最終更新日 2025-09-29

高取城改修(1585)

天正十三年、豊臣秀長は大和支配の要衝として高取城の大改修を決定。難攻不落の山城は、秀吉政権の権威と戦略を天下に示す象徴となり、その後の歴史に名を刻んだ。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正十三年 高取城改修の真相 ― 豊臣政権による大和支配の確立と「天下一の山城」誕生の軌跡

序章:なぜ天正十三年(1585年)が転換点だったのか

本レポートの問いの提示

日本の戦国時代における「高取城改修(1585)」という事象は、単に一つの城郭が石垣で固められ始めたという建築史上の出来事に留まらない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業が重大な局面を迎える中で、大和国、ひいては紀伊半島全体の戦略的価値が再定義され、古来の山城であった高取城に全く新しい役割が与えられた、画期的な「政治的決定の年」を指し示すものである。本報告書は、この天正十三年(1585年)という年が持つ歴史的意味を深く掘り下げ、高取城改修の全貌を、当時の政治・軍事情勢と密接に結びつけながら時系列で解明することを目的とする。

高取城の象徴的価値

高取城の変遷は、戦国時代の終焉そのものを象徴している。南北朝の動乱期に在地領主の越智氏によって築かれた、いわば一時的な避難場所としての性格が強い中世山城が、いかにして豊臣政権の権威と最新技術の粋を集めた壮麗な近世城郭へと変貌を遂げたのか 1 。その過程は、土地との結びつきに根差した属人的・在地的な支配体制が、検地と石高制を基盤とする中央集権的な支配体制へと移行していく、時代の大きなうねりを凝縮して体現しているのである。

1585年 vs 1589年:事象の二重構造の解明

高取城改修を理解する上で最も重要な点は、その事象が二重の構造を持っていることである。ユーザーのクエリの核心である「1585年」は、物理的な「改修開始年」を指すものではない。むしろ、高取城が豊臣政権による南大和支配の戦略的拠点として運命づけられた「戦略的決定年」と捉えるべきである。実際に巨大な石垣群の構築を伴う大規模な改修工事が本格的に着手されたのは、複数の資料が示す通り、その4年後である天正十七年(1589年)であった 3

この4年間の時間差こそが、豊臣秀吉の弟、秀長による周到かつ巧緻な大和支配のプロセスを雄弁に物語っている。まず、天正十三年(1585年)に秀吉は紀州征伐を完了させ、その戦後処理として弟・秀長に大和・和泉・紀伊の三国、合わせて百万石という破格の所領を与えた 6 。同年、秀長は本拠地を大和郡山城に定めると同時に、南方の要衝である高取城の城主として、信頼の厚い家臣・本多利久を配置した 5 。この一連の政治的・軍事的措置こそが、「1585年の事変」の第一層、すなわち高取城の運命を決定づけた戦略的判断である。

しかし、秀長はすぐには大規模な普請に取り掛からなかった。彼がまず着手したのは、検地の実施を通じて領内の経済的実態を把握し、興福寺に代表される強大な寺社勢力や、旧来の在地国人衆の力を削ぎ、領国を安定させることであった 11 。巨大城郭の建設には、領内の安定と盤石な経済基盤が不可欠であり、その地固めに数年の歳月を要したのである。そして、領国経営に確かな目途がついた天正十七年(1589年)、満を持して本多利久に高取城の大規模改修が命じられた。これが事象の第二層、すなわち物理的・建築的な実行段階の始まりである。

結論として、「高取城改修(1585)」とは、1585年の戦略的決定から1589年の本格着工、そしてその後の完成に至るまでの一連のプロセス全体を指す事象として捉えなければ、その本質を見誤ることになる。この二重構造の理解こそが、本件を深く分析するための鍵となる。

【表1:高取城改修 関連年表】

年代

主な出来事

備考

元弘二年(1332年)

越智邦澄により築城される 3

中世山城としての始まり。

天正八年(1580年)

織田信長の一国一城令により一時廃城となる 3

郡山城以外の城は破却された。

天正十二年(1584年)

筒井順慶により再興される 3

中世城郭の延長線上での復興。

天正十三年(1585年)

豊臣秀長が大和入部、本多利久が高取城主となる 5

戦略的決定の年。

天正十七年(1589年)

本多利久による大規模改修が開始される 3

物理的着工の年。

慶長五年(1600年)

関ヶ原の戦い。高取城は西軍の攻撃を撃退する 13

難攻不落の名を天下に示す。

寛永十七年(1640年)

植村家政が入城し、以降植村氏が藩主となる 3

譜代大名による統治時代へ。

明治六年(1873年)

廃城令により廃城となる 14

建造物は解体・朽ち果てた。


第一章:改修前夜 ― 混沌の大和国と古城の運命

第一節:大和源氏の末裔・越智氏の要害 ― 中世山城としての高取城

高取城の歴史は、南北朝時代にまで遡る。元弘二年(1332年)、後醍醐天皇に呼応した南朝方の有力な在地領主(国人)であった越智邦澄によって、高取山に最初の砦が築かれたのがその始まりとされる 2 。この時代の越智氏は、清和源氏の流れを汲む大和源氏の末裔とされ、大和国南部において強大な勢力を誇っていた 16

当初の高取城は、後の壮麗な姿とは全く異なる、素朴な中世山城であった。恒久的な建造物や石垣はほとんどなく、山の自然地形を巧みに利用し、土塁や空堀、逆茂木といった簡易な防御施設を設けた、いわゆる「掻揚げ城(かきあげじろ)」と呼ばれる形態であったと考えられている 1 。その主たる目的は、平時の居館(越智氏の場合は貝吹山城の麓にあった)が敵に襲われた際に、一族郎党が立てこもるための最終防衛拠点、すなわち「詰城(つめのしろ)」としての役割であった 16

室町時代を通じて、越智氏は大和国北部を拠点とする筒井氏と、国の覇権を巡って百数十年にも及ぶ激しい抗争を繰り広げた 16 。この長く続く戦乱の中で、高取城は南大和における越智氏の軍事活動の重要な拠点として、その役割を果たし続けたのである。

第二節:織田信長の「城割」と筒井順慶の束の間の復興

戦国時代の終盤、天下統一を目前にした織田信長の勢力が大和国に及ぶと、高取城の運命は一度、断絶の危機に瀕する。天正八年(1580年)、信長は畿内の支配を固めるため、大和国に対して「一国一城令(城割)」を発した。これは、国中の城を一つに限定し、それ以外の城をすべて破却させるという、在地勢力の軍事力を根底から覆す厳しい命令であった 13 。大和国では筒井順慶の居城である郡山城のみが残され、長らく越智氏の拠点であった高取城も、この時に破却され、一時的に廃城となった 3

しかし、そのわずか二年後、本能寺の変で信長が斃れると、政治情勢は再び流動化する。大和国の支配者となった筒井順慶は、天正十二年(1584年)、南方の守りを固める必要性から高取城の再興に着手した 3 。だが、この時点での復興は、あくまで旧来の構造を修復する程度のものであり、中世山城の範疇を出るものではなかったと考えられている。そして翌年、順慶が病没し、豊臣政権による新たな支配体制が始まることで、高取城は再び大きな転機を迎えることになる。

なぜ高取城は「生き残った」のか

信長の城割で一度は歴史から姿を消しながらも、なぜ高取城は豊臣政権下で「天下一の山城」と称されるほどの破格の大改修を受けるに至ったのか。その背景には、支配者の戦略思想の変化に伴う、高取城の「地理的・戦略的価値の再発見」があった。

織田信長にとって、大和国は畿内の一国に過ぎず、その統治戦略は効率性を重視したものであった。在地勢力の軍事力を削ぎ、統治の拠点を交通の便の良い平城である郡山城に集約することは、合理的な判断であった。この戦略思想の下では、険しい山中にある高取城は、旧時代の遺物であり不要な存在と見なされたのである 13

しかし、天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉と、その代理人として大和を治めることになった秀長の視点は異なっていた。秀吉は天正十三年(1585年)の紀州征伐において、根来衆・雑賀衆といった紀伊国の強力な寺社勢力や国人衆の、鉄砲を駆使した粘り強い抵抗に直面した 6 。この経験は、豊臣政権にとって、紀伊国や南大和の吉野地方が、依然として潜在的な脅威であり続けることを痛感させた。特に、大和と紀伊の国境地帯から、抵抗勢力が奈良盆地へ浸透してくることを防ぐ、恒久的な軍事拠点の必要性が強く認識されたのである。

ここで、高取城の持つ地理的優位性が再評価される。奈良盆地の南端に聳え、古代からの要路である芋峠を越えて吉野へと至る交通の要衝を扼する高取山の立地は、まさにこの新たな戦略的要求に応えるものであった 1 。秀長は、この地理的価値にいち早く着目し、高取城を単なる中世の詰城としてではなく、豊臣政権の権威と軍事力を天下に示す、近世的な一大要塞へと昇華させることを決断した。高取城の運命は、支配者の戦略の変化によって劇的に転換した。信長にとっての「不要な城」は、秀吉・秀長にとっての「不可欠な城」へと、その価値を180度変えたのである。


第二章:天正十三年(1585年) ― 豊臣秀長、大和に入る

第一節:紀州征伐の衝撃 ― 秀吉の畿内平定と新たな支配体制の胎動

天正十三年(1585年)三月、羽柴秀吉は十万ともいわれる大軍を動員し、紀州征伐を開始した。この軍事行動は、織田信長ですら成し得なかった、長年にわたり独立を保ってきた「寺社共和国」紀伊国の制圧を目的としていた。秀吉軍は和泉国から紀伊へ侵攻し、根来衆・雑賀衆などが立てこもる城砦を次々と攻略。三月二十三日には、根来衆の本拠地である根来寺が炎上し、その巨大な軍事・宗教的権威は灰燼に帰した 6

この征伐は、単なる一地方の平定に留まるものではなかった。それは、畿内およびその周辺地域における豊臣政権の支配権を絶対的なものにするための、政治的な示威行動としての意味合いが強かった。特に、降伏した農兵から農具以外の武器を没収したことは、史上初の「刀狩」ともいわれ、在地社会の武装を解除し、兵農分離を推し進める豊臣政権の基本政策を明確に示すものであった 6 。この紀州征伐の完了により、大和国南部に隣接する最大の脅威が取り除かれ、豊臣政権による新たな支配体制を構築する土台が整えられたのである。

第二節:百万石の大守・秀長の着任と、抵抗勢力が根付く大和国の実情

紀州征伐、そしてそれに続く四国平定における多大な功績により、秀吉の弟である羽柴秀長(後の豊臣秀長)は、大和・和泉・紀伊の三国、合わせて百万石という、一武将としては破格の所領を与えられた 7 。これは、秀吉が最も信頼する弟に、政権の心臓部である畿内の地盤固めを委ねたことを意味していた。

同年秋、秀長は兄・秀吉と共におよそ五千人の武士を従え、大和国の新たな本拠地である郡山城へ入城した 7 。しかし、彼がこれから統治する大和国は、決して平穏な土地ではなかった。古都・奈良を中心に、興福寺や東大寺といった巨大寺社が中世以来の強い影響力を保持し、また、越智氏に代表される在地国人衆の力も根強く残っていた 12 。これらの勢力は、外部からの支配に対して強い抵抗を示す傾向があり、大和は「統治困難な土地」として知られていたのである 11 。秀長の統治は、これらの旧来の勢力と対峙し、豊臣政権の支配を隅々まで浸透させるという、困難な課題から始まった。

第三節:高取城への着目 ― 南大和支配の楔として白羽の矢が立つまで

秀長は、自身の本拠地である郡山城を大規模に改修し、城下町を整備することで、大和国北部における政治・経済の中心地として確立しようとした 9 。しかし、それだけでは大和一国の安定した統治は望めなかった。紀州征伐を経た後も、南大和から吉野、紀伊にかけての山岳地帯には、いまだ豊臣政権に服さぬ勢力が潜伏する可能性があり、常に監視と圧力を加え続ける必要があった。

この南方の脅威に対処するための戦略的拠点として、秀長の目に留まったのが高取城であった。かつて越智氏が拠点とし、吉野への交通路を抑える高取山の地理的重要性を再評価した秀長は、この地を単なる支城ではなく、南大和支配の「楔」として機能させることを決断する。そして、この重要な任務を託すべく、家臣の中でも特に信頼の厚い武将、本多利久を高取城の城主に任命した 5 。天正十三年(1585年)、この決定がなされた瞬間こそ、高取城が中世の古城から近世の巨大要塞へと生まれ変わる、運命の分岐点であった。

郡山城と高取城の「二元支配体制」という戦略

秀長が描いた大和統治戦略の核心は、役割の異なる二つの城を両輪とする、巧みな「二元支配体制」の構築にあった。それは、平地に位置し政治・経済の中心地である郡山城(本城)と、山岳地帯に聳え軍事・治安維持の拠点である高取城(支城)とが、互いに補完し合うという戦略である。

郡山城は奈良盆地の中心に位置し、交通の要衝でもある。秀長はここを拠点として検地を断行し、寺社勢力と在地武士との土地を介した結びつきを断ち切り、新たな城下町を育成することで、領国経営の中枢機能を集約させた 9 。ここは、豊臣政権の権威と豊かさを「見せる統治」、すなわち「平時の統治」の拠点であった。

一方、高取城は全く異なる役割を担わされた。南大和から吉野、紀伊へと連なる山岳地帯は、旧来の勢力の残党が潜伏し、反乱の火種となりかねない潜在的な危険地帯であった 6 。高取城は、この危険地帯を山上から物理的に威圧し、有事の際には即座に出撃できる前線基地としての役割が与えられた。これは、常に反乱の芽を「睨みを効かせる統治」、すなわち「有事の統治」の拠点であった。

この二つの城は、見事なまでに相互補完の関係にあった。郡山城が豊臣政権の大和支配における「頭脳」であり「財布」であるならば、高取城はその「剣」であり「盾」であった。この巧みな役割分担と戦略的配置こそが、統治困難と言われた大和国を、秀長が短期間のうちに安定させることができた最大の要因の一つと考えられるのである。


第三章:近世城郭への大改修 ― 「天下一の山城」の誕生

第一節:城主・本多利久と縄張師・諸木大膳 ― 改修を担った男たち

天正十三年(1585年)に高取城主に任じられた本多利久は、秀長の家臣団の中でも特に信頼された武将であった 22 。もとは尾張水野氏の出身で、羽柴秀吉、そしてその弟・秀長に仕え、三木城攻めなどで武功を重ねてきた歴戦の勇将である 5

領国経営に目途がついた天正十七年(1589年)、利久は主君・秀長の正式な命令を受け、高取城の全面的な大改修に着手する 3 。この前代未聞の山城大改築において、城全体の設計図である「縄張り」を担当したのは、利久の家臣であり、軍学者でもあった諸木大膳であったと伝えられている 4 。彼ら主従の手によって、土と木でできた中世の「掻揚げ城」は、石と漆喰で固められた、全く新しい思想に基づく近世城郭へと、その姿を劇的に変えていくことになる。

第二節:石垣の構築 ― 最新技術と古墳石転用に見る、秀長政権の合理性と威信

改修後の高取城を象徴するのは、山全体を覆い尽くすかのような壮大な総石垣である。この石垣には、当時の最新技術が惜しみなく投入された。表面をある程度加工した石材を、隙間なく密に積み上げていく「打込みハギ(うちこみはぎ)」という技法が用いられ、城壁に強固さと均整の取れた美しさを与えた 4 。また、石垣の脆弱な角部分を強化するため、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む「算木積み(さんぎづみ)」という先進的な技法も採用されており、その完成度は非常に高い 4

特筆すべきは、これらの石垣の石材の一部に、周辺の古墳から持ち出された石棺や石室の石材が「転用石」として使用されている点である 5 。これは、山中での大規模な築城において石材が不足したことを補うための、極めて合理的な判断であった。しかし、その意味は実用的な側面だけに留まらない。大和の地に古来から存在する権威の象徴である古墳を、文字通り築城の土台として踏みつけるという行為は、旧来の権威を豊臣政権が凌駕し、この地の新たな支配者であることを天下に誇示する、強烈な政治的メッセージでもあったと解釈できる。

第三節:縄張りの妙 ― 山上に現出した「平城のごとき整然さ」と難攻不落の防御設計

高取城の縄張り(城全体の設計)は、標高584mの高取山の地形を最大限に活かした「連郭式山城」である 4 。山の尾根筋に沿って、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、その間に多数の櫓や門を設け、防御力を高めている。

その防御設計は、徹底して実戦を想定したものだった。城内への通路は、敵の直進を許さないよう随所で屈折し、侵入者を側面から攻撃できる「虎口(こぐち)」が複雑に配置されている 3 。特に本丸の虎口は、Uターンを強いるほどの精緻な構造を持ち、鉄壁の守りを誇っていた 27 。さらに、山城の生命線である水の確保にも万全が期された。城内には「七つ井戸」と呼ばれる石垣造りの井戸群が設けられ、山城には極めて珍しい石垣造りの水堀まで備えられていた 26

しかし、高取城の縄張りが驚異的であるのは、その堅固さだけではない。山城でありながら、本丸周辺の区画は、まるで平地に築かれた城のように、極めて整然とした計画性を持っている点である 23 。これは、戦国末期から安土桃山時代にかけて築城技術が飛躍的に発展し、完成期に達したことを示す証左に他ならない。自然の地形に依存するだけでなく、人間の意志と技術によって地形を克服し、理想的な城郭を山上に現出させたのである。

第四節:天守と櫓群 ― 権威の象徴としての壮麗な威容

大改修によって生まれ変わった高取城は、山上から奈良盆地一帯を睥睨する、壮麗な威容を誇っていた。本丸には、白漆喰で塗り固められた三重三階の大天守と、それに寄り添う小天守が建てられ、二つの天守は多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれる長大な櫓によって連結されていた 4 。この「連立式天守」と呼ばれる形式は、見た目の壮麗さだけでなく、極めて高い防御機能を持つ構造であった 23

さらに、城内には大小合わせて17基もの三重櫓が林立し、天守と共に一大楼閣群を形成していたと記録されている 4 。本丸の天守台石垣は、城内で最も高い約12mにも達し、麓から見上げる人々を圧倒した 26 。これらの壮大な建造物群は、単なる軍事施設ではなく、南大和の在地勢力や民衆に対し、豊臣政権の計り知れない富と技術力、そして何よりも逆らうことの許されない絶対的な権威を、視覚的に叩き込むための装置であった。

「実用性」と「象徴性」の融合

高取城の大改修は、単なる軍事要塞の建設プロジェクトではなかった。それは、豊臣政権が持つ「実用的な軍事思想」と、天下人の権威を示す「象徴的な建築思想」とが、高次元で融合した、時代の最先端を行く事業であった。

複雑な虎口、多数の櫓、井戸や水堀による兵站の確保、そして堅固な石垣といった構造は、敵の侵攻をいかに効率的に阻み、撃退するかという、極めて実戦的な設計思想に基づいている 23 。これは、紀州征伐の苦戦から、抵抗勢力の粘り強さを熟知していた秀長政権の実用主義が色濃く反映された結果である。

一方で、山城には過剰とも思える壮麗な連立式天守や、林立する櫓群、そして「平城のごとき整然さ」を持つ本丸の構造は、軍事的な合理性だけでは説明がつかない 4 。これらは、麓から見上げるすべての人々に対し、豊臣政権の圧倒的な力を「見せつける」ための、計算され尽くした象徴的な装置であった。この二重性は、古墳石の転用にも見て取れる。実用的には石材の確保であるが、象徴的には旧権威の破壊と新権威の樹立を意味する。

結論として、高取城は徹底的に「戦うための城」であると同時に、圧倒的に「見せるための城」でもあった。この実用性と象徴性の見事な両立こそが、中世の山城とは一線を画す、豊臣期の近世城郭として高取城が持つ本質なのである。


第四章:戦略的意義と豊臣政権下での役割

第一節:郡山城との連携体制 ― 大和支配の南北二重構造

高取城の大改修が持つ戦略的意義は、まず大和国内の支配体制の確立にあった。第二章で述べたように、秀長は政治・経済の拠点である北の郡山城と、軍事・治安維持の拠点である南の高取城を連携させる「二元支配体制」を構築した。この南北二重構造により、奈良盆地全体が豊臣政権の支配下に隙なく組み込まれた。郡山城が領国経営を円滑に進める一方で、高取城が南方の潜在的な脅威を封じ込める。この体制によって、統治困難とされた大和国は、かつてない安定期を迎えることになったのである。

第二節:興福寺、根来衆、在地国人への無言の圧力

山上に忽然と現れた白亜の楼閣群は、大和国内でいまだ隠然たる影響力を保持していた旧勢力にとって、強力な牽制となった。特に、中世以来大和の支配者として君臨してきた興福寺などの寺社勢力にとって、その権威を真っ向から否定する存在であった 11 。また、紀州征伐で敗れたとはいえ、山中に潜伏する可能性のあった根来衆の残党や、越智氏をはじめとする旧来の在地国人衆にとっても、高取城の威容は抵抗の意志を削ぐに十分なものであった。

高取城は、実際に武力を行使せずとも、その存在自体が豊臣政権への服従を促す「無言の圧力」として機能した。これは、物理的な支配だけでなく、人々の心理を支配下に置くという、より高度な統治戦略の一環であった。

第三節:大坂城防衛網の一翼として

高取城の戦略的価値は、大和一国の支配に留まるものではなかった。それは、豊臣政権の本拠地である大坂城を守る、広域防衛ネットワークの重要な一翼を担う拠点でもあった。特に、紀伊水道から敵が上陸し、紀ノ川を遡上して大和国経由で大坂の南方を衝くという侵攻ルートは、軍事上の大きな脅威であった。高取城は、このルートを完全に遮断し、大坂城の南方を盤石にする上で、決定的な役割を担っていたのである。大和一国の安定は、すなわち豊臣政権中枢の安定に直結していた。

城郭が担う「ソフトパワー」

近世城郭として生まれ変わった高取城は、敵の攻撃を防ぐ物理的な防御力、すなわち「ハードパワー」だけでなく、人々の心理に働きかけ、支配体制を円滑化する「ソフトパワー」の役割を強く担っていた。

戦国時代、在地国人や寺社勢力は、自らが拠点とする城や寺院を基盤に、半独立的な権力を維持してきた。彼らの権威の源泉は、先祖代々の土地との結びつきや、古くからの伝統であった。高取城は、その伝統的な権威を圧倒する、全く新しい次元の権力、すなわち豊臣政権がこの地に来臨したことを、誰の目にも明らかな形で示した。その壮麗な姿は、旧来の勢力に「もはや自分たちの時代は終わったのだ」と悟らせるに十分な説得力を持っていた。

これにより、秀長は無用な武力衝突を極力避けながら、検地や支配体制の再編といった統治政策を推し進めることができた。城を築くという行為そのものが、最も効果的な統治手段の一つとなったのである。これは、単に敵を撃退するだけでなく、敵意そのものを事前に削ぎ、新たな支配を自発的に受け入れさせるという、より洗練された統治技術の表れと言える。高取城は、豊臣政権の「力の可視化装置」として、絶大なソフトパワーを発揮したのである。


第五章:その後の高取城と歴史的評価

第一節:関ヶ原、大坂の陣、そして植村氏の時代へ

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく揺れ動く。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、城主の本多利久とその子・俊政は徳川家康率いる東軍に与し、主君の会津征伐に従軍していたため高取城は手薄な状態にあった。この機を突いて西軍の部隊が高取城に攻め寄せたが、城に残った本多一族と少数の兵たちは見事に籠城戦を戦い抜き、敵を撃退した 5 。この一戦により、高取城が「難攻不落の城」であることが天下に証明された。

その後の大坂の陣(1614年-1615年)においても、高取城は大坂城の南方を固める徳川方の重要拠点として機能したと推察される 30 。豊臣氏滅亡後、本多氏は高取藩主となったが、後に後継者不在により改易となる 5 。その後、寛永十七年(1640年)に徳川譜代の大名である植村家政が二万五千石で入封し、以降、明治維新に至るまで14代にわたり植村氏が高取藩を治めた 10

平和な江戸時代が続くと、山上の城での日常生活は不便なため、藩主の居館や藩の政庁機能は、山麓に設けられた下屋敷へと移された 3 。山上の城は、象徴的な存在として維持されつつも、実質的な政治の中心は城下町へと移行していったのである。

第二節:日本三大山城としての評価 ― 岩村城・備中松山城との比較

高取城は、岐阜県の美濃岩村城、岡山県の備中松山城と並び、「日本三大山城」の一つとして高く評価されている 36 。これら三城は、いずれも山城でありながら近世的な城郭の姿を留める貴重な史跡であるが、その中でも高取城は際立った特徴を持っている。

特筆すべきは、麓の城下町からの比高(高低差)が約390mに達し、これは日本の城郭の中で最大である 36 。また、城域の広大さにおいても他を圧倒しており、山城としては比類のない規模を誇る 39 。美濃岩村城が日本で最も高い標高(約717m)に築かれ、備中松山城が現存天守を持つ唯一の山城であるのに対し、高取城はその圧倒的な規模と比高において、「天下一の山城」と称するにふさわしい風格を備えている。

【表2:日本三大山城 比較表】

項目

高取城

美濃岩村城

備中松山城

所在地

奈良県高市郡

岐阜県恵那市

岡山県高梁市

標高

約584m

約717m

約430m

比高

約390m(日本一)

約180m

約320m

主な特徴

壮大な総石垣、広大な城域

標高日本一、女城主の悲話

現存天守を持つ唯一の山城

第三節:廃城と史跡としての現在

江戸幕府が崩壊し、明治時代を迎えると、城郭は新たな時代における役割を終える。明治六年(1873年)に発布された廃城令により、高取城も廃城と決定された 14 。これにより、天守や櫓といった城内の壮麗な建造物は、民間に払い下げられて解体されたり、あるいは管理されることなく放置された結果、風雨に朽ち果てていった 13

今日、山上に往時の建物を目にすることはできない。しかし、城の骨格を成す壮大な石垣群は、奇跡的にもほぼ完全な形で残存している。その圧倒的な遺構は、城郭史上極めて貴重な資料として、昭和二十八年(1953年)に国の史跡に指定された 13 。さらに平成十八年(2006年)には「日本百名城」にも選定され、訪れる人々に戦国の世の終焉と、近世の幕開けを告げた巨大山城の記憶を、今なお力強く伝えている。


結論:高取城改修が戦国史に刻んだもの

天正十三年(1585年)を起点とする高取城の大改修は、単なる一城郭の建築史に留まらず、日本の戦国時代から近世へと移行する時代の画期を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。

第一に、この改修は豊臣政権による地方支配戦略の一つの完成形を示している。武力による制圧(紀州征伐)から、検地や寺社勢力の無力化を通じた安定的な領国経営(秀長の統治)、そして支配の権威を可視化する巨大城郭の建設へと至る一連のプロセスは、秀吉が目指した中央集権的な支配体制が、地方においていかにして実現されたかを見事に示している。

第二に、高取城そのものが、日本の城郭思想の劇的な転換を体現する歴史的モニュメントである。非常時に「籠るための城」であった中世山城が、平時においても領国を「支配するための城」、そして権威を「見せるための城」へと、その役割と概念を大きく転換させる過渡期を、これほど雄弁に物語る城郭は他に類を見ない。

今日、高取城に天守はない。しかし、苔むした壮大な石垣の一つひとつが、戦国という時代の終わりと、新たな統一政権の時代の幕開けを、静かに、そして力強く語りかけている。高取城改修が戦国史に刻んだものは、単なる石の構造物ではなく、時代の変革そのものの記憶なのである。

引用文献

  1. 高取城跡 https://www.town.takatori.nara.jp/contents_detail.php?frmId=236
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  36. 日本三大山城 | テーマに沿って城めぐり https://kojodan.jp/badge/10/
  37. 奈良県景観資産-日本三大山城 高取城跡 https://www.pref.nara.jp/46478.htm
  38. 日本三大山城とは!? - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/mountaincastle-big3/
  39. 日本三大山城まとめ - 縄張りマニアの城巡り https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2021/07/17/190000
  40. 石垣がのこる日本三大山城のひとつ【高取城の歴史】をまるっと解説 https://japan-castle.website/history/takatoricastle/
  41. 「高取城」 ~「日本三大山城1」日本一比高が高い城~ [日本100名城No.61]|Kagirohi - note https://note.com/kagirohi_001/n/na413f4062ad5