『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録。北条氏の意図も含むが、戦国武将は統治・故実・法制定の教科書とした。徳川家康は頼朝を崇敬し、写本収集と出版で幕府の思想的支柱。
『吾妻鏡』、あるいは『東鑑』とも記されるこの歴史書は、鎌倉時代後期に幕府関係者の手によって編纂された、日本史上初の本格的な武家政権の公式記録である 1 。その記述は、治承四年(1180年)、源頼朝が平家打倒の令旨を受け取る以前の動静から始まり、第六代将軍宗尊親王が鎌倉を追われ京へ送還される文永三年(1266年)までの、実に87年間にわたる鎌倉幕府の事績を、編年体の形式で詳細に綴っている 4 。
本書は、鎌倉という時代を映し出す第一級の史料であると同時に、その編纂には編者の明確な意図が介在し、後世の我々が読み解くべき多くの謎を内包している。しかし、本報告書が主眼を置くのは、この鎌倉時代の史書が持つもう一つの側面、すなわち、約300年の時を超えて、下剋上の実力が全てを支配する戦国時代において、多くの武将たち、とりわけ天下統一を成し遂げた徳川家康にとって、なぜ統治の指針となる不可欠な「教科書」となり得たのか、という問いである。この歴史的意義を解明するためには、まず『吾妻鏡』という史書が持つ多面的な性格—客観的な「記録」としての顔、北条氏のプロパガンダとしての顔、そして法や儀礼の「典範」としての顔—を深く分析し、それがいかにして戦国時代の政治思想と共鳴し、新たな時代の秩序形成に寄与したかを探求する必要がある。本報告書は、この壮大な歴史の連環を、詳細かつ徹底的に解き明かすことを目的とする。
『吾妻鏡』の成立過程を理解することは、その史料的価値を正しく評価する上で不可欠である。本書は単なる出来事の羅列ではなく、特定の時代背景と政治的意図のもとに生み出された産物であった。
『吾妻鏡』の編纂がいつ、誰によって行われたかについて、原本が失われた現在、正確に特定することは困難であるが、研究の進展によりその輪郭は明らかにされている。成立時期は、13世紀末から14世紀初頭、西暦にして1300年前後と推定するのが通説である 6 。編纂者は一人の人物ではなく、鎌倉幕府の政務を実際に担っていた複数の奉行人であったと考えられている 1 。中でも、北条氏の一門であり、学問・文芸の家としても知られた金沢氏が編纂に深く関与したとする説が有力視されている 6 。さらに、幕府の創設期から中枢を支えた政所や問注所の執事、すなわち大江広元や三善康信の子孫たち(毛利氏、長井氏、太田氏など)が、その家職を通じて蓄積した記録や知識を編纂に提供した可能性も指摘されている 1 。
では、彼らは何を目的としてこの壮大な編纂事業に着手したのだろうか。その動機は、少なくとも二つの側面から捉えることができる。
第一に、公的記録としての側面である。編纂にあたっては、幕府自身が保管していた日記や公式文書、全国の御家人諸家に伝来した文書、さらには寺社の記録に至るまで、極めて多様な一次資料が参照された 6 。これは、朝廷が『六国史』を編纂して自らの治世を正史として記録したように、日本初の武家政権である鎌倉幕府が、その創成から安定に至るまでの歴史を、自らの手で公式に記録しようとした国家事業としての性格を物語っている 3 。
第二に、より重要なのが、編纂当時の権力者であった北条得宗家の政治的意図である。『吾妻鏡』の記述は、徹頭徹尾、北条氏の視点から構成されている 1 。これは、源氏将軍が三代で断絶し、北条氏が執権として幕府の実権を掌握するに至った歴史的経緯を正当化し、その支配体制の恒久性を後世に伝えるための、一種のプロパガンダとしての意図があったことを強く示唆している。
この二つの側面は、さらに深い歴史的文脈の中に位置づけることができる。編纂時期である13世紀末から14世紀初頭は、日本が二度にわたる元寇(1274年、1281年)という未曾有の国難に直面し、それを乗り越えた直後であった 7 。この外敵との戦いは、それまで内乱に明け暮れていた武士たちに、初めて「日本国」という一つの共同体を強烈に意識させる契機となった 10 。そして、この国難を主導して克服したのは京都の朝廷ではなく、鎌倉の幕府と、その実質的な指導者であった北条氏であった。この経験を通じて、北条氏は自らを単なる関東の覇者ではなく、「日本国」の統治者として位置づける必要に迫られた。朝廷が『日本書紀』に始まる史書編纂によって自らの統治の正統性を示したように、北条氏もまた、武家政権の成立から国難克服に至る歴史を「国の歴史」として編纂することで、その統治者としての地位を不動のものにしようとしたのである。この国家意識の萌芽こそ、『吾妻鏡』編纂の根源的な動機の一つと考えることができる。
『吾妻鏡』は、その独特な構成と記述スタイルによって、鎌倉幕府という政権の性格を浮き彫りにしている。
本書が扱う期間は、前述の通り治承四年(1180年)から文永三年(1266年)までの87年間であるが、その記述は連続したものではない。特に、寿永二年(1183年)、仁治三年(1242年)、そして最も重要な源頼朝の最晩年にあたる建久七年から九年(1196年~1198年)など、合計で10年分以上の記録がまとまって欠落している 4 。この「空白」が、伝来の過程で偶然生じた散逸なのか、あるいは編纂者が意図的に記述を避けた結果なのかは、本書をめぐる最大の謎の一つとして、後述の通り重要な論点となっている。
文体は、「吾妻鏡体」と呼ばれる、漢文を日本語の語順や語法で記述した、和習の強い変体漢文で記されている 4 。形式上は、日々の出来事を記す日記体(編年体)を採用しているが、実際には、編纂の段階で様々な資料を収集し、取捨選択と編集を経て完成させたものであることは明らかである 2 。
記述の視点は、常に鎌倉が中心に据えられている。例えば、京都や西国で重大な事件が発生した場合でも、その出来事が直接記述されることはない。代わりに、「(某)使者参着して云はく(ある者の使いが到着して言うことには)」といった形式で、あくまで鎌倉にもたらされた「情報」として記録される 4 。この独特な記述法は、単なる編集上の方針に留まらない。それは、鎌倉が日本の政治的・軍事的中心であり、全国の情報がここに集約され、幕府の意思決定を経て再び全国へと発信されていくという、鎌倉幕府が構築した統治システムそのものを反映している。物理的な距離を超えて情報を集約・管理し、それを公式な歴史として再発信するこのプロセス自体が、幕府の権威の源泉であった。後の戦国大名たちが、自らの領国で同様の情報ネットワークの構築に腐心したことを考えれば、彼らが『吾妻鏡』を読んだ際に、この情報統制による権威構築の構造を学んだであろうことは想像に難くない。
その内容は極めて多岐にわたる。幕府の政治決定や法制度の運用、御家人同士の所領争いや謀反といったマクロな政治動向はもちろんのこと、将軍の日常生活や和歌会、鶴岡八幡宮での祭礼や流鏑馬といった儀式、さらには日食・月食、彗星の出現、大雨や地震といった天変地異に至るまで、驚くほど詳細に記録されている 5 。これにより、『吾妻鏡』は、鎌倉時代の武家社会の政治・社会・文化を立体的に復元するための、比類なき情報源となっている。
『吾妻鏡』という書名自体が、編纂者たちの自己認識と目的を雄弁に物語っている。
「吾妻(あづま)」とは、古来、東国、すなわち関東地方を指す言葉である。その語源は、英雄・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰途、碓氷峠から関東平野を望み、荒れ狂う海に身を投じて自らを救った妻・弟橘媛を偲んで「吾妻はや(ああ、我が妻よ)」と嘆いたという、『古事記』に記された有名な伝説に由来するとされる 8 。この名称は、京都の朝廷文化圏から見た東の辺境の地であり、坂東武士たちの本拠地であるという、鎌倉幕府の地理的・文化的アイデンティティを象徴している。
一方、「鏡(かがみ)」という言葉は、単に物事の姿をありのままに映し出すという意味に留まらない。日本の古典文学において、「鏡」はしばしば「手本」「教訓」「模範」といった規範的な意味合いを込めて用いられてきた 13 。『大鏡』や『今鏡』といった「鏡物」と総称される歴史物語群が、過去の出来事を語ることを通じて、後世の人々への教訓としたように、『吾妻鏡』もまた、武家社会のあるべき姿や統治の規範を示す書物としての性格をその名に含んでいるのである。
したがって、「吾妻鏡」という書名は、単に「東国の記録」という意味ではない。それは、「東国に誕生した武家政権による、後世の武士たちの手本となるべき公式な歴史書」という、編纂者たちの強い自負と明確な目的意識が込められた、極めて意図的な命名であったと解釈できる。
『吾妻鏡』は鎌倉時代研究の根幹をなす史料であるが、その利用にあたっては、成立の経緯に由来する特質と限界を十分に理解する必要がある。失われた原本、現存する写本の複雑な伝来、そして編纂者の意図による「曲筆」は、この史料を読み解く上で避けては通れない重要な問題である。
『吾妻鏡』の編纂当時の原本は、残念ながら現存していない。室町時代の半ばには既に全体が散逸し、断片的な写本のみが各地に伝わる状態だったと考えられている 7 。現在、我々が目にすることができる『吾妻鏡』は、これらの断片を後世の人々、特に戦国時代から江戸時代初期にかけての大名や知識人たちが、情熱を注いで収集・復元した成果物なのである。その中でも、伝来の経緯や本文の内容から特に重要とされるのが、「吉川本」「北条本」「島津本」の三大写本である。
写本名 |
主な収集・書写者 |
成立時期 |
伝来の経緯(戦国時代中心) |
特徴 |
吉川本 |
右田弘詮(大内氏家臣) |
大永二年(1522年) |
大内氏 → 毛利氏 → 吉川氏(吉川元春) |
現存する最善本と評価。独自の記述を多く含む。 8 |
北条本 |
不明 |
16世紀初頭 |
後北条氏 → 黒田官兵衛 → 徳川家康 |
江戸時代の版本の底本となり、最も広く流布した。 8 |
島津本 |
島津家 |
16世紀 |
二階堂氏 → 島津氏 |
北条本にない欠落部分(嘉禄~安貞年間)を含む。 8 |
この表が示すように、三大写本の伝来には、後北条、大内、毛利、島津、そして徳川といった、戦国時代を代表する大名家が深く関与している。この事実は、『吾妻鏡』が単なる古い記録文書ではなく、武家の棟梁たる者の権威と教養を象徴する「至宝」として、戦略的な価値を持つ文化財として扱われていたことを物語っている。
例えば、最善本と評される「吉川本」を集成した右田弘詮は、主君である大内氏の重臣であると同時に、当代一流の文化人でもあった 8 。彼が約21年もの歳月をかけて写本の収集と書写を行ったことは、京文化を積極的に導入し「西の京」と称された山口を拠点とした大内氏の、高度な文化政策を反映している。また、その吉川本を大内氏滅亡後に手に入れた吉川元春は、毛利元就の次男として知られる猛将であるが、同時に文芸を深く愛好し、『太平記』の写本も手掛けるほどの教養人であった 18 。彼が『吾妻鏡』を熱望した背景には、武家の棟梁たる者は、武勇だけでなく歴史と教養を兼ね備えるべきであるという、当時の武士階級における新たな価値観の形成があった。
このように、戦国大名による『吾妻鏡』の収集活動は、単なる個人的な趣味や教養の誇示に留まるものではなかった。それは、武力による支配だけでなく、文化的権威によって領国を統治しようとする、より高度な「文化戦略」の一環であった。鎌倉幕府の公式史書を所有することは、自らがその正統な後継者であることを文化的に証明する、極めて象徴的な行為だったのである。
『吾妻鏡』が北条氏の視点で編纂されたことは、記述の客観性に大きな制約をもたらしている。近代歴史学の黎明期、明治時代に展開された星野恒と原勝郎の論争は、この問題を学術的に明らかにした 1 。『吾妻鏡』を幕府の公式日記として全面的に信頼する星野に対し、原は、本書が後世の編纂物であり、北条氏の立場を正当化するための意図的な記述の歪曲、すなわち「曲筆」が随所に見られることを指摘し、史料批判の重要性を説いた。この原の視点は、現代の『吾妻鏡』研究の基礎となっている。
曲筆の代表例として、以下の点が挙げられる。
これらの曲筆は、『吾妻鏡』が客観的な事実の記録であると同時に、北条氏によって構築された「物語」でもあることを示している。したがって、この史料を利用する際には、常に他の史料との比較検討を行い、記述の背後にある編纂者の意図を読み解くという、批判的な視点が不可欠となる。
『吾妻鏡』における最大の謎が、建久七年(1196年)から九年(1198年)までの、源頼朝の最晩年から死の直前に至る三年間分の記録が完全に欠落していることである 12 。さらに、それに続く正治元年の記事も、頼朝の死そのものには直接触れず、嫡子・頼家への家督継承を伝える公文書の到着から始まっている。この不可解な「空白」の理由については、古くから様々な説が提唱されてきた。
どの説が真実であるかを断定することは困難であるが、この「空白の三年間」の存在自体が、『吾妻鏡』が単なる客観的な記録ではなく、編纂者の強い意図によって情報が取捨選択され、構成された歴史叙述であることを最も象徴的に示している。特に意図的編纂回避説に立てば、歴史を語る上で「書かれなかったこと」が、「書かれたこと」と同様に、あるいはそれ以上に雄弁に歴史の真実を物語る場合があることを我々に教える、絶好の事例と言えるだろう。
鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』が、その真価を再び問われ、新たな光を当てられたのが、約300年の時を経た戦国時代であった。旧来の権威が失墜し、実力のみが支配する乱世において、天下を目指す武将たちは、自らの統治を正当化し、安定した秩序を築くための指針を、この古き武家政権の記録に求めたのである。
戦国大名にとって、『吾妻鏡』は単なる過去の物語ではなく、極めて実践的な価値を持つ「教科書」であった。
戦国武将たちは、このように『吾妻鏡』を多角的に活用したが、彼らが参照した歴史書はこれだけではなかった。当時、『吾妻鏡』と並んで広く読まれたのが、鎌倉幕府の崩壊と南北朝の動乱を描いた軍記物語『太平記』であった 1 。この二つの書物は、対照的な歴史観を提示している。『吾妻鏡』が、源頼朝や北条泰時を理想像とし、法と先例に基づいた安定した統治、すなわち「秩序」の重要性を説くのに対し、『太平記』は、楠木正成の奇策や足利尊氏の権謀術数など、既存の権威を打ち破るための実力行使や策略、すなわち「動乱」を生き抜く術を描き出す。戦国武将たちは、この二つの歴史書を巧みに読み分けていたと考えられる。天下を平定し、新たな秩序を構築する段階では『吾妻鏡』の先例を重んじ、敵を打ち破り、下剋上を成し遂げる局面では『太平記』の権謀術数を参考にする。いわば、『吾妻鏡』を統治の「建前」の教科書とし、『太平記』を乱世の「本音」の戦術書として、状況に応じて使い分けていたのである。
数ある戦国武将の中でも、『吾妻鏡』を最も深く読み込み、自らの政治思想の根幹に据えたのが、江戸幕府の創始者、徳川家康であった。
家康の『吾妻鏡』に対する関与は、収集や研究に留まらなかった。彼は、この書物を印刷・出版し、より広い層へ普及させるという、画期的な事業を成し遂げる。
家康による『吾妻鏡』の出版は、単なる文化事業ではなかった。それは、戦国という流動的で無秩序な社会を終焉させ、身分秩序が固定された安定的な社会を構築するための、高度な思想的プロジェクトであった。戦国武士たちの価値観を、個人の武勇や野心から、組織への忠誠と先例の尊重へと転換させるために、幕府は全ての武士に「我々が目指すべき武家政権の理想の姿は、この鎌倉草創期にある」という共通の歴史観を植え付けようとした。これは、武士たちのエネルギーを幕藩体制の維持へと向けさせる、巧みなイデオロギー政策であった。まさに、剣や鉄砲だけでなく、「書物」もまた、天下泰平を実現するための重要な武器だったのである 22 。
『吾妻鏡』は、その成立から後世における受容の歴史を通じて、極めて多層的な性格を持つ史書であることが明らかとなった。それは第一に、鎌倉幕府が自らの正統性を後世に伝えるために編纂した、北条氏の政治的意図が色濃く反映された歴史書である。そのため、記述には多くの「曲筆」が含まれる一方で、武家政権初期の法制度、社会、文化を今日に伝える、比類なき価値を持つ第一級の史料でもある。
しかし、この書物の真の特異性は、編纂から約300年の時を経て、戦国という全く異なる時代の要請に応え、新たな生命を吹き込まれた点にある。乱世を勝ち抜いた武将たちは、そこに単なる過去の記録ではなく、新たな武家政権を樹立するための統治の理念、法や儀礼の先例、そして自らが目指すべき理想の君主像を見出した。彼らは『吾妻鏡』を、過去を学ぶための歴史書としてだけでなく、未来を創造するための実践的な教科書として読み解いたのである。
中でも徳川家康は、『吾妻鏡』を自らが創始する江戸幕府の思想的支柱と明確に位置づけ、写本の収集から研究、さらには印刷による普及に至るまで、徹底的に活用した。これにより、『吾妻鏡』は鎌倉時代の記録という当初の役割を遥かに超え、近世武家社会の秩序とイデオロギーを形成する上で不可欠な「古典」としての地位を確立した。
総じて、『吾妻鏡』は、鎌倉という時代を映す「鏡」であると同時に、後世の武士たちが自らの姿を映し、あるべき未来を構想するための「鏡」でもあり続けた。それは、鎌倉から江戸へと続く武家社会の精神的連続性を象徴する、まさに時代を超えた壮大な架け橋であったと言えるだろう。