「内曇大海」は足利義政が命名した東山御物。戦国時代には豊臣秀吉が所有し、その釉薬の景色は「打曇紙」に似る。武将の権威と誇りの象徴として一国に匹敵する価値を持ち、現在は徳川美術館が所蔵。
戦国時代という激動の時代において、一つの茶入がなぜ一国の城に匹敵するほどの価値を持ち得たのか。その問いに答えることは、当時の権力構造、社会規範、そして美意識の核心に迫ることに他ならない。大名物「内曇大海」の調査に入る前に、まずこの茶入が生きた時代の特異な価値観を理解する必要がある。武将たちが茶道具に求めたものは、単なる美的享受を超えた、極めて戦略的な政治的・社会的資本であった。
茶の湯を政治の舞台へと引き上げ、その価値体系を劇的に転換させた人物が織田信長である。信長は「御茶湯御政道」と称される政策を通じて、茶の湯の開催許可や、戦功のあった家臣への名物茶器の授与を、身分秩序の形成と統制のための強力な手段として用いた 1 。土地という不動の恩賞に加え、文化的権威を象徴する茶器を与えることで、信長は家臣団に対する二重の支配構造を築き上げたのである。
この価値創造のプロセスにおいて決定的な役割を果たしたのが、千利休をはじめとする茶道の大家であった 3 。信長は、利休のような当代随一の目利きに器を鑑定させ、「これは大変価値がある」と公に認めさせることで、特定の茶道具に絶対的な権威を付与した。この鑑定行為は、単なる評価ではなく、新たな価値を「創造」する行為そのものであった。このシステムは豊臣秀吉によって継承・発展され、名物茶器は服従の証や和睦の条件として外交の場でも重要な役割を担うことになる 1 。
この価値体系は、全くの無から生まれたわけではない。その根底には、室町幕府の将軍家が収集した「東山御物」という既存の権威が存在した 6 。信長や秀吉は、足利将軍家が築き上げた文化的権威を巧みに利用し、それを自らの支配体制を正当化するための恩賞システムへと転換させたのである。かつては閉鎖的な貴族文化の中で評価されていた名物が、武家社会全体を巻き込む新たな価値の尺度として再定義された。この文脈において、「内曇大海」のような東山御物を手中に収めることは、旧時代の文化的正統性を新時代の支配者が継承したことを天下に示す、極めて象徴的な意味を持っていた。それは、武力による天下統一を、文化的な権威で補強する高度な政治戦略だったのである。
戦国時代、優れた名物茶器は「一国一城」にも匹敵すると評価された 3 。これは単なる比喩ではない。実際に、茶器の所有権が領地の割譲と同等の意味を持つ恩賞として、あるいは外交交渉の切り札として機能した事例は数多く存在する。なぜ、掌に収まるほどの小さな器が、広大な土地と同じ価値を持ち得たのか。その理由は、茶器が持つ特有の性質にあった。
第一に、名物茶器は所有者の「ステータス」を雄弁に物語る象徴であった 4 。それを所有することは、武力や経済力だけでなく、高度な教養と洗練された美意識を併せ持つ人物であることを周囲に証明した。茶会という晴れの舞台で至高の名物を披露することは、他の武将に対する文化的優位性を確立し、自らの権威を揺るぎないものにするための重要なパフォーマンスだったのである。
第二に、茶器は持ち運び可能な資産であった。戦乱の世において、土地は奪われる危険性を常にはらむが、名物茶器は有事の際に持ち運ぶことができた。それは、単なる美術品ではなく、いざという時には莫大な資金にも換えうる、極めて流動性の高い資産でもあった。例えば、『山上宗二記』に記された「内曇大海」の価値は「代三千貫」とされている 9 。これは、他の名物、例えば「松本茶碗」が五千貫と評価された記録 11 と比較しても、その経済的価値がいかに巨大であったかを物語っている。
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、その権勢を背景に、全国の大名や豪商が秘蔵する名物茶器を次々と召し上げた。これは後に「名物狩り」と称される 1 。この行為は、単なる秀吉個人の収集趣味に留まるものではない。全国の富と文化の粋を自らのもとに強制的に集約させることで、天下人としての絶対的な権威を天下に知らしめるという、明確な政治的意図があった。
「名物狩り」は、物理的な武器を取り上げた「刀狩り」 13 と対をなす、文化的な武装解除とも言える。刀が武士の力の象徴であったように、名物茶器は有力大名や豪商の権威と富の象徴であった。それらを召し上げることは、彼らの力を削ぎ、秀吉を中心とする新たなヒエラルキーを構築する上で極めて効果的であった。「内曇大海」が足利将軍家から秀吉の手に渡ったのも、まさにこの歴史的文脈の中に位置づけられるのである。
「内曇大海」は、その優美な名とは裏腹に、戦国の覇者たちの間を渡り歩いた壮大な歴史を持つ茶入である。ここでは、まずこの器の分類、名称の由来、そしてその出自について基本的な情報を整理する。
「内曇大海」は、中国の南宋から元時代(13~14世紀)にかけて製作されたと見られる陶製の茶入であり、「漢作唐物(かんさくからもの)」に分類される 9 。唐物とは中国からの渡来品を指し、日本の茶の湯の世界では極めて高く評価された。
その中でも「内曇大海」は、最高位の格付けである「大名物(おおめいぶつ)」として知られている 9 。大名物とは、主に室町幕府八代将軍・足利義政が選定したコレクション「東山御物」を中核とする、由緒、品格、伝来のすべてにおいて最高級とされる茶道具に与えられる称号である 15 。「内曇大海」がこの系譜に連なるという事実は、その価値を不動のものとしている。
この茶入の器形は「大海(おおうみ、たいかい)」と呼ばれる 14 。その名は、広々とした口と、平たくどっしりと安定した姿が、雄大な海を想起させることに由来する 9 。大海は、遺跡からの出土例はあるものの、伝世品として現存する唐物は極めて少ない 14 。
茶入の形状による格付けでは、肩が張った「肩衝(かたつき)」や、丸みを帯びた「茄子(なすび)」が最高位とされることが多い 18 。しかし、大海もまた室町時代から高く評価されていた器形であり、足利将軍家の座敷飾りに関する秘伝書『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』にも唐物の大海茶入が図示されている 19 。希少な唐物の大海茶入の中でも、「内曇大海」はその筆頭に挙げられる代表作と見なされている。
「内曇」という優美な銘は、器の表面に現れた釉薬の景色に由来する。その景色が、平安時代から和歌を記すために用いられた高級な装飾料紙「打曇紙(うちぐもりがみ)」の文様に似ていることから、この名が付けられた 9 。打曇紙は、紙の一部を雲がたなびくように染め分けたもので、雅な趣を持つ。
この銘を付けたのは、足利義政その人であったと伝えられる。『徳川家所蔵御道具書画目録』には、「総体柿色の所に黒景の釉色打曇の如くなるを以て東山殿之を銘すといふ」と記されている 9 。また、安土桃山時代の茶人・津田宗及も、その茶会記『茶湯日記』の中で「打曇大海始めて拝見候、絵様うちくもりのやうなる所あり、結構なる薬の様子なり」と、その釉景を高く評価している 9 。陶器の偶発的な文様に、文学的・絵画的な情景を見出し、そこに美を見出すという、日本文化に深く根差した美意識がこの銘には凝縮されている。
この茶入が焼かれたのは、中国の南宋から元時代(13~14世紀)にかけての窯と推定されている 14 。当時の中国では、茶は薬としても飲まれており、本作のような小壺は薬や香料を入れる容器として使われていたと考えられている 20 。
それが日本に渡来し、茶の湯の道具として「見立て」られたのである。本来の用途とは異なる器物に新たな美を見出し、茶席の主役へと昇華させる「見立て」は、日本の茶道文化の大きな特徴である。「内曇大海」は、そのような文化が生んだ至宝の一つと言えるだろう。
「内曇大海」の歴史的価値を理解するためには、まず美術工芸品としての物理的な特徴を詳細に把握する必要がある。その形状、釉薬、細部の造作の一つ一つが、この器を唯一無二の存在たらしめている。
表1:「内曇大海」の基本情報一覧表
項目 |
詳細 |
典拠 |
名称 |
唐物大海茶入 銘 内曇大海 (からものおおうみちゃいれ めい うちぐもりおおうみ) |
9 |
分類 |
漢作唐物、大名物、東山御物 |
9 |
文化財指定 |
重要美術品 |
21 |
製作時代 |
南宋~元時代(13~14世紀) |
14 |
寸法・重量 |
高さ:7.1cm~7.4cm 口径:3.0cm~6.3cm 胴径:10.1cm 底径:4.5cm~6.2cm 重量:156.9g~168.75g |
9 |
付属品 |
蓋: 象牙 仕覆(三種): 木下裂、松竹梅緞子、雲鶴緞子 箱: 内箱(桐白木書付)、外箱(黒塗、金粉文字) |
9 |
現所蔵 |
徳川美術館 |
21 |
「内曇大海」は、平たくおおらかな姿、大きく開いた口、そして短く引き締まった甑(こしき)と呼ばれる口縁部を特徴とし、全体として威厳と風格に満ちた姿を呈している 9 。その胴径は10.1cmに達し、大海茶入の中でも特に大振りで堂々とした作行きであることがわかる 9 。
寸法については、各資料間で高さや口径に僅かな差異が見受けられる 9 。これは測定時期や基準点の取り方の違いによるものと考えられるが、いずれの数値もこの茶入が持つ、ゆったりとして安定感のあるフォルムを裏付けている。底部は外側にやや張り出し、その周囲には三本の筋が巡らされており、全体の造形に緊張感を与えている 10 。
この茶入の最大の魅力は、その複雑で深みのある釉薬の景色にある。全体は光沢のある柿色の地釉で覆われ、その上から鉄分を多く含む黒飴釉が二重に掛けられている 10 。この黒飴釉が、焼成の過程で意図せず流れ、様々な文様を生み出している。
特に肩の下から左右にたなびくように広がる濃い釉薬の流れが、「内曇」の名の由来となった景色である 9 。一方で、胴から腰にかけては、黒飴釉が筋状に流れ落ちる「なだれ」と呼ばれる景色が見事であり、その下部は比較的明るく晴れやかな表情を見せる。この器の上部と下部で見られる景色の対比は、陰と陽の調和を感じさせ、唐物の大海の中でも特に優れたものと高く評価されている 10 。
茶道具の鑑賞において、器の底部(高台周り)は重要な見どころとされる。「内曇大海」の底部は、粘土の塊から直接形作る「板起し」という技法で作られ、腰から下にかけては轆轤(ろくろ)を引いた際の指跡(轆轤目)が残り、景色に変化を与えている 25 。
底の中心には、轆轤から切り離す際に用いた糸の跡である「糸切」が鮮やかに残る 10 。さらに注目すべきは、その中央に焼成時に生じた「火裂(ひわれ)」と呼ばれる一筋の亀裂が存在することである。そして、この火裂を挟むように二箇所、釉薬が飛んだ跡が見られる 10 。
これらの要素は、現代の工業製品の基準から見れば「欠陥」や「瑕疵」と見なされるかもしれない。しかし、日本の茶の湯の美意識においては、こうした偶発的に生まれた不完全さこそが、器に唯一無二の個性を与える「景色」として積極的に評価された。作為のない自然の変化の中に美を見出す「わび・さび」の精神が、ここに凝縮されている。中国の陶工が意図しなかったであろう偶然の産物が、日本の茶人たちの感性によって再発見され、その価値を飛躍的に高めたのである。この唯一性が、戦国武将たちが求めた「天下無双」の価値観と共鳴し、「内曇大海」の格をさらに高める要因となったことは想像に難くない。
名物茶入には、本体を保護し、その格を示すための付属品が伴う。「内曇大海」には、象牙で作られた蓋に加え、三つの美しい仕覆(しふく)が伝わっている。それぞれ「木下裂(きのしたぎれ)」「松竹梅緞子(しょうちくばいどんす)」「雲鶴緞子(うんかくどんす)」と呼ばれる、いずれも高価で由緒ある裂地(きれじ)である 9 。複数の格式高い仕覆が誂えられていることは、歴代の所有者たちがこの茶入をいかに丁重に扱い、愛蔵してきたかを物語っている。
また、茶入を納める箱も、内箱は桐の白木に書付があり、外箱は黒塗に金粉で文字が書かれるという、最高級の道具にふさわしい荘厳な仕様である 9 。これらの付属品の一つ一つが、「内曇大海」が経てきた輝かしい伝来の歴史を雄弁に物語る証人なのである。
「内曇大海」の価値は、その美術的価値のみならず、日本の歴史を動かした権力者たちの手を渡り歩いてきたという、比類なき伝来の物語によって形成されている。その軌跡は、日本の権力構造の変遷そのものを映し出す鏡と言えるだろう。
表2:「内曇大海」の伝来年表
時代 |
所有者 |
関連する出来事・背景 |
典拠 |
室町時代 (15世紀後半) |
足利義政 |
東山文化の象徴として収集。「東山御物」の一つとなり、「内曇」と命銘される。 |
6 |
安土桃山時代 (天正11年/1583年) |
豊臣秀吉 |
天下統一の過程で入手。茶会で披露し、自らの権威を誇示する。 |
9 |
江戸時代前期 |
京極家 |
秀吉没後の政治的変動の中、京極家に伝来する。 |
9 |
江戸時代中期 (宝永年間/1704-1711) |
紀州徳川家 |
京極家から徳川御三家筆頭の紀州徳川家へ渡る。 |
9 |
江戸時代中期 (宝永年間) |
徳川将軍家(柳営) |
紀州徳川家より将軍家へ献上され、「柳営御物」となる。 |
9 |
明治以降 |
徳川宗家 |
幕府解体後、将軍家より宗家に伝来する。 |
9 |
現代 |
徳川美術館 |
徳川宗家(公益財団法人徳川黎明会)より徳川美術館へ収蔵される。 |
21 |
「内曇大海」の歴史は、室町幕府八代将軍・足利義政の時代に遡る。義政は、唐物目利きの名人であった同朋衆の能阿弥・芸阿弥父子の補佐を受け、中国・宋元の絵画や工芸品など、優れた美術品を数多く収集した。これらは後に、義政が営んだ東山山荘の名にちなみ「東山御物」と称され、日本の美術史上、最も重要なコレクションの一つと見なされている 6 。
「内曇大海」はこの東山御物の中でも代表的な名品であり、義政自身がその釉景を「内曇」と見立てて命銘したと伝えられることは、先に述べた通りである 9 。これは、血筋と伝統に裏打ちされた、貴族的・文化的な権威の象徴としての「内曇大海」の出発点であった。しかし、応仁の乱を経て幕府の権威が失墜すると、これらの至宝も戦乱の中で四散し、やがて新たな時代の覇者たちの手に渡っていくことになる 7 。
戦国の世を制し、天下人へと駆け上がった豊臣秀吉。彼が「内曇大海」を所有していたことは、『今井宗久日記』および『津田宗及茶湯日記』という、当時の茶会を知る上で最も重要な一次史料によって証明されている。両日記には、天正十一年(1583年)、秀吉が主催した茶会でこの「内曇大海」が用いられたことが明確に記録されている 9 。
天正十一年という年は、秀吉のキャリアにおいて極めて重要な時期であった。この年、彼は賤ヶ岳の戦いで織田家の筆頭宿老・柴田勝家を滅ぼし、信長の後継者としての地位を事実上確立。そして、新たな本拠地として大坂城の築城を開始した 26 。まさに天下取りの総仕上げに取り掛かったこのタイミングで、足利将軍家伝来の至宝である「内曇大海」を披露したことの意味は大きい。
身分の低い出自から成り上がった秀吉にとって、「内曇大海」を所有し、それを天下に示すことは、単なる趣味や道楽ではなかった。それは、自らが織田信長の事業だけでなく、室町幕府が築いた文化的な伝統と権威をも継承した正統な支配者であることを宣言する、極めて戦略的な政治的パフォーマンスだったのである。武力による支配を、文化の力で正当化する。「内曇大海」は、そのための最も効果的な道具の一つであった。
秀吉の死後、天下は再び動乱の時代へと突入する。「内曇大海」がどのような経緯で京極家の手に渡ったのか、その詳細を記す史料は現存しない。しかし、京極家は当主・高次の妻が浅井三姉妹の長女・初であり、豊臣家とも徳川家とも深い姻戚関係で結ばれていた 28 。この豊臣と徳川の間に立つ複雑な立場が、この名器の所有権の移動に何らかの形で関わっていた可能性は高い。この時期、「内曇大海」は天下の趨勢が定まらない過渡期を象徴する存在であったと言える。
やがて徳川の世が盤石になると、この名器は京極家から徳川御三家の筆頭である紀州徳川家へと渡る 9 。そして宝永年間(1704-1711年)、紀州徳川家から徳川将軍家(柳営)へと献上された 9 。この一連の流れは、戦国の動乱期に地方の有力大名へと拡散した文化財が、泰平の世の到来とともに、再び中央の最高権力者のもとへと集約されていく過程を象徴している。
この時点で、「内曇大海」はもはや個人の所有物ではなく、徳川幕府という確立された統治機構の権威を象徴する「柳営御物」、すなわち国家の至宝となったのである。その伝来の軌跡は、日本の権力構造が「武力や個人のカリスマによる支配」から、「制度による統治」へと移行していく歴史のダイナミズムそのものを物語っている。
「内曇大海」が単なる伝説ではなく、歴史的に実在し、高く評価されてきた名器であることは、数々の古文献によって裏付けられている。これらの記録を丹念に読み解くことで、当時の人々がこの茶入をどのように認識し、評価していたかをより具体的に知ることができる。
千利休の秘伝を書き留めたとされる『山上宗二記』は、戦国時代の茶の湯の世界観を知る上で欠かすことのできない最重要文献の一つである。この書の中で、山上宗二は当時の名物道具を格付けしており、「内曇大海」は「代三千貫」という具体的な価格とともに記載されている 9 。
「貫」は当時の貨幣単位であり、三千貫という額は、現代の価値に換算すれば数億円にも相当すると考えられる、まさに破格の評価であった。この記述は、「内曇大海」が単なる美的鑑賞の対象に留まらず、具体的な経済価値を持つ投機の対象、すなわち「資産」として流通していた事実を明確に示している。
堺の豪商であり、信長や秀吉の茶頭を務めた今井宗久と津田宗及。彼らが残した茶会記は、安土桃山時代の政治と文化の交差点を記録した第一級の史料である。
両者の日記には、前述の通り、天正十一年(1583年)に豊臣秀吉が「内曇大海」を茶会で使用したことが記録されている 9 。この事実は、本作の伝来を裏付ける確固たる証拠であると同時に、当時の茶会が、最新の政治情勢と密接に結びついた情報交換や権力誇示の場であったことを生々しく伝えている 26 。
特に、津田宗及による「打曇大海始めて拝見候、絵様うちくもりのやうなる所あり、結構なる薬(釉薬)の様子なり」という記述は、極めて重要である 9 。これは、当代随一の目利きが、その審美眼をもって「内曇大海」の釉薬の美しさを絶賛した記録であり、この茶入の美的評価を客観的に裏付けるものと言える。
江戸時代に入り、社会が安定すると、茶の湯の世界でも過去の名物道具に関する知識を体系化する動きが活発になった。その中で編纂された『玩貨名物記(がんかめいぶつき)』や『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)』といった茶書においても、「内曇大海」は繰り返しその名が挙げられている 9 。
これらの文献に繰り返し登場することは、「内曇大海」が戦国時代の一過性の流行に終わらず、時代を超えて「大名物」としての評価を不動のものとし、半ば伝説的な存在として後世に語り継がれていったことを示している。これらの茶書を通じて、一つの名物の評価がどのように定着し、権威化、さらには神格化されていったかの変遷を追うことができるのである。
「内曇大海」の個性と歴史上の位置づけをより深く理解するためには、同時代に覇を競った他の大名物と比較することが有効である。これにより、その特異性と代表性が一層鮮明に浮かび上がってくる。
茶入の器形の中で、最も格式が高いとされるのが「肩衝(かたつき)」である 2 。その中でも「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」は、天下三肩衝と称され、数々の武将たちがその所有を巡って争ったことで知られる。これらの肩衝は、いずれも力強く、男性的な造形を持ち、その伝来の物語もまた壮絶なドラマに彩られている 3 。
「内曇大海」は、器形こそ大海という異なるカテゴリーに属するが、その伝来の壮大さにおいては、天下三肩衝に何ら引けを取らない。むしろ、肩衝の持つ緊張感のある造形美に対し、大海の持つおおらかで安定した姿は、戦国の世において求められた美の規範が、決して一様ではなかったことを示している。力強さや覇気といった価値観と並んで、泰然自若とした風格や包容力といった価値観もまた、茶の湯の世界では高く評価されていたのである。
「九十九髪茄子(つくもなす)」は、「内曇大海」と同様に足利将軍家伝来の東山御物であり、大名物中の大名物として名高い 5 。村田珠光から松永久秀、織田信長へと渡り、本能寺の変で一度は焼失したものの、豊臣秀吉によって奇跡的に修復され、最終的に徳川家康の手に渡ったという、まさに戦国史の縮図のような伝来を持つ 30 。
東山御物という共通の出自を持ちながら、片や優美な「茄子」、片や堂々たる「大海」という器形の違い。そして、それぞれの伝来の物語に見られる共通点と相違点を分析することは、戦国武将たちが名物に求めた価値の多様性を探る上で興味深い。両者は共に、旧時代の権威を象徴する道具として新時代の覇者に求められたが、その過程でそれぞれが異なる物語を纏うことになった。「内曇大海」が比較的穏やかに所有者を移っていったのに対し、「九十九髪茄子」は戦乱と破壊、そして再生という、より劇的な運命を辿った。この対比は、名物道具がいかに時代の激動と分かち難く結びついていたかを浮き彫りにする。
「大海」という器形の茶入は、他にも名品が存在する。例えば、福岡市美術館が所蔵する「横雲大海(よこぐもおおうみ)」は、その作風や釉調が「内曇大海」に似ているとされ、比較の対象となる 25 。
しかし、「横雲大海」や他の大海茶入と比較することで、「内曇大海」の持つ圧倒的な存在感がより明確になる。その釉景の複雑さと深み、全体の造形の均衡の取れた完成度、そして何よりも、足利義政から豊臣秀吉、徳川将軍家へと続く、日本の歴史の中枢を貫くかのような伝来の由緒。これらの要素が複合的に絡み合うことで、「内曇大海」は数ある大海茶入の中でも別格の存在、すなわち大海という器形を代表する一点として、その地位を確立しているのである。
本報告書で詳述してきた通り、唐物大海茶入「内曇大海」は、単なる一個の優れた美術工芸品に留まらない、極めて重層的な文化史的意義を持つ存在である。その価値は、戦国時代という特異な時代背景の中で形成され、権力と美意識が交錯する中で、唯一無二の物語を纏うに至った。
「内曇大海」の伝来史は、日本の権力構造の変遷そのものである。室町幕府の最高権威者であった足利義政、武力で天下を統一した豊臣秀吉、そして二百数十年続く泰平の世を築いた徳川将軍家。この三つの時代の頂点に立った支配者たちの手を渡り歩いたという事実は、この茶入が単なる高価な道具ではなく、正統な支配者の証たる「レガリア(王権の象徴)」に等しい役割を担っていたことを雄弁に物語っている。その所有は、文化的正統性の継承を意味し、支配を正当化するための強力な装置として機能したのである。
この小さな器には、日本文化の核心をなす美意識が凝縮されている。器表の景色を文学的な「内曇」の情景に見立てる感性。作為のない釉薬の流れを「景色」として愛でる絵画的な視点。そして、焼成時の「火裂」といった偶然の産物や不完全さの中にこそ美を見出す「わび・さび」の精神。これらはすべて、自然との共生や無常観といった、日本人の精神性の根幹に触れるものである。「内曇大海」は、これらの美意識が物質として結晶化した、一つの到達点と言えるだろう。
応仁の乱に始まる戦国の動乱、織田信長と豊臣秀吉による天下統一事業、そして徳川家康が切り開いた泰平の世の到来。日本の歴史が大きく転換する幾多の場面を、この小さな茶入は静かに見つめ続けてきた。足利義政の東山山荘で生まれ、秀吉の茶席を飾り、江戸城の奥深くで秘蔵されたその生涯は、まさに日本の歴史そのものである。言葉を発することはないが、その存在自体が何よりも雄弁に時代を物語る。「内曇大海」は、我々にとってかけがえのない歴史の証人なのである。
徳川将軍家から徳川宗家に伝来した「内曇大海」は、現在、愛知県名古屋市に所在する徳川美術館の収蔵品となっている 21 。同館は、徳川家康の遺品である「駿府御分物(すんぷおわけもの)」をコレクションの中核とし、尾張徳川家に代々受け継がれてきた大名道具一万件以上を収蔵する、日本を代表する美術館である 23 。その珠玉のコレクションの中でも、「内曇大海」は至宝の一つとして大切に保管され、折に触れて公開されている。
本品は、1933年(昭和8年)に公布された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき、国によってその美術的・歴史的価値が認められた「重要美術品」に指定されている 21 。この法律は、現在の文化財保護法の前身にあたるものであり、重要美術品の指定は、国宝や重要文化財に準ずる高い評価を示すものである。この指定は、「内曇大海」が持つ文化史上の重要性を公的に裏付けている。