戦国時代の双六は盤双六が主流で、武士階級に浸透した。賭博として統制されたが、武士の日常や文化に深く関わった。南蛮貿易で西洋双六も伝来し、絵双六の萌芽も見られた過渡期であった。
「双六」という言葉を聞いて、現代の日本人が思い描くのは、多くの場合、正月の娯楽として家族で囲む、紙に描かれた絵の上を賽子(さいころ)の目に従って駒を進める遊戯であろう。しかし、日本の歴史、とりわけ本報告書の主題である戦国時代において「双六」と言えば、それは全く異なる貌(かお)を持つ、二人対戦型の盤上遊戯を指していた 1 。この現代のイメージと歴史的実態との間に横たわる大きな乖離こそが、双六という遊戯の奥深い歴史を探求する上での出発点となる。
日本の遊戯史において、双六は大きく二つの系統に分類される。一つは、本稿で中心的に論じる「盤双六(ばんすごろく)」である。これは「雙六」あるいは「双陸」とも表記され、盤上に置かれた双方15個の駒を、二つの賽子の目に従って敵陣へと進める競走ゲームであり、その起源は古代世界にまで遡る。戦略性と偶然性が絶妙に絡み合うこの遊戯は、西洋のバックギャモンと極めて類似しており、古代から近世に至るまで、特に貴族や武士階級の間で熱狂的に遊ばれた 1 。
もう一つは、現代的なイメージに近い「絵双六(えすごろく)」である。これは複数人で遊ぶことが可能な、上がりを目指す競争ゲームであり、その源流は仏教の教化を目的とした教育的な遊戯にあった。江戸時代に入り、木版画技術の飛躍的な発展と共に庶民の娯
楽として多種多様な作品が生み出され、文化の華となった 5。
本報告書は、この二つの潮流を明確に区別した上で、特に「戦国時代」という時代に焦点を絞り、当時主流であった盤双六の実態を解明することを目的とする。下剋上が横行し、旧来の権威が揺らぐ一方で、新たな文化が芽生え混淆したこの激動の時代において、盤双六は単なる遊戯としてだけでなく、賭博の道具として、さらには社会秩序を維持するための統制の対象として、いかなる役割を果たしたのか。文献史料と考古学的物証の両面から多角的に分析し、戦国時代の武士社会における双六の歴史的位相を明らかにしていく。
盤双六の歴史は極めて古く、その源流は古代エジプトで遊ばれていた祭儀用の遊戯盤「セネト」にまで遡ると推測されている 8 。この事実は、盤上遊戯が元来、単なる娯楽ではなく、神意を問う占いや宗教儀式と深く結びついていたことを示唆している。この系統の遊戯は古代インドへと伝わり、「波羅塞戯(はらそくぎ)」として知られるようになった 1 。この「波羅塞」という言葉が、賽子を意味するサンスクリット語「prāsaka」の音訳であることは、この遊戯が賽子を用いることを本質としていたことを物語っている 1 。
その後、遊戯はシルクロードを経由して中国大陸へ伝播した。中国では「握槊(あくさく)」あるいは「雙陸」と呼ばれ、3世紀の曹魏の時代には既に遊ばれていた記録が残る 3 。特に唐代においては宮廷で大いに流行し、宮廷の女性たちが雙陸に興じる様子が周昉筆と伝わる『内人雙陸図』などの絵画作品に描かれている 1 。
日本への伝来は遅くとも7世紀には果たされていた。中国の史書『隋書』倭国伝には、当時の日本人が「棋博・握槊・樗蒲の戯を好む」との記述があり、この「握槊」が盤双六を指すと考えられていることから、7世紀初頭には既に日本社会に受容されていたことが確認できる 4 。
日本最古の正史である『日本書紀』には、双六の受容とそれに伴う社会の反応を示す、極めて象徴的な記録が残されている。天武天皇14年(681年)、天皇が宮中で王や卿たちに博戯(盤双六と考えられている)をさせたという記述がある一方で、そのわずか8年後の持統天皇3年(689年)には、日本史上初とされる「禁断雙六」の勅令が発布されたのである 4 。
この歴史的経緯は、盤双六が持つ二つの側面を端的に示している。すなわち、大陸からもたらされた先進的な文化として宮廷などの上流階級にまず受容されたという側面と、その遊戯が持つ強い射幸性ゆえに極めて短期間のうちに賭博と結びつき、社会問題化して為政者による統制の対象となったという側面である。伝来からわずかな期間で禁止令が出されたという事実は、盤双六が当時の社会に与えたインパクトの大きさを物語っており、この「先進文化の受容」と「賭博化による統制」という緊張関係は、以降の日本の双六史を通じて繰り返し現れる根源的なテーマとなった。
盤双六が単なる賭博の道具ではなかったことを示す最たる例が、正倉院北倉に収蔵されている聖武天皇の御物「木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)」である 8 。『国家珍宝帳』にも記載されたこの双六盤は、現存する世界最古級の遊戯盤の一つであり、日本の工芸史上においても極めて重要な位置を占める。
盤面や脚部には、紫檀、黒檀、黄楊といった木材に加え、象牙や緑に染められた鹿角など、国内外の貴重な素材が惜しみなく用いられている 12 。それらを精緻に組み合わせ文様を表す木画の技法は、当時の工芸技術の粋を集めたものであり、この双六盤が単なる遊戯具ではなく、最高級の美術工芸品であったことを雄弁に物語っている。
このような豪華な遊戯具の存在は、それが所有者の権威や富、そして大陸の先進文化に通じていることを示すステータスシンボルとしての役割を担っていたことを示唆する。賭博として市井では禁止される一方で、最高権力者の愛用品として至宝とされたこの双六盤は、盤双六が古代において既に「卑俗な賭博道具」と「高貴な遊戯具」という二面性を有していたことの象徴と言えよう。また、正倉院には花弁状の枡目を持つ北方系と、長方形の枡目を持つ南方系の二つの様式の双六盤が伝わっており、日本への伝来ルートが単一ではなかった可能性も指摘されている 15 。
盤双六は、縦に12本ずつの線が引かれ、計24のマス(梁)が設けられた盤上で、白黒各15個の駒と2個の賽子を用いて行われる二人対戦のレースゲームである 16 。基本的な目的は、相手より先に自分の駒すべてを自陣(インナーボード)に進めることにある 18 。
ゲームの戦略性を高める重要なルールとして、相手の駒が一つだけ置かれているマスに自分の駒を進めた場合、その相手の駒を盤外に弾き出すことができるというものがある。これは「切る」あるいは「上げる」と呼ばれ、弾き出された駒は振り出しに戻らなければならない 17 。一方で、相手の駒が二つ以上置かれているマス(「一荷」と呼ばれる)には進入することができず、これは防御の要となる 1 。
現代のバックギャモンと比較すると、ルールにはいくつかの重要な相違点が見られる。第一に、バックギャモンでは双方のプレイヤーが賽子を一つずつ振って大きい目が出た方が先手となりその目でプレイを開始するが、盤双六では先手・後手を決めた後、先手が二つの賽子を振ってゲームを始めるため、初手でゾロ目が出る可能性がある。第二に、ゾロ目の扱いが異なり、バックギャモンでは出目の数を4回分動かせるのに対し、盤双六では2回分しか動かせない。第三に、ゲームの終了条件が異なり、江戸時代後半には、自陣に15個の駒をすべて入れ終えた時点で勝ちとなる「入り勝ち」が主流であった(バックギャモンのように駒を盤外に出す「ベアリングオフ」の段階がない)。そして第四に、賭け点を倍増させるダブリングキューブは存在しない 1 。
盤双六は単一のルールで遊ばれていたわけではなく、時代や地域によって様々な遊戯法(バリエーション)が存在した。江戸時代の文献には、少なくとも以下の五種類の遊戯法が記録されており、これらの多くは戦国時代にも存在した可能性が考えられる 4 。
遊戯法名称 |
主なルール(ゲームの目的) |
初期配置 |
特徴 |
由来に関する考察 |
本双六 |
相手より先に全駒を自陣に入れる(競走) |
4箇所に2-5-3-5個の駒を配置(バックギャモンと同じ) |
最も標準的で戦略性が高いとされる 21 |
中国の『譜双』に同様の配置があり、大陸経由での伝来が確実視される 21 |
大和 |
相手より先に全駒を自陣に入れる(競走) |
3箇所に5個ずつの駒を配置 |
本双六より簡素な配置。平安時代に流行したとされる 21 |
中国にも同様の配置が存在し、日本独自の発生ではなく大陸由来の可能性が高い 21 |
追廻し |
相手の駒を全て盤上から取り除く(捕獲) |
各自手前のマスに1個ずつ駒を配置 |
競走ではなく、相手の駒を捕獲することが目的の全く異なるゲーム 21 |
中国の文献には見られず、アイスランドの遊戯に酷似。欧州からの直接伝来の可能性 21 |
柳 |
盤の片側の端から反対側の端へ全駒を移動させる(競走) |
片側の端の一マスに全15駒を配置 |
相手との駒の接触がない単純なレース。初心者向け 21 |
中国の文献にはなく、欧州の遊戯に類似形が見られる。欧州からの直接伝来の可能性 21 |
おりは |
盤の片側6マスのみを使用し、駒を全て置いた後、全て取り除く |
盤外から駒を置いていく、または最初から盤上に置く |
駒が盤上を周回しない非競走ゲーム。子供向けとも考えられる 21 |
欧州・中国に類似ゲームが存在。欧州→中国→日本という伝播経路が想定される 21 |
戦国時代、特に安土桃山時代は、ポルトガルやオランダとの南蛮貿易が始まった時代でもある。この交流は、火縄銃やキリスト教だけでなく、様々な西洋文化を日本にもたらした。その中には、西洋の双六、すなわちバックギャモンも含まれていたと記録されている 4 。
この歴史的背景は、前掲の表で示した遊戯法の由来を考察する上で極めて重要である。「追廻し」や「柳」といった遊戯法は、中国の双六専門書『譜双』には見当たらず、むしろヨーロッパで遊ばれていたゲームにその原型が見出せる。このことから、従来考えられてきた「インド→中国→日本」というシルクロードを経由した伝来ルートに加え、戦国時代には「ヨーロッパ→日本」という海路を通じた直接的な文化伝播のルートが存在し、それによって新たな盤双六の遊戯法がもたらされた可能性が極めて高い。戦国時代は、日本の双六文化が、アジア大陸からの影響だけでなく、ヨーロッパからの直接的な影響をも受け始めた、文化伝播の大きな転換点であったと言えるだろう。
戦国時代に双六がどれほど遊ばれていたかを直接示す武士の日記などは限定的だが、その前段階である室町時代の記録は、当時の社会における双六の浸透度を雄弁に物語っている。特に、公家・山科言継が記した『言継卿記』には、双六を打ったという記述が実に数百回にもわたって登場する 4 。これは、双六が宮廷や公家社会において、儀礼的な行事の合間や日常の気晴らしとして、いかに頻繁に行われていたかを示す一級の史料である。同様に、『看聞御記』にも数十回の記述が見られ、これら上流階級の文化が、交流を通じて武家社会へと波及していったことは想像に難くない。
文献記録を補い、戦国時代の武士と双六の関わりを具体的に示すのが、各地の遺跡からの出土品である。
福井県に位置する戦国大名・朝倉氏の城下町跡、一乗谷朝倉氏遺跡からは、双六の駒や賽子、碁石などが発見されている 23 。これらの遊戯具が、大名の館だけでなく、家臣の武家屋敷や寺院、町屋といった広範囲の遺構から出土している点は重要である。これは、双六が朝倉氏とその家臣団、さらには城下町の僧侶や有力町人といった多様な階層にわたって楽しまれていたことを示す動かぬ証拠である。
さらに、北東北の戦国大名・三戸南部氏の居館跡である聖寿寺館跡(青森県)からも、15世紀後半から16世紀前半のものと推定される動物の骨で作られた双六の駒と賽子がセットで出土している 25 。これは東北地方における初のセットでの出土例であり、双六文化が畿内や西国だけでなく、広く日本各地の戦国大名の下にまで及んでいたことを裏付けている。
これらの考古学的発見は、戦国武将の生活が戦闘や政務だけでなく、こうした遊戯を含む文化的な活動によって彩られていたという、より人間的な側面を我々に示してくれる。特に盤双六は、賽の目という運の要素が強く、囲碁や将棋ほど実力差が顕著に出にくいため、身分や年齢の異なる者同士でも気軽に対戦できるという利点があった。戦の合間や城内での長い待機時間において、盤双六は単なる暇つぶしに留まらず、主君と家臣、あるいは家臣同士の人間関係を円滑にするためのコミュニケーションツールとして、また戦の緊張を緩和するための重要なレクリエーションとして機能した可能性が考えられる。
鎌倉時代から室町時代にかけての『徒然草』や『平治物語』といった文学作品や歴史物語に双六が頻繁に登場することからも、その遊戯が武士や貴族といった特定の階層に留まらず、より広い層に浸透していたことがうかがえる 4 。江戸時代初期に描かれた国宝「彦根屏風」には、遊里と思しき場所で身なりの良い男女が盤双六に興じる様子が生き生きと描かれており、戦国時代から続く遊興の文化が近世へと継承されていった様を伝えている 1 。
盤双六は、その単純明快なルールと賽子がもたらす偶然性から、極めて容易に賭博の対象となった 8 。人々は射幸心を煽られ、時には財産を全て失うほど熱中した。その様子は、『鳥獣人物戯画』において猿たちが双六盤を運ぶ姿や、賭けに負けて身ぐるみ剥がされた男の姿など、風刺的に描かれている 29 。
為政者にとって、賭博の蔓延は看過できない問題であった。古くは奈良時代の孝謙天皇の勅令で、賭博によって人々が悪の道に走り、家業を失い、孝道にも欠けるといった弊害が指摘されている 30 。鎌倉幕府は、御家人が所領である田地を賭けの対象にすることを特に問題視し、『御成敗式目』の追加法で賭博を厳しく禁じ、違反者には指の切断や島流しといった過酷な刑罰を科した 30 。この賭博を厳禁する姿勢は、室町幕府の『建武式目』にも引き継がれ、為政者にとって賭博の取り締まりは常に重要な課題であった。
戦国時代に入ると、各地の戦国大名は自らの領国を効率的に統治するため、独自の法典である「分国法」を制定した。これらの法典において、賭博は領内の秩序を乱す行為として、例外なく厳しく禁じられている。
その代表例が、陸奥の戦国大名・伊達稙宗が天文5年(1536年)に制定した『塵芥集(じんかいしゅう)』である。全171条にも及ぶこの詳細な分国法は、その第155条で明確に賭博を禁止している 30 。同様に、武田信玄の『甲州法度之次第』(1547年)や今川氏の『今川仮名目録』なども、領国経営の安定化を目的としており、その根幹には領民の生活を破綻させかねない賭博行為への厳しい姿勢があった 35 。
戦国大名がこれほどまでに賭博を厳しく禁じた背景には、単なる道徳的な理由だけではなく、極めて現実的な領国経営上の判断があった。賭博の蔓延は、領民を家業から遠ざけ、農業生産力を低下させる。また、田畑や財産を巡る争いを引き起こし、領内の治安を悪化させる。これらは、兵糧の確保や兵役を課す上で、領国の経済的・人的資源の安定を絶対条件とする戦国大名にとって、まさに死活問題であった。したがって、分国法における賭博禁止令は、領内の資源を保護し、安定した統治基盤を確立するための「富国強兵」政策の一環だったのである。双六という遊戯の統制が、戦国時代の政治・経済構造と密接に結びついていたことがわかる。
盤双六は、遊戯そのものだけでなく、文化的な比喩としても人々の意識に深く根付いていた。その象徴が、「双六の賽」という言葉である。平安時代の白河法皇が、自らの権勢をもってしても意のままにならないものとして、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の三つを挙げたという逸話はあまりにも有名である 24 。
この言葉は、「双六の賽の目」が、人の力や知恵ではどうにもならない「運命の偶然性」や「ままならなさ」の象徴として、広く社会に認識されていたことを示している。実力主義が謳われ、自らの才覚で運命を切り拓こうとした戦国武将たちにとっても、戦の勝敗や人の生死は、能力や策略だけで決まるものではなかった。彼らもまた、この「双六の賽」という言葉に、予測不可能な自らの境遇や人生の浮沈を重ね合わせていたことは想像に難くない。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった、いわゆる「三英傑」をはじめとする著名な戦国武将が、具体的に盤双六を遊んだことを示す直接的な一次史料は、現在のところ確認されていない。彼らの娯楽としては、鷹狩り、茶の湯、能、相撲といった、より格式の高い、あるいは身体的な活動が記録として残っていることが多い 24 。
しかし、これは彼らが双六を全く遊ばなかったことを意味するものではない。前述の通り、一乗谷や三戸といった戦国大名の本拠地からは双六の駒が出土しており、彼らの家臣団や周辺の人々が双六に興じていたことは確実である。そうした環境の中で、主君である大名たちが、私的な場で、あるいは家臣との交流の一環として双六に触れる機会があったと考えるのが自然であろう。公式な記録には残らない、日常的な遊戯として楽しまれていた可能性は十分にある。
現代において、「戦国双六」という言葉は、歴史的な盤双六とは異なる文脈で用いられることがある。例えば、人気歴史シミュレーションゲーム『信長の野望 出陣』などでは、ゲーム内イベントとして「戦国双六」が実装されている 40 。
これらのコンテンツにおける「戦国双六」は、賽を振ってマス目を進み、敵部隊を撃破したり、城を攻略したりすることを目指すものであり、そのゲームシステムは歴史上の盤双六とは全く異なる。これは、「戦国」という言葉が持つ領土拡大や武将同士の争いのイメージと、「双六」という言葉が持つ運と戦略でゴールを目指すという分かりやすいゲーム性のイメージを組み合わせることで、歴史的なルールを知らない現代のプレイヤーにも直感的に楽しめる新しい娯楽として再創造されたものである。
この現象は、歴史的な遊戯がその本来の姿から離れ、言葉の持つイメージだけが抽出されて現代の娯楽の中で再生産されるという、興味深い文化事象の一例と言える。史実としての「戦国時代の双六」、すなわち盤双六と、現代の創作物としての「戦国双六」は、明確に区別して理解する必要がある。
戦国時代に主流であった盤双六とは別に、後の時代に日本の双六文化の主役となる絵双六もまた、この時代にその産声を上げていた。絵双六の最も古い形態は、仏教の教えを分かりやすく説くための教育的な道具として生まれた。
その起源とされるのが、13世紀後半頃に天台宗の僧侶が新米の僧に仏法の概要を学ばせるために考案したと伝わる「仏法双六(ぶっぽうすごろく)」、あるいは「名目双六」である 5 。これは盤面に絵がなく、仏教用語などの文字のみが記されており、賽子の目に従って進むことで仏法の世界観を体系的に学べるように工夫されていた。
その後、これをさらに発展させ、盤面に絵が描かれるようになったのが「浄土双六(じょうどすごろく)」である 5 。これは、遊戯者が人間界から出発し、賽子の目に従って六道輪廻の世界を巡り、最終的に極楽浄土への到達(上がり)を目指すというもので、勧善懲悪の思想が色濃く反映されていた 6 。賽子の目も、単なる数字ではなく「南無分身諸仏」の六文字が用いられることもあったとされ、その宗教的な性格を物語っている 45 。この浄土双六こそが、現代につながる絵双六の直接の祖形と考えられている 8 。
この「浄土双六」が遊ばれていたことを示す最古の文献記録は、文明6年(1474年)8月8日付の『言国卿記』である 8 。この日、大納言の山科言国が親王の御所で浄土双六の会に加わったと記されており、応仁の乱の最中という戦乱の時代に、既に宮中などの上流階級の間で絵双六が遊ばれていたことがわかる。
したがって、戦国時代は、この「浄土双六」が一部の教養ある階層、特に公家や高位の僧侶などの間で遊ばれていた時期にあたる。しかし、その性質上、盤双六のように賭博の対象となることは少なく、武士社会や庶民の間にまで広く浸透していたとは考えにくい。
この事実は、戦国時代が日本の双六史において、二つの異なる潮流が交差する「過渡期」であったことを示している。すなわち、古代から続く盤双六が遊戯・賭博の両面で社会に深く根付き、その最盛期を迎えていた一方で、近世に庶民文化として花開くことになる絵双六が、その原型として静かに誕生し、一部で遊ばれ始めていた時代なのである。やがて江戸時代に入ると、盤双六は次第に衰退し、入れ替わるようにして多色刷りの木版画技術と結びついた絵双六が隆盛を極めることになるが、その歴史的な主役交代の萌芽は、まさしく戦国時代に存在していたのである 1 。
本報告書では、日本の戦国時代における「双六」について、その多面的な実態を明らかにしてきた。総括として、この時代における双六の歴史的位相を以下の三点に集約することができる。
第一に、戦国時代の「双六」とは、主として盤双六を指すものであり、それは武士階級を中心に、貴族から庶民に至るまで、階級を超えて熱狂を呼んだ普遍的な娯楽であった。一乗谷朝倉氏遺跡や三戸南部氏聖寿寺館跡からの考古学的出土品は、その浸透度を物語る何よりの物証である。
第二に、この時代の盤双六は、二つの相反する側面を併せ持っていた。それは、戦乱の合間の息抜きや社交の道具として機能する純粋な「遊戯」としての側面と、その強い射幸性ゆえに容易に賭博へと転化し、戦国大名による分国法で厳しく禁じられる「統制の対象」としての側面である。武士たちが盤双六に興じながらも、大名たちはその蔓延が領国経営の根幹を揺るがしかねないとして厳しく取り締まる。この遊戯と統制の間の緊張関係こそが、戦国時代の双六を特徴づける最も重要な点である。
第三に、戦国時代は日本の双六史における大きな転換点を準備した、ダイナミックな過渡期として位置づけられる。実力主義が支配する下剋上の世にあって、人の力では及ばない「運命」を象徴する「双六の賽」という概念は、武将たちの世界観と深く共鳴したであろう。また、従来の中国大陸からの文化流入に加え、南蛮貿易によるヨーロッパ文化との接触が始まったこの時代は、盤双六の遊戯法にも新たな潮流をもたらした可能性があり、まさに文化の交差点であった。そして何よりも、盤双六が依然として隆盛を誇るその傍らで、近世に庶民文化の主役となる絵双六が、仏教的な「浄土双六」として産声を上げていた。中世的な遊戯文化の爛熟と、近世的な庶民文化の萌芽が同居する時代、それが戦国時代における双六の歴史的な立ち位置なのである。