名香「三芳野」は伽羅の辛苦酸甘の香。吉野の雅を宿し、武将の精神統一と権威の象徴。蘭奢待の如く天下人の政治に活用され、戦国の文化と精神を映す至宝。
香木とは、単に芳香を持つ木材を指す言葉ではない。それは、自然界の偶然と悠久の時間が織りなす、奇跡とも呼ぶべき産物である。一般的に香木とは、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)の三種を指すが、中でも伽羅と沈香は、その生成過程において極めて特異な性質を持つ 1 。
これらの香木の母体となるのは、主に東南アジアの熱帯雨林に自生するジンチョウゲ科ジンコウ属の樹木である 3 。この樹木自体は、幹も葉も花も、それ自体に香りはない。しかし、風雨による倒木や病害虫による侵食など、何らかの外的要因によって樹皮や木部が傷つけられると、樹木は自らの生命を守るための防御反応として、傷ついた部分に樹脂を分泌し始める 2 。この樹脂が長い年月をかけて蓄積され、固化する。さらに、その樹脂が蓄積された木部が土中や水中に埋もれ、特定のバクテリアや微生物の作用によって変質し、熟成されることで、初めて芳香を放つ香木となるのである 2 。
この熟成には、少なくとも数十年、質の高いものでは百年から百五十年以上もの歳月が必要とされる 2 。樹脂の沈着によって比重が増し、水に沈むようになることから「沈水香木」、略して「沈香」の名が生まれた 3 。そして、この沈香の中でも、特に質が良く、複雑で優雅な香りを持ち、常温でも微かに香気を放つ最高級品が「伽羅」と呼ばれる 2 。その香りは「神様が創った香り」とまで評され、人間の手で再現することは不可能だとされるほどの究極の存在である 4 。
このように、香木の価値は、その香りの優劣のみならず、生成に要する悠久の時間と、樹木の種類、傷の付き方、土中の環境といった無数の偶然が重なり合って初めて生まれるという、その希少性と物語性に深く根差している。それは、もはや単なる物質ではなく、地球と時間が育んだ芸術品と呼ぶにふさわしい存在なのである。
日本における香木の歴史は、飛鳥時代にまで遡る。『日本書紀』によれば、推古天皇三年(595年)、淡路島に一本の巨大な流木が漂着した 2 。島民たちはそれをただの薪と思い、かまどで燃やしたところ、えもいわれぬ芳香が遠くまで立ち込めた。これに驚いた島民が朝廷に献上したところ、当時摂政であった聖徳太子が、これを「沈香」であると鑑定したと伝えられている 2 。これが、我が国における香木の公式な歴史の始まりとされる。
仏教の伝来とともに、香は仏前を浄めるための「供香(そなえこう)」として、宗教儀式に不可欠なものとなった 6 。奈良・東大寺の正倉院には、聖武天皇ゆかりの品々とともに、多種多様な香木や香料が今なお宝物として納められており、当時の香文化の豊かさを物語っている 7 。
やがて時代が下り、平安時代になると、香の文化は宗教の枠を超え、貴族社会の洗練された美意識と結びついていく。彼らは香を焚いてその香りを鑑賞するだけでなく、様々な香料を練り合わせて独自の香りを創り出す「薫物(たきもの)」に熱中した 9 。さらに、複数の香を聞き、その異同や由来を和歌の世界観と結びつけて鑑賞する「薫物合(たきものあわせ)」という遊戯が生まれ、高度な教養と感性が求められる芸道へと昇華していった 6 。
この、香を単なる嗅覚の対象としてではなく、文学的・精神的な世界観と結びつけて楽しむという平安貴族の伝統は、後の香道の成立に決定的な影響を与えることになる。宗教的儀式から始まった日本の香文化が、貴族の美意識によって芸道化への素地を育んだこと、この文化的土壌こそが、室町時代に「三芳野」のような名香が格付けされ、戦国武将たちがそれを単なる贅沢品以上の価値あるものとして渇望するに至る、全ての物語の序章であった。
室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477年)によって京都は焦土と化し、幕府の権威は失墜した。この混乱と荒廃の時代に、第八代将軍・足利義政は、政治の世界から距離を置き、文化の探求に没頭した 11 。彼が東山に築いた山荘(後の慈照寺銀閣)を中心に花開いたこの文化は「東山文化」と呼ばれ、禅の精神を基調とした、簡素で内省的な美意識「わび・さび」を特徴とする。
義政の下には、身分を問わず多くの文化人が集い、後の日本の伝統文化の礎となる芸道が体系化されていった 11 。村田珠光が茶の湯を大成させ、相阿弥が書院造や枯山水の庭園様式を確立したのと並行して、義政が特に深く愛好したのが「香」であった 7 。彼は、それまで貴族の遊びや寺社の儀式として存在していた香の文化を、一定の作法と精神性を持つ「道」として確立させることを目指し、その体系化の祖となったのである 11 。
足利義政の命を受け、香道の基礎を築いた中心人物が二人いる。一人は、当代随一の文化人であった公家の三条西実隆(さんじょうにし さねたか)。もう一人は、義政の近臣であった武家の志野宗信(しの そうしん)である 11 。
三条西実隆を始祖とする流派は「御家流(おいえりゅう)」と呼ばれる 16 。この流派は、平安時代以来の公家社会で育まれた、和歌と香りを結びつける優雅な伝統を色濃く受け継いでいる 9 。その作法は伸びやかで、華麗な蒔絵が施された香道具を用いるなど、典雅な宮廷文化の気風を特徴とする 10 。実隆自身、その膨大な日記『実隆公記』に香木に関する記述を数多く残しており、彼が香文化の深化に果たした役割の大きさがうかがえる 13 。
一方、志野宗信を始祖とする流派は「志野流(しのりゅう)」と称される 16 。こちらは主に武家社会の中で発展し、武家の礼法を重んじる、質実剛健で精神性を重視する様式を特徴とする 9 。宗信は、義政の命により古来の香の様式を研究し、新たな香道の方式を定めたとされている 7 。
このように、香道がその成立当初から、公家の三条西実隆と武家の志野宗信という、異なる出自を持つ二人の人物によって体系化されたという事実は極めて重要である。それは、香道が宮廷の優美さと武家の精神性の双方を内包する、公武両様の文化として確立されたことを意味する。この特性こそが、後の戦国時代において、武将たちが香の文化を抵抗なく受け入れ、自らの教養として深く取り込んでいくための重要な素地となったのである。
義政の下で進められた香道の体系化において、画期的な事業が行われた。それは、天下に存在する数多の香木の中から、特に由緒正しく、香りの優れたものを選び出し、格付けを行うという試みであった 21 。この事業の中心的な役割を担ったのが、志野宗信である。
宗信は、足利将軍家が所蔵していた膨大な香木(その多くは南北朝時代の武将・佐々木道誉が収集したものとされる)や、三条西実隆が所持していた香木を分類・精選した 15 。そして、それらを体系的に整理し、「六十一種名香」として定めたのである 15 。この選定は、単なる趣味のリスト作成ではない。それは、応仁の乱で失われかけた文化の価値を再定義し、後世に伝えるための、義政政権下の一大文化事業であった。
この「六十一種名香」の中でも、法隆寺伝来の香木や東大寺の蘭奢待など、特に由緒深い十一種は「十一種名香」として別格の扱いを受けたとされる 22 。そして、この最高位のグループに名を連ねたのが、伽羅の名香「三芳野」であった 23 。
この格付けという行為は、香木の世界に革命をもたらした。それまで漠然と「良い香り」として評価されていた香木に、「銘」と「格」という新たな価値が付与されたのである。これにより、香木は単なる自然の産物から、物語と権威をまとった「文化的資産」へとその姿を変えた。茶器における「名物」の誕生と同様、この価値の転換こそが、後の戦国武将たちによる熾烈な名香収集の引き金となる、決定的な瞬間であった。
室町時代、東山文化の洗練された美意識の中で公式にその価値を認められた名香「三芳野」。その特性と文化的背景を解き明かすことは、戦国時代における価値を理解する上で不可欠である。以下にその基本情報をまとめる。
表1:名香「三芳野」の基本情報
項目 |
詳細 |
典拠・補足 |
香名 |
三芳野(眞芳野) |
『六十一種名香』に記載 24 。 |
分類(六国) |
伽羅 |
香木の最高位に分類される 15 。 |
香質(五味) |
辛苦酸甘 |
辛味、苦味、酸味、甘味の四つの香質を持つ複雑な香り 15 。 |
格付け |
六十一種名香(十一種名香) |
室町幕府八代将軍・足利義政の命により選定された最高位の香木群 22 。 |
選定者 |
三条西実隆、志野宗信 |
それぞれ香道の二大流派の祖 11 。 |
時代背景 |
室町時代・東山文化 |
15世紀後半に公式に格付けされる。 |
歴史的言及 |
『新札往来』(1367年) |
「近比三芳野・逍遙・沼水等、賞翫之由聞候」との記述あり 23 。 |
香道では、香木をその香質によって体系的に分類する。その代表的な分類法が「六国五味(りっこくごみ)」である。
「六国」とは、香木を伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那賀(まなか)、真南蛮(まなばん)、寸門陀羅(すもんだら)、佐曽羅(さそら)の六種に分類するもので、これは産地ではなく、あくまで香りの質の違いによる分類である 3 。「三芳野」が分類される「伽羅」は、その六国の筆頭に挙げられる最高位の香木を指す。その香りは「ひそやかで優美な様は、宮人のごとし」と評され、常温でも香りを放ち、熱を加えた際の香りの変化も豊かであることから、他の五種とは一線を画す別格の存在とされている 3 。
一方、「五味」とは、香木の複雑な香りを、辛(しん)・甘(かん)・酸(さん)・鹹(かん)・苦(く)という味覚の五つの要素に喩えて表現する、日本独自の繊細な感性に基づいた分類法である 24 。「三芳野」の五味は「辛苦酸甘」とされ、辛味、苦味、酸味、そして甘味という四つもの要素を併せ持つことが示されている 23 。これは、「三芳野」の香りが単調ではなく、焚いた時に時間とともに様々な表情を見せる、極めて多層的で奥深いものであることを物語っている。
香木には、その香りが喚起する情景や、古典文学、和歌、名所旧跡にちなんだ「銘」が付けられることが多い 25 。「三芳野」という銘もまた、豊かな文化的背景を持つ雅名である。
「みよしの」は、古来、桜の名所として名高い大和国(現在の奈良県)の吉野山を指す言葉として、数多くの和歌に詠まれてきた。例えば、『古今和歌集』の紀友則の歌「み吉野の山べに咲ける桜花 雪かとのみぞあやまたれける」は、吉野の満開の桜を雪に見立てた名歌として知られる。
「三芳野」の香りを聞くという行為は、単にその芳香を嗅覚で楽しむにとどまらない。その銘を聞いた者は、心の中に吉野の山々に咲き誇る桜の情景や、それにまつわる数々の和歌の世界を思い浮かべる。それは、香りという見えないものを媒体として、個人の記憶や教養、美意識を総動員して行われる、高度に知的な遊戯であった。香木は、嗅覚を通じて人間の知性と感性を同時に刺激する、類まれなメディアだったのである。「三芳野」という銘は、まさに日本の香文化が持つ、そうした奥深い精神性を象徴していると言えよう。
特筆すべきは、「三芳野」が足利義政の時代に初めて歴史に登場したわけではないという事実である。南北朝時代に成立したとされる書簡文例集『新札往来』には、「近頃、三芳野、逍遙、沼水といった香木がもてはやされていると聞いております」という一文が見られる 23 。これは、義政による「六十一種名香」選定の約百年も前から、「三芳野」が既に高名な香木として、文化人たちの間で広く知られ、珍重されていたことを示す動かぬ証拠である。
この事実は、義政と宗信らによる名香の選定が、全く無名の香木に新たな価値を創造する行為ではなかったことを示唆している。むしろそれは、既に世に知られた名香の権威を幕府が再確認し、公式に「正典化(canonize)」する行為であったと解釈できる。この公的な権威付けによって、「三芳野」は単なる「評判の良い香木」から、幕府お墨付きの「天下の名香」へとその地位を不動のものとした。そして、この揺るぎない権威こそが、下剋上の世を生きる戦国武将たちの所有欲を、抗いがたいほどに掻き立てる決定的な要因となったのである。
戦国時代、優れた香木、すなわち「名香」は、単なる嗜好品や贅沢品の域をはるかに超え、大名の権威と教養、そして経済力を示す極めて重要な文化的資産となった。その価値を理解するためには、まず、すべての名香の頂点に君臨する絶対的な存在、「蘭奢待(らんじゃたい)」について知る必要がある。
蘭奢待は、奈良・東大寺の正倉院に、聖武天皇ゆかりの御物として伝わる巨大な香木である 7 。その正式名称は黄熟香(おうじゅくこう)という沈香の一種であるが、「蘭奢待」という雅名には、「東」「大」「寺」の三文字がそれぞれ隠されており、その出自の気高さを物語っている 28 。全長1.5メートル超、重さ11キログラムを超えるその威容は、他の香木を圧倒する 7 。しかし、その価値を絶対的なものとしているのは、大きさだけではない。何よりも、それが天皇家に由来し、正倉院に納められた「御物」であるという、比類なき由緒である 30 。
この天下第一の名香を切り取ることは、天皇の勅許なくしては許されない。そして、それを許されるということは、すなわち天下の支配者たる資格を持つことの証明に他ならなかった。室町時代には、将軍足利義満、義教、そして香道の祖である義政がこれを切り取った記録が残っている 7 。
この前例を踏まえ、天正二年(1574年)、織田信長は朝廷に奏上して勅許を得、蘭奢待を切り取るという前代未聞の行動に出た 30 。『信長公記』にも記されたこの事件は、信長の香木への個人的な興味からではなく、自らが足利将軍の権威を凌駕し、天下を統べるにふさわしい存在であることを世に示すための、極めて計算された政治的パフォーマンスであった 33 。彼は、東大寺の僧侶を立ち会わせ、一寸角(約3センチメートル角)二個を切り取らせると、その一つを正親町天皇に献上し、もう一つを家臣や堺の茶人たちに分け与えた 7 。この一連の行動は、武力のみならず、文化の領域においても自身が最高権力者であることを天下に宣言するものであった。
信長の蘭奢待切り取りという衝撃的な事件は、名香の持つ政治的価値を劇的に高め、他の武将たちの間に熾烈な「名香ハント」の気運を醸成した。
信長の後継者である豊臣秀吉もまた、香木の収集に熱心であった 32 。彼の香木への深い思いを物語る逸話がある。本能寺の変で信長の遺体が見つからなかった際、秀吉は信長の葬儀を執り行うにあたり、香木で信長の木像を二体作らせ、その一体を遺体の代わりに棺に納めて荼毘に付したという 35 。これは、香木が単なる貴重品ではなく、高貴な人物の魂を宿すにふさわしい、極めて神聖なものと見なされていたことを示す証左である。
そして、天下統一を成し遂げた徳川家康の香木への執心は、他の武将の群を抜いていたと言われる 32 。彼は東南アジアから渡来する最上級の香木を熱心に求め、多忙な政務の合間に自ら香の調合まで行っていたと伝えられている 36 。家康にとって香は、精神的な安らぎを得るための癒やしの手段であると同時に、天下人としての深い教養と揺るぎない威厳を示すための重要な小道具でもあった。
このように、戦国時代の覇者たちにとって、名香を所有することは、一国の主であることの証であった。それは、名物とされた茶器と同様に、時には一城にも値するほどの価値を持ち、家臣への最高の恩賞として、あるいは大名間の外交における重要な贈答品として、歴史の舞台裏で大きな役割を果たしたのである。
蘭奢待が、誰もが知りながらも決して手に入れることのできない「究極の目標」として存在したからこそ、それに次ぐ権威を持つ「六十一種名香」、とりわけその筆頭格である「十一種名香」の一角を占める「三芳野」への渇望は、より現実的な目標として、戦国の武将たちの間で激しく燃え上がったに違いない。戦国時代において、文化は政治と不可分であった。名香を所有し、それを鑑賞する作法を心得ていることは、武将の「武」だけでなく「文」の能力、すなわち統治者としての総合的な器量を示すための重要な指標となった。「三芳野」のような名香は、この「文武両道」の理想を体現する、極めて象徴的な存在だったのである。
これまでの調査において、「三芳野」が特定の戦国武将によって所有された、あるいは茶会で用いられたという直接的かつ具体的な記録は見出すことができなかった。この「記録の不在」は、一見すると「三芳野」が戦国時代において重要視されていなかった証拠のようにも思える。しかし、当時の文化状況を深く考察すると、むしろ逆の結論が導き出される。
織田信長が切り取った蘭奢待が『信長公記』をはじめとする多くの記録に残っているのは、その行為自体が天下に示すための「公的」で「政治的」なパフォーマンスであったからに他ならない 33 。蘭奢待は、その巨大さと天皇家の御物という出自から、もはや個人の趣味の対象ではなく、国家的な儀式の道具としての性格を帯びていた。
これに対し、「三芳野」のような「六十一種名香」に数えられる香木は、より「私的」で「文化的」な空間で享受される至宝であったと考えられる。その価値は、大々的に喧伝するものではなく、所有者が秘蔵し、ごく限られた同好の士を招いた特別な茶会などで、静かに披露される類のものであった可能性が高い。その香りは、所有者やその場に居合わせた客人の記憶の中にこそ深く刻まれるものであり、公的な記録として残りづらいのはむしろ当然であったと言えよう。記録がないことは、価値がなかったことの証明ではない。それは、蘭奢待のような「見せるための権威」とは質の異なる、「秘蔵するための文化的至宝」としての「三芳野」の性格を示唆しているのである。
「十一種名香」という最高位の格付けを持つ以上、「三芳野」が戦国武将たちの垂涎の的であったことは疑いようがない。その来歴は、名物とされた茶器のそれと軌を一にしていたと考えるのが自然である。
すなわち、室町幕府の将軍家が所持していた「三芳野」は、幕府の衰退とともに有力な守護大名の手に渡り、やがて下剋上によって彼らを打倒した戦国大名へと、その所有者が流転していったであろう。それは、大名間の外交における重要な贈答品として同盟や和睦の証となり、あるいは戦の戦利品として、勝者の権威を象徴する品となったに違いない。歴史の表舞台には現れずとも、その香りは、戦国の世の人間模様の裏側で、静かに、しかし確かに重要な役割を果たしていたと類推される。
「三芳野」という言葉を巡っては、香木以外にも歴史上いくつかの名が見られる。一つは、美濃の戦国大名・斎藤道三の側室であり、その子・斎藤義龍の母である「三芳野」という女性である 37 。また、武蔵国(現在の埼玉県)には、川越城の鎮守として歴代城主の崇敬を集めた「三芳野神社」が存在する 39 。
これらの人物や地名と、香木「三芳野」との間に直接的な関係性を示す史料は存在しない。しかし、これらの存在は、「みよしの」という言葉が持つ、優雅で由緒ある響きが、当時の人々に広く共有されていた文化的イメージであったことを示唆している。香木の銘としてこの言葉が選ばれたのも、単なる音の響きだけでなく、その背景にある豊かな文化的イメージがあったからこそであろう。
戦国大名にとっての名香の価値は一枚岩ではなかった。「蘭奢待」のような絶対的権威の象徴と、「三芳野」のような洗練された教養の証という、異なる方向性の価値が存在した。武将たちは、状況に応じてこれらの文化的資産を使い分け、自らの権力基盤を固めていった。この価値の多様性を理解することこそが、戦国時代の香文化の神髄を捉える鍵となるのである。
戦国時代の武士にとって、香は単なる趣味や教養の対象にとどまらず、その精神性に深く関わる、極めて重要な存在であった。その役割は、死と隣り合わせの「動」の空間である戦場と、静寂と向き合う「静」の空間である茶室という、両極端の場面において顕著に見られる。
戦に臨む武士が、出陣前に兜の内側に香を焚きしめるという風習があった 42 。これは、戦場で血や汗の臭いが漂う中、自らの兜から発せられる香気によって精神を集中させ、平静を保つためのものであったとされる。さらに、そこには、万が一討ち取られた際に、敵将への礼儀として、自らの首に不快な臭いをさせないという、武士ならではの美意識も込められていた。
この兜香の逸話として最も有名なのが、大坂夏の陣(1615年)で討死した豊臣方の若き武将・木村重成の物語である 43 。彼の首が敵将である徳川家康の前に届けられた際、その兜からは伽羅のえもいわれぬ香りが漂ったという。これに家康は深く感嘆し、「彼の武士としての嗜み深さは、百万石の所領にも値する」と賞賛したと伝えられる。死を覚悟した武士が、その最後の瞬間に至るまで、心の平静と美意識を失わずにいようとする姿勢。香は、その崇高な武士道精神を体現するための、重要な触媒だったのである。
戦国時代に千利休らによって大成された茶の湯の世界においても、香は不可欠な要素であった 34 。茶事の流れの中で、亭主が客人の前で炉や風炉の炭を組み直す「炭点前」という所作がある 44 。この際、整えられた炭火の上に、沈香や白檀などの香木が数片くべられる。静かな茶室に満ちる清浄な香りは、俗世から切り離された非日常的な空間を演出し、主客の精神を茶の湯の世界へと深く誘う役割を果たした。
また、この時に用いる香を納めておく小さな容器「香合(こうごう)」は、茶碗や茶入と並ぶ重要な茶道具として珍重された 44 。戦国武将たちは、名物の香合を競って収集し、その意匠や由来を茶席での話題とした。香は、茶の湯という総合芸術を構成する、重要な一要素として確固たる地位を占めていたのである。
では、常に死を意識せざるを得ない極限状況を生きた戦国武将たちは、香を聞くという静かなひとときに、一体何を求めていたのであろうか。その答えのヒントは、古くから伝わる「香の十徳」という言葉の中に見出すことができる。その中には、「静中成友(静中に友と成る)」、「塵裏偸閑(塵裏に閑をぬすむ)」といった一節がある 24 。
殺伐とした現実から一時的に離れ、一木の名香と向き合う。雑念を払い、五感を研ぎ澄ませて、指の間から立ち上る一筋の煙と、そこから放たれる複雑で奥深い香りに集中する。この行為は、孤独な時間にあっては静かな友となり、多忙な日常の中にあっては束の間の安らぎを与えてくれる、一種の瞑想にも似た時間であった 42 。それは単なるリラクゼーションではない。自らの内面と深く向き合い、精神の均衡を保ち、人間性を回復するための、極めて能動的で切実な「精神修養」の実践であった。「三芳野」のような至高の香りは、そのための最高の道具として、戦国の武士たちに渇望されたのである。
本報告書は、香木「三芳野」を軸に、日本の戦国時代における香文化の多層的な様相を考察してきた。その結論として、以下の三点を挙げることができる。
第一に、「三芳野」は、室町時代に足利義政、三条西実隆、志野宗信らによってその価値を公認された、伽羅に分類される最高位の名香である。その「辛苦酸甘」と評される複雑な香りと、「みよしの」という雅な銘は、東山文化の洗練された美意識の結晶であった。
第二に、戦国時代において、「三芳野」のような名香は、織田信長が蘭奢待を切り取ったことに象徴されるように、天下人の権威を示す政治的シンボルとしての価値を持っていた。同時に、それは莫大な経済的価値を持つ資産であり、武将たちの間で熾烈な争奪の対象となった。
第三に、そして最も重要な点として、名香は武士たちの精神世界において不可欠な役割を果たしていた。戦場での覚悟の表明、茶室における精神の浄化、そして日々の修養。香を聞くという行為は、死と隣り合わせの日常を生きる武士たちが、心の平静を保ち、自らの人間性を見つめ直すための、極めて重要な精神的支柱であった。
「三芳野」が戦国武将の手にあったことを示す直接的な記録は乏しい。しかし、それはその価値の低さを示すものではなく、むしろ蘭奢待のような「公的な権威の象徴」とは異なる、「私的な精神の至宝」としての性格を物語っている。その価値は、公の記録ではなく、所有者や選ばれた客人の記憶の中にこそ、深く刻まれたのであろう。
一つの香木の物語は、単にそれ自体の歴史にとどまらない。それは、自然の偶然が生み出した物質が、人間の美意識、宗教観、政治的野心と交錯する中で、いかにして不朽の「文化遺産」へと昇華していくかを示す壮大な叙事詩である。「三芳野」の背後には、香を愛でた公家たちの優雅な時間、それを体系化した室町将軍の文化的野心、そしてその香りに己の精神を託した戦国武将たちの、静かで熱い思いが幾重にも重なっている。
室町時代に確立され、戦国時代に武家社会で花開いた香道は、江戸時代には庶民にも広がり、御家流と志野流という二大流派を中心に、現代に至るまでその精神と作法が脈々と受け継がれてきた 14 。我々が今、「三芳野」という一つの名香の歴史を紐解くことは、単に過去の遺物を知ることではない。それは、その一筋の香りに込められた人々の精神や、時代を超えて受け継がれてきた日本の文化の深層に触れる、知的な旅なのである。