名香「上馬」は伽羅の辛甘苦の香。天下への野心と戦場の厳しさ、勝利の甘さ、無常の苦を映す。武将の武勇と内面を統合し、戦国の魂を伝える。
群雄が割拠し、昨日の主君が今日の敵となる下剋上が日常であった戦国乱世。武将たちがその覇権を誇示するために渇望したのは、名馬や刀剣、そして名物茶器だけではなかった。彼らの精神世界の深奥にまで影響を与え、時にはその死生観をも体現する至宝、それが「名香」であった。ひとたび火にくべられれば、えもいわれぬ香りを放ち、空間を満たす一木(いちぼく)。そのひとすじの煙の中に、武将たちは何を求め、何を見出したのであろうか。
本報告書では、数ある名香の中でも、特に力強く、謎多き銘を持つ「上馬(じょうば)」に焦点を当てる。五十種名香の一つに数えられ、香木は最高峰の伽羅(きゃら)、その香味は「辛甘苦」と評される。そしてその名は、前脚を上げて激しく跳ねる悍馬(かんば)を指すという。これらの断片的な情報は、それ自体が魅力的ではあるが、戦国という時代の精神、すなわち天下統一の野心、絶え間ない緊張、そして死と隣り合わせの日常の中で、どのように結びつき、一つの高尚な芸道を形成していったのか。
本報告は、この深遠なる問いに答えるため、名香「上馬」を歴史の舞台に置き、その香りが戦国の世にどのような意味を持っていたのかを、文化的、精神的、そして美学的な側面から徹底的に解明するものである。
名香「上馬」が歴史の舞台に登場する背景には、香りをめぐる文化の劇的な転換があった。それは、香が単なる「嗅ぐ」ものから、精神を澄ませて「聞く」ものへと昇華した、日本独自の芸道「香道」の確立である。この静かなる革命は、応仁の乱へと向かう混沌の時代に花開いた「東山文化」の中で成し遂げられた。
日本の香り文化の源流は古く、仏への供物として香を焚く「供香(くこう)」に遡る。奈良時代には鑑真和上が多くの香料をもたらし、平安時代になると、貴族たちは様々な香料を練り合わせた「薫物(たきもの)」を作り、その優劣を競う「薫物合(たきものあわせ)」を楽しんだ。これは、香りを自己表現や社交の道具とする、雅な遊びであった 1 。
しかし、鎌倉時代に入り武家が権力の中心となると、香りに対する価値観も変化する。華やかな練り香よりも、人の手が加わらない、天然の香木そのものが持つ幽玄な香りが「天与の香木こそ至高」として尊ばれるようになった 2 。そして室町時代、武士たちは香木の一片を静かに熱し、そこから立ち上る香りを、精神を集中させて鑑賞する「聞香(もんこう)」という独自のスタイルを確立する。常に生死の狭間で精神を研ぎ澄ませることを求められた武士にとって、聞香は心を鎮め、自己の内面と向き合うための、極めて重要な精神修養の道となったのである 2 。
香道が芸道として大成したのは、室町幕府八代将軍・足利義政(1436-1490)の治世に育まれた「東山文化」の時代であった。政治的には応仁の乱を招き、幕府の権威が大きく揺らいだ時代であったが、文化的には慈照寺(銀閣寺)を中心に、茶道、華道、能楽、連歌などが洗練され、現代に続く日本文化の礎が築かれた 4 。
義政自身も香を深く愛し、その体系化に情熱を注いだ 4 。彼の側近には、この新たな芸道を担う二人の重要人物がいた。一人は、将軍に仕え、芸能全般を司った同朋衆(どうぼうしゅう)の志野宗信(しのそうしん)。もう一人は、和歌や古典に精通した公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)である 4 。
志野宗信を祖とする流派は、武家の格式や精神性を重んじる「志野流」として、三条西実隆を祖とする流派は、公家の優美さや古典文学との結びつきを大切にする「御家流」として、それぞれ発展を遂げた 6 。この二大流派の誕生により、香道は確立された作法と理論を持つ、一つの「道」として後世に伝えられていくことになる。
この歴史的背景を考察すると、一つの重要な事実が浮かび上がる。すなわち、香道という高度に体系化された芸道が、室町幕府の権威が失墜し、日本全土が戦乱へと突き進む、最も混沌とした時代に確立されたという点である。これは単なる現実逃避ではない。むしろ、不安定で無秩序な社会情勢の中で、人々が精神世界に確固たる秩序と不変の美を見出そうとした、切実な渇望の表れであったと解釈できる。政治的権威が地に落ちる一方で、文化的権威が確立されていく。香道の厳格な作法や、後述する香木の体系的な分類法は、まさに美意識による世界の再構築であり、精神的な防衛機制であった。そして、この精神性は、常に死と隣り合わせで生きた戦国武将たちに、より深く、より切実に受け継がれていくのである。
東山文化の中で体系化された香道は、その価値基準を明確にするため、一つの画期的な事業に着手する。それが、数ある名香の中から至高の逸品を選び出し、一つのコレクションとして後世に伝える「六十一種名香」の制定であった。この権威あるリストの中に、名香「上馬」は明確にその座標を定められている。
足利義政の命により、志野宗信と三条西実隆は、当時最高峰とされた香木の鑑定と整理を行った 10 。その対象となったのは、義政が所有していた将軍家伝来の香木群であった。これらの中には、南北朝時代の型破りな「婆娑羅(ばさら)大名」として知られる佐々木道誉(ささきどうよ)が収集した百八十種の名香や、三条西実隆が所持していた六十六種の香木も含まれていたという 12 。
この選定作業において、志野宗信は香木の香りを客観的に評価するための画期的な基準を確立した。それが「六国五味(りっこくごみ)」である 13 。
この「六国五味」という共通言語の確立により、香りの鑑賞は個人の主観的な感想に留まることなく、客観的な評価と伝達が可能な、高度な芸道へと昇華した。そして、この基準に基づいて選び抜かれたのが「六十一種名香」であった 15 。このリストには、聖徳太子ゆかりとされる「法隆寺」や、後に織田信長が切り取ることになる天下第一の名香「東大寺(蘭奢待)」なども含まれており、その権威の高さが窺える 10 。
この至高のコレクション「六十一種名香」の中に、「上馬」は厳然と名を連ねている 11 。香道の世界における「上馬」の公式なプロファイルは、以下の通りである。
項目 |
詳細 |
典拠 |
銘 |
上馬(じょうば) |
11 |
分類 |
六十一種名香 |
11 |
香木 |
伽羅(きゃら) |
13 |
六国 |
伽(きゃら) |
17 |
五味 |
辛・甘・苦(しん・かん・く) |
13 |
この表が示すように、「上馬」は単なる良い香りの木ではない。香道という芸道の中で、最高峰の香木である「伽羅」に分類され、「辛・甘・苦」という複雑で奥深い香味を持つと鑑定され、「六十一種名香」という権威あるリストに名を刻まれた、文化財なのである。この客観的な座標を確定させることこそ、その香りが持つ精神的な価値を考察する上での、揺るぎない土台となる。
「六十一種名香」の制定は、単なる香木の整理事業ではなかった。それは、香木という「モノ」に「銘」という物語を与え、リスト化することで、測定可能かつ継承可能な「文化資本」を創造する行為であった。リストに選ばれたものと選ばれなかったものの間には、明確な価値の序列が生まれる。「上馬」は、このリストに載ることで、その価値を客観的に保証されたのである。やがて来る戦国時代、旧来の権威である足利将軍家や公家に対抗し、あるいはそれを乗り越えようとする武将たちにとって、このリストは手に入れるべき「文化的な戦利品リスト」としての役割を担うことになった。リストに載っているからこそ価値があり、それを所有することが、自らの権威と教養の証明となったのである。
戦国時代に入ると、文化的な価値を持つ名物は、その所有者の権威を象徴する道具として、極めて重要な意味を持つようになる。名物茶器や名刀と並び、最高級の香木、特に「六十一種名香」に数えられるような一木は、天下人のみが手にすることを許された至宝であった。「上馬」がその最高峰である「伽羅」であるという事実は、この文脈において決定的な意味を持つ。
伽羅は、沈香(じんこう)の中でも特に質が高く、ベトナムのごく限られた地域でしか産出されない、極めて希少な香木である 1 。その香りは複雑で奥深く、古来、天皇や将軍といった時の最高権力者のみがその香りを聞くことを許されたと伝えられる 1 。戦国武将たちが、領土や兵力といった物理的な力だけでなく、文化的な権威をも渇望した時代において、伽羅を所有することは、自らが天下人にふさわしい器であることを天下に示す、何よりの証となった。
この時代の香木と権力の関係を最も象徴的に示すのが、織田信長(1534-1582)と天下第一の名香「蘭奢待(らんじゃたい)」をめぐる逸話である。「蘭奢待」は東大寺の正倉院に秘蔵され、天皇の勅許なくしては門外不出とされてきた聖なる香木であった 20 。1574年(天正2年)、信長は朝廷に強引に働きかけ、この蘭奢待を切り取るという前代未聞の挙に出る 20 。これは、単に香木が欲しかったという話ではない。天皇家の権威の象徴であり、日本の歴史そのものともいえる聖域に踏み込み、その一部を自らのものとすることで、既存の権威を超越し、自らが新たな秩序の創造主であることを天下に宣言した、極めて政治的なパフォーマンスであった。
信長が切り取った蘭奢待は、「六十一種名香」では「東大寺」の名でリストに載っている。信長のこの行為は、香木がもはや単なる趣味の対象ではなく、天下人の覇業を正当化するための戦略的な道具となったことを明確に示している。
信長の後を継いで天下を統一した豊臣秀吉(1537-1598)、そして江戸幕府を開いた徳川家康(1543-1616)といった「戦国三英傑」もまた、香文化に深く関わっていた 22 。派手好きで知られた秀吉は、豪華な茶会と同様に、香会も盛んに催したであろうし、家康もまた、香木を外交や儀礼の場で用いたことが知られている。彼らにとって香木は、財力を誇示するだけでなく、没落しつつあった公家や朝廷との文化的な交流を円滑に進めるための重要な媒体でもあった。
信長の蘭奢待切り取りという行為をさらに深く考察すると、それは単なる権威の誇示に留まらない、より深層的な野心の表れであったことが見えてくる。蘭奢待は、一説には推古天皇の時代に日本に漂着したとされ、聖武天皇の時代から正倉院に伝わる、まさに歴史の塊のような存在である 20 。その一部を物理的に切り取り、所有するということは、日本の悠久の歴史そのものに触れ、その長大な「時間」さえも自らの支配下に置こうとする意志の表明であった。戦国武将たちは、領土という「空間」の支配だけでなく、歴史と伝統という「時間」をも制覇しようとしたのである。
「上馬」のような「六十一種名香」もまた、室町時代に足利将軍家の権威のもとで制定された、由緒ある歴史的な存在である。これを所有する戦国武将は、単に香りを愉しむだけでなく、足利将軍家が築いた文化と歴史の正統な継承者、あるいはそれを超える者として自らを規定しようとした。特に、農民から天下人へと駆け上がった秀吉のように、出自の低さを補う必要があった武将にとって、名香の蒐集は、自らの権威を文化的に補強するための、極めて有効な戦略であったと言えるだろう。
戦国武将と香木の関係は、権力や富の象徴という側面だけでは語り尽くせない。香りは、彼らの内面、すなわち精神世界や死生観と、より深く結びついていた。めまぐるしく戦況が変化し、常に死の影が付きまとう日常の中で、ひとすじの香りは、武将たちにとってかけがえのない意味を持っていたのである。
戦の合間、武将たちは陣中において香を聞くことで、高ぶる神経を鎮め、精神を集中させた 2 。香炉から静かに立ち上る一木有縁の香りに意識を傾けるひとときは、外界の喧騒から離れ、自己の内面と向き合うための貴重な瞑想の時間であった。これから下すべき非情な決断、失った部下への哀悼、そして自らの死の覚悟。複雑に絡み合う感情を整理し、再び戦場に立つための精神的な平衡を取り戻す上で、聞香は不可欠な儀式であったと考えられる。
戦国武将の香との関わりを最も象徴するのが、「兜香(かぶとこう)」という風習である。これは、出陣に際して、兜の内側に香を焚きしめるというものであった 2 。その目的は、第一に、長時間の着用による汗や蒸れの匂いを防ぐという実用的なものであった 3 。しかし、それ以上に重要なのは、精神的な、そして美学的な意味合いであった。
武士にとって、戦場で討ち取られ、その首を敵に検分されることは、常に覚悟しておくべきことであった。その際、自らの首から不快な匂いがするのを恥とし、最後の礼節として、敵将に良い香りを届けたい。この美意識こそが、兜香の核心であった。それは、自らの死を予期し、その死に様さえも美しくあろうとする、武士ならではの潔い死生観の表れに他ならない。
この兜香の逸話として最も有名なのが、大坂夏の陣(1615年)で討ち死にした豊臣方の若武者・木村重成(きむらしげなり)の話である。徳川家康の本陣に届けられた重成の首を検分した際、その兜の中からえもいわれぬ馥郁(ふくいく)たる香りが漂ったという。その香りの見事さと、若くして死を覚悟した重成の潔さに、敵将である家康は深く感服し、涙を流したと伝えられている 2 。この逸話は、香りがその人物の品格や覚悟、そして美学を、言葉以上に雄弁に物語るものであったことを示している。
この兜香という行為を深く見つめると、そこに武士の美学の核心が浮かび上がってくる。それは、この香りが自分自身のためではなく、自らの首を取るであろう「敵」のために焚かれるという、極めて特殊な性質を持つ点である。この「他者を意識した死の準備」という行為こそ、「滅びの美学」の神髄と言えるだろう。香りは、生前の最後の自己表現であり、死してなお敵に感銘を与え、自らの名誉を保とうとする強い意志の表れであった。それは、生者と死者、敵と味方という境界線さえも超える、魂のコミュニケーションツールとして機能していたのである。「上馬」のような力強い銘を持つ伽羅の香りを兜に焚きしめることは、生前の武勇と死後の名誉を結びつけ、自らの生き様を完結させる、極めて象徴的な儀式であったに違いない。
名香「上馬」が持つ意味を解き明かすためには、その「銘(名前)」と「香味(香り)」の両面から、戦国時代の精神性に迫る必要がある。躍動的な銘と、深遠な香味。この二つの要素が一体となった時、「上馬」は戦国武将の魂の象徴として、その真の姿を現す。
まず明確にすべきは、名香「上馬」が、現代の東京都世田谷区に存在する地名「上馬」とは、その由来を全く異にするということである。世田谷の地名の由来は、一説には源頼朝が遠征の途中にこの地を訪れた際、ぬかるみがひどかったため、馬から下りて(下馬)歩き、ぬかるみを越えた先で再び馬に乗った(上馬)という、鎌倉時代の伝説に遡るとされる 25 。これはこれで興味深い伝承であるが、室町時代に東山文化の中で成立した香道の銘とは、時代も文脈も異なる。この混同を避けることで初めて、名香「上馬」が持つ本来の意味を探る土台が整うのである。
「上馬」とは、前脚を高く上げて激しく跳ねる馬、特に人の手に馴染まない荒々しい悍馬を指す言葉である。この躍動的で、力強く、制御しがたいイメージは、まさに戦国時代の精神そのものを象徴している。
「上馬」という銘は、単なる動物の名前ではない。それは、乱世を生きる武将たちの野心、時代の空気、そして戦場のリアリティを凝縮した、極めて象徴的な命名であった。
「上馬」のもう一つの重要な要素が、その香味である「辛・甘・苦」である 13 。この三つの味覚的な要素が織りなす複雑な香りは、なぜ戦国武将の心を捉えたのか。それは、この香りが彼らの波乱に満ちた人生そのものを凝縮した、香りの叙事詩であったからに他ならない。
「辛甘苦」の三味が一体となって立ち上る香りは、武将の生涯における栄光と挫折、喜びと悲しみ、その全てを内包していた。それは、ただ美しいだけの香りではない。人生の複雑さと奥深さを知る者だけが、真に理解できる香りであった。
この「上馬」というダイナミックな「銘」と、「辛甘苦」という内省的な「香味」の組み合わせこそが、この名香の神髄である。それは、戦国武将が持つべき二つの側面、すなわち、外面的な武勇(上馬)と、内面的な葛藤や思慮深さ(辛甘苦)を見事に表現している。戦場では「上馬」のごとく荒々しく、力強く振る舞わねばならない。しかし、ひとたび陣中に戻れば、自らの内面で渦巻く「辛甘苦」の全てと静かに向き合わなければならない。「上馬」を聞くという行為は、この外面と内面を統合し、自己の存在を再確認するための、神聖な儀式であったのではないか。跳ねる馬のような激しい人生(銘)を送りながらも、その複雑な味わい(香味)を静かに受け入れる。この動と静、武と文の統合こそが、戦国時代に求められた理想の武将像であり、名香「上馬」は、その理想を体現する香りだったのである。
名香「上馬」は、単に高価で希少な香木ではない。それは、室町時代の東山文化という、静謐(せいひつ)な美意識の中で生まれ、戦国という最も動的で激しい時代の精神をその身にまとった、極めて象徴的な文化遺産である。
その銘は、天下を目指し駆け上がろうとする武将たちの野心を映し、その香りは、彼らが経験したであろう人生のあらゆる局面—戦の辛さ、勝利の甘さ、そして宿命の苦さ—を物語る。権力者はその所有によって自らの権威を誇示し、戦陣に立つ武士はその香りに精神の支えと潔い死の美学を見出した。外面的な武勇と内面的な葛藤という、戦国武将の二面性を統合する香り、それが「上馬」であった。
時代は移り、戦国の世は遠い過去の物語となった。しかし、「上馬」の銘が喚起する躍動感と、「辛甘苦」の香りが物語る人生の深淵は、今なお我々の心に静かに語りかける。それは、混沌の時代を全力で生き抜き、自らの信念と美学を貫こうとした人々の、気高くも切ない魂の香りである。
もし今、我々がこの名香を聞く機会を得たならば、そのひとすじの煙の中に、天翔けるが如く生きた戦国武将たちの激しい息遣いと、深い思索の静寂を感じることができるに違いない。