日本刀の歴史において、数多の刀剣が作られ、それぞれが時代の精神や刀工の技を映し出してきました。その中でも、国宝に指定され、現存する日本刀の最高傑作の一つとして揺るぎない評価を確立しているのが太刀「大包平」(おおかねひら)です 1 。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて備前国の名工・包平によって生み出されたこの太刀は、同じく国宝であり天下五剣の一振りに数えられる「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)と並び称され、「日本刀の東西の両横綱」とまで形容される至高の存在です 1 。その名に冠された「大」の一字は、単に物理的な大きさを指すのみならず、「偉大な」「素晴らしい」といった賞賛の意味合いを色濃く含んでいます 2 。
本報告書は、この名刀「大包平」について、その製作背景、物理的な特徴、数奇な歴史的変遷、そして文化財としての価値を詳細に解説することを目的とします。特に、利用者の方のご関心の核心である「戦国時代」という激動の時代と大包平がどのように関わってきたのか、あるいは関わらなかったのか、その点について深く考察を試みます。
報告書の構成は以下の通りです。まず「第一部:大包平の誕生」において、作者である刀工包平とその時代、そして大包平自体の姿と特徴を詳述します。「第二部:歴史の奔流と大包平」では、池田家に伝来するまでの謎多き期間から、近代に至るまでの歩みを追います。「第三部:戦国時代と大包平」では、戦国時代における名刀の意義を踏まえ、大包平とこの時代との接点を探ります。「第四部:文化財としての輝き」では、国宝指定の理由や美術的価値、童子切安綱との比較を通じて、その文化財としての重要性を明らかにします。最後に「結論」として、大包平の歴史的・文化的重要性を総括し、現代における意義と未来への継承について展望します。
大包平の作者である包平(かねひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期、すなわち12世紀頃に備前国(現在の岡山県東南部)で活躍した刀工です 1。当時の備前国は、良質な砂鉄と水、そして刀剣製作に適した木炭の入手が容易であったことなどから、日本有数の刀剣産地として栄えました。包平は、同じく備前の刀工である助平(すけひら)、高平(たかひら)とともに「備前三平」と称される名工の一人に数えられています 1。
一般的に、包平の作品は細身で小模様な刃文の作が多く、茎(なかご)に切られる銘も「包平」と小ぶりな二字銘であることが通例とされています 1。この点は、後述する大包平の堂々たる姿や長銘とは対照的であり、大包平が包平の作品の中でも特別な位置を占めることを示唆しています。専門家の間では、包平は古備前鍛冶を代表する刀工の一人と高く評価されており、日本最古の「三名匠」(伯耆国の安綱、京の三条小鍛冶宗近と並ぶ)の一人に数える説もあるほどです 5。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての備前国は、日本刀の製作技術が大きく発展した地域の一つでした。この時期に製作された刀剣は「古備前(こびぜん)」と総称され、優美な姿と精緻な鍛えを特徴とします。特に、腰反り(こしぞり)が高く、踏ん張り(ふんばり)のある力強い太刀姿は、古備前派の典型的な作風として知られています。大包平もまた、この時代の古備前派の特徴を色濃く受け継いでいます。
大包平は、その名に違わず堂々たる風格を備えています。刃長は89.2センチメートル(二尺九寸四分半)、反りは3.4センチメートル(一寸一分強)、元幅(もとはば)3.7センチメートル、先幅(さきはば)2.5センチメートル、鋒(きっさき)の長さは3.7センチメートルを測ります 12。形状は、日本刀の典型的な造り込みである鎬造(しのぎづくり)、棟(むね)の形状は庵棟(いおりむね)です。鋒はやや詰まった猪首鋒(いくびきっさき)となり、腰反りが高く踏ん張りがあり、古備前派の特徴をよく示しています 6。
刀身の表裏には、やや幅広の棒樋(ぼうひ)が掻き流されており、これは刀身の軽量化と打撃時の衝撃吸収を目的としたものと考えられ、機能美と造形美が融合した見事な出来栄えです 1。
大包平の美術的価値を語る上で欠かせないのが、その地鉄(じがね)と刃文(はもん)の美しさです。地鉄は、細かく詰んだ小板目肌(こいためはだ)が主体で、地沸(じにえ)が厚くつき、地景(ちけい)と呼ばれる黒い線状の模様が交じり、淡く乱れ映り(みだれうつり)が立つと評されています 1。その様子は、まるで木材のきめ細やかな木目を見るようだと形容されることもあります 5。
刃文は、小乱れ(こみだれ)を基調とし、そこに小丁子(こちょうじ)が複雑に交じり、足(あし)や葉(よう)といった刃中の働きが盛んに入ります。匂(におい)深く小沸(こにえ)がつき、金筋(きんすじ)と呼ばれる輝く線状の働きも見られます 1。全体として小模様でありながら変化に富み、見る者を飽きさせない複雑な美しさを湛えています 5。
茎(なかご)は、製作当時のままの姿を留める生ぶ(うぶ)であり、鑢目(やすりめ)は勝手下がり(右下がりの意)、目釘孔(めくぎあな)は二つです 12。一部資料には、茎尻近くに三番目の目釘孔と思われる窪みが存在するとも指摘されています 1。
そして、大包平を特徴づける最も重要な要素の一つが、その銘です。表の茎には、「備前国包平作」と、大きな鏨(たがね)を用いて力強く、かつ長い銘(長銘)が刻まれています 1。前述の通り、包平の他の作品には「包平」と二字銘を切るのが一般的であるため、この長銘は異例と言えます 8。
この通常とは異なる長銘の存在は、単なる形式の違い以上の意味を持つと考えられます。刀工が自身の作刀に国名を冠し、通常よりも大きな鏨で銘を切る行為は、その一振に対する並々ならぬ自信と、会心の出来栄えに対する満足感の表れと解釈できるでしょう 13。包平が二字銘を常としていたことを踏まえれば、大包平に対するこの特別な銘の切り方は、彼自身がこの太刀を生涯の傑作の一つとして強く意識し、その完成度に強い自負を抱いていたことの証左と言えます。この事実は、大包平が製作当初から特別な存在として意図され、刀工の魂が込められた一振であった可能性を強く示唆しています。
「大包平」という名は、江戸時代中期に編纂された名刀リストである『享保名物帳』に記載されており、その長大な寸法から名付けられたと伝えられています 5 。しかし、単に物理的に「大きい」というだけでなく、その出来栄えの素晴らしさ、格の高さから「偉大な包平の作」という意味合いも込められていると考えられています 2 。
項目 |
詳細 |
出典例 |
時代 |
平安時代末期~鎌倉時代初期(12世紀) |
3 |
作者 |
包平(古備前派) |
1 |
刃長 |
89.2 cm |
12 |
反り |
3.4 cm |
12 |
元幅 |
3.7 cm |
12 |
先幅 |
2.5 cm |
12 |
鋒長 |
3.7 cm |
12 |
茎の状態 |
生ぶ、鑢目勝手下がり、目釘孔二 |
12 |
銘 |
表:「備前国包平作」(大鏨の長銘) |
12 |
指定 |
国宝(1951年指定) |
12 |
この表は、大包平の基本的な物理的情報を集約したものであり、その堂々たる姿と健全な状態を客観的に把握するための一助となります。
大包平は12世紀頃に製作されたとされていますが、その後の約400年間、すなわち安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した池田輝政(1564年~1613年)の所蔵となるまでの伝来は、驚くべきことに全く不明とされています 7。これほどの傑作が、これほど長期間にわたり歴史の表舞台から姿を消していた理由は、大きな謎の一つです。
この約400年という「空白期間」は、名刀の伝来における一つの興味深い側面を示唆しています。大包平ほどの刀であれば、もし著名な武将が戦場で佩用したり、大きな出来事に関わったりしていれば、何らかの記録や逸話として後世に伝わる可能性が高いはずです。しかし、大包平に関しては、池田家以前のそうした具体的な記録が極めて乏しいのが現状です 15。この事実は、大包平が必ずしも戦乱の中を渡り歩いてきたわけではなく、特定の有力な貴族、大寺社、あるいは地方の豪族などによって、戦火を避けるように大切に秘蔵され、その存在が広く知られることなく伝来した可能性を示唆しています。このような「潜伏」とも言える期間が、結果としてその類稀なる健全な保存状態に寄与し、後世にその美しい姿を伝えることになったのかもしれません。
謎に包まれた期間を経て、大包平は姫路藩初代藩主であり、後に岡山藩初代藩主となる池田輝政の愛刀となりました 14。輝政は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として武功を挙げ、「姫路宰相百万石」と称されるほどの大大名です。
その輝政が、大包平を「一国に替え難し」とまで絶賛し、何よりも大切にしたと伝えられています 13。この言葉は、単に武器としての実用的な価値を超え、美術品あるいは文化財としての至高の価値を輝政自身が深く認識していたことを物語っています。池田家においては、大包平は実戦の道具としてではなく、祭器として扱われ、家中の重要な年中行事の際には宝刀として飾られたとされています 14。これは、大包平が池田家にとって武家の権威と家の繁栄を象徴する、極めて神聖な存在であったことを示しています。
大包平は、輝政以降も長く岡山藩主池田家の至宝として、大切に受け継がれていきました 5 。その秘蔵ぶりを物語る逸話として、明治時代に明治天皇が大包平の叡覧を望まれた際、池田家は「恐れながら、どうしてもご覧になりたいのであれば、岡山までお越しいただきたい」と返答し、門外不出の扱いを貫いたと伝えられています 13 。また、1936年(昭和11年)に重要文化財(当時の旧国宝)に指定される際、研磨のために文部省へ提出する必要が生じましたが、池田家はこれを渋ったとも言われています 13 。これらの逸話は、池田家がいかに大包平を神聖視し、家の象徴として他見を許さぬほど大切に守り伝えてきたかを如実に示しています。
第二次世界大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって刀剣類をはじめとする武器の提出が命じられました。いわゆる「刀狩り」です。この未曾有の危機に、国宝級の名刀である大包平もまた晒されることとなりました 13。
一説には、GHQの最高司令官であったダグラス・マッカーサー元帥が、大包平の美しさに感銘を受け、個人としてこれを欲したと伝えられています。しかし、池田家側は「アメリカの自由の女神と引き換えるのであればお譲りしてもよい」と、毅然としてこの申し出を断ったという逸話が残っています 13。この逸話の真偽はともかくとして、大包平が単なる美術品を超え、日本の文化的誇りの象徴と見なされていたことを示唆するものです。最終的に、大包平は当時の東京帝室博物館(後の東京国立博物館)に一時的に避難させるという措置が取られ、GHQによる接収の危機を免れることができました 13。
戦後の混乱期を乗り越えた大包平は、まず1936年(昭和11年)5月27日に、当時の国宝保存法に基づき重要文化財(旧国宝)に指定されました 12。そして、1951年(昭和26年)6月9日、新たな文化財保護法のもとで国宝に指定され、その文化的価値が改めて国によって認められることとなります 12。
その後、1967年(昭和42年)、池田家から文部省(現在の文部科学省、文化財の管理は文化庁)が6,500万円で買い上げました 13。この金額は、当時の貨幣価値で現在の約2億6,000万円に相当するとも言われ、その破格の評価額からも大包平の価値の高さが窺えます 18。以来、大包平は国民の財産として東京国立博物館に収蔵され、今日に至るまで大切に保管・展示されています 1。
大包平が製作された平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、合戦の主役は騎馬武者であり、馬上での弓射が主要な戦闘方法でした。太刀は、下馬しての戦闘や、矢が尽きた際の補助的な武器としての性格が強かったと推測されています 26。
しかし、時代が下り戦国時代(15世紀後半~16世紀末)になると、戦闘様式は大きく変化します。足軽などによる集団歩兵戦が主流となり、より実践的で取り回しに優れた打刀(うちがたな)が戦場の主役となっていきました 26。大包平のような長大で反りの深い太刀は、佩用(はいよう)形式の違い(刃を下に向けて腰に吊るす)も相まって、地上での機敏な動きが求められる戦国時代の合戦においては、主要な武器としての役割は限定的であった可能性が考えられます。
一方で、戦国時代において名刀は、単なる武器としての価値以上に、武将の権威や威光を象徴する重要な役割を担っていました。優れた刀剣を所持することは、その武将のステータスを示すものであり、家臣や他の大名に対する影響力を高める効果もありました 27。
また、刀剣には霊的な力が宿ると信じられ、武士たちの精神的な拠り所ともなっていました 27。そのため、名刀は忠誠の証や友好の印として、大名間で盛んに贈答されました。これは、単なる物質的な交換を超え、武将同士の縁(えにし)を結びつけ、時には外交的・政治的な駆け引きの道具としても用いられたことを意味します 27。
大包平を「一国に替え難し」と評した池田輝政(1564年~1613年)は、まさに戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史の大きな転換期に活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という天下人に仕え、数々の武功を挙げました。特に、関ヶ原の戦いでの功績により播磨姫路52万石の大封を得て、壮麗な姫路城を築城したことで知られています。輝政が大包平を入手したとされる時期は、長きにわたる戦国乱世が終焉を迎え、徳川幕府による新たな武家社会の秩序が形成されつつあった、まさに時代の過渡期にあたります。
大包平が、具体的に戦国時代のどの武将の手にあり、どのような経緯を経て池田輝政の所蔵となったのかを示す直接的な一次史料は、現在の調査資料からは残念ながら見出すことができません 7。この事実は、戦国時代というキーワードで大包平を捉えようとする際に、大きな壁となります。
しかし、この「記録の不在」こそが、戦国時代における大包平のあり方を逆説的に示しているとも考えられます。大包平は平安末期から鎌倉初期の作であり、戦国時代には既に数百年を経た古名刀でした 3。当時の戦闘様式が打刀中心へと移行していたことを考慮すると 26、大包平のような長大な太刀が、この時代の主要な戦場で日常的に振るわれたとは考えにくいのです。
池田輝政が大包平を入手したのは戦国時代の末期から江戸時代初期にかけてであり 13、彼の「一国に替え難し」という評価は、実用的な武器としての側面よりも、むしろ美術品、文化財としての至高の価値を認めたものと解釈するのが自然でしょう。戦国時代においても、名刀は権威の象徴や贈答品として極めて重視されました 27。もし大包平がこの時代に有力な武将の手にあったとすれば、そのような文脈で扱われた可能性が高いと考えられます。
具体的な戦国武将との逸話が今日に伝わっていないことは、むしろ大包平が戦乱の中で激しく使用されることなく、どこかで大切に秘蔵され、その美しい姿を損なうことなく後世に伝えられた可能性を示唆しています。池田輝政による「発見」と高い評価は、戦国という「実戦の時代」を経た名刀が、来たるべき泰平の世における「文化の象徴」として再定義される、その過渡期を象徴しているのかもしれません。つまり、戦国時代という実戦本位の時代に直接的な記録が少ないこと自体が、その後の「池田家の至宝」としての時代、そして現代における「国宝」としての地位を準備したとも言えるのではないでしょうか。この時代、その価値は実戦での切れ味よりも、古美術品としての希少性、比類なき美しさ、そして名工「包平」の作であるというブランド性にこそあったと推察されます。
日本において刀剣が国宝に指定されるためには、いくつかの重要な要件を満たす必要があります。一般的に、「健全性」(製作当時の姿をどれだけ良好に保っているか)、「刀工の個性」(その刀工ならではの特色が顕著に表れているか)、そして「伝来の由緒正しさ」(どのような経緯で伝えられてきたか)が総合的に評価されます 5。大包平は、これら全ての要件を極めて高い水準で満たしていると判断された結果、国宝の栄誉に浴しています。
まず「健全性」については、研ぎ減りが少なく、茎も製作当初の生ぶ茎を保っており、「健全無比」とまで評されるほどです 5。次に「刀工の個性」ですが、大包平は古備前派の作風を踏襲しつつも、その中でも「偉大なる例外」と称されるほど、きめ細やかで明るく冴えた地鉄、変化に富む華やかな刃文など、包平の傑出した技量と独創性が遺憾なく発揮されています 5。また、通常の包平作が二字銘であるのに対し、大包平が「備前国包平作」という長銘である点も、その際立った個性を示すものと言えるでしょう 9。そして「伝来」に関しては、姫路藩主・岡山藩主であった池田家という由緒正しい大名家によって数世紀にわたり秘蔵され、江戸時代の名刀リストである『享保名物帳』にもその名が記載されているなど、申し分のない来歴を誇ります 5。
文化庁の国指定文化財等データベースにおける大包平の解説には、その価値を端的に示す記述が見られます。「古備前包平の健全無比の大作。久能山東照宮に真恒と共に、大振りで身幅の広い豪壮成す形をしたもので、平安時代後期における一形体を代表するものである。『享保名物帳』などに所載され、池田三左衛門輝政の愛刀として岡山池田家に伝来した。地鉄と刃文の美しさが優れ、我が国第一の名刀ともいわれる」 12 。また、「包平は古備前鍛冶の代表工の一人である。通常、包平の作品は尋常な太刀姿に『包平』と二字銘をきるが、この作は常のものとは異なり堂々たる大太刀で地鉄(じがね)・刃文(はもん)の出来が抜群にすぐれ、『備前国包平作』と長銘である。現存作刀中一等の刀剣と賞されている」とも記されており 9 、その卓越した出来栄えと歴史的価値が公に認められていることがわかります。
大包平の美術的価値は、多岐にわたる要素の調和によって成り立っています。まず、その姿は長大で豪壮でありながら、反りの曲線には一切の無駄がなく、日本刀特有の緊張感と鋭利な美しさを保っています 5。元幅と先幅のバランス、重ねの薄さ、巧みに掻き流された樋など、全体の均整が絶妙であり、これほどの大太刀でありながら驚くほど手持ちが良いと評されています 13。
地鉄と刃文の芸術性は、まさに圧巻の一言です。小板目肌がよく詰んだ地鉄は清浄で美しく、そこに現れる地沸や地景、映りといった働きは複雑な景色を見せます。小乱れを基調としながら小丁子や互の目(ぐのめ)が交じる刃文は、匂口が深く冴えわたり、小沸が叢なくつき、足、葉、金筋といった多彩な働きが随所に見られ、包平の持つ技術力の高さを雄弁に物語っています 13。
さらに、製作技術の高さも特筆すべき点です。刃長89.2cmという長寸でありながら、その重量は約1,350グラムと、同程度の長さを持つ他の太刀と比較して非常に軽量に作られています 5。これは、刀身の重ねが巧みに薄く仕上げられているためであり、刀工包平の卓越した技量と計算された設計の賜物と言えるでしょう 29。
大包平は、しばしば天下五剣の一振りである「童子切安綱」と並び称され、「日本刀の東西の両横綱」とまで言われます 1 。これは、両者が共に日本刀の歴史における最高傑作として、その出来栄え、品格、そして存在感において双璧をなすと広く認識されているためです。大包平は「日本随一の名刀」との呼び声も高く 13 、童子切安綱が平安時代中期の刀工・安綱の作で、源頼光による酒呑童子退治の伝説で名高いのに対し、大包平は平安時代末期から鎌倉時代初期の刀工・包平の作で、池田輝政による高い評価と池田家伝来という確かな由緒によってその地位を確立しました。逸話の多寡では童子切に譲るものの、大包平の持つ圧倒的な美術的完成度と保存状態の良さは、童子切に比肩する存在として揺るぎない評価を得るに至ったのです。
大包平と童子切安綱は、共に日本刀の最高峰とされながらも、その作風や伝来にはそれぞれ特徴があります。
童子切安綱がその武勇伝や伝説によって価値を高め、早くから天下五剣の一つとして認識されてきたのに対し、大包平はそうした「物語性」においては比較的乏しいとされています 15。天下五剣にも選ばれていません 13。しかし、大包平は刀身そのものの圧倒的な完成度、すなわち「抜群に優れた地鉄・刃文の出来栄え」9、「健全無比な大作」12と評される健全性、そして全体の「バランスの良さ」13、さらには池田家という確かな伝来 5 によって、童子切安綱と並び称される最高峰の評価を確立しました。
このことは、名刀の評価軸が一つではないことを明確に示しています。古い逸話や伝説の有無が名刀の価値を左右する一因であることは確かですが、それだけが全てではありません。作品自体の美術的完成度、保存状態の良好さ、伝来の確かさといった客観的な要素によっても、刀剣は最高位の評価に達し得るのです。大包平の存在は、まさに後者の評価軸の重要性を際立たせる好例と言えるでしょう。童子切安綱が「物語」によってその名を高めたとすれば、大包平は、その「存在」そのものの力によって、日本刀の頂点に立ったと言えます。
項目 |
大包平 |
童子切安綱 |
出典例 |
作者 |
包平(古備前派) |
安綱(伯耆国) |
1 |
時代 |
平安時代末期~鎌倉時代初期(12世紀) |
平安時代中期 |
|
刃長 |
89.2 cm |
約80 cm |
12 |
反り |
3.4 cm(腰反り高い) |
約2.7 cm(腰反り) |
12 |
姿 |
鎬造、庵棟、猪首鋒、豪壮な姿 |
鎬造、庵棟、小鋒、優美で気品ある姿 |
12 |
地鉄 |
小板目肌よく約み、地沸つき、地景交じり、乱れ映り立つ |
小板目肌に大肌交じり、地沸よくつき、地斑映り立つ |
5 |
刃文 |
小乱れに小丁子交じり、足・葉入り、匂深く小沸つき、金筋入る |
小乱れに小丁子・互の目交じり、足・葉頻りに入り、匂深く沸よくつき、金筋・砂流しかかる |
5 |
主な伝来・逸話 |
池田輝政が「一国に替え難し」と評価、池田家伝来、GHQ接収危機 |
源頼光が酒呑童子を斬った伝説、天下五剣 |
13 |
評価/号 |
日本刀の東西横綱、国宝 |
天下五剣、日本刀の東西横綱、国宝 |
1 |
この比較表は、「東西の両横綱」と称される二振りの特徴を対比することで、それぞれの個性と、なぜ両者が日本刀の最高峰として並び称されるのかについての理解を深めるものです。
大包平が名刀としての評価を確立したのは、決して近代に入ってからではありません。江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の命により編纂された『享保名物帳』には、既に「大包平」の名で記載されており、この時点でその価値は広く認められていたことがわかります 5。
近代に入ると、刀剣研究もより科学的なアプローチが取り入れられるようになります。例えば、東京国立博物館の刀剣室長を務めた佐藤貫一(号は寒山)氏は、大包平の重量を1,350グラムと計測しており 5、こうした具体的なデータもその評価の一助となっています。
現代においては、「日本刀の最高傑作」「日本一の名刀」といった評価は揺るぎないものとなっています 1。東京国立博物館の展示解説パネルにおいても、「包平の最高傑作で日本刀の横綱と称される名刀です」と明記されており 4、専門家のみならず一般の鑑賞者に対しても、その至高の価値が伝えられています。
太刀「大包平」は、平安時代末期から鎌倉時代初期という、日本刀製作技術が一つの頂点を迎えた時代に生み出された、卓越した刀工技術の結晶です。その比類なき出来栄えは、作者である包平自身が「備前国包平作」という異例の長銘を刻んだことからも窺い知ることができます。
その後、数世紀にわたる謎の期間を経て、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて池田輝政の手に渡り、「一国に替え難し」とまで称賛されました。池田家による数世紀にわたる丁重な秘蔵は、大包平が奇跡的とも言える健全な状態で現代に伝わる大きな要因となりました。
近代においては、GHQによる接収の危機を乗り越え、日本の文化財保護の象徴的な存在の一つともなりました。そして国宝に指定され、現在は東京国立博物館に収蔵されることで、日本刀の美と精神性を体現する至宝として、多くの人々に感銘を与え続けています。
現代において、大包平は東京国立博物館での定期的な展示を通じて、その美術的価値と歴史的背景を広く一般に伝えるという、文化財としての重要な教育的役割を担っています 24。近年、日本国内外で日本刀文化への関心が高まっていますが、その中で大包平は、まさしく日本刀の美の規範を示す存在として、特別な位置を占めています。
今後は、デジタル技術を用いた高精細な記録保存や、オンラインでの情報公開などを通じて、より多くの人々が大包平の魅力に触れる機会が増えることが期待されます。そして何よりも、この比類なき名刀を、その歴史的・文化的価値を損なうことなく、確実に未来の世代へと継承していくことが、我々に課せられた重要な責務と言えるでしょう。大包平は、過去から未来へと続く日本の美意識と精神文化の架け橋として、これからも輝き続けるに違いありません。