の狙撃により足を負傷するという、前代未聞の事態となった 18 。天下人信長を負傷させた雑賀衆の武名は、全国に轟き渡った。

同年7月、戦いの舞台は海上へと移る。兵糧攻めによって困窮する本願寺を救うため、同盟関係にあった毛利氏が、村上水軍を主力とする大船団を派遣した。これを迎え撃つべく、織田方は九鬼嘉隆率いる水軍を大坂湾の木津川河口に展開させた。ここで、雑賀衆が保有する水軍が真価を発揮する。彼らは毛利水軍と合流し、織田水軍に襲いかかった(第一次木津川口の戦い) 25 。雑賀水軍は、機動力に富む小型船団を駆使し、敵船に接近すると「焙烙火矢(ほうろくひや)」と呼ばれる手投げ式の焼夷弾を投げ込み、織田方の大型船を次々と炎上させた 16 。この奇襲戦法により九鬼水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利からの大量の兵糧が石山本願寺へ無事搬入された。陸戦、海戦の両面における雑賀衆の活躍は、石山合戦の戦局を本願寺優位へと大きく傾けたのである。

第七章:故郷の防衛戦 — 信長の第一次紀州征伐(1577年)

天王寺での苦戦と木津川口での惨敗は、織田信長に戦争の根源を断つ必要性を痛感させた。本願寺がかくも強靭な抵抗を続けられるのは、背後に雑賀衆という強力な軍事・兵站基地が存在するからである。信長は、本願寺を攻略するためには、まずその最大の支援勢力である雑賀衆を殲滅せねばならないと決断した 6

天正5年(1577年)2月、信長は自ら10万とも号する空前の大軍を率い、紀伊国へと侵攻を開始した。しかし、信長は武力行使に先立ち、巧みな調略を用いて雑賀衆の内部切り崩しを図った。雑賀五組のうち、比較的本願寺との結びつきが弱かった内陸の中郷、南郷、宮郷の三組、そして根来衆の一部を味方に引き入れることに成功し、雑賀衆の足並みを乱した 25

圧倒的な兵力差と内部の分裂という絶望的な状況にもかかわらず、鈴木孫一や土橋守重らが率いる雑賀荘・十ヶ郷の主力部隊は、故郷を守るために敢然と立ち向かった。彼らは、紀ノ川流域の複雑な地形を知り尽くしているという地の利を最大限に活用し、徹底したゲリラ戦を展開した 6 。織田の大軍を狭い道におびき寄せては伏兵が狙撃し、夜陰に乗じて陣地に奇襲をかける。特に、敵の指揮官を的確に狙い撃つ彼らの射撃術は、織田軍の指揮系統を麻痺させ、兵士たちに多大な心理的動揺を与えた 40

信長の戦争観は、大規模な兵力を集中投入し、正面からの決戦で敵を粉砕するというものであった。しかし、特定の司令塔を持たず、民衆が地形と一体化して神出鬼没に戦う雑賀衆のような「非対称な敵」に対して、その勝利の方程式は全く通用しなかった。攻めあぐね、いたずらに損害が増える状況に、信長は撤退を決断せざるを得なかった。鈴木孫一らが信長に誓紙を提出し、形式的に降伏するという形で和睦が成立し、織田軍は紀伊から撤退した 6 。これは実質的には雑賀衆の戦略的勝利であり、彼らが天下人信長を撃退したという事実は、その武名を不滅のものとした 16 。この苦い経験は、信長の戦争観に大きな影響を与え、後の伊賀攻めにおける徹底的な殲滅戦といった、より残忍な戦術へと彼を向かわせる一因となった可能性が指摘される。

第八章:内部の亀裂 — 石山合戦終結と路線対立

紀州征伐を退けた雑賀衆であったが、彼らと信長との戦いは終わらなかった。和睦後も彼らは本願寺への支援を続け、織田方との小競り合いを繰り返した。しかし、天正8年(1580年)、10年に及んだ石山合戦は、正親町天皇の勅命による講和という形でついに終結する。法主・顕如は大坂を退去し、最も信頼する雑賀衆を頼って、紀伊の鷺森御坊へと移った 6

最大の同盟相手であった本願寺が信長と和睦したという事実は、雑賀衆の内部に深刻な動揺と対立をもたらした。今後の共同体の進むべき道を巡り、指導者たちの意見は真っ二つに割れたのである。

一方の旗頭は、十ヶ郷を拠点とする鈴木孫一であった。彼は卓越した軍事指導者であると同時に、冷徹な現実主義者でもあった。信長の天下統一が目前に迫る中、これ以上の抵抗は雑賀の地を焦土と化すだけだと判断し、織田政権と協調することで雑賀の自治を実質的に維持する道を探ろうとした 14

もう一方の旗頭は、雑賀荘の有力者である土橋守重であった。彼は本願寺との長年の関係と信仰を重んじ、信長への徹底抗戦を最後まで貫くべきだと主張した 10 。この路線対立は、単なる外交方針の違いに留まらず、雑賀衆内部の主導権争いとも絡み合い、共同体の亀裂を決定的なものにした。

天正10年(1582年)1月23日、対立は最悪の結末を迎える。鈴木孫一が放った刺客により、土橋守重は暗殺された 40 。これをきっかけに、鈴木派と土橋派による全面的な内戦が勃発。信長の後ろ盾を得た鈴木派が勝利を収めたが、この同胞同士の争いは雑賀衆の結束力を致命的に損ない、その力を大きく削ぐ結果となった。

そして同年6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。「本能寺の変」である。織田信長の突然の死は、最大の庇護者を失った鈴木孫一の立場を危うくした。土橋派の残党による報復を恐れた孫一は、雑賀の地を離れ、信長の後継者として頭角を現しつつあった羽柴秀吉のもとへ身を寄せることを余儀なくされた 27 。こうして雑賀衆は、最強の指導者を失い、政治的な混乱の中で新たな時代を迎えることになった。

第四部:自治の終焉 — 豊臣政権による統一と解体(1582年〜)

本能寺の変後の政治的混乱を制し、天下人の地位を確立しつつあった羽柴秀吉にとって、紀伊国に割拠する独立勢力は、自らの支配体制を固める上で看過できない存在であった。雑賀衆の物語は、ここに最終章を迎える。それは、中世的な「自治」が、近世的な「統一」の前に屈服していく、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。

第九章:最後の抵抗 — 秀吉包囲網と紀州征伐(1585年)

鈴木孫一が去った後の雑賀衆は、旧土橋派が主導権を握り、隣接する根来寺との連携を一層強化した 27 。彼らにとって、信長に代わって台頭した秀吉もまた、自らの自治を脅かす新たな脅威に他ならなかった 46

天正12年(1584年)、秀吉が徳川家康・織田信雄と対峙した「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、雑賀・根来衆はこの好機を逃さなかった。彼らは家康や四国の長宗我部元親と密かに連携し、広域な「秀吉包囲網」の一角を形成した 10 。そして、秀吉が主力を率いて尾張へ出陣した隙を突き、和泉国の岸和田城を攻撃するなど、その後方を脅かす積極的な軍事行動を展開した 36

しかし、家康との和睦を成立させた秀吉は、もはや後顧の憂いを断つことに躊躇はなかった。天正13年(1585年)3月、秀吉は自ら10万とも言われる大軍を率い、紀州征伐へと乗り出した 14 。その狙いは、自らに反旗を翻した紀州勢力の完全なる殲滅であった。

秀吉軍はまず、雑賀衆と並ぶ一大鉄砲集団であった根来寺に殺到した。圧倒的な兵力の前に、かつて信長を苦しめた根来衆もほとんど抵抗できず、壮麗を誇った大伽藍は炎上し、数百年にわたる歴史を誇った一大宗教勢力は、わずか一日で灰燼に帰した 27 。この報に恐れをなした高野山も、戦わずして秀吉に降伏した 51 。紀伊国を支えてきた宗教的「共和国」は、次々と崩壊していった。

第十章:水底に沈む共和国 — 太田城水攻め

根来寺が壊滅し、雑賀衆の多くが秀吉の軍門に降る中、最後まで抵抗の意志を捨てなかった者たちがいた。宮郷の地侍で、かつては信長に協力したこともあった太田左近宗正を中心とする一派である。彼らは、根来寺の残党らと共に約5千の兵で、太田城に籠城した 14

力攻めによる損害を嫌った秀吉は、かつて備中高松城の攻略で成功を収めた「水攻め」の戦術を再び採用した。これは単なる軍事作戦ではなく、秀吉の権力と技術力を天下に示すための壮大な政治的パフォーマンスでもあった。秀吉軍は、太田城から約300メートル離れた地点に、総延長6キロメートル、高さ数メートル、基底部の幅は30メートルにも及ぶ巨大な堤防を築き始めた 44 。諸大名に工事を競わせることで、わずか一週間足らずという驚異的な速さでこの大事業を完成させた 44

完成した堤防に紀ノ川の水が引き込まれ、折からの大雨も重なって、太田城の周囲は瞬く間に巨大な湖と化した 44 。城は完全に孤立し、秀吉軍は安宅船を浮かべて城に攻撃を加えるなど、心理的な圧力をかけ続けた。籠城は一ヶ月に及んだが、援軍の望みも尽き、城内の兵は疲弊しきっていた。ついに太田左近は、城兵の助命を条件に降伏を決断。太田左近をはじめとする指導者53名が自刃し、城は開城した 54

この太田城水攻めは、単に一つの城を落とした戦いではない。秀吉は、その圧倒的な動員力と先進的な土木技術を見せつけることで、物理的な勝利以上に「抵抗の無意味さ」を全国の潜在的な敵対勢力に知らしめた。さらに、降伏後の戦後処理は、その後の日本の歴史を決定づけるものであった。秀吉は、降伏した地域の農民や地侍から徹底的に武器を没収した。これは、天正16年(1588年)に全国で実施される「刀狩」の先駆けであり 44 、民衆が武器を持って自衛する中世以来の「自力救済」の社会から、国家が暴力を独占し身分を固定化する「近世」への扉を開いた、象徴的な事件であった。水底に沈んだのは太田城だけではなく、雑賀衆が守り続けた自治という理想そのものであった。

第十一章:雑賀衆、その後

太田城の落城をもって、雑賀惣国一揆という自治共同体は、その歴史に幕を閉じた 14 。秀吉は紀伊国を弟の羽柴秀長に与え、和歌山城を築城させて強力な統治体制を敷き、かつての「共和国」の痕跡を消し去っていった 42

武装を解除され、共同体を失った雑賀衆の構成員たちは、それぞれ異なる道を歩むことになった。その多くは故郷に留まり、一介の農民や漁民として生きる道を選んだ(帰農) 25 。歴史の表舞台からは姿を消したが、彼らの血脈と記憶は、紀州の地に受け継がれていった。

一方で、彼らが培った卓越した鉄砲技術は、決して失われることはなかった。その高い専門性を買われ、全国各地の大名家に鉄砲頭や鉄砲隊として仕官する者も少なくなかった。かつての指導者・鈴木孫一も秀吉に仕え、豊臣家の鉄砲頭として活躍した記録が残っている 17 。彼らの技術は、形を変えて近世の武士社会の中に吸収され、日本の軍事技術の発展に貢献し続けた。

しかし、かつてのように地縁に基づいて強固に団結し、時の権力者と渡り合った独立した集団としての雑賀衆は、歴史から完全に消滅した 25 。彼らの名は、戦国乱世に咲いた徒花として、あるいは権力に屈しなかった自由の民の伝説として、後世に語り継がれることとなる。

終章:雑賀惣国一揆が戦国史に遺したもの

雑賀惣国一揆の興亡史は、単なる一地方勢力の盛衰物語に留まらない。それは、戦国という時代が内包していた多様な可能性と、その終焉を象徴する、日本史における重要な一断面である。

第一に、彼らの歴史は、中世的な「自治」から近世的な「統一」への不可逆的な移行を体現している。戦国時代を通じて、伊賀や甲賀、あるいは堺のように、地域の国人や民衆が自らの手で共同体を運営する「自治」の試みは各地で見られた。雑賀衆は、その中でも最も強力かつ先進的な事例の一つであった。しかし、彼らの敗北が示したのは、そうした分権的で多様な社会のあり方が、豊臣政権という強力な中央集権体制によって終焉を迎えざるを得なかったという、時代の大きな潮流であった 12 。雑賀衆の解体は、日本の歴史が中世的な「自力救済」の社会から、国家が秩序を独占する近世的な統一国家へと大きく舵を切った分水嶺に位置する出来事であった。

第二に、彼らは日本の合戦史に技術的な革新をもたらした。雑賀衆は、鉄砲を単なる新兵器としてではなく、集団運用を前提とした「戦術」として確立し、その圧倒的な有効性を天下に示した最初の集団であった 26 。指揮官の狙撃、ゲリラ戦、水軍との連携など、彼らが生み出した独創的な鉄砲戦術は、後の大名たちの戦い方にも多大な影響を与えたことは想像に難くない 39 。彼らは、戦国時代の軍事革命を担った、重要なイノベーターとして再評価されるべきである。

最後に、そして最も重要なことは、彼らが示した権力に屈しない精神である。大名のような階級社会の外に立ち、特定の主君に仕えることなく、自らの共同体の自由と自治という理念のために、時の最大権力者である織田信長や豊臣秀吉に臆することなく立ち向かった 6 。その姿は、戦国時代の代名詞である「下剋上」の精神を、武士階級だけでなく、より広い民衆のレベルで体現した稀有な事例として、歴史に強烈な光芒を放っている 56

雑賀惣国一揆の物語は、歴史が勝者や英雄だけで作られるものではないことを我々に教えてくれる。それは、自らの手で運命を切り拓こうとした無名の人々の、誇り高き抵抗の記録なのである。

引用文献

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