国友筒は戦国時代、近江国友で発展した火縄銃。将軍家庇護下の分業体制で量産され、高い品質と信頼性で天下統一に貢献。江戸時代以降は民生技術へ転用され、現代に継承されている。
天文12年(1543年)、種子島に漂着した一隻の異国船が、日本の歴史を大きく塗り替えることになる新兵器、鉄砲をもたらした 1 。この出来事は、単なる武器の導入にとどまらず、合戦の様相を根底から覆す戦術革命の引き金となった。個々の武勇に依存した従来の白兵戦中心の戦いから、訓練された集団による遠距離からの組織的攻撃へと、戦いのパラダイムは劇的に移行したのである 1 。
この歴史的転換期において、鉄砲の国産化と量産体制の構築は、戦国大名にとって天下の趨勢を左右する最重要課題となった。その需要に応える形で、日本各地に鉄砲の生産拠点が勃興したが、中でも近江国友、和泉堺、紀伊根来は三大生産地としてその名を馳せた 1 。堺が国際貿易港としての自由闊達な気風の中で商業的に発展し、根来が僧兵集団の武装として独自の生産体制を築いたのに対し、国友はそれらとは一線を画す特異な発展経緯を辿る。
本報告書は、この「国友筒」に焦点を当て、その起源から製造技術、戦国時代の権力闘争における役割、そして戦国の終焉と共に迎えた変容に至るまでを徹底的に調査・分析するものである。国友がなぜ、そしてどのようにして日本を代表する鉄砲生産地となり得たのか。その物語は、技術が如何に時代の要請と結びつき、権力と相互作用しながら歴史を動かしていくかという、普遍的な力学を解き明かす鍵となるだろう。
国友が鉄砲という当代随一のハイテク兵器の生産拠点となり得た背景には、この地が有していた地理的優位性と、長年にわたり培われてきた技術的土壌が存在した。国友村は、古くから良質な鉄の産地として名高い伊吹山の西麓に位置しており、鉄砲生産に不可欠な鉄資源へのアクセスが極めて容易であった [ユーザー提供情報]。『続日本紀』には、奈良時代に近江国で製鉄が行われていたことを示唆する記述が見られ、この地が古代から金属加工と深い関わりを持っていたことがわかる 4 。
さらに、5世紀から7世紀にかけて朝鮮半島から渡来した人々が、進んだ鋳鍛技術を近江の地にもたらした可能性も指摘されている 2 。彼らは農具などの鉄器製造を通じて地域社会に貢献し、その高度な技術は代々受け継がれていった。この金属加工技術の長年にわたる蓄積こそが、鉄砲という未知の製品に対しても迅速に適応し、模倣から創造へと昇華させることを可能にした基盤であったと言える 2 。
また、国友村の中央を旧北国街道が貫いていたことも見逃せない 6 。この街道は、京都を目指す多くの武将たちが通る交通の要衝であり、国友は常に最新の情報や物資、そして需要に触れる機会に恵まれていた。この地理的条件が、後の権力者たちとの密接な関係を築く上で重要な役割を果たすことになる。
国友における鉄砲生産の起源を語る上で最も有名な史料が、江戸時代中期に国友の鍛冶自身によって書かれた『国友鉄砲記』である 4 。同書によれば、鉄砲伝来の翌年である天文13年(1544年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴が、種子島から献上された鉄砲の模造を計画した 7 。そして、管領・細川晴元を通じて国友村の鍛冶、国友善兵衛らに製作を命じたとされる 4 。
当初、銃身の尾部を塞ぐネジの構造がわからず苦心したが、やがてその原理を解明し、約半年の歳月をかけて二挺の鉄砲を完成させ、将軍に献上したという 4 。これが、通説として語られる国友鉄砲の始まりである。
しかし、この『国友鉄砲記』は、出来事から200年近く後に編纂されたものであり、史料としては慎重な扱いが求められる 12 。特に、江戸時代を通じて国友鍛冶内部で生じた有力な家(四人方)と一般の鍛冶(十人方)との間の対立を背景に、四人方が自らの支配の正当性を将軍家という最高の権威に結びつけるために、この物語を創作・脚色した可能性が強いと指摘されている 2 。鉄砲伝来からわずか1年という異例の速さで完成させたという記述の信憑性にも、歴史学的な観点から疑問が呈されているのが実情である 2 。
『国友鉄砲記』の記述とは別に、国友が戦国時代初期から鉄砲生産を行っていたことを示す確かな史料が存在する。越前朝倉氏の一門が記した『溱文書』には、弘治元年(1555年)までには、国友産の鉄砲が贈答品としてやり取りされていたことが記録されている 2 。これは、将軍家の命令という単一の起源説とは異なる、国友の鉄砲生産の現実的な姿を浮かび上がらせる。
国友の鍛冶が、見本もなしに独力で鉄砲製作を始めたとは考えにくい 2 。実際には、将軍家以外にも複数のルートから技術や需要がもたらされたと推測するのが自然であろう。当時、国友を含む湖北地域を支配していた浅井氏や、堺から大量の鉄砲を調達し強力な鉄砲隊を組織していた石山本願寺などが、国友の技術力に着目し、製作を依頼した可能性は十分に考えられる 2 。また、紀伊根来衆と関係が深かった甲賀衆を通じて、技術が伝播したという説もある 2 。
結論として、国友の鉄砲生産の黎明は、単一の「将軍の命令」によって始まったというよりは、むしろ「古代からの技術的蓄積」「交通の要衝という地理的条件」「将軍家、地域領主、宗教勢力といった複数の政治勢力からの複合的な需要と技術流入」という三つの要素が絡み合った結果、必然的に生まれたものと捉えるべきであろう。後に編纂された『国友鉄砲記』は、この複雑な黎明期の歴史を、最も権威ある将軍家に由来する壮大な物語へと再構築することで、自らのブランド価値を高めようとした戦略的文書であったと評価できる。
国友筒が戦国大名から絶大な信頼を勝ち得た理由は、その卓越した品質と、それを支える高度な製造技術、そして効率的な生産体制にあった。単なる模倣に終わらず、日本の風土と技術に最適化された独自の進化を遂げた点に、国友の真価を見出すことができる。
国友筒の品質を決定づけた核心技術が、「巻張鍛法(まきばりたんぽう)」と呼ばれる銃身の製造方法である 13 。この技法は、銃の発射時にかかる高圧に耐え、破裂を防ぐための強靭な銃身を生み出した。
その工程は極めて緻密である。
この二重、三重に鉄を巻き締め、鍛え上げる丁寧な工法こそが「巻張」であり、南蛮渡来の銃や他国産の銃がしばしば鍛造不足で破裂しやすかったのに対し、国友筒に圧倒的な堅牢性と信頼性を与えた源泉であった 15 。この技術的優位性が、「国友製は高級品」というブランドを確立させたのである。
高品質な製品を安定的に、かつ大量に供給するため、国友では先進的な分業体制が確立されていた。一挺の鉄砲は、それぞれ専門分野を持つ三種の職人の連携によって生み出された 6 。
この三位一体の生産システムは、一人の職人が全工程を担うよりも遥かに高い生産性を実現した。これにより、織田信長や徳川家康といった天下人からの、時に数千挺にも及ぶ大量発注に応えることが可能となった。これは、現代の製造業におけるモジュール生産やサプライチェーンの思想にも通じる、極めて合理的な体制であった。
国友では、戦術の多様化に応じて様々な種類の鉄砲が製作された。これらの鉄砲は、主に使用する鉛玉の重量(匁、1匁は約3.75グラム)によって「小筒」「中筒」「大筒」などに分類され、それぞれ異なる役割を担った 14 。
種類 |
主な用途 |
口径の目安(玉目) |
全長の目安 |
重量の目安 |
小筒(細筒) |
足軽の主兵装、集団運用 |
1~3匁(約8~13mm) |
約130cm |
約4~5kg |
中筒(侍筒) |
武士階級用、高い威力 |
4~10匁(約13~18mm) |
約130cm |
約4~5kg |
大筒 |
城攻め、破城用兵器 |
30匁~1貫目(約26~84mm) |
多様 |
約10~120kg |
挟間筒 |
城壁からの狙撃 |
2~3匁(約10~13mm) |
約150~200cm |
約10kg |
馬上筒 |
騎馬上での使用 |
5匁程度(約13mm) |
約50~80cm |
約1~2kg |
短筒 |
護身用、隠し武器 |
2~3匁(約10~13mm) |
約30~40cm |
約1kg |
14
この表からわかるように、足軽が用いる標準的な小筒から、城壁を打ち砕く大筒、さらには騎馬武者が取り回すための馬上筒まで、戦場のあらゆる局面に対応するための多種多様な製品ラインナップが揃えられていた。
国友筒の多くは、発射機構である「からくり」が銃床の外部に露出した「外からくり」と呼ばれる形式を採用していた。この形式は、部品点数が少なく構造が単純なため、戦場での過酷な使用環境においても故障しにくく、信頼性が高いという利点があった 17 。
また、一部の国友筒には、からくりを横からではなく、銃床の上から縦方向の軸(天井鋲)で固定する構造が見られることがある 17 。これは土佐筒など他の産地の鉄砲にも見られる特徴であり、国友の技術が各地へ伝播し、影響を与えていたことを示唆している。
国友の歴史は、戦国時代の覇権を争う天下人たちの軍事戦略と分かち難く結びついている。国友は権力者に高品質の兵器を供給することで庇護と利益を得、権力者は国友を支配することで軍事的な優位性を確保した。この共生関係を通じて、国友は単なる職人集落から、日本の歴史を動かす巨大な歯車へと変貌を遂げていく。
革新的な思考の持ち主であった織田信長は、鉄砲の戦略的価値を誰よりも早く見抜いていた。伝来からわずか6年後の天文18年(1549年)には、国友村に500挺もの鉄砲を発注したと伝えられている 10 。この早期の大量発注は、信長が国友の生産能力を高く評価していた証左である。
天正3年(1575年)の長篠の合戦において、織田・徳川連合軍が投入した1,000から3,000挺ともいわれる大量の鉄砲は、武田の騎馬軍団を打ち破る決定的な要因となった 1 。これらの鉄砲の供給源として、堺とともに国友が中核的な役割を果たしたことは想像に難くない。
天正元年(1573年)、信長が浅井長政を滅ぼすと、国友を含む湖北地域は信長の重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の所領となった 1 。これにより、国友の鉄砲鍛冶は織田家の軍事機構に組み込まれ、その生産は厳格な管理下に置かれることになったのである。
国友を所領とした秀吉は、その重要性を深く認識し、生産を奨励するための優遇政策をとった。国友の有力な鍛冶に知行地や代官職などを与えて懐柔し、彼らを配下に置くことで、鉄砲生産を完全に掌握した 1 。
秀吉の天下統一事業において、国友筒は各地の戦線でその威力を発揮した。天正7年(1579年)の三木城攻めでは国友製の大筒が使用され、天正18年(1590年)の小田原攻めや、その後の朝鮮出兵においても、国友の鉄砲隊が動員されるなど、秀吉軍の破竹の進撃を兵器供給の面から支え続けた 1 。
関ヶ原の合戦を経て天下の実権を握った徳川家康は、国友の技術力と戦略的重要性をさらに高く評価し、国友村を幕府の直轄地、すなわち「天領」とした 1 。これにより、国友は名実ともに関東の徳川政権お抱えの兵器廠となった。
国友の技術力が歴史の帰趨を決定づけたのが、慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」と翌年の「夏の陣」である。豊臣家を滅ぼす最後の総力戦に臨んだ家康は、国友に大小様々な鉄砲を大量に発注した 1 。
特に冬の陣では、国友で製造された一貫目玉(約3.75kg)の大筒などが大坂城に向けて昼夜を問わず撃ち込まれた 2 。その轟音と破壊力は、城内に立て籠もる豊臣方の兵士や淀殿らの戦意を喪失させ、心理的に追い詰める上で絶大な効果を発揮した。国友の鍛冶たちも、鉄砲の修理要員として徳川軍に従軍しており、まさに総力戦体制で家康の勝利に貢献したのである 1 。国友筒の銃声は、戦国乱世の終焉と、その後に続く250年間の泰平の世の到来を告げる号砲そのものであった。
国友は単なる職人の集まりではなく、高度に組織化された一大工業地帯であった。その内部には独自の社会構造が存在し、ライバルである堺とは対照的な発展モデルを形成していた。また、その生産活動は琵琶湖という巨大なインフラによって支えられていた。
鉄砲生産の最盛期、国友村には70軒もの鍛冶屋が軒を連ね、500人を超える職人が暮らしていたと記録されている 6 。この巨大な職人集団は、幕府などからの大量注文に効率的に対応するため、「年寄(としより)」「年寄脇(としよりわき)」「平鍛冶(ひらかじ)」という階層的な組織を形成していた 6 。
年寄は村の指導者層であり、幕府との交渉や仕事の受注・配分などを担う惣代(そうだい)であった。しかし、江戸時代に入り平和な世の中となって鉄砲の注文が激減すると、この限られた仕事の配分を巡って、年寄衆(「四人方」とも呼ばれる)と一般の平鍛冶たち(「十人方」を組織)との間で深刻な対立が生じた 2 。この内部抗争は、前述の『国友鉄砲記』が、特定の家系の権威を高める目的で編纂される一因ともなった。
国友と堺は、戦国時代の二大鉄砲生産地として双璧をなしたが、その性格は対照的であった。この比較を通じて、国友の特質はより鮮明になる。
比較項目 |
国友 |
堺 |
支配体制 |
将軍・天下人の直轄地(天領) |
有力商人(会合衆)による自治都市 |
主な顧客 |
幕府・特定の支配者からの注文生産が中心 |
国内外の多様な大名、商人、宗教勢力 |
生産体制 |
権力者の庇護下にある「御用達」生産 |
商業的利益を追求する市場主導型生産 |
権力者との関係 |
庇護と統制を受ける従属的な関係 |
自治を背景に対等に近い交渉・緊張関係 |
1
この表が示すように、国友は時の権力者との強い結びつきによって安定した大規模発注を確保し、技術を磨き上げた「国家主導モデル」の生産拠点であった。その運命は、庇護者である天下人の意向に大きく左右された。一方、堺は商業的な自立性を武器に、より自由な市場で富を蓄積した「市場主導モデル」であった。この対比は、技術開発が、それが置かれた社会経済システムによっていかに異なる発展を遂げるかを示す好例であり、国友のあり方は日本の「官製技術」の源流の一つとして捉えることができる。
国友が一大生産拠点として機能する上で、見過ごすことのできない要素が琵琶湖の水運である。国友で生産された膨大な数の鉄砲や、その原料となる鉄、火薬、木材などは、この日本最大の湖を利用して効率的に輸送された。
当時、琵琶湖では「丸子船」をはじめとする独自の和船が数多く往来しており、湖上交通網が発達していた 21 。陸路に比べて遥かに大量の物資を迅速に運ぶことができる水運は、国友と、需要地である京都や大坂、そして敦賀などの日本海側の港を結ぶ大動脈であった。この優れた兵站インフラなくして、国友が信長や家康の大量発注に応え、天下統一の趨勢に影響を与えるほどの生産拠へと発展することはあり得なかったであろう。
徳川家康によって戦国時代が終焉を迎え、日本が長く平和な時代に入ると、国友の運命もまた大きな転換点を迎える。しかし、国友の物語はそこで終わらなかった。軍事技術として磨かれた魂は、時代の変化に適応し、新たな価値へと昇華されていく。
戦乱が収まった江戸時代、かつてあれほど求められた鉄砲の需要は激減し、国友の鍛冶たちは深刻な不況に直面した 2 。幕府からの注文もごく僅かとなり、多くの職人が生活の糧を失った。
しかし、彼らの手の中に蓄積された技術が失われることはなかった。彼らは、鉄砲製造で培った高度な金属加工、彫金、木工といった技術を応用し、新たな活路を見出していった。銃身に施した精緻な彫刻技術は、武士の魂である刀の鍔(つば)や、長浜曳山祭で使われる豪華絢爛な錺金具(かざりかなぐ)の製作に活かされた 1 。また、火薬の調合知識は花火の製造へと転用され、国友は花火師の里としても知られるようになった 2 。これは、軍事技術が平和な時代にいかにして民生技術へと転換し、文化を豊かにしていくかを示す象徴的な事例である。
国友が育んだ技術的土壌は、江戸時代後期、一人の稀代な天才を生み出した。九代目国友藤兵衛、号を一貫斎(いっかんさい)と名乗った人物である 1 。彼は「東洋のエジソン」とも称され、鉄砲鍛冶という枠を遥かに超える驚異的な業績を残した 5 。
一貫斎の業績は多岐にわたる。オランダから伝来した玩具レベルの空気銃を修理・研究し、それを元に遥かに強力で実用的な空気銃「気砲」を独力で開発した 22 。その過程で、彼は日本で初めて空気にも重量があることを実験で突き止めている 23 。さらに、日本初となる本格的なグレゴリー式反射望遠鏡を自作し、それを用いて太陽の黒点や月のクレーターを詳細に観測するなど、天文学の分野でも大きな足跡を残した 22 。
彼の技術の根底には、国友で代々受け継がれてきた精密な金属加工技術があったことは言うまでもない 23 。しかし、彼が真に革命的だったのは、その思想にあった。職人の技は秘伝とするのが常識だった時代に、彼は「技は万民のためにある」と述べ、鉄砲の製造法を『大小御鉄砲張立製作』という一冊の書物にまとめて公開したのである 22 。国友一貫斎の登場は、国友が単なる職人集団ではなく、高度な科学技術ポテンシャルを秘めた「技術者集団」であったことを証明している。戦国時代に磨かれた「破壊の技術」が、一貫斎という触媒を通じて、江戸時代に「創造と探求の技術」へと転生したこのプロセスこそ、国友が日本の技術史に残した最も輝かしい遺産と言えるだろう。
明治維新を迎え、西洋式の銃が軍隊の主力となると、伝統的な手工業による国友の火縄銃生産は、ついにその歴史的役割を終え、ほぼ途絶えてしまった 1 。しかし、その技術のDNAは、意外な形で生き残った。明治時代に自転車製造で名を馳せた宮田製作所(後の宮田工業)の創業者は、国友の鉄砲鍛冶に弟子入りして製銃技術を学んでおり、その精密加工技術が後の自転車生産に活かされたと伝えられている 1 。
そして今日、国友の歴史と技術は、様々な形で大切に継承されている。滋賀県長浜市に設立された「国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)」では、数多くの貴重な国友筒や関連資料が展示・保存され、訪れる人々にその歴史を伝えている 25 。また、「国友鉄砲研究会」といった保存団体が、往時の砲術を古式演武として再現・公開し、その轟音とともに国友鍛冶の魂を現代に響かせている 27 。これらの活動は、国友筒が単なる過去の遺物ではなく、日本のモノづくりの原点として今なお生き続けていることを示している。