最終更新日 2025-09-19

駿府城再築(1607)

徳川家康は慶長12年、駿府城を再築。江戸を凌ぐ規模の天守台を築き、天下普請で諸大名を動員。二元政治の拠点とし、豊臣家への無言の圧力と徳川の権威を天下に示した。
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慶長十二年 駿府城再築の真相:大御所家康の天下経営と国家事業「天下普請」のリアルタイム分析

序章:天下人の最後の城

慶長12年(1607年)、徳川家康が命じた駿府城の大規模な再築は、単なる一個人の居城建設という範疇を遥かに超える、歴史的な国家事業であった。それは、関ヶ原の戦いを経て確立されつつあった徳川の治世を盤石なものとするための、壮大な国家構想の集大成と言える。本報告書は、この画期的な事業を「リアルタイム」の視点で再構成し、その政治的、軍事的、そして象徴的意義を、あらゆる角度から徹底的に解明することを目的とする。

この一大事業を理解する上で、まず解き明かさねばならないのは、「なぜ江戸ではなく駿府だったのか」という根本的な問いである。その理由は複合的であった。第一に、駿府は卓越した地政学的優位性を有していた。江戸と京・大坂を結ぶ東海道のほぼ中間に位置し、双方を睨む戦略的拠点としての価値は計り知れない 1 。さらに、北に賤機山、東に谷津山、西に安倍川、そして背後には富士と箱根の山々が控え、天然の要害をなしていた 2

第二に、個人的な理由と記憶の政治学が深く関わっていた。駿府は家康が今川家の人質として幼少期を過ごした地であり、愛着があったとされる。一方で、生誕の地である岡崎城には、正室・築山殿と嫡男・徳川信康が織田信長の命により非業の死を遂げた悲劇的な記憶が色濃く付随していた 2 。駿府の選択は、過去の painful な記憶との決別と、新たな治世をこの地から始めるという、家康の強い意志表示でもあった。また、温暖な気候や趣味である鷹狩りに適した環境といった、家康個人の嗜好も、この地を選んだ一因であったと伝えられている 2

本報告書では、まずこの駿府城再築が持つ政治的背景を深く掘り下げ、次に国家事業「天下普請」の実態に迫る。続いて、報告書の中核をなす部分として、慶長12年(1607年)前後の出来事を時系列で詳細に追い、普請の現場のダイナミズムと、そこで築かれた城郭の壮大な構造を分析する。最後に、この事業が徳川の治世と日本の歴史に与えた意義を考察し、「駿府城再築」という事象の多層的な理解を目指す。

第一章:大御所政治の拠点:駿府城再築の政治的背景

1-1. 江戸との「二元政治」体制の確立

慶長10年(1605年)、徳川家康は将軍職を三男・秀忠に譲り、自らは大御所として一線を退いたかのように見えた 4 。しかし、これは巧みな権力構造の設計であった。家康は駿府に居を移し、実質的な最高権力者として君臨し続けたのである。これにより、江戸の秀忠政権を公式の幕府としつつ、駿府の家康政権が日本の最高意思決定機関として機能する、いわゆる「二元政治」体制が確立された 5

駿府は事実上の首都として機能し、その重要性は江戸を凌駕していた。諸外国からの使節も、江戸の将軍秀忠ではなく、駿府の大御所家康との会見を主目的として来日した 7 。さらに駿府は、江戸幕府が公式には実行しにくい外交政策や国内の重要政策を断行する「影の幕府」としての役割も担っていた 1 。この二元体制は、秀忠に将軍としての経験を積ませながら、家康が国家の最終的な舵取りを行うという、後継者育成と権力維持を両立させるための絶妙な政治システムであった。

1-2. 駿府の「シンクタンク」機能

家康は駿府に、当代一流の知識人や実務家を集結させた。臨済宗の僧侶で外交顧問も務めた金地院崇伝、天台宗の僧侶で家康の側近であった南光坊天海、朱子学者として幕府の教学の基礎を築いた林羅山といったブレーンたちが、駿府の地に集った 8 。彼らは、その後の徳川の治世の根幹をなす基本法典の起草にあたった。朝廷と公家を統制する「禁中並公卿諸法度」、武家社会の秩序を定めた「武家諸法度」、そして寺社勢力を管理下に置く「諸宗諸本山諸法度」といった重要法令は、すべてこの駿府で整備されたのである 8

駿府は、単なる政治の中心地ではなく、徳川の治世の理念を具体的な法制度へと落とし込む、国家の「シンクタンク」であった。その根底には、家康が旗印とした「厭離穢土欣求浄土」の思想があったとされる。争乱の世(穢土)を厭い、平和な世(浄土)を心から求めるというこの理念を、精神論に留めず、社会制度として構築しようとする壮大な試みが、駿府を舞台に繰り広げられていたのである 10

1-3. 豊臣家への無言の圧力と徳川の権威の視覚化

慶長12年(1607年)は、関ヶ原の戦いからわずか7年後である。徳川の支配は未だ盤石とは言えず、大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、特に西国大名に対して無視できない影響力を保持していた 11 。このような緊迫した政治状況下で、全国の大名を動員して壮大な城を築くという行為そのものが、誰が真の「天下人」であるかを天下に示す、極めて強力な政治的デモンストレーションであった。

駿府城は、単なる居城ではなかった。それは「見せるための城」であり、徳川の権威を物理的に視覚化する装置であった。その意図を最も雄弁に物語るのが、天守台の規模である。後の発掘調査で、駿府城の天守台は、徳川将軍家の公式な居城である江戸城の天守台をも上回る、日本最大級の規模であったことが判明している 12 。公式には「隠居」の身である大御所が、なぜ現役の将軍の城よりも壮大な城を必要としたのか。その答えは、軍事的な防衛機能以上に、政治的な権威を可視化する必要があったからに他ならない。駿府城の巨大さ、そして全国の大名を動員して建設するというプロセス自体が、大坂の豊臣家および、いまだ服従の意思が固まらない諸大名に対する、圧倒的な国力と支配力の誇示であった。城の石垣の一つ一つ、天守の瓦一枚一枚が、徳川の治世の正統性を語る、計算され尽くしたプロパガンダ装置として機能したのである。

第二章:「天下普請」の実相:国家事業としての駿府城

2-1. 天下普請の目的と政治的機能

駿府城再築は、「天下普請」と呼ばれる国家事業として執行された。天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令して行わせる大規模な土木・建築工事の総称である。その目的は多岐にわたっていた。第一に、幕府の絶大な権力を全国に見せつけること。第二に、城郭や街道、河川といった社会インフラを整備すること。そして第三に、各大名の財力と軍事力を削ぎ、幕府への反抗心を削ぐことであった 13

慶長期には、江戸城の大改修に始まり、駿府城、名古屋城など、一連の巨大プロジェクトが天下普請として実行された 14 。中でも、大御所家康の直接の居城となる駿府城の普請は、これらの国家プロジェクト群の中でも特に重要な位置を占めていた。それは、徳川の権威の源泉たる家康自身の威光を、天下に示すための象徴的な事業だったのである。

2-2. 動員体制と経済的インパクト

駿府城の天下普請には、文字通り全国の大名が動員された。普請はまず、徳川家に近い越前、美濃、尾張、三河、遠江の諸大名から始まり、やがて畿内、近江、伊勢、さらには薩摩の島津家や加賀の前田家といった、遠方の有力外様大名に至るまで、その動員範囲は拡大していった 17

各大名は、幕府から割り当てられた知行高(石高)に応じて、普請にかかる費用と動員する人夫を負担することが義務付けられた 18 。これは各大名家にとって極めて重い経済的負担となり、領国経営を圧迫した。結果として、大名たちが軍備を蓄え、幕府に反旗を翻す余力を削ぐという、極めて高度な政治的効果をもたらした 13 。一方で、普請の舞台となった駿府の城下町では、全国から膨大な資材と労働者が流入し、大規模な建設特需が発生した。これにより、駿府は政治のみならず経済の中心地としても、空前の繁栄を遂げることとなった 5

2-3. 服従儀礼としての普請役

天下普請は、単なる土木事業ではなく、徳川による新たな支配秩序を構築するための、壮大な社会経済的実験であった。戦国時代までの主従関係は、主君の軍事行動に兵を率いて参加する「軍役」が中心であった。しかし、天下普請において、大名たちはその義務を「土木工事への奉仕」という形で果たすことを求められた。これは、戦乱の時代が終わり、国家建設の時代へと移行したことを象徴する、義務の形態の転換であった。

大名にとって、天下普請の命令に応じることは、徳川への服従を誓う儀礼的な意味合いを持っていた。この役務を滞りなく勤め上げることが、自らの藩の存続に不可欠であると、誰もが認識していたのである 18 。幕府は、各大名の経済力(石高)を把握し、それに基づいて負担を課すことで、全国の富を間接的にコントロールするシステムを構築した。このプロセスを通じて、大名は単なる一地域の領主から、幕府が主導する国家運営の一翼を担う(そしてそのコストを負担する)存在へと、その役割を再定義された。駿府城の石垣は、各大名が徳川幕府という中央政府に対して負う、新たな公的義務の象徴だったのである。

第三章:慶長十二年のリアルタイム・クロニクル:駿府城再築の時系列分析

利用者からの「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるため、各種文献記録に基づき、慶長11年(1606年)から慶長13年(1608年)にかけての出来事を日付を追って再構成する。これにより、巨大プロジェクトが計画され、実行され、そして予期せぬ事態に見舞われながらも推進されていくダイナミズムを明らかにする。

前史:慶長11年(1606年)

  • 4月28日: この日、幕府は伏見城の普請役について、翌年に駿府城の助役が予定されている万石以上の大名はその役務から除外する旨の通達を出した。この記録は、この時点で既に駿府城の大規模な再築が国家事業として具体的に計画されていたことを示す、重要な証拠である 20
  • 10月6日: 徳川家康自らが駿府に赴き、再築する城の敷地(城地)を最終的に決定した 20 。これは、天正13年(1585年)から自身が一度築城した城を基礎としつつ、新たに三ノ丸までを囲い込む、遥かに大規模な城郭へと拡張する壮大な計画の確定を意味した 21

普請開始:慶長12年(1607年)

  • 正月23日: 越前、美濃、尾張、三河、遠江といった徳川家に近い国々の諸大名による普請が、この日をもって公式に開始された 17
  • 正月25日: 幕府より普請奉行が正式に任命され、動員される大名に対して人夫役が具体的に課された 20 。記録によれば、山代忠久、佐藤堅忠、瀧川忠征といった人物が奉行としてこの大事業の監督にあたった 22
  • 2月17日: 計画段階を終え、現場での実際の土木工事が開始された 20 。全国から集められた大名家の家臣、人夫、そして石工や大工といった専門技術者たちが駿府の地に集結し、巨大プロジェクトが本格的に動き出した瞬間であった。

工事の本格化と進捗

  • 3月25日: 普請の規模がさらに拡大され、畿内5カ国(山城、大和、河内、和泉、摂津)と丹波、備中、近江、伊勢の諸大名に対し、500石につき人夫3人(一説には1人)の追加動員が命じられた 17 。これにより、普請は名実ともに関東から西国にまたがる全国規模の事業となった。
  • 4月某日: 『黒田家譜』には、この頃に普請が始まったと記録されている。これは、黒田長政のような主要な外様大名が本格的に普請に参加し始めた時期を示唆していると考えられる 23
  • 5月23日: 城の中核部分である本丸の造成が始まり、天守を支える天守台の最初の礎石が、儀礼とともに厳かに置かれた。城の心臓部の建設が着手された、象徴的な一日であった 20

家康の移徙と予期せぬ火災

  • 7月3日: 驚異的な速度で工事が進められ、本丸御殿などの主要な建物が完成(「落成」)した。これを受け、徳川家康はこの日、正式に駿府城へ移り住んだ(移徙) 20 。しかし、これはあくまで第一期工事の完了であり、城郭全体が完成したわけではなかった。
  • 8月15日: この時点の記録には「二ノ丸未だ成らず」とあり、二ノ丸をはじめとする周辺区画の工事が依然として継続中であったことがわかる 20
  • 12月某日: 年末、完成したばかりの本丸御殿が火災により焼失するという、プロジェクトを揺るがす不測の事態が発生した。
  • 12月29日: しかし、家康の対応は迅速かつ断固たるものであった。彼は直ちに再建を命令し、この日、再建のために京から多数の優れた工匠(大工)たちが、雲霞のごとく駿府へと急行した 20

驚異的な再建:慶長13年(1608年)

  • 正月: 年が明けると同時に、再建のための人夫が改めて招集され、建材となる良質な木材の切り出しが命じられた 20
  • 2月14日: 火災発生からわずか2ヶ月足らずで、焼失した本丸御殿の上棟式が執り行われた。この驚異的な復旧速度は、徳川政権が持つ圧倒的な動員力、資源調達能力、そして高度な技術力を天下に示す、またとない機会となった 20
  • 3月: 本丸御殿は完全に再建され、落成した 20

この一連の出来事をまとめた以下の年表は、駿府城再築という事業が、周到な計画、大規模な動員、そして予期せぬ危機への迅速な対応を経て推進された、ダイナミックなプロセスであったことを明確に示している。

表1:駿府城再築(1607年)関連年表

日付

慶長11年(1606)4月28日

慶長11年(1606)10月6日

慶長12年(1607)正月23日

慶長12年(1607)正月25日

慶長12年(1607)2月17日

慶長12年(1607)3月25日

慶長12年(1607)5月23日

慶長12年(1607)7月3日

慶長12年(1607)8月15日

慶長12年(1607)12月某日

慶長12年(1607)12月29日

慶長13年(1608)2月14日

慶長13年(1608)3月

第四章:動員された大名たち:普請の現場と統制

4-1. 普請を担った大名たちと役割分担

駿府城の天下普請には、加賀百万石の前田利常、築城の名手として知られる肥後の加藤清正、関ヶ原で東軍勝利に貢献した筑前の黒田長政、土佐の山内一豊、伊勢津の藤堂高虎など、全国の錚々たる大名が参加した 14 。彼らは外様・譜代を問わず、徳川の命のもとに駿府へ家臣団を派遣し、この巨大事業の一翼を担った。

具体的な役割分担を示す完全な一次史料は限られているが、後の名古屋城普請の例 24 や断片的な記録から、その姿を類推することができる。普請は、天守台、本丸石垣、二ノ丸堀といったように、工事区域(丁場)ごとに分割され、それぞれの大名家に割り当てられたと考えられる。例えば、藤堂高虎や山内一豊は石垣普請を、黒田長政は天守台の築造を担当したとの記録が残っている 14 。各大名は、割り当てられた工区を責任をもって完成させることが求められた。

4-2. 石垣刻印から読み解く丁場制度

当時の分業体制と責任の所在を今に伝える貴重な物証が、城内に現存する石垣の「刻印」である。駿府城の石垣には、普請を担当した大名やその配下の石工集団が、自らの仕事の証として刻んだ多種多様な印が残されている。その数は300を超え、種類は150種類にも及ぶとされている 11

これらの刻印は、大名の家紋を図案化したもの、作業グループを示す符号、石の個数や寸法を示す文字など、様々な意味を持っていた 27 。その主な目的は、自らが担当した工事範囲を明確にし、責任の所在を明らかにすることであった。同時に、伊豆など遠隔地の石丁場から運ばれてくる膨大な石材が、他の大名家のものと混同されたり、盗難に遭ったりするのを防ぐための管理上の目印でもあった 15 。現在、復元された東御門の内部展示では、主要な大名の家紋と、城内で発見された刻印の対照が示されており、石垣に残された印から、かつてこの場所で汗を流した大名たちの姿を偲ぶことができる 29

4-3. 現場の規律:「細川忠興駿河御普請中掟」の分析

天下普請の成功は、石を積み上げる技術力や資材を運ぶ兵站能力だけで決まるものではなかった。むしろ、それ以上に重要だったのは、全国から集められた、気位が高く、昨日まで敵同士だったかもしれない武士団をいかに統制し、無用な衝突を避けるかという、高度なマネジメント能力であった。

この普請現場における人間関係の管理の重要性を如実に示すのが、熊本大学で発見された「細川忠興駿河御普請中掟」という一次史料である 30 。これは、豊前小倉藩主の細川忠興が、駿府へ派遣する家臣団に対して発した十三箇条からなる掟書である。その内容を見ると、現地責任者への全権委任といった項目に加え、「他大名家の家中ともめ事を防止するための規約」が極めて詳細に定められていることがわかる 30 。これは、毛利家が制定した同種の掟と比較しても、内容が格段に具体的であり、些細なことから家臣同士の刃傷沙汰や、ひいては大名家間の紛争に発展しかねないという、現場の緊張感をリアルに伝えている 30

幕府や各大名家の当主が最も恐れていたのは、工事の遅延や技術的な失敗ではなく、普請現場での武力衝突であった。ひとたび大規模な衝突が起これば、天下普請そのものが破綻し、徳川の権威は失墜しかねない。したがって、この掟書は単なる作業マニュアルではない。それは、潜在的な爆発物である多数の武士団を、一つの事業目的のもとで統制するための、高度なリスクマネジメント文書であった。天下普請の成功は、武士たちの自尊心と敵愾心を巧みに管理する、精緻な政治技術に支えられていたのである。

表2:駿府城天下普請に参加した主要大名と役割(推定含む)

大名家

加賀藩

薩摩藩

肥後藩

筑前藩

播磨姫路藩

紀伊和歌山藩

土佐藩

伊勢津藩

小倉藩

長州藩

第五章:当代随一の巨城:駿府城の構造と技術

5-1. 縄張り:三重の堀を持つ輪郭式平城

慶長12年(1607年)の天下普請による再築で、駿府城はその姿を大きく変えた。城郭の設計、すなわち「縄張り」は、本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸が同心円状に三重の堀で囲む、典型的な「輪郭式」の平城として完成された 5 。この拡張工事により、天正期には二ノ丸の外側にあったとされる井伊直政の屋敷などが、慶長期には二ノ丸の内側に取り込まれるなど、城全体の規模は一回りも二回りも大きくなった 3

城の防御と治水を兼ねた工夫も見られる。城の西側には、安倍川の流路を人工的に変更して築かれた長大な堤防、通称「薩摩土手」が存在した。これは、城下町を水害から守ると同時に、西からの敵の侵攻を阻む巨大な防御線としても機能した 3 。このように、駿府城は都市計画と軍事防衛計画が一体となった、近世城郭の到達点の一つであった。

5-2. 天守:江戸城を超える権威の象徴

駿府城の数ある建造物の中でも、大御所家康の権威を最も象徴していたのが、本丸の北西隅に聳え立っていた天守であった。

  • 天守台: 近年の発掘調査によって、駿府城の天守台は、底辺の規模において江戸城の天守台を凌駕する、日本史上最大級のものであったことが科学的に証明された 3 。この事実は、大御所家康の権威が将軍秀忠をも上回ることを内外に知らしめる、計算され尽くした建築的メッセージであった。その構造は、広大な天守台の中央に天守本体を建て、四隅に二重の隅櫓を配し、それらを多聞櫓で連結する「天守丸構造」と呼ばれる特殊な形式であった可能性が、古図面などから指摘されている 3
  • 天守の構造と意匠: 天守本体は、五層七階建ての壮麗なものであったと伝えられる 5 。『慶長日記』や『当代記』といった同時代の文献記録には、その驚くべき姿が記されている。1階と2階には四方に欄干付きの縁が巡らされ、3階の腰屋根は瓦葺きであった。4階以上になると装飾はさらに豪華さを増し、屋根や破風には白鑞(しろめ、錫と鉛の合金)や銀が惜しげもなく用いられた。そして最上階の7階に至っては、屋根は銅で葺かれ、軒瓦には鍍金が施され、屋根の頂で天を睨む鴟吻(しふん)や鬼板は純金製であったという 3 。それはまさに、天下人の居城にふさわしい、絢爛豪華の極みであった。

しかし、天守の具体的な設計図は現存しておらず、その正確な姿は今なお謎に包まれている。そのため、研究者の間では、文献記録や絵画史料を基に、様々な復元案が提唱されている。伝統的な様式である「望楼式」であったとする説、より新しい形式の「層塔式」であったとする説、外壁の色が白漆喰であったか黒い銅板張りであったかなど、活発な学術的議論が続いている 3

5-3. 防御施設:独創性と機能美

駿府城の防御施設は、実用性と威厳を兼ね備えた、高度な設計思想に基づいていた。大手御門や東御門、清水御門といった主要な出入り口は、いずれも「枡形」と呼ばれる構造を持っていた 4 。これは、門を二重に構え、その間を石垣で囲んだ四角い空間を設けることで、侵入してきた敵の動きを止め、四方の壁の上から一斉に攻撃を加えるための、極めて効果的な防御システムであった。

城の各所に配置された櫓も、独創的な工夫が凝らされていた。特に城の東南角を守る巽櫓(たつみやぐら)は、全国的にも非常に珍しいL字型の平面を持つ二重三階の隅櫓であった 21 。この特異な形状は、二方向からの視界を確保し、防御上の死角をなくすための合理的な設計であったと考えられる。駿府城は、決して広大ではない敷地の中に、こうした巨大な櫓や堅固な門を密集して配置する「高密度設計」を特徴としており、高い防御機能と見る者を圧倒する威厳を両立させていた 21

5-4. 普請の技術:石材の調達と加工

この巨大な城郭を支えたのは、当時の最先端技術であった。石垣に用いられた石材の多くは、伊豆半島から産出される安山岩、いわゆる「伊豆石」であった 34 。熱海や稲取、河津といった伊豆の沿岸各地に石丁場(いしちょうば)と呼ばれる大規模な採石場が設けられ、切り出された巨石は船に積まれて駿府まで海上輸送された 34

石垣の積み方には、「打ち込みハギ」と呼ばれる高度な技術が用いられた 36 。これは、石の接合面を叩いて平らに加工し、石同士が隙間なく噛み合うように積み上げる工法で、これにより極めて堅固で美しい石垣が築かれた。また、二ノ丸の堀から出土した鯱(しゃちほこ)の分析からは、材料として当時の日本では貴重であった明(中国)産の鉛が使用されていたことが判明している 21 。最高の城を築くために、最高の材料を国内外から調達する、まさに国家プロジェクトならではの物量と技術が投入されていたのである。

表3:慶長期天守の復元案比較

提唱者

内藤昌案

八木清勝案

宮上茂隆案

三浦正幸案

西ヶ谷恭弘案

平井聖案

第六章:歴史的意義と後世への影響

6-1. 寛永の大火と天守非再建の謎

慶長の天下普請から約30年後の寛永12年(1635年)、駿府城は城下町からの出火により大規模な火災に見舞われ、壮麗を極めた天守をはじめ、本丸御殿などほとんどの主要な建物が灰燼に帰した 5

幕府は直ちに再建に取り掛かり、櫓や門などの防御・行政施設は復旧された。しかし、城の象徴であったはずの天守だけは、その後二度と再建されることはなかった 5 。この事実は、一見不可解に思えるが、当時の徳川幕府の状況を鑑みると、極めて合理的な政策的判断であったと考えられる。この頃には、三代将軍家光のもとで幕藩体制は完全に確立され、徳川による支配は盤石なものとなっていた。もはや、大坂の陣以前のように、武力や権威の象徴としての巨大天守を必要とする時代ではなかったのである。天守の非再建は、徳川が自らの治世が「天下泰平」の時代に入ったことを、天下に宣言する無言のメッセージであった 37

6-2. 維持と災害の歴史

天守を失った後も、駿府城は駿府城代が置かれるなど、地域の政治的中心としての役割を果たし続けた。しかし、その歴史は自然災害との戦いの歴史でもあった。宝永4年(1707年)の宝永地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震といった巨大地震により、自慢の石垣は各所で崩落し、建物も大きな被害を受けた 38 。その都度、幕府は周辺の大名に修復を命じる「手伝普請」を発令し、城の維持が図られた 38

6-3. 明治以降の変遷:城郭から公園へ

明治維新を迎え、徳川の時代が終わると、駿府城の運命は大きく変わる。城は廃城となり、その広大な敷地は新たな時代の要請に応じて転用されていった。明治29年(1896年)、陸軍歩兵第34連隊が城内に置かれることになり、軍事上の都合から本丸の堀は埋め立てられ、日本最大級を誇った天守台も無残に取り壊された 6 。かつての三ノ丸は、県庁や市役所、学校などの公共用地となり、城郭としての景観は急速に失われていった 6

この駿府城の歴史は、徳川の「力の変遷」そのものを体現している。慶長期の壮大な建設は、武力と経済力で天下を制圧し、その権威を視覚化しようとする「力の誇示」の段階であった。寛永期の天守非再建は、もはや巨大な象徴に頼る必要がないほど、制度と法による支配、すなわち「力の制度化」が確立したことを示している。そして、明治期の解体は、徳川の封建体制という旧来の力が、明治新政府という新たな権力によって完全に無力化されたことを象徴する出来事であった。

6-4. 現代における発掘調査と復元事業

太平洋戦争後、本丸と二ノ丸の跡地は「駿府公園」として整備され、市民の憩いの場となった 6 。そして時代が平成に入ると、歴史的遺産としての駿府城を再評価する機運が高まる。市の100周年記念事業として、平成元年(1989年)に巽櫓が、平成8年(1996年)に東御門が、そして平成26年(2014年)には坤櫓(ひつじさるやぐら)が、伝統的な木造工法によって忠実に復元された 42

さらに近年では、天守台の発掘調査が継続的に行われている。この調査により、慶長期の巨大な天守台の石垣の下から、それより一回り小さい天正期の天守台(自然石をあまり加工せずに積む「野面積み」)が発見され、二つの時代の城が同じ場所に重層的に存在していたことが明らかになった 21 。また、天正期の層からは金箔瓦が大量に出土しており、家康が最初に築いた天守は、豊臣秀吉の大坂城のように金箔瓦で葺かれた豪華なものであった可能性が指摘されている 21 。軍事施設から市民の公園へ、そして歴史遺産へ。駿府城は、その価値を変えながら、現代に生き続けている。

結論:駿府城が語る徳川の天下

慶長12年(1607年)の駿府城再築は、徳川家康の深謀遠慮に基づく、極めて多層的な国家プロジェクトであった。それは単なる居城の建設ではなく、江戸との二元政治を執行する最高司令部であり、徳川の治世の骨格をなす法制度を設計するシンクタンクであり、大坂の豊臣家に対する無言の圧力装置であり、そして全国の大名を経済的・心理的に服従させる幕藩体制構築の強力なツールとして、複合的な機能を果たした。

駿府城は、家康がその生涯をかけて目指した「争いのない世」を、圧倒的な権威と精緻な統制システムによって実現しようとした、その国家構想の物理的な集大成であったと言える。その日本一巨大な天守台、絢爛豪華な天守の意匠、そして全国の大名が刻んだ石垣の刻印に至るまで、城のあらゆる細部に、家康の天下経営の思想が凝縮されている。

今後も継続されるであろう発掘調査や、新たな史料の発見によって、駿府城の実像はさらに明らかになるに違いない。特に、いまだ多くの謎に包まれている天守の具体的な姿や、普請に関わった各大名の詳細な動向の解明が期待される。駿府城は、決して過去の遺物ではない。それは、徳川という時代がいかにして始まり、いかにして確立されたのか、その本質を現代の我々に問い続ける、生きた歴史の証人なのである。

引用文献

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