最終更新日 2025-09-27

高岡城築城(1609)

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慶長十四年 高岡城築城:戦国の遺風と泰平への深謀

序章:慶長十四年の空気—天下泰平下の緊張

慶長十四年(1609年)。世は、徳川家康が関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)で勝利を収めてから九年の歳月が流れていた。江戸に幕府が開かれ、表向きには「天下泰平」の時代が到来したかに見えた。しかし、その水面下では、未だ戦国の遺風が色濃く残り、政治的な緊張の糸が張り巡らされていた。豊臣家は大坂城に健在であり、その存在は徳川の治世にとって無視できない不安定要素であった。

この微妙な時代において、最も特異な立場に置かれていたのが、加賀・能登・越中の三国を領する外様大名筆頭、前田家であった。その石高は公称百万石、実質的には百二十万石に達し、徳川宗家に次ぐ全国第二位の規模を誇っていた 1 。この巨大な勢力は、徳川幕府にとって潜在的な最大脅威であり、常に厳しい警戒の視線が注がれていた 3 。事実、幕府は広島の福島正則や熊本の加藤忠広といった五十万石以上の大名ですら、些細な理由で改易に追い込んでおり、その威光は絶対であった 5 。前田家にとって「天下泰平」とは、決して安寧を意味するものではなく、むしろ自家の存続をかけた恒常的な緊張状態に他ならなかったのである。

本報告書で詳述する高岡城築城は、このような時代背景の中で行われた一大事変である。単なる一地方大名の隠居城建設という表層的な理解では、その本質を見誤ることになる。この築城は、武力による秩序形成が未だ過去のものとはなっていなかった過渡期において、城郭というものが持つ軍事的・政治的な意味合いを最大限に利用した、極めて戦略的な行動であった。「戦国時代という視点」からこの事変を読み解くとき、そこには泰平の世を生き抜こうとする巨大外様大名の深謀遠慮が浮かび上がってくるのである。

第一章:築城の遠因—加賀藩主・前田利長の苦悩と深謀

高岡城築城の計画を理解するためには、その主である加賀藩二代藩主・前田利長の個人的な経験と、彼が置かれた過酷な政治的立場を深く掘り下げる必要がある。彼の行動原理は、豊臣政権末期から徳川政権初期にかけての激動の中で形成されたものであった。

父・利家の死と五大老の継承

豊臣秀吉の死後、父・前田利家は五大老の一人として、急速に台頭する徳川家康との均衡を保つ重石の役割を担っていた 7 。しかし慶長四年(1599年)閏三月、その利家が病没すると、若き利長は父の跡を継いで五大老の一人となり、巨大な前田家を率いて直接家康と対峙する立場に立たされた 9 。父という偉大な庇護者を失った利長の前途には、暗雲が垂れ込めていた。

「慶長の危機」—謀反嫌疑の衝撃

利家没後、事態は利長の予想を超える速さで悪化する。同年九月、五奉行の一人であった増田長盛らの讒言により、利長に「徳川家康暗殺計画の首謀者」という謀反の嫌疑がかけられたのである 7 。家康はこの嫌疑を口実に諸大名に加賀征伐の号令を発し、前田家は存亡の危機に瀕した。世に言う「慶長の危機」である 1 。家中で抗戦か恭順かで激論が交わされる中、利長は家臣の横山長知を家康のもとへ派遣し、弁明に努めた。この事件は、利長に徳川家への拭い難い不信感と、常に最悪の事態を想定せざるを得ないという教訓を深く刻み付けた。

恭順の代償と「隠居政治」の実態

絶体絶命の危機を回避するため、利長は苦渋の決断を下す。慶長五年(1600年)、母・芳春院(まつ)を人質として江戸へ送ることで、徳川家への絶対的な恭順の意を内外に示したのである 2 。これにより加賀征伐は回避されたが、それは同時に、前田家の運命が完全に幕府の掌中にあることを意味した。

この一連の苦い経験を経て、利長は新たな生存戦略を模索する。慶長十年(1605年)、利長はわずか四十四歳で家督を異母弟の利常(当時十二歳)に譲り、自身は越中の富山城へ隠居した 2 。これは幕府に対してこれ以上の野心がないことを示すための政治的ポーズであった。しかし、実態は藩主後見として絶大な権力を保持し続ける「隠居政治」の始まりに他ならなかった 13 。この権力行使の形態は、公式な藩主の立場から一歩引くことで、幕府の直接的な干渉を避けつつ、来るべき有事に備えるための自由な裁量権を確保する、高度な政治戦略であった。つまり、利長の「隠居」は権力の放棄ではなく、守りの姿勢を装いながら攻めの布石を打つための巧妙な偽装だったのである。そして、この「隠居政治」を遂行するためには、万一の際に立て籠もることのできる、強力な私的拠点が必要不可欠であった。

第二章:富山城炎上—天災が呼んだ必然の決断

利長が隠居生活を送っていた富山城は、彼の深謀を現実のものとするには、戦略的に万全とは言えなかった。その折、彼の計画を一気に加速させる事件が発生する。それは天災という、誰にも予測し得ない形で訪れた。

慶長十四年(1609年)三月十八日、富山城下のいたち川端から発生した火災は、立山おろしと呼ばれる強風に煽られ、瞬く間に燃え広がった。火の手は城郭にも及び、隠居城であった富山城はその大部分を焼失してしまったのである 15 。命からがら魚津城へと退避した利長であったが 16 、その動きは驚くほど迅速かつ的確であった。彼は悲嘆に暮れる間もなく、直ちに新たな城の建設へと舵を切ったのである。

この驚異的なスピードは、単なる危機対応能力の高さだけでは説明がつかない。巨大な城の建設地の選定、基本設計、そして幕府からの政治的許可の取り付けといった複雑なプロセスは、通常であれば数ヶ月から数年を要するものである。しかし利長は、火災からわずか一ヶ月足らずでこれらの準備を完了させ、四月には新城の建設に着手している 15 。この事実は、彼が富山城焼失以前から、より堅固な新拠点の構想を具体的に温めていたことを強く示唆している。つまり、富山城の焼失は、彼の計画を実行に移すための、幕府も反対することのできない完璧な大義名分となったのである。

利長は、この好機を逃さなかった。焼失という不可抗力を理由に、駿府にいる大御所・徳川家康と、江戸の将軍・徳川秀忠から、新城建設の許可を正式に取り付けた 11 。近年発見された史料によれば、秀忠は利長に直接許可を伝えていなかったために普請が遅れていると勘違いし、改めて普請の開始を促す書状を送っている 13 。これは、幕府側もこの築城を公に認めていたことを示す動かぬ証拠である。

そして、新たな築城地として選ばれたのが、当時「関野」と呼ばれていた、小矢部川と千保川に挟まれた高岡台地であった 11 。この地は、加賀・能登・越中という前田領国のほぼ中心に位置する地理的要衝であり、河川と沼沢地が天然の防御線となる、まさに城を築くには理想的な場所であった。天災は、利長にとって必然の決断を促す「渡りに船」となったのである。

第三章:関野の原、創造の半年—高岡城築城のリアルタイム・ドキュメント

富山城焼失から幕府の許可取り付けまでを驚異的な速さで終えた利長は、慶長十四年四月、関野の原で前代未聞の突貫工事を開始する。それは、わずか半年で広大な平城を築き上げるという、彼の執念と前田家の総力を結集した巨大プロジェクトであった。その過程は、残された数々の書状から、リアルタイムで追体験することが可能である。

表1:慶長十四年(1609年)高岡城築城関連年表

月日

出来事

関連人物

特記事項

典拠

3月18日

富山城および城下町が火災により焼失。

前田利長

利長は魚津城へ退避。

15

4月6日

幕府より関野での築城許可を得る。

徳川家康、徳川秀忠

焼失を理由とした迅速な許可。

11

4月中旬

築城工事開始。物資揚陸拠点として「木町」を設置。

前田利長

城下町建設の第一歩。

11

5月1日

秀忠が利長に築城開始を促す書状を送る。

徳川秀忠

幕府の公式な承認を示す重要史料。

13

5月中旬

城の地鎮祭を斎行。普請(土木工事)が本格化。

前田利長

11

6月-8月

突貫工事が最盛期を迎える。

前田利長、家臣団

領内から推定約1万人の人夫を動員。利長から督促状が頻発。

11

8月5日

普請が仕上げの段階に入る。

前田利長

強制労働(平夫)を命じる書状も残る。

13

9月13日

利長、高岡城へ正式に入城。

前田利長

家臣562人(一説に434人)を率いる。地名を「高岡」と改める。

11

四月:始動—計画から実行へ

四月、関野の原に最初の槌音が響き渡った 15 。利長がまず着手したのは、兵站線の確保であった。彼は、小矢部川と千保川の合流地点に「木町」を築き、資材や食糧を運び込むための揚陸拠点とした 11 。これは単なる工事拠点ではなく、来るべき城下町の最初の町割りであり、彼の都市計画家としての一面をうかがわせる。

五月〜八月:加速—万を超える人々の力

五月に入ると、地鎮祭が執り行われ、土木工事は一気に本格化した 11 。この時期、利長から家臣へ宛てた書状が数多く残されており、彼がいかに微に入り細を穿ち、このプロジェクトを自ら主導していたかがわかる 13

夏の間、工事は最盛期を迎える。領内各地から推定約一万人の人夫が動員され、関野の原は昼夜を問わず活気に満ちていた 11 。城の石垣に使われる石材は、雨晴海岸や灘浦海岸などから舟で木町まで運ばれ、そこから陸路で城へと搬入された 15 。石には作業を担当した大名や集団を示す百二十八種類もの刻印が刻まれており、この工事がいかに組織的に行われたかを物語っている 15

しかし、その裏では過酷な労働が強いられていた。利長は工事の進捗に苛立ち、「万一に備えた強固な城づくり」を急がせるため、臣下に厳しい督促状を何度も送っている 15 。八月五日付の書状では、未完成部分を完成させるために無償の強制労働(平夫)を命じるなど、その執念は凄まじいものであった 13 。この突貫工事は、単に工期を短縮するためだけのものではなかった。平時において、わずか数ヶ月で一万人規模の人員を動員し、兵站を確保し、巨大な土木工事を完遂する能力は、そのまま戦時における軍隊の動員・展開能力に直結する。利長は、富山城焼失という受動的な状況を逆手に取り、幕府に対して「前田家はこれだけの力を迅速に結集できる」という無言の示威行動を行っていたのである。これは、恭順の姿勢を見せながらも、決して侮れない存在であることを暗に示す、高度な政治的駆け引きであった。

九月:完成、そして入城

そして九月十三日、工事開始からわずか半年足らずで、城の主要部分が完成する。利長は主だった家臣を率いて、未だ普請の槌音が響く新城へ堂々と入城を果たした 11 。この時、彼は古代中国の詩経の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり、彼の高き岡に)」にちなみ、この地を「関野」から「高岡」へと改めた 19 。それは、新たな時代の幕開けを告げる、高らかな宣言であった。

第四章:「隠居城」にあらざる城—高岡城の構造と戦略的意図

慶長十四年九月、関野の原に出現した高岡城は、その名目である「隠居城」という言葉とは全く相容れない、戦国の気風を色濃く反映した巨大な要塞であった。その縄張(設計)と構造を詳細に分析するとき、利長が抱いていた真の戦略的意図が浮かび上がってくる。

縄張の思想—防御への執念

まず驚かされるのは、その規模である。高岡城の城郭は約21万平方メートルに及び、その広さは藩庁が置かれた金沢城の二倍にも達したと伝えられる 16 。そして、城域の実に三分の一以上を占めていたのが、広大な水堀であった 19 。当時の主要兵器であった鉄砲の射程に対応するため、堀の幅は約30メートルも確保されていた 15 。さらに、築城地の沼沢地という自然地形を巧みに利用し、城の鬼門にあたる北東側にはあえて堀を設けず、騎馬や兵の進行を阻む泥沼を天然の要害とした 16 。これは、自然を味方につける戦国以来の築城術の精華であった。

防御の核心—「連続馬出」

高岡城の防御思想を最も象徴するのが、「連続馬出(れんぞくうまだし)」と呼ばれる縄張である。馬出とは、城門の前面に設けられた小さな区画のことで、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃を加えるための防御施設である。高岡城では、本丸、二の丸、三の丸、鍛冶丸など七つの郭(区画)が土橋によって数珠つなぎに配置されていた 15 。これにより、敵が本丸へ攻め込もうとすれば、迷路のような郭を次々と攻略せねばならず、その過程で各郭に配置された守備兵から十字砲火を浴びることになる。この複雑かつ堅牢な構造は、築城技術が高度に発達した近世初頭の縄張をほぼ完璧な姿で今に伝える、全国的にも極めて貴重な遺構である 21

設計者は誰か—高山右近か、利長自身か

この先進的な要塞を設計したのは一体誰なのか。古くから通説として語られてきたのが、築城の名手として知られるキリシタン大名・高山右近の存在である 16 。右近は豊臣秀吉のバテレン追放令により所領を没収された後、利長に客将として庇護されていた。幕府によるキリシタン禁教令が厳しさを増し、国外追放を目前に控えた右近の類稀なる才能を惜しんだ利長が、その功績を後世に残すための「名残の城」として設計を任せた、という物語である 16

しかし、近年の研究ではこの通説に疑問が呈されている。史料を精査すると、高岡城築城の時期、右近はすでに藩の中枢業務から離れて信仰活動に没頭しており、これほどの大事業に関与したとは考えにくい 23 。一方で、利長自身が築城や城下町の配置に関して極めて詳細な指示書を多数残していることから、彼自身が設計者であったとする説が有力視されるようになっている 13

いずれにせよ、高岡城の設計思想が、居住性よりも防御機能を徹底的に優先した実戦本位のものであったことは疑いようがない。居住空間である本丸を比較的小さく抑え、その周囲を幾重もの防御施設で固めるという構造は、「隠居」という目的とは完全に矛盾している。この「名目と実態の著しい乖離」こそが、この城の本質を解く鍵である。利長は、幕府に提出する「隠居城を築く」という建前と、現場で実行する「対徳川戦を想定した要塞を造る」という本音を巧みに使い分けていた。高岡城そのものが、彼の二重戦略の物的証拠なのである。

第五章:わずか五年の城主—利長の死と一国一城令の奔流

心血を注いで築き上げた難攻不落の城、高岡城。しかし、利長がこの城の主であった期間は、驚くほど短かった。そして城自身もまた、時代の大きな奔流に飲み込まれ、劇的な運命をたどることになる。

束の間の平穏と利長の死

高岡城に入城した後も、利長は二の丸の門や隅櫓の増築を命じるなど、城の完成度を高める努力を続けていた 11 。しかし、彼の身体はすでに病魔に蝕まれていた。悪性の腫物(梅毒によるものと見られている)が悪化し、政治の表舞台から徐々に遠ざかっていく 9 。そして慶長十九年(1614年)五月二十日、利長は波乱の生涯を閉じた。享年五十三。高岡城にて、その巨星は墜ちた 11 。彼がこの城で過ごした歳月は、わずか五年に満たなかった。

利長の死後、天下は再び大きく動く。同年冬、豊臣家と徳川家の対立が頂点に達し、大坂冬の陣が勃発。翌年の夏の陣へと続くこの戦乱において、高岡城は徳川方の拠点として兵が配置され、その軍事的重要性を証明した 11

一国一城令と高岡城の廃城

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川による天下統一が完成すると、幕府は矢継ぎ早に新たな支配体制の構築に着手する。その総仕上げとも言える政策が、元和元年(1615年)に発布された「一国一城令」であった。これは、一国(一藩)に藩主の居城一つを残し、それ以外の支城をすべて破却させるという法令であり、全国の大名、特に豊臣恩顧の外様大名の軍事力を削ぐための決定的な一撃であった 24

この法令により、完成からわずか六年、一度も実戦を経験することなく、高岡城は廃城の運命を宣告された 15 。城内の建物はことごとく破却され、その歴史に幕を下ろしたのである。

興味深いのは、この時、加賀藩は将軍家との深い姻戚関係などを理由に特例として、本城の金沢城に加えて、南加賀の拠点である小松城の維持を認められていた点である 24 。なぜ、利長が心血を注いだ最新鋭の要塞である高岡城が、あっさりと破却の対象となったのか。ここに、三代藩主・利常の冷徹な政治判断が見て取れる。高岡城こそが、その比類なき防御性能ゆえに、最も幕府の警戒を招く「火種」であった。利常は、この「火種」を自らの手で消し去るというパフォーマンスを幕府に見せることで、絶対的な恭順の意を示し、加賀百万石という巨大な藩体制を維持するという、より大きな利益を選択したのである。高岡城は、その築城も廃城も、徹頭徹尾、前田家の対幕府戦略の駒として利用されたと言えよう。それは、藩全体の安泰を確保するための、計画された犠牲であった。

第六章:城を失い、町を得る—商工業都市・高岡の誕生とレガシー

城を失った城下町は、その存在意義を失い、衰退の一途をたどるのが常である。高岡も例外ではなかった。廃城により、城に仕えていた武士階級は藩都・金沢へ引き上げ、町は急速に活気を失い、存亡の危機に瀕した 15 。しかし、この危機的状況から、高岡は驚くべき再生を遂げる。それは、三代藩主・前田利常の卓越した都市経営手腕によるものであった。

利常の再興策—城下町から商工の町へ

利常は、兄・利長の遺志を継ぎつつも、時代の変化を冷静に見据えていた。彼は、高岡を軍事拠点として再生させるのではなく、城下町から商工業の町へと転換させるという大胆な政策を打ち出す 15 。まず、人心の流出を防ぐため、高岡町民が他の土地へ転出することを固く禁じた 15 。その上で、麻布の集散地としての特権を与え、魚や塩の問屋を創設させるなど、商業拠点としての機能を次々と強化していったのである 28

鋳物産業の育成—利長の遺産

この都市転換において、決定的な役割を果たしたのが鋳物産業であった。利長は築城と並行して、領内から七名の優れた鋳物師を招聘し、現在の金屋町に工場と宅地を与え、手厚く保護していた 30 。これは元来、有事の際の兵器生産をも視野に入れた軍事政策の一環であった。利常は、利長が遺したこの「ものづくりの種」を最大限に活用し、鍋や釜といった日用品から、梵鐘や銅像などの美術工芸品まで、平和な時代の需要に応える産業へと発展させた。高岡銅器は、やがて藩を代表する特産品となり、町の経済的基盤を盤石なものとした 26

城跡の巧みな利用—二重の意図

利常の政策の巧妙さは、廃城となった城跡の利用法に最もよく表れている。彼は、高岡城の本丸跡に、藩の米蔵と塩蔵を設置したのである 15 。これは表向きには、高岡を藩の物流拠点、すなわち「加賀藩の台所」 26 として発展させるための経済政策であった。しかし、その裏にはもう一つの深謀があった。蔵の維持管理という平和的な名目を掲げることで、幕府に干渉の口実を与えることなく、城の広大な堀や堅固な土塁といった軍事的価値を持つ遺構を、ほぼ完全な形で合法的に保存することに成功したのである 34

こうして高岡は、利長の「軍事都市」構想と、利常の「経済都市」構想という、二人の藩主によるビジョンのリレーによって、危機を乗り越え、日本有数の商工業都市へと発展を遂げた。そして明治時代、城跡が民間へ払い下げられ、破壊される危機に瀕した際には、町民の誇りであった城跡を守ろうと、服部嘉十郎ら市民が熱心な保存運動を展開し、公園として未来へ遺すことに成功した 15 。利長の夢と利常の現実的政策、そして町衆の情熱が融合し、今日の高岡の礎が築かれたのである。

終章:高岡城が語るもの

慶長十四年の高岡城築城は、単なる一つの城の建設に留まらない、多層的な歴史的意義を持つ事変であった。

第一に、この城は前田利長という一人の武将が、戦国の緊張が残る過渡期をいかに生き抜こうとしたか、その深謀遠慮の結晶であった。彼の生涯を彩る苦悩と決断、そして幕府との絶え間ない政治的緊張関係が、高岡城の隅々にまで刻み込まれている。その構造は「隠居城」の名を借りた紛れもない「要塞」であり、泰平の世における武家の生存戦略を雄弁に物語る。

第二に、築城からわずか六年での廃城、そして商工業都市への劇的な転換という歴史は、外部環境の激変に柔軟に対応し、危機を好機に変えた前田家の卓越した統治能力の証左である。利長の軍事的ビジョンが遺した産業の種を、利常が見事な経済的ビジョンで開花させた。この二代にわたるビジョンの継承と発展こそが、高岡という町に強靭な生命力を与えたのである。

そして今日、高岡城跡が、築城当時の縄張をほぼ完全な形で留めているという事実は、奇跡的と言っても過言ではない 13 。それは、利常の巧妙な保存策と、近代における市民の熱意の賜物である。水堀に囲まれた緑豊かな公園として市民に親しまれるその姿は、四百年の時を超え、我々に静かに語りかける。戦国の夢、泰平への願い、そして町を愛する人々の心が、この地に幾重にも重なっているのだと。高岡城は、過去の遺構であると同時に、未来へと続く町のアイデンティティそのものなのである。

引用文献

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  6. 加賀百万石・前田家は江戸時代から幕末にかけて何をしていた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=drg19QAV7i4
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