小笠原流「一張弓」は武家の最高位免許。権威と精神性を象徴し、実戦性・儀礼的価値・美術工芸品としての側面を持つ。将軍の正統性を裏付ける神器。
日本の戦国時代は、下剋上を是とする実力主義が支配する一方で、伝統的な権威や格式が極めて重要な意味を持つ、二律背反の時代であった。この複雑な社会構造の中で、武家の棟梁たる者の資格を象徴する至高の存在として、小笠原流弓術の奥義に「一張弓(いっちょうゆみ)」は位置づけられる。
室町時代にその名が現れ、戦国、江戸時代を通じて継承されたこの弓は、単なる武器としての性能を超越し、武家の精神性、最高位の技術、そして統治者の正統性を凝縮した文化的象徴であった 1 。その存在は、免許を得た者のみが使用を許されるという排他性、そして「曼荼羅弓(まんだらゆみ)」「蛇頭弓(じゃとうきゅう)」といった深遠な別名によって、神秘の帳に包まれている。
本報告書は、「一張弓」が戦国という激動の時代において、いかなる役割を果たしたのかを解明することを目的とする。そのために、この弓を育んだ小笠原流の制度的背景、武具としての物的・技術的側面、そしてその名に秘められた思想的・神話的背景を多角的に分析し、最終的に「一張弓」が武士の理想と権威を可視化する装置として、いかに機能したかを論証する。
「一張弓」の本質を理解するためには、まずその母体である小笠原流の歴史的特質と、その権威を支える厳格な免許制度の構造を解明する必要がある。本章では、小笠原流が武家社会の「権威」そのものと深く結びついていた事実を明らかにする。
小笠原流の歴史は、清和源氏の血を引く小笠原長清が、文治三年(1187年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の弓馬術礼法師範(糾方師範)に任じられたことに端を発する 3 。以来、小笠原家は足利将軍家、そして徳川将軍家の指南役を代々務め、武家社会における故実(儀式・作法)を司る中心的存在としての地位を確立した 4 。
その教えは、将軍家やそれに連なる限られた者のみに伝えられる「御留流(おとめりゅう)」として厳重に管理され、その秘匿性の高さが権威の源泉ともなった 3 。これは、小笠原流の伝える弓馬術や礼法が、単なる個人の武技や教養にとどまらず、支配者の統治と直結する重要な知識体系であったことを物語っている。
戦国時代に入ると、弓術の世界では大きな技術革新と流派の分化が進んだ。特に、合戦における集団戦での実用性を徹底的に追求した日置流(へきりゅう)が「武射系(ぶしゃけい)」の筆頭として隆盛を極めた 7 。日置流は戦場での歩射(ぶしゃ)を中心とし、その射法は敵を効率的に殺傷することを第一義とする、極めて実践的なものであった 8 。
これに対し、小笠原流は騎射(きしゃ)に由来する「正面打起し」という射法を特徴とし、射における一連の動作や心構え、儀礼的側面を重視する「礼射系(れいしゃけい)」と分類される 10 。戦乱の世においては、一見すると実戦的な武射系こそが時代の主流であり、儀礼的な礼射系は時代遅れと見なされても不思議ではない。
しかし、事実はその逆であった。足利将軍家や、戦国の覇者である徳川家康をはじめとする徳川将軍家は、一貫して小笠原流を師範として重用し続けたのである 4 。この一見矛盾した事実は、戦国の為政者たちが、単なる武力という物理的な力だけでなく、伝統や格式に裏打ちされた「権威」という無形の力を渇望していたことを示している 13 。下剋上が常態化した時代であるからこそ、源頼朝にまで遡る武家の正統な伝統を受け継ぐ小笠原流の弓馬術礼法を修めることは、自らが武門の正統な後継者であることを内外に宣言するための、極めて有効な政治的行為であった。小笠原流の存在は、実力主義の時代における、逆説的な権威の拠り所として機能していたのである。
小笠原流の権威を具体的に担保していたのが、厳格な免許制度である。その頂点に君臨する「一張弓」は、単なる技術の証明ではなく、武家の棟梁たる資格そのものを意味するものであった。
小笠原流の免許は、地上で射る「歩射」と、馬上から射る「騎射」のそれぞれに分かれ、厳格な階梯が定められていた 2 。その階梯は、使用を許される弓の種類と密接に結びついており、特に弓に巻かれる籐(とう)の意匠によって格式が明確に示されていた 14 。
最高位である「一張弓免許」の下には、「重籐弓(しげとうゆみ)免許」、「相位弓(そういゆみ)免許」、「修善弓(しゅぜんきゅう)免許」などが続き、それぞれに許される弓の仕様が定められていた 2 。例えば、第二位の重藤弓は、黒漆塗りの弓の握りを挟んで上下に合計64箇所の藤が巻かれるという特徴を持つ 14 。このように、免許と弓の意匠が一体化することで、その者の技量と格式が一目でわかるようになっていた。
免許制度の頂点に立つ「一張弓」は、その名が示す通り、「一張りの弓をもって天下を治む」という思想を体現する、究極の免許であった 2 。これは、弓術の技量が天下を統べる者の徳と同一視される、極めて政治的な思想である。
この免許の特権性は、その授与対象に顕著に表れている。江戸時代において、一張弓免許は将軍家だけに許されるものであり、さらに驚くべきことに、小笠原流宗家が一世につき一人にしか授与しないという、絶対的な排他性を有していた 2 。この事実は、室町・戦国時代においても、この免許の授与が足利将軍や天下人といった最高権力者に限定されていたことを強く示唆している。
この免許制度は、単なる技術評価システムではなく、武家社会の封建的な身分秩序を武術の世界で再生産し、可視化するための装置として機能していた。資料によれば、江戸時代には一張弓が将軍家、重藤弓が大名、そして四足弓(よつあしゆみ)が旗本というように、免許の階梯が社会的身分と明確に対応していた 2 。これは、個人の技量がいかに優れていようとも、生まれ持った身分によって到達できる階梯に上限が設けられていたことを意味する。したがって、「一張弓」を拝領する儀式は、武の頂点に立つことと社会の頂点に立つことが同義であることを公に宣言する、政治的な戴冠式にも等しい意味を持っていたのである。
表1:小笠原流免許階梯一覧(歩射)
位階 |
免許名 |
対応する弓 |
弓の特徴(藤巻など) |
歴史的特記事項・授与対象 |
第一位 |
一張弓免許 |
一張弓(曼荼羅弓・蛇頭弓) |
不詳(最高位の秘伝) |
「一張りの弓をもって天下を治む」の意。江戸時代は将軍家のみに授与。宗家一世に一張のみ 2 。 |
第二位 |
重藤弓免許 |
重藤弓 |
黒漆の弓。握り上に36箇所、握り下に28箇所の藤巻 14 。 |
江戸時代は大名に限って免許された 2 。 |
第三位 |
相位弓免許 |
相位弓(吹寄藤) |
握り上に七・五・三・七(計22箇所)、握り下に三・五・七(計15箇所)の藤巻 14 。 |
御所の鳴弦の儀などに使用された 14 。 |
第四位 |
修善弓免許 |
修善弓 |
不詳 |
― |
第五位 |
三品籐弓免許 |
三品籐弓 |
不詳 |
― |
- |
(その他) |
太平弓、五色弓など |
不詳 |
目的等に応じて多様な弓が存在した 14 。 |
注:本表は入手可能な資料 2 に基づき作成した。免許の順序や詳細は時代や伝承により異同がある可能性がある。
「一張弓」が持つ絶大な象徴的価値を理解した上で、本章ではその物理的実体について、現存資料の制約の中で最大限に迫る。戦国時代の弓の技術的文脈の中に「一張弓」を位置づけ、その構造と意匠を学術的に推察する。
戦国時代の弓矢は、激化する合戦の様相に対応すべく、著しい技術革新を遂げた。その進化の系譜をたどることは、「一張弓」がどのような技術的土台の上に存在したかを理解する上で不可欠である。
日本の弓は、単一の木材から作られる「丸木弓」に始まり、木の弾力性のみに頼るものであった 15 。やがて、木の幹の外側に竹を貼り合わせることで反発力と耐久性を向上させた「伏竹弓(ふせだけのゆみ)」が平安時代末期に登場し、複合弓の時代が幕を開けた 17 。
戦闘が大規模化・激化した室町時代から戦国時代にかけては、さらなる威力の増大が求められた。その要求に応える形で、芯となる木の四方を竹で囲んで接着した「四方竹弓(しほうちくゆみ)」が考案された 18 。さらに、芯材そのものにも竹を細く割った「ひご」を複数重ね合わせることで、より優れた弾力性と耐久性を実現した「弓胎弓(ひごゆみ)」が戦国時代後期までに完成し、現代の竹弓の直接的な原型となった 19 。これらの技術革新により、和弓は「剛弓(ごうきゅう)」と称される強力な武器へと進化し、合戦における主要な遠距離兵器としての地位を保ち続けたのである 18 。
この技術革新の流れは、明確に「威力」と「耐久性」という実戦的な価値を追求する方向性を持っていた。しかし、第一部で見たように、小笠原流の免許弓は藤の巻き方といった儀礼的・装飾的な側面が強く強調されている。この方向性の違いは、戦国時代において弓の役割が、戦場で敵を殺傷するための「実戦兵器」と、儀礼を司り権威を象徴するための「儀式用具」という二つの極へと分化していたことを示している。したがって、「一張弓」は、この実戦兵器としての進化の系譜とは一線を画す、特別な存在であった可能性が高い。その価値は、貫通力や飛距離といった性能指標ではなく、儀礼を執行するにふさわしい「格式」と、最高級の素材と技術を結集した「美術工芸的価値」にこそ求められたと考えられる。
表2:戦国期における和弓の発展と特徴
弓の種類 |
主な時代 |
構造・材質 |
特徴・威力 |
主要な用途 |
丸木弓 |
縄文時代~ |
単一の木材(梓、檀など) |
原始的で、木の弾力性に依存。威力は限定的 15 。 |
狩猟、初期の戦闘 |
伏竹弓 |
平安時代末期~ |
木の外側に竹を貼り合わせた複合弓 15 。 |
丸木弓より反発力、耐久性が向上。 |
武士の主たる弓 |
三枚打弓 |
南北朝時代~ |
木の芯を竹で挟んだ三層構造 15 。 |
さらなる威力の向上。 |
合戦 |
四方竹弓 |
室町・戦国時代 |
木の芯の四方を竹で囲んだ複合弓 18 。 |
威力が大幅に増大し、戦闘が激化する時代に対応 18 。 |
戦国期の合戦 |
弓胎弓 |
戦国時代後期~ |
芯材にも竹(ひご)を用いた、ほぼ竹製の複合弓 19 。 |
優れた耐久性と弾力性を両立。現代の竹弓の原型 16 。 |
合戦、儀礼、弓術 |
注:本表は資料 15 に基づき、和弓の主要な発展段階を整理したものである。
「一張弓」そのものの現物は、今日まで確認されていない。これは、その至高の価値ゆえに厳重に秘匿された結果か、あるいは物理的な弓そのものよりも「免許」という無形の価値が本質であったことの証左かもしれない。しかし、現存する他の高位の弓や関連資料を手がかりに、その姿を学術的に推察することは可能である。
構造については、戦国時代後期に完成した当時の最高技術である「弓胎弓」であった可能性が極めて高い 19 。材質は、弓の性能を最大限に引き出すため、厳選された真竹と、弓の側木(そばき)や関板(せきいた)に用いられる黄櫨(はぜ)などが使用され、接着剤には魚の浮袋から作られる強力な鰾(にべ)が用いられたと推測される 17 。
「一張弓」の価値を最も特徴づけるのは、その意匠であろう。
これらの推察を支えるのが、小笠原流「御用弓師」の存在である。小山弓具や柴田勘十郎といった弓師たちは、代々小笠原流の式弓製作を担い、その技術は門外不出の秘伝とされてきた 25 。特に六代目小山勝之助は重藤弓の製作を得意としたと伝えられており 25 、これは免許弓の製作に特別な技術が要求されたことを裏付けている。したがって、「一張弓」の製作プロセスそのものが、小笠原流の奥義の一部であり、単なる工芸品の製作ではなく、流派の精神性と技術の粋を一つの「モノ」に凝縮させる儀式的な行為であったと考えられる。その意味で、一張弓は流派の奥義を体現する聖遺物(レリック)にも等しい価値を持っていたと結論付けられる。
「一張弓」の価値は、その物理的・制度的側面だけでは解明できない。本章では、「曼荼羅弓」「蛇頭弓」という二つの神秘的な別名を手がかりに、その背後にある深遠な思想的・神話的世界を探求し、武士の精神宇宙における弓の位置づけを明らかにする。
「一張弓」が「曼荼羅弓」とも呼ばれたことは、この弓が仏教、特に密教思想と深く結びついていたことを示唆する。
曼荼羅は、サンスクリット語で「円」や「本質を有するもの」を意味し、密教において大日如来を中心とする諸仏諸尊の悟りの境地や、宇宙の真理そのものを図像として表現したものである 27 。それは単なる絵画ではなく、修行者が瞑想を通じて仏の世界と一体化するための、実践的な道具であった 30 。
弓術の最高位の弓に「曼荼羅」の名を冠することは、弓を射るという行為が、単なる技術の練磨や武技の優劣を超え、精神を統一し、自己と宇宙との合一を目指す「道」として捉えられていたことを示している。弓術における「射法八節」(足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心)と呼ばれる一連の動作は、極度の精神集中を要し、その過程は瞑想にも通じる。この修行の道のりを経て到達する究極の境地、その成就の証こそが「曼荼羅弓」であった。
この思想は、鎌倉時代以降の武士階級に深く浸透した禅宗の「武禅一如」(武道と禅は一体である)の理念とも響き合う。弓を射るという身体的行為を通じて精神的な高みを目指す、武士独自の宗教的実践の頂点に、この弓は存在したのである。さらに、日本の山岳信仰と密教が融合して生まれた修験道においても、弓は魔を祓う呪具として重要な役割を担っており 32 、武士の信仰と弓の神聖性が分かちがたく結びついていたことがわかる。「一張りの弓をもって天下を治む」という言葉は、単なる武力による平定ではなく、曼荼羅が象徴するような調和の取れた宇宙的秩序を地上に現出させるという、為政者の崇高な理想と重なるのである。
もう一つの別名「蛇頭弓」は、より古層の、日本土着の信仰世界へと我々を誘う。
日本文化において、蛇は極めて多義的な象徴であった。年に一度脱皮することから「再生」や「永遠の生命」の象徴とされ、また大地を這い、水辺に棲むことから、大地のエネルギー、水の神、あるいは祖霊の化身とも考えられた 33 。その一方で、強力な毒を持ち、人知を超えた動きを見せることから、畏怖の対象であり、強大な呪力を持つ存在とも見なされた 34 。この両義性ゆえに、蛇は神聖にして畏るべき力の象徴として、武具の意匠にも好んで用いられた。蛇の目を模した「蛇の目紋」や、蛇の鱗をかたどった「鱗文様」は、魔除けや武威の象徴として、陣笠や武将の着物などに見ることができる 37 。
「蛇頭弓」という呼称には、二つの解釈が可能である。
第一は、物理的意匠説である。これは、弓の両端にある弦を掛ける部分、すなわち「弭(はず)」17 が、蛇の頭を模した形状に彫刻、あるいは蒔絵などで装飾されていたとする説である。武具に動物の意匠を施し、その動物が持つ力を自らのものとしようとする発想は普遍的であり、十分に考えられる。
第二は、象徴的呼称説である。これは、弓に秘められた強大な張力という潜在的エネルギーと、そこから放たれる矢の致死的な一撃を、獲物に飛びかかる蛇の姿に重ね合わせた、比喩的な表現とする説である。この場合、弓そのものが、神聖にして畏怖すべき蛇の力を宿す神器と見なされていたことになる。
一つの弓が「曼荼羅弓」と「蛇頭弓」という二つの名を持つことは、当時の武士の複合的な世界観を如実に反映している。すなわち、大陸から伝来した高度な仏教哲学に基づく理知的・精神的な側面(曼荼羅)と、日本古来のアニミズムや土着の蛇信仰に根差した根源的・呪術的な側面(蛇)が、一人の武士、特に天下人の精神構造の中で矛盾なく共存していたことを示している。最高の支配者たる者は、仏教的な論理と徳によって世界に秩序(曼荼羅)をもたらすだけでなく、古来の神々の力(蛇の力)をも従える、呪術的な王でなければならなかった。「一張弓」は、この二つの力を統合した、まさに「祭政一致」の支配者のための神器であったと言えるだろう。
これまでの考察を踏まえ、本章では「一張弓」が戦国・江戸時代の政治社会において、具体的にどのように「権威の象徴」として機能したのかを論じる。儀礼における神聖性と、為政者の権威を可視化する装置という二つの側面に焦点を当てる。
弓矢は、単なる武器ではなく、古代より神聖な儀礼の道具としての役割を担ってきた 40 。宮中では正月に「射礼(じゃらい)」と呼ばれる弓の儀式が行われ 42 、武家社会においては小笠原流がその故実を継承し、様々な儀式を執り行ってきた 10 。
特に重要なのが「蟇目(ひきめ)の儀」と「大的式(おおまとしき)」である。「蟇目の儀」は、矢を放つと音を発する特殊な「蟇目鏑(ひきめかぶら)」という矢を用いることで、その音によって天地四方の魔性を祓うとされる神事である 45 。この神聖な儀式を執行できるのは、小笠原流の中でも宗家から許された高位の門人のみであり、その役割は極めて重いものであった 45 。
一方、「大的式」は、小笠原流における最も厳格な射礼であり、天下泰平や国土安寧を祈願する国家的な儀式であった 47 。この儀式の中で、射手が弓を構える「かんねん」の際に唱える「天下太平国土安全」「武運長久家内繁栄」といった言葉は、この儀式が単なる弓技の披露ではなく、国家鎮護の祈りそのものであることを明確に示している 47 。
古代より、弓の弦を弾いて音を出す「鳴弦(めいげん)」には、邪気を祓う呪力があると信じられてきた 40 。蟇目の儀や大的式といった弓の儀礼は、この思想を武家社会が洗練させたものである。これらの儀式を主宰し、あるいは執行する武家の棟梁(将軍)は、単なる軍事指導者であるだけでなく、神々と交信し、魔を祓い、民に安寧をもたらす最高祭司としての役割をも担っていた。したがって、「一張弓」を授けられることは、この「祭司王」としての資格を公に認められることを意味した。弓は、俗なる世界(政治・軍事)と聖なる世界(神事・呪術)を繋ぐ媒体であり、それを操る者は両界の支配者と見なされたのである。
戦国の世において、「弓取り」という言葉は特別な響きを持っていた。「東海一の弓取り」と称された今川義元や徳川家康の例に見るように、この称号は単に弓の名手であることを超え、「その地域を支配する武門の棟梁」を意味する換喩であった 50 。
戦国大名たちは、実力で勝ち取った支配を正当化するため、天皇や将軍といった既存の伝統的権威を利用することに腐心した 13 。それと同様に、鎌倉以来の由緒と格式を誇る小笠原流の師範を受けること、そしてその最高免許である「一張弓」を将軍から下賜される、あるいは将軍として拝領することは、自らの政権が伝統に裏打ちされた正統なものであると天下に示す、絶好の機会であった。信濃守護であった小笠原長時が、武田信玄に敗れ流浪の身となっても、上杉謙信からその弓術と礼法を深く敬われたという逸話は、小笠原流というブランドが持つ権威の絶大さを物語っている 52 。
「一張弓」が将軍のみに許されるものであったという事実は、小笠原流宗家が、ある意味で「天下人」を認定し、その権威を裏書きする役割を担っていたことを示唆する。将軍が小笠原宗家から「一張弓」を拝領する儀式は、二つの権威が交差する象徴的な場となる。すなわち、伝統と文化の権威の象徴である小笠原流が、現実の政治・軍事権力の頂点である将軍を承認し、将軍はその承認を受け入れることで自らの権威をさらに強固なものにする、という相互作用が生まれるのである。
これは、高価な贈答品の交換や外交儀礼にも似た、政治的な力関係を確認し、固定化する行為である。武力によって獲得された生々しい「権力」は、「一張弓」の授与という儀式を通じて、伝統と格式に彩られた正統な「権威」へと昇華される。戦国という流動的な社会から、江戸という固定的な社会へと移行する過程において、このような象徴操作は極めて重要な役割を果たした。「一張弓」は、単なる弓でも免許状でもなく、武家社会の秩序を維持・再生産するための、かけがえのない象徴的資本だったのである。
本報告書は、小笠原流弓術の最高位に座す「一張弓」が、戦国時代という実力主義の世にあってもなお、比類なき価値と意味を持ち続けたことを多角的に解明した。
第一に、「一張弓」は、実戦性を追求した「武射」の潮流とは一線を画す、「礼射」の頂点に立つ存在であった。その授与は、将軍、大名、旗本といった身分と厳格に連動する免許制度の最高位に位置づけられ、武家社会の封建的秩序を象徴するものであった。
第二に、その物理的実体は、当代最高の技術である弓胎弓の構造を持ち、最高級の素材と漆芸・蒔絵といった工芸技術の粋を集めた、美術品としても至高の価値を持つものであったと推察される。それは、小笠原流御用弓師の秘伝の技によってのみ生み出される、流派の奥義の結晶体であった。
第三に、そして最も重要な点として、「曼荼羅弓」「蛇頭弓」という二つの別名は、この弓が武士の複合的な精神世界を体現する神器であったことを示している。それは、仏教的な宇宙観に基づく秩序と調和の象徴(曼荼羅)であると同時に、日本古来の自然信仰に根差す根源的で呪術的な力(蛇)の象徴でもあった。
結論として、「一張弓」は、武力、精神性、伝統、儀礼のすべてを極めた「理想の支配者」の象徴であったと言える。それは、武器でありながら武器を超え、武士の理想そのものを体現する文化史上の至宝である。実力のみがものを言う戦国の世にあってさえ、人々が求め続けた「正統性」と「秩序」への渇望が、この一張の弓に凝縮されているのである。