「上杉瓢箪」は、東山御物から天下人まで渡り、命より重いとされた名物茶入。その美と歴史は日本の権力と美意識を映す。
日本の戦国時代、茶の湯は単なる閑雅な趣味や芸道ではなかった。それは、武将たちが自らの権威を示し、敵味方の腹を探り合う、高度に政治的な駆け引きの舞台であった。この時代において、優れた茶道具、すなわち「名物」は、領地や金銀と並ぶ、あるいはそれを凌駕するほどの価値を持つ戦略的資産と見なされていた。特に、織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、「名物狩り」と称される大規模な蒐集活動を展開した。これは、武力による支配を補完し、文化的な権威を確立するための洗練された政治戦略に他ならなかった。一つの茶入が「一国一城」に値するとされたように 1 、名物茶道具は、所有者のステータスを可視化し、主従関係を確認し、時には外交の切り札ともなる「文化資本」としての役割を担っていたのである。
このような名物茶道具の中でも、最高位に位置づけられるのが「漢作唐物(かんさくからもの)」と呼ばれる一群である。これは、中国大陸から舶載された「唐物茶入」のうち、特に時代が古く(主に宋・元代)、作行きが優れたものを指す呼称である 1 。古来、その定義を巡っては、「真に中国から渡来した陶磁器」とする説と、「鎌倉時代の陶工・加藤四郎左衛門景正(藤四郎)が中国から持ち帰った土と釉薬を用いて日本で焼いたもの」とする説が存在し、議論が重ねられてきた 5 。この定義の揺らぎ自体が、舶来品への強い憧憬と、茶の湯という文化体系を確立しようとする日本の茶人たちの情熱を物語っている。いずれにせよ、「漢作」とは、その出自と美しさにおいて、他の追随を許さない絶対的な権威を持つ茶入の代名詞であった。
本報告書で詳述する「上杉瓢箪」は、この「漢作唐物」に分類され、さらに名物の中でも特に由緒が深く貴重とされる「大名物」の格付けを与えられた、最高級の茶入である 7 。その価値は、数ある瓢箪形の茶入の中でも特に優れた六点を指す「天下六瓢箪」の中でも、「随一」、すなわち筆頭と称されることからも明らかである 7 。
しかし、その価値は単に美術品としての完成度の高さに由来するだけではない。一つの陶製の小壺が「天下第一」とまで呼ばれるに至った背景には、その所有者の変遷を通じて幾重にも積み重ねられた、権威と物語の層が存在する。中国の窯で無名の陶工によって生み出された一つの器が、日本の地でまず村田珠光や武野紹鴎といった茶の湯の宗匠に見出され、美的権威を付与される 11 。次に足利将軍や大内氏といった時の権力者の手に渡ることで、政治的権威をまとう 9 。そして、大友宗麟が人の命よりもこの茶入を望んだという逸話のように、劇的な物語が付与されることで、その価値は伝説的な領域へと昇華する 13 。このようにして、「上杉瓢箪」は単なる物としての存在を超え、時代の権力と美意識が凝縮された文化的アイコンへと変貌を遂げたのである。本報告書は、この「上杉瓢箪」が辿った波乱の道のりを、戦国時代という視座から徹底的に解き明かすことを目的とする。
「上杉瓢箪」の輝かしい来歴の起点は、室町幕府八代将軍・足利義政(1436-1490)の時代に遡る。義政が蒐集した美術工芸品は、彼の邸宅であった東山殿の名にちなみ「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称され、後世の美術品評価における絶対的な基準となった。「上杉瓢箪」は、この東山御物の一つであったと伝えられている 8 。『金森得水古今茶話』によれば、義政が中国大陸へ数十から数百の道具を注文した中で、この瓢箪茶入が「最上の出来」であったという伝承も残っており、その出自がいかに別格であったかを物語っている 9 。銀閣に代表される東山文化は、禅の精神を基調とした簡素で内省的な美意識、すなわち「わび・さび」の源流を形成した。この文化を庇護した最高権力者のコレクションに加わっていたという事実が、「上杉瓢箪」に揺るぎない権威と品格を与えた最初の要因であった。
東山御物としての価値に加え、「上杉瓢箪」の重要性を決定づけたのは、その後の所有者の系譜である。義政の手を離れたこの茶入は、わび茶の創始者と称される村田珠光(1423-1502)、そしてその教えを受け継ぎ、さらに発展させた武野紹鴎(1502-1555)へと相伝されたと記録されている 8 。
珠光は、それまで書院における豪華な唐物中心の茶の湯に、禅の精神性を取り入れ、簡素な和物の道具にも美を見出す「侘び」の概念を導入した人物である。また、紹鴎はその思想をさらに深化させ、千利休をはじめとする後代の茶人たちに多大な影響を与えた。この二人の偉大な茶の湯の宗匠の手に渡ったことで、「上杉瓢箪」は単なる将軍家の華麗なコレクションの一つという位置づけから、茶の湯の精神性を体現する道具へと、その意味合いを大きく変えた。彼らの厳しい審美眼によって選び抜かれたという事実は、この茶入が真に優れた芸術性を備えていることの証明となり、後世の茶人たちにとって絶対的な価値を持つに至るのである。将軍の権威と、茶の湯の宗匠の審美眼。この二つの権威が初期の段階で融合したことこそ、「上杉瓢箪」が名物として別格の道を歩み始めるための盤石な土台となった。
茶の湯の宗匠たちの手を経た後、この名高い茶入は西国に覇を唱えた戦国大名、周防の主・大内義隆(1507-1551)の所蔵となった 9 。この頃、茶入は所有者の名にちなんで「大内瓢箪」と呼ばれていた 9 。大内氏は、日明貿易(勘合貿易)を掌握し、大陸の進んだ文化や富を独占的に享受していた。その本拠地である山口は「西の京」と称されるほどの繁栄を誇り、義隆自身も文化人として、また茶の湯の熱心な庇護者として知られていた。彼にとって、東山御物であり、珠光・紹鴎が認めたこの茶入を所有することは、自らの経済力と軍事力に加え、文化的権威をも天下に示すための強力な象徴であった。大陸との窓口であった大内氏が、大陸伝来の至宝を所有するという構図は、彼の権勢を完璧に体現していたのである。
しかし、栄華を極めた大内氏の権勢は長くは続かなかった。義隆が家臣の陶晴賢による謀反(大寧寺の変)で自刃に追い込まれると、大内家は急速に衰退する。そして弘治3年(1557年)、安芸の毛利元就が、晴賢が擁立した大内義長(義隆の養子)を長門で攻め、自害させたことで、西国に君臨した名門・大内氏は完全に滅亡した 13 。この歴史の激動の中で、「大内瓢箪」は戦乱を生き延び、勝利者である毛利元就の手に渡ったと推測される。名物茶道具は、しばしば戦利品として勝者の手に渡り、権力の移譲を象徴する役割を果たした。
「大内瓢箪」の来歴において、その価値と物語性を飛躍的に高めることになったのが、大内家滅亡に際しての衝撃的な逸話である。毛利元就は、追い詰めた大内義長の処遇について、義長の兄(実兄)であり、豊後のキリシタン大名として知られる大友宗麟に判断を委ねた。宗麟と義長は姻戚関係にもあったため、元就は宗麟が助命を嘆願するものと考えていたのかもしれない。しかし、宗麟の返答は元就の予想を裏切るものであった。彼は義長の命を救うことを求めず、代わりに大内家が秘蔵していたこの茶入を譲り受けることを所望したのである 13 。
この逸話は、戦国武将の価値観がいかに常軌を逸していたかを如実に示している。血縁者の命よりも、天下に名だたる茶入の所有を優先するという選択は、現代の倫理観からは到底理解しがたい。しかし、これは当時の武将たちにとって「名物」が、単なる美術品ではなく、自らの名誉、権威、そして存在価値そのものに関わる、極めて重要な意味を持っていたことの証左である。この一件により、茶入は毛利元就から大友宗麟の手に渡り、その名は「大友瓢箪」と改められた 11 。人の命と引き換えにされたという劇的な物語は、この茶入に比類なき背景を与え、その価値を不動のものとしたのである。
「大友瓢箪」が次に歴史の表舞台に登場するのは、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定の時である。島津氏の攻勢に苦しんでいた大友氏は秀吉に助けを求め、豊臣方として九州平定戦に参加した。戦後、秀吉は大友氏の領地を安堵する。この恩賞に対する謝礼として、大友宗麟の子・義統は、父祖伝来の至宝である「大友瓢箪」を秀吉に献上した 13 。
この献上は、単なる感謝の意を示す贈答品ではなかった。それは、大友家が地方の独立した勢力であることをやめ、秀吉が頂点に立つ天下の政治秩序、すなわち豊臣政権のヒエラルキーに完全に組み込まれたことを示す、明確な服従儀礼であった。この時代の名物の移動は、言葉以上に雄弁な政治的言語であった。地方の権威の象徴であった「大友瓢箪」が、中央の新たな支配者である秀吉の元に集められるという行為そのものが、天下統一が成ったことを物理的に示すものであった。秀吉は、こうして全国の大名から献上させた名物茶道具を「道具政治」の根幹に据え、自らの絶対的な権威の源泉としたのである。
天下の至宝を手中に収めた秀吉は、それを自らの権威を再分配するための道具として巧みに利用した。聚楽第にて、秀吉は自らの手でこの茶入を、豊臣政権の重鎮である五大老の一人、越後の上杉景勝に下賜した 9 。この瞬間から、この茶入は今日まで続く「上杉瓢箪」という名を得ることになる。
この下賜もまた、極めて政治的な意味合いを持つ行為であった。秀吉にとって、上杉景勝はかつての宿敵・上杉謙信の後継者であり、その強大な軍事力を政権内に安定して取り込んでおく必要のある、最も重要な大大名の一人であった。天下第一と謳われる茶入を与えるという行為は、景勝の豊臣政権内における序列と重要性を公的に認め、その功績を最大限に称揚するものであった。それは同時に、比類なき恩賞を与えることで景勝の忠誠心を確固たるものにし、彼を豊臣政権に強く結びつけるための、秀吉一流の巧みな人心掌握術であった。秀吉は権威の象徴である茶入を手放したのではなく、それを媒介として、より強固な主従関係という政治的資本を築き上げたのである。
秀吉の狙い通りか、あるいはそれを超えて、上杉景勝はこの茶入を生涯の宝としてこよなく愛した。その溺愛ぶりを示す逸話として、景勝は合戦に赴く際でさえ、この「上杉瓢箪」を錦の袋に入れて首から下げ、常に肌身離さず携行したと伝えられている 9 。
この逸話は、この茶入が景勝にとって、単なる秀吉からの下賜品や財産、ステータスシンボルといった次元を超えた存在であったことを示唆している。生死の境である戦場にまで持っていくという行為は、この小壺が彼の精神的な支柱であり、武将としての誇り、あるいはアイデンティティそのものと深く結びついていたことを物語る。天下人秀吉から与えられた天下第一の茶入を身につけることは、自らの武威と名誉を鼓舞する行為であったのかもしれない。ここにきて「上杉瓢箪」は、政治の道具という側面だけでなく、一人の武将の魂と一体化した、究極の愛蔵品としての物語をもその身に刻み込むことになったのである。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が訪れると、「上杉瓢箪」の役割もまた、時代の変化とともに変容を遂げていく。上杉景勝の死後、家督を継いだ息子の定勝が寛永20年(1643年)に亡くなると、その子・綱勝が米沢藩主の座を継いだ。綱勝は、この家督相続を幕府に正式に認めてもらうための襲封の御礼として、父・定勝の遺物であった「上杉瓢箪」を、義弘の刀や牧谿の掛物とともに、四代将軍・徳川家綱に献上した 9 。
これは、戦国時代の力による奪い合いや、豊臣政権下での忠誠の証としての授受とは、その意味合いが大きく異なる。安定した幕藩体制下において、名物の献上は、大名が将軍に対して絶対的な忠誠を誓い、幕府の秩序に従うことを確認するための、極めて儀礼的な行為となっていた。かつては権力闘争の渦中にあった「上杉瓢箪」が、今や泰平の世の主従関係を円滑に維持するための道具として用いられたことは、時代の大きな転換を象徴する出来事であった。
徳川将軍家の所蔵となった「上杉瓢箪」は、その後、興味深い流転を経験する。一時、将軍家から加賀百万石を領する外様大名の雄、前田家に下賜されたのである。前田綱紀が万治元年(1658年)に祖父・利常の遺物として献上した品々の中に「漢瓢箪の茶入」との記録があり、これが「上杉瓢箪」を指すと考えられている 9 。しかし、その後、この茶入は再び徳川将軍家に戻された 8 。この有力大名家との間の移動は、幕府が名物茶道具を一種の恩賞やコミュニケーションツールとして用い、特に影響力の大きい外様大名との関係を巧みにコントロールしていた可能性を示唆している。
将軍家に戻された「上杉瓢箪」は、その最終的な安住の地を見出すことになる。『金森得水古今茶話』によれば、徳川御三家の筆頭であり、将軍家に次ぐ格式を誇った紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣が隠居する際の祝いとして、将軍家(三代家光、あるいはその後の将軍)から直々に下賜された 9 。これにより、「上杉瓢箪」は紀州徳川家の所蔵となり、以後、明治維新に至るまでの約250年間、同家に秘蔵されることとなった。もはや政争の具として諸大名の間を渡り歩くことはなく、徳川一門の筆頭たる大名家の格式と文化的な権威を保証する「家の宝」として、泰平の世の中で静かにその輝きを保ち続けたのである。
「上杉瓢箪」が数多の権力者を魅了し続けた理由は、その輝かしい来歴と物語性だけではない。掌中の小宇宙とも言うべき、その類稀なる美術的価値こそが、すべての根底にある。
その名の通り瓢(ひさご)の形を模したこの茶入は、瓢箪形の中でも上部がややくびれ、口がすぼまった「口瓢箪」に分類される 7 。特筆すべきは、天下六瓢箪の中で最も小さいとされている点である 7 。実際に目にすると、手のひらにすっぽりと収まるほどの愛らしい大きさでありながら、薄手で極めて精巧な轆轤(ろくろ)技術によって成形されており、凛とした気品を漂わせている 13 。本歌の正確な寸法に関する公式記録は限られるが、後世に作られた数多くの写しの寸法を見ると、おおよそ胴径が 5.9cm から 6.4cm、高さが 6.2cm から 7.2cm の範囲にあり、その小ぶりな姿を具体的に窺い知ることができる 11 。この凝縮された端正な姿が、見る者に深い印象を与える。
「上杉瓢箪」の美しさを決定づけているのが、その複雑で深みのある釉薬の調子である。素地を覆う基本の釉薬は、温かみのある橙褐色を呈した「柿金気釉(かきかなけゆう)」である 7 。その上に、黒みを帯びた艶やかな飴色釉が重ねて掛けられている。この二種類の釉薬が焼成過程で複雑に溶け合い、鳥の鶉(うずら)の羽の斑紋にも似た、細かく美しい文様を生み出している。これは「鶉斑(うずらふ)」と呼ばれ、名物茶入に見られる景色の中でも特に高く評価されるものである 7 。さらに、釉薬の一部が抜けて素地の色が見える「釉抜け紋」も散見され、単調ではない豊かな表情を作り出している 7 。
茶道具の鑑賞において最も重要視されるのが、窯の中の炎や釉薬の偶然の作用によって生み出される、二つとない文様や色彩の変化、すなわち「景色」である。「上杉瓢箪」の最大の魅力であり、その価値を決定づける「景色」は、口縁から肩にかけての部分に現れている。この部分では、濃い黒飴釉が、まるでとろりとした蜜がなだれ落ちるかのように掛かっている 7 。この釉薬の自然で力強い流れが生み出す景色は、静謐な器体に劇的な動きと生命感を与えている。この絶妙な景色は、江戸時代の大名茶人・松平不昧が所持したことで知られる国宝「油屋肩衝」の景色と並び称されるほどであり、数ある名物茶入の中でも白眉とされる所以である 7 。
名物茶入は、本体だけでなく、それを保護し、その格を高めるための付属品もまた重要である。蓋は、唐物茶入の約束事として象牙を削り出して作られている 15 。そして、茶入を包む袋である「仕覆(しふく)」は、持ち主の趣味や茶入の格を示す重要な要素となる。後代の写しには「東山金襴」や「青木間道」といった名物裂が用いられているが 11 、近代の名物研究の集大成である『大正名器鑑』の記述によれば、本歌の主たる仕覆は、舶来の縞織物の中でも特に珍重された名物裂「青木間道(廣東)」であったとされている 12 。この格式高い仕覆の存在もまた、「上杉瓢箪」の価値を一層高めている。
「上杉瓢箪」の価値を理解する上で、それが属するカテゴリーである「天下六瓢箪」との比較は不可欠である。これは、数ある瓢箪形の唐物茶入の中から、特に優れた名物として選び抜かれた六つの茶入の総称である 8 。
『大正名器鑑』や片桐石州の箱書などによれば、天下六瓢箪は以下の六つの茶入を指すとされる 8 。それぞれの来歴、特徴、現在の所蔵先を比較することで、「上杉瓢箪」がその中でどのような位置を占めているかが明確になる。
名称 |
別名 |
分類 |
特徴・評価 |
主要な伝来 |
現所蔵先 |
上杉瓢箪 |
大内瓢箪, 大友瓢箪 |
大名物 |
六瓢箪の随一と称される。最小で精巧な作。鶉斑となだれの景色が美しい。 |
足利義政→珠光→紹鴎→大内義隆→大友宗麟→秀吉→上杉景勝→徳川将軍家→紀州徳川家→野村得庵 |
野村美術館 7 |
稲葉瓢箪 |
なし |
大名物 |
六瓢箪の第二位。景色に富み、釉色が美麗。無疵であることも特筆される。 |
(大友家→秀吉→)稲葉正則→松浦家→岩崎弥之助 |
静嘉堂文庫美術館 8 |
眞珠庵瓢箪 |
なし |
大名物 |
詳細な特徴は不明だが、六瓢箪の一つに数えられる。 |
(詳細不明) |
大徳寺 眞珠庵 8 |
佐久間瓢箪 |
なし |
大名物 |
詳細な特徴は不明だが、六瓢箪の一つに数えられる。 |
佐久間家→前田対馬守(加賀八家) |
所在不明 8 |
茶屋瓢箪 |
なし |
大名物 |
詳細な特徴は不明だが、六瓢箪の一つに数えられる。 |
本阿弥光的→茶屋長以(尾張茶屋家)→宗古→本多安茂 |
所在不明 8 |
玉津島瓢箪 |
茶屋瓢箪 |
中興名物 |
小堀遠州による命銘。和歌にちなむ。 |
本阿弥光的→茶屋長以→本多安茂→尾張徳川家 |
徳川美術館 8 |
上の表からもわかるように、「茶屋瓢箪」と「玉津島瓢箪」には複雑な関係性が見られる。徳川美術館が所蔵する「玉津島瓢箪」は、その来歴の中に「茶屋長以」や「本多安茂」といった、「茶屋瓢箪」と共通の所有者名が見える 21 。このことから、「玉津島瓢箪」はかつて「茶屋瓢箪」とも呼ばれていた可能性が高く、両者は同一の品を指すという見方が有力である。しかし、古くからの伝承では六瓢箪を列挙する際に両者を別個のものとして数える場合もあり 8 、歴史的に別々の名物として認識されてきた経緯も無視できない。これは、名物の伝承が時代とともに変化し、時に混乱が生じることを示す好例と言える。
他の瓢箪茶入もそれぞれに由緒と価値を持つ中で、なぜ「上杉瓢箪」が「随一」、すなわち天下第一と評されるのか。その理由は、以下の三つの要素が奇跡的に高い次元で融合している点に求められる。
第一に、 伝来の格の高さ である。室町将軍家の東山御物に始まり、わび茶の宗匠、西国の覇者、天下人、五大老、徳川将軍家、そして御三家筆頭と、日本の最高権力者と文化の頂点を極めた人々の手を途切れることなく渡り歩いたその来歴は、他の追随を許さない。まさに日本の権威の歴史そのものを体現している。
第二に、 物語の劇的さ である。大友宗麟が血縁者の命よりもこの茶入を望んだという、人の価値観を揺さぶる強烈な逸話。そして、上杉景勝が百戦錬磨の武将でありながら、この小壺を戦陣にまで携行したという、深い愛情を示す物語。これらの逸話は、「上杉瓢箪」を単なる美術品から、人々の記憶に深く刻まれる伝説へと昇華させた。
そして第三に、 揺るぎない美術的品格 である。掌に収まるほどの小さな器に凝縮された精緻な造形美と、鶉斑や釉薬のなだれが織りなす、静と動が共存する絶妙な景色。その美しさは、理屈を超えて人の心を捉える力を持っている。
これら「伝来」「物語」「美」の三要素が完璧に揃っている点こそが、「上杉瓢箪」が天下六瓢箪の筆頭、そして数ある名物茶入の中でも特別な存在として、今日まで語り継がれる理由なのである。
江戸幕府の崩壊と明治維新という未曾有の社会変革は、大名家に伝来した多くの文化財の運命をも大きく変えた。約250年にわたり「上杉瓢箪」を秘蔵してきた紀州徳川家も、その例外ではなかった。旧大名家が経済的基盤を失う中で、昭和2年(1927年)4月、同家の所蔵品が大規模な売立(オークション)に出品された。この歴史的な売立に、「上杉瓢箪」も姿を現したのである。そして、この天下の名物を3万5960円という、当時としては破格の高値で落札したのが、野村財閥の創始者であり、自らも得庵と号した数寄茶人であった野村徳七その人であった 9 。
この出来事は、単なる美術品の取引ではない。それは、日本の文化の守護者(パトロン)が、旧来の武家階級から、近代産業を牽引する新たな資本家階級へと移行したことを象徴する、歴史的な瞬間であった。封建社会において権威の象徴であった名物が、近代資本主義の論理に基づいて市場で売買され、新たな時代の富と権力を持つ者の手に渡ったのである。野村得庵のような産業人が、旧支配階級の至宝を蒐集した行為は、自らの社会的地位を文化的に正当化し、新たな時代の文化の担い手としての役割を宣言する意味合いをも含んでいた。
野村得庵によって蒐集された珠玉のコレクションは、彼の死後、その遺志を継いで設立された公益財団法人野村文華財団が運営する野村美術館(京都市左京区)に収蔵された 9 。「上杉瓢箪」は、現在も同館を代表する至宝として大切に保管・公開されている。かつては限られた権力者の間でしか目にすることが許されなかったこの名物が、美術館という公共的な施設に収蔵されたことで、その歴史的・文化的な価値が広く一般に共有される道が開かれた。それは、「上杉瓢箪」が権力者の私有物としての長い歴史を終え、国民全体の文化的資産として新たな生を得たことを意味する。
現代の文化財保護法に基づく「国宝」や「重要文化財」といった指定は、「上杉瓢裳」にはなされていない。しかし、その価値が何ら損なわれるものではない。なぜなら、この茶入は、近代的な法制度が確立される以前の、数百年にわたる茶の湯の世界において、最高の格付けである「大名物」という評価を既に得ているからである。この歴史的な格付けは、法的な指定以上に、茶の湯文化におけるこの器の重要性と絶対的な価値を物語っている。
「上杉瓢箪」は、単なる美しい茶入ではない。それは、室町時代の東山文化に生まれ、戦国乱世の権力闘争の渦中で価値を高め、安土桃山時代の天下統一の象徴となり、江戸時代の泰平の世で大名家の格式を支え、そして近代化の波の中で新たな文化の担い手へと受け継がれていった、「歴史の証人」である。
その小さな身体のうちには、足利義政の雅、大友宗麟の執着、豊臣秀吉の野心、上杉景勝の愛情、そして徳川家の威光が凝縮されている。一つの小壺が、これほどまでに日本の権力構造の変遷と、時代ごとの美意識のありようを鮮やかに映し出している例は、他に類を見ない。掌中の小宇宙「上杉瓢箪」は、これからも日本の歴史と美を静かに、そして雄弁に語り継いでいくであろう。