最終更新日 2025-08-07

三島桶

大名物「三島桶」は、朝鮮王朝時代の三島茶碗。桶のような半筒形で、象嵌文様と意図的な繕いが特徴。千利休、徳川家康、尾張徳川家へと伝来し、日本の茶の湯史に影響を与えた。
三島桶

大名物「三島桶」—戦国時代の美意識と権力を映す一碗

序章:大名物「三島桶」—戦国時代の美意識と権力を映す一碗

茶の湯の世界には、道具の由緒や品格を示す「名物」という格付けが存在する。その中でも最高位に位置づけられるのが「大名物(おおめいぶつ)」であり、千利休以前からその名を知られた、別格の道具群を指す 1 。本報告書で詳述する「三島茶碗 銘 三島桶(みしまちゃわん めい みしまおけ)」は、この「大名物」に数えられる一碗である 3

この茶碗は、単に古く美しい器という範疇に収まるものではない。戦国時代から安土桃山時代という、日本史上類を見ない激動と創造の時代において、その中心人物たちの手を渡り歩き、当時の美意識、価値観、そして権力の在り様を雄弁に物語る、極めて重要な歴史的遺産である。その伝来には茶の湯を大成させた千利休、天下人である徳川家康の名が連なり、その姿は日本独自のやきものである樂焼の誕生にさえ影響を与えた可能性が指摘されている 5

本報告書は、この「三島桶」という一碗の茶碗を多角的な視点から徹底的に調査し、その全貌を解明することを目的とする。具体的には、まず器物としての物理的特徴、すなわちその独特の形状、施された文様、そしてそれを生み出した朝鮮半島の陶芸技法について詳述する。次に、千利休から始まり、武将、大名家へと至る複雑な伝来の軌跡を、史料間の異同にも着目しながら丹念に追う。そして最後に、この茶碗が「わび茶」の美学の中でどのように受容され、日本の茶の湯史、ひいては文化史全体においていかなる重要性を持つのかを深く考察する。この分析を通じて、「三島桶」が戦国の世を映す鏡であり、後世の日本の美意識を方向づけた文化的な触媒であったことを明らかにしていく。

第一章:器物としての「三島桶」—その姿、技法、そして「景色」

「三島桶」を理解する第一歩は、まずそれを一つの「モノ」として、その物理的な実体を正確に把握することにある。その独特の銘の由来となった姿、表面を飾る精緻な文様、そしてその背景にある朝鮮半島の高度な陶芸技術。これらを分析することで、この茶碗が持つ美しさの本質と、それが戦国時代の茶人たちを魅了した理由が浮かび上がってくる。

表1:大名物「三島桶」の概要

項目

詳細

名称

三島茶碗 銘 三島桶 (Mishima Tea Bowl, mei: Mishima Oke)

分類

大名物 (O-meibutsu)

種類

高麗茶碗、三島手 (Korean Tea Bowl, Mishima type)

陶磁史分類

粉青沙器 (Buncheong ware)

時代・産地

朝鮮王朝時代・16世紀、朝鮮半島 (Joseon Dynasty, 16th Century, Korean Peninsula)

寸法

高さ8.7-8.9cm、口径11.1-11.3cm、高台径6.3cm

所蔵

徳川美術館(公益財団法人徳川黎明会)

主要伝来

千利休 → 千道安 → [竹腰山城守 / 徳川家康] → 尾張徳川家

第一節:物理的特徴の詳説—「桶」と称される所以

「三島桶」の最も際立った特徴は、その名称の由来ともなった器形にある。一般的な筒茶碗が垂直に立ち上がる姿であるのに対し、この茶碗は高さに比して口径が広く、どっしりとした安定感のある半筒形を呈している 5 。この姿が、当時の人々にとって身近な道具であった「桶」を想起させたのであろう 5 。徳川美術館や各種文献の記録によれば、その寸法は高さが8.7cmから8.9cm、口径が11.1cmから11.3cm、高台の直径が6.3cm、重さが410gとされ、手に取った際の確かな存在感が窺える 3

器の外面は、轆轤(ろくろ)で引かれた横筋によって五段に区切られている 4 。この区画が、全体の姿に秩序とリズム感を与えている。地となる釉薬は藍鼠色(あいねずいろ)と表現される、深く静かな色調を帯びており、この上に後述する象嵌技法によって白い文様が施されている。この落ち着いた地色と白文様の対比が、華美ではないが格調高い印象を生み出している。

一方、茶碗の内側、いわゆる「見込み」は基本的に無地であるが、底の周辺には釉薬の溜まりによって生じた藍色の筋が三本ほど確認でき、共釉(ともぐすり)による水玉のような飛び釉が散見される 4 。これらは作者が意図しなかったであろう偶然の産物であるが、茶人たちはこうした微細な変化に美を見出し、「景色」として賞玩した。

茶碗の土台となる高台は、直径6.3cm、高さ0.7cmと記録されており 4 、全体の重厚な姿を堅固に支えている。高麗茶碗の真贋や品格を鑑定する上で、高台の削り出しやその周辺の処理(高台脇)は極めて重要な見所とされるが、「三島桶」の高台は、その古格と重厚な趣を決定づける要素の一つとなっている 3

第二節:三島手と象嵌技法—朝鮮半島が生んだ美

「三島桶」は、陶磁史的には朝鮮王朝時代の15世紀から16世紀にかけて焼成された「粉青沙器(ふんせいさき)」と呼ばれるやきものの一群に分類される 9 。粉青沙器は、高麗王朝(918-1392)の貴族的で洗練された「青磁」の伝統を受け継ぎつつ、より自由で多様な装飾技法が展開された点に特徴がある 11

「三島桶」の表面を飾る文様は、この粉青沙器の代表的な装飾技法である「象嵌(ぞうがん)」によって生み出されている 9 。この技法は、まず半乾きの素地の表面に、文様を彫ったり、印判を押し付けたりして凹みを作る。次に、その凹部に白土(または黒土)を埋め込み、表面の余分な土を掻き落とす。その上で透明性の釉薬を掛けて焼成すると、素地の色と埋め込まれた土の色の対比によって文様がくっきりと浮かび上がる仕組みである 11 。この技法は元来、高麗青磁で高度に発達したものであり、「三島桶」もその系譜に連なる、格調高い作例と言える 3

興味深いのは、「三島」という呼称が日本独自のものであるという点である。その語源については諸説あるが、最も有力視されているのが、静岡県の三嶋大社(旧称:三島神社)の暦師・河合家が発行していた仮名文字の暦「三島暦(みしまごよみ)」に由来するという説である 9 。この暦は、細かな仮名文字が整然と並ぶ独特の紙面を持っており、粉青沙器の細かく連続する印花文や線刻文の様子が、この三島暦の見た目に似ていたことから、京の茶人たちが「三島手(みしまで)」あるいは「暦手(こよみで)」と呼ぶようになったと考えられている 9 。この他にも、朝鮮半島の南岸に位置し、古くから「三島」と呼ばれた巨文島(コムンド)が陶磁器の交易拠点であったことに由来するという説もあるが 15 、三島暦説が通説として広く受け入れられている。

第三節:意図された「侘び」—作為の景色としての「繕い」

「三島桶」の数ある見所の中でも、特に異彩を放ち、その美学的な価値を決定づけているのが、口縁から胴にかけて見られる大きな「疵(きず)の繕い」である 4 。一見すると、これは単なる破損を修理した跡のように思える。しかし、複数の文献は、これが単なる事故によるものではない可能性を示唆している。すなわち、「事実破損した疵を繕ったのではなく、この茶碗に佗び景色を添えるためことさらに割れ目をつくりその間に漆を付着したものらしい」というのである 4

この指摘は、千利休によって大成された「わび茶」の美意識を理解する上で、極めて重要な示唆に富んでいる。わび茶の美学は、完璧さや華やかさではなく、不完全さ、素朴さ、静けさの中にこそ深い美を見出す。例えば、同じく高麗茶碗の代表格である井戸茶碗では、焼成時に釉薬が縮れて鮫肌状になった「梅花皮(かいらぎ)」や、長年の使用によって染み込んだ茶渋の跡である「雨漏(あまもり)」などが、偶然が生んだ「景色」として珍重された 17 。これらは、自然の作用や時間の経過といった「無作為」の力がもたらした美である。

しかし、「三島桶」の繕いは、この「無作為の美」の発見から一歩踏み込んでいる。もしこれが「ことさらに」作られたものであるならば、それは「美を創出するために、意図的に不完全さを作り出す」という、能動的かつ作為的な美意識の表れに他ならない。これは、中国から渡来した完璧な造形を持つ「唐物」を至上のものとしてきた従来の価値観に対する、明確なアンチテーゼである。日本の茶人たちが、もはや単に美を発見するだけでなく、自らの手で美の基準そのものを創造しようとした、文化的な独立宣言の一つの形と解釈することさえ可能である。

この作為性は、後に千利休が樂家の長次郎に自身の理想とする茶碗を作らせた行為へと直結する思想の萌芽と見ることができる。樂茶碗は、轆轤を使わず手と箆(へら)だけで成形される、まさに作為の塊であり、わび茶の精神性を凝縮した造形物である 19 。その意味で、「三島桶」に見られる意図的な「繕い」は、日本の茶の湯における美意識が、無作為の美の発見から、作為による美の構築へと深化・展開していく、その決定的な過渡期を物語る物証なのである。

第二章:伝来の軌跡—茶聖、天下人、そして大名家へ

「三島桶」の価値は、その造形的な美しさだけに留まらない。この一碗が、どのような人物たちの手を経て今日まで伝えられてきたかという「伝来」の物語こそが、その価値を何倍にも高めている。茶聖・千利休から始まり、天下人、そして徳川御三家筆頭の尾張徳川家へと至るその道筋は、この茶碗が単なる器ではなく、戦国から江戸初期にかけての文化と権力の中心に位置していたことを証明している。

第一節:千利休と道安—わび茶の象徴として

「三島桶」の伝来を語る上で、全ての起点となるのが、わび茶の大成者、千利休(1522-1591)である。複数の古文献が、本茶碗を利休の所持品であったと記録している 4 。その最も確かな証拠とされるのが、利休と親交が深く、自身も当代一流の茶人であった武将・細川三斎(忠興、1563-1646)が遺した添状の存在である。この添状には「昔手道安所持仕候三島のおけ茶碗」と記されており 4 、「道安が所持していた三島桶」が、かつては利休のものであったことを間接的に、しかし力強く示唆している。

千道安(1546-1607)は利休の長男であり、父の茶の湯を最も正統に継承した人物として知られる。利休切腹後、会津の蒲生氏郷に預けられるなど苦難の道を歩むが、後に豊臣秀吉に赦免され、千家を再興した。利休から道安へとこの茶碗が継承されたという事実は、「三島桶」が利休の審美眼に適った、わび茶を代表する道具の一つとして、千家の中で大切に扱われていたことの証左である 4

第二節:権力の象徴へ—伝来経路の謎

千道安の手を離れた後の「三島桶」の伝来については、史料によって二つの異なる経路が伝えられており、これがこの茶碗の物語を一層興味深くしている。

第一の説(説A)は、茶の湯文化圏内部での格式ある移動を示すものである。この説によれば、茶碗は道安から尾張徳川家の家老であった竹腰山城守正武(たけこしやましろのかみまさたけ)の手に渡り、その後、正武から主君である尾張徳川家初代藩主・徳川義直(1601-1650)へと献上されたとされる 4 。これは、大名とその重臣という、武家社会の秩序の中で行われた文化的な贈答・献上の流れを汲むものであり、茶道具が忠誠や敬意の証として機能していた当時の状況を反映している。

第二の説(説B)は、より壮大なスケールの物語を構築する。こちらでは、茶碗は道安から直接、天下人である徳川家康(1543-1616)の所持となり、その後、家康が最も信頼した九男である義直に下賜された(駿府御分物の一つとも考えられる)とするものである 3

この二つの伝来説が並立していること自体が、極めて示唆に富んでいる。これは単なる記録の混乱として片付けるべきではない。「三島桶」という器物が持つ価値の多層性を物語っているからである。説Aが茶の湯の世界における名品としての由緒を語るのに対し、説Bはこの器物を当代最高の権力者である家康の権威と直接結びつけ、その政治的・経済的価値を最大限に高める物語となっている。戦国時代、優れた茶道具は「一国一城」にも値するとされ、領地と同じように恩賞として授与されることもあった 7 。説Bは、まさにそうした時代の価値観を色濃く反映している。

どちらが史実であるかを確定することは困難であるが、家康の名が伝来に登場すること自体が、この茶碗が単なる茶人の愛蔵品ではなく、天下人が所有するにふさわしい、最高の権威の象徴と見なされていたことの何よりの証拠である。後世、尾張徳川家の権威をより高めるために、初代藩主・義直が父・家康から直接拝領したという説Bが強調されるようになった可能性も考えられる。いずれにせよ、この伝来の謎は、「三島桶」が文化と権力の交差点に位置する特別な存在であったことを我々に教えてくれる。

第三節:「大名物」としての格付けと歴史的証明

茶道具の格付けにおいて、「大名物」は千利休の時代以前に著名であった道具に与えられる最高位の称号である 1 。これに対し、利休の時代に名高くなった道具は単に「名物」、さらに江戸時代初期に小堀遠州らによって新たに見出された道具は「中興名物」と呼ばれる 1

「三島桶」は利休所持の道具でありながら「大名物」に数えられるという、やや特異な位置づけにある。これは、その由緒の深さ、三島手の中では極めて珍しい筒形という姿の希少性 4 、そして何よりも天下人の手を経たという絶大な権威性によって、利休の時代を代表する「名物」の枠を超えた、別格の評価を与えられたものと考えられる 3

さらに、「三島桶」は、それ自体が歴史の証人としての重要な価値を持っている。江戸時代初期に成立した茶書『玩貨名物記(がんかめいぶつき)』をはじめとする複数の名物記にその名が記載されていることは 4 、当時からその名声が確立していたことを示している。そして特筆すべきは、「江戸時代初期に三島とはっきり呼ばれていたことの確認できる唯一の茶碗」であるという評価である 3 。これは、「三島桶」が、今日我々が「三島手」と呼ぶやきもののジャンル全体を定義づける上での、基準作例(タイプ・スペック)としての役割を歴史的に果たしてきたことを意味する。数多ある三島茶碗の中で、「三島桶」はまさに王者の風格を備えた一碗なのである。

第三章:茶の湯史における「三島桶」の重要性

「三島桶」の価値を真に理解するためには、それを日本の茶の湯史という、より大きな文脈の中に位置づける必要がある。この一碗は、美意識の大きな転換点に立ち会い、さらには日本独自の創造性を刺激する触媒として機能した可能性を秘めている。それは、戦国という時代精神を体現した、生きた文化遺産なのである。

第一節:高麗茶碗の受容とわび茶の美学

室町時代の会所における茶の湯では、中国(唐)から渡来した、精緻で完璧な造形を持つ天目茶碗などの「唐物(からもの)」が至上のものとして尊ばれていた 7 。これらは権力と富の象徴であり、その価値観は絶対的なものであった。しかし、16世紀に入り、堺の町衆などを中心に「わび茶」という新たな茶の湯の潮流が生まれると、美意識に劇的なパラダイムシフトが起こる。華麗さや完璧さではなく、静寂や不完全さの中にこそ真の美を見出そうとする精神である 23

この新たな美意識の受け皿として「発見」されたのが、朝鮮半島で焼かれた高麗茶碗であった。これらは元々、茶の湯のために作られたものではなく、現地では飯碗や祭器などとして日常的に使われていた雑器であった 17 。しかし日本の茶人たちは、その素朴で気取らない姿、轆轤目が残り、土中の小石が焼成時にはぜた跡(石はぜ)があるような不完全な様に、唐物にはない温かみと深い精神性を見出した。本来の用途とは異なるものに新たな価値を見出す、この「見立て」という行為こそ、日本の茶人たちが持つ独創的な審美眼の真骨頂であった。

高麗茶碗の中でも、「一井戸、二楽、三唐津」と称されるように、最高峰とされたのが「井戸茶碗」である 24 。その堂々とした姿、枇杷色の釉薬、力強い高台は、わび茶の理想とされた 25 。また、柔和な丸みを帯びた姿の「熊川(こもがい)茶碗」も人気を博した 26 。これらと比較した時、「三島桶」の持つ独自の地位が明らかになる。井戸茶碗が持つ豪放で無作為な美や、熊川茶碗の柔和さとは異なり、「三島桶」は象嵌という精緻な技法による理知的な装飾性を備えている。それは、無作為の美と作為の美、素朴さと洗練という、一見相反する要素を内に含んだ、極めてユニークな存在であった。この複雑な魅力こそが、利休をはじめとする当代の目利きたちを惹きつけた要因であろう。

第二節:樂茶碗「宗易形」への影響—日本独自のやきものの誕生

「三島桶」が茶の湯史において持つ重要性を考える上で、避けて通れないのが、千利休が自身の理想とする茶碗を樂家の初代・長次郎に作らせた「宗易(そうえき)形茶碗」の手本となったのではないか、という重要な仮説である 5 。「宗易」とは利休の諱(いみな)であり、「宗易形茶碗」とは、すなわち利休好みの茶碗、樂焼の原点を指す言葉に他ならない 19

複数の資料が指摘するように、「宗易形茶碗」と呼ばれる半筒形の黒樂茶碗は、この「三島桶」のような高麗茶碗を手本とした可能性が高い 5 。樂茶碗は、轆轤を使わず手捏ねで成形し、低火度で焼成するという、それまでの日本のやきものとは一線を画す、極めて独創的なやきものである 19 。その特徴は、手に取った時の驚くほどの軽さと温かみ、そしてわび茶の精神性を色濃く反映した、静かで内省的な造形にある 20

もしこの仮説が正しいとすれば、「三島桶」の歴史的意義は飛躍的に高まる。それは、単に朝鮮半島から輸入され、鑑賞の対象となった名品という位置づけに留まらない。日本を代表するやきものである「樂焼」の、その造形的なインスピレーションの源泉となったことを意味するからである。ここに、日本文化が外来の要素をどのように受容し、自らの文化を創造してきたかという、壮大なダイナミズムが見て取れる。

このプロセスは、武道や芸道で重んじられる「守破離(しゅはり)」の精神そのものである。まず、手本(三島桶)の形を忠実に「守る」。次に、その本質を理解した上で、既存の型を「破り」、自らの思想(利休のわび茶の美学)を注入する。そして最後に、手本から「離れ」、全く新しい独自の創造(樂茶碗)へと至る。この文化の受容と創造の連鎖において、「三島桶」は決定的な触媒としての役割を果たした。それは、外国文化をただ模倣するのではなく、そのエッセンスを咀嚼し、自らの美意識に基づいて全く新しい価値へと昇華させるという、日本文化の特質を体現した、歴史的な瞬間の証人なのである。

第三節:戦国の世における茶道具—権威と文化の象徴

戦国時代、優れた茶道具、すなわち「名物」は、現代の我々が想像する以上の価値を持っていた。それは単なる美術品や趣味の道具ではなかった。織田信長が松永久秀の反逆に際し、降伏の条件として名物茶釜「平蜘蛛」の献上を求めた逸話に象徴されるように、名物は時に「一国一城」にも匹敵する価値を持つとされ、武将たちがその収集に熱を上げた 7

名物を所有することは、所有者の財力、権威、そして何よりも高い文化的教養を天下に示すための、極めて有効な政治的ツールであった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちは、こぞって茶の湯を政治の舞台で活用した。名品を集めて開く大茶会は、自らの権勢を誇示し、諸大名を序列化するための重要な儀式であった 7

「三島桶」が、茶の湯の最高権威者であった千利休から、天下人・徳川家康(の可能性)、そして徳川御三家筆頭の尾張徳川家へと渡り歩いたという伝来は、まさにこの時代の価値観を映し出している。この一碗は、茶室という静謐な空間で美を競う文化的なシンボルであると同時に、戦国の世の厳しい権力闘争を生き抜いた、政治的な象徴でもあったのだ。その小さな器の中には、戦国武将たちの野心と、彼らが希求した束の間の安らぎという、二つの相矛盾する精神が同居しているのである。

結論:時代を超えて語りかける一碗

本報告書で詳述してきたように、大名物「三島茶碗 銘 三島桶」は、単一の視点では捉えきれない、極めて多層的な価値と意義を持つ歴史的遺産である。

第一に、器物としては、朝鮮王朝時代の高度な工芸技術の結晶である。高麗青磁の伝統を受け継ぐ象嵌技法によって施された理知的な文様と、桶を思わせるどっしりとした半筒形の姿は、他の高麗茶碗にはない独自の品格と魅力を放っている。

第二に、日本の美意識の変革を体現する象徴である。意図的に施されたとみられる「繕い」は、無作為の美の発見に留まっていた「わび」の精神を、作為による美の構築へと一歩推し進めた。それは、日本の茶人たちが自らの手で美の基準を創造しようとした、文化的な自立の萌芽であった。

第三に、日本独自の創造性を刺激した触媒としての役割である。その姿が、わび茶の思想を凝縮した日本を代表するやきもの「樂焼」の原点である「宗易形茶碗」の手本となったという説は、この茶碗が単なる受容の対象ではなく、新たな創造の源泉となった可能性を示唆している。これは、外来文化を咀嚼し、独自の文化へと昇華させる日本の文化的特質を物語る、重要な事例である。

そして最後に、戦国時代の権力と文化の象徴である。茶聖・千利休、天下人・徳川家康、そして大名・徳川義直といった、時代の中心人物たちの手を渡り歩いたその伝来は、この一碗が文化的な価値と政治的な権威を兼ね備えた、当代最高の至宝であったことを雄弁に物語っている。

戦乱の世を生き抜き、幾多の歴史的人物の掌中でその時代の空気を吸い込んできた「三島桶」は、今日、徳川美術館に静かに収蔵されている 3 。その存在は、単に過去の美術品を保存するという意味に留まらない。それは、戦国という激動の時代の精神性、そこで育まれた深遠な美意識、そして日本と朝鮮半島の間に存在した豊かな文化交流の記憶そのものを、現代、そして未来へと継承していくという、重大な使命を担っているのである。この一碗は、これからもその静かな佇まいの中から、時代を超えて我々に多くのことを語りかけ続けるだろう。

引用文献

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