飯山城改修(1607)
慶長12年、飯山城は皆川広照により大規模改修。戦国期の軍事拠点から徳川の威光を示す近世城郭へ変貌。松平忠輝の付属大名として、北信濃の徳川支配を確立する象徴となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長十二年 飯山城改修の深層分析:戦国の終焉と近世の黎明
序章: なぜ慶長十二年なのか ―問いの提起―
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康による天下統一事業は大きく前進し、日本社会は「戦国」の動乱から「近世」の泰平へと移行する、歴史的な過渡期にあった。大名間の私闘は禁じられ、世は普請の槌音に満ちていたとはいえ、その多くは江戸城や駿府城といった天下の府、あるいは大坂の豊臣家を包囲するための戦略的拠点に集中していた。
このような時代背景の中、なぜ越後との国境に近い北信濃の一城郭、飯山城において、慶長十二年(1607年)という年に大規模な「改修」が行われたのか。それは単なる老朽化した施設の修繕であったのか、それとも時代の大きなうねりを映し出す、より深い意味を持つ事業であったのか。
本報告書は、この問いを基点とする。この改修は、単なる物理的な普請ではない。それは、戦国の記憶を払拭し、新たな支配者の威光を大地に刻み込むための、高度に政治的な行為であった。本報告書では、当時の城主・皆川広照、そしてその背後にいた若き大大名・松平忠輝という二人の人物を軸に、戦国的な価値観が色濃く残る中で行われた近世的城郭改修の実態と、その歴史的意義に迫るものである。慶長十二年という一点に凝縮された、戦国の終焉と近世の黎明をめぐる力学を、ここに解き明かす。
第一部: 戦国最前線の要衝 ―飯山城の原風景―
慶長十二年の改修を理解するためには、まず、この城が戦国乱世においてどのような役割を担い、いかなる構造を持っていたか、その「原風景」を把握する必要がある。飯山城は、その誕生からして、戦乱の申し子であった。
第一章: 越後と信濃の境界
飯山が位置する北信濃は、東に千曲川、西に関田山脈を望み、古来より越後(新潟県)と信濃(長野県)を結ぶ交通の要衝であった 1 。この地政学的な重要性は、平時においては物流の結節点として機能する一方、乱世においては二国間の勢力が衝突する最前線となることを運命づけていた 2 。
飯山城の起源は、鎌倉時代の御家人・泉親衡に連なる在地領主・泉氏の居館に遡るとされる 3 。しかし、この地が歴史の表舞台に躍り出るのは、十六世紀半ば、甲斐の武田信玄による信濃侵攻が本格化してからのことである。信玄の脅威に晒された北信濃の国衆は、越後の「軍神」上杉謙信に救援を求めた。これに応えた謙信は、対武田戦略の最重要拠点として飯山城に着目し、永禄七年(1564年)頃、大規模な改修、すなわち「飯山普請」を断行した 4 。これにより、在地領主の館に過ぎなかった飯山城は、堅固な軍事要塞へと劇的な変貌を遂げたのである 3 。
この謙信による改修は、飯山城の基本的性格を決定づけた。その縄張り(設計思想)には、戦国時代の軍事合理主義が色濃く反映されている。
- 後堅固の城 : 飯山城は、東の千曲川を天然の外堀とし、南側を急峻な崖に守られた丘陵上に築かれた 3 。これにより、背後からの攻撃を意に介することなく、主力を南方に展開する武田軍に集中させることができた。これは「後堅固の城」と呼ばれる、防御上有利な縄張りの典型例である 5 。
- 梯郭式の縄張り : 丘陵の最高所に本丸を置き、そこから北へ向かって二の丸、三の丸を階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる縄張りが採用された 8 。これは、主たる脅威であった南方の武田勢に対し、城全体で縦深的な防御網を構築するための、極めて合理的な設計であった 11 。
- 防御施設 : 当時の防御の主体は、土を盛り上げた土塁と、地面を掘り下げた空堀であった。石垣の使用は、城門周辺など特に重要な箇所に限定されていたと推測される。また、後の時代のような天守閣は存在せず、物見や戦闘指揮のための櫓が建てられていた 3 。度重なる武田軍の猛攻にも飯山城は一度も陥落しなかったと伝えられており 7 、その防御機能の高さがうかがえる。
第二章: 支配者の変転
戦国時代の城郭の常として、飯山城もまた、支配者の変転に翻弄され続けた。謙信の死後、武田氏の勢力下に入る時期もあったが、天正十年(1582年)に武田氏が滅亡すると、今度は織田信長の支配下となり、勇将・森長可の所領となる 4 。しかし、その直後に本能寺の変が勃発し、信濃から織田勢力が撤退すると、飯山城は再び上杉景勝の手に帰した 4 。
景勝は、重臣である岩井信能を城代として飯山に派遣した。天正十一年(1583年)頃より、岩井は上杉流の築城術を用いて城のさらなる修築を進めると同時に、城の麓に侍屋敷や町屋を計画的に配置し、本格的な城下町の整備に着手した 3 。これは、飯山城が単なる軍事拠点から、地域の政治・経済を司る「統治拠点」へとその性格を変え始めたことを示す重要な画期であった。
豊臣秀吉による天下統一が進むと、慶長三年(1598年)、上杉景勝は会津百二十万石へ移封される。これに伴い、飯山城は豊臣家の直轄地となり、関一政が三万石で入城した 14 。そして関ヶ原の戦いを経て、慶長五年(1600年)には森忠政の支配下に入るなど、徳川の世が盤石となる直前まで、その帰属は目まぐるしく変動したのである 14 。
このように、慶長十二年の改修以前の飯山城は、上杉謙信が築いた軍事拠点としての骨格を基礎としつつ、岩井信能によって統治拠点としての機能が付加された、戦国末期の典型的な城郭であった。その縄張りには「対南方」という明確な戦略思想が刻み込まれ、その歴史には北信濃の激動が凝縮されていた。
時期 |
主要城主(所属勢力) |
石高 / 地位 |
主要な出来事 |
鎌倉時代~ |
泉氏 |
在地領主 |
居館を構える 3 |
戦国時代前期 |
高梨氏 |
北信濃国衆 |
支城として利用 1 |
永禄年間(1558-70) |
上杉謙信 |
越後国主 |
対武田氏の拠点として大規模改修(飯山普請) 5 |
天正十年(1582) |
森長可(織田信長) |
川中島四郡 |
武田氏滅亡後、織田氏の支配下に入る 4 |
天正十一年(1583)~ |
岩井信能(上杉景勝) |
城代 |
城を修築し、城下町の整備に着手 3 |
慶長三年(1598)~ |
関一政(豊臣秀吉) |
3万石 |
上杉氏会津移封後、豊臣家直轄となる 14 |
慶長五年(1600)~ |
森忠政(徳川家康) |
川中島領主 |
関ヶ原の戦い後、森氏の支配下に入る 14 |
慶長八年(1603)~ |
皆川広照(松平忠輝) |
7万5千石 |
松平忠輝の付属大名として入封 4 |
慶長十五年(1610)~ |
堀直寄 |
4万石 |
皆川氏改易後に入封 4 |
元和二年(1616)~ |
佐久間安政 |
3万石 |
堀氏移封後に入封 4 |
第二部: 徳川の世の北信濃 ―改修の舞台裏―
慶長十二年の飯山城改修は、真空状態で行われたわけではない。そこには、徳川幕府による新たな支配秩序の構築というマクロな政治情勢と、城に関わる人々の複雑な人間関係というミクロな力学が、複雑に絡み合っていた。
第一章: 新たな秩序と不穏の影
関ヶ原の戦いの勝利により、徳川家康は事実上の天下人となった。戦後処理において、家康は旧上杉領である北信濃四郡を、自らの六男である松平忠輝に与えた 15 。そして、武田信玄が川中島攻略の拠点とした海津城を松代城と改称させ、忠輝の本拠地とした 18 。これは、かつて徳川家と激しく敵対した上杉・武田両氏の記憶が色濃く残るこの地を、徳川一門の威光の下に完全に掌握しようとする、明確な政治的意志の表れであった。
この時期、徳川幕府は「天下普請」と呼ばれる政策を強力に推進していた。これは、江戸城や駿府城、名古屋城といった巨大城郭の建設を諸大名に命じるもので、大名の経済力を削ぎ、その軍事力を幕府の統制下に置くという巧みな戦略であった。慶長十二年の飯山城改修は、幕府が直接命じた天下普請ではない。しかし、将軍の子である松平忠輝の領内で行われるこの事業は、徳川の威光を地方に行き渡らせるという、天下普請と思想的軌を一にする「地域的威光事業」と位置づけることができる。
一方で、当時の日本は未だ完全な泰平を迎えていたわけではなかった。大坂城には豊臣秀頼が健在であり、豊臣恩顧の大名も西国を中心に多数存在した。いつ徳川と豊臣の間で最終決戦が起きてもおかしくない、という緊張感が社会を覆っていた。また、飯山城のある北信濃は、会津に移った上杉景勝の旧領であり、上杉家を慕う在地勢力や一揆の潜在的な温床でもあった。このような状況下で、国境の要衝である飯山城を強化することは、内外の不穏な動きを牽制し、徳川の支配を盤石にするための重要な軍事的意味合いも持っていたのである。
第二章: 二人のキーパーソン ―松平忠輝と皆川広照―
この飯山城改修事業の背景には、二人の対照的な人物の存在があった。一人は、将軍の子として絶大な権威を持つ若き藩主、松平忠輝。もう一人は、戦国乱世を渡り歩いた老獪な守役、皆川広照である。
松平忠輝は、徳川家康の六男でありながら、その奔放で荒々しい気性から父・家康に疎まれたと伝えられる人物である 15 。しかし、彼は北信濃から越後高田に至る広大な領地を与えられており、その権威は絶対的なものであった。彼の存在そのものが、飯山城改修という大規模事業を可能にした最大の原動力であったことは間違いない。
一方の皆川広照は、下野国(栃木県)の小大名であったが、上杉、北条、織田、そして徳川と、時々の強者に巧みに仕えながら家名を保ち続けた、まさに戦国乱世の体現者のような武将であった 19 。慶長八年(1603年)、家康は、この経験豊富な老将を、若き忠輝の守役(後見人・補佐役)に任命し、破格の七万五千石を与えて飯山城主とした 4 。ただし、その立場は忠輝の川中島藩に付属する「付属大名」であり、独立した領主ではなかった 4 。
両者の関係は、当初から複雑なものであった。忠輝が成長し、自意識を強めるにつれて、守役である広照の諫言は疎まれるようになる。両者の対立は次第に深刻化し、最終的に広照が忠輝の素行不良を家康に直訴するに至るが、これが裏目に出て改易されるという悲劇的な結末を迎える 19 。
慶長十二年の飯山城改修は、まさにこの二人の緊張関係の渦中で計画・実行された事業であった。広照にとって、この大改修は、自らの統治能力と忠誠心を主君・忠輝に示すことで、その歓心を得ようとする狙いがあったであろう。一方、忠輝にとっては、自らの威光を領内に誇示するための格好の象徴的プロジェクトであった。この改修の規模や意匠には、将軍の子である若き藩主と、彼に仕える老獪な戦国武将との間の、複雑な政治的思惑が色濃く反映されていたと見るべきである。権威を持つ忠輝と、実務能力に長けた広照。この二人の組み合わせこそが、戦国期の砦を近世城郭へと生まれ変わらせる原動力となったのである。
第三部: 慶長十二年、飯山城 ―「改修」のリアルタイム再現―
慶長十二年(1607年)の飯山城で、具体的にどのような光景が繰り広げられていたのか。残念ながら、普請の様子を詳細に記した一次史料は現存しない。しかし、残された城跡の遺構、後代の絵図、そして当時の築城技術に関する知見を組み合わせることで、そのリアルタイムな状況を論理的に再構築することは可能である。
第一章: 普請前夜(慶長八年~十一年)
慶長八年(1603年)に飯山に入封した皆川広照がまず着手したのは、領内の検分と城の現状把握であっただろう。彼が城山に立ち、眼下に千曲川の流れを望んだ時、その目に映ったのは、上杉謙信以来の実戦本位の縄張りを残す、土塁と空堀を主体とした「戦国の城」であった。それは、度重なる武田軍の攻撃を凌いだ堅固な要塞ではあったが、徳川の世における大大名・松平忠輝の支城として、また七万五千石の政庁として、その威容と機能は明らかに不足していた。
広照は、主君・忠輝の威光を示すにふさわしい城へと飯山城を大改造する計画を立案し、忠輝の承認を得たと考えられる。それは単なる修繕ではなく、石垣を多用して城郭の防御力と格式を高め、複数の櫓を建てて威厳を演出し、政務空間を整備するという、近世城郭への質的転換を目指すものであった。この計画に基づき、慶長十一年頃までには、普請に必要な石材や木材の調達先、そして広大な領内から動員すべき人夫の数など、具体的な準備が進められていたと推測される。
第二章: 普請動く(慶長十二年)
年が明け、慶長十二年(1607年)。北国の長い冬が終わり、雪解け水が千曲川を潤す頃、飯山城下は普請の槌音に包まれたであろう。
- (推定)春・雪解け後 : 普請奉行の指揮の下、大規模な工事が開始される。まず、改修の基点となる縄張りが確定され、水盛り・遣り方(工事の基準となる水平線や位置を出す作業)が行われる。同時に、周辺の村々から数千人規模の人夫が徴発され、城の麓に設けられた作業小屋に集結する。彼らは、近隣の採石場から巨大な石を運び出し、あるいは山から良質な木材を切り出す作業に従事した。城下は、資材を運ぶ車力や人々の往来で、かつてない活況を呈したはずである。
- (推定)夏~秋 : 工事は最盛期を迎える。
- 石垣の構築 : 熟練した石工集団(穴太衆などが動員された可能性もある)の指導の下、戦国期の土塁が削られ、その前面に高く堅固な石垣が築かれていく。特に、城の顔となる大手門や、防御の要である本丸虎口(出入り口)には、精緻な加工が施された石材を用いた「打込接(うちこみはぎ)」の石垣が積まれた。後の「正保城絵図」に描かれる本丸北西の堅固な枡形虎口の石垣 4 は、この時期にその威容を現したと考えられる。石を運び上げるための巨大な木製の修羅(そり)や、石を積むための櫓が組まれ、石工たちの威勢の良い掛け声が城山に響き渡ったであろう。
- 堀の拡張・浚渫 : 城を囲む堀は、より深く、広く掘り下げられた。掘り出された土砂は、曲輪の造成や土塁の強化に再利用された。これにより、城の防御力は飛躍的に高まると同時に、水面に映る石垣と櫓が、城の威容を際立たせる効果を生んだ 3 。
- (推定)冬 : 気温が下がり、土木工事が困難になると、作業の重点は作事(建築工事)へと移行する。夏秋にかけて造成された櫓台の上では、大工たちが二層構造の櫓の建設を進める。本丸に二棟、三の丸に一棟建てられたとされる二重櫓 1 の骨組みが、冬空の下、次々と組み上げられていった。大手門をはじめとする各所の城門も、より格式の高い櫓門へと建て替えられた。これらの建物の壁には漆喰が塗られ、屋根には瓦が葺かれ、飯山城は次第に白亜の近世城郭としての姿を整えていった。
第三章: 改修の意図を読む
この一連の大規模な普請は、単なる物理的な城郭の強化に留まらない、明確な政治的意図に基づいていた。
- 機能の転換 ―「戦う城」から「治める城」へ : 改修の最大の目的は、飯山城を戦国時代の軍事拠点から、飯山藩七万五千石を統治する政庁へと転換させることにあった。二の丸や三の丸には、藩主の居館である御殿や、家臣が政務を執るための役所が新たに建設、あるいは拡張されたと考えられる 1 。城は、戦闘空間であると同時に、行政空間としての機能を求められるようになったのである。
- 象徴性の演出 ―「見せる」ための城郭 : 高くそびえる石垣、白壁に映える櫓群、そして荘厳な城門。これらはすべて、領内の民衆や他国の使者に対して、城主である皆川氏、ひいてはその主君である松平忠輝と徳川幕府の絶大な権威を、視覚的に訴えかけるための装置であった。戦国期の機能主義的で無骨な城から、泰平の世の秩序を象徴する、政治的な威厳を備えた城への変貌。それが、この改修の核心であった。
- 戦国の記憶の払拭 : かつて上杉謙信が築き、北信濃における反武田・反徳川の象徴でもあった城を、徳川方の手によって全く新しい姿に生まれ変わらせることは、この地における支配者が完全に交代したことを内外に宣言する、極めて強力な政治的メッセージとなった。上杉時代の土の城から、徳川時代の石の城へ。それは、時代の転換を告げる、視覚的な宣言に他ならなかった。
第四部: 改修後の飯山城と城主たちの経営
慶長十二年の大改修は、飯山城の歴史における一大転換点となった。しかし、物語はそこで終わらない。城の完成は、新たな歴史の始まりでもあった。
第一章: 完成と落日 ―皆川広照の改易―
心血を注いだ大改修が一段落し、近世城郭として生まれ変わった飯山城を前に、城主・皆川広照はどのような感慨を抱いただろうか。しかし、彼がその城の主であり続けた時間は、あまりにも短かった。改修からわずか二年後の慶長十四年(1609年)、広照は主君・松平忠輝との積年の対立が表面化し、徳川家康の怒りを買って改易されてしまう 4 。戦国乱世を巧みに生き抜いてきた老将の、あまりに呆気ない幕切れであった。この事実は、慶長十二年の改修事業が、いかに不安定で脆弱な政治的基盤の上で進められたかを物語っている。城は完成したが、その城主は政治の嵐に呑み込まれてしまったのである。
第二章: 絵図が語る城の姿
皆川広照が去った後も、彼が築き上げた飯山城の威容は残り続けた。その具体的な姿を今に伝える最も重要な史料が、改修から約40年後、松平忠倶の治世下である正保二年(1645年)頃に作成された「信濃国飯山城絵図」、通称「正保城絵図」である 5 。幕府への提出が義務付けられたこの公的な絵図は、慶長十二年の改修によって完成した近世飯山城の到達点を示している。
絵図を詳細に分析すると、以下の特徴が浮かび上がる。
- 堅固な構造 : 本丸と二の丸の間には明確に石垣が描かれ、城の中枢部が強固に守られていたことがわかる。本丸には二棟、三の丸には一棟の二重櫓が描かれており、城の各所を立体的に防御し、同時に権威の象徴として機能していた 5 。
- 複雑な動線 : 南大手門、南中門、北中門、二ノ丸門、本丸門など、複数の門が巧妙に配置されている 5 。特に本丸北西には、敵の直進を阻む「枡形虎口」が石垣で構築されており、戦国期の実戦経験が近世の築城術にも活かされていることが見て取れる。
- 広大な堀 : 城の防御を固める堀の規模も詳細に記されている。例えば、大手門正面の堀は、幅が十七間(約30.6メートル)、水深が五尺五寸(約1.66メートル)にも及ぶ広大なものであった 5 。
- 城下一体の計画 : 絵図には城郭内部だけでなく、城下に広がる侍屋敷や町人地も詳細に描かれている 24 。これは、城と城下町が一体のものとして計画・整備されていたことを示しており、飯山が近世的な都市へと発展していたことを物語る。
施設 |
位置・規模・特徴 |
郭(くるわ) |
本丸を最高所に、北へ二の丸、三の丸を階段状に配置する梯郭式縄張り。西側には西曲輪を配す 1 。 |
櫓(やぐら) |
本丸に二重櫓が二棟、三の丸に一棟。天守閣は存在せず、これらの櫓が代用とされた 5 。 |
門(もん) |
南大手門を筆頭に、南中門、北中門、二ノ丸門、本丸門など、絵図上で複数の門が確認できる。総数は12棟あったとされる 1 。 |
石垣 |
本丸と二の丸の間、および本丸の虎口周辺に重点的に配置。城の中枢部を堅固に防御していた 5 。 |
堀(ほり) |
城の周囲を一重に巡る水堀。大手門正面の堀は幅約30.6m、水深約1.66mと大規模であった 3 。 |
第三章: 後継者たちによる発展
慶長十二年の城郭改修は、いわば飯山藩発展のための「器」を整える事業であった。その後の城主たちは、この器を基盤として、領国経営をさらに発展させていった。
皆川広照の後、慶長十五年(1610年)に入封した堀直寄は、築城や土木事業に長けた実務官僚的な大名であった 16 。彼は、完成したばかりの飯山城を拠点に、領内をたびたび襲う千曲川の治水工事や新田開発を精力的に推し進め、飯山藩の経済的基盤を確立した 15 。
元和二年(1616年)、堀氏に代わって城主となった佐久間安政は、信仰心の篤い人物であった 31 。彼は、城下町のさらなる整備、特に多くの寺院を招致・保護することに力を注ぎ、現在まで続く「寺の町飯山」の基礎を築いた 32 。
このように、皆川広照による城郭という「ハードウェア」の更新に続き、堀直寄による治水・開発という「インフラ」の整備、そして佐久間安政による寺町形成という「都市機能」の充実が連続的に行われた。この一連の発展があったからこそ、飯山は戦国の軍事拠点から、政治・経済・文化が一体となった近世城下町へと、完全に変貌を遂げることができたのである。慶長十二年の改修は、単に城を造り替えただけでなく、その後の飯山藩百年の計の礎を築く、決定的な「起点」となったのだ。
終章: 飯山城改修が歴史に刻んだもの
慶長十二年(1607年)の飯山城改修は、戦国時代の軍事合理主義と、近世(江戸時代)の政治的象徴主義が交差する、時代の転換点を象徴する出来事であった。その縄張りには、上杉謙信以来の「戦うための知恵」が残り、その高く積まれた石垣と白亜の櫓には、徳川の世の「支配の威光」が宿っている。この城は、戦国から近世への移行期という、二つの時代の価値観がせめぎ合ったダイナミズムを、今に伝える貴重な証人なのである。
この改修によって確立された城郭と城下町の骨格は、その後の飯山藩の歴史の舞台となった。幾度もの城主交代を経て、幕末には二つの大きな試練に見舞われる。一つは、弘化四年(1847年)に発生した善光寺地震である。この未曾有の大災害により、飯山城は石垣の大半が崩壊するなど甚大な被害を受けたが、その後再建された 1 。もう一つは、慶応四年(1868年)の戊辰戦争における飯山戦争である。旧幕府軍の攻撃を受け、城下は焼失、城内の櫓なども失われた 5 。これらの苦難を乗り越え、城跡は明治以降、公園として市民に親しまれ、その縄張りは現代の飯山市の都市構造にまで、その影響を色濃く残している。
結論として、慶長十二年の飯山城改修は、単なる一地方城郭の普請記録に留まるものではない。それは、戦国の論理が終焉し、徳川による新たな秩序が日本列島を覆い尽くしていく壮大な歴史の過程を、城という媒体を通して雄弁に物語る、日本史の縮図なのである。皆川広照という一人の戦国武将が、新しい時代の要請に応えようと築き上げた石垣は、400年以上の時を超え、今もなお、時代の転換点に生きた人々の息吹を我々に伝えている。
引用文献
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- 飯山城下町と寺町 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/toshikeikaku/machi/jyouyama/2/shiryou-4.pdf
- 信濃 飯山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/iiyama-jyo/
- 2.1 城跡の現況と課題 - 飯山市 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/toshikeikaku/machi/jyouyama-plan/2-5-12.pdf
- 飯山城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/nagano/iiyamasi.htm
- 飯山城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市 - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/shiseki/entry/000748.php.html
- 飯山城 移築先で生き続ける移築門がある城 https://shirokoi.info/tyubukoushinetsu/nagano/iiyamajyou/iiyamajyou_150620
- 飯山城 - FC2 http://isoda.web.fc2.com/iiyama.htm
- 飯山城は、戦国期の名残りと、近世の城としての面を併せ持った貴重な城 https://ameblo.jp/mto193914/entry-12568459472.html
- 飯山城址――飯山城の歴史――を探索する https://www.walkigram.net/iiyama/castle02.html
- 飯山城址を歩く - 信州まちあるき https://www.walkigram.net/iiyama/castle01.html
- 飯山城址公園 - 信州いいやま観光局|長野県飯山市 https://www.iiyama-ouendan.net/tourism/jyoshi/
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- 皆川広照 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%86%E5%B7%9D%E5%BA%83%E7%85%A7
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- 佐久間安政は寺の町飯山の基礎を作った~本光寺、常福寺、称念寺、光蓮寺、西敬寺、蓮証寺等を招致~ | 箱店屋横丁大家の店番日記 https://ameblo.jp/mto193914/entry-12819487039.html
- 佐久間安政(さくま やすまさ) 拙者の履歴書 Vol.290~信長の世に生き抜いた槍の名手 - note https://note.com/digitaljokers/n/nd6c9a0194764
- 信州松代大地震御届ケ書写 - 古典に親しむ - 国文学研究資料館 https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000nishimura6.html
- 善光寺地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E9%9C%87
- 相対隆起1~4m⁉ 1847年に起きた善光寺地震の痕跡を飯山市で辿るジオウォーキング https://shinetsu-activity.jp/activity/11086/
- 【飯山の戦い】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100050/ht000080