戦国日本に渡来したアラブ馬は、異質性と美しさで権力者の象徴に。日本の馬産に影響なく、世界観を広げ南蛮貿易の象徴として歴史に刻まれた。
16世紀後半、日本は織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業が進行し、長く続いた戦乱の時代が終わりを告げようとしていた。時を同じくして、ポルトガル人が乗る南蛮船が日本の港に来航し、鉄砲やキリスト教といった新たな技術と思想だけでなく、それまで日本人の誰もが目にし、耳にしたことのない珍奇な文物をもたらした 1 。象やインコ、見たこともない意匠の織物やガラス製品。それらは、日本の社会構造と人々の世界観に、静かでありながら決定的な変革を促す触媒となった。
この南蛮貿易がもたらした数々の「宝物」の中に、「小形で均整のとれた優美な馬」がいたという記録が残されている。性質は温厚で粗食に耐え、速力と持久力に富むその馬は、一般に「アラブ馬」として知られる。しかし、この簡潔な説明だけでは、その馬が戦国という激動の時代に生きた人々、とりわけ天下人たちの目にどのように映り、いかなる意味を持っていたのかを解き明かすことはできない。
本報告書は、この「アラブ馬」を戦国時代という特定の歴史的文脈の中に置き、その実像を徹底的に解明することを目的とする。単なる珍しい動物という表層的な理解に留まらず、それが日本在来の馬文化といかに対峙し、当時の人々の価値観や美意識にどのような衝撃を与えたのか。そして、武士社会における贈答文化や権威の象徴として、いかに特異な役割を果たしたのかを、同時代の記録と美術史料を横断的に分析することで明らかにしていく。果たして戦国時代の人々にとって「アラブ馬」とは、単なる異国の珍獣だったのか。それとも、より深い意味を宿した文化的シンボルであったのか。この問いの探求を通じて、グローバル化の黎明期における日本と世界の邂逅の一断面を鮮やかに描き出す。
アラブ馬が日本にもたらした衝撃の正体を理解するためには、まず、その馬自身の実像と、それが遭遇した日本の馬文化の土壌を正確に把握する必要がある。本第一部では、物語の二つの主役である「アラブ馬」と「日本在来馬」の出自と特性をそれぞれ徹底的に解明し、両者の差異を鮮明に浮き彫りにする。
現代において「アラブ馬」は明確な品種として確立されているが、16世紀の文脈でこの言葉が何を指していたのかを理解するには、その歴史的背景と当時の認識を深く掘り下げる必要がある。
アラブ馬は、アラビア半島を原産地とする、現存する馬の品種の中で最も古い歴史を持つ改良種の一つである 3 。考古学的証拠によれば、紀元前2500年頃にはすでにその原型が存在したとされ、砂漠の遊牧民ベドウィンによって、数千年にわたり厳格な育種が行われてきた 5 。
ベドウィンにとって馬は単なる家畜ではなく、家族の一員であり、部族の誇りの象徴であった。過酷な砂漠の環境下で、水や食料が限られる中、彼らはデーツ(ナツメヤシの実)やラクダの乳を与えて馬を養ったという 5 。夜間の寒さや敵からの盗難を避けるため、特に価値の高い牝馬や仔馬は、人間と同じテントの中で寝起きすることもあった 5 。このような密接な共生関係は、アラブ馬の特異な気質を形成する上で決定的な役割を果たした。
アラブ馬の外見は極めて特徴的であり、一目でそれと分かる優美さを備えている。小さなくぼんだ顔(ディッシュフェイスと呼ばれる)、大きく表情豊かな目、白鳥の首に喩えられるしなやかな頸、そして高く掲げられた豊かな尾は、均整のとれた芸術品のような印象を与える 5 。体高は約140cm台から150cm台と、現代の競走馬であるサラブレッドに比べれば小柄だが、その身体には驚くべき能力が秘められている 3 。
その能力の中核をなすのが、並外れた持久力と耐久性である。砂漠の長距離移動と部族間での奇襲攻撃という厳しい淘汰圧に晒され続けた結果、強靭な骨格と無尽蔵ともいえるスタミナを獲得した 5 。速力においてもサラブレッドには及ばないものの、その俊敏性は高く評価されている 3 。
気質は、優しさと激しさという二面性を併せ持つ。人間と共に育つ環境は、人によく懐き、知能が高く、乗り手とのコミュニケーション能力に優れた穏やかな性格を育んだ 5 。しかし、それは単なる従順さとは異なる。戦場での奇襲や戦闘においては、勇敢さ、警戒心、そして激しい気性もまた不可欠な資質であった。このため、アラブ馬は非常に敏感で、不適切な扱いや暴力的な調教を許容しない、誇り高い精神を持つに至ったのである 5 。
戦国時代の日本にもたらされた「アラビア馬」が、現代の血統登録制度に基づく厳密な意味での「純血アラブ種」であったと断定することはできない。むしろ、より広範な文脈で捉える必要がある。
16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、サラブレッドという品種が誕生する以前、優れた馬の血統を求めて東方に目が向けられていた。オスマン帝国やペルシャ、北アフリカといった地域から輸入される高性能な馬は、「アラビアン」「ターク(トルコ馬)」「バーブ(バルブ馬)」などと総称された 10 。これらはしばしば混同され、地理的な出自よりも「オリエント世界からもたらされた優れた馬」という共通のカテゴリーで認識されていた。事実、近代競馬の礎となったサラブレッドの三大始祖(ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリーターク)も、すべてこれらの東方馬である 3 。
この歴史的背景を鑑みると、戦国時代の日本へこの馬を運んだポルトガル商人たちが、その馬を「アラビア馬」と呼称したことには、多分に戦略的な意図が含まれていた可能性が高い。当時のヨーロッパ人にとってさえ、その区別は流動的であった 10 。彼らは、日本での取引価値を最大化するため、最も高貴で神秘的な響きを持つ「アラビア」という呼称を選択的に用いたのではないだろうか。
受け取る側の日本人にとって、その馬の正確な産地がシリアなのか、トルコなのか、あるいはペルシャなのかといった地理的情報は、ほとんど意味を持たなかったであろう。重要なのは、それが「南蛮の遥か彼方から来た、見たこともない素晴らしい馬」という事実そのものであった。結果として、「アラビア馬」という言葉は、単なる品種名としてではなく、異国からもたらされる最高級品としての「ブランド名」として機能したと考えられる。その名称は、馬自体の物理的な特性だけでなく、未知の世界への憧れ、異国情緒、そしてそれを所有しうる者の権威といった、数々の無形の価値を包含する強力な記号(シンボル)となったのである。
アラブ馬が日本の地を踏んだ時、そこには既に数世紀にわたって武士の文化と深く結びついた、独自の馬の世界が広がっていた。それが日本在来馬の世界である。
古墳時代に大陸から渡来したとされる馬は、日本の風土に適応し、各地で独自の進化を遂げた 13 。戦国時代においても、木曽馬(長野県)、御崎馬(宮崎県)、対州馬(長崎県)などに代表される、現在「日本在来8種」として知られる馬たちが、武士の足や荷駄として活躍していた 14 。
これらの馬に共通する最大の特徴は、その小柄な体格である。発掘された骨格や文献記録から、当時の在来馬の平均体高(地面から肩までの高さ)は130cm前後であったと推定されている 14 。これは、体高147cm以下を指す現代の「ポニー」の基準に完全に合致する 15 。しかし、この体格は、当時の日本人男性の平均身長が160cmに満たなかったことを考慮すれば、決して不釣り合いなものではなく、むしろ人馬一体となるのに適したサイズであった 18 。
日本在来馬の体型は、全体的にずんぐりとしており、頭部が大きく、首や脚は太く短い 14 。この頑健な体躯は、日本の険しい山道を踏破し、重い荷物を運ぶのに適していた。特に、前後の肢を片側ずつ同時に動かす「側対歩」という独特の歩様は、荷の揺れが少なく、長距離の輸送に有利であったとされる 14 。また、蹄は非常に硬く、蹄鉄を打つ必要がないほど強健で、粗末な飼料にもよく耐えた 14 。
戦場においては、その小柄な体格と頑丈さが大きな利点となった。騎馬武者を乗せて山野を駆け巡る機動力として、また、兵糧や武具を運ぶ荷駄馬として、軍団の生命線を支える不可欠な存在であった 19 。その性格は比較的温和で扱いやすかったと伝えられている 14 。
武士の台頭と共に、馬上での戦闘技術も高度に発展した。室町時代には、大坪流や小笠原流といった馬術の流派が確立され、戦場での乗馬技術が体系化された 22 。これらの馬術は、特に馬上から弓を射る「騎射」を重視しており、疾走する馬上で安定して弓を構えるための乗り方が追求された。
その思想は、日本の馬具にも色濃く反映されている。和鞍(わぐら)は、騎手が腰を深く沈め、安定した姿勢を保てるように作られている。また、鐙(あぶみ)は足を置く部分が広く、踏ん張りが効きやすい形状をしており、これらはすべて騎射に適した工夫であった 25 。西洋の馬術とは全く異なる思想の下で、独自の進化を遂げたのである。
日本では古来、馬は単なる動物ではなく、神聖な存在として捉えられてきた。馬は神の乗り物、すなわち「神馬(しんめ、じんめ)」と信じられ、神社に生きた馬を奉納する信仰が広く存在した 28 。特に、清浄を象徴する白馬は晴天を祈る際に、万物を育む雨を願う際には黒馬が奉納されるなど、馬の毛色は自然への祈願と深く結びついていた 30 。馬は、神と人間とを繋ぐ媒介者としての役割を担っていたのである。
このように、戦国時代の日本人が慣れ親しんでいたのは、生活と戦に密着した、頑丈で実用的な小型の馬であった。彼らの「馬」という概念は、この在来馬の姿形と特性によって形成されていた。
そこへ突如として現れたのが、アラブ馬であった。史料が記録するアラビア馬の体高は五尺(約150cm)余り 16 。在来馬との体高差は20cm以上にもなる。これは、現代人が想像する以上の視覚的、そして心理的なインパクトを当時の人々に与えたに違いない。彼らが日々目にし、乗りこなしてきた「馬」とは全く異なるスケール感。それは、単に「大きい」という事実を超えて、畏怖の念すら抱かせるものであっただろう。
さらに衝撃的だったのは、その「美」の異質性である。ずんぐりとして力強い機能美を持つ在来馬に対し、アラブ馬は、鶴のような首、引き締まった体躯、高く掲げられた尾を持つ、まるで生きた彫刻のような洗練された美しさを誇っていた 5 。これは、機能性を第一とする日本の馬文化の中に、全く異なる「美意識」の基準が持ち込まれたことを意味する。それは、単に「大きな馬」ではなく、「美しい馬」という、新しい価値観の提示であった。
この「大きさ」と「美」という二重の衝撃こそが、アラブ馬が当時の日本人に与えたインパクトの根源である。この圧倒的な異質性こそが、アラブ馬を単なる珍しい動物から、後の天下人をして感嘆せしめる特別な存在へと昇華させ、権力者の威信を象徴する役割を担わせるに至った決定的な要因だったのである。
表1:アラブ馬と日本在来馬(戦国期)の比較
項目 |
アラブ馬(16世紀当時) |
日本在来馬(木曽馬など) |
呼称 |
アラビア馬、オリエントの馬 |
木曽馬、御崎馬など。総称して和種馬。 |
原産地/主な生息地 |
アラビア半島、オスマン帝国、ペルシャなど広範なオリエント世界 4 |
日本列島各地(長野、宮崎、北海道など) 14 |
平均体高 |
約150cm余 3 |
約130cm前後(ポニーに分類) 14 |
体型の特徴 |
優美で均整の取れた体型。ディッシュフェイス、大きな目、しなやかな首、高く掲げた尾 5 。 |
ずんぐりとした体型。頭部が大きく、首や脚が太く短い。頑健な印象 14 。 |
気質 |
穏やかで知能が高いが、敏感で激しい一面も持つ。人間との協調性が高い 5 。 |
比較的温和で、粗放な飼養管理によく耐える。体質強健 14 。 |
主な能力/役割 |
持久力、耐久性に極めて優れる。奇襲や長距離移動に用いられた 3 。 |
険しい山道での運搬能力に長ける。騎馬武者の乗用、荷駄輸送 21 。 |
文化的意味合い |
異国からもたらされた富と権威の象徴。最高級の贈答品 33 。 |
神の乗り物(神馬)としての神聖性。生活と戦に密着したパートナー 22 。 |
アラブ馬の日本渡来は、単なる伝聞や推測ではない。それは、同時代に生きた人々の手によって、文字と絵画という二つの形で明確に記録されている。本第二部では、この歴史的な邂逅の具体的な姿を、一次史料と美術作品の分析を通じて検証する。
日本史上、アラブ馬が最も劇的な形で登場する舞台は、豊臣秀吉が権勢の頂点にあった時代の京都である。主役は、遥かヨーロッパへの旅から帰国したばかりの天正遣欧少年使節であった。
天正10年(1582年)に長崎を出帆した伊東マンショ、千々石ミゲルら4人の少年使節は、ローマ教皇に謁見するという大役を果たし、8年半もの歳月を経て日本の土を再び踏んだ 35 。彼らが関白豊臣秀吉に謁見したのは、帰国から約1年後の天正19年(1591年)3月3日、絢爛豪華を極めた秀吉の政庁兼邸宅、聚楽第においてであった 16 。この謁見は、イエズス会にとってはヨーロッパでの厚遇と布教の成果を日本の最高権力者に披露する絶好の機会であり、使節団はヨーロッパ各地で得た数々の珍しい品々を献上品として携えていた 36 。
この歴史的な日の出来事は、複数の同時代人によって記録されている。その中でも特に客観的な証言として価値が高いのが、公家や神官といった、キリスト教とは直接的な利害関係のない第三者の日記である。
公家の西洞院時慶が記した『時慶卿記』、そして吉田神社の神官であった吉田兼見の『兼見卿記』には、この日の聚楽第への行列の様子が記されている。両者の記述は、行列の先頭を「五尺余の馬」が進み、その雄大な姿が道中の見物人すべての度肝を抜いた、という点で一致している 16 。前章で論じた通り、在来馬の平均体高が約130cm(四尺三寸程度)であったことを考えれば、体高五尺(約152cm)を超えるこの馬の姿は、まさに「巨人」と呼ぶにふさわしいものであった。これらの記録は、アラブ馬が当時の日本社会に与えた視覚的な衝撃の大きさを裏付ける、動かぬ証拠と言える。
この歴史的な謁見の場には、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも同席していた。彼が後に編纂した『日本史』には、この時の様子がより詳細に、そして生き生きと描写されている。
フロイスによれば、秀吉は使節団が献上した数々の品々の中でも、とりわけこの一頭のアラビア馬に心惹かれたという 16 。謁見の後、聚楽第の広場でポルトガル人の調教師による巧みな馬術が披露されると、秀吉はその馬の速さ、美しさ、そして何よりもその大きさに感嘆し、賛辞を惜しまなかったと記されている 34 。この記述は、馬が単なる外交儀礼の道具として形式的に受け取られたのではなく、天下人である秀吉個人の好奇心と所有欲を強く刺激する、特別な存在であったことを明確に示している。
この献上は、様々な思惑が交錯する高度な政治的パフォーマンスであった。イエズス会側は、この類稀なる馬を献上することで、キリスト教世界の威光と、秀吉への忠誠を示そうとした。一方の秀吉は、これを受け取ることで、自らの権威が遠く南蛮の地にまで及んでいることを内外に誇示し、その威信をさらに高めることができた。聚楽第に響いた驚嘆の声は、まさに二つの世界が交錯した瞬間の響きだったのである。
文字による記録と並び、アラブ馬の存在を今に伝えるもう一つの重要な証拠が、南蛮美術の傑作として知られる『南蛮屏風』である。そこに描かれた姿は、この馬が当時の人々の目にどのように映っていたのかを雄弁に物語っている。
安土桃山時代、16世紀末から17世紀初頭にかけて、狩野派の絵師・狩野内膳によって制作されたとされる一双の六曲屏風は、現存する数多くの南蛮屏風の中でも最高傑作の一つと評価されている 39 。金箔地の上に極彩色で描かれたこの屏風は、右隻に日本の港(長崎と推定される)に到着した南蛮船からの荷揚げ風景と上陸したカピタン・モール(船隊司令官)の一行を、左隻には想像上の異国の港から出航する様子を描く、南蛮屏風の典型的な構図をとっている 40 。
注目すべきは、右隻の中央を行進するカピタン・モールの行列である。その中に、一頭の優美な馬がはっきりと描かれている 43 。黒い馬体に、豪華な装飾が施された赤い馬具を装着し、従者に手綱を引かれて進むその姿は、周囲の喧騒の中でひときわ異彩を放っている。
その描写は、日本の在来馬とは明らかに一線を画す。引き締まったスマートな体躯、すらりと伸びた細い四肢、そして優雅な立ち姿は、まさに理想化された「異国の駿馬」そのものである。この馬は、同じく南蛮渡来の珍獣として知られる象や、すらりとした体型のグレイハウンド種の洋犬と共に描かれており、これらがセットで「異国からもたらされた富と珍奇さ」を象徴する重要なアイコンとして認識されていたことを示唆している 33 。
この『南蛮屏風』に描かれたアラブ馬は、単なる写実的な記録画として捉えるべきではない。むしろ、それは当時の人々の「願望」を投影した、意図的に構築された理想像と解釈するのが妥当である。
第一に、この種の屏風は、南蛮貿易の当事者や、それを後援することで利益を得ていた大名や豪商といった、貿易に肯定的なパトロンからの注文によって制作された可能性が極めて高い。したがって、画家である狩野内膳は、注文主の意図を汲み取り、南蛮貿易がもたらす活気、富、そして異国情緒といった魅力を最大限に引き出すための演出を画面の随所に施したと考えられる。
第二に、その演出の中で、アラブ馬は極めて重要な役割を担わされている。行列の中心人物であるカピタン・モールのすぐ近くに描かれたこの馬は、彼の権威と、彼がもたらす莫大な富を象徴する「動く宝物」として機能している。その姿は、現実の馬以上に優美に、そして高貴に理想化されている。
したがって、我々がこの屏風に見るのは、当時の貿易風景の単なるスナップショットではない。それは、当時の人々が南蛮貿易という未知の現象に「何を夢見ていたか」を映し出す鏡なのである。黄金の屏風に描かれたアラブ馬は、そのきらびやかな夢を乗せて走る、最も象徴的な存在として、永遠の時を刻んでいるのだ。
アラブ馬の渡来は、日本の歴史にどのような痕跡を残したのか。本第三部では、この一過性の出来事が戦国時代の日本社会に与えた多角的な影響を考察し、その歴史的意義を結論付ける。
アラブ馬が持つ本来の価値は、その優れた持久力や速力といった軍事的な実用性にある。しかし、戦国時代の日本においては、その価値は全く異なる次元へと昇華された。それは、武力の実体としてではなく、権力者の威信を飾る象徴としての価値であった。
戦国時代、馬は武士にとって不可欠な戦力であると同時に、極めて重要な政治的・社会的な意味を持つ存在であった。織田信長は、武田信玄や伊達輝宗、佐竹義宣といった各地の有力大名から名馬を献上される一方で、自らも家臣や同盟相手に優れた馬を贈ることで、主従関係の確認や同盟の強化を図っていた 38 。名馬は、名刀や高価な茶器と並び、武士社会における社会的地位と名誉を示す、第一級のステータスシンボルだったのである 38 。
天正遣欧少年使節がもたらしたアラビア馬は、この日本の贈答文化の文脈の中に、突如として投じられた。奥州や関東といった国内の名馬産地から献上される馬でさえ、天下人である信長を喜ばせたが 46 、アラビア馬の価値はそれらとは全く異質であった。海を越えて、世界の果てから運ばれてきたというその出自。日本中の誰もが見たことのないその優美な姿と大きさ。その比類なき希少性と異国性は、既存の国内の名馬とは一線を画す、絶対的な価値をこの馬に与えた。
豊臣秀吉がこの馬を「とりわけ気に入った」 34 のは、単に馬好きであったからという理由だけでは説明できない。それは、天下人である自分にこそふさわしい、唯一無二の「至宝」を手に入れたという、政治的・心理的な満足感の表れであったと推察される。この馬を所有し、披露することは、自らの権威が日本国内に留まらず、遠く南蛮世界にまで及んでいることを可視化する、この上ない手段だったのである。
当時の日本人が、異国の動物に対して抱いていた感情は、単純な好奇心だけではなかった。そこには、畏敬と、時に不気味さすら入り混じった複雑な眼差しがあった。例えば、宣教師ヴァリニャーノが信長に献上したアフリカ出身の黒人男性・弥助について、フロイスは当初、明智光秀が彼を「動物で何も知らず」と評したと記録している 47 。また、日本の民俗世界では、狐や狸は人を化かしたり、憑依したりする妖怪として、畏怖の対象であった 49 。
アラブ馬もまた、こうした「理解を超えた存在」として認識された可能性がある。それは、神の乗り物として神聖視される在来の「神馬」とも 29 、不気味な力を持つ「妖怪」とも異なる、全く新しいカテゴリーに属する「驚異の動物」であった。その圧倒的な美しさと大きさは、人々の理性を超え、畏敬の念を抱かせるに十分なものであり、だからこそ、それは実用的な家畜ではなく、天下人の威光を飾るための特別な象徴として受容されたのである。
これほどまでに賞賛されたアラブ馬は、その後の日本の馬産に何らかの影響を与えたのだろうか。すなわち、その優れた血は、日本の地に根付くことになったのか。この問いに対する答えは、アラブ馬の日本における受容のあり方を考える上で、極めて重要である。
結論から言えば、天正遣欧少年使節によって献上されたアラビア馬が、日本で繁殖に用いられたことを示す直接的な記録は、現存するいかなる史料からも見出すことができない。献上された個体が牡馬であったのか、牝馬であったのか、あるいは去勢されていたのかさえも不明である。この一点の記録の不在は、その後の歴史を大きく左右した。
では、なぜ繁殖は行われなかったのか。飼料や気候の違いといった技術的な問題も考えられるが、より本質的な理由は、その馬が日本でどのように受容されたかという、文化的な側面に求めることができる。
実用的な観点から見れば、優れた資質を持つ外国産の種牡馬を導入し、在来種と交配させて品種改良を図ることは、極めて合理的な発想である。事実、明治時代以降の日本では、軍馬改良や競馬の発展のために、まさにその目的でアラブ種やサラブレッド種が積極的に導入された 51 。
しかし、戦国時代に献上されたアラブ馬は、そのあまりの異質性と希少性ゆえに、日常的な「家畜」や「生産財」という範疇を完全に超越してしまった。それは、城の天守閣に飾られる「九十九髪茄子」のような名物茶器にも似て、「使う」ことよりも「所有する」こと自体に価値が見出される、一種の「美術品」として扱われたのである。日本の「神馬」信仰に見られるように、特別な馬を神聖なものとして日常から切り離し、丁重に祀り上げるという文化的な土壌も、この傾向を後押しした可能性がある 29 。この「生きた宝物」を、ありふれた在来の牝馬と交配させるという発想自体が、その神聖な価値を毀損する不敬な行為と見なされたとしても不思議ではない。
したがって、繁殖が行われなかったという「史実の不在」は、単なる記録の欠落を意味するのではない。それは、このアラブ馬が戦国期の日本において、いかに特異で、いかに「実用」からかけ離れた純粋な象徴的存在であったかを、逆説的に証明しているのである。それは孤高の存在であり、その血を広めることなく、一代限りの輝きを放って歴史から姿を消したのだ。
ここで明確にしておくべきは、戦国時代のアラブ馬の渡来と、明治以降に本格化し、昭和期の地方競馬の屋台骨を支えた「アングロアラブ」の歴史との間には、直接的な血統の繋がりは一切ないという点である 53 。アングロアラブは、近代的な競馬の要請に基づき、アラブ種とサラブレッド種を計画的に交配して作出された全く別の品種である。
しかし、「アラブ」という言葉が持つ「速力と持久力に優れた、高貴で美しい馬」という文化的イメージは、時代を超えて日本人に受け継がれてきた。その意味において、戦国時代の邂逅と近代競馬の隆盛との間には、血脈の連続性はないものの、間接的な文化的連続性を見出すことができるかもしれない。
本報告書で検証してきた通り、戦国時代の日本にもたらされた「アラブ馬」は、軍事力や経済性といった実用的な価値を遥かに超えた、きわめて象徴性の高い存在であった。それは、武士社会における贈答文化の頂点に君臨する「威信の象徴」であり、グローバルな交流が始まった時代の「未知なる世界の具現化」であり、そして何よりも、戦国の荒々しい気風の中に生きる人々の美意識を根底から揺さぶる「生きた芸術品」であった。
アラブ馬の渡来が、日本の馬産や戦術を直接的に変革することはなかった。その血は日本の大地に広まることなく、歴史の舞台から静かに姿を消した。しかし、その影響は皆無ではなかった。その存在は、天下人の権威を華やかに飾り、狩野派の絵師たちの想像力を刺激し、そして何よりも、戦国時代に生きた人々の世界認識の地平を、物理的にも精神的にも押し広げたのである。
聚楽第に響いたであろう万座の驚嘆の声と、黄金の屏風に永遠に刻まれたその優美な姿。それらは、大航海時代という大きな歴史のうねりが、日本の戦国時代という岸辺に打ち寄せた、小さくも鮮烈な光の一筋として、今なお我々に多くを語りかけている。それは、異なる文化が出会う時に生まれる衝撃と、畏敬と、そして新たな価値創造の可能性の物語なのである。