国宝「圧切長谷部」は、信長の逸話で知られる長谷部国重作の名刀。皆焼の刃文が特徴で、黒田家の至宝。ゲーム「刀剣乱舞」で人気を博し、文化財として価値を更新。
国宝「圧切長谷部(へしきりはせべ)」は、日本刀剣史において特異な輝きを放つ一振である。その名は、まず第一に、天下人・織田信長の苛烈な気性を物語る逸話と分かち難く結びついている 1 。無礼を働いた茶坊主を、膳棚ごと「圧し切った」というその凄絶な物語は、この刀が単なる武器ではなく、信長の絶対的な権威と意志を体現する象徴であったことを我々に強く印象づける。同時に、この刀は信長から黒田官兵衛(如水)へと下賜され、以来、福岡藩黒田家の至宝として代々受け継がれてきた歴史を持つ 3 。武威の象徴としての側面と、大名家の権威を裏付ける家宝としての側面。この二つが、「圧切長谷部」の評価を揺るぎないものにしてきた。
本報告書は、これら広く知られた逸話や伝来の検証に留まるものではない。その目的は、「圧切長谷部」という一つの文化財が内包する多層的な価値と歴史的意義を、あらゆる角度から徹底的に解き明かすことにある。具体的には、まず美術工芸品としての刀剣そのものの姿、地鉄、刃文といった造形美を専門的見地から分析する。次に、この刀が作刀された南北朝時代という特異な時代の刀剣史的背景と、刀工・長谷部国重およびその一派の技術的位置づけを探る。さらに、所有者の変遷、特に信長から黒田家へ渡る経緯を巡る諸説を史料に基づいて比較検討し、その歴史的瞬間が持つ意味を再構築する。そして、戦国時代における「名物」という価値観の成立と、その中での本作の役割を論じ、最後に、国宝として現代に伝わる本作が、ポップカルチャーとの融合を経て新たなファン層を獲得し、文化財としていかに新たな生命を吹き込まれているかを考察する。これにより、「圧切長谷部」が過去の遺物ではなく、各時代の価値観を映し出しながら、今なお新たな物語を紡ぎ続ける生きた文化遺産であることを立体的に描き出すことを目指す。
「圧切長谷部」の価値を理解する上で、まずその刀身自体が持つ美術的・物理的特徴を詳細に分析することが不可欠である。その姿は南北朝時代の豪壮な気風を色濃く反映し、地刃に展開される複雑な文様は刀工の卓越した技量を示す。そして、茎(なかご)に刻まれた金象嵌銘は、後世の鑑定眼がこの刀に与えた権威の証左となっている。
「圧切長谷部」は、その姿全体から南北朝時代の典型的な特徴と、後の時代に加えられた改変の痕跡を読み取ることができる。これは、刀剣が単なる美術品ではなく、時代の要請に応じて姿を変える実用的な武器であったことを物語っている。
その物理的諸元は、刃長64.8cm、反り1.0cm、元幅3.0cm、先幅2.5cm、鋒(きっさき)の長さ5.9cmと記録されている 5 。重量は約663.5gとされる 6 。形状は、日本刀の典型的な形式である鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)であるが、特筆すべきはその堂々たる姿である。身幅は広く、重ねは薄く、反りは浅い 5 。そして何よりも目を引くのが、5.9cmにも及ぶ長大な鋒、いわゆる「大鋒(おおきっさき)」である 5 。この大鋒は、南北朝時代の太刀に共通する特徴であり、刺突性能を高めるための工夫と考えられている。当時の合戦が、より激しく、甲冑を貫くような攻撃が求められたことを示唆している。
しかし、現在の姿は作刀当初のものではない。もとは長大な大太刀であったものを、後の時代に茎を大幅に切り詰めて短くし、打刀として仕立て直した「大磨上(おおすりあげ)」である 7 。この大磨上によって、本来茎に刻まれていたはずの刀工の銘は失われてしまった 6 。この改変は、日本刀の歴史における極めて重要な変化を体現している。すなわち、馬上での戦闘を主眼とし、腰から刃を下にして佩(は)く「太刀」の時代から、地上での白兵戦を想定し、刃を上にして腰に差す「打刀」の時代へと、戦闘様式とそれに伴う刀剣の形態が移行したことの物証なのである。南北朝の豪壮な美意識と、戦国時代の即応性を重視する機能主義が、この一振りの刀身の上で融合していると言えよう。
表裏の刀身には、重量を軽減しつつ強度を保ち、また斬撃時に付着した血を流しやすくする効果がある「棒樋(ぼうひ)」が掻き通されている 5 。
「圧切長谷部」の美術的価値を最も象徴するのが、その地鉄と刃文の美しさ、とりわけ刀工・長谷部国重の真骨頂と評される「皆焼(ひたつら)」である。
地鉄(じがね)は、鍛錬によって現れる刀身の肌模様であり、本作では細かく詰んだ「小板目肌(こいためはだ)」を基調とし、地沸(じにえ)と呼ばれる微細な鋼の粒子が表面に現れている 5 。その鉄色は潤いのある美しい色合いと評され、刀工の高度な鍛錬技術を物語っている 10 。
そして、本作の最大の見どころである刃文(はもん)は、刀身全体が燃え盛る炎に包まれたかのような壮麗な「皆焼」である 1 。皆焼とは、通常の刀剣のように刃先部分だけに焼きを入れるのではなく、平地(ひらじ)や鎬地(しのぎじ)といった刀身の広い範囲、時には棟(むね)にまで焼きが及ぶ技法を指す 11 。これは南北朝時代の相州伝(そうしゅうでん)の刀工が得意とした作風であり、本作はその中でも最高傑作と称されている 5 。
具体的には、波状の「互の目(ぐのめ)」と緩やかな「小湾れ(このたれ)」を基調としながら、刃と地の境界線である「匂口(においぐち)」は明るく冴え、細かな沸の粒子である「小沸(こにえ)」が厚くつく 5 。さらに、刃文から刃先に向かって伸びる線状の働きである「足(あし)」や、刃中に現れる葉のような模様の「葉(よう)」が盛んに入り、複雑で躍動感あふれる景色を生み出している 10 。この華やかで覇気に満ちた刃文は、単なる装飾ではない。秩序が崩壊し、個人の武力が全てを決定した南北朝という動乱の時代の気風、その激しいエネルギーを美術的に昇華させたものと解釈できる。
大磨上によって本来の姿を大きく変えられた茎は、この刀の来歴を雄弁に物語る部分である。茎は短く切り詰められ、柄に固定するための目釘穴は四つ開けられているが、そのうち三つは後世に埋められている 8 。茎の表面を整えるためにかけられた鑢(やすり)の跡は、横一文字の「切(きり)」である 8 。
磨上げによって刀工銘が失われたこの刀に、新たな権威を与えたのが、桃山時代から江戸時代にかけて刀剣鑑定の権威であった本阿弥家である。9代当主・本阿弥光徳(ほんあみこうとく)は、この刀を鑑定し、その結果を金の象嵌(ぞうがん)で茎に刻み込んだ 7 。
刀を佩いた際に内側になる指裏(さしうら)には、「長谷部国重本阿(花押)」と刻まれている 8 。これは、作者が山城国の刀工・長谷部国重であること、そして鑑定者が本阿弥光徳であることを示すものである。一方、外側になる佩表(はきおもて)には「黒田筑前守」と刻まれている 8 。これは、江戸時代初期に福岡藩初代藩主となった黒田長政(筑前守)が所持したことを示す「所持銘」であり、長谷部国重の銘よりも後に追刻されたものである 5 。
この金象嵌銘は、刀剣そのものの価値に加え、本阿弥家という鑑定の権威による「お墨付き」と、黒田長政という大名による所持という「来歴」が付与されたことを意味する。これにより、「圧切長谷部」は単なる無銘の刀ではなく、作者、鑑定者、そして高名な所有者が明らかな、由緒正しい名刀としての地位を確立したのである。
この刀には、桃山時代から江戸時代初期にかけての名工・埋忠(うめただ)派の作とみられる金無垢の二重鎺(はばき)に桐紋の透かし彫りを施したものや、蓋に金泥で「圧切長谷部」と記された黒漆塗の刀箱といった貴重な附属品も伝来している 8 。
表1:国宝 刀 名物「圧切長谷部」 刀剣情報一覧
項目 |
詳細 |
典拠 |
種別 |
刀(国宝) |
5 |
名物号 |
圧切長谷部(へしきりはせべ) |
7 |
時代 |
南北朝時代(14世紀) |
7 |
作者 |
(伝)長谷部国重(はせべくにしげ) |
7 |
鑑定者 |
本阿弥光徳(ほんあみこうとく) |
5 |
金象嵌銘 |
(表)黒田筑前守 (裏)長谷部国重本阿(花押) |
5 |
寸法 |
刃長:64.8 cm、反り:1.0 cm、元幅:3.0 cm、先幅:2.5 cm、鋒長:5.9 cm、茎長:16.7 cm |
5 |
形状(造込み) |
鎬造、庵棟、身幅広く、重ね薄く、反り浅く、大鋒 |
5 |
地鉄(鍛え) |
小板目肌よく詰み、地沸つく |
5 |
刃文 |
互の目・小湾れを基調とした皆焼、匂口冴え、小沸つく、足・葉入る |
5 |
帽子 |
乱れ込み、表は小丸、裏は尖りごころに強く返る |
5 |
彫物 |
表裏に棒樋を掻き通す |
5 |
茎(なかご) |
大磨上、栗尻、鑢目切、目釘孔四(うち三つは埋める) |
5 |
附属品 |
金二重桐紋透鎺、黒漆塗刀箱(金泥銘「圧切長谷部」) |
8 |
所蔵 |
福岡市博物館 |
7 |
「圧切長谷部」を生み出した刀工・長谷部国重は、どのような人物だったのか。彼が活動した南北朝時代は、日本の刀剣史における大きな転換期であり、新しい技術と美意識が花開いた時代であった。国重とその一派である長谷部派は、この変革の潮流の中で重要な役割を果たした。
長谷部国重は、建武年間(1334-1336年)頃を中心に、山城国(現在の京都府)で活動した刀工である 16 。彼は刀工集団「長谷部派」の始祖とされ、一派には国信、国平といった刀工が名を連ねる 17 。現存する作刀には延文(1356-1361年)や応安(1368-1375年)といった年紀が確認できるものもあり、南北朝時代の長きにわたって活躍したことがわかる 16 。
長谷部派の作風の最大の特徴は、第一章で述べた「皆焼」に代表される、華やかで覇気のあるスタイルである 17 。これは、同時代に相模国(神奈川県)で活躍した広光や秋広といった刀工たちと軌を一つにするものであり、当時の最先端の作風であった 18 。長谷部派の現存作は短刀や平造りの小脇差が多く、太刀の在銘作は極めて稀であることも特徴の一つとして挙げられる 18 。
また、国重は自らの銘に流派名である「長谷部」を冠することが多かった 22 。例えば「長谷部六郎左衛門国重」といった銘が確認されている 22 。古刀期(平安時代末期から桃山時代まで)の刀工が、個人の名前だけでなく流派名まで銘に切ることは非常に珍しく、これは長谷部派という集団が、当時から強いブランド意識と独自性を持っていたことを示唆している。
長谷部国重の作風を理解するためには、彼が深く影響を受けた「相州伝」という一大ムーブメントを知る必要がある。鎌倉時代中期、相模国鎌倉で誕生した相州伝は、それまでの刀剣の常識を覆す革新的な技術体系であった。地鉄を強く鍛え、高温で熱し急冷する「焼き入れ」の技術を駆使することで、軽量でありながら強靭で、かつ「沸(にえ)」と呼ばれる鋼の粒子が輝く、見た目にも華やかな刀剣を生み出したのである 23 。この革新的な作風は、天才刀工と謳われる五郎入道正宗によって完成の域に達した 23 。
正宗の技術と名声は全国に轟き、彼の影響を受けた優れた刀工たちが各地に現れた。後世、彼らは「正宗十哲(まさむねじってつ)」と呼ばれるようになる 26 。この十哲には、越中の郷義弘、備前の兼光、山城の来国次、そして長谷部国重といった、錚々たる名工たちが名を連ねる 26 。
しかし、近年の研究では、この「十哲」が必ずしも正宗の直弟子であったわけではないと考えられている 27 。彼らの活動拠点や系譜は様々であり、正宗に直接師事したという明確な証拠がない者も多い。むしろ、「正宗十哲」という呼称は、正宗が確立した相州伝という最先端のスタイルを自らの作風に取り入れ、各地に広めた功労者たちに対する、後世からの尊称、あるいは一種の「ブランド」と解釈するのがより実態に近い。
長谷部国重がこの「正宗十哲」の一人に数えられることは、彼が単なる一地方の刀工ではなく、当時の刀剣界を席巻した一大技術革新の中核的な担い手であったことを意味する。彼は、伝統的な京の刀剣作法(山城伝)を基礎としながらも、それに留まることなく、最新の流行であった相州伝の技術、特に皆焼を積極的に導入し、自らのものとした 15 。その作風には、刃から棟にかけて地鉄の鍛え肌が「大柾目→大板目→大柾目」と変化する特徴が見られるとされ、これは相州伝の力強さと山城伝の気品を融合させようとした試みの現れかもしれない 15 。国重は、伝統と革新が交差する南北朝という時代を象徴する、先進的な刀工だったのである。
「圧切長谷部」という特異な号(ごう)は、この刀の来歴の中で最も劇的な場面、すなわち織田信長による手討ちの逸話に由来する。この逸話は、単に刀の切れ味を伝えるだけでなく、信長という人物の性格や、彼が築き上げた権威の本質を浮き彫りにする。
この逸話は、複数の史料や伝承に記録されている。『享保名物帳』をはじめとする文献によれば、その概要は以下の通りである 2 。
ある時、信長に仕える茶坊主の観内(かんない)が、何らかの粗相を犯し、信長の怒りを買った。手討ちにされることを悟った観内は、その場から逃げ出し、台所にあった御膳棚の下に身を潜めた。追いかけた信長は刀を振り上げたものの、棚が邪魔で斬りつけることができない。そこで信長は、手にしていた刀を棚の下の隙間に水平に差し込み、体重をかけてぐっと押し当てた。すると、刀は観内の身体を、そして隠れていた棚ごと「圧し切って」しまったのである 8 。
この「圧し切る」という行為は、刀剣の使い方として極めて異例である。通常、日本刀は対象を「引く」動作によって、その湾曲した刃が最大の切断能力を発揮するように設計されている。それを、ただ「押し当てた」だけで人体と木製の棚を両断したというこの逸話は、この刀が持つ尋常ならざる鋭利さと堅牢性、そして信長自身の並外れた膂力(りょりょく)を物語るものとして、後世に語り継がれることとなった 6 。この出来事により、信長はこの刀に「圧切」という名を授けたのである。
この逸話は、織田信長の刀剣に対する考え方と、それを活用した彼の政治戦略を理解する上で重要な示唆を与える。信長は、戦国時代の武将の中でも特に刀剣や茶器といった「名物」の収集に熱心であったことで知られる 31 。しかし、それは単なる個人的な趣味に留まらなかった。
信長は、戦で功績を挙げた家臣への恩賞として、従来の領地に加え、自らが収集した名物を下賜するという手法を多用した 32 。これは画期的な政治戦略であった。土地は有限であり、一度与えると取り戻すのが難しい。しかし、茶器や刀剣であれば、その価値を信長自身が設定・保証することができ、土地に比べて柔軟に恩賞として活用することが可能であった 34 。信長のこの方針を知った諸大名や堺の商人たちは、彼の歓心を得ようと競って名物を献上し、その結果、信長のもとには天下の名刀が数多く集まった 31 。
このような文脈で「圧切」の逸話を見ると、その意味はより深くなる。この物語は、単なる刀の性能試験ではない。それは、信長の「ブランド・イメージ」を構築し、強化するための、極めて効果的な物語として機能したと考えられる。
第一に、この逸話は信長の「苛烈さ」を天下に知らしめる。自身の意に逆らう者は、たとえ身近な仕え人であっても容赦なく、そして常軌を逸した方法で処断するというイメージは、敵対者に恐怖を与え、その支配を円滑にする効果があった。
第二に、逸話は信長の「慧眼」を証明する。数ある刀の中から、これほどの性能を持つ一振を見出し、その特性を的確に表現する「圧切」という名を即座に与えるセンスは、優れた道具を見抜く能力が、優れた人材を見抜く能力と重ね合わされ、彼のカリスマ性を高める役割を果たした。
そして第三に、この刀が後に恩賞として用いられることで、「信長から下賜される道具は、信長自らがその性能を保証した最高級品である」という強力なメッセージが生まれる。これにより、恩賞そのものの価値が飛躍的に高まり、家臣の忠誠心をより強く引き出すことができたのである。
したがって、「圧切」の逸話は、史実としての真偽を問う以上に、信長の人物像、価値観、そして政治手法を見事に凝縮した、一種の戦略的な物語として理解すべきであろう。
「圧切長谷部」が織田信長の手を離れ、いかにして福岡藩主・黒田家の至宝となったのか。その伝来の経緯については、複数の説が存在する。史料を丹念に読み解くことで、この名刀が歴史の転換点において果たした役割が明らかになる。
「圧切長谷部」の信長以降の所有者については、主に二つの説が伝えられており、長らく議論の対象となってきた。
説A:信長 → 豊臣秀吉 → 黒田長政 説
これは、利用者もご存知の、より広く知られた説である。信長が所持していた「圧切長谷部」は、本能寺の変の後、天下を継いだ豊臣秀吉(羽柴筑前守)の手に渡り、その後、秀吉から黒田官兵衛の子である黒田長政に与えられた、という流れである 1。この説は、桃山時代の刀剣鑑定書である『名物三作』の本文にも記されており、一定の権威を持っていた 8。天下人である信長、秀吉の手を経て、徳川家康にも仕えた長政へと渡るこの来歴は、非常に華やかで分かりやすい。
説B:信長 → 黒田孝高(官兵衛)直送説
一方、黒田家に伝わる史料は、異なる経緯を伝えている。福岡藩の公式記録ともいえる『黒田家御重宝故実』には、「信長公より如水(官兵衛)へ被遣(つかわされ)と云々」とあり、信長から直接、黒田官兵衛に下賜されたと記されている 8。
この説Bの信憑性を決定的に高めるのが、『名物三作』に後世、何者かによって書き加えられた「附箋(ふせん)」の存在である。その附箋には、こう記されている。
「ヘシ切 国重ハ小寺政職ノ使トシテ孝高公信長ニ面会ノ時中国征伐ノ献策ヲ賞シ与ヘラレタルモノニテ秀吉ヨリ長政公拝領ニハアラス(本阿弥家ノ誤伝ナリ)」8
この記述は、説Aを「本阿弥家の誤伝」であると明確に否定し、官兵衛が信長に中国攻めを献策した際に褒美として直接与えられたものが真相である、と訂正している。この附箋は、伝来の謎を解く上で極めて重要な史料であり、現在では説Bがより確度の高い説として有力視されている。
説Bに基づき、その歴史的瞬間を再構築すると、以下のようになる。
時期は天正3年(1575年)。当時、黒田官兵衛(孝高)はまだ播磨国(兵庫県)の小大名であった小寺政職の家臣という立場に過ぎなかった 4 。しかし、官兵衛は破竹の勢いで勢力を拡大する織田信長の将来性を見抜き、主君に先んじて信長に臣従するよう強く進言した。そして、自らが使者として岐阜城の信長に謁見し、西国の雄・毛利氏を討伐する「中国攻め」の具体的な戦略を献策したのである 4 。
信長は、一介の家臣でありながら天下の情勢を的確に分析し、大胆な献策を行う官兵衛の非凡な才能と先見性に驚嘆した。そして、その場で官兵衛を高く評価し、褒賞として自らの佩刀であった「圧切長谷部」を与えたとされる 3 。
この下賜が持つ意味は計り知れない。それは単なる物質的な褒美ではなかった。当時、無名に近かった官兵衛にとって、天下人・信長から直々に愛用の刀を授けられることは、この上ない栄誉であると同時に、信長が官兵衛を自らの重要な戦略パートナーとして公に認めた「証」でもあった。この一振りの刀は、官兵衛が地方の将から中央の歴史の表舞台へと躍り出る、まさにその瞬間を象徴する品となったのである 4 。
この刀の価値は、「天下人の手を渡り歩いた」という漠然とした権威から、「無名の策士がその才能を天下人に見出され、歴史を動かす一翼を担うことになった瞬間の証」という、よりパーソナルで劇的な物語へと昇華される。歴史研究の進展が、文化財の持つ物語をいかに深化させるかを示す好例と言えよう。
こうして黒田家にもたらされた「圧切長谷部」は、関ヶ原の戦いの功により筑前国を与えられ福岡藩の初代藩主となった長政へと受け継がれ、以後、代々の藩主によって大切に守り伝えられた。同じく黒田家伝来の国宝「太刀 名物 日光一文字」や、天下三名槍の一つに数えられる「槍 名物 日本号」と共に、福岡藩黒田家の権威と歴史を象徴する筆頭の家宝として、特別な扱いを受けたのである 3 。
時代が下り、明治維新を経て武士の世が終わると、黒田家は侯爵家となった。この時期、伝来の宝物の整理が行われ、重要度に応じて「第一家宝」「第二家宝」といった新たな格付けがなされた 37 。「圧切長谷部」はもちろん、最重要の「第一家宝」に位置づけられた。昭和期には、経済的な理由などから一部の家宝が売却されることもあったが、「圧切長谷部」は黒田家の中核的な宝物として守られ、最終的に福岡市へと寄贈され、市民の財産として現在に至っている 3 。
表2:「圧切長谷部」の所有者変遷と関連する歴史的出来事
年代(西暦) |
所有者(説に基づく) |
関連する出来事・背景 |
典拠となる史料・説 |
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南北朝時代(14世紀) |
(作刀) |
長谷部国重により作刀される。 |
- |
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戦国時代(16世紀中頃) |
織田信長 |
茶坊主観内を手討ちにする「圧切」の逸話が生まれる。 |
『享保名物帳』 7 , 『黒田家御重宝故実』 8 |
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天正3年(1575年) |
説A: 豊臣秀吉 説B: 黒田孝高(官兵衛) |
説A: 信長から秀吉へ譲渡される(時期・理由は不詳)。 説B: 官兵衛が信長に中国攻めを献策。その功を賞され、信長から直接下賜される。 |
説A: 『名物三作』(本文) 8 |
説B: 『黒田家御重宝故実』, 『名物三作』(附箋)8 |
桃山時代~江戸時代初期 |
説A: 黒田長政 説B: 黒田孝高 → 黒田長政 |
説A: 秀吉から黒田長政へ下賜される。 説B: 官兵衛から嫡男・長政へ継承される。 |
説A: 『名物三作』(本文) 8 |
説B: 黒田家伝来の事実 |
江戸時代~明治時代 |
福岡藩黒田家(歴代藩主) |
黒田家の至宝として伝来。「黒田筑前守」の所持銘が追刻される。 |
金象嵌銘 8 , 黒田家文書 |
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昭和28年(1953年)以降 |
福岡市(福岡市博物館所蔵) |
黒田家より福岡市へ寄贈。国宝に指定される。 |
国宝指定記録 6 |
「圧切長谷部」が今日、国宝として特別な地位を占める背景には、戦国時代から江戸時代にかけて確立された「名物(めいぶつ)」という独特の価値観が存在する。これは単なる美術的な評価に留まらず、鑑定機関による格付けと、権力者による政治的利用が結びついた、社会経済的な価値システムであった。
「名物」という言葉の起源は、茶の湯の世界にある。室町時代、特に優れた由緒を持つ唐物(中国渡来)の茶道具などを「名物」や「大名物」と呼び、格付けしたのが始まりであった 40 。
この価値観が刀剣に適用されるようになったのは、戦国時代のことである。合戦の主役が弓矢や騎馬から、徒歩での白兵戦へと移るにつれ、刀剣の重要性は飛躍的に高まった。武将たちは、優れた切れ味を持つ実用的な武器としてだけでなく、自らの武威、権威、そして美意識を誇示するための象徴として、優れた刀剣を熱心に収集するようになった 32 。こうして、特に出来栄えが良く、由緒ある刀剣は「名物」と呼ばれ、高い付加価値を持つようになったのである。
名物は、自然と時の権力者のもとに集まる傾向があった。諸大名は主君の歓心を買うために名刀を献上し、また天下人自身も、自らの権威を示すために名刀の収集に力を注いだ 31 。そして、これらの名物は、功績のあった家臣への恩賞や、同盟相手への贈答品として、極めて重要な政治的役割を担うことになった 33 。刀剣は、単なる武器や美術品を超え、領地や金銭と同様、あるいはそれ以上の価値を持つ政治的・経済的な資産として流通したのである。
この「名物」という価値システムにおいて、絶対的な権威を持っていたのが鑑定家・本阿弥家であった。本阿弥家は、室町幕府の足利将軍家に仕えて以来、刀剣の研磨、手入れ、そして鑑定を家業としてきた名門一族である 42 。
その地位を不動のものとしたのが、9代当主・本阿弥光徳である。彼は豊臣秀吉から絶大な信頼を得て、刀剣の価値を公式に証明する鑑定書、いわゆる「折紙(おりがみ)」を発行する権限を独占的に認められた 42 。本阿弥家が発行する折紙は、その刀の作者や価値を保証するものであり、大名間の贈答や売買において、公的な証明書として機能した。また、本阿み家は、磨上げられて銘がなくなった刀剣(大磨上無銘)に対し、鑑定結果を金象嵌で茎に施した。「圧切長谷部」の金象嵌銘も、この光徳によるものである 42 。
この本阿弥家による鑑定文化の集大成といえるのが、江戸時代に編纂された『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』である。享保4年(1719年)、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、当時乱れつつあった刀剣の評価を正し、文化を保護する目的で、本阿弥家13代当主・本阿弥光忠に、全国に散在する名刀のリストを作成するよう命じた 42 。
こうして幕府に提出された『享保名物帳』には、健全な名物157振、焼失した名物78振などが記載された 43 。この帳面に記載されることは、その刀が江戸幕府の公認する「名物」であることを意味し、刀剣にとって最高の栄誉とされた 45 。「圧切長谷部」も、この『享保名物帳』に「名物」として堂々と名を連ねている 5 。これにより、戦国時代から続くその名声は、江戸幕府の権威の下で公式に格付けされ、揺るぎないものとなったのである。
戦国の動乱、江戸の泰平、そして近代化の波を乗り越えてきた「圧切長谷部」は、現代において国宝として大切に保存される一方、予想外の形で新たな脚光を浴び、その価値を更新し続けている。その背景には、ポップカルチャーとの幸福な出会いがあった。
かつて黒田家の至宝であった「圧切長谷部」は、昭和期に同家から福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館が所蔵・管理している 3 。文化財としての価値は極めて高く、1936年(昭和11年)に当時の国宝保存法に基づき旧国宝に指定され、戦後の1953年(昭和28年)に現行の文化財保護法に基づく国宝に改めて指定された 6 。
福岡市博物館では、この貴重な国宝を年に一度、期間限定で公開することを恒例としている 7 。例年、1月5日から2月上旬にかけての約1ヶ月間、常設展示室内の「黒田記念室」でその姿を拝むことができる 3 。この公開期間は、全国の歴史ファンや刀剣愛好家が心待ちにする一大イベントとなっている 6 。
2015年、この伝統的な名刀の世界に大きな転機が訪れた。DMM GAMESとニトロプラスが開発・運営するPCブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』の登場である。このゲームは、実在する名刀を「刀剣男士(とうけんだんし)」と呼ばれる魅力的な男性キャラクターに擬人化し、彼らを収集・育成するという内容であった 49 。
「圧切長谷部」も、ゲーム内に「へし切長谷部」という名の刀剣男士として登場した 1 。そのキャラクターは、元の主である織田信長への複雑な思いを抱きつつ、現在の主(プレイヤー)に対しては絶対的な忠誠を誓うという、逸話や伝来を巧みに反映した設定がなされていた 50 。
このゲームは、特に20代から30代の若い女性層を中心に爆発的な人気を獲得し、「刀剣女子」という言葉を生み出すほどの社会現象となった 4 。この現象が特筆すべき点は、その影響がゲームの世界に留まらなかったことである。
文化的・経済的波及効果
この一連の動きは、現代における「圧切長谷部」の価値が、国宝としての歴史的・美術的価値という、ある意味で専門家や愛好家の間で共有される「静的」なものから、ファンとの活発な相互作用によって常に新たな意味や物語が再生産される「動的」なものへと変容したことを示している。ゲームというメディアが刀に「人格」と「物語」を付与し、ファンがそれに応えて実物を訪れ、知識を深め、感想を共有する。そして所蔵機関側も、コラボレーション企画やグッズ開発でその熱意に応える。この幸福なフィードバックの循環により、「圧切長谷部」の文化的な生命力は、かつてないほど豊かになっている。これは、デジタル時代における文化財の新しい存在のあり方を示す、象徴的な成功事例と言えるだろう。
本報告書を通じて、「圧切長谷部」という一振りの刀が、単一の物語に収斂されることのない、極めて多層的な価値を持つ文化財であることが明らかになった。その価値は、時代時代の要請と人々の価値観を映し出しながら、重層的に積み重ねられてきたものである。
第一に、南北朝時代の技術の結晶として。
「圧切長谷部」は、刀工・長谷部国重とその一派が到達した、美術的・技術的な一つの頂点である。燃え盛る炎のような「皆焼」の刃文は、動乱の時代の激しい気風を映し出すとともに、相州伝という革新的な技術を京の地で昇華させた、刀工の類稀なる技量の証である。
第二に、戦国武将の野望の象徴として。
この刀は、織田信長の苛烈な気性と革新的な政治戦略、そして黒田官兵衛という稀代の軍師が歴史の表舞台に躍り出た劇的な瞬間を物語る、生々しい歴史の証人である。「圧切」という号の由来となった逸話は、信長の権威を確立するための物語として機能し、官兵衛への下賜は、戦国の勢力図が大きく動く転換点を象徴する出来事であった。
第三に、江戸時代の鑑定文化の産物として。
本阿弥家という絶対的な鑑定機関によってその価値を保証され、江戸幕府の威信をかけて編纂された『享保名物帳』にその名を刻まれたことで、「圧切長谷部」は「名物」としての客観的な権威を獲得した。これは、刀剣が武力や美意識だけでなく、社会経済的な資産として格付けされていた時代の産物である。
そして最後に、現代に生きる文化遺産として。
国宝として福岡市博物館で大切に保存される一方、ゲームという現代のメディアとの融合を通じて、新たな世代のファンを爆発的に獲得した。その存在は、もはやガラスケースの中に静かに佇む過去の遺物ではない。ファンの情熱と所蔵機関の努力との相互作用の中で、常に新しい物語を紡ぎ出し、伝統文化の魅力を未来へと伝える、生きた文化財として躍動している。
結論として、「圧切長谷部」は、武器として生まれ、美術品として磨かれ、権威の象徴として扱われ、そして今、ポップカルチャーのアイコンとして愛されるという、類例を見ない変遷を遂げた、比類なき存在である。その刀身に刻まれた歴史は、これからも新たなページが書き加えられていくに違いない。